連載:音楽家・諭吉佳作/menの頭の中 第1回「言葉の可能性を考える」

2003年生まれのシンガーソングライターの諭吉佳作/men(ユキチカサクメン)。小学6年の時に作曲をスタートし、iPhoneアプリのGarageBandだけで楽曲制作を始める。2021年5月にはトイズファクトリーからEP『からだポータブル』、『放るアソート』を同時リリースし、メジャーデビュー。トラックメーキングはもちろん、独特な言語感覚から作られる歌詞や文章も人とは違う魅力が詰まっている。今回、「TOKION」では諭吉佳作/menにコラム連載を依頼。第1回は「言葉」について綴ってもらった。

私は、音楽をつくっている。自分で歌うための曲も、誰かに提供するための曲も、メロディには歌詞を乗せてきた。
これまでの私が自分の歌う特定の曲に対して「歌詞に意味はないです、リズムとか発声したときの感じだけです」などと言い張ってきたのは、決して嘘ではない。でも、じゃあ、私は言葉を、歌詞を、作詞を、なんだと思っているのだろう?

日常生活を送っていると、言葉はいつでも自分の周りにある。人々の会話、テレビ、メール、書籍、SNSの投稿、それから歌詞。
小さい頃から今まで、自分はどうしても、周りの言葉が気になってしまうらしかった。なぜそうなったのかはわからない。幼児期の私の言葉に関する質問の量は異常だったと母が言っていた。それも何か関係があるのだろうか。

例えば、ふとテレビ番組から耳に入ってきた、言葉選びや文法に関する心地のよい違和感・わるい違和感にいつも気を取られた。それが尾を引いて、頭の中で整理を始めてしまうから、再び画面へ目を向けた時には私を置いてけぼりにだいぶ話が進んでいたりもする。
言葉を用いたコンテンツには細かい楽しみをたくさん感じる。でもその分、余計な引っかかりを持つことも多い。「この人は別にこんなことに気を取られてほしくて話してないんだろうなあ」というような部分に。他者とのやりとりで揚げ足を取って迷惑をかけた回数は人よりもだいぶ多い気がする。(これに関しては考え自体でなく口に出したという行儀が悪かったので今後は気をつけるとして)。

けれど、こういうふうに言葉を噛み締める癖がなかったら、私の音楽の楽しみは今の半分くらいの大きさだったのだろうか? とにかく、私にとって言葉は身近で、驚きのあるものだ。
リズム、イントネーション、発声方法、文法、単語同士の関わり方などさまざまな要素から、心地よさ・わるさを判別できる。きっと、例を並べてみたら、その条件に傾向を見ることはできるだろう。でも既に自分の中に染み付いてしまったもので、感覚としては、美味しいか・美味しくないかに似ている。条件よりも好みとか癖と言うべきなのかもしれない。瞬発的で自然だ。

誰かに話しかけられた時も、テレビを観ている時も、本を読んでいる時も、音楽を聞いている時も、その条件が頭のどこかにはあるらしい。だって、フックのある言い回しやリズムなどが不意に飛んできたとき、待ち構えていたつもりはないのに、私はそれをいつの間にかフックと認識している。であればそれはほとんど自動的な機械にかけられるようで、今のは気持ち良かった、今のはなんか変だった、などと振り分ける。
なぜそう振り分けられたのかを知るには、頭の“どこか”ではなくもっといつも意識的に使っているところで、あらためて考え直さなくてはならないようだ。どこがどうだから珍しい言い方になっているとか、リズムがあるとか。なんだかんだ私は、別にやらなくていいのに、その作業まで済ませることが多い。わざわざ母に返事を要求したりしながら。いつもすみません。

小学生のときにぬるっと詩を書き始めたのも、言葉や文章が好きだったからだ。報告・連絡・相談などとは関係のないフィールドで、自分の手で言葉を使ってみたかった。
詩を書いていたときの私は、声に出すことをほとんど想定しなかったはずだ。「リズムや発声の感じだけ」ではなかったということだ。それからピアノ椅子に座るとメロディがくっついてきて、「詩」が「歌詞」ということになっても、すぐに変わるわけではなかった。
続けるうちに作曲の仕方が変わったり、自分なりに作曲の基準が確かになっていったからなのか、その過程で、私にとっての作詞は思いやストーリーより音の強調としての側面を増やしていった。

