連載「時の音」Vol.14 作家・朝井リョウが見据えたい“2歩先の視点”

その時々だからこそ生まれ、同時に時代を超えて愛される価値観がある。本連載「時の音」では、そんな価値観を発信する人達に今までの活動を振り返りつつ、未来を見据えて話をしてもらう。

朝井リョウ 画像提供:新潮社

今回は、今年3月に作家生活10周年記念作品〔黒版〕『正欲』を出版した作家の朝井リョウが登場。『正欲』は、性欲をテーマに、計4人の登場人物が代わる代わる語り手となり、自身と世界の関係性を重層的に描いている。朝井自身も「小説家としても1人の人間としても、明らかに大きなターニングポイントとなる作品です」とコメントするなど、これからのさらなる飛躍を期待させる一冊だ。

2009年のデビュー作『桐島、部活やめるってよ』では不在の主人公の存在感から「スクールカースト」を炙り出し、2013年の直木賞受賞作『何者』では就活を舞台に「SNSによるコミュニケーションの変化」を描き出し、そして『正欲』では平成から令和へ移り変わる時期を舞台に「生き延びるために、手を組みませんか」と語りかける。作品を通じて、時代の空気と人々の心根を映し出してきた彼が、そうした社会への違和感をどのように捉えているのか。作家としてのキャリアを振り返りつつ、視点の持ちようや物語の描き方について語ってもらった。

「摩擦があることで熱が発生して、自分は生きていると思える」

──まずは『正欲』についてお聞きします。今作は物語よりも先にタイトルが決まっていたと別のインタビューで拝見しました。『正欲』というタイトルにされた理由、本作のテーマを教えてください。

朝井リョウ(以下、朝井):『正欲』を書くにあたっては、『死にがいを求めて生きているの』という小説を書いたことが影響しているので、少し長くなりますがそこから話しますね。『死にがい〜』は、2019年に8組9人の作家が「対立」を共通テーマに、それぞれの決められた時代設定を基に長編小説を書く「螺旋」プロジェクトに参加して書いた作品なのですが、そのプロジェクトで私は平成を担当しました。構想を練っていた当初、平成を象徴する「対立」があまりピンとこなくて、むしろ「みんな違ってみんないい」「個性の時代」みたいに、意図的に対立をなくして平らかに成ったのが平成なのでは、と思ったんです。だけど個性って他者との差異の中でようやく把握できるものだし、自由に生きてと言われても、そこで何かしらの役割みたいなものを欲するのが人間だよな、と感じました。もちろん「対立」をなくすことで生きやすくなる面も多いですが、対立ゆえ生じる摩擦がなくなることで、自分の輪郭や生きている実感のようなものを感じにくくなることもあるのかな、と。

──摩擦がなくなることは、生きている実感が失われていくことになると?

朝井:私の場合、例えばインタビューで、「どのようなモチベーションで小説を書いているのですか?」と聞かれると、「小説を書くことで、この世界や社会と自分との間にどのような摩擦を発生させたいのですか」と変換されて聞こえるんですね。他者や社会になんの摩擦も発生しないとわかっていても書くのですか、と。摩擦は影響や反響と言い換えてもいいでしょう。摩擦があることで熱が発生して、その熱が「自分は生きている」「自分には役割がある」「自分には生きている意味がある」という実感を与えてくれるという思考が、自分の中に根深くあるんです。その摩擦が他者や社会との友好的な関わりであるならば問題ないのですが、そうではなくなったとき、それが他者や社会にネガティブな影響を与えるものであっても私は無理やり摩擦を起こそうとするのでは、とよく考えます。

安易に繋げられる話ではありませんが、漫画『黒子のバスケ』の作者への脅迫事件のことを今でもよく思い出します。加害者の供述は、最初は、マンガ家志望者として成功している作者が妬ましかった、というものだったんです。だけど最終的には、「成功者を妬む漫画家志望」というのは自分の中の設定で、誰かを攻撃することで社会や他者とのつながりを感じたかった、というような論調に変わっていきました。対立、摩擦、社会や他者とのつながり、自分が生きているという実感。それらは、距離はあれどひとつの連なりであると、よく思うんです。

──摩擦が何もない状態、というのは平和ではなく、生死の瀬戸際に立たされること。だから、私達はつねに摩擦を欲しているのかもしれないです。

朝井:『死にがい〜』は最終的に、あらゆる摩擦が何もない状態になった時、他者や社会を加害せず「生きる」を感じるには、という出口に辿り着きました。そのとき、このテーマをまた別の角度から深掘りすることになるだろうと思いました。『正欲』では最初から、「生と死のうち、生きるを選ぶきっかけになり得るものは何なのか」ということを主題に置いています。何が生へのエンジンになり得るのか、ということです。

