鈴木沓子, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/suzuki-toko/ Fri, 19 Jan 2024 03:11:04 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 鈴木沓子, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/suzuki-toko/ 32 32 建築家・磯崎新とヒップホップの邂逅——大分市「磯崎新と祝祭の広場」レポート https://tokion.jp/2024/01/18/report-arata-isozaki-and-festival-square-in-oita-city/ Thu, 18 Jan 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=221842 2023年12月に大分市で開催されたイベント「磯崎新と祝祭の広場」についてのレポート。

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大分駅から徒歩3分、まさに大分市一丁目一番地に位置する「お部屋ラボ 祝祭の広場」は、晩年の磯崎が発案し、完成まで尽力を注いだ市民のための”みんなの広場”である

東京には空と広場がないーー。
「東京には空がない」と綴ったのは詩人・高村光太郎だったが、
東京、ひいては「日本には広場がない」と言い「広場」の創出に尽力したのが、
一昨年逝去した建築家・磯崎新(いそざき・あらた)だった。

現在、約200以上の高層ビルが建設される「東京大改造」が着々と進んでいる東京都。渋谷の宮下公園が複合商業施設に生まれ変わり街の風景が一変したことは記憶に新しいが、東京都では今なお“100年に1度”の大規模再開発が進行中。日本橋や湾岸地区では外資系企業の誘致を狙う最先端オフィスビルの建設ラッシュに伴って街の再開発が進み、明治神宮外苑や日比谷公園など歴史ある都市公園もその対象になり、樹木の大量伐採や再開発計画に反対する地元住民が署名運動を続けるなど物議を醸している。ただこれは東京都に限った問題ではない。現在、大阪、名古屋、静岡など全国各地で、公園や広場の「稼げる公園化」が急速に進み、都市の公共圏はいま瀕死の危機に直面している。

そんな中、大分県大分市では街の一等地にある公共の広場でストリート文化の祭典が開催された。2023年8月に誕生50周年を迎えたヒップホップカルチャーを構成する4大要素であるDJ、ラップ、ブレイクダンス、グラフィティを網羅したライブパフォーマンスやトークインベントに加え、広場にはスケートボードのランプが設置、地元名物のフードトラックも出店し、市の企画とは思えない充実したラインアップに驚く。全国では規制でがんじがらめになった公園が増えているように、今、こうしたアクティヴィティが屋外でオープンに行える場所はほとんどなくなってしまった。

年の瀬が迫る12月17日に開催されたこのイベントのタイトルは「磯崎新と祝祭の広場」。つまり一昨年末に逝去した大分出身の建築家・磯崎新(1931-2022)の追悼イベントだったのだが、世界的建築家である磯崎新とヒップホップの関連性を意外に感じた人も少なくないのではないだろうか。実は、この広場の誕生に尽力したのが、晩年の磯崎新だったという。異例づくしのイベントを覗いてみた。

「反建築家」が流した涙

磯崎新は「つくばセンタービル」や大分県立大分図書館(現・アートプラザ)、米ロサンゼルス現代美術館など数多くのポストモダン建築を手掛けたが、その一方で「反建築家」との異名も持つ。そこには街中に”物理的な建造物”を超えた何かを目指した姿勢と試みが評価された背景がある。

最初に挨拶したのは生前親交があった演出家の高山明。
高山は思いがけず、この広場の設立に関わった関係者の1人として、その経緯と誕生秘話を披露した。そもそものきっかけは高山が2017年にKAAT神奈川芸術劇場で上演したワーグナー作曲のオペラ『ニュルンベルグのマイスタージンガー』をヒップホップで現代版として再解釈するという意欲的な作品『ワーグナー・プロジェクト』(※1)だったという。

