長濱治 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/長濱治/ Wed, 21 Sep 2022 09:08:37 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.2 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 長濱治 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/長濱治/ 32 32 50年間の記憶と記録。「1972-2022 TOMMAXと長濱治 二人の沖縄とアメリカ」―後編 https://tokion.jp/2022/08/11/tommax-osamu-nagahama-vol2/ Thu, 11 Aug 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=136110 写真家の長濱治と、現代アーティストだったTOMMAXこと、真喜志勉による2人展「1972-2022 TOMMAXと長濱治 二人の沖縄とアメリカ」が沖縄にて開催された。その沖縄にて長濱治にインタビューを敢行。後編は、展示作品について。

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「1972-2022 TOMMAXと長濱治 二人の沖縄とアメリカ」―後編

写真家の長濱治と、今は亡きアーティストのTOMMAXこと、真喜志勉(まきし・つとむ)による、沖縄日本復帰50周年を迎えた2022年5月15日から約1ヵ月間、展覧会「PLAZA HOUSE × MOON HOTELS & RESORTS presents 沖縄日本復帰50年企画 1972-2022 TOMMAXと長濱治 二人の沖縄とアメリカ」が沖縄で開催された。

前編に続く後編では、展示作品の紹介や開催会場について。

前編はこちら

「1972-2022 TOMMAXと長濱治 二人の沖縄とアメリカ」に展示された作品

沖縄を拠点に活動する、写真家・活動家の石川真生を捉えた1枚。沖縄をめぐるひとびとを中心に撮影し、沖縄が持つさまざまな側面を厳しく捉え続けている、長濱が絶賛する写真家の1人。

「石川真生さんは、本当にすごい写真家。沖縄のいろいろな歴史や事件を取り上げていて、この写真は、戦後の米軍基地の金網(フェンス)の内側と外側をテーマに、実際にあった事件を再現している。この金網は中に入れないように120度だか、130度だか角度がつけてある」(長濱)。

横たわっている人形は、かつて米兵に殺され、米軍基地のフェンスの外側に放置された沖縄の少女の遺体を再現したもの。風化してはならない、また目を背けてはならない沖縄の事件を石川さんは追い続けているそうだ。

沖縄がまだアメリカだった時代、米軍基地に駐屯するアメリカ兵達をとりこにしたのが、通称「オキナワンロック」と呼ばれる沖縄発のバンドが生み出した音楽。かつてのコザ市(現在の沖縄市)を中心に、ベトナム戦争さなかであった沖縄で、1964年に発生した、独自のグルーブ感を放つオキナワンロックは、アメリカの地から片道切符でやってきた海兵達にとって必要不可欠な存在だった。その沖縄発のオキナワンロックのバンドの中でも異彩を放っていたのが、コンディション・グリーンだ。

「ヴォーカルのかっちゃん(=川満勝弘)は、幻の人。コザを中心に活動をしていたけど、この人は本当にすごいんだ。俺は金武でライヴを観たんだけど、鳥の頭をちょん切ったり、蛇を裂いたり、自分のカウボーイブーツに米兵のビールをガーッと入れて『飲め!』って言ったりさ」(長濱)。

長濱が1969年に沖縄を訪れた時、当時のコザ市で撮影した若き海兵達の写真。週末の夜を大いに楽しんでいるような笑顔を放つ、イカした青年達の姿だ。しかし後ろの看板に写る「梅毒」という日本語の文字が時代を物語っており、この笑顔は、明日にでも戦地に向かう若い兵士の最後の夜を楽しむ、つかの間の休息時間に放たれたものでもある。

「沖縄に片道切符でやってきたマリンコ(=海兵)は、20歳そこそこの若者達。あの時、ベトナムへ出向いた兵士達の半分は戻ってこれないという話を聞いていたし、人っていうのは、明日自分は死ぬかもしれないという極限に立たされた時、笑うしかないんだよ。そういう人達が集まると、刹那的な明るさになってしまう。だから『写真を撮ろうぜ!』ってなるとすべてが明るくなって、だけどカメラを向けながら『なぜあんなに明るくなれるんだろう』って、彼らの笑顔が重く心にぐっと刺さった。戦争の惨さを感じたよ」(長濱)。 

