“ずっとパンクでニューウェイヴ” 高木完が明かす東京ポップカルチャーのリアル

藤原ヒロシとのユニット「タイニー・パンクス」や、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル「MAJOR FORCE」の設立、ソロアーティストとしての活動等、1980年代から現在に至るまで日本のカルチャーを牽引し続ける髙木完。3月にリキッドルームで開催した還暦記念イベントも記憶に新しい。あらゆる音楽がクロスオーヴァーする東京ポップカルチャー黎明期の目撃者でもあり、いまだ現在進行形で進化を続ける高木完の貴重な証言を届ける。

「ニューヨークで観察したことを何食わぬ顔で東京に持ち帰るのは違わないか? もっと素直に自分がやりたいことをやるべきなんじゃないか」

−−完さんの著書『東京 IN THE FLESH』には知らないことばかり書かれていてすごくおもしろかったです。

高木完(以下、高木):ありがとうございます。この本は最初僕がJ-WAVEでやってる番組『TOKYO M.A.A.D SPIN』に来てくれたゲストとのトークをまとめた対談集にしようと思ってたんですよ。でもせっかく本を出すなら自分の話もしてみようと思って。ラジオはいつも聞き役だし。なので前半に簡単なオーラルバイオグラフィーを載せました。

−−この本を読んで「アートとビジネス」について考えたんです。同時期にサザビーズのオークションでウォーホルのモンローが250億円で落札されたというニュースを見て。以前、藤原ヒロシさんが「昔バスキアは六本木のアパートの壁に落書きしてたんだよ。建物はもう取り壊されちゃったけど、あれが残ってたら今はすごい値がついてるかもね」と話されてたんです。アートは純粋で自由な表現行為だけど、今はそこに値付けされる。作り手としてはピュアでありたいけど、お金はあるに越したことはない。そこにジレンマを感じたんです。

高木:バスキアはガールフレンドのモデルを追っかけて日本に来たと聞いてます。当時はアパートの部屋に外国人モデルが入れ替わり住んでて。その部屋の壁はもちろん、冷蔵庫にもめちゃくちゃ落書きしたらしい。きっともうない。あったらすごい金額だろうね。当時は「落書きで汚しやがって」みたいな感じだったと思う(笑)。

−−著書の中で高橋盾(「アンダーカバー」デザイナー)さんは「アパレルって、モノを売るペースを展示会ベースで考えたらタームが決まっているので、そこに則っていかないと商売になんないんですよね」(P.127)と話されていて、でも同時に「自分に興味があったり、『こういうことを表現したい』、『こういうことに影響された』とか、自分が本当にやりたいことじゃないと無理」(同)とも話していました。

高木:そういう違和感は常にある。例えば、僕は1990年代の記憶があまりない。それはたぶん、音楽が「仕事」になっちゃっていたからだと思う。頼まれた仕事は良いんだけど、ラップは自分の中から出てくるもので大事なのは歌詞。レコード会社から「ラブソングを書いてください」ってオーダーされるて締め切りまでに一生懸命書く。結局反ラブソングにしたけど、愛してるって言葉はいっぱい入れた。今はこうしておもしろおかしく話せるけど、当時はそういったことがジレンマだった。ダンサーの子を2人踊らせてテレビで歌ったりもしたけど、ある時ふと「こういうことしたいんだっけ?」と自問自答になった。1992〜93年くらいにスチャダラパーとツアーを回った時も、ノルマになると自分の中には「どうなんだろう?」って。

−−完さんにもそんな時期があったんですね。音楽を純粋に好きだからこそ。

高木:そうだね。結局1994年くらいに「僕がヒップホップをやるのは違う」と思った。きっかけはスチャダラ達とニューヨークにロック・ステディ・クルーの大きなパーティを一緒に観に行ったこと。Bボーイがいっぱいいて、ステージでブレイクダンスしてた。僕もスチャもそれを熱心に観察してて、その時ふと思ったんだ。「僕はこれを日本に持ち帰って、東京バージョンをやるんだろうな」って。それまで僕は自分をヒップホップなやつだと思ってた。輪の中にいるって。だけど、ニューヨークで観察したことを何食わぬ顔で東京に持ち帰るのはどうなんだ? 違わないか? もっと素直に自分がやりたいことをやるべきなんじゃないか、と思ったんです。