(※1)『ワーグナー・プロジェクト』 ―「ニュルンベルクのマイスタージンガー」2017年10月に横浜 KAAT神奈川芸術劇場で初演後、国内外で上演。民衆による歌合戦を描いたワーグナーによる19世紀のオペラ「ニュルンベルグのマイスタージンガー」をヒップホップで現代版として再解釈。「ヒップホップの学校」と銘打ち、公開オーディションを経た「ワーグナー・クルー」の出演者とともに、劇場を舞台にライブやワークショップなどのイベントを同時多発的に展開。構成・演出は高山明(Port B)。音楽監督は荏開津広、空間構成は小林恵吾。
https://www.wagnerproject.jp/

本作は、もともと16世紀ドイツ・ニュルンベルクの歌合戦という物語を、現代のラッパー達によるラップ・バトルに置き換え、かつてヒトラーをも心酔させた“ファシズム的な集中と求心の手法”で知られるワーグナーの楽劇を、ストリートの視点から描いて返歌したまったく新しい舞台芸術だった。その構想には、1970年代の大阪万博で建築家・丹下健三が手掛け磯崎が設計した「お祭り広場」が前景にあったという。「使う人の用途によって変化する“お祭り広場”のように、中央集権的な舞台ではなく、同時多発的にいろいろなことが起きる舞台を目指した」という高山は、劇場でストリートを創出する演出を手掛け、初日には磯崎を招待してオープンインタビューを行った。この時、磯崎はヒップホップを市民の総合芸術の1つとしてとらえ、市民社会や都市文化に大きな可能性を見出した『ワーグナー・プロジェクト』の斬新な試みをおもしろがり、理解と共感を示していた。

磯崎は、当時既に大分市内で広場を設立するプロジェクトを発案しており、ただ自分自身で広場を設計するのではなく、建築家を広く公募する予定だったが、どのようなコンペにするかを思案していたところだった。磯崎は『ワーグナー・プロジェクト』のラップ・バトルに着想を得たことで、市民の前でフリースタイルで企画のプレゼンをしてもらい、市民が審査に参加できる行程をデザインしていくことになる。

「磯崎さんはその後4日間も劇場に連日通って舞台を観てくださって、現場のスタッフはびっくりしていましたね。しかも楽屋で一緒になった羽藤英二さんと『大分、Yo!』とラップをして遊んでいました。この時に磯崎さんとラップしていた都市工学者である羽藤英二さん、そして(建築や都市設計において)門外漢の僕も、この後『祝祭の広場』建築コンペに審査員として関わることになったんです」。

かくして『ニュルンベルグのマイスタージンガー』はヒップホップのラップバトルとして現代版にアップデートされた『ワーグナー・プロジェクト』を経由し、1970年代に「お祭り広場」を手掛けた磯崎の共鳴によって、コンペという形で歌合戦のエッセンスが継承され、大分の街に「広場」として変貌して再生を果たすことになる。コンペ後の記者会見に出席した磯崎は、嬉しさで感極まっていたという。

「磯崎さんは『日本で初めて正真正銘の広場が誕生したんだ』といたく感動して、涙を流していました。こうした場所は条例文では『公園』になってしまうことが多い中、初めて『広場』して登録されたんだと。僕はその姿を見て、これまで世界的な仕事をしてきた建築家が、これだけピュアに”市民の広場”について考えてきたのか、と感動しました」。

都市における「広場」の重要性

ポストモダン建築の旗手として国際的に活動し「建築界のノーベル賞」とも言われるプリツカー賞を受賞した磯崎。情報都市「コンピューター・エイディッド・シティ」や、地球温暖化や環境問題をテーマにした「都市ソラリス」など、常に時代の先を見つめた都市モデルを発表してきた。その一方で、街における「広場」の重要性を繰り返し訴えてきた。生前「日本には公園はあっても広場はなかった。かつても、それから現在も。だけど広場の需要はある」と発言し「公共の手で広場に近いものを造っていけば、それを広場のように市民は使ってくれるはず。このことについて頭を絞るのがこれから一番重要な都市づくりのポイントではないだろうか」と話している。「公園」と「広場」の違いはなんだろうか。条例上では、土地面積の違いや、ある目的のもと人為的に造られた経緯などが考えられるが、磯崎が見ていた景色は、おそらくそうした違いの先にあるのだろう。