言葉は意味を持ってしまう

言葉は、文字の姿だったり音の姿だったりする。印刷という方法で紙に再現されたり、色の光の集合でディスプレイに再現されたり、声として発されたり、それを録音したならスピーカーから再生されたり。用途により違いはあれど、それらの言葉にはたぶん、意味がある。何も示したくないと思っていても、言葉を使う以上ここにはひとつの意味もありませんとはいかないのかもしれない。

やっぱりこれも、歌詞を考えている時だった。ふと言葉の意味について、よく考えてみた日があった。あまり、作詞を自由だと思えない日だった。今思えばそれも駄々を捏ねているような感じだった。

“意味のない言葉ってないんですよね 俺が知る限りでは 例えば「木」には「木」って意味があるんだから「木」の意味をなしに「木」という言葉を使うのは難しいんですね 「木」のことを言いたい時に「木」という言葉を使えば伝わるのは便利な仕組みでありがたいですけどね「木」じゃない木を探したい”とツイートしていたのは、調べてみると2021年6月11日のことだった。

日本語話者の私が「き」と発声したとき、別の日本語話者Aの頭に樹木が思い浮かぶのは自然なことだろう。「き」は「木」として、たった一瞬の音であっても意味として伝わってしまう。私がそのとき、ただ「き」という音だけを好んで、音だけを目的に発声していたとしても、同じことだ。そこに漢字の字幕がついたならなおさら。でも、これだって本当は、驚くべき自由だと思う。

自分の頭に浮かべた何かは、その時点では以上も以下もなく本当にただそれだけなのに、言葉のおかげで、他者に伝えることができる! それも1個や2個じゃない。数えきれないくらいの物事にいちいち名前がついていて、言えばわかってもらえる。そんなにすごいことがあるだろうか? 今私がここに書いていることも、この先誰かに読んでもらうときにも、全部それが前提にあるのだ。

これから私達が同じくらい大きな仕組みをつくろうとしても、……それって例えばどんなことだろう? いや、本当にちょっとあり得ない話だ。
逆に、言葉の意味や指す範囲の認識が違っていると微妙に話が噛み合わなかったり、名前のついていない物事はそれ故に認識しづらかったりということもある。言葉の便利さが信用されているからこそこういうことは起こるわけで、まあ結局、一長一短ではあるんだけれども。

言葉には意味がある。言葉を交わすことは、言葉の持つ意味の共通の認識のもとに成り立つ。共通の認識によって、さまざまなことを他者に伝えられるのは、とても便利だ。でもその上で、私は便利さとは関係なく、言葉を使ってみたくなった。方向は変わったけれど、衝動自体は歌詞を書き始めた当初と似たようなものだ。言葉を自由にしたいのは変わらない。
音の強調としての歌詞を書くというのは、発し方や聞こえ方に心地よさを求めるということだった。そこでは、言葉に必ずついてくる意味が、私の身を縛るように思えた。

自分の意図しないフックをつくりたくないけれど、音の響きだけはすごく好みだしすごく有用だということはありえた。「木」じゃない「木」を使えたら、もっと自由に作詞ができるはずだと思ったのだ。
いつだったか、ある音の響きを思い付いて、歌詞に使いたいけれどこんな言葉はあるのだろうかと聞いたことのない文字列を打ち込むとなんと漢字に変換できた。未知の収穫に逸りながら漢字の意味を調べてみたら性器という意味だった時の私の気持ちがわかるか?

けれど、伝達や認識のために言葉があり、言葉があるから伝達や認識が可能なのだとしたら、言葉に意味を託して使うのは当然だ。ごく単純に考えて、一切の意味がいらないのなら文字や音を言葉の形に調整する必要がない。

私の発した声が「き」でも「木」でもなく「つそむふえやし(私が右手指を3本使ってキーボードを素早くフリックすることでできた文字列です)」だったとする。Aの脳内に、Aの持つ経験や癖を反映したイメージ的な画が浮かび上がることはあっても、特定の何かが確信的に映し出されることはまずないだろう。こんな言葉はなく(たぶん)、変換だってできない(たぶん)。私は意味を伝えなかった。けれど、それは「意味のない言葉」ではなくて「声」になるのだろう。これが声を用いていなかった場合は文字で、声の場合はつまり音だ。
音としての「声」はそれだけで音楽と相性がいいはずだが……私はメロディに言葉を使ってきた。意味はないなどと言いながら。

