私の「内側」の世界 連載:小指の日々是発明Vol.5

私は去年の夏から秋にかけて、これまで描いたことのない長い絵を描いていた。普段、聴いた音楽から浮かんだ情景や色彩を五線譜に描くという作品を作っていたが、今回は音楽以外にも、いつもの散歩コースにいる虫達の声や家人のイビキ、ホーミーの自主練といった日常の音もドローイングした。
最近ふと「生きている」ことが切なく感じることがしばしばあり、今いるここで聴いていた音も、場所も、こんな風に感じていたこともいつかすっかり忘却してしまうのだろうと思ったら心許なくなり、こうしたただ流れゆく小さな音も記録したいと思ったのが制作のきっかけだった。
この作品は「私の中の音の眺め」と題し、描いた五線譜の長さは約30メートルにおよぶものになった。そして、東京都渋谷公園通りギャラリーで開催された「語りの複数性」という展覧会で、年末まで展示をさせてもらったのだった。

私が描く作品は「音の視覚化」がテーマになっているが、もっと詳しく言うと、「どこかに残さなければ誰にも知られないうちに消えてしまう、私の『内側』にだけ存在している音と記憶の視覚化」と言える。
そんな風に、自分の感覚と記憶を頼りに6畳の自室で長い五線譜に延々と描いていると、一種の瞑想状態のような状況になっていろいろなことを思い出すようになった。その時に自分の過去の中から見つけたある気づきを、取り留めもなく書いていきたい。

子供の頃から、両親の影響で絵を描くことが好きだった。特に父親の影響が強く、父が描く絵はもちろんのこと、父が好きだった澁澤龍彦から始まってポール・デルヴォー、野中ユリさんに憧れた。毎日父の本棚からかっぱらうように画集や小説を持ち出しては年齢に不釣り合いな世界に酔いしれ、その頃から将来は絵を描く人になりたいと思うようになった。

小学4年生の頃、誕生日プレゼントに透明のオレンジ色をしたカセットテープのウォークマンを買ってもらい、実家の押し入れにあったラジカセを引っ張り出してきて好きな曲をダビングしいろいろ聴くようになった。木登りも趣味だったので、わざわざ誰も登ってこれないような場所まで登ってはそこで音楽を聴き、感極まって1人でよくひっそり泣いたりしていた。
今思うと、木の上でサルのように身を縮込ませながら感傷に浸る子供の姿を想像するだけでちょっと笑えてしまうが、私にとって学校や習い事で過ごす時間が「外側」で、そうした木の上で音楽を聴いたり父の本棚で出会う世界が自分にとって何より大切な「内側」の世界だと感じていたのだった。
「外側」にいる私は、鈍臭くて叱られてばかりで、おまけに吃音でいつも誰かにからかわれないかとビクビクして格好悪いのだが、「内側」の世界の私は、友達が知らない美しい世界を誰よりもよく知っている夢のような人物だった。
私は「内側」の自分こそが本当の自分で、「外側」は子供のうちだけ耐えなければならない修行のような時間だと思っていた。大人になったらきっと完全な「内側」の世界の自分になって、素敵な毎日を過ごしているに違いない……そんな風に夢を見ながら、幼い日々を過ごしていた。

進路を決める頃になると、古本屋で出会った寺山修司をきっかけに天井桟敷などのアングラ文化に興味を持つようになり、宇野亜喜良さんや横尾忠則さん、粟津清さんのようなグラフィックデザイナーになりたいと思い美大へ進学した。だが、いざ入学すると想像していたものと現実の差にがく然とした。よく考えたら、私が憧れていたものは1960年代の前衛的な雰囲気だったので入学した2006年とは状況が様変わりしていてあたりまえである。
早々に大学を見限った私は、学外で音楽をしている人達と仲良くなり、私自身もバンドを始めた。
授業を休んで地方へライブをしに行ったりと好き放題やっていたが、そんな生活も卒業と共に限界を迎え、私は学生という肩書きも失いスッポンポンのまま社会に放り出されてしまった。これまでバンドのフライヤーやCDのデザインをしてソフトだけは使えたので、どこかのデザイン会社なら引っかかるかもしれないとあわてて数社受けたが、すべて落ちた。
私は完全に自信を失い、結局阿佐ヶ谷の風呂なし月3万円のアパートでフリーター生活を始めることになったのだった。

一番最初にバイトした人材派遣会社は、初めは社員登用ありで社会保険完備と言っておきながらいつまで経っても社保にすら入れてくれないところだった。途端に生活がままならなくなりバイトを増やし、ダブルワークに留まらずトリプルワーク(コンビニ、事務or軽作業、スナック)で生計を立てるようになり、合間に時々ライブをしたり、絵を描いたりという生活が始まった。
バイト先は職種を選ばず、求人内容から人手が足りてなくて切迫した様子が伺えるところを探した。時給が安ければ責任も少ないだろうと思い適当に選んだが、入ってから「時給の安さ」は「人使いの荒さ」に比例することに気づいた。
どこも学歴・年齢・前科不問といった感じだったが、私のあまりの要領の悪さと馴染めなさに、入って早々に苛立ちの目が向けられているのが嫌でもわかった。
私は初回のやる気と愛想の良さだけは持ち合わせているが、その後の持久力が絶望的にないのだった。

