Girls’ Film Fanclub Vol.1 ウルリケ・オッティンガー監督『アル中女の肖像』ゲスト:斉藤綾子(明治学院大学教授)後編

(左)斉藤綾子
東京都生まれ。上智大学文学部心理学科卒業。サントリー(株)勤務を経て、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) 映画テレビジョン学部批評学科博士課程修了 (Ph.D)。明治学院大学教授。専門は映画理論、フェミニズム映画批評。フェミ・ジャーナル誌『ふぇみん』の映画評を担当している(隔月)。

(右)長尾悠美
渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアートを通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」の代表を務め、他にも映画やアートにまつわる企画を積極的に行う長尾悠美をホスト役に、TOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目は、フェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子をゲストに迎え、唯一無二のクィアな映像世界で知られるドイツの映画監督ウルリケ・オッティンガーの代表作『アル中女の肖像』(1979年)にフォーカスを当てる。

冷戦下のベルリンが舞台の『アル中女の肖像』は、『タブロイド紙が愛したドリアン・グレイ』、『フリーク・オルランド』と並んで同監督の「ベルリン三部作」として知られる。ジャーマン・ニューシネマの旗手、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーをして「最も美しいドイツ映画」と称賛せしめた本作は、主人公の「彼女」がベルリンの街を歩き回りながらひたすら酒を飲み続けるという至極シンプルな映画だ。しかし、だからこそ隅々にまで散りばめられた社会への鋭い洞察や風刺、実験精神やユーモア、そして主演のタベア・ブルーメンシャインの装いの美しさが際立ち、観るものを魅了してやまない。近年、再評価の機運が高まり、日本でも渋谷のユーロスペースでの上映を皮切りに、現在も全国で順次公開中だ。

ファッションを軸にさまざまな活動を続ける長尾と、1980年代にアメリカでフェミニズムに触れ、アカデミックな現場で映画を論じてきた斉藤は、オッティンガーの名作をどう観たのか。自分たちの人生にも引き寄せながら、その色あせない魅力や価値、そして今の時代に生きる私達に投げかける問いの数々について自由に語り合う。対談後編は、『アル中女の肖像』のなかで様々な示唆を含む視覚的効果やリファレンス、作品が喚起する「映画は窓か、それとも鏡か」という議論、そしてオッティンガー独自のユーモアが持つ力について。

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※記事内には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

『アル中女の肖像』にちりばめられた視聴覚的効果

長尾:それでは『アル中女の肖像』の中身についても先生のお話をうかがっていこうと思います。本作でまず印象的なのは主人公を演じたタベア・ブルーメンシャインの存在感とその自由な装いです。作品の中に視覚的に訴えかけてくるものがとても多いなと感じました。

斉藤:そうですね。これはオッティンガーがまず画家であったことが大いに関係しているでしょう。画面の中に色彩や視覚的要素を入れ込んでいく彼女の画作りは、ドイツ映画史の文脈からすると「表現主義的」と形容できるかもしれません。映画序盤、タベアは赤や黄色などの鮮やかな原色の衣装に身を包んでいますが、映画が進んで徐々に彼女が崩壊していくにつれて、衣装もどんどん色を失っていくんですよね。

長尾:言われてみると確かにそうですね。それから作品の中に、窓ガラスの表面に水などの液体がかけられて、そのガラス越しに被写体がにじんで見えるような描写が頻繁に登場していて印象的だったのですが、斉藤先生はあのシーンをどうご覧になりました?

斉藤:そうですね。液体と窓の描写は『フリーク・オルランド』でも登場しますし、私もおもしろいイメージだなと感じました。オッティンガー自身がどういう意図で撮っているのかはわからないですが、私は「映画は鏡か、それとも窓か」という映画を取り巻く1つの議論を思い出しました。それは映画という存在を、社会をありのままに映す透明な窓と考えるのか、もしくは自己言及的に自分(作者)を映す鏡ととらえるか、という映画に対する見解の違いによって起こるものです。透明な窓を通して、観客に対してあたかも窓がないかのようにイメージを見せるのか、それとも窓の存在を明らかにして、実はそこに媒介しているもの、つまりはバイアスが存在していることを意識させるのか。そういうことを考えさせられるイメージだなと。液体がかかると、観客は目前のイメージとの間には透明なガラスが介在してきたことを改めて意識しますからね。

