「ファン」と「作り手」のいい関係とは? 『コンヴァージェンス・カルチャー』から考えるファンダムの可能性

バズったツイートが報道番組で取り上げられる。『ポケットモンスター』がアニメやカードやアプリになる。ある対象が好きすぎて同人誌を作る。てんでばらばらに見えるこれらの現象にも共通点がある。これらはどれも「コンヴァージェンス・カルチャー」であるということだ。

「準備ができていようといまいと、私達はすでにコンヴァージェンス文化の中で生きている」。先月邦訳されたファンダム研究の古典『コンヴァージェンス・カルチャー ファンとメディアがつくる参加型文化』(晶文社)は、こんなイントロダクションから始まる。ではコンヴァージェンス・カルチャーとは何か? 著者のヘンリー・ジェンキンズは、次の3つで定義づける。

(1)多数のメディア・プラットフォームにわたってコンテンツが流通すること
(2)多数のメディア業界が協力すること
(3)オーディエンスが自分の求めるエンターテインメント体験を求めてほとんどどこにでも渡り歩くこと

#MeTooに二次創作、ウィキペディアから聖地巡礼、はては米国会議事堂襲撃事件まで。その射程は広範囲におよぶが、「コンヴァージェンス・カルチャー」においてなにより重要なのは、それがメディア業界(特にTVや新聞などのオールドメディア)の運営に地殻変動をもたらし、消費者/ファンのメディアへの関わり方を一変させたことにある。消費者は受動的な存在ではなくなり、ファンはさまざまなやり方で制作側にフィードバックを行うようになった。コンヴァージェンス(収斂)によって、世の中のパワーバランスは複雑化したのである。

ではファンと作り手の関係性は、具体的にどのように変わったのか。ファンダムの可能性、そして「暗黒面」はどこにあるのか。著者の授業に出たという共通経験を持ち、チームとして『コンヴァージェンス・カルチャー』の翻訳にあたった渡部宏樹さん、北村紗衣さん、阿部康人さんに話を聞いた。

日本はコンヴァージェンス先進国だった?

ーー著者のヘンリー・ジェンキンズはどのような学者なのでしょうか?

渡部宏樹(以下、渡部):ファン研究の大物です。おそらく一番広く読まれたのは『コンヴァージェンス・カルチャー』ですが、1992年に発表した『テクストの密猟者』で、アカデミアでの権威は確立していたんじゃないかと思います。

阿部康人(以下、阿部):それは間違いないと思います。『テクストの密猟者』は日本でも、90年代後半からよく引用されていました。

北村紗衣(以下、北村):ジェンキンズはファン研究の中でも一番ポジティブな学者だと思います。明るく楽しいものを書く人。

ーージェンキンズは本書で、『ポケモン』や『遊☆戯☆王』を「コンヴァージェンス・カルチャー」の先駆的な例として挙げていましたね。

渡部:知り合いの日本人研究者から聞いて知っていたんでしょうね。ただ、コンヴァージェンスという現象はテクノロジーに関係なく存在します。日本だと同人文化が典型で、明治時代にはすでに文芸作品の同人誌があったし、戦後にもSFコミュニティによる同人誌があった。民間の同人活動をポピュラー側のコンヴァージェンスだとすれば、70年代以降角川書店などが仕掛けていたメディアミックスは「企業のコンヴァージェンス」です。

ーー最近だと、ボトムアップ型の「草の根コンヴァージェンス」にはどんなものがあるでしょうか。

北村:ハッシュタグ・アクティビズムが挙げられると思います。「ナショナル・シアター・ライブ」という英語圏で上演された演劇を日本の映画館で上映する企画があるんですが、当初は字幕のレベルがひどかったんですね。それに関して、ファンがTwitterなどを通して「字幕がおかしい」と抗議しまくった結果、字幕が改善されたという事例があります。あと、文芸映画とか女性向けの映画が日本で配給される際に変な邦題がつけられることが多く……

ーー“Suffragette(サフラジェット)”が『未来を花束にして』になるなど、「未来」をつけがちだったり。

北村:それに関して、映画ファンがハッシュタグを使って抗議するという動きもあります。

『ドリーム』は実際に邦題が変わるということもありました〔註:当初サブタイトルとついていた「私たちのアポロ計画」が削除された。劇中で描かれているのは、アポロ計画ではなくマーキュリー計画だった〕。英語圏はより激しくて、CGのキャラクター造形が変だというファンからの抗議でCGがガラッと変わった『ソニック・ザ・ムービー』みたいな例もあります。

作品を左右するファンダムの声

ーーファンダムの声が、作り手や作品に影響を与えた事例はありますか?

