ルポ『南洋のソングライン』刊行記念対談:大石始×井上薫 屋久島という場の力、別の文化に触れる際に文化的搾取にならない距離感とマナー

日本の祭りから世界中のクラブミュージックまで幅広い知識を持つ文筆家の大石始が『南洋のソングライン—幻の屋久島古謡を追って』を上梓した。本書は屋久島の歌「まつばんだ」にかすかに残る琉球音階を手がかりに、歌、そして島の歴史を紐解くルポルタージュだ。TOKIONでは大石も影響を受けたというDJ/プロデューサーの井上薫をゲストに招き、『南洋のソングライン』と屋久島などについて言葉を交わしてもらった。そこから見えてきたものはなんだったのだろうか……? 

漁師たちが行き来する南洋。たまたま出会った個人たちが何かを伝えた

――お2人は面識があるんですか?

大石始(以下、大石):僕は90年代から一方的に存じ上げてました(笑)。

井上薫(以下、井上):ありがとうございます(笑)。大石さんの本は結構読ませてもらってました。『奥東京人に会いに行く』とか、『盆踊りの戦後史 ――「ふるさと」の喪失と創造』とか。すごくおもしろかったので感想をSNSに書いたら、大石さんがコメントしてくださって。あとはDJやってる現場に遊びに来ていただいたり。そういうことから少しずつ交流ができてきた感じですね。早速本題に入りたいんですけど、『南洋のソングライン』はすごくおもしろいですね。恐縮ながら、6割くらいまでしか読めてないんですけど(笑)。

大石:いえいえ……。

井上:僕、2000年代に3回くらい屋久島に行ってるんです。でもあまり民謡のインプレッションがなくて。この本では「まつばんだ」という歌についてすごく掘り下げてましたね。この歌に残る琉球音階をポイントに、与那国島とのつながりとかを資料をたどって結構具体的なとこまでいくじゃないですか。大石さんの作家としての筆致だと思うんですけど、ストーリーや物語にすごく惹きつけられました。

大石:ありがとうございます。「まつばんだ」って歌自体があることは知ってたんです。薫さんもDJでかけていた(薩南諸島の伝承歌に取り組む歌い手である)えぐさゆうこさんから随分前にその存在を聞いていまして。

この本はもともと編集をしていただいた国本(真治)さんからご提案いただいて書き始めたんです。最初にメールをいただいた時、僕は勝手に「屋久島の本を書きませんか」的なオファーだと思ってたんです。そのあと実際に国本さんにお会いして話したら「まつばんだ」の話題が出てきて「あ、知ってます!」と意気投合したのが執筆のきっかけですね。ただ僕も薫さんと同じで、屋久島という場所に民謡のイメージはもちろん、琉球文化のイメージもまったくなかったんです。沖縄よりも鹿児島本土のほうが近いわけで、奄美大島の影響ならわかるけど、(屋久島に)琉球音階の影響がある(民謡が残ってる)とはどういうことなんだろうと思っていました。

井上:僕、90年代に六本木にあったWAVEというレコード屋さんでワールドミュージックのバイヤーをしてたんですよ。あの頃ワールドミュージックの文脈から琉球民謡もすごく盛り上がってて。この本を読んでいて、奄美大島にレコード屋さんが出してた南西諸島とかの民謡のカセットのことを思い出しました(笑)。

大石:セントラル楽器ですか?

井上:そうそう。レーベルもやってますよね? そこから出てた沖永良部島の民謡のカセットも(WAVEに)入ってきてたんですよ。

大石:ですよね。ちなみにセントラル楽器は今もまだあって、当時のカセット音源をCDでリリースしてます。

井上:そうなんだ(笑)。それこそ奄美大島って歌の種類がたくさんあるじゃないですか? この本を読むと屋久島にはそんなに数がない感じがして。それはなぜなんですか?

大石:確かに歌の総数は奄美に比べると少ないですよね。あくまで「今残っているものが」という意味でですけど。これは奄美大島に限らず、日本のほかのところにも言えることなんですが、農作業とか、漁とか、一緒にみんなで労働する機会が多かった土地には歌が残っていることが多いんですよ。それに由来した芸能とか。でも屋久島は稲作のように共同で何かをする機会が他の島と比べてそれほど多くなかった。一方の「まつばんだ」は在り方が違ってて、みんなで労働する場ではなくて、祝いの席で1〜2人が歌う感じだったんです。

井上:本の中には屋久島の南西部で追い込み漁をやっていた人たちがいた、という記述がありましたよね。そことのつながりとかは?