長尾:それから、ガラスが割れる音や物をぶちまける音、主人公のタベアのヒールの音など、この映画において「音」の要素もとても重要だと感じました。特に、オープニングもエンディングもヒールの音が印象的に響いていますね。

斉藤:そうですね。パンフレットにもありますが、オッティンガーは音をとても重要視する監督でもあります。あらためて考えてみると、ヒールの音は「女性性」を象徴するものであり、この映画の中では主人公の存在そのものを象徴的に示すものでもある気がします。序盤は小気味よく、リズミカルに響く彼女の足音が、彼女が崩壊していくにつれて乱れていくんですよね。そして最終的に、鏡に囲まれた空間の中、ヒールでその鏡を割りながら奥へと歩いていく。それは彼女が自分そのものの中に入り込んでいき、自分自身を壊していくようにも見えましたし、それがある種の解放につながるのかなとも思ったりもしました。

実はこの映画のハイヒールの音からシャンタル・アケルマンの『アンナの出会い』(1978年)を思い出したんです。『アンナの出会い』もまた、オープニングはヒールの音で始まりますしね。アケルマン作品の中にも『囚われの女』(2000年)をはじめ、ヒールの音が効果的に使われている作品は多いんですよ。

長尾:確かに!『ゴールデン・エイティーズ』(1986年)のオープニングのヒールの音も印象的ですよね!

斉藤:そうですね。もしかすると、「毅然とした女性」のイメージを音で表そうとすると、それはヒールの音なのかもしれません。たった一人、孤独に歩く女性のイメージ。屋内に留まっていない女性。とても映画的です。

『モロッコ』と『アル中女の肖像』が描く異なる女性像

長尾:話は少し変わって、私自身、上京してすぐの頃に、ドイツ人の女優で歌手でもあったマレーネ・ディートリッヒを知り、とりこになりました。彼女の音楽を聴いたり、出演した映画を観たりする中で、そのファッションからも大きな影響を受けて。「Sister」の初期の頃に、ディートリッヒをオマージュしていた時期もあったくらいです。斉藤先生がパンフレットに書かれていたことによると、『アル中女の肖像』の中に、ディートリッヒが出演した『モロッコ』(1930年)などを参照している部分があるとのことですが、そのあたりを少し詳しく聞かせていただけますか?

斉藤:これは私も関連する文献を読んでいるなかで発見したことなんです。ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督とマレーネ・ディートリッヒが組んで1930年に公開された『モロッコ』は、字幕映画の第1号として日本でも公開されてヒットしましたし、私も大好きな映画で、彼女が男装して歌うシーンも有名です。

『アル中女の肖像』の冒頭で、タベア演じるアル中女がフランス語で「Aller jamais retour (=二度と戻らない)」と言ってベルリンへの片道航空券を買うんですが、『モロッコ』でも、ディートリッヒ演じる歌手のアミー・ジョリーが冒頭、モロッコへ向かう船に現れた時、彼女のような女たちは「片道切符だけで二度と戻って」こない「自殺志望者」と呼ぶと船長が言うんです。もう1つはラストシーンなんですが、『モロッコ』で行軍するトム(演:ゲイリー・クーパー)の部隊を追って、アミー・ジョリーが砂漠の中を延々と歩いていく後ろ姿が映し出されます。その時、彼女はずっと履いていたハイヒールを脱ぐんですよね。先ほどハイヒールは「毅然とした女性」を象徴すると言いましたが、主人公のアミーが男性のもとに向かうためにヒールを脱ぐということが、彼女自身の変化を表していると言うこともできます。一方で『アル中女の肖像』のラストでは、主人公は酒でボロボロになりながら1人で背を向けて鏡の中へと歩いていく。その後ろ姿のイメージは『モロッコ』にも重なりますが、彼女は歩くのもままならない状態なのに最後までハイヒールを脱がなかった。その対比はとても示唆的でおもしろいと思います。

