エッセイ Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/エッセイ/ Mon, 14 Nov 2022 11:16:36 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png エッセイ Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/エッセイ/ 32 32 私達のコミュニティーは永遠 連載:工藤キキのステディライフVol.1 https://tokion.jp/2022/09/14/kiki-kudos-steady-life-vol1/ Wed, 14 Sep 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=143843 工藤キキがコロナ禍で見出した、ニューヨークシティとコネチカットのデュアルライフ。

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アメリカを拠点にライター、シェフ、ミュージックプロデューサーとして活動する工藤キキ。パンデミックのさなかにニューヨークからコネチカットのファームランドへと生活の拠点を移した記録―ステディライフを振り返りながらつづる。

まずは日本にいた時の話から。東京でずいぶん長い間、雑誌を中心にアートやサブカルチャー、ファッションに関する文章や、時には小説なども書いていた。1990年代後半から執筆する機会をたくさんもらえたおかげでライターの仕事を続けていたが、東日本大震災があった2011年から正直すべてにおいてパッションを失っていた。それをきっかけに、同年のハロウィンにジャーナリストビザでニューヨークへと移住。そこからは食と音楽をコミュニケーションツールにし、シェフやミュージシャンとして活動している。

ベストホストとして料理を振る舞うこと、デスクトップに向かって音楽を作ること、食に関するコンセプトを考えてドローイングを描くことなど、文章をなるべく書かない生活を始めて10年が過ぎた。2018年にアニメーターやビジュアルデザイナー、ミュージシャンとして活動しているパートナーのブライアン・クローズと結婚。その後は、ニューヨークのソーホーのロフトに住んでいたが、パンデミックが始まった翌年の2021年にコネチカットのリッチフィールドにあるファームランドに引っ越した。

自由を満喫していたソーホーのロフトを離れる上で、私達が出した条件は、騒音問題にならないように“ご近所さんがいない”こと。そんな条件に合ったのが、敷地面積が36エーカー(約14万平米)のファームランド。近所には馬や牛しかいない牧草地で、まさしく隔離されたファームハウスを賃貸物件として見つけた時は奇跡だと思った。今はフード、音楽、ビジュアルのクリエイティブライフスタジオとして活用しているが、田舎だけど案外のんびりはしてない生活を送っている。

人間のエナジーが恋しくなったら、2時間あればニューヨークまで車で戻れる距離。パンデミック以降のコミュニケーションの仕方が変わり、FACETIMEやZOOM、TWITCH、VR、ゲームなどのオンラインでのコミュニケーションが増えたおかげで、フィジカルに会えない距離はさほど寂しくなく、東京を出た時と同じような気分で新しい環境で刺激を受けるのを楽しんでいる。文章を書きたくなかったとはいえ、またこうしてメディアで書く機会をもらえたことに感謝。記録しておきたかったアメリカでの初めての田舎暮らしと、たまに戻るニューヨークのデュアルライフを中心に執筆していきたいと思う。

引っ越したのは2021年の1月の終わり。友達のネイザンがトラックを運転してくれたおかげで、引っ越しは自分達だけで済んだ。ネイザンはアーティストデュオ、ブレイザー・サウンド・システムの1人で、DJや音楽のプロデュース、映像作家としても活動している。私は2014年頃から彼等のダンスホールとテクノのパーティにDJとして参加し、ネイザンがディレクションしたヘイトロックの「Chinatown Style」のミュージックビデオにも出演している。また、私にとって初めてのミックステープを彼のカセットレーベルからリリースするなど、ニューヨークライフでのたくさんの喜びを共有している仲間だ。

パンデミックが始まってからロックダウンが起こり、すべてが一時停止、または振り出しに戻ったようなつかみどころがない巨大なパラダイムシフトの渦中にいた私達。ロックダウンが終わると同時にブラック・ライブズ・マター運動が大きくなり、「Justice and Equality」を学び直すように毎週のごとくデモ行進が行われていた。そんな不安な状況ながらも、ストリートに少しずつ人が戻り始めていた。とはいえ、コロナは終息する様子もなく、機能を失った街で息を潜めて暮らしていたが、次第に自然の中での生活がなんともうらやましく映っていた。

