ノンフィクションライターの石戸諭が見たコロナ禍の東京 「不要不急」は本当に「不要」だったのか

2020年、「ニューズウィーク 日本版」の特集「百田尚樹現象」で第26回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」作品賞を受賞、2021年には「『自粛警察』の正体」(「文藝春秋」)で、第1回PEPジャーナリズム大賞を受賞するなど、ノンフィクションライターとして活躍する石戸諭(いしど・さとる)。

その石戸が2020年から2021年にかけてコロナ禍の東京を書いた単行本『東京ルポルタージュ 疫病とオリンピック街で』(毎日新聞出版)が昨年11月に刊行された。本書ではコロナとオリンピックという2つの非日常下での東京を舞台に、フォトグラファーから飲食店の店主、ライブハウスの代表、自粛警察YouTuber、歌舞伎町のホストなど、さまざまな人々の31の物語が綴られている。

石戸はコロナ禍の東京を取材して、何を感じたのか。本書のことを中心に、コロナ前とコロナ後の社会の変化などを語ってもらった。

——コロナ禍の東京を描いた『東京ルポルタージュ 疫病とオリンピックの街で』(以下、『東京ルポルタージュ』)を出版されました。本書は「サンデー毎日」の連載「シン・東京2020/2021」がベースになっていますが、もともと連載を始めるきっかけはなんだったんですか?

石戸諭(以下、石戸):企画自体が立ち上がったのは、確か2020年の年明けでした。「サンデー毎日」の編集長から「2020年の東京」をテーマにした連載の依頼があったんです。1964年の東京オリンピックの時には、作家の開高健さんが「週刊朝日」で連載していた「ずばり東京」(のちに書籍化)があった。「あの本のように、ルポで2020年の東京の街を切り取ってほしい」というオファーでした。それで2週間に1回、4000字前後くらいの連載が始まりました。

連載は2020年3月から動き出したんですけど、いきなり新型コロナ禍、緊急事態宣言となってしまい、最初から「どこにも行けない」みたいな状況に直面し、企画自体をどうしようかと悩みましたね。その後、すぐオリンピックも1年延期になって。連載も当初は1年で終了にする予定だったのが、延びることになって、しかも当初の想定とはかなり違う形になりました。

でも、今振り返ると新型コロナとオリンピック、危機と祭典という2つの「非日常」が同時進行する東京って歴史的に見てもこれまでになかったし、それを連載として継続的に書けたのはかなり貴重な経験でしたね。

——『東京ルポルタージュ』にはさまざまな人が登場しますが、人選はどう決めたんですか?

石戸:人選に関しては、基本的には僕が会いたい人なんですけど、歩いている時に気になった人や別の取材で出会った人などいろいろですね。だから全然知らない人もいるし、前から知っていた人や紹介してもらった人もいます。あまり先まできっちりと決めすぎに、わりと成り行きで決めるっていうのを大事にしていましたね。

——それもあって幅広い職業の人が出てくるのがいいですよね。当初から職業のバリエーションは想定していたのかなと思っていました。

石戸:この人を取材したいという人は何人かいたんですが、設計図を描いてやっているわけではなくて。連載をやっていく内に少し変化がほしいとか、例えば東京オリンピックもメディアに出てこない最前線の医療現場、それも実務者の視点から見たらどうなるのかといったバランスも考えるようになって、結果的にさまざまな職業の人を取材することになりました。それは僕としてもラッキーでした。

オリンピックを中心にしたルポならば、組織委員会、小池都政と日本政府の迷走といったように中心を政治に置いて書くという方法もあったと思うんですが、僕のフィールドではないし、生活者としてのリアルさを感じないと思っていたんです。やっぱり生活空間としての東京のリアリティを大切にしないと企画が成り立たないなと思って、31の小さな物語をまとめていくという方法になりました。モザイクのように31のピースを合わせていくと、2020〜2021年のコロナ禍の東京がふわっと浮かぶ。人々の息遣いが感じられ、生活の手触りがある。それは誰にとっても、リアルなものとして感じられると思います。

嘆くだけじゃなく一歩を踏み出そうとしている人を肯定したい

——人によって文体を1人称だったり、3人称だったり、会話文だったりと、書き方を変えているのが印象的でした。これは意図的にですよね?

