Girls' Film Fanclub Archives - TOKION https://tokion.jp/series/girls-film-fanclub/ Fri, 16 Feb 2024 14:56:58 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.2 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png Girls' Film Fanclub Archives - TOKION https://tokion.jp/series/girls-film-fanclub/ 32 32 Girls’ Film Fanclub Vol.3 ヨルゴス・ランティモス監督『哀れなるものたち』ゲスト:清水知子(東京藝術大学准教授)後編 https://tokion.jp/2024/02/16/girls-film-fanclub-vol3-part2/ Fri, 16 Feb 2024 10:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=224383 「Sister」の長尾悠美が、ゲストと映画を語り合うTOKIONの映画連載、Girls’ Film Fanclub。第3回は、清水知子氏を迎え、話題作『哀れなるものたち』にフォーカス。後編は、ベラのファッション、セックスワークと女性、「殺す権力」と「生かす権力」、そして本当に「哀れなるもの」とは誰かを考える。

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清水知子(左)
愛知県生まれ。現在、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科准教授。専門は文化理論、メディア文化論。著書に『文化と暴力―揺曳するユニオンジャック』(月曜社)、『ディズニーと動物―王国の魔法をとく』(筑摩選書)、共訳書にジュディス・バトラー『アセンブリ——行為遂行性・複数性・政治』(青土社)、『非暴力の力』(青土社)、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『叛逆』(NHK出版)、デイヴィッド・ライアン『9・11以後の監視』(明石書店)他。

長尾悠美(右)
渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアート作品を通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

前編はこちら

渋谷区松濤のセレクトショップ「Sister」の長尾悠美をホスト役に、ゲストとともに女性をテーマにした映画を語り合うTOKIONの映画連載、Girls’ Film Fanclub。第3回は、メディア文化論の専門家、清水知子(東京藝術大学准教授)を迎え、昨年のベネチア映画祭で金獅子賞を受賞、本年のアカデミー賞にも11部門ノミネートする話題作『哀れなるものたち』を取り上げる。

イギリス・スコットランド出身の小説家、アラスター・グレイの同名小説を下敷きに、『ロブスター』や『聖なる鹿殺し』、『女王陛下のお気に入り』などの個性的な作品で知られるギリシャの奇才、ヨルゴス・ランティモス監督の大胆なアレンジによって製作された映画『哀れなるものたち』。前作『女王陛下のお気に入り』でタッグを組んだ俳優エマ・ストーンが、プロデューサーと主演を務めている。

対談前編では、ファンタジー作品を中心に表象文化を研究してきた清水知子とともに、物語の展開を追いながら、主人公ベラとゴッドウィンとの擬似的な父子関係、ダンカンの「有害な男性性」、そして知性とジェンダーをめぐる問題にフォーカスしてきた。後編は、ベラのファッションを含めた視覚表現、セックスワークと女性の身体の権利をめぐる問題、対比的に描かれる「殺す権力」と「生かす権力」、そして本当に「哀れなるもの」とはいったい誰かを考えていく。

※以下の文中には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

変化を可視化するファッション

長尾:ここで衣装について少し触れたいんですが、屋敷の中では身の回りのお世話をしていたプリム夫人が選んだ肌着やネグリジェのようなものを着ていたベラが、リスボン編では、クローゼットから選んできた服を使って、自分なりのコーディネートで服を着ていました。そのスタイルは既存のファッションの枠におさまならい奇天烈さとかわいらしさがあって、とっても魅力的です。

一方で、貧困の問題を目の当たりにするアレクサンドリアのシーンでは、ベラを含む船上の人々は白い服を身につけています。衣装を担当したホリー・ワディントンによると、ベラはこのシーンでは劇中で最もフォーマルなドレスを着ているそうです。そこには、ベラの上流階級的なバックグラウンドを強調することで、貧困にあえぐ人たちとの視覚的な対比を作り出すという意図があったようで、視覚を通してメッセージを伝えられる映画ならではの演出だなと感じました。

清水:確かに、それぞれのシーンのファッションがベラ自身の変化を可視化していますね。視覚的な効果でいうと、魚眼レンズによって普通とは少し異なる視覚が引き出されている箇所も気になりましたし、時空間もどこかSF的でしたよね。

長尾:そうですね。基本的な時代設定は18世紀後半から19世紀にありながら、現在とも未来とも錯覚させられるような瞬間が散りばめられているので、劇中で起きていることは、いつの時代も起きてきた/起こりうることなんだと思わせられた気がします。

清水:ええ。そういう意味でこの作品はサイエンス・フィクションでもあり、こういう未来もありえるかもしれないという思索を含んだスペキュラティブ・フィクションでもあるなと思いました。

自分の身体の権利を取り戻すこと

長尾:さて、一文無しとなったベラとダンカンはパリで途方に暮れ、ベラは売春宿で働くことを決めます。売春宿のマダム・スワイニーを演じるのは、数々の映画での魔女役で知られるキャスリン・ハンター。エマ・ストーンはパンフレットの中で「スワイニーの売春宿で働くことはベラにとっては明らかに仕事です」と書いていますが、売春宿で働くことを選択したベラをダンカンはひどく罵ります。一方でベラは、男性客の自分本位なセックスや振る舞いに不快感を抱き、女性から男性客を選ぶことなどを提案しますが、取り合ってもらえません。そんななかでベラは女性たちを商品として所有しコントロールしようとするマダム・スワイニーに対しても疑問を抱きはじめます。このパリで一連のシーンでは、セックスワークにまつわるスティグマや、女性のからだの自己決定権が問われていく場面かと思います。先生はこのあたりどう受け止められましたか?

