青木正一 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/青木正一/ Mon, 31 Jan 2022 14:00:25 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 青木正一 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/青木正一/ 32 32 原宿ファッションは復活するのか 「STREET」「FRUiTS」「TUNE」の青木正一インタビュー後編 https://tokion.jp/2022/01/24/shoichi-aoki-part2/ Mon, 24 Jan 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=90819 1990年代から東京のストリートを見続けてきた雑誌「STREET」「FRUiTS」「TUNE」の青木正一インタビュー後編。2000年代以降の東京のストリートについて。

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1990年代から東京のストリートを見続けてきた「FRUiTS」の編集長・青木正一。今回、1990年半ばから2010年代、そして今へとつながるストリートファッションの変遷を青木に聞いた。インタビュー前編では、「FRUiTS」が創刊された1997年頃から99年頃までの話を中心に聞いたが、後編では2000年代から今につながる話を語ってもらった。

――(前編からの続きで)1990年代後半に裏原ブームが起こり、「FRUiTS」が主に女の子のスナップを掲載するようになりました。そんな中で2004年に「TUNE」が創刊されます。

青木正一(以下、青木):裏原系と呼ばれることになるファッションが始まって10年くらい経った2003年頃に、新しい男子のファッションが出てきました。僕の印象では原宿の遊歩道にあるセレクトショップの「CANNABIS」がブレイクのきっかけだったのかなと。そこのスタッフ達が変な格好をし始めたんですよね。今でも強く印象に残っているのが、店の前の遊歩道でファッションショーをやったんですよ。そこで提案されていたファッションが良かったんですよね、デタラメな感じで。今見たらどういう印象になるのかわからないですが。そのショーに集まっていた人達のファッションもおもしろかった。

裏原系の脳になっていた当時の子達からはダサいとか変だとか思われていて、うちのスタッフもどうなんですかねっていうスタンスが主でした。その当時スタッフにシトウレイさんがいて、彼女は「CANNABIS」のスタッフと仲が良かったので、肯定的に推していて。僕もおもしろいと思ったので、当時は「FRUiTS」で女子ばかり撮っていたスタッフに、こういうファッションの男子も撮影するように指示をして。それが「TUNE」になったんです。

今でも謎なんですが、彼らのコーディネートが最初からかなり熟練されていたんですよ。ファッションってそんなに簡単に熟練感は出ないんですけど、もう何年もこういうファッションをしていますっていう完成度で。それまでの数年間は男子には裏原系ファッションしか存在していなかったはずなんですけど。

――女性は裏原のブームにすぐには引っ張られなかったんですね。

青木:3年くらいは引っ張られなくて、男女のファッションの方向性の違いが大きかった。そういう意味で「カップル」ができにくかったように思います。2000年に雑誌「mini」が出た頃から女の子も裏原系っぽい格好になってきて、集まる場所も原宿から代官山に移っていった。ただ、僕が見てもよくわからないファッションだったので、「FRUiTS」は僕ではなくスタッフが撮影する雑誌になっていったんです。

――その時期、個人的に興味があったものは?

青木:何にも興味がなかったですね(笑)。停滞期です。

――その時期は何年くらい続きました?

青木:5年くらい続きました。スタッフ撮影になってからも、媒体としての「FRUiTS」の調子はなかなか良かったんですよ。いま見返すと、原宿で一番おしゃれだった人達も代官山系に移行していったので、スタイリングのクオリティーはめちゃくちゃ高くて、洗練されていました。インポートのアイテムが中心だったり、代官山の「grapevine by k3」のようなお店やスタイリストの誰々がプロデュースのお店とか。当時、ロンドンのファッションも同じように洗練されていっていたので、そこからの影響もあったのかもしれません。ロッタ(・ヴォルコヴァ)がロンドンの路上で撮られて「STREET」に載り始めた頃じゃないかな。

――当時がある種のスタイルの移行期だとすると、今のファッションも洗練を突き破ろうとしているまさにそのタイミングなのかなという気がします。

青木:そうですよね。だからこれからどうなるのかを楽しみにしていて、僕も何かしたいとは思っているんですよ。今も「ファッション命」みたいな人はいるんですが、提供する側に元気がないし、10代の子達は何を着ていいのかわからないっていう感じなのかなって。DCブームが終わった時の原宿と空気感が似ていて。今後のコロナの状況次第です。

2000年代後半に新しいファッションの潮流が出てきた

――話を戻すと、2000年代に入ってファッションが洗練されると同時に落ち着いてきて、その後はどういった動きがありましたか?

