映画 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/映画/ Fri, 13 Oct 2023 09:04:45 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 映画 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/映画/ 32 32 Girls’ Film Fanclub Vol.1 ウルリケ・オッティンガー監督『アル中女の肖像』ゲスト:斉藤綾子(明治学院大学教授)後編 https://tokion.jp/2023/10/13/girls-film-fanclub-vol1-part2/ Fri, 13 Oct 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=211247 「Sister」の長尾悠美をホストにTOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目はフェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子を迎え、ウルリケ・オッティンガー監督の代表作『アル中女の肖像』にフォーカス。後編では作品のディテールに迫る。

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(左)斉藤綾子(右)長尾悠美

(左)斉藤綾子
東京都生まれ。上智大学文学部心理学科卒業。サントリー(株)勤務を経て、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) 映画テレビジョン学部批評学科博士課程修了 (Ph.D)。明治学院大学教授。専門は映画理論、フェミニズム映画批評。フェミ・ジャーナル誌『ふぇみん』の映画評を担当している(隔月)。

(右)長尾悠美
渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアートを通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」の代表を務め、他にも映画やアートにまつわる企画を積極的に行う長尾悠美をホスト役に、TOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目は、フェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子をゲストに迎え、唯一無二のクィアな映像世界で知られるドイツの映画監督ウルリケ・オッティンガーの代表作『アル中女の肖像』(1979年)にフォーカスを当てる。

冷戦下のベルリンが舞台の『アル中女の肖像』は、『タブロイド紙が愛したドリアン・グレイ』、『フリーク・オルランド』と並んで同監督の「ベルリン三部作」として知られる。ジャーマン・ニューシネマの旗手、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーをして「最も美しいドイツ映画」と称賛せしめた本作は、主人公の「彼女」がベルリンの街を歩き回りながらひたすら酒を飲み続けるという至極シンプルな映画だ。しかし、だからこそ隅々にまで散りばめられた社会への鋭い洞察や風刺、実験精神やユーモア、そして主演のタベア・ブルーメンシャインの装いの美しさが際立ち、観るものを魅了してやまない。近年、再評価の機運が高まり、日本でも渋谷のユーロスペースでの上映を皮切りに、現在も全国で順次公開中だ。

ファッションを軸にさまざまな活動を続ける長尾と、1980年代にアメリカでフェミニズムに触れ、アカデミックな現場で映画を論じてきた斉藤は、オッティンガーの名作をどう観たのか。自分たちの人生にも引き寄せながら、その色あせない魅力や価値、そして今の時代に生きる私達に投げかける問いの数々について自由に語り合う。対談後編は、『アル中女の肖像』のなかで様々な示唆を含む視覚的効果やリファレンス、作品が喚起する「映画は窓か、それとも鏡か」という議論、そしてオッティンガー独自のユーモアが持つ力について。

記事前半はこちら

※記事内には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

『アル中女の肖像』にちりばめられた視聴覚的効果

長尾:それでは『アル中女の肖像』の中身についても先生のお話をうかがっていこうと思います。本作でまず印象的なのは主人公を演じたタベア・ブルーメンシャインの存在感とその自由な装いです。作品の中に視覚的に訴えかけてくるものがとても多いなと感じました。

斉藤:そうですね。これはオッティンガーがまず画家であったことが大いに関係しているでしょう。画面の中に色彩や視覚的要素を入れ込んでいく彼女の画作りは、ドイツ映画史の文脈からすると「表現主義的」と形容できるかもしれません。映画序盤、タベアは赤や黄色などの鮮やかな原色の衣装に身を包んでいますが、映画が進んで徐々に彼女が崩壊していくにつれて、衣装もどんどん色を失っていくんですよね。

長尾:言われてみると確かにそうですね。それから作品の中に、窓ガラスの表面に水などの液体がかけられて、そのガラス越しに被写体がにじんで見えるような描写が頻繁に登場していて印象的だったのですが、斉藤先生はあのシーンをどうご覧になりました?