大石:追い込み漁は与論島から屋久島に移住してきた人たちが持ち込んだとされていますね。与論の漁師は沖縄の糸満で(漁の)修業している人が多かったようで、糸満で新しい漁業の技術を学んでいたんです。

井上:そこで歌が紡がれてたらワクワクするよね。

大石:そうですね。実際に、この本でも与論から屋久島に移住してきた一世の方に話を聞かせていただきました。そしたら同じく与論から移住してきた人同士が集まる酒の席で与論の歌を歌うことはあっても「まつばんだ」のような屋久島の歌を歌うことはなかったと言ってましたね。

つまり、「まつばんだ」に残る琉球音階というのは集団移住の結果もたらされたものではなくて、南九州や南西諸島の漁師たちが行き来する中で伝えられたものであって、あくまでも少人数のコミュニケーションの結果だと思うんですよ。集団移住の歴史はある程度追うことはできても、個人史はなかなか追いかけるのが難しい。

井上:それは興味深いですね。

大石:歌やリズムって歴史には残ってない個人史的なものの蓄積であって、そういうケースって日本だけじゃなくて世界中にあるんだと思うんですよ。

BOREDOMS周辺の人たちから「屋久島がかなりヤバかった」という話を聞きつけた

大石:僕からも質問したいんですけど、実はこの本を書いている時、薫さんがDJ KENSEIさんたちとFinal Drop名義でリリースされた『elements』という作品をかなり聴いていたんですよ。この作品は屋久島でフィールドレコーディングされた素材がふんだんに使われていますが、当時なぜ屋久島に行こうと思われたんですか?

井上:Final Dropは KENSEIくんがKSRというレーベルの人と映像を絡めた壮大なことをしようというところから始まってるんです。グラフィックデザインをやってる子とかいろんな仲間集めて「こういうことしたいんだよね」みたいな漠然としたものだけがあって。当時のKENSEIくんはヒップホップのノリを抜けて、エレクトロニカに移行してたんです。

大石:インドープサイキックス(※DJ KENSEI、D.O.I.、NIKによるビートミュージックのユニット)とかの頃ですよね?

井上:まさに。同じ現場になることも多くて交流があったんです。あの頃は当時、COMPUMAこと松永耕一くんが渋谷のタワレコの4階にコーナーを持ってて……。

一同:5階ですね。

井上:みんなに突っ込まれた(笑)。その松永くんも自然音がヤバいと言ってたんです。「切り取られた自然音はよく聴くと電子音のように聴こえる」って。そういうノリが徐々に共有されて、自然が豊かなとこに行きたいねって話になったんです。最初は小笠原諸島が候補に挙がってたけど、KENSEIくんが大阪のBOREDOMS周辺の人たちから「屋久島がかなりヤバかった」みたいなことを聞きつけて。

――「ヤバい」って言葉の使われ方が変わってきた頃ですよね。エクストリームなカッコよさを表現する時に使っていた印象あります。タワレコの5階にあった松永さんのコーナーには現代音楽、ジャズ、ヒップホップ、パンク、テクノなどが並列にセレクトされてました。

井上:そうそう。あの当時、今とつながるニュアンスでみんな「ヤバい」って言い始めてた(笑)。

大石:Final Dropはリアルタイムで聴いたんですよ。当時「屋久島に行ったんだ」という衝撃があって。90年代〜00年代にかけて日本でも各地で野外レイヴが開催されてたじゃないですか。

――日本全国の山奥でひそかに野外レイヴが開催されたんですよね。それまでライブハウスで暴れてたハードコアパンクの人たちがレイヴで踊るようになった印象があります。どこそこのレイヴで誰かが遭難しかけた、みたいな笑い話は結構聞きましたね。

大石:僕もその最中にいたんですけど、90年代後半から世紀末にかけては一種の狂乱状態みたいな雰囲気がありました。それが00年代に入って次のフェイズに入ってきた。当時の薫さんやKENSEIさんが屋久島に行ったということは、その象徴みたいに思えたんですよ。より瞑想的で自然回帰的。そういう意味で僕は「ポスト・レイヴ」みたいな感覚で捉えていました。

井上:まさにそういう感覚で制作してました。Final Dropがリリースされたのは2004年だけど、僕らは2002年に行ってるんです。3週間くらい滞在しました。僕らは苔の雫が落ちる音をフィールドレコーディングしたりしてたけど、中にはただノリで遊びに来てる人もいましたね。友達の友達みたいな。そういう人たちが入れ代わ立ち代わり。なんというか、みんな子供みたいになってました。だけど僕やKENSEIくんは「周りはどうあれ俺らは遊びに来たんじゃないよね」って常々確認しあってました(笑)。

大石:薫さんは先ほど「苔の雫が落ちる音を録った」とおっしゃってましたけど、実は僕も屋久島の音というと、まず思い出すのは水に関わる音なんです。フェリーから下りた瞬間から水の豊かさを感じました。大気中の水分が多いというか。

