連載:音楽家・諭吉佳作/menの頭の中 第2回「本物」と「偽物」

2003年生まれのシンガーソングライターの諭吉佳作/men(ユキチカサクメン)。小学6年の時に作曲を始め、iPhoneアプリのGarageBandだけで楽曲制作を始め、2021年5月にはトイズファクトリーからEP『からだポータブル』、『放るアソート』を同時リリースし、メジャーデビュー。トラックメーキングはもちろん、独特な言語感覚から作られる歌詞や文章も人とは違う魅力が詰まっている。「TOKION」では諭吉佳作/menにコラム連載を依頼。不定期で掲載していく。第2回は「本物」と「偽物」について。

荒くなった画像をより鮮明で大きな画に戻せるという想像は、すごくロマンティックだと思う。想像する人はロマンティシスト。素敵なのだ。いろいろできるのが当たり前で、できないことの甘美さを、最近は忘れている。

ひとつひとつの点は大きく、それらの集合としての全体は小さく、もう変わってしまったものだ。それでも彼ら自身が当時のことを覚えていると考えた。今やどれだけ拡大しても再現されない、いつからか省略されてしまった点の記憶をまだどこかにしまっていると。

再現としての写真や絵に含まれた固有性みたいなものをおれはどう認識してきたんだっけな、と考える。

そう、すると真っ先に思い出すのだけれど、専門家の説明以外でさらっと伝えられる「スマートフォン電話の声は本物の声ではない」の話には、いつもちょっと妙な気持ちにさせられる。ちょっと疑いを持つし、ちょっと苛立ちもするし、その話題のどの部分に特別なシンパシーを覚えているのか?と、ちょっと考える。
おれは電話の声が本物だと思っていたことは一度もない気がするのだ。

おれ自身が、そもそも全然電話をしないというのが手伝って、一歩引いた感じになってしまうのだろうが、それにしても詳細を調べたことはなかったよなあと反省し、軽く資料を探す。

その結果、今からちょっとそういう話を書いてはみるけれど、おれは専門家じゃないので、みなさん妙な気持ちになるだろうが、どうか勘弁してほしい。

スマートフォンでは、事前に準備されている音の素材を話者の声に近いパターンに組むというようなことが行われるそうで、だからたしかに話者本人の声ではないと。スマートフォンの場合はそんなふうだが、固定電話の場合にはまた仕組みが違って、処理は挟まるがほとんどそのままの波形を伝達するので、本当の声を伝えていることになるらしい。うーんまあ、専門家ではないのでよくわからないし、専門家ではないおれがあえて「ことになるらしい」と言いたいのは、固定電話の声ほど不気味なものはないと思うからだ。でも理論上本物だという。

理論上のことは正直な話おれにはまったくよくわからないが、感じ方の意味で言う本物か偽物かというようなことは誠に曖昧な議論になりそうだ。スマートフォンについて電話の声って本物じゃないんだよと話す人は、本物じゃないことが寂しいとも言うが、固定電話の声を「本物の声」のうちに含めることにはわだかまりがないのだろうか。

話者が電話に関係するよりずっとずっと前から、電話機の側があらかじめ準備していた素材を、勝手に話者の声風に組み立てて、あたかも話者の声ですという顔で流していることが寂しさの理由なのであって、つまり大抵は自分と相手の蜜月な会話に第三者的存在の介入を感じさせられるのを惜しく思っており、そのいかにも感傷的な感情に「実際問題本物じゃないから」というタイトルを与えているのだとしたら、それはこんな感じで文章を書いているときみたいに、感性的になっているときのおれになら、共感できそうだ。電話をしないから想像でしかないが。そして、固定電話でも同じ感覚を持つと思う。そうだとしたら、そこでは理論上本物か偽物かということは一番の問題ではない。

おれの感覚で言えば、実際に「そこにある」以外ならスマートフォンでも固定電話でも、いっそ電話以外のテレビもスピーカーも全部、何だったとしても同じことという気がする。何かを介している時点で、もう何かを介している。おれが機械に詳しかったら、もう少し違う感想を抱くのだろうか?