コロナによって距離感までもが一時停止してしまい、近所の友達すら気軽に会えなくなった今。もはやどこにいても一緒のような気がして、都会を離れて田舎に行くことにためらいはなかった。トラックを運転するネイザンが、「どこへ行っても自分達が作ってきたコミュニティーは変わらないからね」と言ってくれたことは今もなお忘れていない。その言葉は本当で、都会に戻るたびに「根城に帰ってきたぞ」とばかり自由に振る舞えるのは、まだそこにコミュニティーが存在しているから。

パンデミックのさなかに開眼した田舎暮らしは、アップステート・ニューヨークに住んでいる友人のエヴァンとリュータスの影響も大きい。彼等はチャイナタウンにもアパートを持っているデュアル生活の先駆者であり、アップステートの家は2人にとって都会の喧騒から逃れるためのオアシスでもあるのだ。古いファームハウスをリノベーションした家は青々とした敷地にあり、家の前を流れる川やデザインされたように美しい植物に囲まれている。ミニマルなキッチンやリビング、ヴィンテージのじゅうたんやアンティークのインテリア、勇敢に燃える暖炉の火、クラシカルなシガー&ライブラリールーム。ギャラリストであるリュータスのセンスが随所に光る空間は、今まで知らなかった“ファームハウス”とそれらがミックスされていて全てが新鮮で美しい。

夏の日はリビングを抜けて目の前の川にジャンプ。強い日差しと冷たい川の水のギャップが心地よい。そして夜はカエルや虫の鳴き声で眠りに落ちる……。都会暮らしにはない美しい自然の中でのダイナミックなライフスタイルに心奪われた。その後ロックダウンは2020年4月に緩和したけれど、コロナに関する情報は不安定だった。そんな状況にもかかわらず、どうにか自然の中で思いっきり息を吸いたいという私たちを、2人が快く受け入れてくれたおかげで最高のひと時を過ごすことができた。そして同年の11月から家探しをスタートすることになるのだが、その話は次回に。

Edit Nana Takeuchi

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私の「内側」の世界 連載:小指の日々是発明Vol.5 https://tokion.jp/2022/01/31/hibikorehatsumei-vol5/ Mon, 31 Jan 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=92160 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義にて音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第5回は「私の“内側”の世界」について。

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私は去年の夏から秋にかけて、これまで描いたことのない長い絵を描いていた。普段、聴いた音楽から浮かんだ情景や色彩を五線譜に描くという作品を作っていたが、今回は音楽以外にも、いつもの散歩コースにいる虫達の声や家人のイビキ、ホーミーの自主練といった日常の音もドローイングした。
最近ふと「生きている」ことが切なく感じることがしばしばあり、今いるここで聴いていた音も、場所も、こんな風に感じていたこともいつかすっかり忘却してしまうのだろうと思ったら心許なくなり、こうしたただ流れゆく小さな音も記録したいと思ったのが制作のきっかけだった。
この作品は「私の中の音の眺め」と題し、描いた五線譜の長さは約30メートルにおよぶものになった。そして、東京都渋谷公園通りギャラリーで開催された「語りの複数性」という展覧会で、年末まで展示をさせてもらったのだった。

私が描く作品は「音の視覚化」がテーマになっているが、もっと詳しく言うと、「どこかに残さなければ誰にも知られないうちに消えてしまう、私の『内側』にだけ存在している音と記憶の視覚化」と言える。
そんな風に、自分の感覚と記憶を頼りに6畳の自室で長い五線譜に延々と描いていると、一種の瞑想状態のような状況になっていろいろなことを思い出すようになった。その時に自分の過去の中から見つけたある気づきを、取り留めもなく書いていきたい。

子供の頃から、両親の影響で絵を描くことが好きだった。特に父親の影響が強く、父が描く絵はもちろんのこと、父が好きだった澁澤龍彦から始まってポール・デルヴォー、野中ユリさんに憧れた。毎日父の本棚からかっぱらうように画集や小説を持ち出しては年齢に不釣り合いな世界に酔いしれ、その頃から将来は絵を描く人になりたいと思うようになった。