渡部:日本だとpixivユーザーのカオス*ラウンジに対する抗議運動が典型的な例だと思います。現代アート集団のカオス*ラウンジがpixiv上にあるイラストレーター達の絵を無断でコラージュし、水で濡らしたり自分達の商品に利用して売ったりしていたんです。それに対してpixivユーザー達は、カオス*ラウンジが作った作品を「現代アート」タグをつけてpixiv内で引用し始めた。つまりカオス*ラウンジが依拠していた、現代アートとしての「引用」だという理屈をpixivユーザーたちは逆利用して抗議したわけです。現代アートの資本主義的な論理とファンダムの中の贈与経済的な論理がぶつかった出来事だと思います。

北村:ファンダムが作者に文句をつけるという事例は、小説が誕生した18世紀からあるんです。そうは言っても、最初から構想があって書いていたりするので、著者が聞く耳を持たないことも多い。ただそこは駆け引きで、読者からの意見を取り入れて作品を少し変えた作家もいないわけではなくて。一番有名なのは『シャーロック・ホームズ』ですね。その後も英語圏のファンダムでは、ファンが作者に要望する文化は結構根づいています。死んだキャラクターを復活させてほしい、みたいな。ファンダムの意見は昔から作り手にとって役に立つこともあれば鬱陶しいこともあるという両義的なものだったと思います。最近だと『スター・ウォーズ』新3部作はファンのせいでおかしくなったんじゃないか、というのがあって……。

阿部:SNSなどで情報環境が変わったことによって、ファンの声は可視化されて作り手の耳に入りやすくなりましたよね。一方で最近は、ログを残さないClubhouseみたいなアプリも出てきた。あまり聞かれたくないような、でもすごく濃い内容がそこでは話されている。そういうクローズドな場でしか話されていない、ログに残らないようなものが出ているなかで、今度は作り手がいっそう密猟者のようになっていくかもしれない。

ーーファンの本音を聞くために。

阿部:Twitterなどで書き込むようなファンの意見はいくらでも見られるじゃないですか。でもファンのなかにはログを残すことに抵抗のある人もいて、その人たちの声が面白かったり有益だったりすることもあるわけですから。 

「作り手が優秀じゃないとファンも優秀にならない」

ーーファンと批評の関係も聞かせてください。「ファンは批評の言葉を嫌う」と言われがちですが、ファンがクリティカルな行為をとることもあるのではないでしょうか?

北村:ファンが書くものと批評が違うものなのかと言われると、非常に判断しづらいところです。ただファンの方が、自分達は批評を書いていないかのように装うのはあんまり良くないと思うんですよ。実は批評をやっている、という人は多いと思うので。「私たちがやっているのは批評ではない」と考えることで、クリエイティブ産業の構造を無視しているような気がします。ファンはもうちょっと「自分たちは批評をしています」と自信を持って言ったほうがいいのかもしれない。最近だと、SNSで書ける批評未満の短い褒め言葉がメジャーになってしまい、ネガティブなことは他のファンから攻撃されるので書きづらくなっているという問題もあるのですが。

ーー「ファンフィクション」も批評になり得るでしょうか?

北村:二次創作で批評をするというのは昔からあります。シェイクスピアの翻案から、いろんな人達がずっーとやってきました。二次創作にもいろいろありますが、元のストーリーに不満があるから変えるのも、原作に書かれてない側面や要素を想像して書くのも、濃淡はあれどどちらも批評の一種じゃないかなと思います。

ーー先ほど『スター・ウォーズ』新3部作の話もありましたが、作り手とファンの幸福な関係とはどんなものだと思われますか? いい作品に結実するのが理想だと思うのですが。

北村:作り手が優秀じゃないとファンも優秀にならないと思います。例えば、スパイク・リーは他人の言うことは聞かないみたいなふりしてるんですけど、ちゃんと批評を読んで作品に反映 しているんですよ。あれくらい強い作家性のある作り手だと、批判への応じ方もどんどん上手になっていく。切磋琢磨の状態がいちばん理想だと思いますね。

渡部:作り手が知的にも精神的にもタフじゃないといけないというのはその通りで、北村さんに賛成するんですけど、でもそれって本当に大変で、スパイク・リーが自分の作品に対する批評を読めるのはすごいと思う。私なんか「『コンヴァージェンス』の翻訳がひどい」とか言われるんじゃないかと思って検索すらできない(笑)。一方では、ファンが「フォースの暗黒面」に落ちやすいという話もある。例えば、札束で握手券付きCDを買いまくって長い時間握手するのがいいファンなのかというと微妙だと思うんです。でもその暗黒面に飲み込まれる気持ちもわかる。

