諭吉佳作/men Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/諭吉佳作-men/ Thu, 12 Oct 2023 09:09:30 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.2 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 諭吉佳作/men Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/諭吉佳作-men/ 32 32 連載:音楽家・諭吉佳作/menの頭の中 第3回「20歳の挑戦」 https://tokion.jp/2023/10/12/inside-the-mind-of-musician-yukichikasaku-men-vol3/ Thu, 12 Oct 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=211053 シンガーソングライターの諭吉佳作/menによる連載。第3回は「20歳の挑戦」
について。

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2003年生まれのシンガーソングライターの諭吉佳作/men(ユキチカサクメン)。小学6年の時に作曲をスタートし、iPhoneアプリのGarageBandだけで楽曲制作を始める。2021年5月にはトイズファクトリーからEP『からだポータブル』、『放るアソート』を同時リリースし、メジャーデビュー。今年7月12日に20歳の誕生日を目前に、10代ラストのEP『・archive:EIEN19』をリリースした。そんな諭吉佳作/menに、連載の第3回では「20歳の挑戦」について綴ってもらった。

コンビニエンスストアへ入って、いつもと少しも変わりませんという体をとるために店内をうろついたあと、おれはこれまでならば見向きもしなかった、レジに立つ店員の背後に目を凝らした。20歳になったその日に酒を飲んでたばこをやることを前々から決めていたからだ。

でもたばこを買う、それはけっこうどうしようもないことだった。うちにはたばこを嗜むものがいなかった。知識としてたばこに興味を持ったこともなかった。だから、手がかりが極端に少なかったのだ。

何かをやり始めるときっていうのは、この部分が本当におかしい。なぜ何もわからないのにやろうと思うのか。どうやって始めるのか。身近にやるものがいたとして、じゃあ彼はどうして始めたのか。その身近にもやるものがいたからだとして、じゃあ彼は。

おれの場合はただ、ここまで法的に制限されていた(その制限を窮屈に感じたことは一度たりともないので制限とも思ってこなかったのだが)から、今日この日やるのにだけは唯一、個人的な以上の価値があり得ると思ったからだ。そう、まあつまり記念だ。この日に1本吸って実績を残し、そのあとは必要に応じて、というだけで、今生をかけて喫煙者をやることを決意したわけではない。だから始めるという表現は違うのかもしれない。むしろ、どちらかと言えば、おれはこれ以降吸わない、の方にベットしていた。

やったことのないものの強さや味などわからない。調べても文字で書いてあるだけで、それを読むおれの身に何かが明確に差し迫ってくるわけでもない。今日吸ったものを吸い続ける約束をしたわけでもない。今日以降吸う予定がない。たった1回、20歳を証明するためだけに吸うたばこが、甘かろうが苦かろうが濃かろうが薄かろうが知ったことではない。たばこを吸えればなんでもいい。いざとなったら「7番をください」と言おうとも決めていた。7が好きだからだ。おれは7には特別な感情を持っていた。

でも身分証の提示を求められたら、「こいつは今日の20年前に生まれて、ここぞと急いでコンビニへやってきて、自分の誕生月の番号を呼んでたばこを求めやがったが、一体どれだけ自らの誕生の歓喜を信じてやがるんだ」と笑われるだろうと思った。だからそういうのをひっくるめて全部温かい目で見てくれる、できれば自分の2倍くらい以上の年齢の店員に対応してもらいたいと思っていた。

かくして、コンビニエンスストアへやってきたわけだが、2つのレジのうちの一方にしか店員がおらず、それは追い打ちをかけるようにしっかりと若者風だった。おれはがっくりした。落胆を気取られまいとするだけの気勢さえ削がれて、いっそ落胆して見せた。誰にかというと、たぶん神様とかそういうものに。そうしたら何か変わるかもしれないので。願掛けを終えて、いつもと少しも変わりませんという体をとるために店内をうろついたあと、おれはこれまでならば見向きもしなかった、レジに立つ店員の背後に目を凝らした。

あいにくおれはメガネをかけていなかった。あいにくというか、こうなることを予見できた上でかけていなければおかしいのだが、かけていなかった。店員の背後にたばこが並んでいるのはただ様式的にわかっても、目の悪さと知識の少なさががっちりタッグを組んで、やはりそれは背景素材的コンビニの風景でしかなかった。何が何ともわからない。素人でも一目見てこれとわかるような、アイコニックな種類の銘柄さえ見つけることができなかった。

「7番」があるのは確認できた。でも7番から10番まで同じような箱、マイナーチェンジ的なものが並べられているのを見て、「7番」への特別な興味が薄れるのも感じていた。このコンビニの7番はこだわりが少ない、でもおれにはもっとこだわりがない……。

難しいことはやめて、できることからする。とりあえずライターを買わなければいけない。うちには火を使うものがいないので、おれはそこから始めなければならなかった。でもこれは簡単なことだ。少しの違いだが高いのと安いのがあって、高い方の、緑色のライターを選んだ。緑色だったからだ。正直おれは、自分がライターで火をつけるのが上手くないのを知っていた。けれどたばこを吸いたいなら避けられない道だ。綺麗なクリアグリーンに満足して、それを持ってお菓子コーナーに向かう。

この次にはついにたばこに直面する(というより店員に直面するのかもしれない)ことを考えるとおれの目はパッケージデザインの表面をつるつる滑った。本当はお菓子のことなんて真剣に考えられてはいなかったが、コーナーを2往復くらいしてから、結局以前にも食べたことのあるベイクドチョコレートの商品を手に取った。

いよいよ会計つまりはたばこである。おれがコンビニエンスストアへ何をしに来たか。一瞬も忘れたことはなかった。稼働中のレジは相変わらずひとつだ。若者風の店員はまだ客を相手にしている。会計を待つ列はできていない。仕方なくおれが順番待ちのステッカーの上に立つと、カウンターの中で作業をしていた店員が店長を呼んだ。店長!ラッキー!幸先がいい。これはさすがに誕生日だ。店長がやってくる。2倍より年上には見えなかったが、若造のめちゃくちゃな一挙手一投足を優しく見守ってくれそうな人だった。なぜそう思ったのかはわからない。店長だからかな。おれはライターとお菓子を台に置いて、たばこの7番をくださいと唱えた。途端に、体の内側に収まっていたはずの大事な部分が体のアウトラインを超えて出ていく感じがする。

だからこれはそう、なんかわかると思うけど、なぜか法律違反の気持ちだ。精神的な法律違反。かなり身構えていた。おれはなぜか、たしかに嘘をついている感覚だった。20歳になったのは本当なのに。本当は別に、たばこを吸いたいと思っていないからだろうか。たしかにそれもあるだろうが、これは……。

