平岩壮悟, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/sogo-hiraiwa/ Thu, 25 May 2023 07:29:22 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 平岩壮悟, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/sogo-hiraiwa/ 32 32 映画『アフターサン』シャーロット・ウェルズ監督インタビュー ビデオテープを介して交わされる父と娘の対話——「記憶」と「想像」  https://tokion.jp/2023/05/22/interview-charlotte-wells/ Mon, 22 May 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=186421 映画『aftersun/アフターサン』のシャーロット・ウェルズ監督へのインタビュー。長編デビュー作の本作の制作背景を聞く。

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シャーロット・ウェルズ(Charlotte Wells)

シャーロット・ウェルズ(Charlotte Wells)
1987年、スコットランドに生まれ、ニューヨークを拠点とするフィルムメーカー。ロンドン大学キングスカレッジ の古典学部で学んだ後、オックスフォード大学でMA(文学修士号)を取得。その後、金融関係の仕事をしながら、ロンドンで映画スタッフのエージェンシーを友人と共に経営する。その後、ニューヨーク大学ティッシュ芸術 学部でMFA(美術修士号) / MBA(経営学修士)を共に取得する大学院プログラムに入学。在学中は、BAFTAニューヨークおよびロサンゼルスのメディア研究奨学金プログラムの支援を受け、3本の短編映画の 脚本・監督を手がける。2018年、「フィルムメーカー・マガジン」の“インディペンデント映画の新しい顔25人”に選ばれ、2020年のサンダンス・インスティテュートのスクリーンライター及びディレクター・ラボのフェローとなった。『aftersun/アフターサン』(2022)は長編初監督作品である。

照りつける夏の陽光。プールから漂う塩素の匂い。日焼け止めクリームの手触り。11歳のソフィ(フランキー・コリオ)は夏休みに、いつもは離ればなれに暮らしている父親カラム(ポール・メスカル)とトルコのリゾート地を訪れる。2人は家庭用ビデオカメラを片手に仲睦まじく、時にぎこちない会話を交えながらも親密な時間を過ごす――。

と書くと、いかにも心温まる家族の物語のようだが、『aftersun/アフターサン』(以下、『アフターサン』)は上映時間が進んでいくにつれて思わぬ相貌を見せていく。世界中の映画祭で80以上の賞をとり、複数の海外有力メディアで2022年度ベストムービーにも選出された本作が描くのは、メンタルヘルスの問題と向き合う大人の姿であり、「記憶」と「想像」によって結び直される人と人との関係だ。

監督は、本作が長編デビューとなるスコットランド出身のシャーロット・ウェルズ(Charlotte Wells)。物語の骨格は監督自身の経験に基づき、しかし最終的には「全くのフィクション」に着地したという『アフターサン』について、監督に話を聞いた。

※本文中には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

媒体としてビデオカメラを選んだ理由

——脚本の第一稿と完成した映画を比べた時に、最も変更した点はどこでしょうか?

シャーロット・ウェルズ(以下、シャーロット):登場人物を絞りました。ソフィとカラムの物語に焦点を絞ることで、2人の間にある軋轢(あつれき)を取り除いたのです。草稿の段階では、2人の関係はよりギクシャクしていました。しかし、脚本のフィードバックを受けている時に、制作チームから「軋轢(の原因)をもっと突き詰めてほしい」と言われ、それがやりたいことではないと気づきました。描きたいのは2人の対立ではない、と。葛藤はそれぞれの内面や離れて暮らしている時期にはあるかもしれませんが、2人が一緒に過ごす時間はポジティブなものであってほしいと思ったのです。

——この映画の美しさは、大人になったソフィがビデオカメラに残った映像を見直すことで、今はもういない父親と対話をしている点にあると思いました。しかもビデオの映像に、父親自身はほとんど映っていません。

シャーロット:ご指摘に感謝します。それは意図したものでした。ソフィが父親にカメラを向ける誕生日のシーンで私は(カラムを演じた)ポールにカメラを避けるよう指示をしました。カラムは踊ってその場をやりすごそうとしますよね。

あのビデオカメラはカラムの記録ですが、今はソフィの手元にあります。ソフィや私達がカラムの視点を見ることができるのは、あの映像を通してのみです。トルコ旅行における彼の唯一の直接的な視点が、あのビデオカメラに記録されている映像なのです。

——監督自身の体験では、実際には父親のビデオテープは残っておらず、写真が1枚あっただけとインタビューで語られていましたが、それでもビデオカメラという媒体を選んだのはなぜでしょう?

シャーロット:「視点(パースペクティブ)」という点でこの映画に面白い効果をもたらしてくれるというのが、ビデオカメラを用いた1つの理由です。私の実家で撮られた家族ビデオの中に、強く印象に残っているテープがありました。叔母が「電源は入っていないから」と言って夕食中に私の祖母にカメラを向けているものなのですが、祖母のテーブルの後ろの壁にある幼い私の写真が写っていて、その目線がまっすぐカメラを向いているんです。過去の自分がソファに座っている今の私を見返しているようで、とても不思議な体験でした。そこに自分がいないにもかかわらず、自分をじっと見つめているような感覚とでもいえばいいでしょうか。それは間違いなく、映画の終わりとソフィがじっと見つめるというアイデアに影響を与えました。しかし、その映像を撮ったのはカラムの手なのです。その時彼は、2人のソフィの間に介在する透明人間のような存在です。