何かを成し遂げた人のインタビューを読むとかなりの確率で、「家族のため、子どものため」がんばる、または「家族のおかげで、子どものおかげで」がんばれる、というような文章に出会います。「子どもの存在によって次世代の社会について考えるようになり〜」というような文章にもよく出会います。そのたび、自分の肉体のみを生へのエンジンとし続けることの難しさを痛感します。同時に、最も手っ取り早く自分の肉体以外のエンジンを手に入れられるのが家族制度で、現状の家族制度に自分を組み込むためにはほとんどの場合「好きになる、欲情する相手が異性の人間である」という種類の性欲、性的指向が必要なんだよな、とも感じます。でも性欲、性的指向は自分で種類を選べません。選べないものが、自分の命のエンジンの起点となりうる。性欲と社会の関係性、性的指向によって変化せざるを得ない社会との関わり方と死生観の関係性。書きたいことがどんどん定まっていきました。

子どものころ、「世界のヘンな事件特集!」みたいなものを読んだとき、今回の小説で扱った種類の性欲を犯行理由として挙げていた人がいました。特集では、おもしろい供述もあるものだ、みたいなまとめられ方をしていたのですが、私はそれを読んだときからずっと、この人の供述はヘンとかおもしろいとかで片付けていいものなのかとずっと疑問でした。その欲望が宿った人生について頭のどこかでずっと考えていました。そういう積年のもろもろが、『正欲』には集結しています。

タイトルに関してですが、性は人それぞれに異なるし、もはや名前をつけても意味がないほどグラデーションがあります。それなのに、性欲となると、どこか後ろめたい、正しくない欲望であるという感覚が誰しもにある。社会との関係性の起点となりうるものなのに――そのような感覚から、「性欲」という秘密めいた音に、パブリックなイメージのある「正」という文字を組み合わせるアイデアが出てきました。書いていくうち、それだけでない意味も加わっていき、結果として非常に頼もしい看板となりました。

“わからなさ”を認めることで、新たな境地へ

──『正欲』の中では「多様性」という言葉が頻出します。冒頭の「多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています」という一文は非常に印象的です。

朝井:多様性という言葉自体ではなく、多様性という言葉の使われ方がずっと気になっていました。たとえば、ある小説の帯で「LGBTの時代に〜」という文章を、別の本の帯では「多様性の時代を象徴する〜」といった文章を見かけたのですが、「いや、別に今がLGBTの時代なんじゃなくて、ずっといたよ」「多様性の時代っていうか、どんな人もずっと生きていたんだよ」と思いました。私たちは全員、そもそも多様性の内側にいますよね。多様性、つまり種類が多いという状態がまずあって、私達はその種類の多さの中のほんの一部にすぎない。それなのに、多様性を見つけた側、把握する側であるかのような物言いに出会うと、おめでたさを感じるんです。自分は多様性を“理解している”、多様性を“受け入れている”なんて、どの立場から言えるんだろうと。そもそも多様性を“受け入れない”という選択肢ってあり得るんでしょうか。自分もその内側にいるのに。

少し前に話題になった、LGBT理解増進法にまつわる「種の保存に反する」発言からは、“自分は把握する側だ”という認識を感じます。発言者はきっと、同性愛者同士では子孫を残せないという意味でそう言ったのでしょう。でも、異性愛者同士が子孫を残すまでに関わる社会の全てが異性愛者のみの手で回っているわけがない。この世界の人間同士は複雑に関わり合っていて、ある特定のバックグラウンドを持つ集団を「種の保存に反する」と指摘すること自体、そもそもできないはずです。その、把握できなさ、想像できなさ、わからなさへの自覚の大切さを、最近特に感じます。

小説を書いたり読んだりしていると、私達は多くの、理解どころか想像すらできないことの中で生きていると実感します。けれども、理解できないという状態は不安だし、それを受け入れることの難しさもよくわかります。私自身、わからない状態の不安から逃げたくて、把握する側に立ちたいと思いがちです。小説もプロットを組み立ててから書くのですが、それも恐怖心から。最近は、そんな私自身の“わからなさ”への苦手意識を減らしたいという思いがあります。自分の中にある“わからなさ”への自覚は、『正欲』を書くきっかけのひとつだと思います。

──確かに、過去のインタビューなどを読んでも、すごく計画的に考える方だなと感じていました。

朝井:その性質の根には、社会の方に正解があるという思考があったからだと、今になって思います。私は子どもの頃から極端に人の目を気にして生きてきました。それは、自分の外側に固定的で揺るがない正解があって、そちらに自分を合わせるべきだと思っていたからなんです。とにかく自分をチューニングしていました。でも、あたり前ですけど、社会の方がどんどん変わっていくんですよね。