店長がおれに、画面の操作を指示する。20歳を超えているかを問う文言が表示されて、おれは当然YESを押そうとするのだが、なぜかそこでハッとしてしまう。おれは18歳じゃないか!たばこを買えるのは20歳からだった!間違えた!おれは勘違いしていたんだ!そういう妄想に取り憑かれていた。
(おれたちは18歳でR-18指定の映画を観てもいいことになって、自動車の運転にもトライすることができて、成人もしたが、おれはここにこのことを書くまで自分が19で成人したような気になっていたしそんな発言をどこかでもしてしまった気がする、でも18で成人する最初の世代だったらしく、成人したからにはエステサロンの契約に気をつけろなどと言われ、でも酒やたばこは変わらず20歳からで、大混乱だ。体の成長と共にピアノの補助ペダルがいらなくなってああ大きくなったなと実感するような物理的なことだったらわかりやすかったが、そんな実感は一切伴わない。)

正直に言って、ボタンを押したときはまだおれの気持ちは18歳だった。ばれてしまうんじゃないか?と思っていた。つまり本当に精神的には犯罪者だったことになるが、これって、その精神が裁かれるだろうか?そうだとして、今なら思うが、一体何がばれるというんだろうか?精神まで暴くことはできまい。まもなくやたら溌剌とした「身分証の提示をお願いする場合があります」という音声が流れた。そうだ、身分証。そうしてようやくおれは20歳の方へ戻ってきた。

お願いだから身分証を確認してくれと思った。おれの身分証を。確認してくれたら、おれは証拠を出せる。確認されてもまったく困らないだけの証拠をおれは持っているのだ。まあ誕生日当日だから、ちょっとは恥ずかしい思いをすることになるかもしれないが、それが立派な証拠だ。その恥ずかしさごと証明させてほしい。お願いだからさせてくれ。そう思った。でも店長はなんの違和感もないような感じで7番を持ってきた。そりゃまあそうなんだろう。向こうは大人だし、いつもやっている仕事だ。たばこに対しておれほどに特別な緊張感を持っているはずがない。

おれの顔を見て違和感がなかったならそれは正しい。店長は何も間違っていない。だっておれは20歳なんだから。おれより店長の方が本当のことをよく知っている。

無事に箱が、お菓子とライターと並んで目の前に現れる。おれのたばこ購入の作法が一応は間違っていなかったらしいという安心感と、店長本当にこのままおれにたばこを売ってしまっていいのか?というよくわからない疑いとの両方が生まれて、おれは混乱していた。

多少の離人感を持ったまま金を支払う。セルフレジだ。札の入れ方がよくわからなくて手間取る。まだ自分が何かしらの嘘をついている気がしていた。札の入れ方もわからないのなら子供じゃないかと疑われている気がする。だったら証明させてくれ。おれは証拠を持っているんだから。確定すると釣り銭が落ちてきた。それを拾うのにもいつもと同じぐらい手間取る。おれにとってはいつもと同じだが、その手つきのおぼつかなさを不審に思われるんじゃないかと汗が出る。汗が出たら、もっと変に思われるんじゃないか?心配をよそに、店長がおれに礼を言う。商取引が終了した合図だった。

逃げ果せたというより、逃げてしまえたという感じだ。いっそ捕まりたかったのかもしれない。脱力した。外で待っていた家族と落ち合う。おれは第一に「年齢確認されなかった」と言った。されたら困るやつの発言じゃないか。

車に乗り込むと、家族と7番のデザインを確認した。思えば、おれは自分の買い求めたたばこがどんなものなのか、一切気にしていなかった。若者風の店員越しに見たときから、それを把握することはまったく諦めてしまっていたのだ。運転席と助手席で、タバコの箱を点検する。白くてシックで、銀色に光るロゴが未来的なデザインだ。そして横長。心なしか、小さい。あのたばこ特有の健康に関する注意書きは「加熱式タバコは」で始まっている。いや、すべてのたばこには熱を加えるよね?おれは言い訳をしたが、たばこは戯言を聞き入れなかった。

家に帰るとコンビニエンスストアたばこ購入メンバーにならなかった面子が、おれたちを待っていた。おれたちも、一連の出来事を伝えることを待ち望んでいた。ことの顛末について一席打ったあとにつけ加えて、もう買い直すつもりがないことを伝えると、「縁がなかったんだね」と言われた。縁がなかったというか、こういう縁だったんだと思う。わざわざこんなことをしたのだから、まあ縁はあったのだと思う。ライターとたばこはこのまま飾っておくよ。おれはそう伝えた。

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連載:音楽家・諭吉佳作/menの頭の中 第2回「本物」と「偽物」 https://tokion.jp/2023/05/13/inside-the-mind-of-musician-yukichikasaku-men-vol2/ Sat, 13 May 2023 03:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=182480 シンガーソングライターの諭吉佳作/menによる連載。第2回は「本物」と「偽物」について。

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2003年生まれのシンガーソングライターの諭吉佳作/men(ユキチカサクメン)。小学6年の時に作曲を始め、iPhoneアプリのGarageBandだけで楽曲制作を始め、2021年5月にはトイズファクトリーからEP『からだポータブル』、『放るアソート』を同時リリースし、メジャーデビュー。トラックメーキングはもちろん、独特な言語感覚から作られる歌詞や文章も人とは違う魅力が詰まっている。「TOKION」では諭吉佳作/menにコラム連載を依頼。不定期で掲載していく。第2回は「本物」と「偽物」について。

荒くなった画像をより鮮明で大きな画に戻せるという想像は、すごくロマンティックだと思う。想像する人はロマンティシスト。素敵なのだ。いろいろできるのが当たり前で、できないことの甘美さを、最近は忘れている。

ひとつひとつの点は大きく、それらの集合としての全体は小さく、もう変わってしまったものだ。それでも彼ら自身が当時のことを覚えていると考えた。今やどれだけ拡大しても再現されない、いつからか省略されてしまった点の記憶をまだどこかにしまっていると。

再現としての写真や絵に含まれた固有性みたいなものをおれはどう認識してきたんだっけな、と考える。

そう、すると真っ先に思い出すのだけれど、専門家の説明以外でさらっと伝えられる「スマートフォン電話の声は本物の声ではない」の話には、いつもちょっと妙な気持ちにさせられる。ちょっと疑いを持つし、ちょっと苛立ちもするし、その話題のどの部分に特別なシンパシーを覚えているのか?と、ちょっと考える。
おれは電話の声が本物だと思っていたことは一度もない気がするのだ。

おれ自身が、そもそも全然電話をしないというのが手伝って、一歩引いた感じになってしまうのだろうが、それにしても詳細を調べたことはなかったよなあと反省し、軽く資料を探す。