青木:みんな原宿ファッションが戻ってこないかなと期待していたところで、2004年にセレクトショップの「Faline(ファリーン)」ができて、そこのスタッフの派手なファッションや色使いが変化のきっかけになったかもしれない。それまで原宿で1人だけ派手なファッションでつっぱっていたナカオちゃんとか。1人とか1つのお店が原宿ファッションの方向を変える起点になり得る。それから2010年頃にはきゃりー(ぱみゅぱみゅ)ちゃんが出てきたり。とてもゆっくりと原宿ファッションが戻ってきました。

――きゃりーぱみゅぱみゅが出てきた時のことは自分も鮮明に覚えています。当時、まわりでも「理解できない!」という人が多かったんですよね。

青木:代官山中心のファッションをつまらないと思っていた子達が、アンバランスなファッションをやりだした。原宿ファッションの復権的な思いがあったんじゃないかな、若い子達にも。瀬戸(あゆみ)ちゃんが最初に「FRUiTS」に載ったのもその頃で、いきなり表紙にしたんですけど。まだあどけない印象でしたが、着ているアイテムの方向性がバラバラで、一見間違っちゃったのかなみたいな。でもこれわざとやっているのかもと思って、「代官山的な洗練されたファッションの再構築」みたいな。僕の勝手な解釈かもしれないけど、もし意識してやっているならちゃんと拾い上げてあげるのが「FRUiTS」の役割なので。その後の瀬戸ちゃんの活躍を見ると、やはり本物だったなと思ってるんですけど。本人はどう思ってるのはわからないですが、僕は良い仕事したなと思っていて。

ただ、そこから原宿のファッションは爆発することなく、ファストファッションの時代に入っていってしまいました。

――ああ……。

青木:その時期、原宿ファッションは、ファストファッションが人気となる中でも、ショップスタッフ達がアイコン的な存在になってファッションの中心になっていました。代官山系の時の影響で「ファッションを洗練させる」という変な癖がついちゃって、そのアイコン的なショップスタッフのファッションのレベルがどんどん高度になっていって、新しくファッションを始める子達には太刀打ちできないようなレベルになっていました。まあ、しょうがないんですけど。

――既存の人達のスキルがどんどん上がっていて、若い子達が追いつけない。

青木:新しくファッションを始める子達にとっては障壁が高いですよね。

――なるほど(笑)。ファッションは大きなムーブメントとそれに対する反動の繰り返しだと思っていたんですが、すべてがミルフィーユ状に折り重なっているんですね。それぞれを切り離して語ることはできない。

青木:「歴史は繰り返す」っていうんですけど、日本のファッションの歴史はそれほど長くないので、全部が一巡目なんですよね。

今は時代を変える天才待ち

――青木さんは、個人的にそのファッションに興味はなくても観測はしておきたいというタイプなんですね。そこはやはりジャーナリスト的です。

青木:僕は好きなファッションのレンジが広いんですよね。ジャンルで見ないということもあると思います。今までのスタッフとかを見てると、意外とみんな理解できるファッションの範囲が狭い。

コーディネートが好きなので、「全身同じブランドで揃える」みたいなもの以外は好きです。でも全身「マルタン マルジェラ」は大丈夫かな。それには理由があるんですが。そういう意味で、ゴスロリもあまり好きじゃなかった。「FRUiTS」にそういうイメージもあるのか、最近よくゴスロリの写真の問い合わせをいただくんですが、実際にゴスロリのファッションを掲載したのはブームの最初の頃に少ししかない。あれは不思議なブームでしたね。ゴスロリとロリータは違いますからね、念のため。

