TOKION – カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/ Thu, 29 Feb 2024 08:47:52 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png TOKION – カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/ 32 32 更新一時停止のお知らせ https://tokion.jp/2024/02/29/tokion-information/ Thu, 29 Feb 2024 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225368 「TOKION」が2月29日で更新を一時停止する。

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日頃よりカルチャーメディア「TOKION」をご覧いただき、誠にありがとうございます。この度「TOKION」は、2024年2月29日をもって、記事コンテンツの更新を一時停止いたします。合わせて、公式Instagram、X、Facebookのアカウントも更新を一時停止いたします。

2020年7月28日にリローンチした「TOKION」では、日本のカッティングエッジなカルチャーを中心にアートやファッション、音楽、映画などの情報を偏愛してやまないすべての人へ向けて、社会背景をふまえながら「時の音」としてコンテンツを発信してまいりました。

記事の更新は休みになりますが、引き続きサイト内の記事は閲覧が可能です。有益なアーカイヴとしてカルチャーとの出合いを創出できることを願っております。

これまで取材、制作にご協力いただいたみなさま、関わっていただいたみなさま、「TOKION」の記事を読んでくださったすべてのみなさまに、この場を借りて心より御礼申し上げます。

また、新しい「TOKION」でお会いできることを楽しみにしております。

TOKION編集部一同

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ララージやフィル・ラネリンら錚々たる面々が集結 LA音楽家のジェシー・ピーターソンがカルロス・ニーニョとスタートさせたターン・オン・ザ・サンライトの新作が3月20日に世界同時リリース https://tokion.jp/2024/02/28/ocean-garden/ Wed, 28 Feb 2024 10:15:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225947 LA拠点の音楽家ジェシー・ピーターソンを中心とするコレクティヴ、ターン・オン・ザ・サンライトの新作『Ocean Garden』が3月20日にCD/LP/デジタルで世界同時リリースとなる。

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LA拠点のマルチインストゥルメンタリスト、作曲家、プロデューサーのジェシー・ピーターソンが、2010年に同地シーンのキーパーソンであるカルロス・ニーニョとともに立ち上げたプロジェクト/コレクティヴ、ターン・オン・ザ・サンライト。

前作から4年ぶりとなる新作『Ocean Garden』には、アンビエント~ニューエイジの重要アーティストであるララージや、〈Tribe〉レーベル創設者の1人であるフィル・ラネリン、細野晴臣プロデュースのアルバム『み空』(1972年)発表後に渡米した金延幸子、ミシェル・ンデゲオチェロ『The Omnichord Real Book』のプロデュースでも話題を呼んだLAのマルチ奏者のジョシュ・ジョンソンなど、錚々たる面々が一同に介する。

「もしブライアン・イーノとジョン・フェイヒーが出会ったら――」という夢想から始まったプロジェクトの現在地で鳴り響く、有機的で深みあるサウンドスケープ&グルーヴを堪能したい。

『Ocean Garden』は3月20日にCD/LP/Digitalで世界同時リリースされ、先行曲としてフィル・ラネリンが参加した「Tune Up」が2月28日にデジタルリリースされた。

■Turn On The Sunlight『Ocean Garden』
リリース日:2024年3月20日
フォーマット:CD / LP / Digital
レーベル:rings / plant bass
オフィシャルURL:https://www.ringstokyo.com/turn-on-the-sunlight-ocean-garden/

Turn On The Sunlight – Tune Up featuring Phil Ranelin (Official Visualizer)

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ベルリンに広がるリスニングバー Vol.3 Unkompress × 『Records Culture Magazine』対談 https://tokion.jp/2024/02/28/listening-bar-berlin-vol3/ Wed, 28 Feb 2024 10:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225483 ベルリンのリスニングバーを紹介する連載企画。第3回は「Unkompress」オーナーのケヴィン・ロドリゲスと『レコード カルチャー マガジン』編集長のカール・ヘンケルによる対談。

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ケヴィン・ロドリゲス(左)カール・ヘンケル(右)

日本独自の音楽カルチャーとして、海外から注目を集める“リスニングバー”。近年、ベルリンにオープンした話題のバーを訪ねて、各オーナー達の言葉から紐解いていく連載企画。第3回は、クロイツベルク地区に2023年にオープンした、カジュアルさが人気のリスニングカフェ兼バー「Unkompress」。オーナーのケヴィン・ロドリゲス(Kevin Rodriguez)と交流のある『Record Culture Magazine』編集長のカール・ヘンケル(Karl Henkell)を迎えて、日本と海外のリスニングバーの違いや楽しみ方について話を聞いた。

日本と西洋で異なるリスニングバーの在り方

−−2人の出会いは「Unkompress」ですよね?

カール・ヘンケル(以下、カール):そう。初めて訪れたのは、オープンして数ヵ月後だったかな? とても居心地のいい空間で、マドリッドにある「Faraday」という友人のリスニングカフェを思い出した。優れたサウンドシステムがあるし、パーソナルな空間をつくり出してると思う。他のバーや商業スペースとは違って、家庭的な感じがするんだ。それにおいしいワインもあるし。

ケヴィン・ロドリゲス(以下、ケヴィン):ありがとう! 「レコード カルチャー マガジン」のことは知ってたよ。素晴らしい写真とインタビューが載ってる雑誌だからね。

−−以前はお互いNYに住んでいましたが、好きなリスニングバーはありましたか?

ケヴィン:ここ数年でオープンした店はたくさんあると思うけど、思いつくのは、「Public Records」だけ。

カール:僕も同じ。「Unkompress」や他のリスニングバーのような親密さにこだわって、ハイエンドな機材を揃えたスペースはあまりなかったよね。

ケヴィン:あと「mezcaleria milagrosa」という店があって、すごくおいしいタコス屋に併設されていたんだ。その2店が本当に際立ってるね。

−−「The Loft」を主催したDJのデヴィッド・マンキューソをはじめ、アメリカには日本とは違うリスニングバー文化がありますよね。

ケヴィン:ジャズ喫茶とリスニングバーがどういうものかわかってくると、みんな自分の好みだって気付くんだ。レコードを集めている人の多くは、他の人と一緒に楽しみたいからね。僕もデヴィッド・マンキューソの音響について考えてきたし、「素晴らしい音響とレコードと一緒にビールが飲める店を開きたい」と思ってたんだ。それから何年も経って、自分のアイデアがそもそも日本にあることを知って、正しかったんだと実感したよ。今ではNYだけでなく、アメリカの人里離れた場所にもあるしね。

カール:どちらもオリジナリティーがあるし、アメリカやヨーロッパではすべてが融合され始めている。日本では「The Loft」みたいな文化はないけど、だからこそ新しいスタイルが生まれたんだ。

−−西洋でバーは会話を楽しむ場であるのに対し、日本ではほとんどの人が静かに音楽を楽しんでいます。このような違いについてどう思いますか?

ケヴィン:個人的にはおもしろいと思う。日本の文化って、外から見るとすべてに目的があるように感じるよ。だから、ジャズ喫茶やリスニングバーについて語る時、そこには理由があって、人々はその理由のために行く。西洋でのバーは友人や家族、楽しい時間が集まる場所。音楽はいつもその背景にあるものなんだ。音楽が前面に出るようなリスニングバーを始めたことで、西洋の人達の認識は変わってきてると思うけど、みんながいつも静かにする場所にはならないね。だからこそ、多くのリスニングバーや「Unkompress」でさえ、特定の夜におしゃべりも電話も禁止のリスニングセッションを開くんだ。

カール:若い頃は、ただ座って聴くだけのアルバム・リスニング・パーティーというコンセプトがしっくりこなくて。でも僕にとってリスニングバーは新しい場所で、ナイトクラブの文脈とは違う音楽をかけたり聴いたりできる。より繊細で、瞑想的で、家で聴くような音楽、それがなんであれね。ナイトクラブやバーに行ってあれこれ聴くのではなく、もっと幅広い音楽を楽しめる。

世界的に広がる、食とサウンドに特化したコンセプト

−−海外のバーのよさも残しつつ、日本式の楽しみ方が浸透しているんですね。2人の住んでいたスペインはどうでした?

カール:マドリードには「Proper Sound」というリスニングバーがある。20人ほどの超小型店だけど、いつも賑わってるし、DJのプレイを毎晩聴ける。最近だと、オーストラリアのメルボルンには「Skydiver」っていう昼間はレコ屋、夜はバーになる店があるよ。こういうコンセプトは、とても理にかなっていると思うな。


ケヴィン:僕がバルセロナに住んでいた頃はまだなかったな。今は少なくとも3、4軒のリスニングバーがあるって聞いたよ。ロンドンには「Brilliant Corners」があるよね。でもあそこもレストランだし、食とサウンドって最近よく見かけるコンセプトだと思う。

カール:パリはワイン文化があるし、すでにカジュアルバーのコンセプトも根付いていて、その方向に進んでるよね。

ケヴィン:今考えてみると、こういった場所のほとんどは食事とワインを楽しむような場所で、リスニングバーといいつつ音にこだわってるとは限らないよね。多くの人が食事や会話をしてるし、100パーセント音楽にフォーカスしているかはわからない。

カール:フランスのボルドーに「Café Mancuso」ってカジュアルな高級レストランがあるんだけど、音がいいって評判だよ。同じコンセプトのレストランでも、いろんな工夫がされていると思う。

ケヴィン:ビジネスの観点から言えば、お酒を飲めば人はお腹が空くし、料理にはお酒が付きもの。そういう経済的な側面もあるよね。でも「Unkompress」のような場所では、食事ではなく、音楽と文化に重点を置きたいんだ。いいサウンドシステムがあっても、やっぱりレストランはレストラン。音楽を聴くために行くかどうかはわからないね。

その人に合ったリスニングバーの楽しみ方

−−2人はどんなリスニングバー が好きですか?

ケヴィン:その時の気分と、その場所が何を提供してくれるかによるかな。リスニングバーなら、音楽とサウンドに集中する。パートナーや友達だけなら、ちょっと小声で話しながら、ただ音に耳を傾ける。でも5人のグループだったら、あまり聴かないかもね。

カール:僕はのびのびとした性格だから、予約なしで行けて、混んでないお店っていうのが大事。「Unkompress」もきっと混んでいるんだろうけど、今のところいつ来ても席を見つけられるからよかった!一方で、ちょっとハプニングがあったりするような場所も楽しいね。よく友人と遊びに行ったり、社交的なことが多いから。

−−最後に、リスニングバーを楽しむベストな方法は何だと思いますか?