斉藤:そうですね。液体と窓の描写は『フリーク・オルランド』でも登場しますし、私もおもしろいイメージだなと感じました。オッティンガー自身がどういう意図で撮っているのかはわからないですが、私は「映画は鏡か、それとも窓か」という映画を取り巻く1つの議論を思い出しました。それは映画という存在を、社会をありのままに映す透明な窓と考えるのか、もしくは自己言及的に自分(作者)を映す鏡ととらえるか、という映画に対する見解の違いによって起こるものです。透明な窓を通して、観客に対してあたかも窓がないかのようにイメージを見せるのか、それとも窓の存在を明らかにして、実はそこに媒介しているもの、つまりはバイアスが存在していることを意識させるのか。そういうことを考えさせられるイメージだなと。液体がかかると、観客は目前のイメージとの間には透明なガラスが介在してきたことを改めて意識しますからね。

長尾:それから、ガラスが割れる音や物をぶちまける音、主人公のタベアのヒールの音など、この映画において「音」の要素もとても重要だと感じました。特に、オープニングもエンディングもヒールの音が印象的に響いていますね。

斉藤:そうですね。パンフレットにもありますが、オッティンガーは音をとても重要視する監督でもあります。あらためて考えてみると、ヒールの音は「女性性」を象徴するものであり、この映画の中では主人公の存在そのものを象徴的に示すものでもある気がします。序盤は小気味よく、リズミカルに響く彼女の足音が、彼女が崩壊していくにつれて乱れていくんですよね。そして最終的に、鏡に囲まれた空間の中、ヒールでその鏡を割りながら奥へと歩いていく。それは彼女が自分そのものの中に入り込んでいき、自分自身を壊していくようにも見えましたし、それがある種の解放につながるのかなとも思ったりもしました。

実はこの映画のハイヒールの音からシャンタル・アケルマンの『アンナの出会い』(1978年)を思い出したんです。『アンナの出会い』もまた、オープニングはヒールの音で始まりますしね。アケルマン作品の中にも『囚われの女』(2000年)をはじめ、ヒールの音が効果的に使われている作品は多いんですよ。

長尾:確かに!『ゴールデン・エイティーズ』(1986年)のオープニングのヒールの音も印象的ですよね!

斉藤:そうですね。もしかすると、「毅然とした女性」のイメージを音で表そうとすると、それはヒールの音なのかもしれません。たった一人、孤独に歩く女性のイメージ。屋内に留まっていない女性。とても映画的です。

『モロッコ』と『アル中女の肖像』が描く異なる女性像

長尾:話は少し変わって、私自身、上京してすぐの頃に、ドイツ人の女優で歌手でもあったマレーネ・ディートリッヒを知り、とりこになりました。彼女の音楽を聴いたり、出演した映画を観たりする中で、そのファッションからも大きな影響を受けて。「Sister」の初期の頃に、ディートリッヒをオマージュしていた時期もあったくらいです。斉藤先生がパンフレットに書かれていたことによると、『アル中女の肖像』の中に、ディートリッヒが出演した『モロッコ』(1930年)などを参照している部分があるとのことですが、そのあたりを少し詳しく聞かせていただけますか?

斉藤:これは私も関連する文献を読んでいるなかで発見したことなんです。ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督とマレーネ・ディートリッヒが組んで1930年に公開された『モロッコ』は、字幕映画の第1号として日本でも公開されてヒットしましたし、私も大好きな映画で、彼女が男装して歌うシーンも有名です。

『アル中女の肖像』の冒頭で、タベア演じるアル中女がフランス語で「Aller jamais retour (=二度と戻らない)」と言ってベルリンへの片道航空券を買うんですが、『モロッコ』でも、ディートリッヒ演じる歌手のアミー・ジョリーが冒頭、モロッコへ向かう船に現れた時、彼女のような女たちは「片道切符だけで二度と戻って」こない「自殺志望者」と呼ぶと船長が言うんです。もう1つはラストシーンなんですが、『モロッコ』で行軍するトム(演:ゲイリー・クーパー)の部隊を追って、アミー・ジョリーが砂漠の中を延々と歩いていく後ろ姿が映し出されます。その時、彼女はずっと履いていたハイヒールを脱ぐんですよね。先ほどハイヒールは「毅然とした女性」を象徴すると言いましたが、主人公のアミーが男性のもとに向かうためにヒールを脱ぐということが、彼女自身の変化を表していると言うこともできます。一方で『アル中女の肖像』のラストでは、主人公は酒でボロボロになりながら1人で背を向けて鏡の中へと歩いていく。その後ろ姿のイメージは『モロッコ』にも重なりますが、彼女は歩くのもままならない状態なのに最後までハイヒールを脱がなかった。その対比はとても示唆的でおもしろいと思います。