−−今風に言うと「リアルじゃない」って気分ですかね。

高木:そうかもね(笑)。タイニーパンクスの後期はヒロシに「完ちゃんはヒップホップにハマりすぎ」って思われてたくらいヒップホップにハマってた。考え方の軸がヒップホップありきになっていた。けど突き詰めていくと、ヒップホップ音楽は基本がファンキーであることが前提で、自分はそのフォーマットに窮屈さも感じるようになってきた。ヒップホップの形式の中でやれる人はすごい。でも自分はヒップホップをニューウェイヴの延長線上、新しいロックの流れで捉えていた。あと、ほぼ同時期に東京のクラブでランプ・アイを観た。リノ・ラティーナ・ザ・セカンドがあまりにかっこよくて、僕はもっと自分らしい表現をしようって思った。 

−−その後、音楽的に全く異なるボアダムスにハマります。

高木:とにかくカッコよかった。特にボアダムスの音がトランスよりになる前。1993〜94年くらい。プラスチックスみたいだと思いました。初めて観た時は衝撃を受けすぎて、すぐ(立花)ハジメさんに電話しました(笑)。この頃ってロックにヒップホップが混ざり始めていた。パブリック・エナミーがアンスラックスと一緒に曲を作ったり。その自由な空気感にも影響された。あと同時期にスカム的なものが出てきて。ベックのザラザラしたローファイ感にも共感できた。そしたらビースティ・ボーイズもそっちに行った。その感覚を自分なりに形にしたのが、1997年に出した『アートマン』というアルバム。でも世の中的に僕はヒップホップの人だったみたいで、当時は結構驚かれました。

−−完さんがボアダムスやローファイに傾倒していた頃、世の中は「裏原ブーム」でした。

高木:本当のことを言うと、何が起こってるかわかってなかった。ヒロシの「グッドイナフ」は知ってたけど、NIGOの「ア ベイシング エイプ」は誰がやってるかよくわからない感じだった。だからシンちゃん(Sk8ightTing)に「なんで今『猿の惑星』なんだろうね?」って聞いちゃったし(笑)。彼も自分からあれこれ言うタイプじゃないから、「なんででしょうねー」ってとぼけた返事が来てあとあとになってシンちゃんがグラフィックをやってることを知った時は言ってよ! って感じだった。

−−意外です(笑)。

高木:実際そんな感じだったよ。僕もタキシンに誘われて、「アフターマス」というブランド名でTシャツをちょっとやったけど、ヤン(富田)さんに「二足のわらじはダサいよ」と言われた影響もあってそっちにはいかなかった。あと当時はレコード会社がすごい額のアルバム制作費を出してくれたんだよ。当たり前のようにロンドンで作ったしね。ニューヨークもバリも制作費で行った。そういう時代だったんです。よしもと興業に所属してた脱線3というラップグループをプロデュースした時も、僕が「LAにあるグランド・ロイヤル(ビースティ・ボーイズのレーベル)のG-SONスタジオで録ろう」と言ったら即OK出た。そんな感じで僕も音楽で普通に生活できたから、裏原の始まりはみんなが作った洋服を着る、ぐらいに見てた。大体当時はリミックスを1個やるだけで良いギャラをもらえたし。ヒロシのオファーも断ってた。今思えばやっときゃ良かった(笑)。音楽に関しては今と経済感覚が全く違ってたね。