沖縄返還前、米軍基地内の道を走る子ども達の姿。男の子を追いかけている、後ろ姿の少女は裸足だ。

「この写真はいい。米軍基地内で、無邪気に裸足で走る子ども達はハッピーなんだよ。だけど金網の外(米軍基地外)では、『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(上間陽子著)であるように、不幸な家庭環境に育った少女達が沖縄の夜の街を裸足で逃げる現実が、50年経った今もある。裸足の少女の2つの世界があることをこの写真から伝えたかった」(長濱) 。

バイク好きの長濱が撮影先で乗っていたバイクは、「ヤマハ」だった。

「不良の時の僕。ミシシッピで、自分のアシスタントだった写真家の三浦憲治に撮ってもらったんだ」(長濱)。

1980年代後半、長濱が敬愛する音楽、デルタ・ブルースを奏でるブルースマンを撮りに向かった先が、ブルースの聖地であるミシシッピ州クラークスデイル。アポイントなしで現地に乗り込み、名だたるミュージシャンを訪ねポートレートを撮影していった。こちらは、写真集『Cotton Fields』の表紙にも登場するブルースマン、ジャック・オーウェンス。今回の写真展でも、多くのブルースマン達の姿を捉えた写真が展示されていた。

長濱の伝説の写真集、『Hell’s Angels -地獄の天使』にも登場する、ニューヨークはマンハッタンにアジトを構えていた、さすらいのバイク集団、ニューヨーク・ノマド・エイリアンズ(後のヘルズ・エンジェルス・ニューヨーク支部)。サンフランシスコでヘルズ・エンジェルスと衝撃的な出会いを果たし(詳しくは前編にて)、バイカー達の姿に魅了された長濱は、ニューヨークにいるノマド・エイリアンズの存在を知り、1969年から1979年までの10年間、アメリカに行く機会があれば、ニューヨークの彼らのアジトを訪れ、リアルな姿を撮影していった。長濱は、ヘルズ・エンジェルスに接近した唯一の日本人と言っても過言ではない。

TOMMAXの愛称で知られている、アーティストの真喜志勉。長濱とは多摩美術大学の同級生で、真喜志は洋画科、長濱は彫刻科に通い、ジャズやブルースなどの音楽が好きなことで意気投合。在学中はともに多くのジャズミュージシャンのライヴを一緒に観に行ったそう。大学卒業後、沖縄に戻った真喜志を訪ね、長濱は1969年に沖縄へ。そこから2015年まで2人の交流は続いた。こちらのポートレートは、真喜志が亡くなる数ヵ月前に長濱が撮影したもの。また1972年に出版された写真集、長濱治『暑く長い夜の島 –長濱 治 沖縄写真集』(1972)の表紙にも真喜志は登場している。      

展覧会で展示されていた、生前の真喜志が愛用していたストライプのラグビーシャツとフェラーリのキャップ。真喜志は、1963年に大学を卒業後、1970年代にニューヨークに渡って約1年滞在。有名なジャズクラブ、「ビレッジヴァンガード」で皿洗いのアルバイトをしながらジャズの洗礼を受け、また当時のポップアート、ミニマリズム、コンセプチュアルなどの現代美術に触れた。帰国後は、沖縄を拠点にアート活動を行い、米軍基地や基地問題など戦後沖縄の社会状況をポップアートで表現。1995年に沖縄タイムス芸術選賞大賞を受賞、また絵画教室「ペントハウス」を主宰するなど、アーティストの育成にも力を注いだ。