井上:すごいわかります。僕、20代の頃、インドネシアが大好きで5回くらい行ったんですよ。でも屋久島の湿度はインドネシアのムシムシした感じとは違った。みずみずしいんです。すごく覚えているのは最初に屋久島に着いた時に見た「人間再生の島」っていうキャッチコピーのポスター。見た時は「すごいこと言うなあ(笑)」と思ったけど一晩で意味がわかりました。なにか沸き立つものがある。

大石:そうなんですよね。水がうまいんです。屋久島の水で淹れたコーヒーはほんと美味しい。魚も美味しい。水が違うとあらゆるものが変わるんだなっていうのを実感しました。水が良いと、人間も植物も再生するのかなって。

屋久島は人が住む世界と人以外が住む世界が明確に分かれてる

――僕は屋久島に行ったことがないんですが、なぜ多くの人が屋久島に神秘的な感覚を持つのでしょうか?

大石:僕も実際に行くまでは屋久島といえば、屋久杉とか神秘的なイメージを持ってました。だから事前にそういう刷り込みがあったんだと思いますけど、実際に行ってみて感じたのは山の存在なんですよね。屋久島の形っていうのはまん丸で。中央に山があって周りを道が取り囲んでいる。しかも集落から見える山のさらに奥にも山がある。奥の山は集落から見えないんです。僕も数泊した程度ですけど、なんというか屋久島にいると常に山に見られてるような感覚になるんですよ。

井上:ですよね。僕、2002年に行った時、今は結構ポピュラーな白谷雲水に行ったんです。それこそ山と苔と水の世界。宮崎駿の『もののけ姫』の森は白谷雲水峡を参考にして想像したそうなんですけど、まさにそんな世界でした。この世のものじゃないというか。その景色を目の当たりにして良い衝撃を受けましたね。それこそ「ヤバい」ですよね。最初軽い気持ちで行ったんです。2時間くらいで登れる山だし。でも景色がすごすぎる。夜なんかは怖くて入れないんじゃないかな。

――やはり共通しているのは水、植物、山なんですね。

井上:そういえば、この本に出てくる花之江河にも行ったことあります。何となく宮之浦岳山頂を目指していたんだけど、アップダウンがすごくて途中の花之江河で休んだんですね。で、民宿のおばちゃんが作ってくれたおにぎりを食べて。なんだろう、すごい気持ちよかったんですよ。結局そこでのんびりしすぎて、2時間くらいぼーっとしちゃって。あんまり遅くなると危ないから、山頂には向かわずそのまま帰ってしまったんですよ。それを神秘と言っていいのかわからないけど、あの自然のありようというのは東京みたいな場所に住む人間にとっては経験できない類いのものだと思うんですよ。

大石:屋久島は、人が住む世界と人以外が住む世界が明確に分かれている感じがあるんです。人以外が住む世界は、軽々しく入ると命を落としかねないぐらい険しい地形なんです。今回取材に協力してくださった緒方麗(おがたうらら)さんは屋久島で生まれ育った方ですが、ご両親から「山の中には何があるかわからないから、勝手に入っちゃいけないよ」と教えられてきているんですよね。お話ししていると、山に対しての恐怖心だけじゃなく、入っちゃいけない場所としての境界線があるような感じがしましたね。地形がそういう精神性に影響を与えているのも屋久島のおもしろいところだと思いましたね。

Final Dropの感覚を無意識のうちにお手本にしていた

――お2人がそれぞれ民族音楽や民謡など土地と根付いた音楽、歌に惹かれるのはなぜなんでしょうか?

井上:歌は生きているというか。どこかの誰かが歌を聴いて、それを別の場所に持ち帰って、その土地で培養すると変化する。これって言葉では容易に起こりえない。そこにロマンがあるというか。僕は学生時代に音楽評論家の中村とうようさんにすごく感化されたことがあって。『南洋のソングライン』を読んでいてそれも思い出したんですよ。

大石:中村とうようさんが先導していたワールドミュージックの感覚って、歌がどうやってそこに伝えられたのか、あるいはどのように人と人が交流して新しい文化が生まれたのか、音楽の裏にある交流史みたいなものをダイナミズムとして捉えていたと思うんです。僕は旅が好きなんですけど、旅って人と人との交流そのものじゃないですか。そういう視点からワールドミュージックを好きになったところがあるので、おそらくこの本にもその感覚というか、『大衆音楽の真実』など中村とうようさんの本を読んで受けた刺激みたいなものがもしかしたら残ってるのかもしれない。

井上:海外にも結構行かれてるんですよね?

大石:そうですね。南米や地中海周辺はだいぶ回りました。ただ、僕の場合は日本が置き去りになっていたというか。沖縄の音楽はワールドミュージックの文脈で聴いてはいたけど、じゃあ自分が生まれ育った東京にどんなものがあるのか、本州にどんなものが、九州にどんなものがあるのか、東日本大震災前まではきちんと意識できていなかったんですよ。それが2010年に初めて訪れた阿波おどりに衝撃を受けてしまいまして。

井上:高円寺のですか?