小学4年生の頃、誕生日プレゼントに透明のオレンジ色をしたカセットテープのウォークマンを買ってもらい、実家の押し入れにあったラジカセを引っ張り出してきて好きな曲をダビングしいろいろ聴くようになった。木登りも趣味だったので、わざわざ誰も登ってこれないような場所まで登ってはそこで音楽を聴き、感極まって1人でよくひっそり泣いたりしていた。
今思うと、木の上でサルのように身を縮込ませながら感傷に浸る子供の姿を想像するだけでちょっと笑えてしまうが、私にとって学校や習い事で過ごす時間が「外側」で、そうした木の上で音楽を聴いたり父の本棚で出会う世界が自分にとって何より大切な「内側」の世界だと感じていたのだった。
「外側」にいる私は、鈍臭くて叱られてばかりで、おまけに吃音でいつも誰かにからかわれないかとビクビクして格好悪いのだが、「内側」の世界の私は、友達が知らない美しい世界を誰よりもよく知っている夢のような人物だった。
私は「内側」の自分こそが本当の自分で、「外側」は子供のうちだけ耐えなければならない修行のような時間だと思っていた。大人になったらきっと完全な「内側」の世界の自分になって、素敵な毎日を過ごしているに違いない……そんな風に夢を見ながら、幼い日々を過ごしていた。

進路を決める頃になると、古本屋で出会った寺山修司をきっかけに天井桟敷などのアングラ文化に興味を持つようになり、宇野亜喜良さんや横尾忠則さん、粟津清さんのようなグラフィックデザイナーになりたいと思い美大へ進学した。だが、いざ入学すると想像していたものと現実の差にがく然とした。よく考えたら、私が憧れていたものは1960年代の前衛的な雰囲気だったので入学した2006年とは状況が様変わりしていてあたりまえである。
早々に大学を見限った私は、学外で音楽をしている人達と仲良くなり、私自身もバンドを始めた。
授業を休んで地方へライブをしに行ったりと好き放題やっていたが、そんな生活も卒業と共に限界を迎え、私は学生という肩書きも失いスッポンポンのまま社会に放り出されてしまった。これまでバンドのフライヤーやCDのデザインをしてソフトだけは使えたので、どこかのデザイン会社なら引っかかるかもしれないとあわてて数社受けたが、すべて落ちた。
私は完全に自信を失い、結局阿佐ヶ谷の風呂なし月3万円のアパートでフリーター生活を始めることになったのだった。

一番最初にバイトした人材派遣会社は、初めは社員登用ありで社会保険完備と言っておきながらいつまで経っても社保にすら入れてくれないところだった。途端に生活がままならなくなりバイトを増やし、ダブルワークに留まらずトリプルワーク(コンビニ、事務or軽作業、スナック)で生計を立てるようになり、合間に時々ライブをしたり、絵を描いたりという生活が始まった。
バイト先は職種を選ばず、求人内容から人手が足りてなくて切迫した様子が伺えるところを探した。時給が安ければ責任も少ないだろうと思い適当に選んだが、入ってから「時給の安さ」は「人使いの荒さ」に比例することに気づいた。
どこも学歴・年齢・前科不問といった感じだったが、私のあまりの要領の悪さと馴染めなさに、入って早々に苛立ちの目が向けられているのが嫌でもわかった。
私は初回のやる気と愛想の良さだけは持ち合わせているが、その後の持久力が絶望的にないのだった。

人と関わる仕事よりも、1人で床にへばりついたガムを擦り落としたり、便器を綺麗に磨き上げるような作業の方が好きだった。そうした単純仕事は無心になれたが、ふと我に帰った時に「こんなはずじゃなかったのにな。おかしいな」と思った。そして、職場で雑巾のような扱いを受けると、自分の辛さよりも先に不思議と親への申し訳なさが込み上げた。
唯一人間扱いしてくれた職場は、意外と思われるかもしれないが水商売の世界だった。店のママが優しい人だったのだ。でも、自分には絶望的に向いていない業種だった。

昼の仕事中、ちょっとした雑談で「休日何してるの?」と聞かれた時、「絵を描いたり、美術館に行ったりしています」と答えたら鼻で笑われたことがあった。私はここでは自分の好きなものについて言いたくないと思った。
私は自分のことを否定されて傷つくのが嫌で、極力自分の話をしないようにしていた。それがよくなかったのか「何の趣味も無い、暇そうな人」と誤解され、やたらと飲み会や交流会に誘われたり、変な男を紹介されたりと、ありがた迷惑なお節介を次々と焼かれた。そして、それらをいちいち断るたびに時給以上の無駄な労力と謎の罪悪感にさいなまれた。
この社会は、面倒なこだわりは一切手放して、もっと自分を単純化させて心を鈍化させないとやっていけないのだと悟った。
そうして私は少しずつ自分の「内側」の世界を閉じていった。