石戸:もちろん、そうですね。登場人物にぴたりとハマる書き方を模索しました。一本調子だと僕自身も読んでいておもしろくないので、方法はいろいろと試しています。そこは過去の作家の作品を参考にしました。具体的にはボブ・グリーンというアメリカのジャーナリス兼コラムニストの『アメリカン・ビート』や、新聞記者出身の作家、ピート・ハミルの『ニューヨーク・スケッチブック』、かつてニュー・ジャーナリズムを牽引したゲイ・タリーズの『有名と無名』といった作品です。

彼らが書くアメリカの新聞や雑誌のコラムは、日本でイメージされるようなコラムとは全然違います。大きな視点で声高に政治を批判したり、皮肉を効かせて社会を斬ったり、お説教したりといったものではないのです。もっと目線を落とし、丁寧に取材し、その土地、土地を生きる人達のほんの一瞬の小さなきらめきをすくい上げる文章が上質なコラムです。

僕もいつか、1回はそういう仕事をしてみたいと思っていて。連載の最初からそう思い描いていたわけじゃないけど、続けていくうちに、自分の原稿を読み返しながら「あれ?これどこかで読んだことがあるトーンになっている」と思って考えていたんです。それで、「そうだ!ボブ・グリーンの影響だ」と。知らず知らずの間に、過去に読んだことがあるから影響は受けていたんだろうなと気が付きました。

そこで改めて、アメリカのコラム作品を読んでみたら、彼らもいろんな書き方を試していたんです。もっと自由に書いていいと勝手に励まされたような気持ちになって、一冊の中で読み飽きないよう、バリエーションを増やしてみました。

——単行本化にあたっては連載からは大きく変更点があるそうですが。

石戸:構成は大きく変更しました。掲載も連載順ではなかったり、連載の3話分を1つのテーマでつなげた話としてまとめたりしています。あと、1つひとつの話にタイトルをつけていなかったんですが、単行本では「立ち向かう精神」だったり、「電話の向こうで」「名指しされた人々」などタイトルをつけています。

——順番はどのような意図で掲載順を変えたんですか?

石戸:単行本の冒頭では、フォトグラファーの小田(駿一)君の話を入れているんですが、これは連載では1回目ではなかったんです。それを冒頭にしたのは、彼の話を書き終えた時に、なにか連載の色合い、立ち位置がカチッと決まった気がしたからです。この連載を象徴する1本にふさわしいなと思ったんです。

小田君は2020年春にコロナが拡大していく中で、危機だといって右往左往するのではなく、自分のできること、やることをもう一度考える時間にしようと思って、写真集作りに取り組んでいた。その姿勢を僕は素晴らしいと思ったんです。どうなるか先行きがわからない中でも次を考えながら、というのがとても人間らしくていいと。嘆くだけじゃなく1歩を踏み出そうとしている姿を、僕は肯定したいと思った。

この連載では、そうした人々のきらりと輝く瞬間をちゃんと書き、それを軸に据えていくと決めたんです。危機の時代に人間は、ただ嘆くだけでなく自分自身、あるいは仕事の存在意義を問い直して、前に向かう。社会はそんな人々の積み重ねでできあがっているから、その人達をちゃんと肯定していくぞと、そういう方向性が定まった回でした。

——なるほど。

石戸:そこから2本目は表参道の交差点にある「山陽堂書店」の話を入れています。歴史上、初めてともいえる激動に直面する表参道。往来の人が消えたなかで商売を続ける老舗書店の姿を描きました。

コロナ禍最初期の第一波の話を中心に構成し、前半の山場というか、1つのポイントになっているのが「若者のすべて」という話です。これはフジファブリックの名曲のオマージュで、タイトルにさせてもらいました。

——確かに「若者のすべて」は印象的でした。

石戸:「若者のすべて」はもともと独立していた3本の話を1本にまとめています。宮崎県から靴職人を目指して上京し、新橋のある店で靴磨きをやっている青年、上京してきたけど夢やぶれて、『鬼滅の刃』に支えられながら性風俗で働いている女性、コロナ過で期待した大学生活がまったく送れなくなってしまった東大生――。彼らの言葉をまとめて、基本的に1人称の語りを軸にした1本にしました。

そこで見えてくるのは、同じ世代なのに一見すると交わらない人々が同時に存在しているという東京のおもしろさです。立場は違うけど、同世代の無名の人々が同時代をみんな懸命に生きている。その姿が立ち上がると思ったわけです。

あとは歌舞伎町のホストクラブと新宿区の行政を取材した「名指しされた人々」や自粛警察に勤しむYouTuberの令和タケちゃんを取材した「自粛警察」は、とても僕らしいルポだと思うので、この本の柱として入れています。その間に個々人の話を配置していき、最後は僕自身が登場して、僕にとっての東京を象徴する話を入れて、しっとりと終わるような流れにしました。

論評ではなく、まずは当事者の声を聞く

——この本の中には31のエピソードが書かれていましたが、一番印象に残っている話は?