続いて登壇したラッパーのダースレイダーは「建築とは明日の廃墟である」という磯崎の言葉が今も頭に残っているという。「『何を作っても完成した後は廃墟になる。でもその瞬間にワクワクするだろう? それが大事なんだ』と言っていた磯崎さんの思想は、まさにヒップホップと共通していると思いました。磯崎さんは生涯、見知らぬ他者や未知の可能性やワクワクの創出に向けて、常に自分自身を開き続けていた。こうやって広場でリズムを鳴らして踊って、美味しい食べものを出して、人が集まってくるとワクワクが起きる可能性が増えてくる。1秒後に何かとんでもないことが起こるかもしれない。そうした瞬間を日常生活の中でどうやって共有するか、これが磯崎さんがモノを作ることに対するある種の目標だったと思うし、その瞬間を連続させていく、人生というのはそういうものなんじゃないかと教えてもらった気がする」とヒップホップに通じる磯崎哲学を振り返った。

伝説のディスコ「パラディアム」への想い

実際に磯崎がその作品を通じてストリートカルチャーの歴史と接点を持ったのは、1985年のこと。DJでライターの荏開津広はこの日のトークイベントで、磯崎がニューヨークの伝説的なクラブ「パラディアム」の設計を担当したことの重要性について語った。「パラディアム」は古い音楽ホールを改装したクラブで、磯崎が設計し、ジャン=ミシェル・バスキアやキース・ヘリングらのミューラルが設置されたことで知られる。特にヘリングは、この場所で自ら作品の展示やイベントを開催、重要なアート活動の拠点になっていた。荏開津はこの「パラディアム」の設計に、ヒップホップに通じる<磯崎建築>の特異性があることを指摘した。

「磯崎先生は、当時『パラディアム』の設計を引き受けることは『かなり危険な賭けだった』と書かれています。ディスコのように消費的なエンターテインメントを目的とする商業建築は“周縁に位置付けられているもの”で、手を出す類いのものではないと。しかもこれが磯崎先生にとってニューヨークでの最初のデビュー作品になる機会でもありました。そのリスクを理解しつつ、それでも『パラディアム』の建築を手掛けた」と当時の経緯と背景を解説する。

「でも磯崎先生はそこに興味を持ったと仰っています。それは『もはや建築とは呼びにくい』とも書かれていますが、でも、その後にはこう続きます。『私にとってはそれこそが建築だけど』と。『パラディアム』はその後1990年代後半まで続き、自分が訪れた時もNASやパフ・ダディといったストリートのセレブ達がラウンジにおり、メイン・フロアはファンクマスター・フレックスが満場の観客を沸かせていました。磯崎先生の『パラディアム』がストリートに愛されていたことは確実でしょう。同時に、世間に疎んじられていたディスコという場所に『聖なるものの示顕がある』とまで仰っていて、さらに建築家としてのご自分のキャリアのマイナスになるかもしれないリスクを覚悟の上で『パラディアム』を設計した経緯を思うと、やはりストリートを愛してくれた人だったのだと自分は考えています」。

『反建築家』のルーツを育んだ土壌

ハイカルチャーのみならず、市民の生活やポップカルチャーにも同等に目を向けていた磯崎。その気質とルーツは、故郷である大分の土壌で培われたと指摘するのは大分市美術館の菅章館長だ。「磯崎さんは高校時代にデッサンを学んだ画材店のアトリエで、絵画サークルの仲間と共に前衛美術グループ『新世紀群』を結成しています。磯崎さんは当時まだ学生でしたが、リーダー的な存在として活躍し、グループ名の発案者でもありました。過激なマニフェストや前衛的な作風で知られるこのグループは、野外展を行なうなど、大分でも注目されていました。その後、1960年に東京で結成した反芸術的前衛美術集団『ネオ・ダダイズムオルガナイザーズ(ネオ・ダダ)』も、主なメンバーは吉村益信、赤瀬川原平、風倉匠など、大分の『新世紀群』出身者が中心でした。活動拠点は吉村のアトリエである新宿ホワイトハウスで、これも磯崎さんの設計です。建築家としての磯崎さんが唱えた『反建築』という廃墟の思想は、『新世紀群』や『ネオ・ダダ』のラディカルな破壊の精神に、そのルーツがあるといえるでしょう」。

