SNSという場所において、大きな実態のないものに対する個人の主義・主張の応酬が顕著になってきた。炎上を恐れる企業やブランドと、誰もが知的であろうとするが故の息苦しさ。ここ最近感じるこうした状況に対する違和感について、前編では例を挙げ述べた。こうした違和感の正体を探ることは容易ではない。でも、その違和感に対処する方法はあるのかもしれない。後編では、その方法について考える。
つながることが目的のSNSを閉じてみる
1つ目は「閉じる」ことだ。つながることが目的のSNSを閉じればいい。といっても、単純にスマホからアプリをアンインストールするとかそういうことではない。自らのコミュニティを限定し、ある程度のところで“切断”するということ。
とくにSNSを中心に洋服などを販売してきた“D2C”と呼ばれるジャンルのブランドではこの思考が根強い。顧客とブランドが直接つながり、コミュニケーションが取れるからこそ、それ以外の経路は遮断してもかまわない。八方美人である必要がないということだ。「foufou」というファッションブランドを作ったマール・コウサカは「ファッションブランドの本質は秘密を交換するような関係性にある。顧客とブランドは付かず離れずな距離感がベストだから、想像以上に認知が広がってしまうことを意図的に避けるようにSNSを閉じさせる」と教えてくれた。
確かに、最近では、有料記事やメルマガ、購入者限定サイトなどの“閉じた”コミュニティが勢力を伸ばしつつある。メンバーを限定することで、アイデンティティを可視化し、信頼関係をもって対話できる環境を作るという流れだ。ブランドにとっては当然その方が細やかなコミュニケーションが取れる。意図的に同調や共感を避け、顔の見える範囲へ場所を制限することで、自らの足場を固めていくということ。
ホテルホテルプロデューサーの龍崎翔子は、ある取材で「どのように世の中の空気感を掴むのか」という質問に対して「人の方を向くのではなくて、自分の前だけを見て進むことで、同じ方向を向いている方々とどんどんつながっていく。社会とのつながりを強めるためには、圧倒的な内省が必要」と語っていた。“無知礼賛”時代をもはや“置いていく”ようなこの軽快な回答に納得した。
分断をつなぐ「メディア」の役割
もう一つの可能性が「つなげる」というもの。顔の見えない者同士の分断をつなぐという考え方である。哲学者の鷲田清一は著書「濃霧の中の方向感覚」の中で、「家族、地域社会、会社、労働組合。小さな個人と巨大な社会システムとのあいだで、いわばその蝶番として、あるいはクッションとして、機能してきたそういう中間集団の紐帯が、この国でも、まるで乾いたスポンジのように空洞化してきた」と、現代の分断を危惧している。
また、「ひとはじぶんたちの暮らしを細部まで管理し、一つに糾合しようという、『翼賛』的な権力による『統合の過剰』を警戒した。ところが、現代の権勢が腐心しているのは、その逆、人びとを一つにまとめさせない『分断の深化』(齋藤純一)である」とも語っている。彼は同著のあとがきに「対話の可能性」と言う文章を添えている。消失した「中間」を「対話」によってつなげられるのかもしれない。
最近、ファッションECに精通したECエバンジェリストの川添隆との会話で「提案型・共感型の時代を経て、無知礼賛が続くSNSに主戦場を移されたアパレルブランドは、今後どのように戦っていくべきなのか」という質問をした。その回答の1つが「対話型のブランド」だった。「ブランドと消費者が対話によってお互いを知り、ともに育っていくような関係が理想なのかもしれない」ということ。前述のD2C的ビジネスの根源にも、“必要な対話”だけが存在しているような気がする。
こうした「対話」の中核をなすのが本来「メディア」というものだ。「メディア」の語源は「ミディアム(=中間)」。「メディア」といっても、旧来の新聞やテレビだけを指すのではない。何かと何かをつなぐ中間的ポジションとして対話を仲介する可能性はどんなものにでもある。前述のブランドもメディアで、空間や人もメディアになりうる。
言語と“わかりあえなさ”を知る
日本語には「共話」という独特のコミュニケーション方法がある。これは日本語教育学者の水谷信子が提唱した概念で、「A:昨日のテレビさ」「B:面白かったよね」というように、不完全ながら両者が行間を推測しながら会話を続けるというものだ。日本語においては、中間体(=メディア)なくしても、コミュニケーションが可能となる。そこになんらかのメディアが介するのなら、さらに両者が“わかりあう”ことは難しくないはずだ。
言語というものを例に出すと「メディア」的なものは捉えやすいかもしれない。例えば、外国語を知らないまま外国へ行くと、当然会話も標識もメニューも何もわからない。しかし、1週間も現地にいればトイレの標識くらいは感覚で覚えることになる。その場合「わからない」という前提で“相手側”の領域にいるのだから、理解できないこと・伝えられないことを怒ったりはしないはず。むしろ、わかりあえた瞬間には喜びさえする。これは自らが「メディア」となって、知らない言語と自らの知る言語をつないでいるのである。
翻訳家をしている友人は「そもそも同じ言語でも受け取り方は人それぞれなのに、同じ言語なら同じ価値観だと思うこと自体が間違っている」と答えた。翻訳という手段で異なる言語をつなぐ人からすれば「言語が違うことにビビりすぎだし、言語が同じであるということを過信しすぎている」という。
プロローグのようなエピローグ
現代のSNSを中心とする“無知礼賛”の社会に対して感じる違和感と、それを回避できる可能性を持ついくつかの概念を書き連ねた。違和感の正体すら言語化できていないし、解決策自体もなんの役にも立たないものかもしれないが、そもそも自分自身がこうしたことを考える過程を通して、数多くの対話を重ねたことだけは確かだ。その対象は人だったり本だったりニュースだったりするが、そもそもこうした過程自体が自分自身にとっては“分断をつなぐ”作業だったように思う。
このまとまりのない文章が「間違っている」とか「バカバカしい」とか「インテリぶってる」などと感じる人もいるかもしれないが、これらの考察を通じて誰かが自らの「対話」について考えるきっかけとなるのであれば、とても嬉しい。特にいろいろなものがオンラインに置き換わろうと躍起になっている新型コロナショック以後、この違和感は顕著になっている。だから今、それぞれが考えるというプロセスを見直すことには意味があるはずだ。僕らが何かを失ってしまう前に。