あなたは、液晶画面に写真を表示してみる。例えばあなたと仲の良い友人に山口さんという人がいるとして、その山口さんの写真だ。あなたは画面を注視する。

山口さんが、池に浮かんだ金色の寺をバックにピースしている。染色したばかりの濃い髪が木葉と一緒に靡いて、陽の光を反射する。服装はシックなモノトーンでまとめられているが、歯を見せて破顔すると寺にも負けない輝きだ。

山口さんがいるなと思うだろうけれど、何をもって山口さんなのだろうか?

それは写真ではなく画面かもしれないし、画面じゃなくて光かもしれない。別の視点から言えば、人が写ってはいるかもしれないが山口さんとは限らない。この世にいる似た顔の3人から山口さんを除いた2人のうちのどちらかかもしれない。それでも山口さんだと思うのなら、あなたが見ているのは写真でも画面でも光でもなく記憶だ。あなたは山口さんと京都へ観光しに行ったこと思い出している。

彼の髪は、かちかちに固められ宙に浮いているのではなく、風に靡(なび)いているのだとわかる。映像ではなくても、あなたにその知識と記憶がある。よほどわかりづらいはずだが、あなたは写真の中の彼の髪と眉毛を見分ける。あなたは記憶の中の彼の姿形を参照している。洋食屋で向かい合ったときにハンバーグを食べながら盗み見た彼の目つきを思い出す。でも写真の立場になると、それが整髪剤まみれの髪なのか指通り滑らかな髪なのかとか、頭髪なのか眉毛なのか目なのかなどというのは実にどうでもいいことだった。まったく他人事でいられる事象だ。

だからできるのはあなただけだ。写真の側は一度縮んだらそれ以上のことは何も思い出してはくれない。縮み続けるとだんだん、あなたの記憶をもってしても見出せるものがなくなり、最終的に一個の点になって消える。

当時から十分に不思議で、あとから考えてさらに不思議な、写真に関するエピソードを思い出した。

非常に有名な人、つまり、おれやたくさんの人々が彼の外見をどうしようもなく「彼」そのものと認識しているはずだというような、確固たる固有性を持った人のことだ。特別で、もう他の言葉で言い当てるのは難しくなり、彼を表すのは結局彼の名前ということになってしまう、そのくらいの人だ。

でも確かに、その写真の彼はいつもと雰囲気が違った。珍しく、伸びた前髪が半面を隠していた。他の目的で用意された写真には明るい印象を与えるものが多かったが、薄暗い屋内で撮られた影のあるもので、意外だなと思った。その写真の彼は、外見から見てとれる特徴が普段よりも少なかったのかもしれない。とはいえだ。

写真を不意に目に入れて、ええ!おれこんな写真撮ってないよね?と。世にも奇妙というか意味不明というかあまりにありえない種類の驚きを感じたのだった。

シチュエーションはともかくデータ的には鮮明な写真なわけだし、見間違うほど顔が似ているということもないし、第一おれには記憶がない。撮影の。さすがに、真面目に自分ごとだった時間は1回分にカウントしなくてもよいくらい一瞬だった。すぐにおれは頭を振って、彼の名前を思い出した。でもその一瞬の間、信じられないけれど、すごく恥ずかしい気持ちになったのだった。ただ、これちょっと自分に似てるなあと客観したならまだしも、知らないうちに自分の写真が!とどきっとさせられたのだ。いつの間にか自分の秘密が漏れていたとわかって焦るみたいな感じだった。焦るって、その主観具合は相当じゃないか?その日以前にも以後にも、似た経験はない。

全部本物だし全部偽物

街を歩いている誰かが自分の大好きな芸能人に非常によく似ていて、実際に(というのは神様視点の話だが)本人だったとしても、おれにはわからない、ということは昔から考えていた。

画面越しにしか見たことのないものが目の前にあったらどうかなんてまったく想像がつかないし、姿に加え声や話し方に所作込みで「彼」と記憶しているその人のただ歩いている姿を、どれだけ近くで確認できても、確信は持てない。似てるなと思い至らないわけではない。思うだろう。ただ確信をしない。わかる人にはわかるのかもしれないが、おれにはわからない。