ケヴィン:オープンマインドで行けばいいと思う。友達と一緒でもいいし、グループで行ってもいい。会話ができないわけではないけど、音楽やサウンドに敬意を払うことを念頭に置いて、小声で話すこと。今聴いているものに感謝すること。

カール:おいしいワインと音楽を楽しむこと。友人がDJをやってたら、自分が知らない音楽や風変わりなアルバムを持ってたりして楽しいし、自分を驚かせることができる。文脈が特別なものをつくるんだ。選曲する人達も、観客を踊らせるってプレッシャーがない分、いろんなことができるしね。

■ Unkompress
住所:Fichtestraße 23, 10967 Berlin, Germany
営業時間:水木14:00~23:00、金土14:00~1:00
休日:日月火
unkompress.berlin
Instagram:@unkompress

Photography Shinichiro Shiraishi

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連載ショートストーリー:菊池良「きみはユメを見ている」第7夜  https://tokion.jp/2024/02/28/you-are-looking-at-a-dream-7/ Wed, 28 Feb 2024 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225584 作家・ライターの菊池良による「ユメ落ち」をテーマとしたショートストーリー。現代版『夢十夜』とでも言うべき掌編の第7夜、時間の合わない時計が並ぶ不思議な時計屋に入った「きみ」を待つものとは。

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連載ショートストーリー:菊池良「きみはユメを見ている」第7夜 

 きみはこんなユメを見た。

 使い古された大きな手提げ袋が通りの端に放置されていた。忘れものにも見えるし、最初からそこへあったかのようにも見える。だれも拾うものはいない。だれも関心を持たなくなってすぐに風景と一体化した。視界に入っても、だれも認識しなくなった。そういうものだ。それは黒い塊で、表面はつやつやとしていて弾力もありそうだった。雨が降ると水滴を弾いて雫が光っていた。それで、たまに放し飼いの猫が鼻を近づけて様子をうかがうだけだった。

 しかし、日に日に黒い塊はすこしずつ大きくなっているようにも思えた。やがて手提げ袋におさまらないほどぱんぱんになっていった。しかし、だれも気に止めなかった。一度風景と同化してしまったら、もう違いを察知することはできない。

 じゃあ、だれがそんなことに気づいたのか? 手提げ袋が置かれた往来のすぐ目のまえに時計屋があった。その店主だ。その時計屋はめったに人が訪れず、店主はひまをもてあそんで、よく目のまえの通りを眺めていた。そうして、言語化できない哲学的思索に耽っていた。

 その時計屋で売っている時計はどれも時間が合っていなかった。そのうえ、時間の合わせ方もわからなかった。時間を合わせる機能がついてなかったのだ。間違った時間を刻んでいる時計はいいほうで、針が止まっているものや逆に動いているもの、針さえないものもあった。そこは時計じゃない時計を売る店だった。壁には「時間がわかるかたは教えてください」という張り紙が貼られていた。

 店主は何ものかが手提げ袋を置いていった瞬間を見た気がしていた。しかし、それが実際の記憶なのか、手提げ袋を眺めているうちに作られた偽の記憶なのかわからない。

 店主はついに手提げ袋を間近に見ようと往来に出た。なにかに引き付けられるように通りへ出た。それは朝だったのか、夜だったのか、それともその境目か。店主がゆっくりと指を伸ばし、震える指のさきで黒いかたまりに触れる。その瞬間、糸が切れたかのように、なにかが弾けた。すると、黒いかたまりは風船のようにゆっくりと浮上していく。やがて、それは空に浮かび、雲のように漂った。

 休暇で訪れた岬の展望台で、きみはカメラを首から下げていた。連れてきていた犬をゲージから出すと、嬉しそうにあたりを走り回っている。とっさにカメラを向けてシャッターを切る。見晴らしのいい景色が背景にくるよう画角を調整しながら。走っている犬を捉えるのは難しいが、くすぐったいような喜びが背中を走り、きみは確信する。ああ、この瞬間が幸せに間違いなく、いつか噛みしめるように思い出すときがくるはずと。それは休暇の終わりが近づいて自宅に戻ったときかもしれないし、20年後かもしれない。

 背景になにやらノイズのようなものが映る。空の一部が塗りつぶされたかのように真っ黒となっている。きみがファインダーから顔を離すと、それが黒いかたまりだということがわかる。

 きみはカメラを向ける。再びファインダーを覗き、黒いかたまりに向けてシャッターを切る。この光景をだれかに伝えなきゃいけないような気がして。

 そのとき、きみはユメから目覚める。最高の朝がやってくる。いままでにない最高の朝が。

Illustration Midori Nakajima

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ルース・アサワ——線が彫刻になるとき https://tokion.jp/2024/02/28/ruth-asawa/ Wed, 28 Feb 2024 08:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=221905 昨年からホイットニー美術館にて回顧展が開催されていた日系2世のアメリカ人アーティスト、ルース・アサワ。大きな功績にもかかわらず日本では知名度の低いアーティストの作家性を育んだルーツを探り、複数の次元を横断する彼女の作品を改めて考える。

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Laurence Cuneo, Ruth Asawa holding a paperfold, c. 1970s. Gelatin silver print, 9 13/16 × 7 5/16 in. (24.9 × 18.6 cm). Courtesy of the Department of Special Collections, Stanford University Libraries. Photograph © Laurence Cuneo. Artwork © 2023 Ruth Asawa Lanier, Inc. / Artist Rights Society (ARS), New York. Courtesy David Zwirner

ニューヨークのホイットニー美術館は、開館以来、アメリカ人作家の仕事を紹介することを一つの使命として活動してきた施設である。その意味で、今回のアサワ展は特殊な意義をもつ。アサワはアメリカ国籍と市民権をもつアメリカ人作家であるが、同時に、日本にルーツをもつ日系二世の作家でもあるからだ。同館は、1948年に日本からアメリカに移住した移民一世の画家・国吉康夫の回顧展を開催している。同館が日系人作家の回顧展を開催するのは、(米国在住経験のある草間彌生を除けば)国吉以来のことだろう。

昨年から今年にかけて、ホイットニー美術館で、ルース・アサワの回顧展「Ruth Asawa Through Line」(2023年9月16日〜2024年の1月15日)が開催された。アサワは、日本ではまだ知名度がそれほど高くないものの、近年国際的な再評価が著しい作家である。
アサワといえば、金属のワイヤーを編み込んで制作された球体状の彫刻作品で知られている。しかし、ホイットニー美術館の回顧展は、むしろ代表作となるワイヤー彫刻の出品数を抑え、彼女のドローイングや紙の作品を多く展示することによって、アサワの作品の多様性とさまざまな素材を横断する造形的な実践に焦点が当てられた。

とすれば、国吉の回顧展とアサワの回顧展のあいだには、実に76年の歳月が横たわっていることになる。が、国吉とアサワはある同時代性を共有していた。両者は、ともにアメリカで太平洋戦争の開戦を経験したからだ。アメリカに在住していた日系人たちの人生は、それにより大きく変わった。日系人は、多くがアメリカ市民であるにもかかわらず、突如として敵性外国人として扱われることになった。アサワも例外ではなかった。1942年にアサワ家はそれまで居住していた土地を追われ、日系人キャンプに強制収容された。しかし、この収容施設でアサワはほかの日系人の美術家たちと出会い、彼らから素描などを学ぶことにより、芸術的領域への関心を深め、自らの才能に目覚めていくことになる。

ルースは、1926年に7人きょうだいの4番目の子供としてカルフォルニアに生まれた。アサワ家は、農地をもたない「トラック・ファーマー」として、さまざまな農産物を育て販売して生計を立てていた。当時の法律では、ルースの両親はアメリカ市民になることができず、耕作地をもつことも許されていなかったことによる。一家の生活は豊かではなかった。アサワもまた、6歳になる頃には一家の労働力として農業を手伝っていたという。
だが、彼女は繰り返し農業という仕事が自身の芸術に与えた影響を語った。種を蒔き、植物を育てる過程で目撃した自然の生成力は、彼女の芸術の重要な手がかりになったからだ。自然は、その機能と可能性をその形態のなかに宿している。アサワは、自然の形態を手がかりにすることを通じて、多くの素描や彫刻を残した。

同時代の日系人と同じく、30年代から40年代にかけてのアサワの人生は苦難の連続であったはずである。30年代に、アメリカが大恐慌時代に突入すると、日系人は激しい排外主義の対象となってゆく。また、1941年にアメリカは第二次世界大戦に参戦し、その翌年には、真珠湾攻撃を発端とする太平洋戦争がはじまった。

戦争が終わり、収容所から解放されたのち、アサワは美術教師を目指すが、終戦直後のアメリカ国内の日系人差別は根深く、彼女が置かれていた当時の環境では、アメリカで日系人が美術の教員になることは事実上不可能であった。そのような状況に置かれていたとき、アサワは二人の友人を通じて、ノース・カロライナにある芸術学校の存在を知る。

その芸術学校は「ブラックマウンテン・カレッジ」と言った。アサワは、46年にブラックマウンテン・カレッジの夏期講習に参加し、三年間をカレッジで過ごした。その学校は、1933年に、周囲を山々が囲む小さな町「ブラックマウンテン」の郊外の山のふもとで開校した。開校からしばらく経ったあと、カレッジは「レイク・エデン」と呼ばれる小さな湖に面する場所に、モダニズム様式の建物をつくりキャンパスとした。のちに、この小さな学校こそがアメリカの戦後美術に巨大な足跡を残す、いわば「伝説の芸術学校」として知られることになる。
ブラックマウンテン・カレッジは、サマースクールという夏期講座を設けており、そこを訪れた講師陣には、ジョン・ケージ、マース・カニングハム、バックミンスター・フラーら錚々たる人物たちがいた。領域横断的な実験を許す自由な学内の気風が、同校で学んだロバート・ラウシェンバーグ、サイ・トゥオンブリー、スーザン・ヴェイユ、レイ・ジョンソンといった芸術家のその後の仕事を後押ししたことは疑いえない。

ブラックマウンテン・カレッジの美術分野で主導的な立場を果たしたのが、ドイツの芸術学校「バウハウス」で教鞭を執っていたジョセフ・アルバースである。アルバースは1933年の同校の開校に合わせて妻のアニ・アルバースとともにアメリカに移住し、夫妻はともに同校の芸術教育を担った。アサワは、入学後、アルバースの基礎デザインと色彩コースを受講した。またアサワは、フラーの授業にも参加し、デザイナー、発明家であり思想家として多領域にわたる超人的な活動を行なっていたフラーの思想やデザインに傾倒していく。

 二人の教師の存在が、アサワのその後の人生を決定的なものにした。その影響の大きさは、アサワ自身によって繰り返し語られている。彼女の作品を見れば、アルバースとフラーの実践との連続性がいくつも見出されるだろう。アルバースとフラーとの交流は生涯にわたって続いた。アルバースとフラーの自宅には、アサワの作品が飾られていた。

 彫刻作品で知られるアサワだが、彼女は彫刻を専門的に学んだわけではなく、また「彫刻家」を自認していたわけでもない。むしろ、アサワの仕事の独自性が、アルバースの授業を受講したあとに制作された素描や平面作品にすでに見出される点が重要である。アサワの素描と、後に展開されることになる彫刻は多くのつながりをもつ。

 アルバースの多くの教育実践のなかで、アサワにとってとりわけ重要だったのが、ネガティヴ・スペースの活用可能性である。ネガティヴ・スペースとは、実体的な物に対置される、非実体的な空間のことだ。たとえばアルバースは、指と指のあいだの空間や、椅子の脚の下の空間は、実在する指や椅子と同等に重要であると学生たちに語った。アサワの彫刻では、実際に、ワイヤーでつくられた球体のなかに、別の球体が格納される。それは、球体の内部の、ネガティヴ・スペースを活用するがゆえに可能になったものだ。アサワの素描においても、アルバースの教えを忠実になぞるように、線そのものではなく、線と線の「あいだ」からかたちが生まれることに意識が置かれている。そこで線を引くことは、紙の上に空白からなるかたちを造形することにほかならなかった。

 アサワは自身の彫刻に使われるワイヤーの線を、紙の上に展開された素描の線の延長にあるものみなしていた[1]。ワイヤーという一本の線を編み込み立体化するアサワの彫刻は、空間に展開された素描だった。つまり、アサワの彫刻では、最初に線として開始されたものが、面として広がってゆき、そしてそれが球体となり、形態が閉じるまで展開される。その意味でアサワの作品には、線→面→球体という展開がある。ゆえに、彼女の作品は、このような複数の表現形式の横断性、あるいは線、面、立体という異なる次元の変換と横断という特質をこそ備えていたということだ。

 同じことが、アサワが多く手がけた折り紙の作品にも言える。日系人であるアサワは幼少期から折り紙の文化に触れることができたが、偶然にアルバース自身もまた自身の教育活動において紙をさまざまな手法で立体的に折るプログラムを取り入れていたのだった。アサワはこの二つをルーツとして、ブラックマウンテン・カレッジを卒業後も紙を立体的に展開した作品を持続的に制作し続けた。紙を折ることは、平面を屈折させ、立体として展開することである。そのため折り紙は、平面と立体の区分を横断する。折り紙とは、複数の幾何学的な面の構成体からなる立体である。

 その意味でアサワの芸術は、線描、紙、彫刻といったそれぞれの芸術ジャンルを拘束する次元を可変的なものにするのだ。アサワの芸術が、素描、紙、彫刻という三つのジャンルに等しい重要性を与えながら展開されたことは、この問題と直結している。通常の芸術ジャンルの区分は意味をなさない。そこではすべてが彫刻であり、同時にすべてが素描でもある。それぞれは、一次元から三次元までの複数の次元を越えることで連続する。そのいずれもが、彼女の芸術においてはたがいに連続し、知的に呼応しあう関係にある。