清水:ここも興味深いところですよね。ベラが売春宿で働くのは経済的に自立するためでしたが、支配欲の強いダンカンにとっては耐えがたいことで、彼はパリでどんどん惨めになっていきます。パリでの一連のシーンは、セックスワークを労働と考えたとき、その仕事が誰にとって何を意味しているのかという点について再考させる場面でもあります。女性が男性客を選ぶというベラの提案も、他者の性的欲望の対象として消費されるモノではなく、搾取や暴力に陥りやすい労働環境そのものを問う試みにも見えますし、自分の身体の権利を取り戻す言動としてとらえることもできますよね。

さきほど魔女の話題を出しましたが、このシーンで同時に思い出したのは、かつて自分で身体、生殖をコントロールしようとした女性が魔女扱いされていたことです。シルヴィア・フェデリーチェが『キャリバンと魔女』で論じているように、16、17世紀、魔女狩りは資本主義と時を同じくして登場しました。そして資本主義の進展とともに、女性は二つのタイプに分断されていくことになります。家庭の規範に従属して生殖し、再生産労働に従事する「正しい」セクシュアリティを担う女と、家の外で男の快楽に携わる女。つまり、「家庭の天使」と「堕落した女」です。ベラの身体にはそんなふうに男性の視点を通して社会的に意味づけられ、分断されてきた女たちの歴史が刻印されており、にも関わらず、そうしたステレオタイプを覆し転化していく存在だと言えるかもしれません。

長尾:なるほど。とても興味深いです。パリでの生活は、将来への決意も含めて、ベラの中で確固たる考えが作られていくプロセスにも感じられましたね。

「殺す権力」と「生かす権力」

長尾:ゴッドウィン・バグスターの体調悪化を機に家に戻ったベラは、売春宿で働いていた自身を尊重しようとするマックス・マッキャンドレスの誠実さに触れ、あらためて彼と結婚する気持ちを固めました。しかしそこで、ベラの生前の夫であり、独占欲の強い軍人でPTSDを抱えるアルフィー・ブレシントンが登場します。ブレシントンは、女性のことを「領土」と呼んだり、ベラに割礼をしようと画策したりします。彼は、ダンカンとは別のタイプの有害な男らしさを体現しているとも言え、ダンカン、ブレシントン、マッキャンドレスという全くタイプの異なる3人の男性の対比が印象的です。

物語の終盤、ブレシントンとの関係に決着をつけたベラは自分の夢を叶えようと思いを新たにします。ベラを含む女性たちが、ゴッドウィンが好きだったマティーニを飲みながら庭園で平穏な時間を過ごす、ある意味で理想郷のような世界が提示されて物語は幕を閉じます。終盤は急展開でどんどん物語が動いていきますが、先生は特に気になったシーンはありましたか?

清水:何より衝撃を受けたのは、最後の展開ですね。ベラの生前の夫ブレシントンが出現し、ベラは暴力性に満ちた彼を殺すことなく、改心させるでもなく、山羊に「進化」させますよね。つまり、殺すことなく、生かすことを選択する。ブレシントンが体現していた古典的な「殺す権力」ではなく、従属者たちを「生かす権力」によって統治する生の管理の仕方を選択しているようにも思いました。ただ、このやり方が良い方向に向かっていくのかは未知数で、不気味さと怖さも感じさせるんですが(笑)

清水:山羊といえば、以前アーティストの百瀬文さんから興味深いお話を聞きました。第一次世界大戦の頃、イギリス海軍が日本海軍に性欲処理用として大量の山羊をプレゼントし、その意味が理解できなかった日本海軍は食糧として殺して食べてしまったという、嘘か真か謎とされる逸話です。ブレシントンが女性や動物を所有物のように扱い、恐怖によってコントロールしようと考えていたとすると、その彼が、こうした歴史をもつ山羊とのキメラになり、女たちに飼われる光景は、「有害な男らしさ」の顛末として、二重に強烈な皮肉が効いているように思いました。

それから、女性を領土と並べて語るブレシントンの発言で思い出したのは、アルゼンチンの政治思想家でフェミニズム活動家でもあるべロニカ・ガーゴの議論です。ラテンアメリカのフェミニストたちは、土地を採掘して資源と富を手に入れ、家父長的な方法で拡大してきた植民地主義を踏まえて、女性や女性化されてきた身体に対する暴力と領土における強奪の問題を重ねて論じてきたんです。

本当に「哀れなるもの」とは?

長尾:なるほど。それを考えると軍人のブレシントンが女性と領土を並べて語ることの意味があらためて見えてきますね。これまで映画のディテールについて色々とお話をうかがってきましたが、最後に、あらためて「POOR THINGS=哀れなるものたち」とは誰、もしくは何を指しているんでしょうか?

わたしは映画を見ていくなかで、具体的な登場人物を指しているというよりもむしろ、物語に出てくる女性蔑視やスティグマ、権力、支配、戦争など、そういったもの一つ一つに対して「哀れ」という言葉を使っているのかなと感じました。先生はどうお考えですか?

清水:映画を通して、「哀れなるものたち」はとても重層的に描き出されているように思います。もしかしたら、自ら命を絶った身体に胎児の脳を移植され蘇生した生命を、哀れな怪物のように感じる人もいるかもしれません。けれども、本作では、ベラは不公正な世界を知り、社会の「良識」に追従することなく、それが隠しもつバイヤスに反旗を翻して自分の人生を築いていきますよね。ベラやマーサの強さと対比されることで、富と社会的地位を手にし、女をコントロールしよう、あるいはコントロールできると思い込んでいる者たちこそが、現実が見えていない「哀れなるものたち」として浮き彫りになる物語でもあるように感じました。だからこそ、死体から蘇生した女たちのみならず、マッドサイエンティストとその家に共存するキメラな動物たちが集う最後の光景が、爽快かつ滑稽な風刺として機能してくるのではないでしょうか。

このユートピア的光景は、ある種、脱「人間」中心主義からなる世界のヴィジョンを示唆しているように感じ、ダナ・ハラウェイのサイボーグをめぐる議論を思い出しました。ハラウェイは、サイボーグが部分性、アイロニー、緊密さ、邪悪さと深く関係し、そして、生命があるか否か、人間か、動物か、植物か、機械かにかかわらず私たちすべてをコミュニケーション・システムとして考えるような「共通の存在論」を構想しています。サイボーグは、軍事計画の一部であると同時に、複雑なかたちで女性的でもあり、「レジスタンスの行為」でもあります。とはいえ、何より興味深いのは、サイボーグが非嫡出子で、権力を持った家父長的な父親が不要であるということです。最後の光景には家父長的な構造には還元しえない新たな親密圏とも言えるコミュニティが描かれているように思えました。

科学者の研究の一環として生み出されたベラは、自分の意思で身体を獲得したわけではありません。ですが、その身体には母に象徴される女たちの傷が刻印されています。ベラが生きていく過程で仲間になっていく存在もキメラなど、純血性とは無縁に存在するものたちでした。そう考えると、「人間」が歩んできた「成長」とは、「進歩」とは、「良識」とは何か。そう問い直すことなく、既存の社会に追従してきた「人間」そのものがどこか「哀れ」でもあり、だからこそ、矛盾した世界をたくましく生き抜き、新たなビジョンを見せてくれるベラに惹かれずにはいられないのかなと思いました。