「時代的に、ニューウェイヴの人達が喫茶店からディスコに行くようになってた。ヒロシも行ってたはずだよ。その頃、俺らはまだ出会ってないけど」

−−1993年には小泉今日子さんの「女性上位万歳」のプロデュースをされてます。

高木:キョンキョンのプロデュースはやりたかった。それでオノ・ヨーコのカバーを提案したんだ。

−−1993年の日本にフェミニズムという概念はほぼなくて、しかもそれを今でいう乃木坂46のような存在だった小泉今日子さんに歌わせる感覚は相当すごいと思います。

高木:ありがとう(笑)。僕としてはただおもしろいと思ったから提案しただけだよ。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが全学連みたいなヘルメットをかぶった写真があってさ。そういうビジュアルでMVも作ってもらいたかったけど、さすがにそこは通んなかった。僕はずっとニューウェイヴが好きだから、その延長線上にキョンキョンの「女性上位万歳」があるイメージだね。

−−完さんにとってニューウェイヴが非常に重要な体験だったことは著書でも再三語られてましたが、中でもプラスチックスは特別だったようですね。初めて観た時はどんな感覚だったんですか?

高木:僕が初めてプラスチックスを観たのは1978年。明治通りの「ワルツ」ってカレー屋さんでやったライブでした。トシちゃん(中西俊夫)とチカちゃん(佐藤チカ)は原宿の有名人だったんですよ。トシちゃんは髪を立ててパンクの格好で歩いてて。超目立ってた。でもライブはその時が初めて。全員白い服を着てリズムボックスを導入してた。むちゃくちゃカッコよかった。かなり最近になってハジメさんが教えてくれたんだけど、あのスタイルになるきっかけはディーヴォの影響だったらしい(笑)。ハジメさんはLAで1977年にディーヴォのライブを見て、それまで作ってたものをリズムボックスをベースにした曲にシフトしたんだって。そんなこと当時はわからなかった。

−−ヒロシさんや完さんに直接お話を聞くと、これまでメディアで伝えられてこなかった新事実が判明することが多いです(笑)。例えばヒロシさんはDJミックスの手法を海外で見て“輸入した”と言われてたけど、実は地元にいた頃、ノンストップミックスされたスタジオ54のコンピ盤『A Night At Studio 54』を聴いて、自力でDJミックスの手法を体得してたこととか。

高木:あいつの早熟度はハンパないよ。シュガーヒル・ギャングのレコードも、もともとはシック好きのお姉ちゃんを驚かせるために買ったって言ってたし。

−−そんなヒロシさんとの出会いは「ツバキハウス」ですよね?

高木:うん。これはよくいう話だけど、バウ・ワウ・ワウのアナベラ(・ルーウィン)とそっくりのやつがいて。ヒロシはエキゾチックな顔してるから超目立ってたんですよ。僕も「セディショナリーズ」を着てたから、ヒロシも僕をめっちゃ見てて(笑)。そもそも1980年代に入るとパンクの格好してるやつがいなかった。もう古かったっていうか。でも僕はセックス・ピストルズ時代のジョニー・ロットンが大好きだったのね。だからどんな音楽をやってても普段は必ず当時のジョニー・ロットンの要素を入れて見た目を考えてた。アロハシャツの下に「セディショナリーズ」のTシャツを着て「気分はジョニー・ロットンがジャマイカに行った時」とか。

−−でも1982年にはヒップホップを聴き始めるんですよね?

高木:ヒロシはそれくらいだったけど僕はもっと遅かった。マルコム・マクラーレンのアルバムも聴いてたけど、ジョニー・ロットン信者の僕的にはマルコムは敵だったから全肯定したくない気持ちもあって「ワールズエンド」は着なかった(笑)。

−−確かにジョニー・ロットンとマルコムは仲が悪かったですよね。

高木:そうそう。そんな僕のジョニー・ロットン熱が冷めたのはP.I.L.(パブリック・イメージ・リミテッド)の初来日公演。めちゃくちゃカッコ悪かった。今見るとカッコ悪くないんだけど、当時の僕の感覚では幻滅した。何にがっかりしたって「アナーキー・イン・ザ・UK」を歌ったこと。(ジョニー・ロットンがセックス・ピストルズを脱退した時)「もう歌わない」って言ってたのに。あとバンドもダサかったんだよね。キース・レヴィンもいなかったし。