そのラディカルな姿勢や作品を支えたのも、大分の市民だった。
今回の追悼イベントが開催された広場は、大分駅から徒歩3分という街の中心部に位置する。もともとは商業施設が建っていた場所で、ビルが閉鎖した後、市民のための広場を作るため、2017年に大分市が土地を買取り、磯崎は総合アドバイザー兼選考委員会の特別選考委員に就任。「公園ではなく広場であることが重要」というコンセプトのもとコンペを開催し、2019年9月、可動式屋根が付いたステージや芝生広場、移動式植栽コンテナ、駐輪場やシェアサイクルの貸し出しポートを備える約4,310平方メートルの広場が完成した。「祝祭の広場」を命名した名付け親も磯崎だった。

街の中心部に、これほど広々した市民の広場がある光景はめずらしい。当日遊びに来ていた市役所や関係者の方々に話を聞いてみると、大分市役所は前例のないプロジェクトに官民一丸となって取り組んで実現にこぎつけたようだ。当時まちなみ企画課の担当職員としてプロジェクトの立ち上げに関わった武安高志は「前代未聞のプロジェクトでした。例えば、地元住民への説明会や選考委員会の会議も市役所の会議室で行うのが常ですが、磯崎さんはそうじゃないんです。選考委員会では、机と椅子を取っ払って、市役所の職員も磯崎さんも地元の人達も、車座になって何時間も話し合いました」と振り返る。さまざまな立場の人を巻き込んだプロジェクトの過程そのものも「広場」の重要な一部だったのだろう。

「私の作品は、私の作品であって私の作品ではない」

今回の追悼イベントのコーディネーターを務めたナリトライダーは、広場のコンセプトを伝えることを念頭にプログラムを検討したという。

「まずは若い人達に、公共の広場というものは自由な場所で、誰でも何でもできる場所なんだよということを知ってもらうことが大事だと思いました。ゲツマニぱん工場のJohnなど若いクリエーターに声をかけたり、ブレイクダンスだけでなく、ヒップホップダンスのパフォーマンスも取り入れました。大切なのは続けていくこと。この後、運営側の僕達がいなくなっても、この広場や磯崎さんの考えが、次の世代に継承できたらと思っています」。

また高山が「ヒップホップの人達は街の使い方が上手い」と言っていた言葉を受けて、都市の見方や使い方に長けたスケートボードも取り入れることに。「近年スケボーが文化ではなくスポーツとして消費される状況に疑問を持っていました。ただスケートボードを入れると、どうしても当日ケガや事故のリスクが上がってしまいます。だけど広場はみんなのものだと感じられる場所になることが重要だと思っていたので、会場には常に余白をつくって、人と人との交流が生まれるようなレイアウトを工夫しました。大分スケートボード協会の相原フランシスコ良和会長に協力してもらって、安全面には最大限気を遣いつつ、動線を何度も再考しました」。

ナリトライダーに「今回の追悼イベントを振り返って、嬉しかったことはなんですか?」と尋ねてみると「ぜひこれを見てください」とInstagramの投稿動画を見せてくれた。「この動画を見たらイベントをやってよかったなって、すごく嬉しくなったんですよ」。