 このような次元の変換(線、面、立体への展開可能性)という観点において彼女の芸術を考えたときに重要なのが、フラーの存在である。フラーは、「ジオデシック・ドーム」をはじめとする構造体をデザインしたことで知られるが、一貫して、三角形を基準として構造設計を行うことを重視していた。その際、重要なのは、フラーが多面体などの幾何学的図形を説明する際に、木棒や糸をつかって構造体のモデルをつくり、学生たちの前で実演したことである。すなわちフラーのドームもまた、アサワと同様に「線」から始まるということだ。

三角形は、面をつくりだす材料としては最も少ない三つの棒でつくりだされる図形だ。三角形は、最もシンプルであるにもかかわらず、幾何学的図形のなかでも強固な構造を可能にする。それは、四本の棒でつくられる四角形よりもはるかに安定しており強度も高い。フラーにとって三角形は、最も少ない材料で最大の効率を実現するかたちだった。フラーは、三角形のユニットを基準として、20枚の正三角形の面で形成した正二十面体を基本骨格とした球体のドームを設計した。とすれば、フラーは、三つの「線」をつなげて三角形という「面」をつくり、さらにそれを連続させることで三次元の「球体」のドームをつくったと言える。そこには、同様に「線、面、立体」の展開可能性が存在する。実際、アサワやフラーにとって、線、面、立体はたがいに隔絶した場所に存在するものではなく、むしろ連続性、発展可能性において捉えられていたと言えるだろう。

 アルバースやフラーの活動を引き継ぐように、生活と制作の拠点としたサンフランシスコにおいてアサワは、アーティストとしてのみならず、芸術教育の活動家として知られていた。彼女は折り紙をもとにした紙を折るワークショップや、フラーの幾何学をもとにした授業を子どもたちに向けて実施した。アサワにとって、アルバースやフラーから受け取ったものを作品として創造することと、それを他者に分け与えることに、いかなる区別もなかったはずである。その活動において、つくること、学ぶこと、それを教えることは、すべて一体である。

[1] Asawa, typed statement for J.J Brooking Gallery, June 5, 1995, Ruth Asawa Papers, box 127, folder 7. 

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学ぶのに遅すぎることなんかないのだ:工藤キキのステディライフ最終回 https://tokion.jp/2024/02/28/kiki-kudos-steady-life-last/ Wed, 28 Feb 2024 07:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225533 工藤キキがコロナ禍で見出した、ニューヨークとコネチカットのデュアルライフ。連載最終回。

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ライター、シェフ、ミュージックプロデューサーとして活動する工藤キキ。パンデミックの最中にニューヨークシティからコネチカットのファームランドへと生活の拠点を移した記録——ステディライフを振り返りながらつづる。

コロナの影響でまだまだ生活が規制されていた2020年の頃、運転免許を取り始めた友人が周りにちらほらいた。ニューヨーク以外は広い郊外であるアメリカでは、16歳から免許が取得できて、赤ちゃんと住所不定者だけ運転免許を持ってないと言われるほど。東京にいた時は運転免許のことを考えたこともなかったが、ほとんどのアメリカ国民が持っているのがあたりまえらしい。

アメリカに引っ越して4年ぐらいの頃、遊びに行った遊園地のコニーアイランドでバンパーカーに乗ろうということになったが、実は基本的な操作がわからずパニックを起こし、私の車はフロアの真ん中で立ち往生してしまったことが。楽しげにぶつかり合う車の上を、セキュリティの人が飛び石を渡るように車を飛び越えて私を救出してくれた……というトラウマもあり正直、自分で車という鉄の塊を運転できる自信が全くなかった。

そして友人達がサラッと運転免許を取っていくなか、最寄りの駅が車で1時間という場所に引っ越した2021年にようやく運転免許を取ろうと誓った。必須科目の交通ルールを学ぶための8時間クラスをコロナの影響でZoomで受けることになり、自宅にいながら授業を受けられたのはラッキーだったが、DMVでの仮免試験を通過するまでの道のりは長かった……。

家から一番近いマーケットが車で10分。私達の住む地域では、タウンごとにトランスファーステーションと呼ばれる廃棄物を細かく分別しているごみ捨て場があり、そこに行くのでさえ車で9分かかる。どこへ行くにもブライアンに運転を頼まなければいけない。彼は喜んで運転してくれるが、やっぱり1人でサクっと買い物に行ったり、寄り道したりできるのがいい。ニューヨークまで運転する日がくるかもしれないと、車を運転できちゃう自分という淡い夢はいつも心にあった。

しかし、この仮免を取るまで紆余曲折あり、結果2年費やしてしまったのだった。緊張の頂点でパニックになった朝、ブライアンの車がパンクしていて試験会場まで行けずテストをキャンセルしたり、テストを受ける前に実は目が悪かったことを知らずに視力検査で落ちてしまい、そこからメガネを作るまで数ヵ月かかったり、テストを予約した前日にコロナになったり……なかなか免許を取らない自分に大家のジムも免許の話になると励ましてはくれるが、不思議そうな表情を浮かべていた(笑)。テストは正解だと思うものを選択する形式で、ようやくテストを受けるも2点足りず落第。ルールはルールなので丸暗記すればいいんだろうけど、質問の英語は普段使わない言い回しだったため、内容を理解しにくく、自分にとっては車の免許というより英語の試験だった。

2023年の10月、友人のアイリスが1週間ほど家にステイしていた時。せっかくだから何かプロジェクトをやろうというので、私は迷わず「運転免許を取るのを手伝ってくれ!」と頼んだ。LA育ちの彼女からすると、「プロジェクトってそれかよ(笑)」という感じだったが、アイリスからの最高のアドバイスは、「キキ、一番安全だと思う答えを選べばいいんだよ」というものだった。それは本当で、標識などは覚えないといけないけど、安全だと思う答えを選んだら、なんと全問正解で通過したのでした。ありがと〜アイリス!

そんなわけで、ようやく助手席に免許を持っている人が乗っていれば運転できるという仮免を取得。車の運転がシミュレーションできる、ハンドル・ブレーキ・アクセルがついたゲームのコントローラーをブライアンにプレゼントしてもらい、本試験に向けてXboxのドライビングゲームで特訓している最中です(笑)。次にお会いする時には車を運転している話ができることを願っています!

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誰もが楽しめるオープンスペースとしてのアート ステファン・マルクス インタヴュー -後編- https://tokion.jp/2024/02/28/interview-stefan-marx-part2/ Wed, 28 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=224805 ファインアートからコマーシャルの分野まで多面的に活躍してきたステファン・マルクスへのインタヴュー後編。

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ステファン・マルクス

ステファン・マルクス
1979年ドイツ生まれ。ハンブルクからベルリンを拠点に移し、活動するアーティスト・イラストレーター。ドローイング、スケートボード、本、スケッチブックなど、彼が「愛するもの」を活動源とし、作品集の出版、アートエキシビション、パブリックアート、レコードジャケットのデザインなど幅広い分野で才能を発揮している。ドローイングや絵を通して彼の世界観、思想、スケートボーダーとしてのインディー精神を表現し、独自の目線で世界を描く。弱冠15歳でインディペンデントT シャツレーベル「Lousy Livin’Company」を立ち上げ、少数生産ながらクオリティー・クリエイティビティの高いT シャツをデザインしている。また、ブランドや企業とのコラボレーションも多数手掛けており、「マゼンタ・スケートボード」や「ファイブ ボロ」等のスケートボードブランドから「イケア」までプロジェクトは多岐にわたる。これまでに「Nieves」や「Dashwood Books」等の出版社から数々の作品集が出版されている。
@stefanmarx

ドイツ・ベルリンを拠点に活動するアーティスト、ステファン・マルクス。彼は少年時代から愛好しているスケートボードや音楽などのカルチャーの影響から、Tシャツやレコードジャケットのデザインといった創作活動を始め、その後ファインアートの分野に進出。インスピレーションが凝縮された浮遊感のあるタイポグラフィは、読み取る各人の想像力を利用し、非限定的なイメージの拡張をもたらすデバイスのような効果を持つ。

また、日常の観察と絶え間ないプラクティスによって生み出されるドローイングは、ストリートグラフィティよりも柔和で愛らしくコミカルな印象で、素直な感性が幅広い層に共感を呼び起こしている。

さらに彼の作品が構築的な空間やアーキテクチャ・プロダクト上に施されることにより、形而下の意味を超えた暗示のようなインパクトが生じ、場所や存在に新たな意味をもたらす。

自身の創造性を発展させつつも、彼のインディペンデントな姿勢は不変で一貫しており、近年では「シュプリーム」や「コム デ ギャルソン」等のファッションブランドとのコラボレーションをする等、アートとコマーシャルの融合についても可能性を広げてきた。

今回来日したステファンにインタビューを実施。後編では彼の代表的作品テーマであるタイポグラフィやパブリックアートについてのスタンス、新作の本の紹介と趣旨、他アーティストとのコラボレーション等についてヒアリング。アートをオープンスペースとして捉え、人々の自由な感性の交流や相乗効果を導く取組みについて伺った。

体験から得たインスピレーションの視覚化、タイポグラフィ

−−先日NYのギャラリー「Ruttkowski;68」にてタイポグラフィ作品中心のエキシビジョンが開催されましたが、そのステートメントに「テキストは歌詞からインスパイアされている」とありました。

ステファン・マルクス(以下、ステファン):確かに初期の頃は歌詞からインスピレーションを受けて作品を制作していましたが、現在は違います。例えば『Sunrise Sunset』は言葉と構図のアイデアが頭の中でイメージ化され、作品として具現化したものです。最近の作品は画面上の上部と下部に言葉が配置され、間にスペースがある構図にフォーカスしています。

また『Listen to the Rain』は日本で着想を得たものです。日本では雨が降ると多くの人がビニール傘を差し、その上に雨粒が落ちると大きな雨音がする。「雨の音が聴ける」という日本ならではの現象が作品のインスピレーションになりました。

このようにタイポグラフィ作品は、さまざまな場所を訪れ、状況や体験から得たインスピレーションがヴィジュアル化されたものと言えます。

−−最近の作品は詩的な雰囲気のものが多いですね。

ステファン:言葉もドローイングも視覚的なイメージとして捉えています。常に言葉とドローイングのことを考えていて、日頃からあらゆる発想を頭に蓄積し、それらがミックスされて作品になっています。

歩いている時、電車に乗っている時、音楽を聴いている時、本を読んでいる時…時にはSNS上のコメントを読んでアイデアを思いついたりもします(笑)。

タイポグラフィ作品では、言葉上の意味だけでなく、そこから派生するイメージを効果的に表現できないか考えています。

『Heaven』という作品はシンプルなワードですが、視覚的な効果の組み合わせによって複雑な意味を擁し、創造の枠を超えることができます。『Moonlightsss』も同じくシンプルな言葉ですが、蛍光色が暗闇で光ります。

『Love Letter』においては、作品の裏面に「〇〇から△△へ」という情報を記し、一点物としてカスタマイズ可能にしました。こうすることで言葉の持つ重みや意味合いが変化するのがおもしろいですね。

−−今回は日本語の作品にも挑戦しました。

ステファン:前回日本を訪れた際、空港やレストランでスタッフが「おまたせしました」という言葉を使うのを何度も耳にし、どんな意味なのか気になっていて、友人に意味を教えてもらいメモしていました。

そして今回、この「おまたせしました」をタイポグラフィの作品にしてディスプレイしようと思い立ちました。TOKYO ART BOOK FAIRのサイン会では列に並んで待ってもらうこと、また本展にはずっと参加してほしいと言われていたこと、二重の意味を込めたかったんです。

今後も日本語の作品に取り組みたいと思っていて、ひらがな、カタカナ、数字などを勉強しています。

誰もが楽しめるオープンスペースとしてのアート ステファン・マルクス インタヴュー -後編-
誰もが楽しめるオープンスペースとしてのアート ステファン・マルクス インタヴュー -後編-

地域を反映し、誰もがアクセス可能な民主的所在のパブリックアート

−−タイポグラフィの作品の中には、ある種のビルボードのように、都市空間の中で大きなスケールで設置されているものもありますね。このプロジェクトについて教えてください。

ステファン:ドイツの都市の30ヵ所にパブリックアートを設置するプロジェクトがあり、そのうちの3ヵ所……ボーフム、ドルトムント、エッセンにオファーを頂きました。その後、スイスのバーゼル等、他の都市でもオファーを頂きました。デュッセルドルフではクンストハレという美術館の内部の壁に描いた作品を、外部からも誰でも観ることができるようになっています。

パブリックアートは誰もが無料で鑑賞できるという民主的な点が好きなんです。制作は非常に大変で、作品を描くのにふさわしい大きな壁を見つけてオーナーに許可をもらったり、高所作業が可能か確認してリフトの費用を確保したりと、なかなか一筋縄ではいかないことが多いですが、すごく楽しんでやってます。たくさんの人々に自分の作品を知ってもらうきっかけにもなりました。

−−公共スペースにてスケールが大きな作品を制作する際に気をつけていることはありますか?