−−あと著書で驚かされたのは、暴走族がフィリーソウルを聴いてたという話です。以前藤原ヒロシさんは「歌舞伎町のディスコは怖かった」と話されてたのはそういうことだったのかと思いました。

高木:当時はヤンキーという言葉はまだなくてツッパリと言われてた。そういう人達はスタイリスティックスとかを聴いてたよ。あと僕は、最初歌舞伎町のディスコにも行ってて。「ツバキハウス」は敷居が高いイメージでした。未成年だしさ(笑)。爆音で最初に音楽を聴いたのは新宿の「ローリングストーン」というロック喫茶。高1の時、友達が連れて行ってくれて。

−−当時の高校生としては普通の遊び方だったんですか?

高木:全然普通じゃない(笑)。僕が通ってた文化学院という高校にはダブってる人がたくさんいて。18歳の高1とか当たり前だったんですね。だから年上の人がロック喫茶とかディスコにも連れて行ってくれたんです。

−−パンクはロック喫茶で出会ったんですか?

高木:一番最初に知ったのは雑誌ですね。そのあと大貫憲章さんのラジオで聴きました。大好きで毎週土曜日は必ず聴いてました。

−−では「ツバキハウス」に行くきっかけはなんだったんですか?

高木:渋谷に「ナイロン100%」というニューウェイヴ喫茶があったんですよ。そこに8 1/2の久保田慎吾とかがいて。通ってるうちに友達になって、「ツバキハウス」にも一緒に行くようになりました。さっき敷居が高かったと言ったけど、特にうちの高校のマジョリティはサーファー系で、六本木のディスコが遊び場だったんです。属性が違うというか。でもナイロン100%で感性の合う仲間と出会えた。あそこは僕にとってものすごく大事な場所。あと時代的に、ニューウェイヴの人達もディスコに行くようになってたんです。六本木の「クライマックス」というディスコも出来たし。ヒロシも行ってたはずだよ。その頃はまだ出会ってないけど。

−−場所って想定外の出会いあるからおもしろいですよね。

「偶然、取材場所に本田ゆかが来店」

高木:さっきはありがとうね。ゆかさん。

−−え、元チボ・マットの本田ゆかさんですか?

高木:そう。さっき僕のラジオにゲストで出てもらったんですよ。

−−大ファンなんです。1999年に発表された「King Of Silence」という曲は永遠のクラシックなんで、今ちょっと動揺してます(笑)。

高木:想定外の出会いってこういうことだよね。こんなことあるからおもしろい。聞いた話だけど、その人が最近若い子と話してたら、今のクラブのイメージってナンパなんだって。その若い子はカルチャーが好きだから「クラブが新しいムーブメントを生む場所になればいいのに」と話してたらしい。「いや、もともとはそういう場所だから!」って。

−−今、世の中の価値観が変わってきてると思うんです。僕らまでの時代はお金を稼ぐってどっちかというとダサかった。でもそれはきっとまだ日本が豊かな時代だったから。今は貧富の差が激しくなってる。豊かな日本の記憶がない若い層は自然とヒップホップの価値観に共感できるんだと思います。

高木:あ、その話はヒロシから聞いた。パンクは中流階級の子ども達が社会から出て行こうとするムーブメントで、ヒップホップはもっと下の貧困層が社会に入っていくツールとしたムーブメントだって。

−−マジョリティの若い子達は、YouTubeの動画本編よりコメント欄が重要らしくて。自分と同じ意見を探すそうです。僕らの時代とは全く価値観が違う。ニューウェイヴも、オルタナティブも、人と違うことをしてナンボだった。もちろん今もそういう感覚を持った子もいるだろうけどかなりマイノリティだと思います。