——ソフィはカメラに残された父親のまなざしを見返しながら、父親と対話をしていきます。

シャーロット:この映画のプロジェクトが決まったあとで、親類から1本のテープを受け取りました。それは音声は連続しているのですが、画像は静止画が時々コマ送りされていくカメラで記録されたものでした。テープが進んでいくと、私と父とその友人がテーブルを囲んでチェスをしているのですが、みんな首から下だけで顔が一切映っていないんです。静的なイメージを見つめている間、私はそのフレームの周りにある余白を埋めていました。当時住んでいたアパートメントを思い出し、思わぬ記憶がよみがえる。心の奥底に眠っていたものがテープの刺激によって浮かび上がってきたのです。記録物の本質について考えさせられると同時に、その先にあるものを探し、隙間を埋めていくような体験でした。

ソフィにとっても、ビデオカメラの映像は記憶を手繰り寄せる際のアンカーポイントになっています。ビデオ映像の間に映るもの、それは記憶と想像が混ざり合ったものなのです。

——人が記憶を定着させていくプロセスが映画の編集作業と似ていると思われたことはありませんか?

シャーロット:編集はイメージを隣り合わせていくことで、意味を作り出していくプロセスです。そのような意味では、まさに記憶のプロセスも同じではないでしょうか。ただ、記憶はより流動的であり続けます。決して固定されることなく、常に調整され、必要や願望に応じて形を変えていくもの、それが記憶です。ですが、それもすべて意味を探すための営みなのだと思います。

多くの人にとって記憶はイメージに基づくものではないでしょうか。だからこそ記憶に関する作品にとって、映画は魅力的な媒体なのです。

「若くてよい父親」を描くという挑戦

——カラムのような、若くてよい父親が映画のキャラクターとして描かれることは珍しいと思います。なぜそうした設定にしたのでしょうか?

シャーロット:映画に登場する父親というのは往々にして、ダメな父親、あるいは不在の存在として描かれがちです。カラムも別居しているという意味では不在ですが、一緒に住んでいなくてもソフィが感情的に「父親がいない」と感じさせる人物ではありません。それは私と父親の関係でもあります。しかし、そうした親子の関係が映画で描かれることはほとんどありません。カラムがソフィの兄だと思われるぐらい若く見えることも、キャスティングにおいては重要でした。

そうした父親像を描きたいというのが、この映画の原動力になっていることは間違いありません。しかし、それは挑戦でもありました。というのも、観客はスクリーンでダメな父親を見慣れていて、そうしたキャラクターこそを見たいと思ってしまうからです。そして彼等がそれを望むのであれば、その解釈に至ることを優先しキャラクターのポジティブな行動もすべて見落としてしまうでしょう。この映画もしばしば「疎遠になった父親と娘の」という紹介のされ方をしているのを見かけますしね。そうではないと説得するために、これ以上どうしろと?と思うほどです。よい父親を見たいと思っている人達に、勝ち目はないのかもしれません。

——カラムは精神的な不安を抱えていますが、その対処術として太極拳とレイヴが出てきます。なぜこのような身体的なアクティビティを選んだのでしょう?

シャーロット:太極拳とレイヴはカラムの異なる側面を表現しています。レイヴ(やダンス)はソフィと離れて暮らしている時間に関するものです。太極拳や瞑想はきっと、より健康的な自分や内なる平和を見つけようとしていることの表れなのだと思います。それはまた彼がソフィに見てほしい彼の側面でもある。そして彼はよりよい自分であろうと努めているのです。

なぜ太極拳なのかというと、私の父が実際にやっていたからです。叔父もやっていました(笑)。当時スコットランドで流行っていたわけでもなく、かなり珍しいことだったと思うのですが。でもそうですね、太極拳もレイヴも彼にとっては指向の異なる対処法なのだと思います。

——レイヴのシーンはこの映画で重要な役割を果たしています。監督ご自身も普段からクラブに行ったり踊ったりされるのでしょうか?

シャーロット:YESでもありNOでもあります。踊りに行くのは、血中のアルコール濃度がある程度の高い時だけ。ダンスフロアに辿り着けるのか怪しいですね(笑)。やはり踊るのはものすごく楽しいですが、それにまつわる自意識はなかなか振り払えません。でも解放の形式としてダンスは羨ましく思っています。

映画の準備に際しては、1990年代のUKのレイヴの映像をYouTubeでたくさん見ました。明らかに特殊な時代ですよね。そこには大いなる自由や感情の現れ、コミュニティがあった。しかし一方で別の側面もあったのではないかと、見ていて思いました。ドラッグや追い詰められた人びと、絶望的な表情。人びとがそこに閉じ込められているようにも見えたのです。初めは解放の場であったものがいつしか逃れられない牢獄になっている、というように。

この映画の方向性や力関係を決定づけたのもあるレイヴの映像でした。映画の終盤、ソフィがカラムに近づいていくと、デスマスクのような蒼白の顔をした彼の顔が見えてきます。遠くから見れば、慰めや安らぎの場所に見える、けれど近づくにつれて、そこにある絶望が顔をのぞかせる。レイヴのシーンでは、そんな感覚を表現したかったのです。

——なるほど。だからカラムは険しい表情をしているんですね。

シャーロット:ホテルとレイヴでの場面が並行して進んでいくなかで、カラムはソフィをダンスフロアに誘い出そうとしますが、彼女はその誘いを退けます。しかしその後、ソフィは大人になる間常にあの瞬間を取り戻したいと願っているのです。あの場所でもう一度、カラムと関係を築きたい、と。大人になったソフィは実際には、そこで思わぬものを見つけるわけですが。

「今作の編集にはいつにも増して神経を使いました」

——監督の文化的な経験についても教えてください。これまでどんな映画や音楽に触れてこられたのでしょうか?