ステファン:街中で大きなスケールで制作する場合、基本的に色はモノクロにします。最近ではカラーの作品も制作していますが、白黒の方がシンプルで周囲に溶け込むのではないかと考えています。白と黒という対照的なコントラストで表現を引き立たせるのが好きなんです。

パブリックアートの場合、大きなスケールの作品を多くの人が目にする空間に設置するため、その場所の成り立ちや歴史を調査しながら制作を進めます。

最初に実施した3つの都市はかつて鉱業が盛んな地域だったので、19世紀に労働者の間で親しまれていた歌の歌詞からインスピレーションを受けて言葉を選びました。

また、壁のサイズや形を考慮して、作品がどんな見え方になるか、建築的、空間的に何度も検証しながら作品を制作していきました。

日常世界を観察し多様な形態の作品を描き続けることで、あらゆる人に楽しんでもらいたい

−−今回TOKYO ART BOOK FAIRに初参加されました。新作の本についてご紹介ください。

ステファン:NY Art Book Fairは初期から毎年参加してますが、TOKYO ART BOOK FAIRは今回初めて参加しました。友人のHIMAAさんや、ユトレヒト、twelvebooks等、サポートしてくれる仲間から「いつ来るの?」と毎年言われてたので、実現できたのが嬉しいです。

今回の新作は4冊あります。まず蛇腹折りの本が2冊。公園のある一点に立ち、同じ位置で360°回転しながらパノラマの絵を描くシリーズを書籍化したものです。1冊は2023年の4月に東京を訪れた際、「スタイリスト私物」の山本康一郎さんが駒沢公園を案内してくれた時に作ったもの。もう1冊は代々木公園で描いたものです。2006年以来、来日するたびに毎回代々木公園で絵を描いていて、あるレコードのジャケットにもなっています。

それとNYの「Dashwood Books」と制作した本が1冊、ベルリンの伝統的な出版社「Hatje Cantz」から出版された塗り絵の本が1冊です。後者は、2019年8月にThe NY Timesに毎日連載していた31点の挿絵を塗り絵できるようにしたものです。子ども達が大胆に色を塗り込めるように大きいサイズにして、簡単にめくれるよう、ごく軽量の紙を採用しました。

この本は子ども向けではありますが、同時に大人がアーティストブックとしても楽しめるようにしています。

−−なぜ子ども向けの本を制作することにしたのでしょうか?子ども向けということで特別配慮したことはありますか?

ステファン:本を作る時はいつも、特定の誰かのためにとは考えてなくて、どんな人でも楽しめるものを作りたいと考えています。以前スイスの「Rollo Press」と子ども向けの本を作った時も、子どものプレゼントのために買ってくれる人も多かったのですが、同時に大人も楽しんでくれていました。

基本的に自分の表現をあまりカテゴライズしたくなくて、常にみんなが楽しめるものを目指しています。言語と違って、絵というものは世界中の人が一目見て瞬時に理解できるものです。そういう絵の作用をベースにしてシンプルに表現することが、多くの人々の共感を生むのではないかと思います。

僕のファインアートの作品は高価で誰もが買えるものではないですが、レコードやZineはいろんな人に手に取ってもらうことができます。多様なアウトプットを提供することで、すべての人がアクセスできる民主的な場を作りたい。ファインアートだけでなくコマーシャルの活動も続けています。Tシャツはその最たる存在だと思います。

この姿勢は、自分の日常や周りにあるものをよく観察して、感じたものを描き続けることにも通じていると思います。

創造スペースを分かち合うことでさらなる発展を生み出す、アーティストとのコラボレーション

−−これまでにさまざまなブランドとコラボレーションされていますが、「コム ギャルソン」とのコラボレーションでは、構築的なシェイプのドレスの全面にステファンさんの作品が大胆に施されていました。お互い非常に芸術的な指向が強いと思いますが、コラボレーションはどのように進めていったのでしょうか?

ステファン:始まりは唐突でした。ある日曜日の夜、NY Art Book Fairに行くためのパッキングをしていたら、川久保さんのアシスタントの方から突然メールが来たんです。「コム デ ギャルソン」のコレクションで僕の作品を使いたいという内容でした。彼等が使いたい作品は決まっていて、それがどのようにデザインされるかは「コム デ ギャルソン」に全て委ねるという条件。ショーで発表されるまでは、どんなものになるのか誰にもわからない状況でした。僕は条件を全て理解した上で、受けるか否かの返事をしなければならなかったんです。

「コム デ ギャルソン」のコラボレーションの方法は非常にストレートなものですが、自分もレコードジャケットのデザインの際に同じようなやり方をしているので、どこか共感できるものがありました。即座に「やりましょう」と返事をしました。

実際にコラボレーションの内容はショー当日まで全くわからない状況でした。PRのチームもショーで初めて見たそうです。前衛的なヘアスタイルのモデルが着たドレスはすごく良くて、結果には大変満足しています。

「コム デ ギャルソン」のコラボレーションはとても勉強になりました。お互いにリスペクトがあるからこそ創造的なスペースを分かち合い、自由に取り組むことによって、さらに創造性を発展させることができるんです。

−−これまで何度も来日されていますが、先述の『Listen to the Rain』のように日本でインスピレーションを受けたものや、おもしろいと感じたものはありますか?

ステファン:日本は友達がいるし好きな食べ物もあるので大好きな場所です。思い出深いプロジェクトを複数経験できたこともありがたく思っています。これまでに書店のユトレヒトやギャラリーの「SALT AND PEPPER」で展示をしたり「GASBOOK」とさまざまなプロジェクトを行ったり「ユニクロ」や「ビームス」と仕事もしました。

日本は街中にある何気ないものにまで細やかに配慮が行き届いているところにインスピレーションを受けます。また、都市や街・建築がさまざまなレイヤーでどのように構成されているか観察するのが好きなんですが、東京は他の都市とは全然違う感じがしています。地下鉄のしくみや社会、コミュニティーの様相は、一見複雑に見えますが不思議と機能している。その観点では他のアジアの都市とも東京は違うように感じますね。

−−今後創作を続けて実現したいこと、さらに挑戦したいことについて教えてください。

ステファン:2023年はアートショーや展示で世界中を飛び回っていたので、2024年はアトリエにこもって静かに創作に向き合いながら新しいことにチャレンジしたいと思っています。具体的にはイタリアで石やジュエリーを使って友達と作品制作をするプランがあります。彫像のような3Dのものではなく、プレートのように、フラットに石を用いるドローイングのようなアプローチを考えています。

Photography Masashi Ura
Edit Akio Kunisawa

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抑圧から自由になるために:Kassa OverallとTomoki Sandersが語る『ANIMALS』、アフリカン・ディアスポラ・ミュージック、日本文化 https://tokion.jp/2024/02/28/kassa-overall-x-tomoki-sanders/ Wed, 28 Feb 2024 05:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225786 ドラマー/プロデューサー/ビートメイカー/MCとして先鋭的な作品作りを続けるKassa Overallとマルチ・インストゥルメンタリストのTomoki Sandersが、新アルバムやアフリカン・ディアスポラ・ミュージック、日本文化、そしてPharaoh Sandersについて語る。

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左:Kassa Overall (カッサ・オーバーオール)、右:Tomoki Sanders(トモキ・サンダース)

左:Kassa Overall (カッサ・オーバーオール)
1982年10月9日生まれ、米・ワシントン州シアトル出身のミュージシャン、MC、シンガー、プロデューサー、ドラマー。前衛的な実験とヒップホップ・プロダクションのテクニックを融合させ、ジャズとラップの結びつきを想像だにしない方向へと進化させた楽曲で評価を高める。前作の『 I THINK I’M GOOD』から3年を経て、名門Warpから自身3作目となるスタジオアルバム『ANIMALS』をリリースした。
https://www.kassaoverall.com

右:Tomoki Sanders(トモキ・サンダース)
1994年ニューヨーク州マンハッタン出身。4歳でピアノとドラム、6歳でクラリネット、10歳で父 Pharaoh Sandersから譲り受けたアルトサックス、14歳からテナーサックスを手にとり演奏を始める。バークリー音楽大学で演奏、現代作曲技術、音楽制作などを学び、2018年に卒業。現在までに、Pharoah Sanders、 Kassa Overall、Ravi Coltrane、OMSB、石若駿をはじめ、日本と米国で様々なミュージシャンとの共演を果たしてきた。現在は主にニューヨークを拠点に活動中。

ジャズ・ドラマーとして活躍する一方、プロデューサー/ビートメイカー/MCとして先鋭的な作品作りを続けるKassa Overall(カッサ・オーバーオール)。前作『I Think I’m Good』(2020年)から3年を経て名門Warpから2023年の5月に発表した最新アルバム『ANIMALS』は、ジャズやヒップホップ、エレクトロの要素を絶妙に融合させた実験的な音楽性と思索的なリリック、そしてDanny Brown(ダニー・ブラウン)やNick Hakim(ニック・ハキーム)をはじめとする豪華なゲスト陣も相まって、大きな話題を集めた。

そんな彼が、サックスやパーカッションをはじめ、様々な楽器を弾きこなすマルチ・インストルメンタリストのTomoki Sanders(トモキ・サンダース)やピアニストのIan Fink(イアン・フィンク)、ドラマー/パーカッショニストのBendji Allonce(ベンジー・アロンス)らを引き連れ、昨年10月に自身2度目となる来日公演を行った。東京と大阪、そして朝霧JAMで圧巻のパフォーマンスを披露した彼らは、各会場で老若男女、そしてジャズファンとヒップホップファンの入りまじるオーディエンスを熱狂の渦に巻き込み、その唯一無二の音楽的価値と実力を改めて示してみせた。

TOKIONでは、彼らの来日公演の折に、Kassa OverallとTomoki Sandersにインタビューを敢行。お互いの音楽的素養やキャリアを尊重しつつ、兄弟や師弟にも似た関係を取り結ぶ2人に、アルバムタイトル『ANIMALS』の背景にある思想や、アフリカン・ディアスポラ・ミュージックを分つ「ジャンルに」対する考え方、「家(home)」への思い、Tomokiの実の父、Pharaoh Sandersとのエピソード、日本文化への興味、そして「バックパッキング・プロデューサー」としての心得など、あらゆることを語ってもらった。

『ANIMALS』と抑圧への抵抗

–3年ぶり2度目の来日公演ですね。どんな気分ですか?

Kassa Overall(Kassa):とても興奮しているよ。前回のツアーの後、ヨーロッパのツアーには8回くらい行ったかな。でも日本に来るのはいつも大きなイベントのように感じる。フライトは長いし、ビザを取るために何度も領事館に行かなければならない。とにかく大変なんだ。時差ボケもひどいし。でもそういうものを経て日本に来れたら、この国の独特のライフスタイルに触れることができる。とてもエキサイティングだよ。

–Tomokiさんは、Kassa Overallのバンドの一員として日本に戻って来たことについて、どう感じましたか?

Tomoki Sanders(Tomoki):とても感謝しているし、素晴らしいバンドの一員になれて光栄に感じています。それに、海外のバンドに参加して日本で演奏するのは初めてなんです。日本の音楽シーンで10年近く演奏してきた僕にとって、これは全く新しい経験で、日本ツアーでの3日間が本当に楽しみです。

Kassa: 帰ってきたぜ、マザーファッカー!みたいな気分なんじゃないの?

