SNSで“なにか”を失う前に Archives - TOKION https://tokion.jp/series/before-we-lose-something-from-social-media/ Wed, 19 Aug 2020 02:36:40 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png SNSで“なにか”を失う前に Archives - TOKION https://tokion.jp/series/before-we-lose-something-from-social-media/ 32 32 SNSで“なにか”を失う前に -後編- 「繋がること」と「切断すること」が秘めたる可能性 https://tokion.jp/2020/08/15/before-we-lose-something-part-2/ Sat, 15 Aug 2020 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=3033 SNSを通じた個人の主義・主張の応酬。実態が伴わないSNS社会への違和感に対処する方法を考察する。

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SNSという場所において、大きな実態のないものに対する個人の主義・主張の応酬が顕著になってきた。炎上を恐れる企業やブランドと、誰もが知的であろうとするが故の息苦しさ。ここ最近感じるこうした状況に対する違和感について、前編では例を挙げ述べた。こうした違和感の正体を探ることは容易ではない。でも、その違和感に対処する方法はあるのかもしれない。後編では、その方法について考える。

つながることが目的のSNSを閉じてみる

1つ目は「閉じる」ことだ。つながることが目的のSNSを閉じればいい。といっても、単純にスマホからアプリをアンインストールするとかそういうことではない。自らのコミュニティを限定し、ある程度のところで“切断”するということ。

とくにSNSを中心に洋服などを販売してきた“D2C”と呼ばれるジャンルのブランドではこの思考が根強い。顧客とブランドが直接つながり、コミュニケーションが取れるからこそ、それ以外の経路は遮断してもかまわない。八方美人である必要がないということだ。「foufou」というファッションブランドを作ったマール・コウサカは「ファッションブランドの本質は秘密を交換するような関係性にある。顧客とブランドは付かず離れずな距離感がベストだから、想像以上に認知が広がってしまうことを意図的に避けるようにSNSを閉じさせる」と教えてくれた。

確かに、最近では、有料記事やメルマガ、購入者限定サイトなどの“閉じた”コミュニティが勢力を伸ばしつつある。メンバーを限定することで、アイデンティティを可視化し、信頼関係をもって対話できる環境を作るという流れだ。ブランドにとっては当然その方が細やかなコミュニケーションが取れる。意図的に同調や共感を避け、顔の見える範囲へ場所を制限することで、自らの足場を固めていくということ。

ホテルホテルプロデューサーの龍崎翔子は、ある取材で「どのように世の中の空気感を掴むのか」という質問に対して「人の方を向くのではなくて、自分の前だけを見て進むことで、同じ方向を向いている方々とどんどんつながっていく。社会とのつながりを強めるためには、圧倒的な内省が必要」と語っていた。“無知礼賛”時代をもはや“置いていく”ようなこの軽快な回答に納得した。

分断をつなぐ「メディア」の役割

もう一つの可能性が「つなげる」というもの。顔の見えない者同士の分断をつなぐという考え方である。哲学者の鷲田清一は著書「濃霧の中の方向感覚」の中で、「家族、地域社会、会社、労働組合。小さな個人と巨大な社会システムとのあいだで、いわばその蝶番として、あるいはクッションとして、機能してきたそういう中間集団の紐帯が、この国でも、まるで乾いたスポンジのように空洞化してきた」と、現代の分断を危惧している。

また、「ひとはじぶんたちの暮らしを細部まで管理し、一つに糾合しようという、『翼賛』的な権力による『統合の過剰』を警戒した。ところが、現代の権勢が腐心しているのは、その逆、人びとを一つにまとめさせない『分断の深化』(齋藤純一)である」とも語っている。彼は同著のあとがきに「対話の可能性」と言う文章を添えている。消失した「中間」を「対話」によってつなげられるのかもしれない。

最近、ファッションECに精通したECエバンジェリストの川添隆との会話で「提案型・共感型の時代を経て、無知礼賛が続くSNSに主戦場を移されたアパレルブランドは、今後どのように戦っていくべきなのか」という質問をした。その回答の1つが「対話型のブランド」だった。「ブランドと消費者が対話によってお互いを知り、ともに育っていくような関係が理想なのかもしれない」ということ。前述のD2C的ビジネスの根源にも、“必要な対話”だけが存在しているような気がする。

こうした「対話」の中核をなすのが本来「メディア」というものだ。「メディア」の語源は「ミディアム(=中間)」。「メディア」といっても、旧来の新聞やテレビだけを指すのではない。何かと何かをつなぐ中間的ポジションとして対話を仲介する可能性はどんなものにでもある。前述のブランドもメディアで、空間や人もメディアになりうる。