シャーロット:10代前半は映画の見放題パスを持っていたので、映画館に住んでいるような感じでした。でも見ていたのは、もっぱら米国や英国のメインストリームの映画でした。インディペンデント映画を観るようになったのは、17、18歳頃に映画祭に行くようになってから。そして映画学校に通うようになり、今のような映画を観るようになりました。

音楽に関していえば10代の頃はこの映画に登場するような、2000年代初頭のポップパンクのルーツとなるような音楽をよく聴いていました。その後は少しヘビーなロックも聴きましたし、20代になってからはエレクトロニックに興味が移っていきました。音楽と映画は間違いなく、人生の中で大きな部分を占めていました。

——あるインタビューで小説家のミュリエル・スパークに言及されていましたが、読書はどうでしょう?

シャーロット:そんなこと言ってました? (笑)。でもおもしろいですね。ちょうど最近、彼女について考えていたところでした。ミュリエル・スパークの本を挙げたのは、彼女の小説が最も映画に翻案すべきではない類のものだと考えているからだと思います。小説という形式にかなうように書かれているのです。私はその媒体(メディウム)を最大限活かす方法に関心があります。ですから、それに成功している作品を翻案すべきだとはどうしても思えないのです。

とはいえ、映画にできるものはないかと考えながら読書をすることもあります。映画化するなら、短編が向いていると感じます。トーンに重きが置かれていて、世界像を構築するための余白がありますから。

——他に好きな作家は?

シャーロット:パトリシア・ハイスミス、アイリーン・マイルズ。詩集や古典もたくさん読みます。大学では古典を専攻していましたから。エミリー・ウィルソンが新訳した『オデュッセイア』とか。本棚には本当にいろいろな本が混ざり合っています。

——これまでに3本の短編を撮られていますが、長編は本作が初です。長編を制作するうえで一番大変だったことを教えてください。

シャーロット:編集です。撮影の激しさから一転して、編集には7カ月ほどかかりました。本当に長くて、根気のいる作業です。短編の時とは全く勝手が違いました。特に今回のような映画は小さな変化が全体の印象を大きく左右するので、編集にはいつにも増して神経を使いました。撮影現場にはいつもの10倍以上の人がいましたが、短編の時との違いは感じなかったですね。

——撮影と編集、どちらがお好きですか?

シャーロット:どちらも地獄です(笑)。でも撮影現場でクルーと一緒に作業するのはすごく好きですね。普段は1人でいるのも好きですが、COVID-19の影響でみんな孤立していたので、今回の撮影は特別でした。編集は、この映画を撮るまで生業にしていたことでもあり、いつも楽しんで作業しています。編集者のブレア・マックレンドンは映画学校からの付き合いということもあり、信頼をもって作業にあたれますしね。ただ今作に関していえば、編集が大変だったので、撮影のほうが喜びは大きかったかもしれません。

Photography Yuri Manabe

『aftersun/アフターサン』

『aftersun/アフターサン』
5月26日からヒューマントラストシネマ有楽町、新宿ピカデリーほか全国公開

監督・脚本:シャーロット・ウェルズ
出演:ポール・メスカル、フランキー・コリオ、セリア・ロールソン・ホール 
撮影監督:グレゴリー・オーク 
2022年/イギリス・アメリカ/カラー/ビスタ/5.1ch/101分 
配給:ハピネットファントム・スタジオ
© Turkish Riviera Run Club Limited, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute & Tango 2022
http://happinet-phantom.com/aftersun/

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「ファン」と「作り手」のいい関係とは? 『コンヴァージェンス・カルチャー』から考えるファンダムの可能性 https://tokion.jp/2021/03/15/convergence-culture/ Mon, 15 Mar 2021 06:00:50 +0000 https://tokion.jp/?p=23157 ファンと作り手の関係を変えた「コンヴァージェンス・カルチャー」とは何か。ファンダム研究の古典から考える。

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バズったツイートが報道番組で取り上げられる。『ポケットモンスター』がアニメやカードやアプリになる。ある対象が好きすぎて同人誌を作る。てんでばらばらに見えるこれらの現象にも共通点がある。これらはどれも「コンヴァージェンス・カルチャー」であるということだ。

「準備ができていようといまいと、私達はすでにコンヴァージェンス文化の中で生きている」。先月邦訳されたファンダム研究の古典『コンヴァージェンス・カルチャー ファンとメディアがつくる参加型文化』(晶文社)は、こんなイントロダクションから始まる。ではコンヴァージェンス・カルチャーとは何か? 著者のヘンリー・ジェンキンズは、次の3つで定義づける。

(1)多数のメディア・プラットフォームにわたってコンテンツが流通すること
(2)多数のメディア業界が協力すること
(3)オーディエンスが自分の求めるエンターテインメント体験を求めてほとんどどこにでも渡り歩くこと

#MeTooに二次創作、ウィキペディアから聖地巡礼、はては米国会議事堂襲撃事件まで。その射程は広範囲におよぶが、「コンヴァージェンス・カルチャー」においてなにより重要なのは、それがメディア業界(特にTVや新聞などのオールドメディア)の運営に地殻変動をもたらし、消費者/ファンのメディアへの関わり方を一変させたことにある。消費者は受動的な存在ではなくなり、ファンはさまざまなやり方で制作側にフィードバックを行うようになった。コンヴァージェンス(収斂)によって、世の中のパワーバランスは複雑化したのである。

ではファンと作り手の関係性は、具体的にどのように変わったのか。ファンダムの可能性、そして「暗黒面」はどこにあるのか。著者の授業に出たという共通経験を持ち、チームとして『コンヴァージェンス・カルチャー』の翻訳にあたった渡部宏樹さん、北村紗衣さん、阿部康人さんに話を聞いた。

日本はコンヴァージェンス先進国だった?