――コスプレっぽいものはファッションとかけ離れてしまうから好みじゃないんでしょうね。

青木:コスプレはファッションじゃないですよね。日常とは分離されているものじゃないですか。でもそれを原宿に持ち込む人もいて、原宿はファッションの許容度が大きい街なので、そこまで受け入れますけど。それをストリートファッションとして撮影しても意味が変わってきちゃうので避けます。デコラブームの時は、そのピークのファッションだけを切り取るとコスプレとの差がわからなくなるほどに派手になっていましたけど、それまでのストーリーがあってああいう進化をしていて、本人達にはちゃんとストリートファッションだったんですよ。

――とはいえ、全身「オフホワイト」は大丈夫?(笑) しつこくて申し訳ないんですが。

青木:まあコスプレではないのと(笑)。全身「オフホワイト」にできる日本人はマインド的にも金銭的にも滅多にいないでしょ。ヴァージル(・アブロー)自身も全身「オフホワイト」を想定していたわけではないと思うんですが。彼の言うストリートファッションってコーディネートを楽しむということだと思っているので、そのキーアイテムとしての役割のブランドということじゃないかな。でもそれを全身「オフホワイト」で着る中国人は、マインド的にも金銭的にもカワイイと思いますよ。日本のバブルの頃の全身「アルマーニ」のサラリーマンよりも全然センスいいと思います。

それと、「ギャルソン」も、「マルタン マルジェラ」もデビューの頃はファッション関係者、特にメディアや評論家からは同じような非難を浴びていたことを忘れてはいけません。

――ロゴカルチャーや「ヴェトモン」がTシャツをあり得ない価格で売ることに対して、ファッション業界の中では否定的に捉えられることも少なくありません。

青木:そうなんですか。DHLのTシャツをそのままパクったデザインで10万円くらいで売ったのは、シャレだと思いますよ。問い、というか。現代アート文脈ではシミュレーショニズムそのものだし。ファストファッションによる価格破壊に対するアンチテーゼかもしれないし。その問いに対して、オーディエンスが答えた。嫌なら買わなきゃいいだけですから。ヴァージルもですが、彼らは天才なので、単純に解釈してはいけないと思います。後々後悔しますよ(笑)。大谷選手の二刀流を批判していた野球人みたいに。

ロゴカルチャーはしょうがない。そういう欲求が人々にあるので。「ラコステ」のワニの刺しゅうを中学の時に体験した身としては何も言えない。何言ってるかわかんないでしょうけど(笑)。魔力があるんですよ。それとどう対峙するかというのはデザイナーにとっての大きな課題だとは思います。その問いがDHLのTシャツだったのかもしれない。

――ブランドとオーディエンスは共犯関係にあったんですね。

青木:「ヴェトモン」がパリコレでデビューした時、最初から熱狂的に支持されていて、次のシーズンでは着ている人がたくさんいました。オーディエンスからしてみれば「待ってました!」っていう反応でした。ちょうど(ジョン・)ガリアーノが「マルタン マルジェラ」を継いで「メゾン マルジェラ」として発表した時で、それまでの「マルジェラ」とはがらっと異なるコレクションを発表して、既存のファンからは多くの反発を生んでいて。マルタン・マルジェラが辞めてから、ガリアーノまでの間、チームマルジェラのチーフだったデムナ(・ヴァザリア)が新しいブランドをスタートして、マルジェラのビッグシルエットを継承したデザインで、というストーリーが支持されたと勝手に解釈しています。

――「FRUiTS」が休刊になった際(2017年)、その理由として「原宿におしゃれな人が集まらなくなった」とお話しされていましたが、その発言から日本のファッション自体が息絶えつつあるような印象も受けてしまいました。ここから上がっていく予感はありますか?

青木:みんなもう忘れていると思いますが、あの頃はファストファッションによってファッションがガタガタになっていて、僕もインタビューで、「ファッションは終わってしまうんでしょうか?」って聞かれることが何回かありました。本当に終わってしまうかもねって思ってました。原宿の女子のファッション能力を信じていましたので、なんとかなるとは思っていましたが。今またコロナでファッションが死んでしまうかどうかの分岐点ですよね。原宿の女子のファッション能力と欲望を信じていますが。

誤解がないように言っておきますが、僕の言うファストファッションに「ユニクロ」は入っていません。あれはまた別の存在なので。

――そろそろそのタイミングが訪れそうでしょうか?