展覧会は、沖縄市にある日本最古のショッピングセンター「PLAZA HOUSE」と、北谷のウォータフロントにある「MBギャラリーチャタン by ザ・テラスホテルズ」の2ヵ所で開催された。「PLAZA HOUSE」は、沖縄が米国統治下だった1954年、アメリカ独立記念日にオープン。在沖米軍やその家族を対象としていたことから、建物、入っている店ともにアメリカンなスタイルで人気を呼んだそう。68年の月日を経た現在も残るミッドセンチュリーな建物が魅力だ。ここ数年はリニューアルが進み、新しいスタイルの店が続々と出店している。中でも、3階にあるギャラリー「RYCOM ANTHROPOLOGY」では、アメリカだった頃の沖縄を捉えたモノクロ写真を展示し、“琉米文化の知と感性を今に伝えるギャラリー”を展開。「1972-2022 TOMMAXと長濱治 二人の沖縄とアメリカ」は、そのハイライト的な内容として開催された。

https://plazahouse.net

 

もう1つの展示会場が、「MBギャラリーチャタン by ザ・テラスホテルズ」。こちらは、2021年春にオープンしたホテル。アートの展示に力を入れており、ホテル内では国内外で活躍する沖縄出身、または沖縄在住のアーティスト達の作品をロビーや各フロア、客室などで展示している。中でも真喜志の作品に関しては、多くが展示されている他、フリオ・ゴヤ、角敏郎などの作品も観ることができる。オープンして間もないが、異国情緒あふれるリゾートタウン北谷の中でも、沖縄発のアートを取り入れたモダンなスタイルのホテルとして注目されている。今回の展覧会は、ロビーをギャラリースペースとして運用し、作品を展示していた。

https://mb-gallery.jp

長濱治(ながはま・おさむ)
1941年名古屋市生まれ。多摩美術大学彫刻科を卒業した後、広告制作会社に就職。写真家・立木義浩のアシスタントを経て、1966年よりフリーランスに。主に海外のロックフェスティバルやカウンターカルチャー周辺を撮影しながら、ファッション、広告、ポートレートの分野にて活躍。他にもニューヨークのバイカー集団、アメリカ南部のブルースマン、各業界の第一線で活躍する日本の男達、また長年かけて沖縄のひとびとを撮り続け続けてきた。ファッションブランド「NEIGHBORHOOD」と交流が深いことでも知られている。主な作品に『暑く長い夜の島 –長濱 治 沖縄写真集』(1972)、『HELL’S ANGELS 地獄の天使』(1981)、『猛者の雁首』(2005)、『THE TOKYO HUNDREDS 原宿の肖像』(2014)、『創造する魂 沖縄ギラギラ琉球キラキラ 100+2』(2018)、『Cotton Fields』(2020)などがある。

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50年間の記憶と記録。「1972-2022 TOMMAXと長濱治 二人の沖縄とアメリカ」―前編 https://tokion.jp/2022/08/04/tommax-osamu-nagahama-vol1/ Thu, 04 Aug 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=136047 写真家の長濱治と、現代アーティストのTOMMAXこと、真喜志勉による2人展「1972-2022 TOMMAXと長濱治 二人の沖縄とアメリカ」が沖縄にて開催された。その沖縄にて長濱治にインタビューを敢行。前編は、2人の出会いと長濱の写真キャリアについて。

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写真家の長濱治と、今は亡きアーティストのTOMMAXこと、真喜志勉(まきし・つとむ)による、沖縄日本復帰50周年を迎えた2022年5月15日から約1ヵ月間、展覧会「PLAZA HOUSE × MOON HOTELS & RESORTS presents 沖縄日本復帰50年企画 1972-2022 TOMMAXと長濱治 二人の沖繩とアメリカ」が沖縄で開催された。

本展では、日本の戦争時代を知る1941年生まれの2人が、沖縄とアメリカで経験してきたことをモノクロ写真とアート作品で表現。同じ匂いを持ち、同じ時代を生きてきた両者の生き様が交差した作品群は、どれも社会的であり、ぐるぐる渦巻く暗闇の部分を持ち合わせながらも、前向きなエネルギーを放っている。そして、展示会場では、2人がこよなく愛してきたジャズとブルースが流れていた。