その結果、今からちょっとそういう話を書いてはみるけれど、おれは専門家じゃないので、みなさん妙な気持ちになるだろうが、どうか勘弁してほしい。

スマートフォンでは、事前に準備されている音の素材を話者の声に近いパターンに組むというようなことが行われるそうで、だからたしかに話者本人の声ではないと。スマートフォンの場合はそんなふうだが、固定電話の場合にはまた仕組みが違って、処理は挟まるがほとんどそのままの波形を伝達するので、本当の声を伝えていることになるらしい。うーんまあ、専門家ではないのでよくわからないし、専門家ではないおれがあえて「ことになるらしい」と言いたいのは、固定電話の声ほど不気味なものはないと思うからだ。でも理論上本物だという。

理論上のことは正直な話おれにはまったくよくわからないが、感じ方の意味で言う本物か偽物かというようなことは誠に曖昧な議論になりそうだ。スマートフォンについて電話の声って本物じゃないんだよと話す人は、本物じゃないことが寂しいとも言うが、固定電話の声を「本物の声」のうちに含めることにはわだかまりがないのだろうか。

話者が電話に関係するよりずっとずっと前から、電話機の側があらかじめ準備していた素材を、勝手に話者の声風に組み立てて、あたかも話者の声ですという顔で流していることが寂しさの理由なのであって、つまり大抵は自分と相手の蜜月な会話に第三者的存在の介入を感じさせられるのを惜しく思っており、そのいかにも感傷的な感情に「実際問題本物じゃないから」というタイトルを与えているのだとしたら、それはこんな感じで文章を書いているときみたいに、感性的になっているときのおれになら、共感できそうだ。電話をしないから想像でしかないが。そして、固定電話でも同じ感覚を持つと思う。そうだとしたら、そこでは理論上本物か偽物かということは一番の問題ではない。

おれの感覚で言えば、実際に「そこにある」以外ならスマートフォンでも固定電話でも、いっそ電話以外のテレビもスピーカーも全部、何だったとしても同じことという気がする。何かを介している時点で、もう何かを介している。おれが機械に詳しかったら、もう少し違う感想を抱くのだろうか?

あなたは、液晶画面に写真を表示してみる。例えばあなたと仲の良い友人に山口さんという人がいるとして、その山口さんの写真だ。あなたは画面を注視する。

山口さんが、池に浮かんだ金色の寺をバックにピースしている。染色したばかりの濃い髪が木葉と一緒に靡いて、陽の光を反射する。服装はシックなモノトーンでまとめられているが、歯を見せて破顔すると寺にも負けない輝きだ。

山口さんがいるなと思うだろうけれど、何をもって山口さんなのだろうか?

それは写真ではなく画面かもしれないし、画面じゃなくて光かもしれない。別の視点から言えば、人が写ってはいるかもしれないが山口さんとは限らない。この世にいる似た顔の3人から山口さんを除いた2人のうちのどちらかかもしれない。それでも山口さんだと思うのなら、あなたが見ているのは写真でも画面でも光でもなく記憶だ。あなたは山口さんと京都へ観光しに行ったこと思い出している。

彼の髪は、かちかちに固められ宙に浮いているのではなく、風に靡(なび)いているのだとわかる。映像ではなくても、あなたにその知識と記憶がある。よほどわかりづらいはずだが、あなたは写真の中の彼の髪と眉毛を見分ける。あなたは記憶の中の彼の姿形を参照している。洋食屋で向かい合ったときにハンバーグを食べながら盗み見た彼の目つきを思い出す。でも写真の立場になると、それが整髪剤まみれの髪なのか指通り滑らかな髪なのかとか、頭髪なのか眉毛なのか目なのかなどというのは実にどうでもいいことだった。まったく他人事でいられる事象だ。

だからできるのはあなただけだ。写真の側は一度縮んだらそれ以上のことは何も思い出してはくれない。縮み続けるとだんだん、あなたの記憶をもってしても見出せるものがなくなり、最終的に一個の点になって消える。

当時から十分に不思議で、あとから考えてさらに不思議な、写真に関するエピソードを思い出した。

非常に有名な人、つまり、おれやたくさんの人々が彼の外見をどうしようもなく「彼」そのものと認識しているはずだというような、確固たる固有性を持った人のことだ。特別で、もう他の言葉で言い当てるのは難しくなり、彼を表すのは結局彼の名前ということになってしまう、そのくらいの人だ。

でも確かに、その写真の彼はいつもと雰囲気が違った。珍しく、伸びた前髪が半面を隠していた。他の目的で用意された写真には明るい印象を与えるものが多かったが、薄暗い屋内で撮られた影のあるもので、意外だなと思った。その写真の彼は、外見から見てとれる特徴が普段よりも少なかったのかもしれない。とはいえだ。

写真を不意に目に入れて、ええ!おれこんな写真撮ってないよね?と。世にも奇妙というか意味不明というかあまりにありえない種類の驚きを感じたのだった。

シチュエーションはともかくデータ的には鮮明な写真なわけだし、見間違うほど顔が似ているということもないし、第一おれには記憶がない。撮影の。さすがに、真面目に自分ごとだった時間は1回分にカウントしなくてもよいくらい一瞬だった。すぐにおれは頭を振って、彼の名前を思い出した。でもその一瞬の間、信じられないけれど、すごく恥ずかしい気持ちになったのだった。ただ、これちょっと自分に似てるなあと客観したならまだしも、知らないうちに自分の写真が!とどきっとさせられたのだ。いつの間にか自分の秘密が漏れていたとわかって焦るみたいな感じだった。焦るって、その主観具合は相当じゃないか?その日以前にも以後にも、似た経験はない。

全部本物だし全部偽物

街を歩いている誰かが自分の大好きな芸能人に非常によく似ていて、実際に(というのは神様視点の話だが)本人だったとしても、おれにはわからない、ということは昔から考えていた。

画面越しにしか見たことのないものが目の前にあったらどうかなんてまったく想像がつかないし、姿に加え声や話し方に所作込みで「彼」と記憶しているその人のただ歩いている姿を、どれだけ近くで確認できても、確信は持てない。似てるなと思い至らないわけではない。思うだろう。ただ確信をしない。わかる人にはわかるのかもしれないが、おれにはわからない。

けれど、画面越しということが特別な問題なわけでもない。ごく身近でないなら、知り合いにも似たようなことが言える。話す声も似ているとか、以前にもあの服を着ているところを見たことがあるとか、連れにも心当たりがあるとか、ここが待ち合わせ場所で待ち合わせの相手が自分だとか、理由を見つけると確率を上げられるというだけで、それが誰であるかを確信するための勘自体が、おれには少ないような気がする。物と物を間違えるよりも、人と人を間違える方が恐ろしいので、厄介だとも思う。