青木:そんな雰囲気はありますよね。コロナでファッション的にも欲求不満になっていると思うので。いつも1人か数人の天才的ゲームチェンジャーが大きくファッションを変えてきたので。DCブームは川久保玲さんと山本耀司さんだし、裏原系も藤原ヒロシさんと数人じゃないですか。ファストファッションも2、3社。そこからの脱出はデムナとヴァージルだったり。原宿の天才待ちですかね。

――青木さんの次の動きも教えていただけますか?

青木:気付く人がいないような小さい動きをフォローアップするのが「FRUiTS」の役割なので、毎日原宿でフィールドワークしています。「FRUiTS」休刊してからも、気になる子がいるとスマホでちょくちょく撮ってはいるんです。それを何か形にしたいのと、「FRUiTS」を復活させたいですね。

青木正一

青木正
フォトグラファー、編集者。レンズ株式会社代表。1955年東京生まれ。プログラマーを経て独立後1985年に「STREET」を発行。原宿ストリートにいるリアルな被写体を収めた「FRUiTS」を1997年に発行し世界から注目を集める。その後、「FRUiTS」のメンズ版「TUNE」や「.RUBY」を発行。
Twitter:@FruitsMag
Instagram:@fruitsmag
Instagram:@fruits_magazine_archives
Instagram:@streetmag

Photography Kazuo Yoshida

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1990年代の東京のストリートファッションはどう変化してきたのか 「STREET」「FRUiTS」「TUNE」の青木正一インタビュー前編 https://tokion.jp/2021/11/19/shoichi-aoki-part1/ Fri, 19 Nov 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=75553 長年に渡り東京のストリートを見てきた青木正一が語る、ファッションの変遷。前編では、「FRUiTS」が創刊された1990年代半ばから後半について語ってもらった。

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「ストリートファッション」と聞いて、どういったイメージを持つだろうか。年代によって多少イメージは異なると思うが、「裏原宿」に代表されるブランドをイメージする人も多いのではないか。今やその「裏原」発のストリートカルチャーがヴァージル・アブローやキム・ジョーンズといったデザイナーを通じて、「ルイ・ヴィトン」や「ディオール」といったビッグメゾンと接続するようになった。

そうした1990年代半ばから2000年代前半の「裏原」ブームの一方で、国内外のデザイナーズブランドに、テクノや和物のテイストを組み合わせるなど、日本独自ともいえる個性的なスタイリングもまた流行した。そこにいち早く注目したのが1997年に創刊された「FRUiTS」の編集長・青木正一だ。青木はパリやロンドンのストリートスナップをまとめた「STREET」を1985年に創刊し、以降世界のストリートファッションを見続けてきた。1990年代半ばの東京のストリートには、日本だからこそのファッションのおもしろさを感じたという。

今回、1990年半ばから2010年代、そして今へとつながるストリートファッションの変遷を青木に聞いた。前編では、「FRUiTS」が創刊された1997年から99年頃までの話を中心に語ってもらった。

――青木さんがご自身のFacebookで「discord(不協和音)宣言」を出されたのが2019年。あれはコロナ禍以前のタイミングで、簡単にいうと、「ヴェトモン」以降のムーブメントをストリート視点からレジュメしていこうという趣旨のものでした。原宿という街がもつ機能の変化も含めて、自分も「青木さんらしい見方だな」と興味深くフォローしていたのですが、あれから状況がガラッと変わってしまって。

青木正一(以下、青木):ほんと、そうですよね(笑)。みんなもう忘れていると思うんですけど、2010年代初頭のファストファッションの台頭でファッションがガタガタになっていたじゃないですか。「オフホワイト」とかはそこから復活する動きに見えたんです。それまでは何の方向性も見えていなかったので。全体的に洋服のプライスが下がってしまった影響で、成長を見込まれていた中堅のデザイナーやお店が大変な状況に追い込まれて。大手の商社系もガタガタになって今後どうなっていくのっていう時に、2014年頃に「ヴェトモン」のデムナ(・ヴァザリア 現在は「バレンシアガ」のクリエイティブ・ディレクター)と「オフホワイト」のヴァージル(・アブロー 現在は「ルイ・ヴィトン」のメンズ アーティスティック・ディレクターも兼任)がいきなり現れて、景色をガラッと変えてくれました。彼らが出てくる前、こんなことは全く予想できなかった。