この頃くらいに、自分の髪の毛を引き抜く癖が出始めるようになった。実家の家族は、まるで薄毛のカッパのようになった私の頭頂部を見て驚き「帰ってこい」と言った。その度に私は「東京じゃないと絵の仕事がもらえない」なんて言い訳をしていたが、すべて大嘘だった。実際は絵の仕事なんて来るはずもなく、3つのバイト先と自宅をぐるぐる回るだけの回し車のような生活をしていた。
着々と老いていく親の姿を見ると、もしこのまま誰かが病気にでもなったら私は一生後悔するだろうなと思った。数年後、まさかその通りになってしまうとは流石に思ってもいなかったが。
そして、東京で作家を目指すことと引き換えに教員免許を取ることを約束し、「大体30歳くらいまでやってみて、無理だったら教員になる」ということで話はまとまり、私は1人暮らしのアパートへ戻っていった。

後日、私はバイトの貯金から通信制大学の入学金を払い、働きながら教職の勉強を始めることになった。土日は授業があり、明け方に小論文を書いたりしていると絵を描く時間はおろか、寝る時間まで無くなった。勉強を始めてみるとそれなりにためになっておもしろかったが、とにかく毎日睡眠不足で何が目的でこんな生活をしているのかもわからなくなり、自分は一体何にしがみついているのか、そもそも夢なんてなければこんな思いもしなくて済んだんじゃないかと思うようになった。もっと現実的な外界の世界に興味を持って、裏も表もない人間になって、社会に合わせて真っ当に生きれば私の問題なんて全て解決するんじゃないか。そのためには、自分の「内側」の世界を完全に閉ざして、「外側」である社会に合わせて生きればいい。でも、それは私として存在することまで捨ててしまうことだと感じた。

結局、自分自身で何も選択できないまま思い悩んでいる最中、父が手術中の事故で脳に重い障害が残り、遷延性の意識障害になってしまった。この出来事が決定打となり、私はもう完全に自分の夢から手を引いて現実の世界で生き直そうと思った。
お金が無ければ大切な存在に何かあった時に何もできないという現実を突きつけられたことが大きかった。

近所の小学校へ教育実習にも行き、「私もいよいよカタギになるのか……」なんて思っていた頃、毎日通っている道の途中に古めかしい喫茶店を見つけた。恐る恐るのぞくと、中にはワイン色の椅子と赤い絨毯が敷かれ、アンティークな家具や小物がひしめき合い、まるで夢のような空間が拡がっていた。店で飼われている猫が、ソファの背もたれに乗っかってだらりと寝ている。その世界は、美しくて少し奇妙で、まるで父の本棚で見た世界のようだった。私はその日から、掛け持ちのバイトの合間にほぼ毎日ここへ通うようになった。

この喫茶店では、読書をしたり音楽を聴きながらぼんやりしたりと、まるで自分の部屋のように過ごさせてもらった。ここにいると、子供の頃に夢見ていた「内側」のまま大人になれたもう1人の自分になれたような気分になるのだった。

ある日、たまたま読んでいた本の中に「探しているものは無意識(自分)の中にある」という一文を見つけ、私はその言葉に釘付けになった。確かユングの著作だったと思うのだが、さっき本棚をひっくり返していくら探してみてもどこにもそんな本は見当たらなかったので、私が勝手に別の文を都合よく解釈したか、そもそも違う人の本だったという可能性もあるのだが、とにかく当時の私は衝撃を受けたのだった。自分が何を求めてるのかもわからないくらい混乱しているのに、本当にそんなものが自分の中にあるのだろうか。そんなもん初めからあったら苦労してないよとも思いつつ、喫茶店の椅子にもたれて、ぼんやりと考えてみた。

そのうち、徐々にいろいろなことを思い出した。
小さい頃に木の上で音楽を聴くのが好きだったこと、昔から音楽を聴いている時に頭の中にたくさんの色彩が浮かぶこと。どうせ全部諦めてしまうなら、あの頭の中に浮かぶ色彩と形をせめてどこかに記録しておこうと思った。
初めて描いたのは、大好きなダニエル・ジョンストンの曲を聴いている時の頭の中の景色だった。「ずっと忘れていたものをやっと見つけた」、そんな気分だった。

私は、今も音を聴いて頭の中に浮かんだ情景を追いながら絵を描き続けている。多分、絶え絶えの蝋燭の灯のようだった「内側」の世界が、あの時にムクムクと再生したのだと思う。やっぱり私は、どうしても自分の思うように生きたいと思った。長年の親不孝を公務員になって一気に晴らそうと必死になっていたが、そんな気持ちでは自分どころか将来関わるはずの子供にも失礼だし、両親も本当はそんなこと望んでいなかった気がする。私はこれまで、肝心なことを言葉にして伝える努力を完全に怠っていた。