そんな考えがあるのに、他人の写真を自分の写真と思いかけて存在しない主観を経験をしたし、最近は、自分の顔が日ごとにいろんな顔に見える。人間の顔そのものを面白く思うようになってきたのには、あの写真が関係しているのかもしれない。いや、こじつけのような気もする。そういえば自分の表情こそ、何をも介さずに確認するのが不可能な唯一のものだ。

今ここで、これは自分の感覚以外の何をも介していない体験だ、という自負があるときは、「今ここでこれは本物だ」と言えるだろうか。そんな状況滅多にないし、もしあったとしても、それでも本当に本物かどうかは、何をもって判断したらよいかわからない気もする。

あらゆるものが本物か偽物かというようなこと、例えば、それが本心なのか/素肌なのか/ライブなのか/フィジカルなのか、もしくはそうでないのかというようなことを追及するのは野暮に思えることが多かった。おれはあまり重視せず、追及しないようにした。だからこそ逆に、おれは、日常的に、かなり気軽な調子で、この調子で口に出すこの言葉に深い意味なんかあるはずがないですよね、という雰囲気を撒き散らしながら、「フェイク」という言葉をぽんぽん使っている、そういえば。だから、「本物」がそんな感じでぽんぽん使われることに対しても、実のところ、大いに共感できる。今ここに書いているのもたぶん、半々って感じだ。おれは他人がしたタイトル付けにだけ厳しくて、ひどい。

今まで「全部本物だし全部偽物だ」と言いながら願望なのかもしれないと思ってもいたが、今日は、単に夢見がちなだけでなく、切実な解釈でもあるなと思った。

ほとんどしないのに言えたことじゃないが、電話の声は、本物の声には思えないが、本物の電話の声なんだよなあと思う。さすがに電話の声にエモさは感じる。写真ならどうかなとカメラロールを見返したら、少し前に撮ったプリクラの画像を見つけた。写真はやっぱり、時間が経っているし、物としても画面とか光とか、紙とかインクとかだし、しかもプリクラなんか顔のあらゆる部分を伸ばされたり縮められたりやりたい放題だ。伏し目なのに上向きに足されたまつ毛を見て、今度こそ偽物なんじゃないか?と思った。でも、まつ毛は偽物だけど、本物のプリクラまつ毛で、これは本物のプリクラなんだよなとも思う。味がある。これもエモい。確実に本物だ。これが本物じゃないっていうならそんなのマジでフェイクだ。

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連載:音楽家・諭吉佳作/menの頭の中 第1回「言葉の可能性を考える」 https://tokion.jp/2022/12/15/inside-the-mind-of-musician-yukichikasaku-men-vol1/ Thu, 15 Dec 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=159840 シンガーソングライターの諭吉佳作/menによる連載。第1回は「言葉」について。

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2003年生まれのシンガーソングライターの諭吉佳作/men(ユキチカサクメン)。小学6年の時に作曲をスタートし、iPhoneアプリのGarageBandだけで楽曲制作を始める。2021年5月にはトイズファクトリーからEP『からだポータブル』、『放るアソート』を同時リリースし、メジャーデビュー。トラックメーキングはもちろん、独特な言語感覚から作られる歌詞や文章も人とは違う魅力が詰まっている。今回、「TOKION」では諭吉佳作/menにコラム連載を依頼。第1回は「言葉」について綴ってもらった。

私は、音楽をつくっている。自分で歌うための曲も、誰かに提供するための曲も、メロディには歌詞を乗せてきた。
これまでの私が自分の歌う特定の曲に対して「歌詞に意味はないです、リズムとか発声したときの感じだけです」などと言い張ってきたのは、決して嘘ではない。でも、じゃあ、私は言葉を、歌詞を、作詞を、なんだと思っているのだろう?

日常生活を送っていると、言葉はいつでも自分の周りにある。人々の会話、テレビ、メール、書籍、SNSの投稿、それから歌詞。
小さい頃から今まで、自分はどうしても、周りの言葉が気になってしまうらしかった。なぜそうなったのかはわからない。幼児期の私の言葉に関する質問の量は異常だったと母が言っていた。それも何か関係があるのだろうか。

例えば、ふとテレビ番組から耳に入ってきた、言葉選びや文法に関する心地のよい違和感・わるい違和感にいつも気を取られた。それが尾を引いて、頭の中で整理を始めてしまうから、再び画面へ目を向けた時には私を置いてけぼりにだいぶ話が進んでいたりもする。
言葉を用いたコンテンツには細かい楽しみをたくさん感じる。でもその分、余計な引っかかりを持つことも多い。「この人は別にこんなことに気を取られてほしくて話してないんだろうなあ」というような部分に。他者とのやりとりで揚げ足を取って迷惑をかけた回数は人よりもだいぶ多い気がする。(これに関しては考え自体でなく口に出したという行儀が悪かったので今後は気をつけるとして)。

けれど、こういうふうに言葉を噛み締める癖がなかったら、私の音楽の楽しみは今の半分くらいの大きさだったのだろうか? とにかく、私にとって言葉は身近で、驚きのあるものだ。
リズム、イントネーション、発声方法、文法、単語同士の関わり方などさまざまな要素から、心地よさ・わるさを判別できる。きっと、例を並べてみたら、その条件に傾向を見ることはできるだろう。でも既に自分の中に染み付いてしまったもので、感覚としては、美味しいか・美味しくないかに似ている。条件よりも好みとか癖と言うべきなのかもしれない。瞬発的で自然だ。

誰かに話しかけられた時も、テレビを観ている時も、本を読んでいる時も、音楽を聞いている時も、その条件が頭のどこかにはあるらしい。だって、フックのある言い回しやリズムなどが不意に飛んできたとき、待ち構えていたつもりはないのに、私はそれをいつの間にかフックと認識している。であればそれはほとんど自動的な機械にかけられるようで、今のは気持ち良かった、今のはなんか変だった、などと振り分ける。
なぜそう振り分けられたのかを知るには、頭の“どこか”ではなくもっといつも意識的に使っているところで、あらためて考え直さなくてはならないようだ。どこがどうだから珍しい言い方になっているとか、リズムがあるとか。なんだかんだ私は、別にやらなくていいのに、その作業まで済ませることが多い。わざわざ母に返事を要求したりしながら。いつもすみません。

小学生のときにぬるっと詩を書き始めたのも、言葉や文章が好きだったからだ。報告・連絡・相談などとは関係のないフィールドで、自分の手で言葉を使ってみたかった。
詩を書いていたときの私は、声に出すことをほとんど想定しなかったはずだ。「リズムや発声の感じだけ」ではなかったということだ。それからピアノ椅子に座るとメロディがくっついてきて、「詩」が「歌詞」ということになっても、すぐに変わるわけではなかった。
続けるうちに作曲の仕方が変わったり、自分なりに作曲の基準が確かになっていったからなのか、その過程で、私にとっての作詞は思いやストーリーより音の強調としての側面を増やしていった。