TOKION編集部・佐藤:物語を通して、ベラの生き様そのものが、フェミニストの視点から近代から現代までの思想の歴史をなぞっているようにも感じました。船の上で19世紀に活躍したエマーソンやゲーテを学んだベラは、そこで啓蒙主義やモダニズム的な哲学に触れ、学ぶこと自体に目覚めます。ただそれらの本を読むベラは、すでにその男性中心的な思想に疑問を抱いてもいました。そのあと社会主義や共産主義に触れ、パリでは女性の性の快楽を能動的に捉え直そうと、男根中心主義に抗うラディカル・フェミニスト的な思想を経験を通して身につけていく。そして最終的には、ゴッドウィンが遺した屋敷で、ポスト・ヒューマニズム(脱人間中心主義)を体現するようなコミュニティを形成しています。それはまるで、ベラの人生を通じてフェミニズム的な思想の変遷を見せられているように感じました。

清水:確かにそうですね。本当にいろんなメッセージを受け取ることができるので、一度見ただけではいろいろなポイントを見落としてしまいそうです。「哀れなるもの」は、規範に囚われ、自分自身で思考する自由を手放してしまった人間の存在を示唆しているようにも思え、だとしたら、本作は「人間」をめぐる境界や「人間」の哀れさを問う映画でもあったのかな、と感じました。

長尾:なるほど。わたしは、本作を通じて改めてたくさんの気づきを得ることができました。今回は有意義なお話をたくさん聞かせていただき、本当にありがとうございました!

『哀れなるもの」予告編

■『哀れなるものたち』
監督:ヨルゴス・ランティモス
原作:「哀れなるものたち」 
    アラスター・グレイ著(ハヤカワepi文庫)
脚本:トニー・マクナマラ
製作:エド・ギニー p.g.a.
: アンドリュー・ロウ p.g.a.   
: ヨルゴス・ランティモス p.g.a.
: エマ・ストーンp.g.a.
撮影監督:ロビー・ライアン BSC, ISC
プロダクション・デザイン:ジェームズ・プライス 
: ショーナ・ヒース
衣裳デザイン:ホリー・ワディントン
ヘアメイクアップ&補綴デザイン:ナディア・ステイシー
音楽:ジャースキン・フェンドリックス
サウンド・デザイン:ジョニー・バーン
編集:ヨルゴス・モヴロプサリディス ACE
セット装飾:ジュジャ・ミハレク
原題:POOR THINGS
2023年度作品 / イギリス映画 / 白黒&カラー
ビスタサイズ / R18+
上映時間:2時間22分 
字幕翻訳:松浦美奈
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.

Photography Mika Hashimoto
Text & Edit Shinichiro Sato(TOKION)

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Girls’ Film Fanclub Vol.3 ヨルゴス・ランティモス監督『哀れなるものたち』ゲスト:清水知子(東京藝術大学准教授)前編 https://tokion.jp/2024/02/14/girls-film-fanclub-vol3-part1/ Wed, 14 Feb 2024 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=223817 「Sister」の長尾悠美をホスト役に、ゲストとともに女性をテーマにした映画を語り合うTOKIONの映画連載、Girls’ Film Fanclub。第3回は、清水知子を迎え、話題作『哀れなるものたち』にフォーカス。対談前編は、ベラとゴッドウィンとの父子関係、「有害な男性性」、そして知性とジェンダーについて。

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清水知子(左)長尾悠美(右)

清水知子(左)
愛知県生まれ。現在、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科准教授。専門は文化理論、メディア文化論。著書に『文化と暴力―揺曳するユニオンジャック』(月曜社)、『ディズニーと動物―王国の魔法をとく』(筑摩選書)、共訳書にジュディス・バトラー『アセンブリ——行為遂行性・複数性・政治』(青土社)、『非暴力の力』(青土社)、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『叛逆』(NHK出版)、デイヴィッド・ライアン『9・11以後の監視』(明石書店)他。

長尾悠美(右)
渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアート作品を通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

渋谷区松濤のセレクトショップ「Sister」の長尾悠美をホスト役に、ゲストとともに女性をテーマにした映画を語り合うTOKIONの映画連載、Girls’ Film Fanclub。第3回は、メディア文化論の専門家、清水知子(東京藝術大学准教授)を迎え、昨年のベネチア映画祭で金獅子賞を受賞、本年のアカデミー賞にも11部門ノミネートする話題作、『哀れなるものたち』を取り上げる。

『哀れなるものたち』は、イギリス・スコットランド出身の小説家、アラスター・グレイの同名小説を下敷きに、『ロブスター』や『聖なる鹿殺し』、『女王陛下のお気に入り』などの個性的な作品で知られるギリシャの奇才、ヨルゴス・ランティモス監督が大胆にアレンジを加えたS Fファンタジー映画だ。前作『女王陛下のお気に入り』でタッグを組んだ俳優エマ・ストーンが、プロデューサーと主演を務める。

脚本は、『女王陛下のお気に入り』でアカデミー賞にもノミネートしたトニー・マクナマラ。撮影監督は、マイク・ミルズ監督の『カモン・カモン』でも撮影を担当したロビー・ライアン。プロダクション・デザインは、ジェームズ・プライス、そして写真家のティム・ウォーカーとのコラボレーションで知られるショーナ・ヒースが手掛ける。独創的なベラの衣装は『戦火の馬』や『レディ・マクベス』を手がけたホリー・ワディントンが担当した。

ファンタジー作品を中心に表象分析を行ってきた清水知子は、この奇妙な魅力に満ちた傑作をどう見たのか。Sisterの長尾とともに、『哀れなるものたち』が今の時代を生きるわたしたちに投げかけるメッセージについて考え、語り合う。前編は、物語の展開に沿いつつ、ベラとゴッドウィンとの擬似的な父子関係、ダンカンの「有害な男性性」、そして知性とジェンダーをめぐる問題にフォーカスする。

※以下の文中には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

ひとりの女性の成長物語として

長尾悠美(以下、長尾):まず、初見の衝撃が凄かったですね。わたしは原作を知らずに映画を見ましたが、ストーリーのインパクトもさることながら、魅力的な視覚表現にも圧倒され、興奮している間に2時間半が経ってしまっていたと言うのが正直なところでした。

ヨルゴス・ランティモス監督はかなり前から映画化を見越して原作者のアラスター・グレイを訪ねていたそうで、主演兼プロデューサーを務めたエマ・ストーンとも2018年の『女王陛下のお気に入り』の撮影時から話し合いを重ねてきたようです。この映画にかけるランティモスの熱意がうかがえますね。

わたしはこの映画を見ているとき、ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉を思い出したんですよね。映画は2度見ましたし、原作も早速読みました。もっと掘り下げたい作品ですね。ヨルゴス・ランティモス作品ではこれまでも登場人物同士の関係値を示すものとして、セックスや性描写がよく描かれてきたように思いますが、本作は特にセクシュアリティに関する問題提起が大きく取り上げられていると感じました。先生はこの映画について全体的にどんな印象を持たれましたか?