長尾:確かにおもしろいですね。オープニングとラストシーンにそれぞれ『モロッコ』のレファレンスが含まれているのも興味深いです。

斉藤:1920年代のワイマール文化の中にあったベルリンは、文化的にとても豊かで、まさに芸術の街。劇場が50館近く、映画館も300館以上、キャバレーが70軒以上、そして数えきれないほどのカフェもあったと言われ、男装が流行、同性愛者も多くいました。こうした豊かな文化はナチ時代に消失し、戦後でもドイツでは同性愛を禁止する刑法175条という法律が撤廃されずに1994年まで残っていました。加えて70年代初めドイツではテロリズムなどが起こり、社会状況は混乱していました。そんな中で『アル中女の肖像』を作っていたオッティンガーが『モロッコ』などの作品を参照したのは、ディートリッヒが体現した1920年代のワイマール文化やベルリンへの憧憬、そして作中に登場する彼女の魅力的な男装姿にあらためて美を見出したことの現れなのかもしれません。

「良識」「社会問題」「正確な統計」が私たちに問うもの

長尾:それから、アル中女と対比をなすように一貫してグレーの服に身を包み、彼女に付きまとう「良識」、「社会問題」、「正確な統計」という3人の女性達もこの映画を象徴する存在ですよね。

斉藤:そうですね。これは監督自身が語っていることかもしれませんが、「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人の言葉は、私達が社会の中で押し付けられる制約や、否応なく内面化させられている声なのかなという気がします。そしてそれは、タベア演じる「彼女」がなぜあんなふうに酒を飲み続け、破滅に向かっていくのかという部分につながっていて。つまり、それらに耳を貸さないために、彼女は言葉も話さないし、酒を飲み続けるんじゃないかと。そうやって「社会の規範」にギリギリまで抵抗するけれども、最終的には彼女自身も色を失い、崩壊してしまう。そんなふうに感じましたね。

長尾:私も「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人の言葉で気になる言葉がたくさんありました。例えば「急に自立した女は不安になりやすい」や「女性が人前で酔うなんて」とか。それから「今もはびこるダブルスタンダードで男性が酩酊しても『男らしい』と肯定的に見られる一方で、女性が酔うと下品で不快とされてしまう」とか、「同性愛のサブカルチャーって余暇の文化なのよね」など。

斉藤:日本でも、こんなことを言う人は未だにたくさんいますよね(笑)。

長尾:社会に出てから大きな仕事を成し遂げた時に、目上の男性に「女の割にはよくやった」と褒められたことがあって(笑)。皮肉っぽい人だったので、それは彼の中では最大限の賛辞だったとは思うんですが、すごくモヤっとしました。それから、東京でファッションの勉強をしたいと言った時も、「女のくせに東京に出るなんて、何を考えてるんだ!」と祖父に怒られたことも。そういう言葉が投げかけられる環境で生きてきたからか、自分に自信はあるんだけど、どこかでその言葉が自分の中に根付いてしまっているところもあって。だから主人公の気持ちはすごくわかるなと思ったんです。

斉藤:そうですね。日本では未だに80歳くらいの重鎮達がいつまでも引退せずに政治を仕切っていますからね。ただ、世代が変われば価値観がすぐに変わるかというとそう単純な話でもなく、戦い続けなきゃいけないのか、と途方にくれたりします。でも反面、若い世代の男性達の考え方がかなり変わってきていることは希望でもあって。難しいのは、そういう人達もいざ家庭に入って子どもを育てるフェーズになった時に、我が子がなるべく社会で生きやすいようにと処世術を教えたくなっちゃうんですよね。社会の中で自分の主張を通して反抗し続けるのはとても大変ですから、どうしても保身に向かいがち。とにかく、この3人の言葉というのは今言われても全然おかしくないし、口に出さなくてもそんなふうに見ている人は未だにたくさんいるなと思わされますね。

長尾:思い返してみると、こういう言葉って常に身近にあったなと。言われてきた言葉は決して無くならないけれど、大人になってオッティンガーの映画や、いろんなフェミニストの方達の著作に触れて、「あの言葉はおかしい」と言ってもらえたことで、その言葉を真に受けずに済むようになったというのはありますね。オッティンガーは常に主人公の「彼女」に付きまとう「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人にあえてそういう言葉を言わせることで、その言葉がいかに人を傷つけるかを示してくれていると感じました。

斉藤:おっしゃる通りです。ネガティブなものは語らず、無かったことにするというやり方もありますが、それって実はすごく全体主義的でもある。オッティンガーはそういう態度を嫌いました。それは彼女とも親交のあったライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の考え方にも共通するところです。彼等は、現実に起こっていることから目を背けずに描かなきゃいけないという考えのもと、それをどうやって寓話やファンタジーの形で観客に見せるかということに注力しました。目を向けたくないような現実や社会でまかり通っている言説を、ユーモアやパロディー、皮肉を交えることによって、理解しやすい形で私達に提示してくれているんですよね。