Tomoki: まあ確かに(笑)「いつか海外のバンドと日本に凱旋して演奏したい」って、周りの人たちにはずっと言ってきましたからね。今回それが叶って嬉しいです。

–まず『ANIMALS』というアルバムのタイトルについてお聞きしたいと思います。このタイトルには複数の意味が込められていると語っていましたよね。まず、観客の前で演奏をする自分を、ときにサーカスの動物のように感じることがあると。もうひとつは、人はときに他者を「動物だ」と形容して、その他者に対する自分の残忍な行為を正当化させると。これは、一義的にはアフリカ系アメリカ人としての視点からの言葉だと思いますが、ガザの問題のように、いま私たちが目の当たりにする世界の様々な問題にもリンクするように感じます。タイトルに込めたメッセージが、自分の想像していなかった、より広い意味で理解されることについて思うことはありますか?

Kassa: まず自分が音楽に取り組む時、そこには何かしらのインスピレーションがある。それはごく個人的なものかもしれないけれど、そこから生まれる作品は、普遍的で時代を超越するようなものにしたいと思って制作しているよ。作品を発表して数年後に何かが起きたとき、聴き返す価値があるようなものをね。つまり、過去に起こったこと、現在起こっていること、そして未来に起こることを物語りたいと思っているんだ。

先日、家族と話している時に、ヨーロッパ中心主義的な文化や、階級、人種、その他いろいろなことについて激しい議論になった。そして結局、僕は「抑圧」に抵抗しようとしている、という結論に行き着いたんだ。抑圧はさまざまなレベルで存在する。国家同士のようにすごく巨大な力が関わるものから、より小さなレベル、例えば家族の中や、マクドナルドでの店長と従業員の関係性に至るまで。どこにだって独裁者のように振る舞う人はいるからね。

だからこそ、人生に対する別の見方を提示するような作品を作ろうと思っている。それと同時に、聴く人がどんな状況にも当てはめることができるよう、透明性やわかりやすさも大切にしているよ。僕の音楽が、なんであれ大変なことを経験している人に、立ち上がるための力を与えられたらいいなと願いながらね。それから、自分自身が抑圧的に振る舞っていないかを考えることも大切だと思っている。自分から離れた物事に対してあれこれ言うだけじゃなくて、自分のことも省みないとね。誰が誰を抑圧しているのか、見分けるのが難しいケースも多い。まあ、善悪をジャッジするのは僕の仕事ではないから、ただ自分が正しいと思うことをするだけだよ。

–それに関して、Tomokiさんは何か思うところありますか?

Tomoki: 確かに、「動物」という言葉は、誰かが他の人の人間性を奪うような場面で使われていると思いますし、それはパレスチナの問題や、数年前のジョージ・フロイド事件やブリオナ・テイラーへの銃撃事件など見ても明らかだと思います。出来事としては、軍隊や警察官が市民を殺害していることだと言えるけれど、その内実を見てみれば、要は人間が、別の人間の命を奪っているということ。本当は命を奪っている側こそ「野獣」を抱えていると僕は思います。とは言え、人間というものの内側にはそれぞれ「内なる野獣」がいて、それを顕在化させるのか、制御するのかの違いなのかなとも思いますね。

音楽を文脈から解き放つこと

–「抑圧」への抵抗という点で言うと、Tomokiさんは別のインタビューで、アフリカ系アメリカ人にとって、フリージャズやヒップホップは、自分たちを抑圧するものや白人中心の社会が作り上げたものから解放されるための手段だったし、今もそうあり続けていると言っていましたよね。

Tomoki:あくまで個人的な解釈ですけど、僕にとってフリー・ジャズは、ジャズという言葉そのものを解放することでもあります。ジャズという言葉が嫌いだと言う人もいるかもしれないし、良いイメージを持っていない人も多いかもしれない。フリー・ジャズは、でたらめな音、でたらめなタイミング、もしくは思いつきのメロディーを演奏するものだと思っている人もいると思う。でもそれは、フリー・ジャズという言葉を説明する上では全く本質的な部分ではなくて。ぼくにとってのフリー・ジャズは、いろんな意味で自分自身を解放することであり、自分らしさや、アーティストとしての楽観的価値観を受け入れる自由さを身につけることなんです。

–なるほど。Kassaさんはそのようなフリー・ジャズ的なマインドセットを体現していると思いますか?

Tomoki:それは間違いないです。彼はブラック・ミュージックそのものを体現していると思います。ツアー中、彼はアンダーグラウンドヒップホップから、僕が聴いてこなかったジャズの名盤まで、音楽をたくさん教えてくれて、僕の音楽の関心の幅も広がったので感謝しています。

–Kassaさんはそれを聞いてどうですか?

Kassa: そうだね。自由(free)っていうのは、社会を成り立たせている文脈から自分を解き放つことじゃないかなと思う。あくまでこれは僕の個人的な意見だけど、音楽ジャンルっていうのは、アメリカの白人文化や、ヨーロッパの白人文化の文脈の中で作られてきたものだと思う。その文化の中で、「この黒人たちが作った音楽を何と呼ぶか?」っていう思案のもと、ある音楽は「ジャズ」と名付けられ、また別の音楽は「ヒップホップ」と名付けられた。でもそれって、文化に枷(かせ)をつけているようなものじゃないかと思う。つまり文化を時代や、特定のスタイルで縛り付けているだけなんじゃないかって。

–おっしゃる通りだと思います。

Kassa: それに対して、ディアスポラ的な性質を軸にして、これらの異なるジャンルをブラック・ミュージック、あるいはアフリカン・ディアスポラ・ミュージックとして、互いに結びつけることができたら、「Aというジャンルは絶対にAで、他のものにはなりえない」というジャンルの束縛から音楽を解き放つことができるんじゃないかな。これは世代間の断絶にも似ていると思う。つまり、孫、母親、祖父、叔父、叔母、いとこ、これらすべての人々が同じ空間に一緒にいれば、個々のパワーは統合されて、倍増する。でも、もしその人たちが1人ずつ100個の小さな空間に分断されていたとしたら、各々がただの単一な存在に過ぎないということになるよね。

そんなふうに分断された考え方で僕の音楽を聞くと、僕はただのラッパーで、何千と存在する他の要素とのつながりなんて意識せずに、ただドラムを叩いている奴ってことになってしまう。だからこそ、「僕にとっては明白だけど、他の人たちにとってはそうじゃないような音楽的なつながりを、作品を通していかに見せられるか」という問いは、自分が音楽を作る上でのモチベーションの1つでもある。それで最初の話に戻って、「どうすれば文脈から抜け出せるのか?」と考える。「僕は、既存の文脈の中で、自分以外の存在として定義されることなく、ただそれ自体として存在することはできないのか?」と。でも、こうやって話し始めると堂々巡りになってしまうし、話している僕自身も混乱してしまうから、結局は黙々と作品を作って、その作品自体に語らせる、っていうやり方のほうが好きかもしれないね。

–なるほど。ちなみに先ほどツアー中にTomokiさんはKassaさんからアンダーグラウンド・ヒップホップを色々と教えてもらっていたと言っていましたが、どんなアーティストを教えてもらったんでしょうか?

Kassa: さあTomoki、勉強の成果を披露する時だね。アンダーグラウンド・ヒップホップの名盤20選を挙げなさい(笑)

Tomoki: (ビートボックスをしながら)Kassaに教えてもらった曲のこのビートがずっと頭から離れないんですよね。

Kassa: それはSchoolly Dだね!フィラデルフィア出身の元祖ギャングスタ・ラッパーだよ。NWAやIce-Tにも影響を与えた人物。

Tomoki:そうそう。Schoolly DはKassaから教えてもらったラッパーの中でも印象に残っているアーティストです。他にも、主に90年代初期から90年代中期のヒップホップを色々と教えてもらいました。そのあたりを知ることで、改めてヒップホップ文化とは何たるかを深く知ることができた気がします。僕にとってのヒップホップのスタート地点は、Biggieや2Pacで、そこからA Tribe Called QuestやJay-Z、あとはKanye WestやThe NeptunesやTimbalandを聴いていました。僕は、それらの音楽のルーツはどこなのか、源流のようなものを知るのが好きなオタクなんですよね。Kassaは僕とは世代が違うし、子供の頃からヒップホップをたくさん聴いて育ってきた人。彼が聴いてきた音楽は、僕に取っては知識として欠けていた部分だったので、完全に勉強モードで、ヒップホップの源流に近い音楽をたくさん吸収させてもらいました。

Make My Way Back Homeの問い

Kassa Overall – Make My Way Back Home (feat. Nick Hakim & Theo Croker) [Official Video]

–『ANIMALS』に収録されている『Make My Way Back Home』についてお聞きします。最近個人的に、Eric B. & Rakimの『In The Ghetto』という曲を聴き返していて、この中で「It ain’t where you’re from, it’s where ya at(どこから来たかじゃねえ。どこにいるかなんだ)」というパンチラインがあるんです。それと対照的に、Kassaさんの『Make My Way Back Home』は、「別に家に帰ったっていいんだよ」というタイトルにも現れているように、人の弱さや繊細さを受け入れていて、まさに今の時代のヒップホップという感じがしました。それも、先ほどおっしゃっていた「抑圧」に抗うことにつながるのかなと思ったんですが、どうですか?

Kassa:なるほど。考え方がより現代的に進化したんじゃないかってことだよね?確かに、より繊細な物言いにはなっているね。でも、この曲のリリックをよく聞くと、「You could cry to your mama, but she don’t want no drama (母親に泣きついたっていい。でも、母親はドラマを望んではいない)」と言っているよね。確かに繊細な物言いにはなっているんだけど、結局のところErik B.とRakimの曲と同じメッセージを歌っているんだよ。つまり、「自分の世話は自分でするんだ」ってこと。その後の「I’ve been washin’ on my karma, got me working like a farmer(自分のカルマに向き合い、そのために農民のように働いた)」っていうリリックも同じだよ。わかるだろ?家が恋しくなったり、親のいる家に帰りたいと思ったりすることもあるだろうけど、実際のところ、世界は僕のことなんて大して気にもしていない。自分でレベルアップしなければならないってこと。

Erik B.とRakimの「どこから来たかじゃねえ。どこにいるかなんだ」っていうリリックには二重の意味があって、実際の場所というよりは精神性の話をしているよね。つまり、精神的な面において、どこからスタートしたかは重要ではなく、どこまで自分を高められたかが重要だってこと。だからどちらの曲にしても、自分を向上させないと始まらないよね、っていう話をしているんだよ。

–なるほど。ありがとうございます。ちなみにTomokiさんは文字通り日本の家に帰ってきたわけですけど、この曲に特に感じ入る部分はありますか?

Tomoki: 実は家にいる間、この曲をずっと聴いていました。今回のツアーで実家に帰って、1年ぶりに母に会ったんです。僕がKassaのツアーにも参加していることを、母はとても喜んでくれました。今回の来日を通して、母には僕の新しい一面を見せられると思いますし、自立した大人の姿を見せたいとも思っています。そういう意味で、この曲が自分の今のライフステージに共鳴する感覚はあります。日本にいられる期間は短いから「もう少しここにいたいよ」と母に泣き言を言うこともできるけれど、そこから成長する必要があるとも思っています。繰り返される物事や、懐かしく心地よいと感じるようなものを断ち切らないといけないなと。ある程度の年齢になって自立心が芽生えたら、誰かの子供であることに甘んじるのではなくて、自分の世話は自分で見られるようにならなきゃいけないんだと思います。

Kassa: そうそう、この曲にこめたメッセージはまさにそういうことだよ。

Pharaoh Sandersへの思い

–ご家族の話が出たので、もう少しだけTomokiさんにうかがいます。父親であるPharaoh Sanders氏が2022年に亡くなったことは、音楽ファンにとっても悲しい出来事でしたが、Tomokiさんが息子として経験した悲しみは想像を絶するものだと思います。話せる範囲で、お父様との時間について話してもらえますか?