清水知子(以下、清水):わたしも2時間半あっという間でした。映画を通して、「良識ある社会」を内側から食い破っていくようなグロテスクな生命力を感じました。何よりラストが衝撃で、圧巻の風刺喜劇になっているなと思いました。ベラは、自殺した母の身体に新生児の脳を移植されて蘇生したキメラ的な怪物として誕生しますが、それはまた、母と胎児、死と生からなるハイブリッドな存在でもあります。

一見すると、成熟した男たちとは対照的に、ベラは感情を抑制できない「野蛮」で未熟な存在として描かれているように見えます。そして皮肉にも子どものまま大人の身体をもつという矛盾ゆえに、逆に先入観にとらわれず大胆な冒険心と好奇心によって自由と知性を獲得する。それによって従来の父権的な神話を解体し、社会の構造的な差別や偏見を脱臼させることができているかのように感じました。

長尾:なるほど。わたしは、天才外科医ゴッドウィン・バグスターによって一度死を選んだ女性を蘇生させるという突飛な発想に序盤は少々戸惑いました。まず、ゴッドウィンのいでたちそのものがフランケンシュタインを彷彿とさせますね。『哀れなるものたち』の原作者のアラスター・グレイは、明確に『フランケンシュタイン』をモデルとしてストーリーを展開させていて、ゴッドウィンという名前も、『フランケンシュタイン』の作者であるメアリー・シェリーの父でアナキストだったウィリアム・ゴドウィンからとられています。(メアリーの母はフェミニストの先駆者とも呼ばれるメアリー・ウルストンクラフト。)

そんな両親の思想を受け継いだメアリーによる『フランケンシュタイン』は「男性が科学の力をかりて生命を再生・創造するとどうなるのか」といった問題提起を持って、しばしばフェミニズム小説として取り上げられています。わたしは、『哀れなるものたち』を社会の抑圧や偏見に縛られない女性がどのように生きていくのかというフェミニズム的な物語であるとともに、有害な男らしさに対する痛烈な皮肉や批判を描いた作品として受けとりました。先生は、コロナ禍を経て、このような原作が映画化される意義についてはどうお考えですか?

清水:そうですね。原作では様々な視点から描かれていましたが、映画ではベラを軸に彼女の冒険物語、ある種のビルドゥングスロマン*1として再構成されています。とはいえ、男性を主人公にしたものとは展開が異なりますよね。それによって、社会的制圧から解放された生き方、有害な男らしさへの皮肉や喜劇風刺がより鮮明に浮かび上がっているように思いました。

*1 ビルドゥングスロマン:ドイツ語のBildungsroman。主人公がさまざまな体験を通して内面的に成長していく過程を描く物語。教養小説、自己形成小説とも訳される。

長尾:脚本のトニー・マクナマラも、映画化にあたり、この作品をベラの青春物語として描くと決めていたと話していますね。

清水:そのようですね。メアリー・シェリーによる『フランケンシュタイン』のアダプテーションはいくつもありますが、本作は生命の創造と怪物をめぐる物語としてだけでなく、怪物とその創造者のイメージをどう描き出すかをめぐる物語でもあると思います。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』のような悲劇的な結末でもなく、アフマド・サワダーウィーの『バグダードのフランケンシュタイン』のように、複数の遺体の残骸から生み出された自らに死をもたらした者たちに復讐を遂げようとするのでもなく、女性の生/性に対する社会的通念にとらわれずに、前向きに世界を切り開いていく。そんなところが、21世紀らしい新しい怪物譚だなと感じました。

長尾:自分の意思で蘇ったわけではないのに、ベラはとにかくいろんなものを貪欲に吸収して、自分の人生を生きていますもんね。

清水:それから、この映画は、科学、医学とジェンダーをめぐるポリティクスについても多くの示唆を与えてくれます。ヨルゴス・ランティモス監督とエマ・ストーンが組んだ前回作『女王陛下のお気に入り』の中で、エマ演じるアビゲイルが痛風をわずらう女王を薬草で手当てするシーンがありますよね。ああいった行為は、男性の医師がメスなどを使って行ってきた医療行為とは違う、ある種の「魔女的」な医療であり、西欧の医学の歴史の中でどんどん周縁化され、排除されてきた知恵でもあります。科学技術史を研究するロンダ・シービンガーが『植物と帝国』という本の中でも書いているように、西欧の医学の知識そのものがジェンダー化されて形成されてきた中で、女性の身体はつねに対象化/客体化されてきました。つまり女性は、おもに医療を受ける側や研究の対象としてとらえられてきたわけです。そう考えると、最後にベラ自身が医者になるという選択をするのも見逃せないポイントですね。あの時代に医者になるというベラの選択肢は、そうした身体のポリティクスへの参入としてとらえることもできるように思います。

ゴッドとベラの特異な父子関係

長尾:物語の序盤、ゴッドウィン・バグスターは自らが創造したベラに父権的に接しますよね。キメラ的に作られた風変わりな生き物たちに囲まれたバグスター邸で暮らしのシーンは閉鎖的でモノクロで描かれているのが印象的です。

そこに助手のマックス・マッキャンドレスが登場し、ベラ自身がセクシュアリティに目覚めていきます。ちなみにベラが自慰行為を試す時に使うのはキリスト教的に見ても象徴的な果実である「林檎」でしたね。そんなベラの奔放さを押さえつけようとしていたゴッドウィンも、徐々に彼女の意志を尊重するようになりました。

科学者と実験体だったゴッドウィンとベラの関係性が、本当の親子のような特別な関係性へと変化し、その関係性を通してお互いが成長していくようにも思いました。また、この父子のような関係性はゴッドウィンが性的に不能であることも大きく関係しているのかなと思います。この序盤のシーンを清水先生はどのようにご覧になられましたか?