ーー著者のヘンリー・ジェンキンズはどのような学者なのでしょうか?

渡部宏樹(以下、渡部):ファン研究の大物です。おそらく一番広く読まれたのは『コンヴァージェンス・カルチャー』ですが、1992年に発表した『テクストの密猟者』で、アカデミアでの権威は確立していたんじゃないかと思います。

阿部康人(以下、阿部):それは間違いないと思います。『テクストの密猟者』は日本でも、90年代後半からよく引用されていました。

北村紗衣(以下、北村):ジェンキンズはファン研究の中でも一番ポジティブな学者だと思います。明るく楽しいものを書く人。

ーージェンキンズは本書で、『ポケモン』や『遊☆戯☆王』を「コンヴァージェンス・カルチャー」の先駆的な例として挙げていましたね。

渡部:知り合いの日本人研究者から聞いて知っていたんでしょうね。ただ、コンヴァージェンスという現象はテクノロジーに関係なく存在します。日本だと同人文化が典型で、明治時代にはすでに文芸作品の同人誌があったし、戦後にもSFコミュニティによる同人誌があった。民間の同人活動をポピュラー側のコンヴァージェンスだとすれば、70年代以降角川書店などが仕掛けていたメディアミックスは「企業のコンヴァージェンス」です。

ーー最近だと、ボトムアップ型の「草の根コンヴァージェンス」にはどんなものがあるでしょうか。

北村:ハッシュタグ・アクティビズムが挙げられると思います。「ナショナル・シアター・ライブ」という英語圏で上演された演劇を日本の映画館で上映する企画があるんですが、当初は字幕のレベルがひどかったんですね。それに関して、ファンがTwitterなどを通して「字幕がおかしい」と抗議しまくった結果、字幕が改善されたという事例があります。あと、文芸映画とか女性向けの映画が日本で配給される際に変な邦題がつけられることが多く……

ーー“Suffragette(サフラジェット)”が『未来を花束にして』になるなど、「未来」をつけがちだったり。

北村:それに関して、映画ファンがハッシュタグを使って抗議するという動きもあります。

『ドリーム』は実際に邦題が変わるということもありました〔註:当初サブタイトルとついていた「私たちのアポロ計画」が削除された。劇中で描かれているのは、アポロ計画ではなくマーキュリー計画だった〕。英語圏はより激しくて、CGのキャラクター造形が変だというファンからの抗議でCGがガラッと変わった『ソニック・ザ・ムービー』みたいな例もあります。

作品を左右するファンダムの声

ーーファンダムの声が、作り手や作品に影響を与えた事例はありますか?

渡部:日本だとpixivユーザーのカオス*ラウンジに対する抗議運動が典型的な例だと思います。現代アート集団のカオス*ラウンジがpixiv上にあるイラストレーター達の絵を無断でコラージュし、水で濡らしたり自分達の商品に利用して売ったりしていたんです。それに対してpixivユーザー達は、カオス*ラウンジが作った作品を「現代アート」タグをつけてpixiv内で引用し始めた。つまりカオス*ラウンジが依拠していた、現代アートとしての「引用」だという理屈をpixivユーザーたちは逆利用して抗議したわけです。現代アートの資本主義的な論理とファンダムの中の贈与経済的な論理がぶつかった出来事だと思います。

北村:ファンダムが作者に文句をつけるという事例は、小説が誕生した18世紀からあるんです。そうは言っても、最初から構想があって書いていたりするので、著者が聞く耳を持たないことも多い。ただそこは駆け引きで、読者からの意見を取り入れて作品を少し変えた作家もいないわけではなくて。一番有名なのは『シャーロック・ホームズ』ですね。その後も英語圏のファンダムでは、ファンが作者に要望する文化は結構根づいています。死んだキャラクターを復活させてほしい、みたいな。ファンダムの意見は昔から作り手にとって役に立つこともあれば鬱陶しいこともあるという両義的なものだったと思います。最近だと『スター・ウォーズ』新3部作はファンのせいでおかしくなったんじゃないか、というのがあって……。

阿部:SNSなどで情報環境が変わったことによって、ファンの声は可視化されて作り手の耳に入りやすくなりましたよね。一方で最近は、ログを残さないClubhouseみたいなアプリも出てきた。あまり聞かれたくないような、でもすごく濃い内容がそこでは話されている。そういうクローズドな場でしか話されていない、ログに残らないようなものが出ているなかで、今度は作り手がいっそう密猟者のようになっていくかもしれない。

ーーファンの本音を聞くために。

阿部:Twitterなどで書き込むようなファンの意見はいくらでも見られるじゃないですか。でもファンのなかにはログを残すことに抵抗のある人もいて、その人たちの声が面白かったり有益だったりすることもあるわけですから。 

「作り手が優秀じゃないとファンも優秀にならない」

ーーファンと批評の関係も聞かせてください。「ファンは批評の言葉を嫌う」と言われがちですが、ファンがクリティカルな行為をとることもあるのではないでしょうか?

北村:ファンが書くものと批評が違うものなのかと言われると、非常に判断しづらいところです。ただファンの方が、自分達は批評を書いていないかのように装うのはあんまり良くないと思うんですよ。実は批評をやっている、という人は多いと思うので。「私たちがやっているのは批評ではない」と考えることで、クリエイティブ産業の構造を無視しているような気がします。ファンはもうちょっと「自分たちは批評をしています」と自信を持って言ったほうがいいのかもしれない。最近だと、SNSで書ける批評未満の短い褒め言葉がメジャーになってしまい、ネガティブなことは他のファンから攻撃されるので書きづらくなっているという問題もあるのですが。

ーー「ファンフィクション」も批評になり得るでしょうか?