大人になっても、他者の目線ばかり気にして「まともな人間に見られなきゃ」「多数派であらねば」という気持ちに支配されていました。会社で働いていたときも、当時は副業があまりよく思われていなかったこともあり、「他に仕事をしていると思われたらダメ」と自縛していました。それから8年くらい経った今、逆に副業が推奨されています。社会ってこんなにも変動するんだと最近ようやく実感できて、自縛が減りました。

小説も、これまでは、「世界があって、話者がいる」という書き方ばかりしてきました。それゆえ話者が世界とのズレに悩む、という展開が多かったです。だけど今後はその逆、「話者がいて、世界がある」という構造のものも書いていく予感があります。

──朝井さんはもともと青春をテーマに書かれる方という印象が強かったのですが、先ほどの『死にがいを求めて生きているの』や『どうしても生きてる』、そして『正欲』など、「生きる」というテーマに変わってきていらっしゃいます。デビュー当時から、どのような考えの変化があったのでしょうか?

朝井:青春小説は今でも大好きですし、これからもたくさん書くと思いますよ。ただデビュー当時は、当たり前ですが今よりもずっと余裕がなくて「売れなきゃ、生き残らなきゃ」と思っていました。「次の本が売れなかったら消える」みたいに、すごく短期的に物事を見ていました。また、エンターテインメントの賞でデビューして、その後も大衆小説の賞をいただいたのだから、多くの人が共感できるエンタメ作品を書かなきゃ、とも思い込んでいました。自分でルールを勝手に作って、その中で苦しむタイプなんです。他にも、お金を払っていただくんだから最後は丸投げしちゃダメとか、お金を払っていただくんだから現実を忘れられる気持ちのいい作品にすべきなのかとか、そうやって勝手に悩んでいました。だけどここ数年で急に「別に何でもいいじゃん」と思えるようになったので、青春エンタメ含め、何でも書きたいものを書いていきたいですね。

──私達は、朝井さんの目で切り取られた摩擦や社会への違和感を、小説を通して共有させてもらっているのですが、どのように摩擦や違和感を見つけていらっしゃるのですか?

朝井:私は自分のことを、とても普遍的で色んな場所で言われ尽くしていることを今の言葉と今のアイテムで書き直しているだけだと思っています。だから、私だけが見つけられる特別な摩擦や違和感なんてものはなく、たまたま私がそれを言葉にする仕事をしているだけだと思います。

2歩先の世界を書けるのが、小説の力ではないか

──SNSやLINEによって言葉が簡単にやりとりできるようになり、朝井さんもTwitterを用いた『何者』という作品を書かれました。SNSが一般的になり、最近は人を非難する傾向が顕著になっているように思います。そういう事象を、言葉について考える機会の多い朝井さんはどのように見ていらっしゃいますか?

朝井:SNSでの誹謗中傷が話題になると、「言葉は時に人を傷つけるナイフになる。使い方を考えないといけない」というような論を目にする機会が増えます。

でも誹謗中傷って、相手を傷つけるつもりで選ばれた言葉の集まりですよね。言葉は時にナイフに〜みたいなことは誹謗中傷をする人も重々承知のうえで、人を傷つけるナイフとして効果的な言葉を選抜しているわけです。なので言葉の使い方について考えようというのは本質的でない気がしていて、いま私が向き合いたいのは、実は誰の心にもある「誰かを傷つけてみたい」という加虐性のほうなんです。

「人を傷つけてはいけない」とか、「言葉は時に人を傷つけるナイフになる」とか、みんなわかってるんです。だけど「誰かを傷つけてみたい」という気持ちは何かのタイミングで誰の心にも芽吹いてしまう。自分の加虐性と言葉が脳内で結びついてしまうのは仕方のないことです。私もしょっちゅうあります。それを実際に外に発信しないため、まず自分の中に加虐性があることを認め、それを飼いならす方法を自分なりに見つけていくというのが大事な気がしています。

──それでも自分の中にある加虐性を認めることへの怖さはあります。

朝井:私も怖いです。気分が悪くなります。だけど、「誹謗中傷はいけません。人を傷つけてはいけません。SNS時代の言葉の使い方を学ぼう」みたいな話って、現状の1歩先を示しているようでいて、実はその場しのぎなだけなんじゃないかな、とも思うんです。「誹謗中傷をする種は誰もが抱えていて、その種とどう生きていくか」という話のほうが、1歩先のその先を示せているんじゃいかな、とか考えます。

現状の1歩先を示すことって、実はそんなに難しくないはずなんです。むしろマーケティングでできてしまう。でも2歩先を表現するっていうのは本当に難しい。それは、現状を1歩先へ進めようとしている試みを否定したり、それとは違う何かを提唱することで、痛みを伴うことだから。でも、それができるのが小説のひとつの力なのかなとも思います。