今回は、展覧会の内容や2人の出会いなど、長濱治の声から前編と後編の2回に分けて探っていく。前編は、2人の出会いと長濱の写真キャリアについて。

長濱治(ながはま・おさむ)
1941年名古屋市生まれ。多摩美術大学彫刻科を卒業した後、広告制作会社に就職。写真家・立木義浩のアシスタントを経て、1966年よりフリーランスに。主に海外のロックフェスティバルやカウンターカルチャー周辺を撮影しながら、ファッション、広告、ポートレートの分野にて活躍。他にもニューヨークのバイカー集団、アメリカ南部のブルースマン、各業界の第一線で活躍する日本の男達、また長年かけて沖縄のひとびとを撮り続け続けてきた。ファッションブランド「NEIGHBORHOOD」と交流が深いことでも知られている。主な作品に『暑く長い夜の島 –長濱 治 沖縄写真集』(1972)、『HELL’S ANGELS 地獄の天使』(1981)、『猛者の雁首』(2005)、『THE TOKYO HUNDREDS 原宿の肖像』(2014)、『創造する魂 沖縄ギラギラ琉球キラキラ 100+2』(2018)、『Cotton Fields』(2020)などがある。

音楽を通じて意気投合したTOMMAX(真喜志勉)と長濱治

――まずはお2人の出会いから聞かせてください。

長濱治(以下、長濱): 真喜志と僕は、戦争が始まった年に生まれて、お互い状況は違うけれども1945年8月15日に終戦日を迎えた。そしてその後、進駐軍であるアメリカの指示で、日本が戦後を乗り切ったんだけど、僕がいた名古屋と沖縄本土は距離はありながらも、同じ社会状況を過ごした。ようはアメリカから流れ込んでくる文化は同じだった。僕らはそれを子どもでも敏感に感じながら、アメリカの文化が刷り込まれていった。

それから細かい部分はさておいて、美術大学に通っていた時に偶然に出会ったのが、真喜志。「長濱」っていう名前は、沖縄に多い名前だって教えてもらったんだよね。それがきっかけで話をするようになったら、まあ、ジャズが好きでブルースも好き。そして、落語も好きって、非常に趣味が共通していたことから友人になった。ジャズというか完璧なアメリカンミュージックを通じての友達と言うほうが的を射ているかな。美大では、彼は絵を描いていて、僕は彫刻を作っていたよ。

――ちなみに好きなジャズミュージシャンはどなたでしたか?

長濱:僕は小学生の頃に、スイングやビバップだとか、そういうところから入って、トミー・ドーシー、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、デューク・エリントン&カウント・ベイシーといったアーティストに夢中になったかな。中学に入ったら、1950年代後半のビバップ系のいわゆるモダンジャズに夢中になった。それで高校では完璧にモダンジャズ。大学では、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)やアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズなんかをサンケイホールに観に行ったりしたね。興奮しましたよ。あの頃、マイルス・デイヴィスも来たし、ジェリー・マリガン、デクスター・ゴートンとか、来日したアーティストの6割方は観に行った。そんな連中が日本に来ている時に真喜志と「行こうぜ!」ってなったんだよね。

――真喜志さんとは趣味がぴったりと合ったんですね。

長濱:当時は、ジャズがいい、落語がいいとか、そういったことを言う学生は少なかったし、誰とでも話が通じるわけでもなかったんだけど、真喜志とは一番話せた。そんな縁がありながら、彼は卒業したら沖縄に帰っていき、僕はカメラの道に入った。そして数年後の1966年に、僕はアメリカに初めて船で渡った。そして半年後に戻ってきた時に、沖縄にいた真喜志と電話で話したんだ。

1970年代に渡米をして知ったアメリカバイカー集団に衝撃を受ける

――では次は長濱さんの写真キャリアについて聞かせてください。1966年にアメリカに渡った時は、カメラマンとしてどのような時間を過ごされたのですか?