北村:二次創作で批評をするというのは昔からあります。シェイクスピアの翻案から、いろんな人達がずっーとやってきました。二次創作にもいろいろありますが、元のストーリーに不満があるから変えるのも、原作に書かれてない側面や要素を想像して書くのも、濃淡はあれどどちらも批評の一種じゃないかなと思います。

ーー先ほど『スター・ウォーズ』新3部作の話もありましたが、作り手とファンの幸福な関係とはどんなものだと思われますか? いい作品に結実するのが理想だと思うのですが。

北村:作り手が優秀じゃないとファンも優秀にならないと思います。例えば、スパイク・リーは他人の言うことは聞かないみたいなふりしてるんですけど、ちゃんと批評を読んで作品に反映 しているんですよ。あれくらい強い作家性のある作り手だと、批判への応じ方もどんどん上手になっていく。切磋琢磨の状態がいちばん理想だと思いますね。

渡部:作り手が知的にも精神的にもタフじゃないといけないというのはその通りで、北村さんに賛成するんですけど、でもそれって本当に大変で、スパイク・リーが自分の作品に対する批評を読めるのはすごいと思う。私なんか「『コンヴァージェンス』の翻訳がひどい」とか言われるんじゃないかと思って検索すらできない(笑)。一方では、ファンが「フォースの暗黒面」に落ちやすいという話もある。例えば、札束で握手券付きCDを買いまくって長い時間握手するのがいいファンなのかというと微妙だと思うんです。でもその暗黒面に飲み込まれる気持ちもわかる。

「いいファン」を求めて

ーーいいファン、いい消費者とは何なのでしょう。暗黒面に落ちないでいるためには。

阿部:作り手側とファン側のコミュニケーションを円滑にするためにも、ファン同士のコミュニケーションがいいものでないといけない。そのための条件としては、ジェンキンズも書いていることですが、ファン自身が他のファンに対して「お前そんなことも知らないのか」などと言って知識でマウントをとろうとするのではなく、新しいファンが入ってきた時に古参ファンがメンターとして迎えるような形でコミュニケーションできることが重要だと思います。それがファンダムを活性化させるし、ファンと作り手側のコミュニケーションも円滑にする一つの要件になるんじゃないかと。

渡部:自分の欲望を知ることが、いい消費者であり、いいファンになるための条件の一つなのかなと思います。ファン的な活動をする対象は、どんなものであってもいい。その活動の中でマウンティングに走ってしまうのは、自分の欲望がわからないからだと思うんですよ。何か突き動かされるものがあって、その対象に欲望を投影しているのであれば、そこで深めるべきは自分の欲望なんです。たぶん消費者に関しても同じで、自分の欲しいものがわかってないと、広告に踊らされてしまう。

ーー自分の欲望を知り、掘り下げていくためにはどうすればいいのでしょう?

渡部:ファン活動ですよ! ファンダムがある種の教育の場になるんだと思います。ジェンキンズもこの本の中で、熟練した書き手が新米にファンフィクションの書き方を教える『ハリー・ポッター』のファンダムを紹介していましたが、それも欲望について教え合う一つの形式だと思います。

北村:私は大学で教えているんですけど、前から良き市民、良き観客、良き消費者を育てること」 を教育方針にしているんです。「良き市民」は政治的に自分が何を支持するか、何を正しいか判断できる人。「良き観客」は芸術作品の価値を客観的に考えられ、楽しめる人。「良き消費者」は賢く倫理的な消費活動ができる人。問題はこの3つが必ずしも鼎立しないことです。良き観客であろうとすると悪い消費者になったり、その逆になったりもする。例えば、芸術的に優れているけれども、制作の場でハラスメントが行われている作品にお金を払うべきどうか。鼎立は難しいかもしれないけど、その都度考えて決めるということが大事かなと思っています。

渡部:生活と快楽と政治を分割しないで考える回路を作りたい、というのが北村さんのお話だと思うんですけど、社会を良くするためにそれが必要だというのはよくわかります。どういうことかというと、AKBがやった総選挙は象徴的な水準で相当問題があって、選挙をお金で投票券を買って自分の推しを上にあげる行為に縮減してしまった。ビジネスとしては否定しないけれども、でもやっぱりその仕組みを受け入れると、根本的に政治が消費主義に従属させられてしまうと思うんです。じゃあそこの分割線をはっきりさせれば、政治が政治らしく復活するかというとそれはもう無理なんです。政治とポップカルチャーの境目が融解しているのはもうなかったことにはできなくて、だとしたらその内側から食い破っていく必要があるんじゃないか。そんなことを『コンヴァージェンス・カルチャー』を訳しながら考えていました。

ヘンリー・ジェンキンズ
『コンヴァージェンス・カルチャー ファンとメディアがつくる参加型文化』(渡部宏樹、北村紗衣、阿部康人 訳)は晶文社から発売中。

渡部宏樹(わたべ・こうき)
筑波大学人文社会系助教、エジプト日本科学技術大学客員助教。剣道、なぎなた、心形刀流(LA道場)の有段者で、ファンダムとしての武道コミュニティについて考えている。

北村紗衣(きたむら・さえ)
武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。著書に『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(白水社)、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房)など。シェイクスピアのファンにしてジェダイ。

阿部康人(あべ・やすひと)
駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部グローバル・メディア学科講師。推しゲームは『信長の野望』『逆転裁判』『ドラゴンクエスト』シリーズ。