Tomoki:父は、2022年のWe Out Here Festivalで一緒に演奏した数週間に亡くなりました。僕は最期の日まで、父のそばで身の回りの世話をしてきたので、彼を目の前で看取ることができたんです。もちろん亡くなってすぐは現実を受け入れるのがとても辛かった。2022年の後半から2023年の初めにかけて、まるでひどい悪夢を見ているかのようでした。でも時間が経つにつれて、痛みを経て少し強くなった実感もあるし、学びもありました。彼が亡くなったことで、僕の楽観的な考えを失ったり、自分という人間がわからなくなったり、あるいはこの世界で自分がやるべきことを見失ってはいけないし、そうならないための方法を見つけなきゃいけない。僕にとって父の音楽を聴いたり、演奏したりすることは、彼をただ懐かしんで思い出に浸ることではなく、彼がどんな人物であったかを改めて噛みしめる、ある種の癒しのようなものなんです。

–ありがとうございます。Pharaoh氏とのつながりで言うと、Lil BやShabazz Palaces、Francis and the Lightsをフィーチャリングに迎えた『Going Up』は、その楽曲の複雑さや完成度もさることながら、Pharaoh氏がトンネルの中で『Kazuko』を演奏している映像へのオマージュが含まれている感動的なMVも印象的でした。映像を制作したNoah Porter(ノア・ポーター)長年のコラボレーターですが、それぞれの曲のビデオはどのように作っているんですか?

Kassa:一緒に何かを作る上では、信頼関係が重要だと思っている。僕が作品を制作しているとき、一緒に仕事をしている人たちは僕が具体的に何をしているのかわかっていないことが多いんだ。まあ、単に作品作りの進め方が違うだけかもしれないね。だから、コラボレーターから「君がやりたいことってこういうこと?」みたいな感じで確認されることが多いんだ。僕は大抵「そうそう、そんな感じ。」と答えるんだけど。

つまりここで言いたいのは、僕も他の人たちと一緒に仕事をする方法をちゃんと学ばなければならないということ。僕は、Noahのようなコラボレーターと一緒に仕事をしているとき、彼らの持っているビジョンをちゃんと把握していないことが多い。彼らが僕のやっていることを理解していないようにね。とは言え、彼の仕事ぶりは理解しているし、彼が何を見て、どういう能力があるかはわかっている。要は信頼関係の問題なんだ。彼と一緒に仕事をするのはとても勉強になるし、毎回、最終的に出来上がる作品は、自分ひとりでは思いつかないようなものばかりだよ。だから、彼との仕事は大好きなんだ。

Kassa Overall – Going Up (ft. Lil B, Shabazz Palaces, Francis and the Lights)

–ではトンネルでの撮影も彼の提案なんですね?

Kassa:そうだね。曲に参加してるLil BもMVに出てもらいたくて結構長いこと調整したんだけど、結果的に参加できなかったのはちょっと残念だったけどね。

日本文化のレイヤー

–ちなみにPharaoh氏は、初めて触れた日本文化から受けた感銘を表現した美しい楽曲『Japan』を発表していますね。

Tomoki:確か、父はJohn Coltrane(ジョン・コルトレーン)との日本でのギグの後にあの曲を書いたはずです。父にとって最初の海外公演が、Johnが亡くなる1年前に行った彼の最後の日本ツアーで、父はその時26歳でした。父は、初めて乗った0系新幹線の中で、あの曲を書いたと言っていましたね。戦後の高度経済成長で盛り上がる日本で、ニューヨークや彼の故郷であるアーカンソー州リトルロックでは見ることのできない、まったく新しい世界を目の当たりにして、未知のことをたくさん経験したんだと思います。だからこの曲自体が、彼の日本での経験を、写真を撮るような感覚で記憶したものなんだと思います。僕も日本は好きだから、この曲を書いた父の思いは理解できますね。

–Kassaさんは、日本にたくさんのファンを抱えていますよね。

Kassa:そうだね。ファンの数で言ったら、アメリカより日本の方が多いかもしれないね。

–それは日本文化とKassaさんの音楽の相性が良いということなんでしょうか?Kassaさん自身は、日本文化にはどんな印象を持っていますか?

Kassa:実はさっき朝食をとったレストランが、現金払いのみだったんだ。そしたらバンドメンバーの1人が、「日本は未来のテクノロジーの国じゃないのか!なんで現金だけなんだよ!」って嘆いていたよ(笑)。

それで僕が思ったのは、どんな文化だって一枚岩じゃないってこと。そうだろ?東京はまるでスター・ウォーズの世界のように近未来的だけど、日本には、そういったテクノロジーと同じくらい、伝統的で有機的なエネルギーがある気がする。それは、僕の音楽のあり方にも似ている気がしていて、その部分が日本でたくさんの人が僕の音楽を聞いてくれている理由なのかなと思うことがある。僕の音楽はエレクトロニックでグリッチ的で奇妙だけど、すごく有機的でもあって、その両方が一緒になっている。うーん、言いたいことをいちから説明すると、とんでもなく長くなっちゃうな(笑)。今話したのは、ほんの前置きなんだ。

–全部話してくれて大丈夫ですよ(笑)

Kassa:まあ要約して言うと、あらゆる文化は何層にも折り重なった層になっているということ。そして日本文化に関して、僕はまだ、その層の表面に触れただけだと感じている。日本に滞在していて良いなと思うのは、公園の中でも、街中でも、朝食の時でも、とても静かなところだね。それは、僕の好きなレコードの音にも似ていて。僕は、繊細で、収録された時の「空気」が聴こえるようなレコードが好きなんだ。だから、そういう要素を持ち合わせたレコードをディグっているんだよね。

それから、日本で生まれたスピリチュアルな要素にも若い頃からずっと惹かれていた。瞑想とかね。でも、これらはすべて表面的なものに過ぎないということも理解している。だから、日本でこういった事象が起きている理由や、この両極的な要素がどこから生まれてくるのかをもっと深く知りたい。でもTomokiは、この日本の「静けさ」を、僕ほどは好きじゃないんじゃないかもしれないね。Tomokiはいつもアゲアゲだから、「こんな静かな場所は我慢できない」ってなるんじゃないかな(笑)僕はどんな文化も好きだけど、独特な特徴がある日本の文化にはとても興味があるし、もっと深く知りたいと思っているよ。

–なるほど。Kassaさんの音楽の多面的な部分が、日本で多くのファンを惹きつけている理由という分析は面白いですね。

Kassa: 何年か前、まだ今のように多くのファンがいなかった時、「僕は日本では有名なんだぜ!」ってよく冗談で言っていたんだ。SoundCloudとかに曲をアップして、「知らないのか?この曲は日本で売れてるんだぜ?」っていう感じでね(笑)まあ、正確にはわからないけど、僕の音楽は日本と相性のいい多面性を体現しているのかな。それでこうしてツアーに来られているんだから、日本のファンには感謝しているよ。

場所を言い訳にしない方法

–Kassaさんに日本の「静けさ」があんまり好きじゃないんじゃないかと言われていましたが、Tomokiさんは日本とアメリカ、どちらが自分らしくいられると思いますか?

Tomoki:比べるのは難しいけれど、状況によりますね。僕が拠点を置いているニューヨークは、夜中にジャムセッションに出かけたりできるし、そういう自由なライフスタイルを楽しめる場所です。一方で日本にはニューヨークにはない良さがありますね。安全だし、平和で穏やかな環境があるし、人もみんな礼儀正しいし。今回は、1ヶ月日本にいるけれど、母に会ったり、温泉に行ったりして、とても癒されました。そして、僕の地元である水戸市のスタジオにも行って、毎晩レコーディングをしたり、オーナーに70年代のラテン音楽や、アフリカ音楽のコンピレーションCDを聴かせてもらったり。でも同時に、僕は忙しく動き回っていたい人間なので、そういう部分は日本よりもニューヨークが合っているなと感じます。

–それに関連して、Kassaさんは、シアトルやニューヨークを行き来する生活をしていると思いますが、移動が多い生活の中で心地よい時間を過ごすために心がけていることはありますか?

Kassa:2013年から2016年くらいにかけて、Dee Dee Bridgewater(ディー・ディー・ブリッジウォーター)やTheo Croker(セオ・クロッカー)と一緒に、常にツアーをしているような生活を送っていた。その時は、日課や朝のルーティンを持つことに夢中で、どこにいたとしても、場所を言い訳にしない方法を模索していたんだ。だからまずはバッグいっぱいの本を持ち歩く代わりに、小さな電子書籍リーダーを買った。その中には、スピリチュアルな本から、瞑想的な自己啓発本、そしてどこでもできる運動法の解説本など、たくさんの本が入っていた。そんなふうに「何も必要としない」生活パターンを作り始めたんだ。次第に、居心地良く過ごすために必要なことは全てできるようになった。それからは自分がどこにいるかは問題ではなくなり、どのくらい時間があるか、という問題にフォーカスするようになった。それは音楽制作に関しても同じで、自分自身が音楽スタジオを「携帯」できるような方法を模索してきたんだよ。

–以前、自分自身を「バックパック・プロデューサー」と呼んでいましたもんね。

Kassa:そうだね。実は今朝も、ホテルでビートボックスをしていたんだ。そしたらガールフレンドがそのビートを気に入ってくれたから録音した。そのあと、一緒にジョギングに行くことになっていたんだけど、彼女は身支度に時間がかかっていた。だから彼女を急かす代わりに、録音したビートボックスを基にしてビートを作っていたんだ。

ビートボックスをやっていた時に、彼女がHerbie Hancockの『Watermelon Man』の冒頭のフレーズを歌っていたんだ。それが良い感じだったからサンプリングをして、ビートに合うようにスピードを上げ、少し音数を減らした。(録音したビートを流しながら)こんな感じにね。概して言えるのは、アイデアを得るためには様々なテクノロジーが必要で、スタジオに入ってあれこれ作業をしなきゃいけないと思うこともあるけれど、「速さ」が最良のテクノロジーってこと。より良いクオリティを追求するのは重要だけど、すぐに動き出せるってことが何より大切なんだ。おっと、どんどん話が逸れてきちゃったね(笑)

–いえいえ。面白いお話をありがとうございました。最後に日本のファンに何か伝えたいことがあればどうぞ。

Kassa: 僕の音楽を聴いてくれてありがとう。もし僕が作った作品を気に入らなかったとしても、僕は1人の人間で、常に成長し、変化し続ける人間であることを忘れないで。そして、やりたいことがある人は、それがたとえ他の人に認められなかったとしても、自分がいいと思うのならそれを追求してほしい。

Tomoki:じゃあ最後は日本語で話しますね!カッサ兄さんの素晴らしい音楽を聴いてくれているみなさんに感謝しています。これからもカッサ兄さんの音楽を楽しんでください!今後ともよろぴくー!

Kassa: ん?Tomokiはなんて言ったんだ(笑)?

Photography Mayumi Hosokura
Special thanks Miho Harada

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映画『すべての夜を思いだす』で清原惟監督が描く「不在の存在」——「失われてしまったと思うものも存在している」 https://tokion.jp/2024/02/28/interview-yui-kiyohara/ Wed, 28 Feb 2024 03:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225438 映画『すべての夜を思いだす』の清原惟監督へのインタビュー。本作で描きたかったことについて話を聞いた。

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清原惟
1992年生まれ。映画監督、映像作家。武蔵野美術大学映像学科卒業、東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻監督領域修了。修了制作『わたしたちの家』がベルリン国際映画祭に正式出品、上海国際映画祭で最優秀新人監督賞を受賞。『すべての夜を思いだす』もベルリン国際映画祭に正式出品され、ほか世界各国の国際映画祭に招待される。昨年秋には北米で劇場公開された。最新作として、愛知芸術文化センターオリジナル映像作品『A Window of Memories』がある。ほかにも土地や人々の記憶についてリサーチを元にした映像作品の制作をしている。
X:@kiyoshikoyui
Instagram:@kiyoharayui

父親を失った少女と記憶を失った女性、2人の物語が一軒の家の中で交錯するデビュー長編作品『わたしたちの家』でPFFアワード2017グランプリ、第68回ベルリン国際映画祭フォーラム部門に正式出品されたことで話題の映画監督、清原惟。5年ぶりの最新長編作品『すべての夜を思いだす』は、東京の郊外・多摩ニュータウンを舞台に、世代の異なる3人の女性の記憶や変化が小さく呼応する、ある一日の物語。本作も第73回ベルリン国際映画祭フォーラム部門に正式出品されたほか、世界各国の映画祭に出品された。

彼女の作品は、構造が美しい。独立しつつもお互いが影響し合うような関係で人々が存在し、映像、音など映画を構成するものが優しく、時に不穏に響き合う。また、舞台となる場所も、現存するのにそうは見えない摩訶不思議さがあり、想像を掻き立ててくれる。前作とはまた異なる世界観をつくりあげた清原監督に、幼少期の記憶をたどりながら多摩ニュータウンや本作で描きたかったことについて話を聞いた。

幼少期に過ごした「多摩ニュータウン」の記憶

——前作『わたしたちの家』は家が舞台だったこともあり、内向きな印象がありましたが、本作『すべての夜を思いだす』は他者や社会など外の存在と私が交錯し、前作とはまた違う温かさや余白を感じました。それは、撮影監督・飯岡幸子さんのカメラワークによるところもあると思うのですが、例えば冒頭、カメラが人を追いかけるのではなく左右に振れて、人々の表情を映すようにやり取りをとらえる。そこで画面の外で思わぬことが起きていると気がつき、ハッとさせられました。左端にいらした変なおじさんの映り込み、大好きでした。

清原惟(以下、清原):あのおじさん、よかったですよね。

——撮影を気にせず、ラジオ体操のような、不思議なポーズを取られていましたよね。

清原:あの方はキャストではなく、たまたまそこに居た人で、最初は普通に座っていただけだったんですけど、何度か撮影を重ねていたら、いつの間にかあのポーズになっていました(笑)。

——映画だとスクリーンに映ったことがすべてだと思いがちですが、私達の世界にもスクリーンの外にもいくつもの世界が広がっていて、人間が生きていて、そういう広い視点になれる素晴らしい冒頭でした。

清原:ありがとうございます、嬉しいです。

——「多摩ニュータウン」を舞台に選ばれた理由は?