ただそういう戦術は、それ自体が差別的な言説を助長するんじゃないかという批判の対象にもなり得る。実際そういう批判も受けてきたので諸刃の剣とも言えますが、私自身はそのようなアーティストの勇気を評価するし、必要なことだと思っています。

オッティンガー作品が持つユーモアの力

長尾:私はオッティンガーの『ベルリン三部作』を観てみて、彼女はだいぶギャグセンス高めだなと思いましたね(笑)。描いているものがすでに視覚的に強烈なのに、そこに笑いを上乗せしていて。自分がこういう映画を撮れと言われても、1つもまねできないなと思います。それもある意味で勇気づけられました。

ユーモアで言うと、その「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人が、映画の中で何度か主人公になびくようなシーンがあっておもしろかったですよね。レズビアンが集まるバーで、それまで常に平静を装っていた3人のうちの1人がダンスを踊り出すシーンがその1つです。彼女達は社会的なルールの外側にいる主人公のような存在を見下しながらも、その自由さや傍若無人さをどこかで羨ましく思っているような感じもしました。

斉藤:おもしろいですよね。他にも自分達が死んだ後の棺桶の話をしているときも、タベアが持っている酒をグビっと飲むシーンもあったりして。あの3人は、いわゆる「建前」として社会的なことを語る時はもっともらしいことを言いますが、自分の「死」について考えたり、ダンスに誘われたりする時に、ふと個人としての「本音」をのぞかせるんですよね。

あの3人は誇張されて描かれていますが、私達の中にも「こうすべきだ」というような、いわゆる「良識」はあるわけです。例えば、街を歩いている時に、ボロをまとった「浮浪者」のような人が酔っ払って倒れていたら、とよく考えるんです。実際にそういう機会に遭遇した時も、すぐに手を差し伸べたり、アクションを起こしたりできたかと言われると、実は難しかったりしますよね。そういう意味で、私達はあの3人を完全には否定できないのではないでしょうか。そんなふうにオッティンガーの作品は、デフォルメされた、あり得ない世界を描いているように見えて、実はすごくリアリティーがあって、ふいに私達に鋭い問いを投げかけてきます。だからストーリーがよくわからなかったとしても、ディテールの部分に引き込まれるし、作品としての力が色あせないんでしょうね。

長尾:本当にそう思います。先生のお話のおかげで作品の理解も深まりましたし、オッティンガーを通していろんなトピックを考えることができました。とっても貴重なお話、ありがとうございました!

ウルリケ・オッティンガー「ベルリン三部作」予告編
『アル中女の肖像』(国内劇場初公開)Bildnis einer Trinkerin, Photo: Ulrike Ottinger 
© Ulrike Ottinger
Bildnis einer Trinkerin, Photo: Ulrike Ottinger 
© Ulrike Ottinger

■『アル中女の肖像』(国内劇場初公開)

1979年/西ドイツ/カラー/108分
原題:Bildnis einer Trinkerin
英題:Ticket of No Return
監督・脚本・撮影・美術・ナレーション:
ウルリケ・オッティンガー
音楽:ペーア・ラーベン
衣装:タベア・ブルーメンシャイン
歌:ニナ・ハーゲン
出演:タベア・ブルーメンシャイン
   ルッツェ
   マグダレーナ・モンテツマ
   ニナ・ハーゲン
   クルト・ラープ
   フォルカー・シュペングラー
   エディ・コンスタンティーヌ
   ウルフ・ヴォステル
   マーティン・キッペンバーガー
HP:  https://punkte00.com/ottinger-berlin/

Photography Emi Nakata
Text & Edit Shinichiro Sato (TOKION)
Cooperation Punkte 
Yumi Nagao’s dress is supplied by FRANGANT 

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Girls’ Film Fanclub Vol.1 ウルリケ・オッティンガー監督『アル中女の肖像』ゲスト:斉藤綾子(明治学院大学教授)前編 https://tokion.jp/2023/10/07/girls-film-fanclub-vol1-part1/ Sat, 07 Oct 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=210831 「Sister」の長尾悠美をホストにTOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目はフェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子を迎え、ドイツの映画監督ウルリケ・オッティンガーの代表作『アル中女の肖像』にフォーカスする。

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斉藤綾子(左)長尾悠美(右)