「言葉」と「文字」

今回、こんなふうに当たり前のようなことを書き出してやっと腹を決めることができた。言葉は意味そのもので、切り離せるはずがない。切り離そうとすれば文字か音になるだけだ。
受け取った人が意味を読み取る可能性があるものを自分で拵えておきながら「歌詞に意味はない」と主張すること自体が、そもそも無理なことだった。言葉の音の部分だけを追求することが悪いのではない。たとえ私に考えがないのが本当だろうと、「いろいろな受け取り方をしてもらえたら」とかいう発言とセットになっていようと、あんまりだった。
私の言ってきたことは嘘ではなかったが、正確ではなかったし誠実でもなかったと思う。

言葉として存在する文字や音の列のどこまでが文字や音で、どこからは言葉として意味を持ち始めるのか、その境目はよくわからない。声やひらがな・カタカナを用いて無意識に言葉を発しても、それは文字や音でしかないとも思う。例えば私が適当に発した声がたまたま私の理解しない外国語の何かしらだったとして、何何語を喋りましたよとは言い張れない。

今ちょうど、言語や認識、価値観など、形は曖昧ながらも確実に生活のツールとして活用してきたもの達が、自分の手から離れてぷわぷわ飛んでいってしまったような感覚だ。よくわからずに使っているものが多すぎる!

そもそも「言葉」で「言葉」を説明するのって結構無理があるんじゃないか? というようなことを、最近よく考えていた。ここまで書いておいてよく言うよな。
私はここで「言葉」と「文字」を別の意味を持つものとして、比較対象として書いたが、試しに「言葉」を調べてみるとその意味として「文字」があったりする。より口語的な表現として広義に、とかじゃないかなとは思うが、にしても、ややこしくてもうだめだ。全部を諦めそうになる。「文字」じゃなく「記号」とか言えばいいのだろうか? でもそれだとちょっとわかりづらいと思いませんか?

この言葉って結局どこからどこまで? っていうのが明確にならないと安心はできないんだ。最終的には相手に委ねて感じ取ってもらうしかできない。私が「言葉」と「文字」、2つの語(また新しく「言葉」の代わりになりそうな言葉を使ってしまった)を並べることによってそれぞれの語の担当する範囲をどう特化させようとしていて、どういう対比を生まれさせようとしているのかを。その具合によってはやっぱり、微妙に噛み合わないということが起こる。よくある。

特にInstagramで受け付けた難しい質問に答えているときに思う。真剣になればなるほど、質問への回答というより、質問者の方が質問文に使った言葉の意味を分解して互いの言葉の意味の認識を共通にする作業みたいな、元も子もない感じのお返事を書いてしまう。あなたの使った言葉を私はこう解釈していて、だったらこうです、と。「言葉選びの問題じゃんと思われるかもしれませんが」と何度書いただろう? けれどそれも当たり前だ。全部言葉選びの問題だ。……うーんこれも言葉大好き故なのか?

よく伝わりすぎても、うまく伝わらなくても、私達お互いが全力でいてそうなるのだから、仕方ない。そういうものなんだ。

ただ私が個人として決められるのは、これからどんな歌詞を書くとしても、簡単に「意味はない」などと言うのはやめるということだ。

音楽の言葉

自らの作詞作業に葛藤はありつつも、音楽の言葉にはいつも不思議な飛躍を感じてきた。
だから、作り手の工夫を抜きにしても音楽の言葉=「歌詞」は初めから自由度が高いのでは、なんて音楽だけを取り上げて書きそうになったけれど、それは適切ではないかもしれない。

日常会話・歌詞・詩・小説・随筆・評論、演劇・映画・ドラマ・スピーチ・アナウンス……キリがない! それぞれのフィールドに、それぞれの課される制約と逃れられる制約がある。自由度が高い低いと二元的には語れないのだろう。どんなふうに自由なのかという視点で、すべての言葉に夢をみている。(とはいえ音楽のことはやっぱり特別だから、贔屓したいと思ってしまう)。