清水:父子の関係性という点では、ゴッドウィンもまた父親の実験体であり、ある意味、虐待されたサバイバーですよね。彼が性を剥奪され、欲望をコントロールされた存在だったことは重要だと思います。また「フランケンシュタイン」を想起させる怪物的な存在であるゴッドウィンは、ベラに「ゴッド」と呼ばれていますね。そのことを考えてみても、旧来の価値観とは異なるポスト・キリスト教的な生命観からベラが生み出されているように感じました。

またゴドウィンの特殊メイクとしてフランシス・ベーコンの絵が参照されたといわれていて、これもおもしろいなと思いました。ベーコンの描く人間像は、不穏で、歪められ、大きな口を開けて叫ぶ奇怪さを伴うことで、人間存在の残酷さと不安を描き出したことでも知られています。

長尾:言われてみれば確かにフランシス・ベーコン的な見た目ですね。屋敷の中のシーンで言うと、個人的にはベラが「チー」と言って廊下でおしっこを漏らすシーンは、ベラの幼児的な無防備さを映画的に表現しているようで印象に残っています。

清水:そうですね。ゴッドウィンは、そんな無防備なベラを『マイ・フェア・レディ』のように育てることもできたかもしれないし、家に閉じ込めたままにすることも、あるいは性的に搾取することさえできたかもしれない。最初は実験体として慎重に彼女を観察し、言動を記録させながらも、次第に彼女の欲望と意志を尊重していくようになる姿は、軍国主義や家父長制資本主義を具現化する「父」とは異なりますよね。

長尾:わたしもゴッドウィンとベラが添い寝をするシーンを見て、きっとベラを性愛の対象にしているんだろうなと予想をしましたが、それがいい意味で裏切られて安心しました。自身も幼少期のトラウマを抱えるゴッドウィンが、ベラを一個人として尊重し、自分の父とはうまく築けなかったような温かい関係性を築いていくのを見られたのは良かったです。

清水:そうですね。その一方でベラの婚約者となったマックスも、ダンカンや終盤に出てくるベラの生前の夫、ブレシントンとは対照的に、ベラの精神と肉体の自由を尊重し、性愛というより、互いに信頼できる関係を築いているように思えました。ベラをとりまくこうした関係性は、血縁的な家族とは異なる親密な関係にも見えます。本作が、ベラの成長物語であると同時に、家父長制的な価値観や構造的な性差別を脱臼し、彼女をコントロールしようとする者たちの権力や偏見を崩していく物語として展開することができたのは、こうした基盤があったからかもしれません。

ダンカンと「有害な男らしさ」

長尾:そんなベラはダンカンと駆け落ちし、リスボンからのシーンが一気にカラフルになりました。リスボンではベラの好奇心が最高潮に達し、ファッションもますます解放的で色に溢れています。この頃のベラはどんどん能動的に選択し自分を解放していきますよね。

清水:そうですね。ベラが性に目覚め、家を出て「冒険」に踏み出すと、一気にスクリーンがモノクロからカラーに変わるシーンは印象的でした。

長尾:旅を通してどんどん自分らしさを確立して、自己表現をしていくベラに不安を覚え、ダンカンは船の旅で彼女を閉じ込め自分のものにしてしまおうとしますね。ナルシストで自己中心的、女性蔑視で所有欲の強い男のダンカンは、まさに「有害な男らしさ」を体現している存在でした。

清水:まさしくそうですね。そして、一言で「男性性」や「男らしさ」といってもじつは複数のレイヤーがあります。おっしゃるようにダンカンがナルシシストで自己中心的、女性蔑視で所有欲の強い男だとしたら、前夫であるブレシントンの方は、戦争を体験してPTSDを煩い、死に対する権利(殺す権利)を特徴とする君主制や家父長的権力によって他者をコントロールしようとする「有害な男らしさ」を持ち合わせていました。

「有害な男らしさ」は、性差別や暴力に結びつくものもありますが、他方でそれゆえに男性が自分の感情を抑圧し、他者に依存したり助けを求めたりすることを妨げるように働いてしまうこともあります。この意味では、ダンカンもブレシントンも覇権的な「男らしさ」から逃れられない存在ですよね。だからこそ、ステレオタイプな「らしさ」に囚われず生/性を謳歌するベラの存在が際立ちます。富も女も社会的地位—ブレシントンにいたっては人間としての脳—も失って破滅していく彼らの姿は、まさに「哀れなるもの」として浮かび上がってくるように思いました。

長尾:なるほど。脅しや説教をしてくる男性に屈せずに自分が思ったことを素直に語るベラを通して、「有害な男らしさ」の滑稽さや愚かさが見えてくると。

清水:おっしゃる通りです。ただし、男性性そのものは必ずしも有害なものだけではありません。アメリカのクィア理論家ジャック・ハルバースタムは「女性の男性性」について論じています。そこでは、思春期までは「お転婆」な女の子として許容されていた「女性の男性性」は、思春期以後、男性中心社会によって徹底的に抑圧され、「醜いもの」として排除されがちになると述べています。ベラの存在は、女性の男らしさ、あるいはオルタナティヴな男性性がどのような条件の下で可能になり、今後どのように再編していけるのかを考えるヒントにもなりそうです。

読書する女性、知性とジェンダー

長尾:確かに、この頃のベラは、大人の女性の見た目だけれど、内面はまだまだ少女的で、先生のおっしゃる「お転婆」と「醜いもの」のあいだを揺れ動いている感じがします。そんなベラは、船上で出会ったフェミニストのマーサに魅了され、大きな影響を受けました。

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督作品への出演でも知られる俳優のハンナ・シグラ演じるマーサは、ベラにゲーテやエマーソンなど19世紀の哲学者たちの本を勧めました。また、同時に出会うハリーには世界の光と影を教わります。ハリーによってアレクサンドリアに連れ出されたベラは、世界の貧困を思い知り、はじめて残酷な現実に直面するとともに、自分が持っている上流階級としての特権性にも気付かされます。

この一連の経験は、ベラにとって思想の目覚めとなる重要な転機であったといえます。どんどん理知的になり、社会に対して目を開いていくベラに、ダンカンはますます抵抗感を示します。先生は、本と女性の関係について、著書『ディズニーと動物』の中で、宇野木めぐみさんの『読書する女たち』を引用しながら、「女性読者とは小説を読んでいたずらに感情を高ぶらせている存在であり、女性読者は女性の美徳にとって有害な墜落を意味していた」(284P)と書いていらっしゃいますが、このあたりのベラの変化をどんなふうにご覧になりましたか?