言葉は意味を持ってしまう

言葉は、文字の姿だったり音の姿だったりする。印刷という方法で紙に再現されたり、色の光の集合でディスプレイに再現されたり、声として発されたり、それを録音したならスピーカーから再生されたり。用途により違いはあれど、それらの言葉にはたぶん、意味がある。何も示したくないと思っていても、言葉を使う以上ここにはひとつの意味もありませんとはいかないのかもしれない。

やっぱりこれも、歌詞を考えている時だった。ふと言葉の意味について、よく考えてみた日があった。あまり、作詞を自由だと思えない日だった。今思えばそれも駄々を捏ねているような感じだった。

“意味のない言葉ってないんですよね 俺が知る限りでは 例えば「木」には「木」って意味があるんだから「木」の意味をなしに「木」という言葉を使うのは難しいんですね 「木」のことを言いたい時に「木」という言葉を使えば伝わるのは便利な仕組みでありがたいですけどね「木」じゃない木を探したい”とツイートしていたのは、調べてみると2021年6月11日のことだった。

日本語話者の私が「き」と発声したとき、別の日本語話者Aの頭に樹木が思い浮かぶのは自然なことだろう。「き」は「木」として、たった一瞬の音であっても意味として伝わってしまう。私がそのとき、ただ「き」という音だけを好んで、音だけを目的に発声していたとしても、同じことだ。そこに漢字の字幕がついたならなおさら。でも、これだって本当は、驚くべき自由だと思う。

自分の頭に浮かべた何かは、その時点では以上も以下もなく本当にただそれだけなのに、言葉のおかげで、他者に伝えることができる! それも1個や2個じゃない。数えきれないくらいの物事にいちいち名前がついていて、言えばわかってもらえる。そんなにすごいことがあるだろうか? 今私がここに書いていることも、この先誰かに読んでもらうときにも、全部それが前提にあるのだ。

これから私達が同じくらい大きな仕組みをつくろうとしても、……それって例えばどんなことだろう? いや、本当にちょっとあり得ない話だ。
逆に、言葉の意味や指す範囲の認識が違っていると微妙に話が噛み合わなかったり、名前のついていない物事はそれ故に認識しづらかったりということもある。言葉の便利さが信用されているからこそこういうことは起こるわけで、まあ結局、一長一短ではあるんだけれども。

言葉には意味がある。言葉を交わすことは、言葉の持つ意味の共通の認識のもとに成り立つ。共通の認識によって、さまざまなことを他者に伝えられるのは、とても便利だ。でもその上で、私は便利さとは関係なく、言葉を使ってみたくなった。方向は変わったけれど、衝動自体は歌詞を書き始めた当初と似たようなものだ。言葉を自由にしたいのは変わらない。
音の強調としての歌詞を書くというのは、発し方や聞こえ方に心地よさを求めるということだった。そこでは、言葉に必ずついてくる意味が、私の身を縛るように思えた。

自分の意図しないフックをつくりたくないけれど、音の響きだけはすごく好みだしすごく有用だということはありえた。「木」じゃない「木」を使えたら、もっと自由に作詞ができるはずだと思ったのだ。
いつだったか、ある音の響きを思い付いて、歌詞に使いたいけれどこんな言葉はあるのだろうかと聞いたことのない文字列を打ち込むとなんと漢字に変換できた。未知の収穫に逸りながら漢字の意味を調べてみたら性器という意味だった時の私の気持ちがわかるか?

けれど、伝達や認識のために言葉があり、言葉があるから伝達や認識が可能なのだとしたら、言葉に意味を託して使うのは当然だ。ごく単純に考えて、一切の意味がいらないのなら文字や音を言葉の形に調整する必要がない。

私の発した声が「き」でも「木」でもなく「つそむふえやし(私が右手指を3本使ってキーボードを素早くフリックすることでできた文字列です)」だったとする。Aの脳内に、Aの持つ経験や癖を反映したイメージ的な画が浮かび上がることはあっても、特定の何かが確信的に映し出されることはまずないだろう。こんな言葉はなく(たぶん)、変換だってできない(たぶん)。私は意味を伝えなかった。けれど、それは「意味のない言葉」ではなくて「声」になるのだろう。これが声を用いていなかった場合は文字で、声の場合はつまり音だ。
音としての「声」はそれだけで音楽と相性がいいはずだが……私はメロディに言葉を使ってきた。意味はないなどと言いながら。

「言葉」と「文字」

今回、こんなふうに当たり前のようなことを書き出してやっと腹を決めることができた。言葉は意味そのもので、切り離せるはずがない。切り離そうとすれば文字か音になるだけだ。
受け取った人が意味を読み取る可能性があるものを自分で拵えておきながら「歌詞に意味はない」と主張すること自体が、そもそも無理なことだった。言葉の音の部分だけを追求することが悪いのではない。たとえ私に考えがないのが本当だろうと、「いろいろな受け取り方をしてもらえたら」とかいう発言とセットになっていようと、あんまりだった。
私の言ってきたことは嘘ではなかったが、正確ではなかったし誠実でもなかったと思う。

言葉として存在する文字や音の列のどこまでが文字や音で、どこからは言葉として意味を持ち始めるのか、その境目はよくわからない。声やひらがな・カタカナを用いて無意識に言葉を発しても、それは文字や音でしかないとも思う。例えば私が適当に発した声がたまたま私の理解しない外国語の何かしらだったとして、何何語を喋りましたよとは言い張れない。

今ちょうど、言語や認識、価値観など、形は曖昧ながらも確実に生活のツールとして活用してきたもの達が、自分の手から離れてぷわぷわ飛んでいってしまったような感覚だ。よくわからずに使っているものが多すぎる!

そもそも「言葉」で「言葉」を説明するのって結構無理があるんじゃないか? というようなことを、最近よく考えていた。ここまで書いておいてよく言うよな。
私はここで「言葉」と「文字」を別の意味を持つものとして、比較対象として書いたが、試しに「言葉」を調べてみるとその意味として「文字」があったりする。より口語的な表現として広義に、とかじゃないかなとは思うが、にしても、ややこしくてもうだめだ。全部を諦めそうになる。「文字」じゃなく「記号」とか言えばいいのだろうか? でもそれだとちょっとわかりづらいと思いませんか?