長濱:向こうに行ったら、ヒッピーだ、反戦だ! と運動が盛んな時期で、特にサンフランシスコのヘイトシュベリーとか、バークレーのあたりでは、フラワーピープルが年中、反戦デモをやっていた。ベトナム戦争まっただ中でしたからね。その中でいわゆるサイケデリックな文化というものを見たんですけど、あまり衝撃や刺激を受けなかったんですよ。なんていうのかな、一種のお祭りであって、迫真の切実さを感じないというか……。だってバークレーあたりで学校に通っている学生なんて、今でいえば富裕層のせがれや娘達で、みんないいところのボンボン。だから反戦だのっていう社会運動もさ、新しい価値観を求めている1つのムーブメントみたいなものだったんだろうけど、迫真力というか、そういったものを感じなかった。ただファッションと薬(=ドラッグ)でいろいろと表現するみたいなのはおもしろく感じたけど、僕には体の芯にギーンッ! とこなかった。

そんな時に、あれはフィルモアのウェストかな。ちょうどヘビーロックと呼ばれていた、ジェファーソン・エアプレインやカントリー・ジョー&ザ・フィッシュ、グレイトフル・デッド、ザ・フーとかが出てきた時代でもあってね。それでグレイトフル・デッドがライヴをやった日に、なんとなくカメラを持って行ったら、ものすごいバイクがあったの。すごいなと思って、近くをうろうろしていたら、バーの中からバーンッ! とすごい連中が出てきたの。それがヘルズ・エンジェルスだった。

――それが今や伝説のヘルズ・エンジェルスとの出会いだったのですね。

長濱:そう。いいとこのボンボン達がお祭り騒ぎしていたその対極にいるような奴らが、うわーっと出てきたの。その瞬間に「これは絶対に写真に撮ろう!」と思ったんだけど、その時に一緒にいた知り合いのバークレーの学生に「辞めろ。殺されるから写真なんか撮るな!」って引き戻されたから、撮れなかった。

そこから興味を持って、日本に帰ってからもいろいろと調べたんだ。当時は資料なんてないから、ヘルズ・エンジェルスを取材したハンター・S・トンプソンなんかも知らなかった。でもそんな中で当時ニューヨークの出版社に勤務していた知人に話をしたら、「ニューヨークにそういった若いバイカーで、凶暴な奴らがいるよ」って教えてもらったの。

僕は当時、エド・ファン・デア・エルスケンの『セーヌ左岸の恋(LOVE ON THE LEFT BANK)』という、自分がカメラマンになる動機を与えくれてくれた1冊の写真集があって、絶対にあれに負けない本を作りたいと思っていた。

そこで僕が対象にしたのがヘルズ・エンジェルスだった。つまりアメリカであって、そしてPOOR FIGHT(=拠りどころのない)で、ヒッピーとは違うバックのない若者の集団。そしてもう1つ肝心なのが、都会であること。ニューヨークは大都会だし、対象にぴったりな連中だったので、すぐにすっ飛んでいった。そこで見つけたのが、ノマド・ニューヨーク・エイリアンズっていうバイクの連中だったんだよね。

――後に、長濱さんの写真集にもなったバイカー集団ですね。

長濱:好きな人からしたら、伝説のね。その連中が2、3年後に、ニューヨーク・ヘルズ・エンジェルスになったの。だけどエイリアンズの時のほうが良かった。ギャング性もあったけどまだ純粋さがあって、どこか善人の部分というか、正義感とか持っていたの。貧乏人でも「ちくしょう!」っていう青年の息吹のようなものがあったのよ。だからバイクをぶっ飛ばしてけんかするような悪さはあっても、人を殺めるようなことはしなかった。言ってしまえばスマート。

僕は彼らを1969年から撮り始めて、最後に撮影したのは1979年かな。10年間ずっと撮っていたわけじゃなく、アメリカに行くチャンスがあって、ニューヨークが近ければ必ず行って撮っていた。とにかく「ノマド」って呼ばれるくらいだから拠点にいつもいるわけではなく、どこかに行っちゃうのよ。本当にノマドやっているから、かっこいいんだ。だからニューヨークの彼らの拠点に行って、そこに入って「おう、ひさしぶり」って感じで、撮っていた。そうしたら知らない間にニューヨーク・ヘルズ・エンジェルスになっていたけど、それがよかったのかは僕にはなんとも言えなかったな。だから僕の中では、彼らはノマド・エイリアンズ。

「沖縄のアメリカを見ろ!」とTOMMAXに誘われ沖縄へ

――ニューヨークでバイカーを撮りながら、沖縄にも行かれたんですよね?