@spin_cats_kou / kousei提供

「このベンチは広場を訪れた人達が座れるように設置していたもの。広場にはランプも設置していたので、多くのスケーターはその場所で滑っていましたが、彼はベンチを障害物に見立てて、それを乗り越える形で、新しい技を生み出している。滑走中に体だけジャンプして障害物を飛び越えて着地するヒッピージャンプという技がありますが、その応用でベンチを駆け上がるという新しいスタイルですね。スケボーは技術の上手さだけではなく、アティチュードが重要。彼は大分市の若いスケーターなんですけど、この動画を見て、街を自分達のものとして乗りこなしていく、次世代のエネルギーや可能性を感じました」。

最近では全国各地の公園は、規制でがんじがらめになるか、もしくは商業施設化の二極化が進んでいる。そんな中、この「祝祭の広場」では、火を使った飲食や音楽、ダンス、トーク、グラフィティやスケボーを楽しむ人達の姿が見られた。あたりまえの風景のように見えるが、実は今こうした広場を日本で見ることはとても難しくなってしまった。でも市民の中で、クリエイティヴィティやコミュニティがあれば都市における「みんなの場所」が生き残る可能性はまだ残っているのだろう。

生前の磯崎から「君は上手い。バスキアみたいだ」と賛辞を送られたグラフィティライターのSNIPE1は追悼ミューラルを制作して広場の舞台に設置したほか、市民にタギング講座を行った。「今回は一日限りでしたが、本当に感慨深い日になったと思ってます。“磯崎新イズム”はグラフィティという媒体で自分が継続する!と決心した日でもあります」。

この広場のプロジェクトの立ち上げに関わった元市役所職員の長野保幸は、この日の追悼イベントの現場でこう話してくれた。

「かつて大分市役所の隣には磯崎さんの初期の作品である旧大分県医師会館があったのですが、取り壊されてしまったんです。当時、私は建物の保存運動にも関わりましたが、結局保存はできなかった。けれど、その時に磯崎さんは『私の作品は、私の作品であって私の作品ではない』というようなことを仰っていたんです。あの建物は解体されてしまいましたけど、その一方で、いまこの広場を通じて磯崎さんの思い描いていた街が実現しようとしている。不思議で、感慨深い気持ちです」。

(文中敬称略)

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没後25年のダイアナ元妃が現代の私達に問いかけるもの 映画『スペンサー ダイアナの決意』『プリンセス・ダイアナ』から考える https://tokion.jp/2022/10/28/movie-princess-diana/ Fri, 28 Oct 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=152866 「世紀のおとぎ話婚」から衝撃の事故死ーー。新しい”ダイアナ映画”に見る
 現代社会の諸問題とは。
ライター・翻訳家の鈴木沓子によるコラム。

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『スペンサー ダイアナの決意』Photography Pablo Larrain

※本文には、映画『スペンサー ダイアナの決意』『プリンセス・ダイアナ』の内容に関する記述が含まれますので、ご注意ください。

衝撃的な事故死から25年経った今年、これまでになかった新しい“ダイアナ映画”が公開された。オスカー候補作にもなった映画『スペンサー ダイアナの決意』だ。伝記映画ではなく、いわゆる陰謀論のダークファンタジーでもない。これまで公開された数多くの“ダイアナ映画”と一線を画しているのは、ダイアナ元妃の悲劇を、王室内の問題としてではなく、現代社会を象徴する私達の問題として斬新に踏み込んだ再解釈にある。そこにはダイアナの神格化によって事件を風化させない、という明確な意志が垣間見える。

まず主演のダイアナ役に抜擢されたのが、“ハリウッドの反逆児”とも呼ばれるクリステン・スチュワートであることが、異例の事態だ。クリステン自身も「最初にこの映画の話がきた時は、私が演じるなんてクレイジーだと思った(笑)(※1)」とまるで他人事のように振り返っているが、彼女はクイーンズイングリッシュとダイアナの癖や立ち居振る舞いをほぼ完璧に習得した上で、全く新しいダイアナ像を演じて見せている。それはこれまで幾度となく再生された「悲劇のヒロイン」としてのダイアナではない。出口の見えない逆境で痛々しいほど打ちのめされても、どん底から立ち上がってみせる傷だらけの人間の姿だ。そこには理不尽な制度への反発や憤り、自由と愛情への深い渇望がある。