日常会話の言葉は瞬間的だ。発した言葉は基本、聞き取られることによって記憶として保存されるのみで、再生を前提にはしない。けれど、言い直すことも聞き返すこともできるし、いつも正確性が求められるわけではない。

音楽や演劇、映像作品なども、時間進行ありきの表現だから瞬間的な側面がある。読書などとは違い、自分の意識が追いつかなくなった時点で中断されるということはない。そこでの鑑賞の経験は時間の進行に背中を押され続けるようなものでもある。けれど、作品だから、何度も再現されるし、その分時間や字数の上限のもとで、より選ばれた言葉が使われる。

作品ではなくても、ラジオ・テレビ放送や評論文、個人の日記、メールのやりとりなどのように記録が残れば、あとから見/聞き/読み返せる。

改めて考えればこんなふうに、いろいろな共通点や特有の性質があり、面白い。ただこれは結構「作品」の中でも異質なことじゃないかと思ったのが、音楽は鑑賞者による再現が圧倒的に主流ということだ。歌詞をすべて記憶した上で次の言葉を待つように聞くことも、まったく珍しくない。

でも音楽の言葉についてまずはじめに考えたことは、夢とは遠いかもしれない。さまざまな「言葉を使う状況」における言葉の優先度・独立度の高さをランキングにした場合、「状況:音楽」はかなり低い方に位置付けられるのではないかということだ。私が言うと冷たく聞こえそうだ。

そもそも今、音楽の言葉はあえて使うものだろう。言葉を歌うことは、それを選んだ場合には大きな影響力を持つけれど、音楽の絶対条件ではない。ボーカルのある曲のインストゥルメンタルのみ、メロディのみを音楽として紹介することはありそうだけれど、歌詞だけを取り出して音楽だと言えるかは……うーん、考えようはあるが、あえて言う以外では難しいと思う。

音楽の言葉は、あれば楽しいが第一というほどには優先されず、音楽として独立もしない。鑑賞者は先の展開を全部知っていることもあるし、楽曲自体はいつでも再生できるからという余裕もありつつ、生の現場のうちでは瞬間的でもあるし、であればそのときには振り返る隙を与えないスピード感がある。
使われている言語によっては意味を一切理解せずに楽しむことがあるのが音楽だから、書き出すと冷たくても実際によく経験していることだと思う。

このことを書かずに夢とか言うのはちょっと、できなかった。そしてこういう特徴があるからこそ、作り手は意味の発生の仕方や度合いをさまざまな角度からコントロールできる。私がずっと嬉しく思っていることだ。

言葉のイントネーション

イントネーションは逃れられる制約のひとつだ。歌詞の、単語固有のイントネーションに対して、メロディの上下を合わせることもできるし、外すこともできる。

会話の時には余計な違和感を与えるかもしれないことを、音楽の上ではすんなりパスさせられる、もしくはよい違和感に変えられるだろう。音楽なんだから当たり前だよと言われればまあそうなんだけれど、なぜ当たり前なのだろうか? 希望がある。

ただもちろん、イントネーションには方言もあるから、必ずしも全ての言葉・全ての人に当てはまるわけではないし、逆の場合もある。

『pάː』について、思い出すのは歌い出し「プールの味のあくびで 午後の部屋 空気は回る」の「あくび」の部分だ。おそらくメロディが先にあったと思う。私は「あくび」の3音、1音目が一番高く、3音目が一番低い、だんだんと下がる階段状のメロディに「あくび」という言葉を当てはめたことになる。

これを多くの人は、制約から逃れた結果と考えるかもしれないけれど、実際にはそうじゃなく、私の使う言葉に方言があるからじゃないかと思うのだ。
標準語では「くび」を高く発声するはずだ。私は無意識に、標準語を使うときと、「あ」を高く発声するときがある。(検索してみたら「遠州弁」と出てきた。私の地元は遠州には入らない気がする)。

「あくび」の言葉は、自然な勢いのまま当てはめただけだった。それがたまたましっくりきたのだと思い込んでいた。でも後々考えてみたらむしろ、自分の根底にあるイントネーション(方言)の認識とメロディとが一致するからこそナチュラルに発想したのかもしれなかった。

それでも、私と同じ方言を持たない人からすれば、イントネーションの制約から解放された3文字になっているのは間違いない。これが喋りだったら可能性を考えるだろうけれど、音楽「pάː」の上では、方言かもしれないと考えることはほとんどないだろう。