その後、父の看護を通じて手に取った小川公代さんの著作『ケアの倫理とエンパワメント』の中に、こんな一節があった。

<人間には、連続的信仰の『クロノス的時間』とは別の『カイロス的時間』が流れている。それは、経験に基づいた想像世界が育まれる時間である。」ウルフのように、考え、葛藤し続け、豊かな想像的時間を紡いでいる人も女性パートタイム労働者のなかにいるはずだ>

私はこの文章を読んだ時、大変おこがましいことを承知で言ってしまうが、真っ暗闇の中でいきなり自分にスポットライトが当たったような気持ちになった。
あの頃、私は心の中で、この先もし犬死にせず何かを発表できる立場になれたら、これまで思ってきたことや考えてきたことを、自分の言葉で表現したいとずっと思っていた。
私は人と違うのが怖くて、単純で何も考えてないふりばかりをしていた。でも、私がずっと大切にしてきた自分の複雑な「内側」を、自分の表現でこの世に存在させたかった。
「語りの複数性」の搬入の日に、建築家の中山英之さんに構成していただいた自分の作品の全景を見た時、そんなことを走馬灯のように思い出したのだった。あの頃の私が未来の自分に託した願いが、この「私の中の音の眺め」に繋がっているのだと思う。

最後に、ノートに書き留めて今もたびたび眺めている「語りの複数性」展のキュレーターの田中みゆきさんが書かれたステートメントの一部を、ここで抜粋させていただく。

「この展覧会は、フィクションであり、ドキュメントでもあります。つまり、どの作品も創作物でありながら、人とは異なる感覚や経験に裏打ちされていたり、経験していない現実を自らの身体をもって受け取り、表現する試みが描かれています/それは、ここではないもうひとつの世界を表現しているのではなく、この世界をもうひとつのリアリティをもって生きる人の存在を感じさせます/だからこそ、今この瞬間、あなたから紡ぎ出される語りは、あなたの身体と記憶や経験が結びついて生み出される、あなただけのものと言えます。」

どんな人にもそうした「内側」の世界がある。
私は何度もその「内側」を手放そうとしたが、それは自分の影まで捨てようとするくらい不自然なことだった。
私の「内側」は、悲しみも喜びも、さまざまな刺激を受け入れて今も生きものように変容している。多分、過去も未来も、本当は私達の内側にすべて内在しているのだと思う。
そして、その内側の世界を信じて手放さなければ、私はこの先どんなことがあったとしても後悔せず生きていけるような気がしている。
いまだに器用な生き方というのは全くもってわからないままだが、これだけは大切にしておこうと思う。私の中にある、小さな内側の世界を。

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「パチンコ初体験 その結果はいかに?」 漫画連載:イタリア人漫画家・ペッペの日本カルチャー体験記 Vol.2 https://tokion.jp/2022/01/28/peppes-encounter-with-japanese-culture-vol2/ Fri, 28 Jan 2022 10:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=91597 漫画家・ペッペが日本のカルチャーを体験し、漫画で紹介する。2回目は自身初のパチンコを体験。ビギナーズラックとなるか。

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漫画『ミンゴ イタリア人がみんなモテると思うなよ』(小学館)で初連載を獲得したイタリア人漫画家・ペッペ。自身は2019年に『テラスハウス東京編』や今年1月3日に放送されたドラマ『潜水艦カッペリーニ号の冒険』に出演するなど、モデル、俳優としての活動も行っている。

1人のイタリア人男性から日本のカルチャーはどう見えているのか、そんな思いからペッペに漫画連載を依頼。連載ではペッペに日本独自のカルチャーを体験してもらい、それをショート漫画にして紹介していく。2回目はイタリアにはなかったというパチンコを体験する。

——実際に初めてパチンコをやってみてどうでしたか?

ペッペ:イタリアにもカジノはあるんですが、それとは全く違う雰囲気でした。まずお店に入ってみて、想像していたよりも、とにかく音がうるさいことに驚きましたね。

——確かに初めてだと慣れないですよね。実際にパチンコを打ってみた感想は?