高木:マジで? それはびっくりだな……。でもさ、マイノリティの子達は逆にYouTubeで発信してると思うんだ。最近若い子がUSのラップ事情を解説するチャンネルにハマっててさ。ニューヨークでドリルやってた子が一斉に逮捕されたとか(笑)。

−−あ、それはShama Stationさんじゃないですかね? 僕もいつも楽しみに見てます。

高木:むっちゃおもしろいよね。僕やヒロシが雑誌でやってたことと本質的には変わらないと思うんだよ。自分がおもしろいと思うことを発信する精神。媒体が雑誌やラジオからYouTubeになっただけ。僕がそういう動画を見始めたきっかけはNIGOのアルバム『I Know NIGO』で。いろんな人が参加してるじゃない? でも最近のラッパーを全然知らないからYouTubeでMV見たりしてたの。そしたらプシャ・Tとかめちゃかっこよくてさ。あとポップ・スモークとか。そこから解説動画にたどり着いた。

Shama Station

「甘くてもいいから。自分が作ったものを自分が好きって大事じゃん」

−−完さんはおもしろいことに柔軟ですね。一般的には歳をとってくると、若い子と関わりが少なくなって、感覚がわからなくなり、自分の青春時代の価値観にとらわれてしまいます。新しいものが出てきても「これはあれの真似じゃん」と頭ごなしに否定したり

高木:そういう感覚ももちろんあるよ。でもプシャ・Tなんかは別格ですごいじゃない。あと僕にはなんでも置き換える癖があって。ボアダムスを見てプラスチックスみたいだと思った時もそうなんだけど。マシンガン・ケリーのパンク曲はもろグリーン・デイみたいでダサいけどプレイボーイ・カルティはかっこいいな、とか。あと自分はルー・リードやデヴィッド・ボウイの退廃的な歌詞が好きなんだけど、その雰囲気を最近のUSラッパーに感じたり。「もしまだルー・リードが生きてたらこんな音楽をやるんじゃないか?」とか想像して。昔はそんな抽象的なリリックのヒップホップはアメリカにはなかったでしょう。

−−当時の完さんはヒップホップの何に魅力を感じたんですか?

高木:これはいろんなところで言ってるけど、ヒロシがアフリカ・バンバータの「Planet Rock」とP.I.L.を一緒にかけてるのを聴いた時だね。その自由さ。あとヒップホップの人達は、他のラッパーを普通に褒めるじゃない? パンクの価値観だとそれはありえなかったんですよ。ザ・クラッシュやダムドを褒めるジョニー・ロットンなんて想像できないでしょ(笑)。あとはブレイクビーツだね。レコードを2枚使ってドラムのかっこいいところを延々とかけ続けるというアイデアだね。

−−その話でいうと、完さんの著書で個人的に一番感動したのは∈Y∋さんがDJした時のエピソードです。

高木:ディープ・パープルの「High Way Star」のイントロをループさせてエフェクトで展開をつけていくっていうね。∈Y∋ちゃんは「単純に、イントロをずっと聴きたいじゃないですか(笑)」(P.428)と言ってたとこだよね。

−−はい。ブレイクビーツ的発想だし、ミニマルミュージックだし、なにより僕が1990年代に見てたボアダムスのかっこよさが集約された発言だと思いました。

高木:あれはたしかトランスのパーティだったんだよ。僕は全然トランスが好きじゃなかったけど、周りはみんな大好きでさ。ブラボー小松までゴアパンを履いてたんだよ(笑)。

−−マジですか! 今となってはゴアパンを知る人もいないと思いますが、当時インドのゴアを中心にしたゴアトランスがめちゃくちゃ流行ってて、サイケデリックな柄のレギンスみたいなのを男女問わず履いてましたね(笑)。