コロナ禍以前は、中国からの観光客が全身「オフホワイト」とかで原宿あたりを歩いているわけですよ。全身同じブランドで固めるとだいたいサーカスの衣装みたいになるんだけど、「オフホワイト」や「ヴェトモン」の場合は初心者が全身それでそろえてもかっこよく見えて、これはある種のファッション革命じゃないかと。1980年代にも例えば全身「コム・デ・ギャルソン」(以下、「ギャルソン」)みたいな人はいましたが、初心者がやるとダサく見えたので。

――これまで個人のセンスで構築されたスタイリングを撮り続けてきた青木さんからすると、ああいった格好はNGなんだろうなと勝手に思い込んでいたので、そのポジティブな見方は意外で。

青木:ええ、ポジティブですよ、完璧に。

――でも、あの格好って本当にそんなに「おもしろい」んでしょうか? 自分の場合はまだ半信半疑で、ロゴばっかりだといやらしく思えてしまうのですが。

青木:そうですかね。ビッグシルエットも時代に合っていたし、何よりもファストファッションのプライシングに左右されないところが良かったと思います。「マルタン・マルジェラ」が最初に出てきた時も、「ギャルソン」と同じくらいの値段をつけたところに驚きがありました。新人デザイナーのグランジっぽい服なのに価格はハイファッションと同じ。デムナはマルタンからそのあたりの思想も引用しているはずです。もともとデムナ自身が「メゾン・マルタン・マルジェラ」の確かウィメンズのデザイナーだった時期のビッグシルエットを勝手に踏襲するようなデザインで「ヴェトモン」をスタートしてる。でも直ちにファッションをよく知っているファッションフリーク達に評価されて歓迎されている。それって現代アート的な文脈でいえば、単なるパクリではなくシミュレーショニズムとも言える。あれでおとなしいプライシングだとダサかったと思う。さらに、そのやり方を老舗メゾンの「バレンシアガ」が評価するというスピード感も含めて、興味深く眺めていました。

ファストファッションの次の可能性を観光客から感じた

――1985年に「STREET」を創刊されてからdiscord宣言を出されるまで、青木さんの中で一貫している評価軸とはつまりファッションの強度ですか?

青木:そうですね。ヴァージルとデムナの服はデザインとしても製品としてもコンセプトとしてもちゃんと良いし、全身を同じブランドでそろえても成立している気がする。一方で古着とも自然に合わせられるし、もともとそういう作り方をしていますよね。そういえば、最初にブランドロゴを洋服の上で打ち出したのは「ギャルソン」じゃないかな。

――そうかもしれません。

青木:当時のメジャーなハイブランドだと他に思いつきませんよね。1986年の「STREET」創刊号のパリコレ会場特集で、数人が背中にギャルソンのロゴが入っているコートを着ているんですがカッコよかった。スタッフユニフォームかな思っていたんですが、あれは定番のアイテムだそうです。この前お店で初めて知りました。だから、昔からロゴが入っているのは全然否定しないです。

――ただ、「STREET」で一緒に本も作ったことがあるマルタン・マルジェラは真逆のスタンスで、いわゆるブランドロゴが存在しませんよね。

青木:そうなんです。マルタンと本を作った時に「ロゴはヘルベチカっぽいものならなんでもでいいよ」って言われてびっくりしました(笑)。でもタグを縫いつけている糸の“チョンチョン”がロゴの代わりになっている。それも、デムナやヴァージルが打ち出しているようなゲーム性の先駆けですよね。

――思い返せば、「FRUiTS」は、「STREET」からの影響が原宿の路上でどのように花開いていたのかを記録するメディアとして始まりました。そういう意味ではdiscord宣言も、同じくアジアからの影響が日本でどう花開くかのログを取ろうとしたものですよね。

青木:そうですね。観光客達の格好が刺激になったんじゃないかなと。原宿でファストファッションが流行って以来、“ふつうの人”の比率が高くなりすぎて、自分なりのファッションがしづらくなった。そんな時に中国の人達がいきなり入ってきて、日本人なら躊躇するような格好をしている。「ああ、ここまでやって大丈夫なんだ!」って。どんな格好をしても後ろ指をさされないなって。日本人は控えめなところがあるじゃないですか。その性質も手伝ってファッション自体が停滞していたところで、トップの部分を設定してくれた。だから、全体的な街の見え方が変わってきた。