この言葉って結局どこからどこまで? っていうのが明確にならないと安心はできないんだ。最終的には相手に委ねて感じ取ってもらうしかできない。私が「言葉」と「文字」、2つの語(また新しく「言葉」の代わりになりそうな言葉を使ってしまった)を並べることによってそれぞれの語の担当する範囲をどう特化させようとしていて、どういう対比を生まれさせようとしているのかを。その具合によってはやっぱり、微妙に噛み合わないということが起こる。よくある。

特にInstagramで受け付けた難しい質問に答えているときに思う。真剣になればなるほど、質問への回答というより、質問者の方が質問文に使った言葉の意味を分解して互いの言葉の意味の認識を共通にする作業みたいな、元も子もない感じのお返事を書いてしまう。あなたの使った言葉を私はこう解釈していて、だったらこうです、と。「言葉選びの問題じゃんと思われるかもしれませんが」と何度書いただろう? けれどそれも当たり前だ。全部言葉選びの問題だ。……うーんこれも言葉大好き故なのか?

よく伝わりすぎても、うまく伝わらなくても、私達お互いが全力でいてそうなるのだから、仕方ない。そういうものなんだ。

ただ私が個人として決められるのは、これからどんな歌詞を書くとしても、簡単に「意味はない」などと言うのはやめるということだ。

音楽の言葉

自らの作詞作業に葛藤はありつつも、音楽の言葉にはいつも不思議な飛躍を感じてきた。
だから、作り手の工夫を抜きにしても音楽の言葉=「歌詞」は初めから自由度が高いのでは、なんて音楽だけを取り上げて書きそうになったけれど、それは適切ではないかもしれない。

日常会話・歌詞・詩・小説・随筆・評論、演劇・映画・ドラマ・スピーチ・アナウンス……キリがない! それぞれのフィールドに、それぞれの課される制約と逃れられる制約がある。自由度が高い低いと二元的には語れないのだろう。どんなふうに自由なのかという視点で、すべての言葉に夢をみている。(とはいえ音楽のことはやっぱり特別だから、贔屓したいと思ってしまう)。

日常会話の言葉は瞬間的だ。発した言葉は基本、聞き取られることによって記憶として保存されるのみで、再生を前提にはしない。けれど、言い直すことも聞き返すこともできるし、いつも正確性が求められるわけではない。

音楽や演劇、映像作品なども、時間進行ありきの表現だから瞬間的な側面がある。読書などとは違い、自分の意識が追いつかなくなった時点で中断されるということはない。そこでの鑑賞の経験は時間の進行に背中を押され続けるようなものでもある。けれど、作品だから、何度も再現されるし、その分時間や字数の上限のもとで、より選ばれた言葉が使われる。

作品ではなくても、ラジオ・テレビ放送や評論文、個人の日記、メールのやりとりなどのように記録が残れば、あとから見/聞き/読み返せる。

改めて考えればこんなふうに、いろいろな共通点や特有の性質があり、面白い。ただこれは結構「作品」の中でも異質なことじゃないかと思ったのが、音楽は鑑賞者による再現が圧倒的に主流ということだ。歌詞をすべて記憶した上で次の言葉を待つように聞くことも、まったく珍しくない。

でも音楽の言葉についてまずはじめに考えたことは、夢とは遠いかもしれない。さまざまな「言葉を使う状況」における言葉の優先度・独立度の高さをランキングにした場合、「状況:音楽」はかなり低い方に位置付けられるのではないかということだ。私が言うと冷たく聞こえそうだ。

そもそも今、音楽の言葉はあえて使うものだろう。言葉を歌うことは、それを選んだ場合には大きな影響力を持つけれど、音楽の絶対条件ではない。ボーカルのある曲のインストゥルメンタルのみ、メロディのみを音楽として紹介することはありそうだけれど、歌詞だけを取り出して音楽だと言えるかは……うーん、考えようはあるが、あえて言う以外では難しいと思う。

音楽の言葉は、あれば楽しいが第一というほどには優先されず、音楽として独立もしない。鑑賞者は先の展開を全部知っていることもあるし、楽曲自体はいつでも再生できるからという余裕もありつつ、生の現場のうちでは瞬間的でもあるし、であればそのときには振り返る隙を与えないスピード感がある。
使われている言語によっては意味を一切理解せずに楽しむことがあるのが音楽だから、書き出すと冷たくても実際によく経験していることだと思う。

このことを書かずに夢とか言うのはちょっと、できなかった。そしてこういう特徴があるからこそ、作り手は意味の発生の仕方や度合いをさまざまな角度からコントロールできる。私がずっと嬉しく思っていることだ。

言葉のイントネーション

イントネーションは逃れられる制約のひとつだ。歌詞の、単語固有のイントネーションに対して、メロディの上下を合わせることもできるし、外すこともできる。

会話の時には余計な違和感を与えるかもしれないことを、音楽の上ではすんなりパスさせられる、もしくはよい違和感に変えられるだろう。音楽なんだから当たり前だよと言われればまあそうなんだけれど、なぜ当たり前なのだろうか? 希望がある。

ただもちろん、イントネーションには方言もあるから、必ずしも全ての言葉・全ての人に当てはまるわけではないし、逆の場合もある。

『pάː』について、思い出すのは歌い出し「プールの味のあくびで 午後の部屋 空気は回る」の「あくび」の部分だ。おそらくメロディが先にあったと思う。私は「あくび」の3音、1音目が一番高く、3音目が一番低い、だんだんと下がる階段状のメロディに「あくび」という言葉を当てはめたことになる。

これを多くの人は、制約から逃れた結果と考えるかもしれないけれど、実際にはそうじゃなく、私の使う言葉に方言があるからじゃないかと思うのだ。
標準語では「くび」を高く発声するはずだ。私は無意識に、標準語を使うときと、「あ」を高く発声するときがある。(検索してみたら「遠州弁」と出てきた。私の地元は遠州には入らない気がする)。

「あくび」の言葉は、自然な勢いのまま当てはめただけだった。それがたまたましっくりきたのだと思い込んでいた。でも後々考えてみたらむしろ、自分の根底にあるイントネーション(方言)の認識とメロディとが一致するからこそナチュラルに発想したのかもしれなかった。

それでも、私と同じ方言を持たない人からすれば、イントネーションの制約から解放された3文字になっているのは間違いない。これが喋りだったら可能性を考えるだろうけれど、音楽「pάː」の上では、方言かもしれないと考えることはほとんどないだろう。

五十音がどこにどう当てはまるかも、メロディとリズムの上ですごく重要になる。メロディに対して乗る場所がひとつ前・後にずれることや、連続する音の関係性によって、かなり聞き心地が違ってしまうから、工夫したいし、それが楽しい。

「ん」は特に印象を左右する音のひとつ(日本語の「ん」を音声の観点から「ひとつ」とは呼べないが)だと思う。誰かに質問したことはないけれど、多くの人がよく気にしているんじゃないかとも思う。

私は、「ん」と他の音との関係性的に「本物」とか「本当」という言葉を気持ちよいと感じるみたいだ。「本当の物」「偽りでない」みたいな内容は歌詞にしようと思えないことが多いのに、求められる口の動きと音の響きだけですぐに歌詞に使いそうになる癖がある。こういうとき、言葉に意味がなかったらいいのにと感じる。もう今までのようには言わないけれど。