言語と“わかりあえなさ”を知る

日本語には「共話」という独特のコミュニケーション方法がある。これは日本語教育学者の水谷信子が提唱した概念で、「A:昨日のテレビさ」「B:面白かったよね」というように、不完全ながら両者が行間を推測しながら会話を続けるというものだ。日本語においては、中間体(=メディア)なくしても、コミュニケーションが可能となる。そこになんらかのメディアが介するのなら、さらに両者が“わかりあう”ことは難しくないはずだ。

言語というものを例に出すと「メディア」的なものは捉えやすいかもしれない。例えば、外国語を知らないまま外国へ行くと、当然会話も標識もメニューも何もわからない。しかし、1週間も現地にいればトイレの標識くらいは感覚で覚えることになる。その場合「わからない」という前提で“相手側”の領域にいるのだから、理解できないこと・伝えられないことを怒ったりはしないはず。むしろ、わかりあえた瞬間には喜びさえする。これは自らが「メディア」となって、知らない言語と自らの知る言語をつないでいるのである。

翻訳家をしている友人は「そもそも同じ言語でも受け取り方は人それぞれなのに、同じ言語なら同じ価値観だと思うこと自体が間違っている」と答えた。翻訳という手段で異なる言語をつなぐ人からすれば「言語が違うことにビビりすぎだし、言語が同じであるということを過信しすぎている」という。

プロローグのようなエピローグ

現代のSNSを中心とする“無知礼賛”の社会に対して感じる違和感と、それを回避できる可能性を持ついくつかの概念を書き連ねた。違和感の正体すら言語化できていないし、解決策自体もなんの役にも立たないものかもしれないが、そもそも自分自身がこうしたことを考える過程を通して、数多くの対話を重ねたことだけは確かだ。その対象は人だったり本だったりニュースだったりするが、そもそもこうした過程自体が自分自身にとっては“分断をつなぐ”作業だったように思う。

このまとまりのない文章が「間違っている」とか「バカバカしい」とか「インテリぶってる」などと感じる人もいるかもしれないが、これらの考察を通じて誰かが自らの「対話」について考えるきっかけとなるのであれば、とても嬉しい。特にいろいろなものがオンラインに置き換わろうと躍起になっている新型コロナショック以後、この違和感は顕著になっている。だから今、それぞれが考えるというプロセスを見直すことには意味があるはずだ。僕らが何かを失ってしまう前に。

Picture Provided Takahiro Sumita

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SNSで“なにか”を失う前に -前編- 「わからない」が許容されない世の中に生まれた違和感 https://tokion.jp/2020/08/12/before-we-lose-something-part-1/ Wed, 12 Aug 2020 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=3022 多様性の時代に誰もが差別化に躍起になっている。この時代背景が生み出したSNS上の“違和感”は今後どうなるのか?

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SNSなどを介したオンラインコミュニケーションが老若男女を問わず生活に浸透し、人々の距離はさらに近く、フラットなものとなった。ただそれは、全世界がおしなべてつながったのではなくて、「小さな村」のようなものが増えただけのこと。これまでとは異なる次元ではあるものの、SNSという閉ざされた「村」の中で、さらに趣味や嗜好に準じた意図的な小集落が点在しているような状態と言える。

SNSという場所においては、昔から意見の主張・対立・けなし合いのようなことが日常茶飯事に起こるわけであるが、特に最近はそれが顕著に見えてきた。とりわけ目立つのは、個人と個人の意見のぶつかり合いではなくて、もっと大きな実態のないものに対する個人の主義・主張である。

正義は暴力だ

#検察庁法改正に抗議します」というハッシュタグが500万以上集まったことは記憶に新しいが、その後もハッシュタグを使って何かに抗議をするような流れが急増している。確かに前述のハッシュタグは世論として政治を動かした。これは極めて重要なことだ。人々は自宅から、無責任に政治に介入できることとなった。

しかし、次第に、こうした状況に違和感を感じるようになった。このトレンドはほんとうに「大衆の反逆」なのだろうか。自分達で権利を消費しているように感じてしまう。

同じような事象は日々起きている。アイドルが政治を語るなと声高に叫んだり、キャンペーンが炎上してブランドがすぐに企画を撤回したり、アーティストの作品がパロディーだと謝罪させたり、SNSにおける個人となんらかの軋轢は日に日に増えている。ブランドや企業からすれば炎上は避けたいので、誰にも嫌われないよう、ビクビクしながらキャンペーンを打っているような観さえある。

人々は自らの正義のため、見知らぬ他人に意見を申し立てる。もちろん、抗議活動が盛んになること自体はとてもいいことだが、あらゆる直感的な主張に共感を集めて権利を振りかざすべきなのだろうか。とあるアーティストへのインタビューで「正義は暴力だ」という言葉を聞いて、ひどく納得した。愛と理解を欠いた正義を振りかざすだけになると、それはとても恐ろしいことである。

作者の真意をわざわざ語らせるべきなのか?