けれど、画面越しということが特別な問題なわけでもない。ごく身近でないなら、知り合いにも似たようなことが言える。話す声も似ているとか、以前にもあの服を着ているところを見たことがあるとか、連れにも心当たりがあるとか、ここが待ち合わせ場所で待ち合わせの相手が自分だとか、理由を見つけると確率を上げられるというだけで、それが誰であるかを確信するための勘自体が、おれには少ないような気がする。物と物を間違えるよりも、人と人を間違える方が恐ろしいので、厄介だとも思う。

そんな考えがあるのに、他人の写真を自分の写真と思いかけて存在しない主観を経験をしたし、最近は、自分の顔が日ごとにいろんな顔に見える。人間の顔そのものを面白く思うようになってきたのには、あの写真が関係しているのかもしれない。いや、こじつけのような気もする。そういえば自分の表情こそ、何をも介さずに確認するのが不可能な唯一のものだ。

今ここで、これは自分の感覚以外の何をも介していない体験だ、という自負があるときは、「今ここでこれは本物だ」と言えるだろうか。そんな状況滅多にないし、もしあったとしても、それでも本当に本物かどうかは、何をもって判断したらよいかわからない気もする。

あらゆるものが本物か偽物かというようなこと、例えば、それが本心なのか/素肌なのか/ライブなのか/フィジカルなのか、もしくはそうでないのかというようなことを追及するのは野暮に思えることが多かった。おれはあまり重視せず、追及しないようにした。だからこそ逆に、おれは、日常的に、かなり気軽な調子で、この調子で口に出すこの言葉に深い意味なんかあるはずがないですよね、という雰囲気を撒き散らしながら、「フェイク」という言葉をぽんぽん使っている、そういえば。だから、「本物」がそんな感じでぽんぽん使われることに対しても、実のところ、大いに共感できる。今ここに書いているのもたぶん、半々って感じだ。おれは他人がしたタイトル付けにだけ厳しくて、ひどい。

今まで「全部本物だし全部偽物だ」と言いながら願望なのかもしれないと思ってもいたが、今日は、単に夢見がちなだけでなく、切実な解釈でもあるなと思った。

ほとんどしないのに言えたことじゃないが、電話の声は、本物の声には思えないが、本物の電話の声なんだよなあと思う。さすがに電話の声にエモさは感じる。写真ならどうかなとカメラロールを見返したら、少し前に撮ったプリクラの画像を見つけた。写真はやっぱり、時間が経っているし、物としても画面とか光とか、紙とかインクとかだし、しかもプリクラなんか顔のあらゆる部分を伸ばされたり縮められたりやりたい放題だ。伏し目なのに上向きに足されたまつ毛を見て、今度こそ偽物なんじゃないか?と思った。でも、まつ毛は偽物だけど、本物のプリクラまつ毛で、これは本物のプリクラなんだよなとも思う。味がある。これもエモい。確実に本物だ。これが本物じゃないっていうならそんなのマジでフェイクだ。

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諭吉佳作/men

2003年⽣まれの⾳楽家。2018年、中学⽣の時に出場した「未確認フェスティバル」で審査員特別賞を受賞。iPhoneのみで楽曲制作をスタートし、次世代の新しい感覚で⽣み出される唯⼀無⼆の楽曲センスと、艶のある伸やかな歌声で注目を集める。2019年、崎⼭蒼志とのコラボレーション楽曲「むげん・(with 諭吉佳作/men)」は100万再⽣を突破。でんぱ組.incへ「形⽽上学的、魔法」「もしもし、インターネット」の楽曲提供を⾏い話題に。坂元裕⼆朗読劇2020「忘れえぬ、忘れえぬ」の主題歌およびサウンドトラックを担当。雑誌「文學界」や「ユリイカ」への寄稿、「MUSICA」にて注目の新人に掲載など、音楽活動以外にも、執筆活動やイラストレーションなどクリエイティブの幅は多岐にわたる。 https://www.toysfactory.co.jp/artist/yukichikasakumen Twitter:@kasaku_men Instagram:@ykckskmen YouTube:@men1590

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