人と関わる仕事よりも、1人で床にへばりついたガムを擦り落としたり、便器を綺麗に磨き上げるような作業の方が好きだった。そうした単純仕事は無心になれたが、ふと我に帰った時に「こんなはずじゃなかったのにな。おかしいな」と思った。そして、職場で雑巾のような扱いを受けると、自分の辛さよりも先に不思議と親への申し訳なさが込み上げた。
唯一人間扱いしてくれた職場は、意外と思われるかもしれないが水商売の世界だった。店のママが優しい人だったのだ。でも、自分には絶望的に向いていない業種だった。

昼の仕事中、ちょっとした雑談で「休日何してるの?」と聞かれた時、「絵を描いたり、美術館に行ったりしています」と答えたら鼻で笑われたことがあった。私はここでは自分の好きなものについて言いたくないと思った。
私は自分のことを否定されて傷つくのが嫌で、極力自分の話をしないようにしていた。それがよくなかったのか「何の趣味も無い、暇そうな人」と誤解され、やたらと飲み会や交流会に誘われたり、変な男を紹介されたりと、ありがた迷惑なお節介を次々と焼かれた。そして、それらをいちいち断るたびに時給以上の無駄な労力と謎の罪悪感にさいなまれた。
この社会は、面倒なこだわりは一切手放して、もっと自分を単純化させて心を鈍化させないとやっていけないのだと悟った。
そうして私は少しずつ自分の「内側」の世界を閉じていった。

この頃くらいに、自分の髪の毛を引き抜く癖が出始めるようになった。実家の家族は、まるで薄毛のカッパのようになった私の頭頂部を見て驚き「帰ってこい」と言った。その度に私は「東京じゃないと絵の仕事がもらえない」なんて言い訳をしていたが、すべて大嘘だった。実際は絵の仕事なんて来るはずもなく、3つのバイト先と自宅をぐるぐる回るだけの回し車のような生活をしていた。
着々と老いていく親の姿を見ると、もしこのまま誰かが病気にでもなったら私は一生後悔するだろうなと思った。数年後、まさかその通りになってしまうとは流石に思ってもいなかったが。
そして、東京で作家を目指すことと引き換えに教員免許を取ることを約束し、「大体30歳くらいまでやってみて、無理だったら教員になる」ということで話はまとまり、私は1人暮らしのアパートへ戻っていった。

後日、私はバイトの貯金から通信制大学の入学金を払い、働きながら教職の勉強を始めることになった。土日は授業があり、明け方に小論文を書いたりしていると絵を描く時間はおろか、寝る時間まで無くなった。勉強を始めてみるとそれなりにためになっておもしろかったが、とにかく毎日睡眠不足で何が目的でこんな生活をしているのかもわからなくなり、自分は一体何にしがみついているのか、そもそも夢なんてなければこんな思いもしなくて済んだんじゃないかと思うようになった。もっと現実的な外界の世界に興味を持って、裏も表もない人間になって、社会に合わせて真っ当に生きれば私の問題なんて全て解決するんじゃないか。そのためには、自分の「内側」の世界を完全に閉ざして、「外側」である社会に合わせて生きればいい。でも、それは私として存在することまで捨ててしまうことだと感じた。

結局、自分自身で何も選択できないまま思い悩んでいる最中、父が手術中の事故で脳に重い障害が残り、遷延性の意識障害になってしまった。この出来事が決定打となり、私はもう完全に自分の夢から手を引いて現実の世界で生き直そうと思った。
お金が無ければ大切な存在に何かあった時に何もできないという現実を突きつけられたことが大きかった。

近所の小学校へ教育実習にも行き、「私もいよいよカタギになるのか……」なんて思っていた頃、毎日通っている道の途中に古めかしい喫茶店を見つけた。恐る恐るのぞくと、中にはワイン色の椅子と赤い絨毯が敷かれ、アンティークな家具や小物がひしめき合い、まるで夢のような空間が拡がっていた。店で飼われている猫が、ソファの背もたれに乗っかってだらりと寝ている。その世界は、美しくて少し奇妙で、まるで父の本棚で見た世界のようだった。私はその日から、掛け持ちのバイトの合間にほぼ毎日ここへ通うようになった。

この喫茶店では、読書をしたり音楽を聴きながらぼんやりしたりと、まるで自分の部屋のように過ごさせてもらった。ここにいると、子供の頃に夢見ていた「内側」のまま大人になれたもう1人の自分になれたような気分になるのだった。