清原:私が幼稚園くらいのころまで住んでいた街で、いつか映画に撮りたいと思っていました。コロナ禍で、私自身も家の周りをよく散歩していたのですが、そこで外に出たい気持ちが大きくなったのかもしれません。ある時、ふと思い出したように多摩ニュータウンを久しぶりに訪れてみたら、当時の記憶がぶわっと蘇ってきて。長い距離を歩きながら、この街全体を1つの空間のように撮りたいと思ったんです。

——どんな思い出がある街ですか?

清原:公園がたくさんある場所なんですね。団地と団地の間に必ず公園があって、名前の付いていない小さな公園も無数にありました。小さな頃は、いろんな公園を巡って遊んでいたことを懐かしく思い出しました。毎日冒険みたいで楽しかったけれど、一方でなんとなく“寂しかったこと”も覚えていて。ネガティブだけではない感情なのですが、公園の風景と寂しかった記憶は多摩ニュータウンの原風景としてあります。

——寂しさを感じたのは、どうしてでしょうか。

清原:はっきり覚えていないのですが、とてつもなく広い面積に対して人が少ない印象がありました。友達もいたけれど家族以外と頻繁な交流があったわけではなく、その日公園で会った友人と遊ぶ。年代によってはコミュニティが強固だったようですが、次第に解けていって、私自身は決まったところに属せていない感覚がありました。それが、寂しさに結びついたのかもしれません。

「死」が意図的に排除されたような街であえてそれを撮ろうと思った

——公式インタビューにある「多摩ニュータウンは基本的に生活に必要な機能がほぼすべて揃った形で開発されているのですが、実は火葬場やセレモニーホールのような『死』をあつかう場所は都市計画に含まれていない」というコメントが非常に印象的でした。それは、歩きながら気づかれたのですか。

清原:知らないところはないくらい多摩ニュータウンをたくさん歩いたのですが、その時に計画的に開発された区画とそうではない区画にはっきり違いがあることを知りました。本来なら、街と街は地続きに溶け合っているのに、ニュータウンは他と景色が全く違う。明確に境界線が引かれているんです。区画外に出ると急に神社が現れて、その階段をくだるとセレモニーホールが見えたりして「死」が都市計画から排除されていると感じました。そうした場所で、あえて死にまつわることを撮ろうと思ったんです。

——映画の中にも区画外の場所は登場しますか?

清原:多摩ニュータウンは多摩ニュータウン通りと南多摩尾根幹線道路という2つの大きな道に囲われるように建設されています。なので、街を出る時は必ず大きな道路を通らなきゃいけない。夏(見上愛)は隣町の写真屋を訪れるために、南多摩尾根幹線道路を走っていきます。

——登場する女性3人は、それぞれに「死」や「喪失」といった影を落としていますが、対称的なシーンとして「踊る」シーンが素晴らしかったのですが、なぜ入れたのでしょうか。

清原:まさに、踊りは生きていることを実感できる行為の1つだと思っています。「死」に対抗する手段としての踊りというものを、考えたりすることがあります。人工的なあの街で、人間が生きることの生々しさみたいなものを映したいと思った時に、「踊る」行為そのものを映したいと思いました。

——踊りのジャンルもユニークでしたよね。コンテンポラリーダンスのような。

清原:夏が踊っていたのは、ヒップホップをベースにした踊りです。ヒップホップを取り入れたのは、ストリートで始まり人々を魅了してきた踊りだからです。たった1人でも、道で踊ることで誰かの心を動かすことがあるかもしれないし、踊っている人がこの街にいることで風景が明らかに変わって見えるということもあるのではないかと思いました。

音楽が映画の感情みたいなものを増大させる装置にならないように

——早苗(大場みなみ)が遭遇する記憶がおぼつかないおじいさんの足取りが、なんとなく死に向かって歩いていくような寂しさを漂わせていたのですが、そうした時に差し込まれる踊りのエネルギー、同時に音楽にも気持ちが高ぶりました。全編を通して音楽も素晴らしかったです。

清原:ありがとうございます。音楽はジョンのサンとASUNAさんにお願いしていて、私も好きなダンスシーンの音楽はESVさんが作ってくださった曲なんです。

——音楽に関してはどのようなやり取りがあったのでしょうか?

清原:基本的には音楽家の方々に脚本を読んだ上で任せるかたちでつくっていただきました。私が伝えていたのは、音楽が映画の感情みたいなものを増大させる装置にならないでほしい、ということ。

冒頭で登場するジョンのサンが劇伴をつくってくれたのですが、彼等がつくる音楽も1つの登場人物として映したかったので、映画に登場してもらいました。彼等の音楽が、今も街の何処かで鳴り響いているようなイメージで映画が進むといいなと思い、そうしたイメージも伝えました。

——街自体も人が住んでいるとは思えないような静けさがありましたよね。

清原:車が走る道と人が歩く道が分離されているエリアなので、都会ほど人間の生活音が聞こえてこない場所かもしれません。車の音が聞こえない代わりに、虫や風といった自然の音がよく聞こえる場所です。

——そういった静かな音にも集中できるくらい、あまり台詞の多い映画ではなかったと思うのですが「わかりやすさ」みたいなことは、どのくらい意識されて撮っていましたか?

清原:基本的には、一生懸命伝えようとしています。自分の中ではこれくらいなら伝わる、と思って作っているのですが、どうでしょう(笑)。その塩梅は難しいですよね。ただ、伝わらなくてもいいや、とは一切思っていないです。

前作『わたしたちの家』が、意図的だったわけではないのですが結果的にたくさんの謎を生み出してしまいました。それは「わかりやすさ」とは違うベクトルかもしれないのですが……謎があると人は答えを欲するんだと気がついて、その答え合わせのようなことは私自身興味を持てないんです。なので、今作は答えを求められるような謎みたいなものはつくらないように、とは心がけていました。

——伏線回収という言葉があるように、謎を見つけて意味を見出すことを求める流れがありますよね。もちろん、そうした物語のおもしろさもわかりますが、想像する楽しさや豊かさを映画に求めたいという思いもあります。

清原:説明台詞によって額面通りに受け取られてしまうと、それ以外の可能性がすべて消えてしまうような気がしていて、これくらいの台詞になっているのかもしれません。いろんな可能性を秘めながら映画を観たい、という個人的な考えもあると思います。

不在の存在を確かめるように描く

——映画を拝見して、物語において「不在」を意識的に撮られたのではないかと想像しました。ハローワークでぶち当たるアイデンティティの不在、親しい人の不在、ままならない態度の彼を横に見る幼少期のビデオから誰かに愛されていた事実の不在、のようなことを想像したのですがいかが思われますか。

清原:なるほど、そういう視点は新鮮です。私は、どちらかといえば「既に失われてしまったと思うものも存在している」という感覚でこの作品をつくったと思います。不在とも捉えられるのだけれど、見方によっては失われていない。例えばおじいさんがかつて住んでいた家は空き家で、そこにあった思い出も何もかも消えてしまったかのように感じるけれど「記憶」として残り続けていると思うんです。つまり、「不在の存在」のようなことを意識して撮っていました。ビデオテープも、忘れていた過去の記憶が存在しているというイメージでしたが、おっしゃっていただいたような捉え方もあるなと思いました。

——見方によって、全然違うものですね。

清原:私も普段は失ってしまったことに気がついて、落ち込んでしまうことはよくあります。そういう感覚は当然持っているけれど、この映画をつくる時は「失っていないと思いたい」という感覚でした。

——「失っていないと思いたい」と思うようなできごとがあったのでしょうか?

清原:たびたびそう思うのですが、今思い出したのは、私の家の近くに友達が住んでいたことがあって、すごく近かったのでしょっちゅう会っていたんですね。帰り際にちょっとだけ話したり、物を受け渡したり、まるで自分の家の離れのようなふしぎな距離感だったのですが、友達が引っ越してしまって。駅までの道に友達の家があり、がらんどうになった家の前を通るたびに「友達はもういない」と不在を確認していました。それが、最初は寂して、楽しかった思い出がすべてなくなってしまったような感じがしました。

でもあるとき、ふと、友達の家で遊んだ日のことや会話が蘇ってきて「あの時間はなくなったわけじゃなくて、今もここにある」と思えたんですね。家の中に時間が残っているような感覚を覚えて。

——時間が経つと、物事が多面的に見える瞬間がおとずれますよね。

清原:私は時間が決して直線ではないと思っていて、直線だと失うという感覚を持つけれど、時間は複数に点在しているかもしれない。年齢や時計に合わせて、ふだんは自分自身も一直線に進んでいるけれど、ときどき時間の複数性を感じて、見え方がガラリと変わります。

——その感覚はこの映画とつながりますね。3人それぞれの時間が過去・現在・未来と一直線ではなくて複数に点在していて、それぞれの時間や記憶を行ったり来たりしていたのかもしれないと思いました。撮影をしながら、幼い頃に抱いていた街に対する印象は変わっていきましたか?

清原:だいぶ変わったと思います。幼い頃の記憶なので、多摩ニュータウンは思い出の中の一部であり、外部の人間の視点しか持っていませんでした。映画を撮るにあたって、昔から住んでいる方々にインタビューをして、私が知らなかったかつての街の景色を教えていただいたんですね。そうした目線で街を歩き直すと、見え方や印象はずいぶんと変わりました。

——印象的なエピソードはありましたか?