清水:これは知性とジェンダーをめぐる問題でもあるのかなと思いました。本を書く女もそうですが、本を読む女たちもまた歴史的には厳しい状況が続いていました。たとえば、『美女と野獣』のベルは「本の虫」として描かれています。『美女と野獣』に関して言えば、もともと神話「アモールとプシュケー」、そして1740年にガブリエル= シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ(ヴィルヌーヴ夫人)が執筆したフランスの異類婚姻譚があり、その後1756年にジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモン(ボーモン夫人)が子ども向けに書き下ろしたことで、翻訳、映画、ミュージカルとして数多くのアダプテーションが誕生することになりました。

ディズニーアニメのなかで、ベルが「少し風変わり」な女として村人から忌避されるのは、彼女が本を読む女だからです。当初、ベルを「本の虫」にしようというアイデアは、動きがなくて退屈なので映画には向いていないのではないかと懸念されました。ですが、逆にアニメでは、村の道をよく知っていて、一時も本から目を離さずに歩き回るというオープニングの光景になります。一見すると小さな村に暮らす「知性のある女」を表象しているようにも見えますが、舞台となる18世紀には、「男性の読書」とは対照的に「女性の読書」は小説が感情を高ぶらせ、女性の「美徳」にとって有害な「堕落」を意味するものとされていました。

清水:ちなみにディズニーアニメの『美女と野獣』の中でベルが一番気に入っている本は冒険の物語。遠く離れた地に冒険に赴く主人公が、決闘し、魔法の呪文が唱えられ、そこで姿を変えられていた王子が登場する話です。つまりベルは自分がこれから体験する冒険を、小説の中であらかじめ読んでいると言えます。その構造はベラとも少し似ていると感じました。「野蛮」で未熟な存在として描かれていたはずのベラが、「良識」ある成熟したはずの男たちを困惑させる理知さを獲得していく。本を通じて自分の冒険を予兆する知性、必要不可欠な見識を身につけていくんです。それは彼らに都合のよい女たちを作り出してきた社会ではなかなか教えられることのなかったものでした。

老婦人のマーサによって出会った本の世界や、黒人青年ハリーと目の当たりにした貧富の差。こうした不公正な構造は、社会のなかでは隠蔽ないし不可視化されてきました。けれどもベラは、現実に目を向け、様々な物語や思考と出会い直し、思考する自由を獲得していきます。わかったつもりになって思考放棄をしたり、無知のままで止まったりするのではなく、どこまでも自分の感覚をもとに思考を編んでいく。それがベラの強さや独自性になっていくと感じました。

長尾:冒険を予兆する知性。たしかに、ベラはマーサやハリーから得た知識をもとに、あくまで自分の感覚で今後の人生を方向づけていきますね。

後編に続く

『哀れなるものたち』予告編

■『哀れなるものたち』
監督:ヨルゴス・ランティモス
原作:「哀れなるものたち」 
アラスター・グレイ著(ハヤカワepi文庫)
脚本:トニー・マクナマラ
製作:エド・ギニー p.g.a.
アンドリュー・ロウ p.g.a. 
ヨルゴス・ランティモス p.g.a.
エマ・ストーンp.g.a.
撮影監督:ロビー・ライアン BSC, ISC
プロダクション・デザイン:ジェームズ・プライス 
ショーナ・ヒース
衣裳デザイン:ホリー・ワディントン
ヘアメイクアップ&補綴デザイン:ナディア・ステイシー
音楽:ジャースキン・フェンドリックス
サウンド・デザイン:ジョニー・バーン
編集:ヨルゴス・モヴロプサリディス ACE
セット装飾:ジュジャ・ミハレク
原題:POOR THINGS
2023年度作品 / イギリス映画 / 白黒&カラー
ビスタサイズ / R18+
上映時間:2時間22分 
字幕翻訳:松浦美奈
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.

Photography Mika Hashimoto
Text & Edit Shinichiro Sato(TOKION)

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Girls’ Film Fanclub Vol.2 『パトリシア・ハイスミス』に恋して ゲスト:菅野優香(同志社大学教授)後編 https://tokion.jp/2023/12/26/girls-film-fanclub-vol2-part2/ Tue, 26 Dec 2023 10:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=219482 「Sister」代表の長尾悠美をホスト役に、TOKIONが送る映画連載、Girls’ Film Fanclub。第2回目は、クィア映画理論の菅野優香を迎え、パトリシア・ハイスミスの生涯に迫ったドキュメンタリー『パトリシア・ハイスミスに恋して』をテーマに語り合う対談の後編。

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(左)菅野優香(右)長尾悠美

(左)菅野優香
カリフォルニア大学アーヴァイン校博士課程修了(視覚研究)。現在、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科博士後期課程教授。専門は映画・視覚文化研究、クィア・スタディーズ。

(右)長尾悠美
渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアートを通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

セレクトブティック「Sister」の代表を務め、映画やアートにまつわる企画を積極的に行う長尾悠美をホスト役に、TOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第2回目は、クィア映画理論の専門家である菅野優香を迎え、映画「キャロル」などの原作で知られるアメリカの小説家、パトリシア・ハイスミスの生涯に迫ったドキュメンタリー『パトリシア・ハイスミスに恋して』をテーマに語り合う。

同性愛が禁忌とされた冷戦下のアメリカで、レズビアンとしてのアイデンティティに葛藤し、心の穴を埋めるように幾多の恋人と関わりながら名作を生み出してきたパトリシア・ハイスミス。映画監督のアルフレッド・ヒッチコックやトッド・ヘインズを魅了した作家が赤裸々に綴り続けた日記を紐解くことで見えてくるものとは?後編は、ハイスミスの人生と作品とをつなぐ日記、ハイスミスの人生をめぐる葛藤と恋、そしてハイスミスの代表作の一つ「キャロル」のエンディングから考える同性愛表象のあり方について。

前編はこちら

実人生と作品の媒介としての日記

長尾:ハイスミスはレズビアン小説を「ガールズブック」と呼んでいたようですね。「ガールズブック/彼女は同性愛を実践せずにはいられない/これは彼女の青さと身勝手さ、理性主義の成熟を描いた物語だ」という日記の抜粋が印象的です。先生はハイスミスの日記を読まれているとのことですが、ハイスミスにとって日記とはどんな存在だったと思いますか?