斉藤綾子(左)
東京都生まれ。上智大学文学部心理学科卒業。サントリー(株)勤務を経て、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) 映画テレビジョン学部批評学科博士課程修了 (Ph.D)。明治学院大学教授。専門は映画理論、フェミニズム映画批評。フェミ・ジャーナル誌『ふぇみん』の映画評を担当している(隔月)。

長尾悠美(右)
渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアート作品を通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」の代表を務め、映画やアートにまつわる企画を積極的に行う長尾悠美をホスト役に、TOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目は、フェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子を迎え、唯一無二のクィアな映像世界で知られるドイツの映画監督ウルリケ・オッティンガーの代表作『アル中女の肖像』(1979年)にフォーカスを当てる。

冷戦下のベルリンが舞台の『アル中女の肖像』は、『タブロイド紙が愛したドリアン・グレイ』、『フリーク・オルランド』と並んで同監督の「ベルリン三部作」として知られる。ジャーマン・ニューシネマの旗手、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーをして「最も美しいドイツ映画」と称賛せしめた本作は、主人公の「彼女」がベルリンの街を歩き回りながらひたすら酒を飲み続けるという至極シンプルな映画だ。しかし、だからこそ隅々にまで散りばめられた社会への鋭い洞察や風刺、実験精神やユーモア、そして主演のタベア・ブルーメンシャインの装いの美しさが際立ち、観るものを魅了してやまない。近年、再評価の機運が高まり、日本でも渋谷のユーロスペースでの上映を皮切りに、現在も全国で順次公開中だ。

ファッションを軸にさまざまな活動を続ける長尾と、1980年代にアメリカでフェミニズムに触れ、アカデミックな現場で映画を論じてきた斉藤は、オッティンガーの名作をどう観たのか。自分たちの人生にも引き寄せながら、その色あせない魅力や価値、今の時代に生きる私達に投げかける問いの数々について自由に語り合う。対談前編は、オッティンガーの作品との出会い、近年フェミニズム映画が再評価される理由、そしてフェミニストでレズビアンでもあるオッティンガーが作品の中で挑戦した「カウンター・フェミニズム」について。

ウルリケ・オッティンガー監督作品との出会い

長尾悠美(以下、長尾):私にとって最初のウルリケ・オッティンガー作品は『フリーク・オルランド』でした。上映後に斉藤先生とドイツ映画の専門家でいらっしゃる渋谷哲也さんのトークを聞き、パンフレットを購入して先生のテキストも読ませていただいて。その後にベルリン三部作の他の2作品、『アル中女の肖像』と『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』も観まして、とにかくその自由さに感銘を受けました。それこそ、オッティンガーの作品を経験したか否かで、今後の映画体験が変わってくるんじゃないかと感じるほどです。先生がオッティンガーの作品に最初に触れたのはいつ頃だったんですか?

斉藤綾子(以下、斉藤):大学を卒業して一般企業での仕事を5年半ほどした後、30代を目前にして結婚や出産はどうしたらいいのか考えたタイミングが私にもありました。悩んだ末に結局日本を出てアメリカに渡ったんです。研究者になろうとは思っていなかったんですが、もう一度大学に入って映画を専攻することにして。私がアメリカに渡った1986年は、1960年代の女性解放運動を経て、フェミニズムという領域が体系的に整理され、学術として理論化が進められている真っ只中で、大学でも先進的な理論としてそれらが教えられるようになった時期でした。また文学や比較文学などの文脈で映画を論じてきた研究者達が、多くの大学で映画研究を新しい学問として確立し始めていたのです。

私は上野千鶴子さんたちより少し下の世代で、大学にいた頃は女性学も知らず、「ウーマンリブ」にもあまり関心も持てずにいました。そんな中、アメリカに渡って驚いたのは、フェミニズム理論の先生達がみんなファッショナブルだったこと。『アル中女の肖像』のタべア・ブルーメンシャインのように真っ赤な口紅をつけて、ミニスカートで、きれいなマニキュアをつけて教壇に立っていて。アメリカでは、1960年代以降展開されていた「化粧=男性にこびている」という考え方とは違う、新しいフェミニズムを体現した研究者達が大学で教えるようになっていたんです。そういう先生達のもとで多くの映画に触れ、映画祭でたまたま『Joan of Arc of Mongolia』(1989年)を観たのがウルリケ・オッティンガー監督の映画との出会いでした。