五十音がどこにどう当てはまるかも、メロディとリズムの上ですごく重要になる。メロディに対して乗る場所がひとつ前・後にずれることや、連続する音の関係性によって、かなり聞き心地が違ってしまうから、工夫したいし、それが楽しい。

「ん」は特に印象を左右する音のひとつ(日本語の「ん」を音声の観点から「ひとつ」とは呼べないが)だと思う。誰かに質問したことはないけれど、多くの人がよく気にしているんじゃないかとも思う。

私は、「ん」と他の音との関係性的に「本物」とか「本当」という言葉を気持ちよいと感じるみたいだ。「本当の物」「偽りでない」みたいな内容は歌詞にしようと思えないことが多いのに、求められる口の動きと音の響きだけですぐに歌詞に使いそうになる癖がある。こういうとき、言葉に意味がなかったらいいのにと感じる。もう今までのようには言わないけれど。

言葉の面白さを再現したい

これらは言葉の音の部分だけれど、もちろんそれだけではない。演奏の展開と言葉との親和性は感情表現を強化するし、時間進行のスピード感は言葉の規則性を柔らかくする試みを手伝えると思う。いろいろな言葉への挑戦を音楽というフォーマットで助けられる。

言葉に意味がなければと考えていたときも、特定の何かを題材に歌詞を書くことはあった。ただそれは制作にルールやゲーム性をつくるためだったり、頭に浮かんだことを記念品として残しておこうという考えからだったりした。けれど最近は、歌詞の形で何かを喋りかけて、聞いた人になんらかの気持ちを発生させてみたいと思えてきた。

正直、それなら文章を書けばいいじゃんと思っていた。言いたいことを伝達して何かを思ってもらおうという目的なら、文字数の制限が緩い場所の方が正確にできるはずだ。単体ではまったく成立しなさそうな言葉の並びのほうが音楽を使う理由になるんじゃないか、と。今もまあ半分くらいはそう思っている節があるし、文章も頻繁に書く。でも私の中のもう半分の部分では歌詞で何かを言おうとすることの力を信じているし、そういう音楽制作が流行している。

面白さ輝かしさ切実さを、これまでも感じてはいただろうけれど、ここ1年あたりでより嬉しく思うようになった。事象そのものでも考えでも物語でも訴えでもなんでも、音楽に乗せて誰かが何かを言っているということ自体が嬉しい。

音楽という形式にとって言葉は必須ではないだろう。でも、メロディと、楽器の演奏や打ち込みと、歌う人の声や人格と、歌詞の言葉が、集まって音楽として突きつけられるとき、言葉は不思議に飛躍しながらこちらまで届く。

私は、好きなものはなんでも自分でもやりたいから、最近はそれを目指して試している。この先また音の響きと発声を追求することに戻ってくるかもしれないし、まったく別の流行もくるかもしれない。

言葉の使い方はたくさんある。私はなるべく多くの方法で言葉に接する。自分がずっと感じてきた、そしてこれからも感じるであろうたくさんの言葉の面白さを、自分で再現したい。言葉の可能性を自分の力で信じていたい。

author:

諭吉佳作/men

2003年⽣まれの⾳楽家。2018年、中学⽣の時に出場した「未確認フェスティバル」で審査員特別賞を受賞。iPhoneのみで楽曲制作をスタートし、次世代の新しい感覚で⽣み出される唯⼀無⼆の楽曲センスと、艶のある伸やかな歌声で注目を集める。2019年、崎⼭蒼志とのコラボレーション楽曲「むげん・(with 諭吉佳作/men)」は100万再⽣を突破。でんぱ組.incへ「形⽽上学的、魔法」「もしもし、インターネット」の楽曲提供を⾏い話題に。坂元裕⼆朗読劇2020「忘れえぬ、忘れえぬ」の主題歌およびサウンドトラックを担当。雑誌「文學界」や「ユリイカ」への寄稿、「MUSICA」にて注目の新人に掲載など、音楽活動以外にも、執筆活動やイラストレーションなどクリエイティブの幅は多岐にわたる。 https://www.toysfactory.co.jp/artist/yukichikasakumen Twitter:@kasaku_men Instagram:@ykckskmen YouTube:@men1590

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