ペッペ:最初はパチンコの打ち方もわからなくて、周りの人の真似をしたんですが、全然上手くいかなくて。ようやく教えてもらって少しわかるようになったんですが、それでもあっと言う間に、1000円分の玉が無くなって。それで次は当たるかもと思って、やっていたらどんどん1000円が消えていって。あっという間に用意していたお金がなくなりました。やっぱりギャンブルは向いてないですね。

——(笑)。残念ながらビキナーズラックとはならなかったですね。

ペッペ:そのおかげでパチンコにハマることはなさそうです。もう2度とパチンコはやらない(笑)。でも、あのTUC(景品交換所)がなんなのか、その謎を知りたかったですね。

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「歌舞伎はオペラだ!」 漫画連載:イタリア人漫画家・ペッペの日本カルチャー体験記 Vol.1 https://tokion.jp/2021/12/15/peppes-encounter-with-japanese-culture-vol1/ Wed, 15 Dec 2021 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=81317 漫画家・ペッペが日本文カルチャーを体験し、漫画で紹介する。1回目は自身初の歌舞伎鑑賞について。

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漫画『ミンゴ イタリア人がみんなモテると思うなよ』(小学館)で初の連載を獲得したイタリア人漫画家・ペッペ。自身は2019年に『テラスハウス東京編』に出演するなど、モデルとしての活動も行なっている。

1人のイタリア人男性から日本のカルチャーはどう見えているのか、そんな思いからペッペに漫画連載を依頼。連載ではペッペに日本独自のカルチャーを体験してもらい、それをショート漫画にして紹介していく。記念すべき1回目は初となる歌舞伎を東京・銀座の「歌舞伎座」で鑑賞。ペッペは日本の歌舞伎をどう感じたのか?

——初めての歌舞伎はどうでしたか?

ペッペ:初めて日本の映画館に行った時と同じく日本語能力が足りるか足りないのかってずっと考えてしまって、始まる前は大分緊張していたんですが、最初の2分くらいでやっぱりこりゃ全然わからないって感じて(笑)。だから言葉とかはわからなかったんですが、芝居を見ることに集中して。見ているとオペラに近いなって思いました。本当にいい体験ができました。

——言葉が分からなくても楽しめた?

ペッペ: パンフレットに英語で物語の内容の説明があったので、会話の内容は分からなくても楽しめました。

——もう1度見たいと思いますか?

ペッペ:すごく楽しかったので、ぜひ次は別のバリエーションの歌舞伎も見たいですね。あと文楽も気になってきたので、機会があればぜひ見てみたいですね。

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日常と、芸術の存在意義 連載:小指の日々是発明Vol.4 https://tokion.jp/2021/08/13/hibikorehatsumei-vol4/ Fri, 13 Aug 2021 03:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=51657 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義で音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第4回は「日常と、芸術の存在意義」について。

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去年頃からだろうか。これまでずっと理由をつけて会っていなかった母と、時々連絡を取り合うようになった。コロナの流行と、母の退職がきっかけだったように思う。
先月もグループ展があり、その展示の主催がたまたま母が若い頃に愛読していた美術雑誌の会社だということを知った。誘ったら喜ぶだろうなとは思いつつ、如何せん高齢の母を外へ連れ出すのは心配で、散々悩んだ挙句一応声だけかけてみることにしたのだった。
思いきって誘ってみると、光の速さで「行くよ」と返事が来た。しかも、「明日行く」と言う。最近長く続けた仕事を辞めたばかりともあって、母もコロナ禍で随分時間を持て余しているようだった。

当日東銀座駅の出口に着くと、階段のところに前よりも随分と小さくしぼんだ母がいた。白髪染めをやめたのか、ちょっとショッキングなほど年老いて見えた。気持ちが追いつかずおどおどしていると、母の方が「ああ、いたいた」とこちらに気がついた。
家族なのに、私達はいつもどこかよそよそしい。母とこうして出かけるのも随分久しぶりだった。昔は、競歩のように歩く母の背中を見失わないようついて歩くことにいつも精一杯だったような気もするが、今や祖母と歩いていた時みたいに母の足元を気にしながら歩いている自分がいる。