菅野:ハイスミスは生涯日記を書いていて、彼女が亡くなった後はそれらがスイスの図書館に保管され、後に編纂されて本となり刊行されました。あくまでも推測ですが、ハイスミスはどこかで人に読まれることを想定して日記を書いていたんじゃないかと思うんです。映画の中ではミーカーが日記を盗み見したことが同棲解消の原因になったと語られていましたけど、絶対に見られたくないものなら、絶対見つからない場所に保管するとか、肌身離さず持ち歩くとかするんじゃないでしょうか。それに亡くなった後も他人に読まれたくないのであれば、生前に処分することもできます。実際にそういう人は結構いますから。ハイスミスは、急に亡くなったわけではないので、その選択肢もあったんじゃないかと。

長尾:見られることを想定して日記を書いていたのかもしれないという視点は興味深いです。確かに映画の中で紹介されていた日記の内容も、読み手を意識していたともとれる文学的な言い回しが多いですね。

菅野:ハイスミスの日記は、彼女のハチャメチャな人生と、それと対比的な彼女の作品とを媒介するものかなとも思います。ハイスミスは徹底的に作家としての生き方を貫いた人なので、日記を含めて自分の作品と考えていたところもあるんじゃないでしょうか。もちろん作品ほどの完成度があるわけじゃないし、書かれていることも二転三転するので、内容をどこまで真に受けていいのかもわからないんですが、それを含めて面白いなと。ハイスミスは他の人を日記から遠ざけるために最初のページに呪いをかけたりして(笑)、その中には創作の秘密があるように見せるわけですが、実際に中身を読んでもその実像は掴みづらいんです。

長尾:日記が残っていたおかげでこの映画が生まれ、結果的にハイスミス作品と出会い直すきっかけを広く提供してくれていますね。私も本作を観た後にハイスミス原作の映画をいくつか見直しましたが、その全てに彼女の人柄を感じ、さらに作品に対する愛おしさが増したように思います。同時に、そんなハイスミスがこの映画を見たらどう思ったのかとも想像してしまいました。ファンとしては嬉しいですが、きっとハイスミスは耐えられないのではないかと(笑)

菅野:本人がいたら毒づいていたでしょうね(笑)今回の映画に関しても、ハイスミスのファンからしたら彼女がタイプライターを打っている執筆中の姿を見られただけでも見た甲斐があるのでは。ミーカーが自伝のなかでハイスミスの家に誘われた時のことを回想しているんですが、彼女はベッドと机だけの、他には何もない部屋に住んでいたようです。それでどんなに急でも空きがあるとわかると、タイプライターだけ持って船に乗り込んで、ヨーロッパへと旅に出かけていた。中流階級的な快適な暮らしをしようという考えがあまりなかった人なんじゃないかなと思います。

長尾:それなのに晩年、スイスにあんな大きい要塞のようなお屋敷を建ててしまうなんて、やることが極端ですね(笑)

菅野:そうなんですよ。でも、あの家も建てた後すぐに後悔しているんですよね。もともと住んでいたフランスの家を買い戻そうとして結局失敗したり、スイスは寒いとか寂しいとか言ったりして。いつもどこか不満なんですよね。

「私が小説を書くのは生きられない人生の代わり」

長尾:ドキュメンタリーの終盤の彼女の日記からの「私が小説を書くのは生きられない人生の代わり。許されない人生の代わり」という言葉からは、非常に切ない想いを感じました。ハイスミスは1990年にクレア・モーガン名義ではなく、パトリシア・ハイスミス名義で「キャロル」を再刊行していますね。母との親子関係の解消や数々の恋愛を経て心境の変化があったんでしょうか。

菅野:ハイスミスの名前で『キャロル』を出したのは亡くなる5年前ですね。レズビアンということの葛藤をずっと抱えて、その罪悪感や挫折感がずっと拭えず、自分はまともじゃない、ダメな人間なんだという思いはずっともっていたんじゃないかなと思います。

長尾:たくさん恋愛をしてきたというのは、誰かに認めてもらいたいという意識もあったんでしょうか。

菅野:そうかもしれません。でも結局付き合いは長く続かないし、別れてしまってひとりになったらまた寂しくなってレズビアンバーに行って。その繰り返しだった。

長尾:ちなみに映画の中には、ハイスミスが40代の頃に逢瀬を重ねたイギリス人のキャロラインという、顔が明かされない女性も登場しますが、この方について先生はご存知ですか?

菅野:映画の中で顔が明かされず、謎めいた女性として描かれているので、見る側としてはハイスミスが生涯をかけて愛した特別な女性と思ってしまうんですけど、自伝を読む限り、そういう相手は何人かいたようです(笑)むしろハイスミスは恋をするといつも「この人しかいない!」と思っていたようなところもあって。タベア・ブルーメンシャインとの失恋の時も傷ついて執筆ができないという状態になっていましたからね。でも、「キャロル」の直接のモデルとなったキャサリンという女性や、タベアと並んで、彼女の創作や人生に大きな影響を与えた人物の1人なんだとは思います。

「キャロル」のエンディングと同性愛表象のあり方

長尾:映画「キャロル」の話題が出たので最後にお聞きしますが、「キャロル」は、書かれた時代にしては珍しく、同性愛がハッピーエンドで描かれていますよね。歴史的に見て、同性愛の表象をめぐっては、叶わぬ恋やそれによって引き起こされる悲劇を描く作品が多く作られてきました。それは現実に起きていることを告発し、批判する効果がある一方で、その表象によって同性愛=周縁/悲劇という結びつきがあまりにも強くなり、社会における異性愛中心の価値観を結果的に強化してきてしまった、とも言える気がします。近年はクィアやLGBTQIA+の方達をエンパワーするようなポジティブな作品もかなり増えていると思いますが、菅野先生は、今そして未来に向けた性的マイノリティの表象のあり方について、どのようにお考えですか?