――そこでまた刺激的なファッションが息を吹き返す予感があったと。

青木:バリバリ感じていましたね。自分でも気合を入れるつもりであの宣言は出しました。雑誌という媒体に昔の勢いがあったらいきなり出しちゃったと思うんですけど、今はそういうスピード感でもないので。ピンを打っておきたいなと。

1990年代半ばからミックススタイリングが台頭

――ではここから、過去を振り返っていきたいと思います。まず、青木さんが日本へ戻って「FRUiTS」を創刊された1997年あたりについて。当時はどんな時代でしたか?

青木:1980年代は「ギャルソン」「ヨウジ ヤマモト」(以下、「ヨウジ」)っていう神が君臨していて、その時僕はまだ「STREET」で東京のスナップは撮ってなかったんですよ。当時の日本はみんな同じトレンド一色に染まっていて、「DCブーム」なら「DCブーム」だけっていう。それを業界が仕掛けて儲ける図式が強かった。僕も「ギャルソン」と「ヨウジ」は着ていましたけど、街でスナップしたいとは思わなかった。

それでDCブームが沈静化すると、焼け野原で何もなくなってしまった。スタイリストの知人は「あの頃は地獄だった」と話していました。そこから5年くらい空白があって、ようやく「ヴィヴィアン・ウエストウッド」(以下、「ヴィヴィアン」)や「クリストファー・ネメス」(以下、「ネメス」)のようなブランドが盛り上がり始めたんです。というか、それまでもマニアは存在はしていたんですけど、DCが後退したのをきっかけに目立ってきた。それが1994〜5年です。「STREET」でも東京特集をやりはじめて、まあ今見るとそんなにおもしろくはないんですけど、それまでの「DCブーム」とは異質のファッションだった。そこから徐々にブランドミックスのコーディネートも始まって、日本から「20471120(トライベンティ)」や「ビューティビースト」とかも出てきて、「マルタン」も入ってきて。

――空気が変わり始めた。

青木: 1996年くらいに、いきなり変わったんですよね。何の流行もない中で、ブランドをミックスしたり、自分でリメイクしたり、和物をコーディネートしたり。個人個人がバラバラのスタイルで。大阪では「卓矢エンジェル」が大流行していたり。ブランドで強かったのは「ヴィヴィアン」「ネメス」それと「ミルクボーイ」とか。

――主にロンドンからの流れですね。

青木:そうです、そうです。ロンドンのストリートの影響から始まっています。古着も日本ではおしゃれアイテムとして使っている印象は薄かったんですが、ロンドンのポートベローやカムデンのマーケットで若者が古着を買ってスタイリングしているカルチャーが輸入されてきて。明らかにそういうファッションが勃興してきたタイミングがあったんです。でも、そうした原宿オリジナルのファッションが急速に進化したことは、たぶん「FRUiTS」が出るまで誰も気付いていなかった。がんばって思い出せば何年の何月って言えるくらい、明確なターニングポイントがありました。

――そこにはファッションアイコンもいたんですか?

青木:日美(日本美容専門学校)とバンタンと文化(服装学院)の学生ら5人くらいが景色を変えたように思います。全身「ヴィヴィアン」みたいな子が目立っていた時期から、キーアイテムとしてブランドアイテムをミックスするような子が出てきて。その中に天才的なコーディネート能力のある子達が何人かいて。そういう子達が原宿にたむろしていたので、雑誌とかのメディアからではなく、実際に原宿でそういう子達のファッションを目で見て吸収して帰る。そして自分でも取り入れていく、というサイクルでファッションが進化していましたね。

――そこで「FRUiTS」をスタートさせるきっかけを得た、ということでしょうか?