Photography Kikuko Usuyama

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アート連載「境界のかたち」Vol.3 日本発のクィア系アートZINE「マルスピ」遠藤麻衣と丸山美佳が語る、日本アート界の問題意識 https://tokion.jp/2021/02/18/mai-endo-and-mika-maruyama/ Thu, 18 Feb 2021 06:00:09 +0000 https://tokion.jp/?p=19467 アーティストとキュレーターが立ち上げたZINE「マルスピ」。創刊の背景には、90年代以降のアート界における断絶への問題意識と、ウィーン美術アカデミーでの共通体験があった。

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ビジネスからサイエンスに至るまで、アートの必要性を説くシチュエーションが激増している。コロナ禍で見える世界は変わらないものの、人々の心情が変容していく中で、その心はアートに対してどう反応するのか。ギャラリストやアーティスト、コレクターらが、ポストコロナにおけるアートを対象として、次代に現れるイメージを考察する。

第3回は日本発のクィア系アートZINE『MULTIPLE SPIRITS/マルスピ』を創刊した、批評家・キュレーターの丸山美佳と、アーティストで俳優の遠藤麻衣の2人が登場。

「元始、女性は太陽であった」とは、1911年の『青鞜』発刊に際して平塚らいてうが書いた言葉である。そこから時代を下ること一世紀以上。2018年に創刊されたZINEは、「日本発のクィア系アートZINE」として『青鞜』創刊号の表紙をアプロプリエーションしている。

近年日本では、世界中の席巻する第四波フェミニズムと呼応するかたちで、ジェンダーやセクシュアリティへの関心が高まっている。書店では毎週のように新刊の関連エッセイや学術書が並び、ドラマや映画でもセクシャルマイノリティを描いた作品の数は10年前とは比べ物にならないほど増えている。

転じて、アート界はどうだろうか。2019年に開催されたあいちトリエンナーレでは、「ジェンダー平等」を掲げて参加作家の男女比率を50/50にするアファーマティブ・アクションが講じられたけれど、それに対する反発も少なからずあった。

複数性や複合的なあり方を意味する名を冠したZINE『MULTIPLE SPIRITS/マルスピ』は、こうした状況のなかで創刊された。立ち上げたのは丸山美佳と遠藤麻衣。創刊号は家のプリンターで印刷して、自分たちでホチキス留めた。

現在2号まで刊行されているが、その中身は、国内外で活躍するアーティストのインタビューから、人新世(アントロポセン)や共産圏のフェミニズムに関する論考の翻訳、おしゃべり形式の対談まで、硬軟織り交ぜた内容となっている。

「マルスピ」はどのような問題意識のもとに立ち上がったのか? 「日本発のクィア系アートZINE」であるのはなぜか? その背景には、海外のフェミニズム・クィア理論との出会い、そして「ジェンダー論争」以降日本アート界で支配的だった言説に対する問題意識があった。

――どうして「マルスピ」を始めようと思ったんですか?

丸山美佳(以下、丸山):私はウィーンに住んで今年で6年目なんですけど、2018年に麻衣ちゃんが留学でウィーンに来たのがきっかけでした。当時は仲がいいというわけでもなかったんですけど、フェミニズム表象を扱った作品を作っているのは知っていたので、私が在籍しているウィーン美術アカデミーの先生であるマリーナ・グルジニッチを紹介したんです。スロベニア出身の哲学者でアーティストとしても活動している人なんですが、彼女のクラスはアーティストも研究者もアクティビストもみんないっしょくたに議論をするかなり開かれた場所なんです。

遠藤麻衣(以下、遠藤):ウィーンに留学するちょっと前に、《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》という作品を フェスティバル/トーキョー17で発表したんですけど、この作品は、当時の夫と婚姻契約を作り、結婚式を演劇祭で行うというものでした。でもそのあとすぐ、作品とは別の私的な理由で離婚をして。作品と生活があまりにも近くなってしまって、今後何を作ればいいか、この先どんな生活をしていったらいいかがわからなくなってしまいまいした。そのタイミングでウィーンに行くことになったんです。

丸山:それでその悩みを聞いたり、腹を割って話したりすることがあったんです。私はウィーンに来てからとくにクィア理論やメディア理論を横断する活動に関心を寄せているんですが、日本語で話されていることと、ウィーンで議論していることにどうしてもギャップを感じでしまっていて。日本語で芸術実践と繋げてそういう話ができる場所をつくりたいと思っていたんです。けど、1人ではできない。麻衣ちゃんの悩みを聞きながら、お互いの活動は違うけれど共通する問題意識みたいなものを感じたので、「ジン作らない?」って誘ったのがはじまりです。

遠藤:お酒を飲みながら、いいねいいね! って意気投合して。2018年当時は、日本語でフェミニズムやクィアの文脈でアートが今ほど語られていなかったので、自分たちのリアルに沿った言葉を探したいというモチベーションもありました。

――ウィーン美術アカデミーはどんな学校なんですか?

丸山:美大なんですが、実践だけでなく理論も重視していて、ジェンダーやクィア理論もかなり充実しています。それが前提として共有されているので、アーティストであっても議論を求められるし、ジェンダーやセクシュアリティを扱った芸術実践もとても多い。あとは移民なり難民なり留学生なり、いろんなレベルでオーストリアに滞在している人も多いので、ジェンダーやクィアといっても異なる文脈で議論することの難しさもあります。

遠藤:私は東京芸大の交換留学制度を利用して行ったんですけど、芸大は教授の男性の割合が圧倒的に多いんです。アカデミーは真逆で、教授から事務職員まで含めて8割が非男性。私も自作と関連して、ジェンダーやセクシュアリティについてどういう意見を持っているかとか、日本ではどう議論されているのか、って周りからもよく訊かれました。でも、自分の作品を通して日本社会を対象にした意見を求められることがそれまでなかったので、はじめのうちは「日本のアートではまだ議論が不十分だ」とか、「自分はそのような日本の状況を内面化している」とか、紋切り型の返ししかできない自分にもどかしさを感じましたね。それとマリーナは、大学は知を求める人に開かれているので、私の生徒でなくても、学生ではなくても参加したい人はいつでも来たらいいって言っていて、めちゃくちゃかっこよかったです。日々、いろいろな人が出入りしていました。

――ステートメントで「日本発」を謳っているのはなぜでしょうか?