言葉の面白さを再現したい

これらは言葉の音の部分だけれど、もちろんそれだけではない。演奏の展開と言葉との親和性は感情表現を強化するし、時間進行のスピード感は言葉の規則性を柔らかくする試みを手伝えると思う。いろいろな言葉への挑戦を音楽というフォーマットで助けられる。

言葉に意味がなければと考えていたときも、特定の何かを題材に歌詞を書くことはあった。ただそれは制作にルールやゲーム性をつくるためだったり、頭に浮かんだことを記念品として残しておこうという考えからだったりした。けれど最近は、歌詞の形で何かを喋りかけて、聞いた人になんらかの気持ちを発生させてみたいと思えてきた。

正直、それなら文章を書けばいいじゃんと思っていた。言いたいことを伝達して何かを思ってもらおうという目的なら、文字数の制限が緩い場所の方が正確にできるはずだ。単体ではまったく成立しなさそうな言葉の並びのほうが音楽を使う理由になるんじゃないか、と。今もまあ半分くらいはそう思っている節があるし、文章も頻繁に書く。でも私の中のもう半分の部分では歌詞で何かを言おうとすることの力を信じているし、そういう音楽制作が流行している。

面白さ輝かしさ切実さを、これまでも感じてはいただろうけれど、ここ1年あたりでより嬉しく思うようになった。事象そのものでも考えでも物語でも訴えでもなんでも、音楽に乗せて誰かが何かを言っているということ自体が嬉しい。

音楽という形式にとって言葉は必須ではないだろう。でも、メロディと、楽器の演奏や打ち込みと、歌う人の声や人格と、歌詞の言葉が、集まって音楽として突きつけられるとき、言葉は不思議に飛躍しながらこちらまで届く。

私は、好きなものはなんでも自分でもやりたいから、最近はそれを目指して試している。この先また音の響きと発声を追求することに戻ってくるかもしれないし、まったく別の流行もくるかもしれない。

言葉の使い方はたくさんある。私はなるべく多くの方法で言葉に接する。自分がずっと感じてきた、そしてこれからも感じるであろうたくさんの言葉の面白さを、自分で再現したい。言葉の可能性を自分の力で信じていたい。

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新世代を象徴する存在、諭吉佳作/menが語る“今” 「今日思っていることを明日も思っているかはわかんないです」 https://tokion.jp/2021/01/15/yukichi-kasaku-men-a-singer-songwriter/ Fri, 15 Jan 2021 06:00:06 +0000 https://tokion.jp/?p=16732 iPhoneで曲作りを始め、でんぱ組.incに楽曲を提供した、17歳の新世代シンガーソングライター諭吉佳作/menは今何を考えているのか。

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現在17歳のシンガーソングライター、諭吉佳作/men(ユキチカサクメン)。小学6年の時に作曲を始め、iPhoneアプリのGarageBandだけで楽曲制作を始めたことや、アイドル・グループのでんぱ組.incに楽曲を提供したことなどで、多方面から注目を集めている人だ。作り出される楽曲は、言葉そのもののインパクトを重視した豊かなイメージの歌詞世界、ストレンジなトラックメイキング、マナーを逸脱した曲構成など、全てが新鮮であり不思議な感覚に満ちあふれている。既成概念にとらわれない自由で軽やかなスタンスがあり、長谷川白紙、君島大空、崎山蒼志らとともにいわゆる新世代系の象徴といえるだろう。まだアーティストとしてはデビュー前の諭吉佳作/menに、“今”の話を聞いた。

──小学6年で曲作りを始めたそうですが、それ以前から音楽は好きだったんですか。

諭吉佳作/men(以下、諭吉):最初に自分で音楽を聴くようになったのは小学3〜4年くらいの時、ボーカロイドが好きになった時期だと思うんですけど。ただ自分はオタクなので(笑)、音楽がどうこうっていうよりは、その周辺のキャラクターとかのコンテンツ自体に惹かれていたのが大きくて。その時はそんなに音楽大好きってわけでもなかったんですけど、歌うのは好きでした。それで主にボーカルを聴くという態度で椎名林檎さんを好きになったタイミングがあって。それと音楽とは関係なく文章を書くのが好きだったので、音楽を作ってみたいと思ったのも、言葉を扱うことをしたかった、というのが最初のきっかけとしてありました。

──そこからどういうきっかけで、iPhoneで曲作りをするようになったんですか。

諭吉:音楽を好きになったタイミングと合ったんですよね。音楽じゃなくても、何か好きになったら自分で作りたくなる、っていうのがすごくあって、それがたまたまその時は音楽だったんです。最初は小6の頃に、それまで習っていたピアノをあまり弾けないなりになんとなく弾きながら曲を作り始めました。それで中学2年の時に地元のオーディション(K-mix主催「神谷宥希枝の独立宣言 ザ☆オーディション」)を受けることになって、そのために楽器が弾けないからDTM的なことをやるのが早いんじゃないかなと思って。でもパソコンがなくて、母が見つけてきたのがiPhoneのGarageBandで。その時に初めてGarageBandを触って、何もわからないけどとりあえず打ち込んでみて、という感じで作っていました。そのオーディションで、一緒に出ていたアーティストの方や崎山蒼志さんとかと知り合って、その辺のつながりで(地元の)静岡県内のいろんなライヴに出るようになったんです。だから成り行きみたいな側面が大きくて、音楽に決めた! っていうタイミングってなかったんですよね。

諭吉佳作/menはあくまで1つのアカウント的な存在

──2018年からSoundCloudにオリジナル曲を上げていくわけですけど、その頃には諭吉佳作/menの名前もついて、「音楽をやりたい」って感じになっていたんですか。

諭吉:……とは思っていなかったと思うんですよね。それ以前からTwitterなどにアカウントを持っていて、そのアカウント名をつけるのが好きだったんですよね。自分の好きなように名前をつけて、1つのアカウントとして存在できるわけじゃないですか。それがすごく感覚的になじんでいて。だから曲をアップし始めた時は、音楽をやりたいって気持ちはもちろんありましたけど、音楽家としてどうこうっていうよりは、諭吉佳作/menという名前として存在している1つのアカウントができた、みたいな感覚だったと思います。