長尾:先生を含め、いろんな方のお話を聞くと、日本と外国の状況の違いはすごく感じますし、海外でメンターと呼べるような人に出会ったという方は多いですよね。その時代のアメリカで学ぶことができた先生をとても羨ましく思います。

斉藤:私は、アメリカでフェミニズム映画を専門にしようと決めたというよりは、その時代に学んだ身として、フェミニズム理論を批評に取り入れることはごく普通のことだと思っていたんです。加えて、ローラ・マルヴィ*1という映画研究者の「視覚的快楽と物語映画」という論文を日本語に翻訳をしたこともあり、1994年に帰国してからは、フェミニズム映画理論に関する講義や執筆の依頼が多くなりました。ただ日本に戻って気付いたのは、映画批評の理論展開が、アメリカで学んできたものとは全く違ったこと。日本では依然として男性の評論家の影響力が非常に強く、映画批評という領域でフェミニズム理論が取り入れられること自体がまれな状況でした。そんな背景もあり、日本映画をフェミニズム的に批評できるのか、そして作り手のジェンダーは作品とどんな関係があるのか、そんな問いを抱きながら、徐々に自分の研究テーマとなっていったんです。

フェミニズム映画再評価の背景

長尾:Sisterは、国際女性デーに合わせて毎年イベントを企画していて、今年はアメリカのフェミニスト・コレクティブ「Guerrilla Girls」を取り上げました*2。彼女たちは80年代からアート界のジェンダーギャップについて、正確なデータを元に作品で抗議してきた人たちです。展示の中で、作品と関連づけて日本の表現の現場に関するデータも紹介したかったので、表現の現場調査団*3という方達に企画にご協力いただいて。その方達の調査によると、例えば日本の美術の現場でも、学芸員やキュレーターは女性が圧倒的に多いけど、いまだに管理職は男性の割合が非常に高いようです。そのために現場の女性たちの意向が尊重されづらい状況が生まれるなど、体制の問題で生まれる弊害や苦労も多いようです。

そんな中、シャンタル・アケルマン監督の代表作『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』 が2022年のイギリス映画協会が10年ごとに選出する「史上最高の映画100」で見事1位に輝きました。アケルマン自身が影響を受けたと公言しているアルフレッド・ヒッチコックの『めまい』(同2位)を差し置いての1位ですから、感慨深いものがあります。映画史において、フェミニズム映画やクィア映画を見直す熱が高まっているように感じますが、背景にあるものはなんだと思いますか?

斉藤:まず近年のアカデミー賞にも言えますが、受賞作品を選出する投票者の偏りが見直され、多様化したことはあるでしょうね。確立された男性批評家が大半を占めていた審査員の枠が、外国籍、女性、クィアの人達にも開かれるようになりました。それによって選出される映画のラインアップも大きく変わってきますから。ただ、選出する上でイギリス映画協会にもさまざまな思惑はあったと思いますが、思惑だけでは1位にはならないでしょうしね。

長尾:はい、思惑だけではないと思います。『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』に主演したデルフィーヌ・セイリグはオッティンガー監督の『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』にも出演していますが、彼女のドキュメンタリー(『ジャンヌ・ディエルマンをめぐって』)を観た時に、その意識の高さと真摯な姿勢に感動しましたし、だからこそアケルマンの作品もあれだけの名作になったんだと納得しました。

斉藤:デルフィーヌは素晴らしい俳優ですよね。実は日本の場合、オッティンガーやアケルマンの映画が全く上映されてこなかったわけではなかったのですが、単発的な特集上映が多く、大御所の批評家に取り上げられることもないまま埋もれていた状況でした。昨今は、アケルマンについても配給会社の若い世代の人達が作品を気に入り、上映のために尽力したという経緯がありますし、今回のオッティンガー作品の公開についても同じことが言えます。配給をする側にも世代交代が起き、その人達が改めてこれらの映画と出会い、価値を見出し、上の方達もそれに応えてゴーサインを出したという。#MeTooなどの影響も多分にあったとは思いますし、そういう時代の流れと変化はあると思います。

オッティンガーの「カウンター・フェミニズム」

長尾:背景についてのお話が聞けたところで、本題である『アル中女の肖像』についてお話をうかがっていこうと思います。ディテールに踏み込む前に、まず監督であるウルリケ・オッティンガーについてですが、彼女はいわゆるニュージャーマンシネマと第二派フェミニズムが重なる時代に映画を撮り始めていますね。先生がパンフレットの中の論考でも書いていらっしゃる、彼女が挑んだ「カウンター・フェミニズム」とはなんなのか、少しご説明いただけますか?