会場は、駅からほど近くにある「銀座SIX」というビルだった。
母はどうやら「銀座SIX」を雑居ビルかなんかだと思っていたらしい。本物を見た瞬間に急に慌てだし、私のインドパンツを引っ張って「あんた、こんなの銀座に履いてくものじゃないよ! やだよもう、本当に服に頓着しないんだから……」と突然嘆きだした。
「言ってくれたらもっと上等なもの持ってきたのに……」。母がそう言って持ってくるのは、いつもきまってウエストにゴムの入った股上深めのスラックスだった。そのため 私の洋服箪笥は既に9割がた母のお下がりでジャックされており、普段着にもパジャマにも使えないようなものばかりで今も非常に困っているのだった。
エスカレーターで、会場の銀座 蔦屋書店のある6階へ向かう。母は辺りを見回し、吹き抜けに飾られた現代美術を見て「いいわね、ああいうの」なんて言っていた。6階に着き、正面に飾られた美しい色彩の写真を見ると「あら、あら、綺麗」と声を弾ませていた。

母は定年まで、小学校で図工教諭をしていた。私と血が繋がっていることが信じ難いほど仕事に熱心な人で、現役の教員時代は私なんかよりもあちこちの展覧会を回り、家の中は図工の指導書だらけで、土日も休まず教材研究をしているような人だった。
母は根性があり、自分にも他人にも厳しい人だった。その点私は怠け者で、ボーッとしていて気が弱い。すべてにおいて真逆の私達は顔を合わせるたびに喧嘩し、いつだったか私がスーザン・フォワードの「毒になる親」を無言で送りつけたことをきっかけに関係は決定的に決裂した。
それからいろいろなことがあってこうして連絡をとりあうようにはなったが、今もお互いじりじりと距離を詰め合うような関係でけして穏やかとは言えない。正直、今日だって会うのが少し怖かったくらいだ。
母はもともと、絵描きになりたかった。だけど美大の進路を親に反対され国立に進学し、教員として美術に携わって生きてきた。今は退職してほとんど家にいるが、こういう場所にいる母を見るとやっぱり今も美術が好きなのだろうなあとしみじみ思う。母は教員を「天職だった」と言い、私も傍で見ていてその通りだなと思うけれど、周りのために我慢をしてきた母と、周りを困らせてまで自由を選んだ私とではそうした点でもやっぱり真逆なのであった。

書籍が置かれたスペースには立派な椅子があり、見本の本が自由に読めるようになっていた。母は、並べられている上等な画集をめくりながら「これ全部、読んでいいの? 国会図書館みたい」と子どものように目を丸くした。
そうしてあちこち見物しながら歩き、フロアの中央にある展示スペースに着くと母は後ろで手を組みながら「フーン」と言い、私の絵を眺め始めた。
1つの作品が売約済みになっていた。母に言うと、「いくらで!?」といきなりがっつきだし、値段を言うと母は絶句した。「誰が買うの……」。そして、右や左、正面から絵をまじまじと観察し、「なるほどね、これは色が綺麗だもの。普段うんこ色ばかり使うあんたが珍しく綺麗な色を使ったよ」と、褒めてるんだか貶してるんだかよくわからないことを言った。
ああだこうだと言い合っていると、突然母がここでは絶対口走ってはならないことを叫んだ。
「あんた、これまさかうんこの写真じゃない?!」。
会場が若干ざわついた。うんこの写真など全く身に覚えが無い。母は一体何を……と恐る恐る母の指す先を見ると、それは茶色いイソギンチャクの写真を使ったコラージュだった。
「うんこじゃない。これは海洋生物」と正しても、母はなかなか納得しない。それどころかその後もあちこちを指差しては神妙な面持ちで「これももしかして……?」などと言う。どうやら、何でもかんでもうんこに見えてしまっているらしい。私も困り果て、「違うって! それにさっきから私の絵はうんこ色だって言うけど、私はこういう色が好きなんだよ。綺麗なだけのものには興味がないんだよ」と言うと、母は「ハア〜……」と大袈裟にため息をついて、「色彩感覚を磨きな。色の研究が必要だね。葛飾北斎を見習いな」と、あきれた顔で言った。どうやら先日、葛飾北斎のドキュメンタリーを見て随分と感銘を受けたらしい。
そして母は、「さすがにうんこはだめだよ、うんこは……」と言い残し、他のフロアへ1人でスタスタと行ってしまった。
母がいなくなって会場が静かになると、私はようやく自分達に向けられていた会場スタッフの厳しい視線と緊張に気づいた。大変気まずかったが、久しぶりに母が楽しそうにしている気がしたので良しとした。