ある日、たまたま読んでいた本の中に「探しているものは無意識(自分)の中にある」という一文を見つけ、私はその言葉に釘付けになった。確かユングの著作だったと思うのだが、さっき本棚をひっくり返していくら探してみてもどこにもそんな本は見当たらなかったので、私が勝手に別の文を都合よく解釈したか、そもそも違う人の本だったという可能性もあるのだが、とにかく当時の私は衝撃を受けたのだった。自分が何を求めてるのかもわからないくらい混乱しているのに、本当にそんなものが自分の中にあるのだろうか。そんなもん初めからあったら苦労してないよとも思いつつ、喫茶店の椅子にもたれて、ぼんやりと考えてみた。

そのうち、徐々にいろいろなことを思い出した。
小さい頃に木の上で音楽を聴くのが好きだったこと、昔から音楽を聴いている時に頭の中にたくさんの色彩が浮かぶこと。どうせ全部諦めてしまうなら、あの頭の中に浮かぶ色彩と形をせめてどこかに記録しておこうと思った。
初めて描いたのは、大好きなダニエル・ジョンストンの曲を聴いている時の頭の中の景色だった。「ずっと忘れていたものをやっと見つけた」、そんな気分だった。

私は、今も音を聴いて頭の中に浮かんだ情景を追いながら絵を描き続けている。多分、絶え絶えの蝋燭の灯のようだった「内側」の世界が、あの時にムクムクと再生したのだと思う。やっぱり私は、どうしても自分の思うように生きたいと思った。長年の親不孝を公務員になって一気に晴らそうと必死になっていたが、そんな気持ちでは自分どころか将来関わるはずの子供にも失礼だし、両親も本当はそんなこと望んでいなかった気がする。私はこれまで、肝心なことを言葉にして伝える努力を完全に怠っていた。

その後、父の看護を通じて手に取った小川公代さんの著作『ケアの倫理とエンパワメント』の中に、こんな一節があった。

<人間には、連続的信仰の『クロノス的時間』とは別の『カイロス的時間』が流れている。それは、経験に基づいた想像世界が育まれる時間である。」ウルフのように、考え、葛藤し続け、豊かな想像的時間を紡いでいる人も女性パートタイム労働者のなかにいるはずだ>

私はこの文章を読んだ時、大変おこがましいことを承知で言ってしまうが、真っ暗闇の中でいきなり自分にスポットライトが当たったような気持ちになった。
あの頃、私は心の中で、この先もし犬死にせず何かを発表できる立場になれたら、これまで思ってきたことや考えてきたことを、自分の言葉で表現したいとずっと思っていた。
私は人と違うのが怖くて、単純で何も考えてないふりばかりをしていた。でも、私がずっと大切にしてきた自分の複雑な「内側」を、自分の表現でこの世に存在させたかった。
「語りの複数性」の搬入の日に、建築家の中山英之さんに構成していただいた自分の作品の全景を見た時、そんなことを走馬灯のように思い出したのだった。あの頃の私が未来の自分に託した願いが、この「私の中の音の眺め」に繋がっているのだと思う。

最後に、ノートに書き留めて今もたびたび眺めている「語りの複数性」展のキュレーターの田中みゆきさんが書かれたステートメントの一部を、ここで抜粋させていただく。

「この展覧会は、フィクションであり、ドキュメントでもあります。つまり、どの作品も創作物でありながら、人とは異なる感覚や経験に裏打ちされていたり、経験していない現実を自らの身体をもって受け取り、表現する試みが描かれています/それは、ここではないもうひとつの世界を表現しているのではなく、この世界をもうひとつのリアリティをもって生きる人の存在を感じさせます/だからこそ、今この瞬間、あなたから紡ぎ出される語りは、あなたの身体と記憶や経験が結びついて生み出される、あなただけのものと言えます。」

どんな人にもそうした「内側」の世界がある。
私は何度もその「内側」を手放そうとしたが、それは自分の影まで捨てようとするくらい不自然なことだった。
私の「内側」は、悲しみも喜びも、さまざまな刺激を受け入れて今も生きものように変容している。多分、過去も未来も、本当は私達の内側にすべて内在しているのだと思う。
そして、その内側の世界を信じて手放さなければ、私はこの先どんなことがあったとしても後悔せず生きていけるような気がしている。
いまだに器用な生き方というのは全くもってわからないままだが、これだけは大切にしておこうと思う。私の中にある、小さな内側の世界を。

author:

小指

1988年神奈川県生まれ。漫画家、随筆家。バンド「小さいテレーズ」のDr.。 過去に『夢の本』『旅の本』『宇宙人の食卓』を自費出版で発表。小林紗織名義にて音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行う。 https://koyubii.wixsite.com/website Twitter:@koyubii Instagram:@koyubim Photography Noa Sonoda

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