斉藤:「カウンター・フェミニズム」という考え方は、そもそも1970年代に出てきた「カウンター・シネマ」という概念を土台にしています。この「カウンター・シネマ」というのは、60年代から70年代に映画批評で言及されるようになりましたが、それをクレア・ジョンストソン*4という映画理論家がフェミニズム批評に取り入れて提唱したもので、女性が作った映画が、主流映画に対するカウンターとして機能しうる、という主張です。特に五月革命が一つの契機となり、主流のハリウッド映画とは異なる映画的実践である実験映画や前衛映画は、ハリウッド的な物語性を壊したり、見ていて美しいと感じる視覚的快楽を否定したりすることで、新たな映画や革命的な映画を目指した実験性を打ち出していきました。それに対して「カウンター・シネマ」は、ハリウッド的な商業映画や物語映画をただ否定するのではなく、主流映画の枠内で対抗的な映画を作ることでその制度を転覆させる可能性をもっている、という考え方です。言ってみれば、すでに存在する主流の映画の手法を用いながら、内側からそれ自体に対してカウンターパンチを食らわす、というイメージです。

初期のフェミニズム映画の文脈では、男性の目にこびるように映る美しい女性のイメージを否定して、「現実の女性」を描写しようとするドキュメンタリーを評価する傾向が強く、ある意味では女性性を前景化したイメージに対して「禁欲的な」側面が強かったんです。その中においてオッティンガーは、そういったイメージとは異なるきらびやかな女性を初期から描いてきました。それは彼女の持っているクィア性、つまり、レズビアンである彼女自身が女性を欲望や愛の対象として見るという感性を持っていたことと大きく関わっているはずです。彼女の視点を通してみれば、女性が化粧をし、自らを美しく保とうとすることは、男性のためだけではなく、女性のためでもあり、自分のためでもある。オッティンガーは、そういった女性性や快楽を否定せず、ある種の新しい形のフェミニズムを自作で提示していきました。そんな彼女の姿勢を「カウンター・フェミニズム」という言葉で形容してみたんです。

長尾:なるほど。私自身、オノ・ヨーコさんの「Sisters, O Sisters」という曲にちなんで名付けた「Sister」というお店を15年前に始めましたが、オープン当時から女の子達だけでやろうという意気込みで、きれいに化粧をして、ドレスを着てお店に立っていました。それも必ずしも男性に見てもらうためではなくて、自分たちがいかに美しくいられるか、というところを大事にしてたんです。私生活では数年前に離婚を経験してシングルマザーになったんですが、そもそもオノ・ヨーコさんの曲も女性解放運動の文脈で作られた曲ですし、結婚制度の中で感じていた違和感なども思い返して、ああ私ってフェミニストだったんだと思い至ったところがあって。それまでフェミニズムというものは知っていたけど、自分のこととして深く考えられていなかった。そういう経緯もあって、オッティンガーやアケルマンの作品を観た時に、自分が求めていたものと合致したな、という感覚がありました。昔の映画だけれど、今観ても新鮮な視点を提示してくれますね。

「見る」と「見られる」「出会う」と「変わる」

斉藤:そうですね。先ほども話に出したローラ・マルヴィという人は「視覚的快楽と物語映画」の中で、主流映画において、見る(欲望する)男性と見られる(欲望される)女性というジェンダー的に非対称な構造があることを指摘しました。ただ、その論文はある種のマニフェスト(宣言文)のような主張だったので、図式化された「まなざす男性とまなざされる女性」という二項対立が強調されてしまった面があり、インパクトが強い分、物議を醸しました。実際のところは、当時から多くの女性観客がハリウッド映画を楽しんで観ていたわけですし、同性愛的な視点ではなくても、女性が女性をまなざし、憧れの感情を抱く、といった現実に存在した女性観客の経験や彼女たちの視線についてはどう考えたらいいのかと、多くのフェミニストたちを巻き込んだ議論を生みだしたんです。

女性が、画面を通して理想のロールモデルのような女性に出会い、自分もああなりたいと憧れ、欲望の視線で見つめる。あるいは、スクリーン上で知る新たな女性のあり方や生き方に影響を受けて自分自身も変わる。『麗しのサブリナ』のオードリー・ヘプバーンを見て、皆がサブリナパンツをはいたように、憧れのファッションを身に着けて日常の中でちょっとしたトリップをするというか、小さな異空間を作り出すというか。そういうものをもたらす効果も映画にはあるんですよね。オッティンガーの映画にとっても、デビュー作の『ラオコーンと息子たち』を始めとして「変身」はとても重要なテーマですが、より本質的な変化や新生に繋がっています。