石戸:どれも印象に残っています。この本のポイントは、有名人であっても、街の人であってもフラットに取材し、フラットに描くところにあります。誰かを特別扱いしないんです。1人の人生にとって印象深い話ばかりが出てくる本なので、どの話にも人生模様が出ている。それがこの本の良さだと思います。

その中で、苦労したという意味では、「自粛警察」が一番苦労しました。取材がオッケーだと言われても、当日まで「本当に本人が来るのか?」と不安でした。来てくれればうれしいけど、もしかしたらドタキャンもあるかもねと編集者と話していました。それで待っていたら、その辺にいてもまったく不思議ではない、礼儀正しく、ノリの良い若者が現れた。僕達は「いきなりYouTubeで生中継とかしてきたらどうしよう?」なんてことも考えていたんですが、そんなことは一切なかった。警戒していた以上に素直な若者がいただけでした。

彼がやっていたこと自体はまったく肯定できないけど、話すといいやつだなと率直に思ったんです。「自粛警察」のYouTubeは、コロナ禍の象徴的な出来事なのですが「どういう人間なんだろう?」と直接会って掘り下げ、社会的にどう位置付けたらいいかを示すところまでやったメディアは少なかった。多くが評論止まりのなか、きちんと取材できて良かったなと思いますね。

——自粛警察」YouTuberなどは積極的に取材しようとは思わないかもしれないですね。

石戸:歌舞伎町に代表される夜の街もそうですが、結局みんななんだかよくわからないから触れないようにするか、自分はこう思うとオピニオンを語ったり、論評したりはする。それは別にやってもらってもいいけど、僕がそれをやってもしかたないんです。

聞けるのならば、まずは当人の声を拾っていく。そうやって取材をすると、歌舞伎町のホストクラブの存在意義、自粛警察が生み出されたことにもちゃんと理由があることがわかります。僕はそれをきちんと書きたいんです。

あいつらが悪い、彼らは社会の敵であるといった風潮に乗ったり、煽ったりするのが仕事ではないからですね。

——石戸さんはこれまでも、他が取材しなさそうな人を取材していますよね。それは「よくわからない人を知りたい」ことが動機だったりするんですか?

石戸:それはあると思います。「文藝春秋」で西野亮廣さんの取材をした時や、『ルポ 百田尚樹現象』でも思ったのは、熱烈なアンチがいて、一方で熱烈な支持者がいる人、そういう人をどっちでもない立場から取材するっていうのは、おもしろいということです。好きになる人達の気持ちも知りたいと思うし、強烈に嫌う人達の気持ちも知りたい。

それは支持する人も反対する人も、「絶対に僕と出会わない」といったタイプではないからです。クラスや会社で、あるいは地域に「普通にそういう人もいる」くらいのイメージといえばわかってもらえると思います。隣りにいるかもしれない、仕事で出会うかもしれない。だからまずは話を聞いてみたいなと思うのかなと。

社会は複雑なので、単純化して物事を見てもしょうがない

——ノンフィクションライターとして活躍されている石戸さんが大切にしているもの、意識していることは?

石戸:フラットに物事を見ること。自分に全くバイアスがないというつもりはないけど、最初に会った時は先入観なくフラットに見るようには意識しています。人間にはいろんな側面がありますからね。そして、現実に存在している事象にはすべて理由があるので、肯定するか否定するかの前に理由を知りたいんです。

——それは昔からですか?

石戸:取材経験を積み重ねると、当たり前ですが社会は複雑だということを知るわけです。同様に人間の心も複雑なので、あんまり単純化して物事を見てもしょうがないと思っています。メディアを通して現れるものはあくまで複雑な社会の1つの見方だよね、と。

新聞記者出身の僕が言うのもどうかなと思うのですが、メディアが報じる社会の構図というのは、すごく単純化したモデルのようなものです。僕達は、それが1つのモデルにすぎないことを知っているのに、これが正しいと報じてしまうこともある。

僕にとって大事なのは、モデル作りよりもわかるようでわからないものに迫ることなんです。そのために必要なのはフラットに見ておくことなんです。まぁ良いも悪いもあるよね、っていうくらいの感覚で。だってそんなに簡単に良いとか悪いとかはわからないし。

人によっては僕の立ち位置は中途半端で、批判が足りないと見えるようです。ジャーナリストたるものもっと批判意識を持たないとだめだ! という人もいる。「あなたはジャーナリストではない」と言われても僕には何の問題もないのです。自分は自分の仕事しかできないからです。