展示を見終えたあとは母の用事に付き合い、近くの駅の改札まで母を見送ると別れ際こんなことを言い出した。
「あんたの絵は別に好きじゃないけど、見たあとは何でか息がスーッとして、自由な気分になる。何でだろうね」。
私は思わず「えっ」と声が出た。これまでそんなこと一度だって言われたことが無かった。びっくりしていると、母はこう続けた。
「こないだのあんたの個展の帰りも、電車の中で揺られながら『こんな自由な気分になれることがこの世にあったんだ』って、いろんなこと思い出した。今もあの日を思い出すと、心の中がポッと温かくなるような気がするよ。
あんたはいつもブツブツ言ってるけど、心の奥には自由が流れてるんだろうね。それが作るものに出てるよ」。
そう言って、母はそのまま背を向け改札を抜けて乗り場の方へ行ってしまった。
私は慌てて「またね」と言ったが、あっという間に見えなくなってしまった。

私はこの時の母の言葉が、これまでかけられたどんな言葉よりも嬉しかった。そして何より、ずっと「気難しく、恐い人」と思っていた母が1人でそんな風に感じていたと思うと、なんだか複雑でたまらない気持ちになった。そしてその母の感覚は、私にもとても身に覚えのあることのように思えた。

そういえば、コロナ禍が訪れるまではよく、美術館や小さな映画館に1人でフラッと行っては、非日常の世界に逃げ込んでいたなあと、ふと思い出した。人の少ない美術館も、空席の多い映画館も、今思えば聖域のような不思議な力のある場所だった。そして、本屋も図書館もライブハウスも、私にとって現実の抜け道のようだったそれらの場所にすらここ最近ずっと行けていない。
自粛ばかりの今を思うと、過去の私はずいぶん贅沢な時間を過ごしてたんだなあと思う。

今でもよく覚えているのが、2005年に渋谷の文化村で観たレオノール・フィニの展覧会だった。友人に「絶対好きだから」と誘われ、放課後に高校の制服のまま連れ立って行ったのだった。
暗く静かな会場でレオノール・フィニの作品と対峙した時、初めて見る不思議な色彩に驚いて、目を見開いたままその場から動けなくなってしまった。横を見たら、友達も同じく口を開けたまま放心していた。
図録を買うほど小遣いも無い私達は、自分の眼の中に作品を少しでも盗み入れたくて、2人並んだままじっと絵を眺め続けたあの日のことを今もよく覚えている。
そうして私達は美大の予備校へ通い始め、私はその日から自分の絵を描き始めるようになった。後で連れてってくれた友達にそのことを話したら、彼女は「わかる、わかるわ〜」と言っていた。

そんなことを思い出したら、改めて美術をはじめとした芸術作品は限られた特別な人間のものではなくて、あの時の幼い私達や自分を抑圧してきた母のような人に開かれるべき存在と思えてならないのだった。私もいまだに、遠くにぼんやり見える表現の世界への憧憬だけを頼りに生きている。これが無かったら、私はもっと何もわかろうとしないまま今も生きているのだろうなと思う。
作者が自己を解放させて作ったものには、観た人もまた何かが解放させられる力が宿るものだ。ここしばらくウイルスに怯えすぎて、そうした芸術の醍醐味さえ私はすっかり忘れてしまっていた。

自分が過去救われてきた数々の誰かの作品を頭の中で浮かべていたら、母の言った「お腹の中がポッと温かくなる感覚」を私も感じたような気がした。
自分も、誰かにそうやって思い出してもらえるような作品を人生で1枚でも作れるだろうか。せっかく気づけたのだ、頑張りたい、と思った。

これが、1ヵ月前の気持ちだった。
そこから東京の感染者は坂道を転がり落ちるように増加し、このたった1ヵ月で東京の医療は完全にひっ迫した。病床が足りなくなり、首相は「入院対象を重症者に絞り込む」と言った。まるで現実でないようなことが起きた。
あの時、当たり前にこれからの未来を頭に思い描いていたことが、今やもうただの願望みたいだ。
でも、まだまだこれから向き合いたいことがたくさんある。
諦めきれないほど大切な存在が山ほどある。
私が救われてきた文化芸術も、日々の喜びも、けして特別なものなんかじゃなくてただ何気ない日常の中に転がっていたものだった。
そういえば、昔の日記に私はこんなことを書いていた。
「寝る前の数分、本を読む時間があれば何があっても生きていける」。
メダルの数とか、国の見栄なんかいらない。それよりも、私は奪われ続けている個人的な日常を1日でも早く取り戻したい。
身も心も無防備に感動したり笑ったりしていた頃が、遠い昔のようである。

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