大石:そうです! 「こんなバトゥカーダみたいなものが日本にあるんだ!」って大感動してしまって。

井上:僕は民の音楽も好きだけど宮廷音楽にも興味あって。雅楽とかは大陸由来の音楽だから土着文化とはまた違うのかもしれないけど、すごく豊穣な音楽だなって気付いたんですよ。韓国の伝統的な金属のパーカッションが神楽とちょっと似てるなと気づいたり。

大石:神楽や雅楽は民謡よりもさらに僕らの日常とかけ離れた音楽という感覚がありますけど、薫さんは今年リリースされたミックスCD『水声: FIELD RECORDINGS FROM JAPONESIAN SHELF』で、土に近い場所で鳴らされる音ではない雅楽とフィールドレコーディングの音源をつなぎ合わせていますよね。しかも現代のニューエイジ・リヴァイヴァル的な感覚も持ち込みつつ。素晴らしいと思いました。

井上:実はこのやり方には結構賛否両論があったんですよ。知人からは『日本的霊性』を書いた鈴木大拙が平安時代をディスってたことを引き合いに出して、「こういうのはあまり好きじゃない」と言われましたし(笑)。

大石:ところで、日本という場所で異国の民族音楽に向き合う場合、原理主義的スタンスに陥ってしまうことってあると思うんですよ。現地を訪れ、現地人のように演奏しなくてはいけないのだ、という。薫さんはご自身の音楽を制作する際、そうした原理主義的な考え方とどのような距離感を持っているんですか?

井上:それは難しい質問ですね(笑)。

大石:薫さんの音楽からはいろんな国のいろんな音楽の要素が聴こえてくるけど、あくまでも薫さんの音楽であり、「東京の音楽」として作られていますよね。民族衣装を着てまったく別の誰かになろうとしていない。

井上:なるほど。例えばアフリカやブラジルの音楽を取り入れても、最終的にそのものにはなれないんですよね。実装することはできるんですけど。やっぱり僕の感覚はDJなんです。中村とうようさんのおっしゃる「文化的搾取」もよくわかる。でもアフリカやブラジルの音楽が好きなんですよ。だって最高じゃないですか(笑)。じゃあどうするか。僕はサンプリングしてリアレンジすることにしたんです。客人としてのアプローチ。これは情報の受容力と集積が文化的な副産物を生むという、東京の環境から生成される音楽そのものだと思います。

大石:なるほど。さっきこの本を書いていた時にFinal Dropを聴いてたと話しましたけど、僕はそのスタンスに影響を受けていたのかもしれませんね。

井上:どういうことですか?

大石:僕は屋久島の人間ではないし、屋久島に住んでいるわけでもない。島の外の人間が島に触れた時にどういうことを書けるのか。もしくはどういうことを書いちゃいけないのか。それこそ僕が書くことで「文化的搾取」してしまう可能性もある。でもそうならないための距離感というかマナーは、Final Dropの感覚を無意識のうちにお手本にしていたような気がしました。「客人としてのアプローチ」という。

井上:それは嬉しいですね。

大石:ちなみに、2002年当時に屋久島側で旅をコーディネートしてくれる方っていらっしゃったんですか?

井上:いなかったです。レーベルの人間がいろいろ調べて泊まる場所だけは確保してくれて。本の中に山尾三省の話が出てきますよね? 僕、ここ行ってるんです。当時は僕らみたいのは珍しかったみたいで、民宿の人に「何をされてるんですか?」みたいなことを聞かれたんですよ。それで音楽を作ってるんですと説明したら、「じゃあ、ここ行ってみたら?」って。それで山尾三省の書斎に行きましたね。

大石:えー、それはすごい! あそこは秘境中の秘境ですよ。すべての携帯が圏外ですし。というか、今Final Dropのブックレットを見てたんですけど、この写真って「民宿晴耕雨読」ですよね? ということは薫さんは2002年に(「民宿晴耕雨読」オーナーで「南洋のソングライン」の歴史民俗考証を担当した)長井三郎さんと会ってる可能性も……。

Photography Mayumi Hosokura

author:

宮崎敬太

音楽ライター。1977年神奈川県生まれ。2015年12月よりフリーランスに。オルタナティブなダンスミュージック、映画、マンガ、アニメ、ドラマ、動物が好き。主な執筆媒体はFNMNL、ナタリー、朝日新聞デジタル(好書好日、&M)など。ラッパーのD.O、輪入道の自伝で構成を担当。ラッパーのお気に入り本を紹介する「ラッパーたちの読書メソッド」も連載中。Twitter:djsexy2000

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