※1.「嘘を装い続けることが耐えられなかったのでは」イギリス王室の歴史を変えた…ダイアナ妃の“想像を絶する心境”(2022.10.14)
https://bunshun.jp/articles/-/58074

その寡黙な闘いを鮮明に際立たせるのは、ゴシック調の重々しい映像美と、もはやサイコホラーの域とも言える生々しい心理描写にある。精神が衰弱し崩壊寸前に追い込まれたダイアナの妄想と現実が交錯するシーン等は創作のため、映画の冒頭は「実話の悲劇をもとにした寓話」という但し書きのテロップから始まる。とはいえ、豪華絢爛な王室内部は忠実に再現されているし、英国王室が現在も守り続けているさまざまな謎ルール、もとい伝統的な儀式の数々やエピソードのディティールはほぼ実話にそって構成されている。儀式としてのキジ狩り、愛人の公認、クリスマスの独特なしきたり——。ダイアナはなんとか無難にこなそうと努めるものの、いずれも従うことができずに苦悩する。夫のチャールズに訴えてみるが、夫婦のすれ違いは解消できず平行線をたどり、次第にもつれていく。その問題は夫婦の個人的な問題という範疇を超えて、王室制度と国家の仕組みに直結するからだ。

根強く残る家父長制度

とはいえ、映画『スペンサー』は、ダイアナの悲劇を王室内部の問題に矮小化させない。
映画の終章で、ダイアナが自分の旧姓を名乗るカットは、彼女がなんとか手にした小さな希望の瞬間として輝いて見える。本作のタイトルはダイアナの旧姓だったのだと思い出すこの瞬間、ダイアナは現代の女性があたり前に持つ権利——自分の姓をどう名乗るかを選択する権利すら奪われていたことを突き付けられるくだりになっているのだが、そもそも「日本ではまだ夫婦別姓が法的に認められていない」という本国特有の現実に引き戻される。ただ、実際は夫婦別姓が合憲の国でも、結婚時に夫の姓に改姓する女性は多いというレポートもある。つまり21世紀になっても、未だに家父長制度が亡霊のように根強く残っていて、「女性は結婚と同時に夫の家に入って所有物の一部になるもの」という社会の意識はそれほど変わっていないという事実にはからずとも直面する。そこで、私達は四半世紀という時を経て、改めてダイアナと出会い直すのだ。

劇中でチャールズがダイアナを説き伏せる印象的なシーンがある。
「王子にキジ狩りをさせないでほしい」と懇願するダイアナに対してチャールズは「僕もはじめは狩りは嫌いだった」と告白するが、すぐに「国家のために、国民が我々に望む姿を見せなければならない。それが王室だ」と切り返す。そして「君も僕も父も、2人の自分が必要だ。本来の自分と写真に撮られる自分、2人の自分が必要なんだ」と説く。国民が求める「王室のあるべき姿」を体現するため、たとえ形骸化した儀式やルールでも、歴史ある伝統は守らなければならないと主張するチャールズ。儀式だとしても、動物を無為に殺す狩りは間違っていると言わんばかりに詰め寄るダイアナ。

この議論に追い打ちをかけるのは、ダイアナの監視役として登場するグレゴリー少佐からの警告である。彼は英国陸軍の現役時代に仲間が目の前で撃ち殺された体験談を話して聞かせ、「兵士達が王権に忠誠を誓って命を懸けて戦ってきた歴史」をさとす。まるで、「だからこそ、王室はあるべき姿を体現する義務があるのだ」というかのように。しかしダイアナは「私は誰も死なせたくないの」と諦めない。それはダイアナの2人の息子である王子の教育や将来の問題でもあるからだ。ここで引き下がったら、かろうじて残存する自分自身が死んでなくなってしまう。そんな切迫感すら漂っている。