──諭吉佳作/menと本来の自分とはイコールではない、ということですか。

諭吉:そうですね。どれが本当の自分とかじゃなくて、自分っていっぱいあるし、どんだけでも広がっていくような、そんな感じです。

──曲作りは歌詞から書いてメロディーをつけていくそうなんですが、イメージやテーマみたいなものがあって作るんですか。

諭吉: SoundCloudに上がっている曲は、テーマというか、なんとなく歌詞の内容に統一感があるというか、これについて書こうかなっていうのがあったりとか、もしくは後付けで、結果的にこういうことを言ってるっぽいな、みたいなのがあって。でもSoundCloudの中では一番新しい曲(2019年1月発表の「プロトタイプ-11」)以降の曲は、全くそういう感じじゃなくて。テーマがあった時は詞を先に書いていたんですけど、最近作っている曲はいろいろと同時にやっていて。歌詞は、「伝えよう」とか「こういうことを言いたいんだ」っていうのが全くなくなってきて、言葉のリズムや、自分がその言葉を言った時の感じがいいか悪いかとかを重視していると思います。

──歌詞は諭吉さんの脳内妄想の具現化というか、イメージの連鎖みたいに思えるんですけど、書く時にどんな感じで言葉が出てきますか。

諭吉:メロディーがすでにあったら、そのメロディーに合わせて……、その合わせての基準も、自分にとっては、「このメロディーにはこういうリズムでこういう言葉しかハマらないだろ」、みたいな感覚ができていて、それに従って作る感じです。例えば、メロディーに合わせて歌詞を作っている過程で、どうしても“ほろ”って言葉を使いたかった時があったんです。でも“ほろ”って言葉があるかどうかも知らなくて。“ほろ”って入力したら、札幌の“幌”って出てきて、調べたら一応意味があったんですね。意味があるんだったら使えるじゃん、みたいな感じで使っちゃうとか。だからほんとに発音の感じだけで決めて使っちゃう時もあります。

──“腎臓”とか“阿呆な桜桃”とか、いきなり異物感のある言葉が出てきたりしますけど、そういう、「この曲心地良いけど、なんか気持ち悪いぞ」、みたいな、ちょっと引っかかってほしいという気持ちはありますか。

諭吉:それはたぶんあると思っています。世の中にすでにある、自分が干渉していない文章に、なにかしら違和感を感じたりして、それが楽しいと思って言葉を好きになってきたと思うので。それを自分が作るものにも含ませて感じてほしいというのはあります。基本的にはやっぱり好きな言葉を使っていますし。

──その“違和感”って、言い換えるとグロテスクなものとか不穏なものとかってことですか。

諭吉:そういう時もあった気がしますね。でも今はそういう縛りみたいなものもないです。自分が好きだなと思う言葉を、特になんの順序もなく、好きな時に好きなものを出して歌詞に並べているだけだから。最初の頃は言いたいことがないなりに、曲を作るのであれば、言いたいことをひねり出してそれを歌詞にしなきゃいけないような気がしていたんですが、別にそうじゃなくてもいいかなって思って。歌詞の意味っていうよりは、言葉も音として聴いていて、こういう言葉を言うのって気持ちいいよねみたいな、早口言葉みたいな気持ちよさがあるよね、って聴き方ができるようなものを作れるのが楽しいな、の方に変わってきていますね。

「サビを作らないのも、自分らしいのかな」

──ちなみにでんぱ組.incに提供した3曲の中では、根本凪ソロ曲の「ゆめをみる」がすごく興味深いんですけど、いわゆるサビ部分がどれなのかよくわからないっていう、不思議な曲ですよね。

諭吉:自分の最近の曲もそうなんですけど、これがサビです、みたいなところを作るのが、あんまり上手じゃなくて。ヤマ場です! 盛り上げます! っていうのが、絶対に必要なわけじゃないよなと思っていて。1個目のAメロを作って、Bメロを作って、だいたいの曲だったらその次サビに行くのかもしれないけど、Bメロまで作って別にサビに行きそうじゃないなって思ったらCメロになって、っていう作り方がすごく多くて。根本さんと打ち合わせをした時に、「好きなように作ってください」ってお言葉をいただいたので、いつもの自分に近い作り方で作った結果、ああなった感じです。

──既存の構成だったらAメロ→Bメロ→サビ→Aメロ→Bメロ→サビ→Cメロ…ってなっていって、ABサビってきたらまたAに戻るじゃないですか。でもこの曲って、ABCDE…って感じで行ったら行きっぱなしで戻らないんですよね。そういう既成概念みたいなものがないわけですか。

諭吉:そうですね。崎山蒼志さんと曲を作った時(2019年の「むげん・」)に、サビをお互い1つずつ作って、両方使って、最初と最後の部分もサビだとすると、サビが4種類くらいある状態になっていて。その時に、よくよく考えたらこういうことをしてもいいんだよなと思うようになって。もともと自分も「これはこうじゃなきゃ」みたいなことはそんなに考えないタイプなので、一番自然な形になればそれでいいと思っています。「ゆめをみる」を作った時は、流れにまかせるというか、こうでこうきたからこうきて、みたいなのは別になくてもいいよな、というのはあったと思います。

──諭吉さんファンも新作を待っていると思います。今後のリリースについては決まっていたりしますか。

諭吉:まだ決まってはいないんですが、頑張って制作しているので、待っていていただけると嬉しいです。

──最後に1つ、これからアーティストとしてどうありたいと思っていますか。

諭吉:自分がどうありたいかって、その都度変わっちゃって。自分でもよく、今日思っていることを明日も思っているかはわかんないですからね、って人に話すことがあって。自分で自分の在り方をコントロールしているようなところがあるから。その都度の考え方があって、「こうです!」っていうのが変わっちゃったりもするので。たぶんその都度、「今はこうです」っていうのがあったらいいし、そう思っている通りに行動できたらいいんじゃないでしょうか、みたいな感じ。あと、音楽もやれたらいいし、音楽以外のこともやれたらいいし、いろいろやれたらいいですね。

──いきなり音楽をやめるかもしれないし?

諭吉:……怖いですよね(笑)。音楽をやめたくはないんですけど、でも自分の考えが変わりやすいから……。でも音楽、がんばります。

諭吉佳作/men(ユキチカサクメン)
2003年生まれの音楽家。2018年、中学生の時に出場した「未確認フェスティバル」で審査員特別賞を受賞。インディーズバンド音楽配信サイト「Eggs」では年間ランキング2位を獲得。2019年6月、でんぱ組.inc「形而上学的、魔法」の楽曲提供を行い話題に。10 月に発表された崎山蒼志とのコラボレーション楽曲「むげん・」はYouTube80万再生を突破。坂元裕二作品「忘れえぬ 忘れえぬ」主題歌を担当。2020年11月ヒップホップバンドAFRO PARKERとのコラボレーション楽曲「Lucid Dream feat.諭吉佳作/men」を発表。音楽活動以外にも、執筆活動やイラストレーションなどクリエイティブの幅は多岐にわたる
https://soundcloud.com/yukichikasaku
Twitter:@kasaku_men
Instagram:@ykckskmen

Photography Yoko Kusano

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