青木:そうです。今でもはっきり覚えているんですが、「STREET」で東京のスナップを撮っていた時に、ラフォーレの横で撮った2人組のファッションがすごくて。今見るとそれほどの驚きはないかもしれませんが、DC直後ではありえないファッションでした。マルタンにしてもそうですが、今はその後の世界線なので普通になっているだけで、出てきた瞬間は驚くべきものだったんです。このファッションの流れは本物だって確信して、「FRUiTS」を作ることにした瞬間です。そして恐る恐る次の日曜日のホコ天に撮影に出て、最初に目について声をかけたのが、「FRUiTS」創刊号の表紙になった小林あきちゃんです。存在感があったんです。

――要は「STREET」の枠組みにもおさまりきらないファッションだったと。

青木:はい。明確に新しいファッションが生まれているのに、これがスゴイことだと誰も気付いていなかった。みんなが気付くまで内緒で撮り続けようと。「FRUiTS」創刊から1年ほどして真似した雑誌が出てくるまでは、独り占めできました(笑)。

「コーディネートそのものの美しさ、それだけに興味があります」

――そのあたりから、「STREET」に掲載されていたような、国外のスタイルからの影響を受けた形で日本独自の作法が生まれたんですね。

青木:当時はまだネットもなく、大きな流行もなかったので、自分達で工夫するしかなかったんですよね。

――青木さんのお話を伺っていると、ファッションの外側と内側にまたがる形で批評的にシーンを眺めている印象があります。そもそも、洋服を通して社会を見ることに興味があるのか、洋服やスタイリングそのものに興味があるのか、どちらなんでしょうか?

青木:コーディネートそのものの美しさ、自分はそれだけに興味があります。ストリートファッションはアートだと思っているので、アート作品を収集している感覚です。

海外のメディアからよく「FRUiTS」のようなファッションが生まれた背景があるのかって訊かれるんですが、「何もないですよ。ないからいいんです」と答えるんです。社会への反発、のようなことを期待していると思うのですが。そんなことではない方が芸術性は高いと思うのですが。

――今では女性のファッションというイメージが強い「FRUiTS」ですが、1997年に創刊された当時は男性も多く掲載されていました。男女でファッションのトレンドが分かれていったのはどのあたりでしょうか?

青木:「ヴィヴィアン」とかを着ていた男の子が、1999年くらいから「今は裏原ですよ」って言い始めたんです。彼はいつも先端をいっている子だったんですが、自分は「そうなんだ〜」っていうくらいの温度感で、あくまで教えてもらう感じ。

――青木さん的には「お、いいじゃん」とはならなかった?

青木正一:ぜんぜん分からなかった(笑)。裏原ファッションはブランドの背景のストーリーを知らないと、見た目だけでは魅力がわからないファッションじゃないですか。昔のアイビーもそうですが、男子はそういうのが大好きですよね。部外者にはみんな同じ格好にしか見えないし、写真に撮ってもその良さが伝わらない。

でもすぐに男の子はみんな裏原ファッションになりました。逆に全身「ヴィヴィアン」だと指差されるような状況になっちゃった。藤原ヒロシさんも全身「ヴィヴィアン」から始まっているんですけどね。

――それまでと比べて、絵的にはちょっと地味ですよね(笑)。

青木:でも今またその影響力はすごいですよね。ヴァージルにまで影響を与えている。あのすごさの正体はいまいち掴めないんですが。藤原さんは天才なんでしょうね。

――青木さんは「NOWHERE」(1993年に「ア ベイシング エイプ」のNIGOと「UNDERCOVER」の高橋盾がオープンしたお店)とかあの辺りのショップには行かなかったんですか?

青木:「NOWHERE」はがんばって2、3回行ったくらいですね。僕みたいなのが行ったら嫌な顔をされるに決まっているじゃないですか(笑)。裏原系のお店はスタッフも無愛想で、怖いという概念をファッションに導入した。料理に苦味の要素を入れるみたいな。彼らが作った一種の発明です。関係ない奴に来てほしくないんだよね感(笑)。で、裏原が本格的なブームになってから、「FRUiTS」は女の子の雑誌になっていきました。自分が意図したものじゃないんですけど。

後編に続く

青木正
フォトグラファー、編集者。レンズ株式会社代表。1955年東京生まれ。プログラマーを経て独立後1985年に「STREET」を発行。原宿ストリートにいるリアルな被写体を収めた「FRUiTS」を1997年に発行し世界から注目を集める。その後、「FRUiTS」のメンズ版「TUNE」や「.RUBY」を発行。
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Photography Kazuo Yoshida

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