僕は自分のアプローチややり方を、他の人にも適用したほうがいいとか、本来は「かくあるべき」と思うことはまったくなくて。それぞれが自分なりに考えればいいと思っています。「ジャーナリストはこうあるべき」「ライターはこうあるべき」という強いこだわりはありません。まぁ意見を書くより、現実を取材して書くことが大切だといった大原則はありますけどね。

自分の中で「これが大切」とうルールはいくつかあって、それは『ニュースの未来』という本に書きました。僕はニュースの世界はもっと自由で、「べき論」よりも大切なことが多いという立場なんです。だから「僕のようなやり方もあっていいじゃないですか」くらいの気持ち以上のものはないですね。

——この本を書いてみて、コロナ前とコロナ後で日本が変わったと思う部分はありますか?

石戸:単純にいつもマスクするようになったとか、ぎゅうぎゅう詰めの居酒屋での飲み会が無くなったとか、生活様式は変わりましたよね。

あとコロナ禍では「不要不急」という言葉がたくさん聞かれるようになったことです。そこで考えたいのは、何を持って「不要不急」とするのかです。今までは好きなミュージシャンのライブに行くとか、自分の好きな服を買う、好きなお店に飲みに行くとか、職場や家庭以外の場所での楽しみがありましたけど、それらはコロナ禍で「不要不急」と言われるものになってしまった。

でも本当に「不要不急」なのか。多くの人には「違うよね」って思いもあったはずなのに、「正しい感染症対策」を前にして、言葉にできない感情があったと思うんです。

『東京ルポルタージュ』の登場人物には「不要不急」と名指しされた職業に誇りを持つ人が多い。

「不要なもの」っていったい何なのか。実はそんなものはないんじゃないか。
「不急」はあるかもしれないけど、「不要」ではないのではないか。
「不要不急」と言われたものの多くは、人間が生きていく上で必要な喜びとか、生きがいと密接にかかわっていたのかもしれない。

人間は最優先で必要なものだけで生きているわけじゃない。僕はそれに気がついた人は意外と多いと思っています。変わったというよりは、みんな気づいて考えるようになる機会は多かった。

「夜の街」は全然縁がない人にとっては「不要不急だろ」って攻撃できる対象だったけど、生きていくのに必要としている人も当然ながらいます。居酒屋やバーもそうですよね。生業とする人々が自分の存在意義はなにかって考え始めたと同時に、お客さんも考え始めたんじゃないか。そんなことを思うんです。

この本には無くなってしまったお店の話も入れています。それは、無くなってしまったものは二度と取り戻せないことを具体的な事例から示したいと思ったからです。コロナ過の東京には、何軒も商売をやめていく店があって、誰かにとって大切だったはずの場所があっさりとなくなった。新型コロナ禍は変異株も出てきて、もう少し続くかもしれないとなった時に、ただ「不要不急だ」とか「どこそこに行くのは不謹慎」「飲み会に行くのは気の緩み」と言うだけでダメですよね。

感染症対策は大事だけど、そのためだけに人間は生きているわけではない。そこに気が付いたことは、僕にとってはすごく意味があることでしたね。

——石戸さん自身はコロナ禍で良かったこと、悪かったことのどちらが多かったですか?

石戸:悪かったというか、皆さんもあると思いますが、「本当はこうじゃなかった」みたいな感じはありますよね。コロナで確実に経済的な打撃や、世の中の閉塞感が強くなっているのは感じますし。もしコロナがなかったら、できたこともあったし、もっと違った未来があったんじゃないか、そういうことは想像します。でも、大事なのは今からなので次の仕事と向き合っていこうかなと思っていますよ。

石戸諭(いしど・さとる)
1984年、東京都生まれ。ノンフィクションライター。立命館大学法学部卒業。2006年、毎日新聞社に入社、2016年、BuzzFeedJapanに移籍。2018年、独立してフリーランスのライターに。週刊 誌から文芸誌、インターネットまで多彩なメディアへの寄稿に加え、テレビ出演など幅広く活躍 中。著書に『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)、『ルポ 百田尚樹現象 愛国ポピュリズムの現在地』(小学館)、『ニュースの未来』(光文社新書)、『東京ルポルタージュ』(毎日新聞出版)。
Twitter:@satoruishido

Photography Mayumi Hosokura

author:

高山敦

大阪府出身。同志社大学文学部社会学科卒業。映像制作会社を経て、編集者となる。2013年にINFASパブリケーションズに入社。2020年8月から「TOKION」編集部に所属。

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