無自覚に大衆に消費され続けたダイアナ

ダイアナの闘いはあきらかに無謀だ。王室内では「ルーン(変人)」と囁かれて次第に孤立を深め、メディアの誹謗中傷記事も増えていく。今でこそ「人々の心のプリンセス」と呼ばれているが、当時のダイアナといえば、チャールズとの泥沼離婚劇で、常にタブロイド紙の一面を賑わせる“スキャンダルの女王“でもあった。そこにはあきらかに「痛いセレブ」と冷笑する風潮があったし、ミソジニーや偏見、暴力性が横行していた。それでも劇中でも描かれていたように、さまざまな立場の人が、彼女を陰ながら応援していたのは、その無謀でコスパの悪い生き方に、ある種の強さや希望が見えていたからなのかもしれない。

実際に1980〜90年代にかけて、ダイアナの人気はハリウッドスターと並ぶほどの勢いで、間違いなく世界共通のイコンだった。その人気はブロンドと青い目を持つ美しい容姿だけでなく、それまでの英国王室にはなかった気さくであたたかい市民とのふれあいにあった。それはサッチャー政権によって新自由主義が台頭して殺伐としていた時代にはある種の救いでもあった。さらに離婚後のダイアナは、その知名度や人気を、社会活動のために自覚的に活用していくしたたかさを持っていく。エイズが不治の病と恐れられていた1980年代には専門病棟を慰問して患者と握手して語り合い、地雷除去キャンペーンのためにアンゴラやボスニアの現地を訪問して話題を集めた。今では俳優やミュージシャンによる慈善活動は当たり前になったが、ダイアナは間違いなく、その先駆けだったと言っていい。しかしその人気と知名度と比例して、マスコミの報道は暴走し、時には電話を盗聴されたり、更衣室を盗撮されるまでに至ったが、それらは「有名税」という言葉を盾に、無自覚に大衆に消費され続けた。

そして1997年8月31日、ダイアナと婚約者を撮影しようと執拗に追跡したパパラッチが引き起こした交通事故により、36歳という若さでこの世を去った。翌日からバッキンガム宮殿は国民の献花で文字通り埋め尽くされた。皮肉にも、ダイアナがこの世を去った後、国民はその損失と存在の大きさに気づいたのだ。

誰でも有名人になることが可能な時代の問題

これを機にダイアナに興味を持った人も、同時代を生きてきたという人も、ぜひドキュメンタリー映画『プリンセス・ダイアナ』もあわせて観てほしい。本作はその人生を時系列で振り返るという王道の構成なので、その激動の人生をおさらいしやすいだけでなく、今改めて見ると現代社会と妙にシンクロしていることがわかるはずだ。そして、問題の多くは未解決のまま残されていることも。本作の映像はすべて過去にダイアナが出演したテレビ番組の膨大なアーカイブから選び抜き、1本の映画に編み直すという異色の手法で制作されており、それ自体がメディア批評というメタ構成になっている。つまり監督は独自の撮影や取材は一切行っていないが、その手つきが見事な「映画監督の仕事」だとサンダンス映画祭で話題を呼んだ。監督が特に注目したのは「ボディランゲージ(※2)」だという。