長尾:確かにおもしろいですね。オープニングとラストシーンにそれぞれ『モロッコ』のレファレンスが含まれているのも興味深いです。

斉藤:1920年代のワイマール文化の中にあったベルリンは、文化的にとても豊かで、まさに芸術の街。劇場が50館近く、映画館も300館以上、キャバレーが70軒以上、そして数えきれないほどのカフェもあったと言われ、男装が流行、同性愛者も多くいました。こうした豊かな文化はナチ時代に消失し、戦後でもドイツでは同性愛を禁止する刑法175条という法律が撤廃されずに1994年まで残っていました。加えて70年代初めドイツではテロリズムなどが起こり、社会状況は混乱していました。そんな中で『アル中女の肖像』を作っていたオッティンガーが『モロッコ』などの作品を参照したのは、ディートリッヒが体現した1920年代のワイマール文化やベルリンへの憧憬、そして作中に登場する彼女の魅力的な男装姿にあらためて美を見出したことの現れなのかもしれません。

「良識」「社会問題」「正確な統計」が私たちに問うもの

長尾:それから、アル中女と対比をなすように一貫してグレーの服に身を包み、彼女に付きまとう「良識」、「社会問題」、「正確な統計」という3人の女性達もこの映画を象徴する存在ですよね。

斉藤:そうですね。これは監督自身が語っていることかもしれませんが、「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人の言葉は、私達が社会の中で押し付けられる制約や、否応なく内面化させられている声なのかなという気がします。そしてそれは、タベア演じる「彼女」がなぜあんなふうに酒を飲み続け、破滅に向かっていくのかという部分につながっていて。つまり、それらに耳を貸さないために、彼女は言葉も話さないし、酒を飲み続けるんじゃないかと。そうやって「社会の規範」にギリギリまで抵抗するけれども、最終的には彼女自身も色を失い、崩壊してしまう。そんなふうに感じましたね。

長尾:私も「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人の言葉で気になる言葉がたくさんありました。例えば「急に自立した女は不安になりやすい」や「女性が人前で酔うなんて」とか。それから「今もはびこるダブルスタンダードで男性が酩酊しても『男らしい』と肯定的に見られる一方で、女性が酔うと下品で不快とされてしまう」とか、「同性愛のサブカルチャーって余暇の文化なのよね」など。

斉藤:日本でも、こんなことを言う人は未だにたくさんいますよね(笑)。

長尾:社会に出てから大きな仕事を成し遂げた時に、目上の男性に「女の割にはよくやった」と褒められたことがあって(笑)。皮肉っぽい人だったので、それは彼の中では最大限の賛辞だったとは思うんですが、すごくモヤっとしました。それから、東京でファッションの勉強をしたいと言った時も、「女のくせに東京に出るなんて、何を考えてるんだ!」と祖父に怒られたことも。そういう言葉が投げかけられる環境で生きてきたからか、自分に自信はあるんだけど、どこかでその言葉が自分の中に根付いてしまっているところもあって。だから主人公の気持ちはすごくわかるなと思ったんです。

斉藤:そうですね。日本では未だに80歳くらいの重鎮達がいつまでも引退せずに政治を仕切っていますからね。ただ、世代が変われば価値観がすぐに変わるかというとそう単純な話でもなく、戦い続けなきゃいけないのか、と途方にくれたりします。でも反面、若い世代の男性達の考え方がかなり変わってきていることは希望でもあって。難しいのは、そういう人達もいざ家庭に入って子どもを育てるフェーズになった時に、我が子がなるべく社会で生きやすいようにと処世術を教えたくなっちゃうんですよね。社会の中で自分の主張を通して反抗し続けるのはとても大変ですから、どうしても保身に向かいがち。とにかく、この3人の言葉というのは今言われても全然おかしくないし、口に出さなくてもそんなふうに見ている人は未だにたくさんいるなと思わされますね。

長尾:思い返してみると、こういう言葉って常に身近にあったなと。言われてきた言葉は決して無くならないけれど、大人になってオッティンガーの映画や、いろんなフェミニストの方達の著作に触れて、「あの言葉はおかしい」と言ってもらえたことで、その言葉を真に受けずに済むようになったというのはありますね。オッティンガーは常に主人公の「彼女」に付きまとう「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人にあえてそういう言葉を言わせることで、その言葉がいかに人を傷つけるかを示してくれていると感じました。