清原:コミュニティが非常に強固だった、というお話ですね。特に1970、80年代は似たような家庭環境の方々が住んでいて、お母さん達は都心に通勤する旦那さんを見送ったあと、近所の子ども達と公園で遊ばせながら母同士でおしゃべりをして、何かあった時に助け合っていたそうです。共同保育のような、みんなで子どもを育てる意識があったと聞きました。

あとは、地域の課題を解決するために女性達で集まって話し合っていたと聞きました。例えば、当時はごみの分別ルールがなく、社会全体でリサイクルが課題になっていたそうです。そうした社会の動きを自分ごとにとらえて、リサイクルのルールを女性達で定めて街に働きかけたそう。街に対して具体的にコミットして、地域を変えていった歴史にはおどろきました。

——登場する3人が決して絶望的ではなく迷いながらも生きていく光のようなものを纏っていて、それは女性達が強く生きた土壌のある“ここ”だから交錯するのだと、今の話を聞いて思いました。

清原:かつての女性達のように、声を上げて具体的なアクションを起こすことも大事ですが、今の時代はそこまでできないこともあるかもしれない。それでも、踊ったり、自分なりにできることが誰かを動かしている可能性もあるのかなと思います。

Photography Mikako Kozai(L MANAGEMENT)

■『すべての夜を思いだす』

■『すべての夜を思いだす』
第26回PFFスカラシップ作品
3月2日からユーロスペースほか全国順次公開 
出演:兵藤公美、大場みなみ、見上愛、内田紅甘、遊屋慎太郎、 奥野匡、能島瑞穂、川隅奈保子、中澤敦子、佐藤駿、滝口悠生、高山玲子、橋本和加子、山田海人、小池波
脚本・監督:清原惟
製作:矢内 廣、堀 義貴、佐藤直樹 
プロデューサー:天野真弓 
ラインプロデューサー:仙田麻子 
撮影:飯岡幸子
照明:秋山恵二郎
音響:黄 永昌
美術:井上心平
編集:山崎梓 
音楽:ジョンのサン&ASUNA 
ダンス音楽:mado&supertotes, ESV 
振付:坂藤加菜
写真:黑田菜月 
メインタイトルロゴデザイン:石塚俊
制作担当:田中佐知彦 半田雅也 
衣裳:田口慧
ヘアメイク:大宅理絵 
助監督:登り山智志
製作:PFF パートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人 PFF 
制作プロダクション:エリセカンパニー
配給:一般社団法人 PFF 
©2022 PFF パートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人 PFF

■『清原惟監督作品「すべての夜を思いだす」オリジナル・サウンドトラック』

■『清原惟監督作品「すべての夜を思いだす」オリジナル・サウンドトラック』
アーティスト:ジョンのサン、ASUNA、mado & supertotoes、ESV 
企画番号:WEATHER 85 / HEADZ 262
価格(CD):¥2,530
発売日:2024年3月8日 ※3月2日からユーロスペースにて先行発売予定
フォーマット:CD / Digital
http://faderbyheadz.com/release/headz262.html

■映画『すべての夜を思いだす』公開記念コンサート
日程:2024年3月17日
出演:ジョンのサン & ASUNA、ESV
会場:パルテノン多摩オープンスタジオ
https://www.parthenon.or.jp/access/
時間:開場 13:00 / 開演 13:30
料金:予約 ¥2,500 / 当日 ¥2,800
http://faderbyheadz.com/release/headz262.html
https://twitter.com/HEADZ_INFO/status/1760575623926607965

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誰もが楽しめるオープンスペースとしてのアート ステファン・マルクスインタヴュー -前編- https://tokion.jp/2024/02/27/interview-stefan-marx-part1/ Tue, 27 Feb 2024 10:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=224773 ファインアートからコマーシャルの分野まで多面的に活躍してきたステファン・マルクスに、創造の原点について話を聞いた。

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ステファン・マルクス

ステファン・マルクス
1979年ドイツ生まれ。ハンブルクからベルリンを拠点に移し、活動するアーティスト・イラストレーター。ドローイング、スケートボード、本、スケッチブックなど、彼が「愛するもの」を活動源とし、作品集の出版、アートエキシビション、パブリックアート、レコードジャケットのデザインなど幅広い分野で才能を発揮している。ドローイングや絵を通して彼の世界観、思想、スケートボーダーとしてのインディー精神を表現し、独自の目線で世界を描く。弱冠15歳でインディペンデントT シャツレーベル「Lousy Livin’Company」を立ち上げ、少数生産ながらクオリティー・クリエイティビティの高いT シャツをデザインしている。また、ブランドや企業とのコラボレーションも多数手掛けており、「マゼンタ・スケートボード」や「ファイブ ボロ」等のスケートボードブランドから「イケア」までプロジェクトは多岐にわたる。これまでに「Nieves」や「Dashwood Books」等の出版社から数々の作品集が出版されている。
@stefanmarx

ドイツ・ベルリンを拠点に活動するアーティスト、ステファン・マルクス。彼は少年時代から愛好しているスケートボードや音楽などのカルチャーの影響から、Tシャツやレコードジャケットのデザインといった創作活動を始め、その後ファインアートの分野に進出。インスピレーションが凝縮された浮遊感のあるタイポグラフィは、読み取る各人の想像力を利用し、非限定的なイメージの拡張をもたらすデバイスのような効果を持つ。

また、日常の観察と絶え間ないプラクティスによって生み出されるドローイングは、ストリートグラフィティよりも柔和で愛らしくコミカルな印象で、素直な感性が幅広い層に共感を呼び起こしている。

さらに彼の作品が構築的な空間やアーキテクチャ・プロダクト上に施されることにより、形而下の意味を超えた暗示のようなインパクトが生じ、場所や存在に新たな意味をもたらす。

自身の創造性を発展させつつも、彼のインディペンデントな姿勢は不変で一貫しており、近年では「シュプリーム」や「コム デ ギャルソン」等のファッションブランドとのコラボレーションをする等、アートとコマーシャルの融合についても可能性を広げてきた。

今回来日したステファンにインタビューを実施。前編では彼が創作活動をスタートした背景、ストリートカルチャーへの熱中と溢れ出るアイデアをレーベル活動へと昇華させていった少年時代、グラフィックと音楽のクロスオーバー等、キャリア初期からのアティテュードについて話を聞いた。

多様なカルチャーの人々が交差する地点を目指して

−−アートを志すようになった経緯、バックグラウンドについて教えてください。

ステファン・マルクス(以下、ステファン):ドイツのシュヴァルムシュタットで生まれ、トーゼンハウゼンで育ちました。とても小さな街です。小さい頃からアートやタイポグラフィ、グラフィックアートが好きで、その後スケートボードのカルチャーに興味を持つようになりました。当時はまだインターネットが普及していなかったので、雑誌などが主な情報源でしたが、田舎では洗練された雑誌を見つけることはすごく難しかったですね。

そんな環境下だった15歳の時、スケートボードをする友達のために服を作りたいと思い、「Lousy Livin’ Company」というTシャツのレーベルを始めました。

その後ハンブルクの大学に進学しましたが、学業だけでなく、自分のレーベルのTシャツデザインを継続し「CLEPTOMANICX」というスケートボードの会社にグラフィックを提供する仕事もしていました。

大学卒業後、ハンブルグを拠点に活動するKarin Guentherというキュレーターとの出会いが転機となり、ギャラリーで作品を発表できることになりました。ファインアートの創作活動と並行してコマーシャルワークは続けていて、自分のレーベルのカタログを作ったことをきっかけに、自分自身のドローイング作品をまとめたZineを作るようになりました。スイスの出版社「Nieves」のベンジャミンがそのZineを気に入ってくれて、翌年ベンジャミンと一緒に本を制作しました。そこから毎年、「Nieves」から本を出版し続けています。

−−少年時代の情報が限られていた環境下で、アートやタイポグラフィ等への興味や関心をどのように発展させていったのでしょうか。

ステファン:何か特別なきっかけがあったわけではないですが、幼少期から視覚的な表現に興味があり、「絵を描く」という行為に楽しみを見出して没頭していました。常に何かを描いてましたね。誰しも子どもの頃は絵を描くのが好きだったと思いますが、僕は大人になっても描くのをやめずにずっと続けている感じです。絵を描くことが純粋に好きなんです。

また絵を描くことによって、自分の身の回りにあるものを観察してヴィジュアル的にエッセンスを吸収し、イメージを人と共有することができる。それが大きなモチベーションとなっていて、今でも絵を描き続けているのではないかと思います。

−−15歳という若さで自身のレーベル「Lousy Livin’ Company」を設立されたことについて、当時の具体的な活動内容や目標を教えてください。

ステファン:当時スケーターの友人の間でアメリカのスケートブランドの人気が高かったんですが、ドイツではとても高額で買えなかったので、代わりのものを自分で作ろうと思い、レーベルを始めました。

スケートボードに関心を持った時、それを取り巻くカルチャー全般、ファッションやグラフィック、音楽等にも興味を持ち、それが服作りにも繋がっていきました。既存のデッキやTシャツのデザインについて、「もっとこうしたらおもしろくなる」というアイデアがいっぱいあったんです。

レーベルを始めたばかりの頃は、アイテムの作り方や運営方法など全く知識がなかったので、周りの大人達に聞いて情報を集めました。そしてシルクスクリーンでTシャツにプリントしてくれる会社を見つけたんです。姉に制作費用を借りて一番最初のTシャツを作りました。

レーベルは1人で運営していたので、デザインだけでなく自分でできることは何でもやりました。スケートショップの卸の会社に行って自作のTシャツの営業をしたり、学校の校庭で友達に売ったり(笑)。自分が作ったものを見てもらいたくて、楽しみながらやっていました。すべては友達が喜ぶのを見たい一心でしたね。周りの友人は僕が頑張って服作りしていたことを知っていたので、みんなで僕の服を着て、活動をサポートしてくれました。

レーベルの活動を続けていくうちに、スケーターの友達に着てもらうアイテムを作るだけでなく、スケートボードをしない友達にも理解されたい、もっと広範囲の人々に関心を持ってほしい、という思いが強くなりました。当初はスケートボードのブランドとしてスタートしましたが、結果的に多くの人々が身に着けてくれるブランドに成長しました。さまざまな人々がブランドを通して交差する、そういう場を作りたかったんです。

音楽にグラフィックが視覚的要素を与え、リスナーのイメージを拡張する

−−幼少期から音楽に親しまれ、レコードのジャケットのデザインも数多く手掛けていらっしゃいます。どのようなきっかけで音楽に関わる仕事を始めたのでしょうか。

ステファン:レコードジャケットのデザインは小さい頃からの夢でした。でも僕がデザインのキャリアをスタートした時期は、ちょうどレコードがCDに移行して、CDもMP3に移行するというタイミングだったので、レコードジャケットの仕事はもうできないだろうと思っていました。

それでもインディペンデントの分野ではアナログで作品を発表するアーティストが残っていて、偶然にもIsoléeというミュージシャンの「We Are Monster」のレコードジャケットをデザインする機会を得ました。それが大ヒットになったのがきっかけで、ハンブルクのアンダーグラウンド・テクノ/ハウスのレーベル「Smallville Records」からリリースされるレコードジャケットのデザインをすべて僕が担当することになったんです。

「Smallville Records」のデザインを始めた当初は、レーベルが長続きするとは思っていなかったので、5枚くらいデザインができれば十分という気持ちでやってました。でも予想に反してレコードは結構売れて、レーベルは20年近く継続しています。コロナの期間は業績が良くなかったので、自分とパートナーで会社を作り、「Smallville Records」の権利を全て引き受けました。現在はレーベルの株式の50%を保有して、運営にも携わってます。

「Smallville Records」でのデザイン手法はシンプルで、すべてのレコードジャケットの構成が、表面は僕の絵のみ、裏にミュージシャンの名前やクレジットが表記されるというスタイルです。この方式がジャケットデザインとして斬新だったので功を奏したのだと思っています。

−−レコードジャケットのデザインにおいて大事にしていることをお聞かせください。音楽作品の内容からイメージを広げていくのでしょうか。

ステファン:レコードジャケットのデザインはソニック・ユースの感覚が好きで、同じような効果を出したいと考えています。ソニック・ユースはレイモンド・ペティボンやマイク・ケリー、ゲルハルト・リヒター等、さまざまなアーティストにレコードのジャケットのデザインを依頼していましたが、新規にデザインされたものではなく、既存の作品をソニック・ユースがセレクトして使っていました。おそらく自分達の音楽作品にどこかリンクするイメージを選んでいたのでしょう。

レコードジャケットの存在を通して、リスナーは頭の中で視覚的な要素と接点を持ち、さまざまな解釈をしながら音楽作品を聴くことになる。時には違和感もあると思いますが、リスナーのイメージを拡張するようなデザインが重要だと考えています。ジャケットをデザインするにあたっては、事前に対象の音楽作品を聴くことはせずに、タイトルやトラック名を見てイメージを膨らませます。テキストから想像してタイポグラフィやデザインに落とし込むんです。

僕はデザインに関しては、アーティスト側の要望は一切受けません。いつも2、3のアイデアを出して、その中からアーティストに選んでもらうというやり方です。アーティストがデザインについて要望を出すケースもあるでしょうけど、僕の場合はそれをしていないんです。

レコードとは別に制作していた作品がレコードジャケットになったこともあります。そもそもレコードジャケットのデザインはレコードのためにデザインしているのではなく、自分の他の作品、エディションが付いたアート作品と同じように捉えて制作に取り組んでいます。

Photography Masashi Ura
Interview Akio Kunisawa

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