※2.映画『プリンセス・ダイアナ』劇場パンフレット エド・パーキンズ監督インタビュー

英国王室には感情を露わにしない美学があり、ロイヤルファミリーには顔や声の表情はもちろん、身体のすみずみに感情を抑制するマナーが叩き込まれている。結婚したばかりのダイアナは、そのしきたりに倣って「表向きの顔」でチャールズとインタビューを受けているシーンがあるが、ふとした目の動きや言葉の余白に、2人のすれ違いやほころびがすでにはっきりと露呈されている。もちろんその後の展開を知っている今だからこそわかる、ごく微細な違和感にすぎない。映像はたやすく嘘をつくことができるメディアでもあるが、カメラは目の前で起きている現象を余すことなく記録することができる兵器なのだと改めて驚嘆させられる。そこに浮かび上がるのは、英国王室という物語の登場人物であるロイヤルファミリーとその舞台の観客である大衆、そこに抜擢された新人ダイアナの登場という構図である。彼女は熱狂的に迎えられたが、プリンセス役を脚本通りに演じ切ることができず、次第に孤立して心身を病み、「王室劇場」を降板し、新しい道を模索して自分自身を取り戻していく。その経緯をテレビはどう映してきたのか、大衆はどのように反応して、何が変わり、何が変わらなかったのか、そんな複合的なまなざしがある。

エド・パーキンズ監督は、映画の構想は5、6年前からあったものの、「当時はこれ以上ダイアナ映画を作る必要があるのかという懸念や課題がありました(※3)」と吐露している。「ダイアナのストーリーの中で見たテーマの多くが、現代に反映されているように感じられ、このアイデアを再び掘り下げるには興味深い時期だと感じたのです」と話しているように、有名人と大衆はより接近して緊張関係を孕んでいるし、インターネットとSNSの普及によって、誰でも有名人になることが可能になった。しかしそれは「本来の自分と写真に撮られる自分」という構造から逃れられず、誰でも炎上によって叩きのめされたり、一瞬にして消費される時代でもある。ダイアナは最先端のファッションだけでなく、現代に生きる私達の問題や苦悩を先取りしていたインフルエンサーでもあったのだ。

※3: キネマ旬報(2022年10月上旬号)映画『プリンセス・ダイアナ』エド・パーキンズ監督インタビュー,  P30

『スペンサー ダイアナの決意』

■『スペンサー ダイアナの決意』
1991年のクリスマス。ダイアナ妃とチャールズ皇太子の夫婦関係はもう既に冷え切っていた。不倫や離婚の噂が飛び交う中、クリスマスを祝う王族が集まったエリザベス女王の私邸サンドリンガム・ハウス。ダイアナ以外の誰もが平穏を取り繕い、何事もなかったかのように過ごしている。息子達とのひと時を除いて、ダイアナが自分らしくいられる時間はどこにもなかった。ディナーも、教会での礼拝も、常に誰かに見られている。彼女の精神はすでに限界に達していた。追い詰められたダイアナは、生まれ育った故郷サンドリンガムで、今後の人生を決める一大決心をする――。
全国公開中
出演:クリステン・スチュワート、ジャック・ファーシング、ティモシー・スポー ル、サリー・ホーキンス、ショーン・ハリス
監督:パブロ・ラライン
配給: STAR CHANNEL MOVIES 
https://spencer-movie.com/#modal
©︎2021 KOMPLIZEN SPENCER GmbH & SPENCER PRODUCTIONS LIMITED

『プリンセス・ダイアナ』

■『プリンセス・ダイアナ』
「ダイアナ元皇太子妃の半生には、愛、悲劇、裏切り、復讐──そのすべてが詰まっている。まさに、現代を象徴する物語だ」と、アカデミー賞ノミネート歴を誇るエド・パーキンズ監督は語る。そのダイアナのドキュメンタリー映画を〈なぜ、今〉、製作する必要があったのか? それは、彼女の死が私たちに突きつけた有名人と一般大衆の関係、そしてその両者をつなぐメディアの問題が、SNSの発展によって、ますますエキセントリックになったからだ。ダイアナの生きた軌跡をありのままに振り返ることが、 そんな現在の社会をよりよくするヒントになると考えたパーキンズ監督は、 ナレーションやテロップによる解説や分析を加えることなく、当時の膨大な資料とアーカイブから厳選したフッテージだけで本作を作り上げた。
全国公開中
監督:エド・パーキンズ
配給:STAR CHANNEL MOVIES
https://diana-movie.com
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