斉藤:おっしゃる通りです。ネガティブなものは語らず、無かったことにするというやり方もありますが、それって実はすごく全体主義的でもある。オッティンガーはそういう態度を嫌いました。それは彼女とも親交のあったライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の考え方にも共通するところです。彼等は、現実に起こっていることから目を背けずに描かなきゃいけないという考えのもと、それをどうやって寓話やファンタジーの形で観客に見せるかということに注力しました。目を向けたくないような現実や社会でまかり通っている言説を、ユーモアやパロディー、皮肉を交えることによって、理解しやすい形で私達に提示してくれているんですよね。

ただそういう戦術は、それ自体が差別的な言説を助長するんじゃないかという批判の対象にもなり得る。実際そういう批判も受けてきたので諸刃の剣とも言えますが、私自身はそのようなアーティストの勇気を評価するし、必要なことだと思っています。

オッティンガー作品が持つユーモアの力

長尾:私はオッティンガーの『ベルリン三部作』を観てみて、彼女はだいぶギャグセンス高めだなと思いましたね(笑)。描いているものがすでに視覚的に強烈なのに、そこに笑いを上乗せしていて。自分がこういう映画を撮れと言われても、1つもまねできないなと思います。それもある意味で勇気づけられました。

ユーモアで言うと、その「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人が、映画の中で何度か主人公になびくようなシーンがあっておもしろかったですよね。レズビアンが集まるバーで、それまで常に平静を装っていた3人のうちの1人がダンスを踊り出すシーンがその1つです。彼女達は社会的なルールの外側にいる主人公のような存在を見下しながらも、その自由さや傍若無人さをどこかで羨ましく思っているような感じもしました。

斉藤:おもしろいですよね。他にも自分達が死んだ後の棺桶の話をしているときも、タベアが持っている酒をグビっと飲むシーンもあったりして。あの3人は、いわゆる「建前」として社会的なことを語る時はもっともらしいことを言いますが、自分の「死」について考えたり、ダンスに誘われたりする時に、ふと個人としての「本音」をのぞかせるんですよね。

あの3人は誇張されて描かれていますが、私達の中にも「こうすべきだ」というような、いわゆる「良識」はあるわけです。例えば、街を歩いている時に、ボロをまとった「浮浪者」のような人が酔っ払って倒れていたら、とよく考えるんです。実際にそういう機会に遭遇した時も、すぐに手を差し伸べたり、アクションを起こしたりできたかと言われると、実は難しかったりしますよね。そういう意味で、私達はあの3人を完全には否定できないのではないでしょうか。そんなふうにオッティンガーの作品は、デフォルメされた、あり得ない世界を描いているように見えて、実はすごくリアリティーがあって、ふいに私達に鋭い問いを投げかけてきます。だからストーリーがよくわからなかったとしても、ディテールの部分に引き込まれるし、作品としての力が色あせないんでしょうね。

長尾:本当にそう思います。先生のお話のおかげで作品の理解も深まりましたし、オッティンガーを通していろんなトピックを考えることができました。とっても貴重なお話、ありがとうございました!

ウルリケ・オッティンガー「ベルリン三部作」予告編
『アル中女の肖像』(国内劇場初公開)Bildnis einer Trinkerin, Photo: Ulrike Ottinger 
© Ulrike Ottinger
Bildnis einer Trinkerin, Photo: Ulrike Ottinger 
© Ulrike Ottinger

■『アル中女の肖像』(国内劇場初公開)

1979年/西ドイツ/カラー/108分
原題:Bildnis einer Trinkerin
英題:Ticket of No Return
監督・脚本・撮影・美術・ナレーション:
ウルリケ・オッティンガー
音楽:ペーア・ラーベン
衣装:タベア・ブルーメンシャイン
歌:ニナ・ハーゲン
出演:タベア・ブルーメンシャイン
   ルッツェ
   マグダレーナ・モンテツマ
   ニナ・ハーゲン
   クルト・ラープ
   フォルカー・シュペングラー
   エディ・コンスタンティーヌ
   ウルフ・ヴォステル
   マーティン・キッペンバーガー
HP:  https://punkte00.com/ottinger-berlin/

Photography Emi Nakata
Text & Edit Shinichiro Sato (TOKION)
Cooperation Punkte 
Yumi Nagao’s dress is supplied by FRANGANT 

author:

長尾 悠美

渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアート作品を通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

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