長尾:出会いや変化で言うと、私は地方出身者で、近所の映画館といえば大きなショッピングモールの中にあるシネコンしかなかったんですよね。そういう環境でメジャーな作品にしか触れてこなかったから、上京してミニシアターでホドロフスキーやデレク・ジャーマンとかの作品に触れた時は衝撃を受けて。一気に多様な映画にのめり込んでいきました。

斉藤:おっしゃるように、出会いというのは本当に大きくて。長尾さんが東京に来て感じた、すべてが変わるようなカルチャーショックを私はアメリカで味わいました。多くのクィアな友人に囲まれていろいろなことを学びましたし、多種多様な映画を観ることができました。当然、1つの映画をとっても、その人の立場、例えば性的指向や人種的バックグラウンドによって見え方が変わってきます。そういう多様さに触れる中で私自身も変容して、それまで見えなかったものが見えてくるような感覚があった。映画というのは、常にいろんなイメージを提供してくれているんですよね。でも、そこから何を見るかによって作品の受け取り方が全く変わっていきますし、いろんなものが見えるようになるとおもしろさが広がっていくと思います。

後編に続く


*1: ローラ・マルヴィ
1941年、イギリス生まれのフェミニスト映画理論家。マルヴィは、1975年に発表した記念碑的な論文「視覚的快楽と物語映画」の中で、ハリウッドを中心とする主流映画が「見る男性、見られる女性」というジェンダー非対称の構造に依存していることを指摘し、フェミニズム映画理論の必要性を訴えた。今回のゲストの斉藤綾子は、本論文を1990年代に日本語に翻訳している

*2: Guerrilla Girls(ゲリラ・ガールズ)展
セレクトブティック「Sister」は、2023年3月の国際女性デーに合わせ、倉敷芸術科学大学の川上幸之介研究室の協力のもと、アート界のジェンダーギャップに抗うアクティビスト集団「Guerrilla Girls(ゲリラ・ガールズ)」の展覧会を渋谷PARCOにて主催した。『「F」ワードの再解釈:フェミニズム!』をモットーに1985年にニューヨークで結成されたゲリラ・ガールズは、現在に至るまで55名以上の匿名メンバーで構成されている。 偽名を用い、公共の場ではゴリラのマスクを着用して、事実と皮肉、ユーモアとインパクトのあるヴィジュアルを交えた作品で、公共に介入する。政治や文化の腐敗のほか、性別や民族の偏見を作品により明らかにし、主体としての物語の転覆を試みている。本展では、ゲリラ・ガールズの作品展示とグッズの販売を行い、売上の一部はゲリラ・ガールズの活動費として寄付、またジェンダー関連書籍として図書館へ寄贈している。

*3:表現の現場調査団
アーティストやジャーナリスト、俳優などにより結成された有志団体で、全ての人に平等に開かれた表現の場を実現するために、ハラスメントやジェンダーバランスの実態調査と結果の公開、WEBでの各種情報提供を行っている。
https://www.hyogen-genba.com

*4:クレア・ジョンストン
1940年生まれのフェミニスト映画理論家。1973年に発表した「カウンター・シネマとしての女性映画」というエッセイの中で、作り手が女性である「女性映画」を見直す必要性を説いた。

参考文献:
斉藤綾子「視線の政治学:女性たちの視線をいかに取り戻すか」『i+med(i/e)a vol.1 Beyond Female Gaze』(2021)


ウルリケ・オッティンガー「ベルリン三部作」予告編

■『アル中女の肖像』国内劇場初公開
1979年/西ドイツ/カラー/108分
原題:Bildnis einer Trinkerin
英題:Ticket of No Return
監督・脚本・撮影・美術・ナレーション:
   ウルリケ・オッティンガー
音楽:ペーア・ラーベン
衣装:タベア・ブルーメンシャイン
歌:ニナ・ハーゲン
出演:タベア・ブルーメンシャイン
   ルッツェ
   マグダレーナ・モンテツマ
   ニナ・ハーゲン
   クルト・ラープ
   フォルカー・シュペングラー
   エディ・コンスタンティーヌ
   ウルフ・ヴォステル
   マーティン・キッペンバーガー
HP: https://punkte00.com/ottinger-berlin/

Photography Emi Nakata
Text & Edit Shinichiro Sato (TOKION)
Cooperation Punkte
Yumi Nagao’s dress is supplied by FRANGANT

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