長濱:そう。さっきのバイカー達の話を真喜志としていたら、「そればかりじゃない。沖縄のアメリカも見ろ!」って言われてね。そこから沖縄にも行くようになったんだけど、その頃はエンジェルスと沖縄を並行して撮っていた。それで1972年に沖縄がアメリカから返還されてからは、真喜志もニューヨークに行くわけ。だからアメリカにいた時期も同じなんですよね。それで今回の展示では、その頃の写真を出したんだ。

――そういうことなんですね。沖縄とアメリカと違う土地で撮影された写真ですが、時代背景や空気感が近く感じます。つじつまが合っていますね。

長濱:つながっているからね。沖縄で撮ったのも、ニューヨークでバイカーを撮ったのも1969年の同じ時期。沖縄で撮って、ニューヨークでも撮って、日本に帰ってくれば仕事しまくって、金ができたらまた行ってって。スポンサーなんかいないから、全部自分でやっていたよ。

――1969年頃のアメリカだった沖縄はどのような感じでしたか?

長濱:那覇空港が、今よりもすごく小さくて、飛行機を降りるとイミグレーション(入国審査をするところ)があってパスポートを出すの。完全に海外だよね。で、パスポートに記載されていた「長濱」っていう名字を見て「沖縄の人ですか?」って聞かれたりしたよ。本当に軍港だったから、飛行場の端っこには軍用機や軍用車とか、そんなもんが停まっていたよ。まだベトナムでバンバンやっていた頃だからね。

――確かに1969年はまだベトナム戦争のさなかです。その頃に、コザ市(現在の沖縄市)に足を運んで写真を撮られていたんですね。

長濱:そうだよ。兵隊ばっかりだった。撮っていたのは、兵隊やその兵隊が集まるバーに群がる女の子達に、売春宿だった。

――そうなんですね。そして、沖縄返還50周年の日でもある、5月15日に今回の個展がスタートしました。50年前の沖縄をどのような思いで見ていましたか?

長濱:どういう思いも何も、僕はずっとのっけから真喜志を通して沖縄を見てきたんだ。アメリカには自分の興味があったけど、沖縄に対しては真喜志ありき。

沖縄って昔、琉球だったんだよね。琉球がどうであったかはしっかりとは知らないけど、多少のことは知っていたし、小さな島だけど、琉球王朝は450年くらい続いていた。それが、アメリカ領になって、日本になってと。だから沖縄がアメリカから返還されたことは、大変喜ばしいけど、当時の僕は深く考えられなかった……。むしろ琉球王国のままでいいんじゃないのって思ったよ。

沖縄の人々が持つ琉球プライドを、写真で捉える

――琉球王国のままでとは?

長濱:沖縄に戻るんじゃなくて、琉球の感覚というかね。日本の体制もいいけど別の形で文化を育んだら、めちゃめちゃおもしろい国になるだろうなって。

――なるほど。真喜志さんを通じて沖縄を見ていたのかなとは感じましたけど、まさか琉球王国も見ているとは思っていませんでした。

長濱:「琉球」っていう言葉を、なんとなくずっと気にはしていて、自分が言うのもまずいかなと思いつつも、写真集でやっちゃったんだよね……。『創造する魂 沖縄ギラギラ琉球キラキラ 100+2』って。もちろん「今は琉球じゃない!」っていう人もいると思うけど、写真を撮り続けていくうちに、僕は琉球が気になっている人が多いんじゃないかなって感じたんだ。