丸山:ふたりとも日本文化、特に90年代の少女文化のなかで育ったというのは間違いなくあって、美術やジェンダーについて話すときに、そういう文化の影響を避けては通れないと思ったのがまずひとつ。クィア文化との接続点でもありますしね。それから、知識がどういう土壌のうえに育っていくのかを重視したいのもあった。普遍的な知識っていうものはないと思うんです。私はブラック・フェミニズムなり南米のフェミニズムなり、自分たちの手で自分たちの言葉を獲得してきた歴史や実践に影響を受けているし、憧れもあります。なので「日本発」という言葉は、日本文化を発信するということではなく、日本語話者である自分たちの言葉を紡いでいきたいという思いなんです。もちろん日本の家父長的な言説のあり方を問題視していることは前提としてありますが。

あと、翻訳の問題も存在していて、英日バイリンガルなので日本語話者以外も意識しています。日本の文化で育った私たちは海外に出たり他文化に触れるときに、いろんなレベルで日本的なものに直面せざるを得ないところがあって。例えば、ジェンダーやセクシュアリティを考えるときには、日本の帝国主義や植民地主義、あるいは人種差別は避けては通れない。自分が透明な人間であることはできないし、日本の文化的な土壌を自覚せざるを得ない場面がすごくあるんです。だから、そういう視点も含めて芸術実践と言葉を繫ぐ場所を作っていきたいと思っています。

――ステートメントには「私たちは歴史的なフェミニズムの流れの中にもいると考えています」とも書かれています。

丸山:ジェンダーやセクシュアリティに関しては、先人たちの取り組みなしには突破できなかった壁が多くあり、クィアもその視点から捉えています。日本の文脈で言えば、フェミニズムやジェンダーはアート界でも90年代はよく取り上げられるテーマだったと思うんです。展示もあったし活発な言説もあった。

――どんな状況だったのでしょうか?

丸山:90年代は、千野香織さんや若桑みどりさんが立ち上げた「イメージ&ジェンダー研究会」が設立されたり、今でも活躍されていますが、帝国主義と接続しながらジェンダーの問題を提起していた嶋田美子さんがいたり、長谷川裕子さんがキュレーションした「デ・ジェンダリズム 回帰する身体」展(1997年)が開催されたり。パフォーマーのイトー・ターリさんがWomen’s Art Net Workを設立しり、ダムタイプのS/Nが発表されたのもこの時期ですよね。

遠藤:1991年の東京都写真美術館での笠原美智子さん(1989年から東京都写真美術館で学芸員を務め数々の展示を企画した、現在はアーティゾン美術館副館長)による企画展が日本の美術館で初めてフェミニズムやジェンダーの観点による展覧会だったそうで、笠原さんによると、それまでの日本にもフェミニズムに対するフォビアがあったそうです。欠落していた視点がたくさん芽生えた時期だったと思います。

丸山:当時は芸術におけるジェンダーやセクシュアリティの問題が活発にされていたようなんです。それが2000年代に入ると、なくなってしまう。ひとつの原因が「ジェンダー論争」と言われていて、日本のアート界の批評家・評論家たちが、フェミニズムは輸入された概念だから日本にはいらないんだ、といったことによって、言説が尻すぼみしてしまった。もうひとつは、日本社会全体でフェミニズムに対する大きなバックラッシュが起こりました。私たちはその下の世代に属しますが、ジェンダー問題について語らないどころか、女性の作家たちと話していても、男性中心主義的な目線から「女性特有の」とか「女性性がもたらす表象」といった言葉で作家活動が一緒くたにされてしまうことに違和感がありました。「女性らしい」という言葉で隠してしまった裏側には、本当は多様なものがあるのに。

――認識の解像度が粗いから、雑な語彙でしか表現できない。

丸山:言葉がないと感じました。だからさっき、言葉を紡がないといけないと言ったのは、そういった「女性らしい」という言葉に隠されたものが何なのか、自分たちも知りたかったからでもあって。

――なるほど。

丸山:例えば、笠原美智子さんがいた写真界と、そういう人がいなかったアート界って、言説や女性の作家の活躍においては差があるのではないかと、麻衣ちゃんと考えたことがあるんです。長島有里枝さんが『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』(2020年)で書かれていたように、90年代の写真界もかなり男性中心的ですが、一方で笠原さんのようなキュレーターがいたから、長島さんやオノデラユキさんといったアーティストが第一線で活躍できたという面もあると思うんです。その反面、あの世代で日本で活躍している女性の現代美術作家ってすごく少ない。

――1人いるだけで全然違ってくる。

丸山:笠原さんはジェンダー理論の専門家であるし、写真美術館に学芸員としていて、フェミニズムやジェンダーを写真と接続して言説を作っていったのは大きかったと思います。私たちもその言説と実践にアクセスすることができますよね。

――遠藤さんは作り手として感じていることはありますか?