たとえば、「性的指向や性自認を第三者に暴露するアウティングを禁止する」という条例がありますが、目指すべきはアウティングが禁止される社会というより、どんなバックグラウンドを明らかにされても何も剥奪されず生き方を変える必要のない社会では、と思うんです。ただ、そこにいくまでには段階が必要で、その1つ目が「アウティング禁止」なのかなとか、悶々と考えています。私が話しているのはあくまで理想論で、今この瞬間に苦しんでいる人を救えるものではないので。

視野が狭いまま書き切る、という新しいチャレンジ

──作家さんによってさまざまな書き方がありますが、朝井さんはどのように小説を書かれるのでしょうか? 人物設定を綿密にされるタイプでしょうか。

朝井:正直なところ、小説の書き方を自分自身でもよくわかっていません。インタビューでは、その都度目の前にいる人を満足させるために話してしまうことも多いので、おそらく私の答えには一貫性がないと思います。

ただ人物を書くときは、書きたい人の周辺から書いていくことが多い気がします。Aという人物を書くのであれば、その側にいるBという人物から考え始めて、どんな人が側にいるのか、どんな対応をするのか、と考えていく。すみません、明日全然違うことを言っているかもしれませんが。

──パソコンの前に座って物語を考えられるのですか?

朝井:パソコンに文字を打ち込んでいる時は、ある程度物語はできていて、それを再現性高く表してくれる言葉を当てはめていっている、という感覚です。なので、物語を考えているのは日々の暮らしの最中だと思います。頭の中に積もった思考がどんどん発酵しはじめて臭い出すというか。その臭いを物語化しているみたいな感じです。

──朝井さんの小説は実体験から書かれているのかと思う描写も多いです。

朝井:これはよく訊かれますが、まずは「実体験かどうか」みたいなことを気にさせてしまっている自分の筆力不足に落ち込みますね。私は100%のフィクションも100%のノンフィクションも存在しないと思っています。小説の中で「おはようございます」という台詞が出てきたとして、それは私の想像力が生んだ言葉ではないし、エッセイで書いている実体験には確実に虚構の記憶が混ざっています。うまく伝わるかわかりませんが、例えば私がアメリカのサーカス団の女団長の一生を書いたら皆さんは「想像力で書いてる」と思うでしょうし、私が私と同年齢の日本の男性作家の話を書いたら皆さんは「実体験を書いてる」と思うでしょう。でも、どちらも私からすると等距離の他人なんです。

──『正欲』もそうですが、朝井さんの小説には複数の登場人物が出てきて、それぞれの視点で語られる設定が多くあります。それは物事を一面的に捉えない、という思いがあるからでしょうか?

朝井:『正欲』の場合は、1人称でひとりの語り手だとキャッチできる情報の範囲が狭すぎたんです。その範囲を最大限に拡張できるのが、3人称で複数の語り手、なんですよね。

視点に関してお話をすると、私はこれまで作家たるもの視野を広げて、どんな立場の人も共感できる物語を、みたいに気負っていたところがありました。ですが最近は、視野を広げるより、1人1人が持つ非常に狭い視野を狭いまま書ききるということにチャレンジしたい気持ちがあります。この時代にこういう視点の物語が書かれた、という事実を刻むというか。今の社会から見ると最低最悪な視点だとしても、そういう視点があった、ということを残してみたい、というか。その試みと、目の前の読者が楽しめるということを両立できれば、一番良いんですけどね。

朝井リョウ
1989年、岐阜県生まれ。小説家。2009年、『桐島、部活やめるってよ』で第22回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2013年『何者』で第148回直木賞を、2014年『世界地図の下書き』で第29回坪田譲治文学賞を受賞。2019年『どうしても生きてる』がApple「Best of Books 2019」ベストフィクションに選出される。作家生活10周年記念作品として〔白版〕『スター』と〔黒版〕『正欲』を刊行。
Twitter:@asai__ryo

■『正欲』
著者:朝井リョウ
価格:¥1,870
発行:新潮社
https://www.shinchosha.co.jp/seiyoku/

Photography Yohei Kichiraku

author:

羽佐田瑶子

1987年生まれ。ライター、編集。映画会社、海外のカルチャーメディアを経てフリーランスに。主に映画や本、女性にまつわるインタビューやコラムを「QuickJapan」「 she is」「 BRUTUS」「 CINRA」「 キネマ旬報」などで執筆。『21世紀の女の子』など映画パンフレットの執筆にも携わる。連載「映画の中の女同士」(PINTSCOPE)など。 https://yokohasada.com Twitter:@yoko_hasada

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