高木:ヒップホップにハマらなかった人達や、パンク好きだった人たちが1990年代に一斉にトランスに向かったよね。僕が∈Y∋ちゃんに連れてってもらったトランスのハコは関西だったんだけど、上半身裸でむきむきになってゴアパンツ。メタルディスコみたいな世界だった。当時∈Y∋ちゃんがやってたONEっていうバンドもめちゃくちゃかっこよくて大好きだった。彼のひらめきはいつもおもしろい。芸術家として活動してる今もかっこいい。最初に話した時、僕はまだハーシュノイズを全然好きじゃなくて、∈Y∋ちゃんに「(ハーシュノイズの)どこがいいと思ってる?」と聞いたら「終わった瞬間、シャーっと無音になるのがヤバい」って。その瞬間、この人はすごいと思ったよ。考え方が変わった。そういう人なんだよね、∈Y∋ちゃんは。ヒロシもそうなんだ。価値観を転換させてくれる。普通の価値観でやってるものは様式美で、それはそれでいいかもしれないけど、僕は違うものが好き。最初にバスキアの話が出たけど、今だったらChim↑Pomがかっこいいと思う。森美術館で展示もされたけど、ゴミをアートに変えたわけじゃない? それって当時の落書きに近い何か。

−−きっと今そういう活動をしてるマイノリティもいると思います。全く評価されてなくてお金もない。だけど素晴らしい、みたいな。そういう人が情報過多な現代でピュアでい続けるのは大変な気がして。そんな人にメッセージを伝えてほしいです。

高木:何か枠を知った上で壊すという発想もあると思うけど、僕は最初から壊れててもいいと思う。テクニックなくてもいいじゃん。Chim↑Pomだって、最初からいろんなことができたわけじゃないと思う。でも発想はすごい。何かできた、と自分で思った瞬間があったら、それを自分で評価すればいいんじゃないかな。甘くてもいいから。自分が作ったものを自分が好きって大事じゃん。

−−先ほどのYouTubeのコメント欄の話にもつながるんですが、現代の若い子にとってはなかなか自己肯定が難しいようなんですよ。

高木:あー、なるほどね。でもね、僕は自分を評価するのは十分アリだと思う。他人の評価、ましてや資本主義の値付けなんて気にする必要ない。僕がラジオに呼んでるゲストもそういう人達。過去を懐かしむだけじゃなくて、現代と未来に残しておきたい話をしてるつもり。僕は昔好きになったものがいまだに好きだけど、とらわれない。アップデートし続けて、リアルタイムのキラキラ感をいつでも感じてたい。こういう感覚はみんなにも知ってほしいんだ。

高木完
ミュージシャン、DJ、プロデューサー。1979年、パンクバンド「FLESH」のヴォーカリストとしてデビュー。1981年に結成した「東京ブラボー」を経て1986年、藤原ヒロシとヒップホップユニット「タイニー・パンクス」結成。1988年に中西俊夫、屋敷豪太、K.U.D.O、藤原ヒロシ等とともにダンスミュージック・レーベル「MAJOR FORCE」を設立。2018年に同レーベルの30 周年を迎え、再始動させた。現在は『TOKYO M.A.A.D SPIN』(J-WAVE)で火曜のナビゲーターを担当。今年3月に自伝と同番組での対談を中心にまとめた『東京 IN THE FLESH』を上梓した。また、中古レコードと古書を扱う「MEMES TOKYO」のオーナーも務める。

Edit Jun Ashizawa(TOKION)

author:

宮崎敬太

音楽ライター。1977年神奈川県生まれ。2015年12月よりフリーランスに。オルタナティブなダンスミュージック、映画、マンガ、アニメ、ドラマ、動物が好き。主な執筆媒体はFNMNL、ナタリー、朝日新聞デジタル(好書好日、&M)など。ラッパーのD.O、輪入道の自伝で構成を担当。ラッパーのお気に入り本を紹介する「ラッパーたちの読書メソッド」も連載中。Twitter:djsexy2000

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