フランスの哲学者・サルトルによる「嘔吐」で、主人公ロカンタンは、これまでなんとも思わなかった周囲の人間の存在に強烈な違和感を感じ、吐き気を催すようになる。なぜ人は何者かになろうとするのか。ただ存在しているということにすぎないのに、そもそも生まれてきた意味など必要なのだろうかと思い巡らす。ここでいう「吐き気」は、自分が感じている「違和感」そのものだ。

もう1つ。「エヴェンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」でシンジに首を絞められるアスカが「気持ち悪い」とつぶやくラストシーン。「僕なんて必要ないんだ」と言い続けてきたシンジが「ここにいてもいいんだね」ということを悟り、祝福された後である。自己実現の快楽を知った主人公に対する、アスカなりの抵抗だと受け取った。存在の本質探求を是とすることに対する違和感にも、とても親近感を感じる。

現実に話を戻すと、昨年末にコスメブランド「SHIRO」のリブランディングが話題になった。ブランドリニューアルに合わせたロゴの刷新に対して、SNS上でネガティブな声が相次いだ。しかし、今井浩恵社長は、これは世界展開を視野に入れたブランド強化のための一環で、「リニューアルした昨年9月以降、毎月前年同月比170%前後で推移」した(※今年3月時点)と語った。

こうした情報はSNSでは知りえなかった。というか、調べなかった、という方が近いのかもしれない。われわれは情報を恣意的に取捨選択し、そこに対してただ意見を述べていただけなのかもしれないと、ハッとした。一方で、わざわざそこまで語らせるべきなのか、という思いもある。今年ローソンのプライベート・ブランドがビジュアルを大幅に刷新した際にも、SNSで批判的なコメントが噴出した。ここでもデザインを担当したnendoの佐藤オオキがリブランディングの経緯をメディアで語ることとなった。

消費者の意見を取り入れることは大切だが、どれも責任者が価値観の異なる大衆の面前に引きずり出されているような憐憫さを感じる事案だ。背景など関係なく“好き勝手”に文句を言う消費者が増えている気がしてならない。

焦るが故の「反・反知性主義」的な態度

「反知性主義」という概念がある。これについてはたくさんの著書があり、トム・ニコルズによる「専門知は、もういらないのか」という本で初めてその概念に触れた。そこでは、SNS台頭以後の「無知礼賛」文化に警鐘を鳴らしていた。人々は「専門家を技術者として頼っているだけだ。専門家と一般の人々の対話ではなく、確立された知識を、必要なときに、自分の欲しい分だけ、手軽かつ便利に使っているにすぎない」という。

確かに現代はこうした状況に陥っている。世の中がフラットになるということは、すべての情報がタダになるというわけでは決してないはずだ。にもかかわらず、情報をフラットに盲目的に扱い、正義の名の下で議論を交わしている。その裏にはわれわれが知り得ないもっとたくさんの過程や情報がある。それ抜きの議論はもはや議論ではない。

一方で、SNSという場所では、誰もがむしろ「知性的であろうとしている」ように見受けられる。「反知性主義と向き合う」をテーマにした2015年2月発行の「現代思想」に、社会学者の酒井隆史が「現代日本の『反・反知性主義』?」というテキストを寄せていた。そこでは「インターネットこそ、この現代の『知性』の過剰の鮮明にみえる場」とした上で、「極端にいえば、むしろどこにも知識人しかいなくて、誰もが賢くあることを競い合っているというのが現代日本の風景であるようにも思えてくる」と述べていた。

昨今の状況はこの通りで、知的であろうとする無数のアカウントがまともであろうとするが故の自己弁護のために主張を繰り広げているような気がしてならない。誰もが真面目になりすぎている。言い換えれば、誰もが「失敗できない雰囲気」に縛られているのかもしれない。

そこには「わからない」「知らない」とは言えない雰囲気がある。間違ったことや不確かなことも同様に排除される傾向が強い。哲学者の東浩紀は「対談集」における國分功一郎との対話の中で「『わたしは暴力を体験した』と言っても、『エビデンスは?』という話になってしまう。エビデンス信仰は、そのように弱者の抑圧としても使われている」と言っている。

つまり、誰もが、わからないことが許容されない世の中において、取り残されないように焦っているのだろう。ブランドや企業も同じ。国民的なトレンドが生まれづらくなり、多様性の時代と言われて久しいが、その中で誰もが差別化に躍起になっている。存在意義を、ストーリーを探している。こうした時代背景が生み出したSNS上の“違和感”は今後一体どうなるのだろうか。

Picture Provided Takahiro Sumita

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