「いいファン」を求めて

ーーいいファン、いい消費者とは何なのでしょう。暗黒面に落ちないでいるためには。

阿部:作り手側とファン側のコミュニケーションを円滑にするためにも、ファン同士のコミュニケーションがいいものでないといけない。そのための条件としては、ジェンキンズも書いていることですが、ファン自身が他のファンに対して「お前そんなことも知らないのか」などと言って知識でマウントをとろうとするのではなく、新しいファンが入ってきた時に古参ファンがメンターとして迎えるような形でコミュニケーションできることが重要だと思います。それがファンダムを活性化させるし、ファンと作り手側のコミュニケーションも円滑にする一つの要件になるんじゃないかと。

渡部:自分の欲望を知ることが、いい消費者であり、いいファンになるための条件の一つなのかなと思います。ファン的な活動をする対象は、どんなものであってもいい。その活動の中でマウンティングに走ってしまうのは、自分の欲望がわからないからだと思うんですよ。何か突き動かされるものがあって、その対象に欲望を投影しているのであれば、そこで深めるべきは自分の欲望なんです。たぶん消費者に関しても同じで、自分の欲しいものがわかってないと、広告に踊らされてしまう。

ーー自分の欲望を知り、掘り下げていくためにはどうすればいいのでしょう?

渡部:ファン活動ですよ! ファンダムがある種の教育の場になるんだと思います。ジェンキンズもこの本の中で、熟練した書き手が新米にファンフィクションの書き方を教える『ハリー・ポッター』のファンダムを紹介していましたが、それも欲望について教え合う一つの形式だと思います。

北村:私は大学で教えているんですけど、前から良き市民、良き観客、良き消費者を育てること」 を教育方針にしているんです。「良き市民」は政治的に自分が何を支持するか、何を正しいか判断できる人。「良き観客」は芸術作品の価値を客観的に考えられ、楽しめる人。「良き消費者」は賢く倫理的な消費活動ができる人。問題はこの3つが必ずしも鼎立しないことです。良き観客であろうとすると悪い消費者になったり、その逆になったりもする。例えば、芸術的に優れているけれども、制作の場でハラスメントが行われている作品にお金を払うべきどうか。鼎立は難しいかもしれないけど、その都度考えて決めるということが大事かなと思っています。

渡部:生活と快楽と政治を分割しないで考える回路を作りたい、というのが北村さんのお話だと思うんですけど、社会を良くするためにそれが必要だというのはよくわかります。どういうことかというと、AKBがやった総選挙は象徴的な水準で相当問題があって、選挙をお金で投票券を買って自分の推しを上にあげる行為に縮減してしまった。ビジネスとしては否定しないけれども、でもやっぱりその仕組みを受け入れると、根本的に政治が消費主義に従属させられてしまうと思うんです。じゃあそこの分割線をはっきりさせれば、政治が政治らしく復活するかというとそれはもう無理なんです。政治とポップカルチャーの境目が融解しているのはもうなかったことにはできなくて、だとしたらその内側から食い破っていく必要があるんじゃないか。そんなことを『コンヴァージェンス・カルチャー』を訳しながら考えていました。

ヘンリー・ジェンキンズ
『コンヴァージェンス・カルチャー ファンとメディアがつくる参加型文化』(渡部宏樹、北村紗衣、阿部康人 訳)は晶文社から発売中。

渡部宏樹(わたべ・こうき)
筑波大学人文社会系助教、エジプト日本科学技術大学客員助教。剣道、なぎなた、心形刀流(LA道場)の有段者で、ファンダムとしての武道コミュニティについて考えている。

北村紗衣(きたむら・さえ)
武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。著書に『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(白水社)、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房)など。シェイクスピアのファンにしてジェダイ。

阿部康人(あべ・やすひと)
駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部グローバル・メディア学科講師。推しゲームは『信長の野望』『逆転裁判』『ドラゴンクエスト』シリーズ。

Photography Kikuko Usuyama

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author:

平岩壮悟

1990年、岐阜県高山市生まれ。i-D Japan編集部に在籍したのち独立。フリーランス編集/ライターとして文芸誌、カルチャー誌、ファッション誌に寄稿するほか、オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』(藤井光訳、河出書房新社)をはじめとした書籍の企画・編集に携わる。訳書に『ダイアローグ』(ヴァージル・アブロー、アダチプレス)がある。 Twitter:@sogohiraiwa

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