遠藤:ここ数年で、制作している現場での意識や考え方がすごい速さで変わってきているのは感じますね。しかも、ジェンダーやセクシュアリティをテーマにするだけではなくて、形式や構造や作る過程そのものをラディカルに考えている。例えば「マルスピ」2号に寄稿してくれたキュレーターの内海潤也さんは「フェミニズム・キュレーション」っていうコンセプトを立ち上げて、男性中心的で単線的な展覧会の枠組みそのものを批判していたり。あと、批評家の福尾匠さんと黒嵜想さんは、批評の男性的な語りに疑問をもって「マルスピ」2号で「おしゃべり」という形式を用いたことに興味を持ったと言っていました。

丸山:私たちもそういった表現活動に出会いたいし、共有したいし、もっと知りたいと思うんです。少女文化を正面から扱うのも、市原沙都子さんと高田冬彦さんのコラボレーションやそれぞれ2人の実践に影響を受けているからだし、「おしゃべり」をあえて強調しているのも、百瀬文さんや地主麻衣子さんの活動があったからなんです。一緒に翻訳をしているキュレーターの根来美和さんなども、抑圧されてきた言説に自覚的で、だからこそ方法は違えど、表現なり言説なりとして話さなきゃいけないっていう認識は共有しているんじゃないでしょうか。それは、今アートコレクティブが活発になってきていることとも関係があると思います。90年代もそういう横のつながりがあって、大きな流れを作っていったと思うんです。なくなってしまったからこそ、抑圧されてしまったことを、違う形でやっていこうというか。

遠藤:それはありますね。ジェンダー論争のとき、フェミニズムやジェンダーを扱う展示が増えたときにあがった批判ってフェミニズムは「借り物の思想や知」で、現実に促してないというものだったんですけど、そういう批判をする側の論理も「マルスピ」はもちろん踏まえてはいる。かといって、日本対西洋みたいな古い二項対立はすでに無効だと思うし、もっとトランスナショナルに、共有できる話をしていきたい。私が日本にいて、美佳ちゃんがウィーンにいて、2つの拠点があるというのはそういう点でとても風通しがいいんです。

丸山:ウィーンに来た当初日本で話されている芸術とジェンダーの話って90年代以降アップデートされてないんだと気づかされたんです。先生にも「まず考え方をアップデートしなさい」って言われて。日本でジェンダー理論があまりされなくなってからも、フェミニズムとクィアの接続点が発展し、有色人系のフェミニズムや、南米や東南アジアの新しい言説は生み出されてきたわけですよね。それは芸術の現場でもそうです。日本でも様々な活動は続けられているのに、まるでジェンダーの問題は終わったことであるかのように語られてしまっていたんだと思います。

――ジェンダー論争以降、日本は鎖国状態に……。

丸山:あいちトリエンナーレもあって日本でも以前よりジェンダーを扱った作品や議論が増えたと思いますが、昔と同じような議論が繰り返されているのも見かけます。もちろん歓迎すべき変化ですが、どうしてジェンダーだけを問題として取り上げる視点になってしまうのかと疑問にも思います。「マルスピ」ではインターセクショナリティ(交差性)を重要視していて、さまざまな問題がどう関わっていて、どう交差しているのかが重要だと思っています。これまでのフェミニストやクィアの歴史に私たちは立っているという意識はそこにあります。そのうえで、同じことを繰り返すのではなく、今ある可能性を使って、自分たちが経験していることを考えていきたいし、他の人がどう考えているのかを私たちも知りたい。

――今後やっていきたいことは何でしょうか?

遠藤:マルスピは、日英のバイリンガルだけど、英語圏でない人たちと文化交流をしたいし、すでに起っている文化交流をリサーチしていきたいです。言語を「壁」にしたくないですね。2019年にはソウルにいって、アーティストに直接会って話を聞いたり、ソウルのフェミニズムやクィアをテーマにした展覧会を見に行ったり、鍼灸を受けたりしたのですが、今後も気になったことにはジャンル問わず交わってゆきたいですね。

丸山:「マルスピ」をきっかけに出会いや交流がグッと増えたんです。特に、韓国とか中国とか、東アジアのつながりを大事にしていきたい。それから、日本の90年代に行われた議論との断絶は気になるので、そういう活動してきた方たちともつながっていきたいと思っています。あと、早く3号は出したいですね。2人とも博士課程を終わらせようとしていて、最後の編集に手がつけられてないんですけど……でも、お互い、無理をしないのを鉄則にしているので(笑)。

丸山美佳
長野県生まれ。横浜国立大学修了、現在ウィーン美術アカデミー博士課程在籍。東京とウィーンを拠点に、批評家・キュレーターとして活動している。主な展覧会に「When It Waxes and Wanes」(ウィーン、2020)、「Protocols of Together」(ウィーン、2019)、「Behind the Terrain」(ジョグジャカルタ、2016/ハノイ、2017/東京、2018)、「Body Electric」(東京、2017)など。主な寄稿先に「artscape」「美術手帖」「Camera Austria」「Flash Art」など。http://www.mika-maruyama.com/

遠藤麻衣
兵庫県生まれ。現在、東京芸術大学美術研究科博士後期課程美術専攻在籍。映像、写真、演劇などのメディアや方法論を横断しながら、いまここにある身体が発するメッセージと、社会規範や芸術のフォームとのずれを遊戯的に重ね合わせて表現を行う美術家・俳優。近年の主な展覧会に、「彼女たちは歌う」(東京藝術大学大学美術館陳列館、2020)、「新水晶宮」(TALION GALLERY、東京、2020)、「When It Waxes and Wanes」(ウィーン、2020)など。主な個展に「アイ・アム・ノット・フェミニスト!」(ゲーテ・インスティトゥート東京、2017)など。http://www.maiendo.net/

Edit Jun Ashizawa(TOKION)

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