――以前、お話を聞いた時、長く撮影されている題材が沖縄だとおっしゃられたのが印象に残っています。それが写真集『創造する魂 沖縄ギラギラ琉球キラキラ 100+2』になっていったんですね。

長濱:そう。もう一度、沖縄の前向きな若い人達の存在を残しておかないとってね。それを真喜志と話していた時に、あまりないんだけど、あいつが本当に珍しく嬉しそうにさ、「今、(沖縄に)すげえ美術館を作っている最中なんだよ!」って言ってきた。他にも「若い元気なアーティストが育っているよ」ってさ。僕はその時に100人を目指して撮りたいと思っていたので、「おい、100人集まるか?」って聞いたら、「任しとけ」って。それで撮影が始まって、2度目に沖縄に行こうとする前に、真喜志は亡くなってしまったの。

――沖縄のひとびとを撮影していて、沖縄らしさを感じたことはありますか?

長濱:共通していたことは、沖縄なんだよね。東京のほうとか、別に見ていないの。それは1960年代に初めて沖縄に来た時から感じていた。若い人の話を聞いていると、アジアを見ている。あと中国も。それで、みんなアメリカも見ている。東京のことを口にした人はいなかったかな。つまり「俺達は」っていう独立性が彼らの血の中に流れているんだと思うよ。

――真喜志さんは、長濱さんから見てどのような方でしたか?

長濱:真喜志は、見たままの人物ですよ。ようするに、琉球の血を引いているというか、おおらかで、でっかくて、色が黒くて、ええ男ですよ。それで格好良く言えば、絶対に群れないというところが僕とすごく合った。僕なんかはなよなよだから、すぐに人と話をしたくなるんだけど、彼は独特の世界を持っていたから群れなかった。そして、でっかいというのは、体が大きくて心も大きいってこと。作品は、精鋭的でかっこいいよね。音楽から与えられたインスピレーションというか、そこは僕も一緒で彼と共通しているところ。だから意気投合したんです。ジャズを通じて、ブルースを通じて。

真喜志の場合、制作をする時に広場に大きなキャンバスを何枚も立てて、みんなが見ている前で描くんだけど。そうすると知り合いのジャズマン達が集まってきて、彼らが演奏する中で描いていったんだよ。だからね、沖縄の中でも独特の場所を作っていたし、アカデミズムな世界を作り上げていたんだと思う。

カメラ1台で、新しい世界への扉を開く

――では、長濱さんがモノクロで撮影する理由はなぜなのでしょうか?

長濱:写真の基礎はモノクロだと思うし、僕は色が入ると余計な説明が多過ぎるからあまり好きではないんです。僕の中での写真というのは、子どもの頃から見ている粒子のあるモノクロ写真のイメージなんですよね。そして僕はモノクロのトーンが激しいのが好きだから。それは彫刻をやっていたせいもあるかもしれない。僕は学生の頃は彫刻をしていたから、写真の中で立体を見せてもいるよ。

――長濱さんはどうして写真を撮り続けてきたと思いますか?

長濱:そんな難しいことじゃないよ。朝起きると右側に女房がいて、それで安心する。で、左側を見るとカメラがある。今日も、この女房と、このカメラで、生きていこうと。その程度です。撮り続けるとかどうとかないの。でもカメラ1台で飯が食えるっていうのは、とても幸せだよ。そうしたら今度は写真が好きになってきた。最近、そんなことを感じた。それまでは、写真が好きだ、嫌いだとかはなかった。ただ、カメラをふっと手にした瞬間に、この重みとか、手触りとかがさ、すごく自分に合っているんだよ。こいつ(カメラ)が結局、世界を広げてくれたんだ。僕を世界のいろんな場所に連れていってくれて、あとは雑事のいろんな日常。そういった状況にいざなってくれる。だって僕、カメラ持っていなかったら、ただのジジイだもんね(笑)。ここにある自分の初期の頃の写真は、これ(NIKONのカメラ)で全部撮っているんだよ。こいつが僕を引っ張ってくれたんだから、こいつはすごいんだ。

(後編に続く)

Photography Kana Yoshioka

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