菅野:私は悲劇的な関係性やうまくいかない関係性を描くことも全然ありだと思っています。クィア・シネマは、さまざまな欲望やどうにもならない関係性、そしてセクシャリティのおぞましさなど、直視したくないものも描くことができる。クィアであることやLGBTQIA+であることが何も障壁にもならない世界を描くことも、もちろん必要だとは思うんですが、全部がポジティブになればそれでいいとは思いません。生きていく中で経験する差別など、マイノリティの経験を赤裸々に描くことがあってもいい。あるものをない、そして辛いことを辛くないと言う必要はないと思うんです。

マリジェーン・ミーカーの「Spring Fire」が出版された1950年代〜60年代のアメリカは、同性愛は社会的に認められておらず、当事者は公的な仕事に就けないし、職場でバレたらクビになってしまう時代でした。そのため、その頃の作品は、当局による事実上の検閲と出版社の自主的検閲のため、悲劇で終わらせなければ出版さえできなかったという事情がありました。

「キャロル」のあのエンディングについても、ハイスミス自身が初めからハッピーエンドを書こうとしたのではなく、編集者からの提案を受けてあの形になったと書いてある本もあります。ただ、彼女は自分の意に反する意見を呑んで筋書きを変える作家ではないと思うので、良い編集者との出会いがあったんだろうなと想像します。あのエンディングは素晴らしいので、結果的にああなってよかったと思っています。

長尾:それこそ前回取り上げたウルリケ・オッティンガーも、現実に起きていることから目を背けてはいけないという問題意識のもと、それらを皮肉やユーモアなどに包みながら描いていましたね。

菅野:そうですね。悲劇を描くとしても、それをどう批評的に描くかが重要ではないでしょうか。例えば性的マイノリティが死んでしまうエンディングを描くとしても、それを単に避けられない運命として描くのではなくて、「こういう現実ってどうなの?」と観客に投げかけるような批評的な視点を持って表現する。それがあれば死を描くことにも意味があるのではないかと思います。

長尾:ここ数年色々な映画を見てきて、見る側に解釈を委ねるようなエンディングを描く監督が多いなと感じますね。見た人によって受け止め方が割れるような作品がたくさんあるなって。自分自身も、そういうものに対してどう思ったかを人と共有したりすることが大切なんじゃないかなと思います。

菅野:「キャロル」についても、ハッピーエンドっぽく終わりはするけれど、若干どうなるかわからない部分もありますよね。「この2人、本当にうまくやっていけるのかな」と心配になったりもしますし(笑)

それに加えて1つ思うのは、映画ってエンディングで語られる傾向にあるんですけど、その他にも強烈な印象を残すシーンってあるじゃないですか。そういう部分に注目するのも面白い。だからこそ、エンディングと同じくらい1シーンずつの強度も大事なんです。これはクィア・シネマに限った話ではなく、映画全般に言えることだとは思いますが。ただ冒頭で話したように、「生成すること」や「変化すること」がクィアの特徴でもあるし、カチッと決まり切ったものに対する抵抗としての「クィア」の側面を考えると、映画の中盤でグチャッとしたカオスが生まれるような作品もそれはそれで面白い映画のあり方だと思いますね。

長尾:なるほど。それも「クィア・シネマ」の一つのあり方ということですね。今回は菅野先生のハイスミス愛に溢れた興味深いお話をたくさん聞かせていただき、本当に嬉しかったです。このような素晴らしい機会をありがとうございました!

映画『パトリシア・ハイスミスに恋して』予告編

『パトリシア・ハイスミスに恋して』

監督・脚本:エヴァ・ヴィティヤ 
ナレーション:グウェンドリン・クリスティー
出演:マリジェーン・ミーカー
   モニーク・ビュフェ
   タベア・ブルーメンシャイン
   ジュディ・コーツ
   コートニー・コーツ
   ダン・コーツ 
音楽:ノエル・アクショテ 
演奏:ビル・フリゼール
   メアリー・ハルヴォーソン

2022年/スイス、ドイツ/英語、ドイツ語、フランス語/88分/カラー・モノクロ/1.78:1/5.1ch 

原題:Loving Highsmith 
字幕:大西公子 
後援:在日スイス大使館、
   ドイツ連邦共和国大使館 
配給:ミモザフィルムズ
© 2022 Ensemble Film / Lichtblick Film  
【Web】https://mimosafilms.com/highsmith/

Photography Mika Hashimoto
Text / Edit Shinichiro Sato(TOKION)

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Girls’ Film Fanclub Vol.2 『パトリシア・ハイスミスに恋して』ゲスト:菅野優香(同志社大学教授)前編 https://tokion.jp/2023/12/23/girls-film-fanclub-vol2-part1/ Sat, 23 Dec 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=219462 「Sister」代表の長尾悠美をホスト役に、TOKIONが送る映画連載、Girls’ Film Fanclub。第2回目は、クィア映画理論の菅野優香を迎え、パトリシア・ハイスミスの生涯に迫ったドキュメンタリー『パトリシア・ハイスミスに恋して』をテーマに語り合う。

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(左)菅野優香
カリフォルニア大学アーヴァイン校博士課程修了(視覚研究)。現在、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科博士後期課程教授。専門は映画・視覚文化研究、クィア・スタディーズ。

(右)長尾悠美
渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアートを通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

セレクトブティック「Sister」の代表を務め、映画やアートにまつわる企画を積極的に行う長尾悠美をホスト役に、TOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第2回目は、クィア映画理論の専門家である菅野優香を迎え、映画「キャロル」などの原作で知られるアメリカの小説家、パトリシア・ハイスミスの生涯に迫ったドキュメンタリー『パトリシア・ハイスミスに恋して』をテーマに語り合う。

同性愛が禁忌とされた冷戦下のアメリカで、レズビアンとしてのアイデンティティに葛藤し、心の穴を埋めるように幾多の恋人と関わりながら名作を生み出してきたパトリシア・ハイスミス。映画監督のアルフレッド・ヒッチコックやトッド・ヘインズを魅了した作家が赤裸々に綴り続けた日記を紐解くことで見えてくるものとは?対談の前編は菅野優香が提唱する「クィア・シネマ」というコンセプト、ハイスミスの代名詞となったリプリーというキャラクターと「ダブル・アイデンティティ」、そしてレズビアン・サブカルチャーとしての「ドラァグ」の実践について。

視点と手法としてのクィアシネマ

長尾: 2023年3月に倉敷芸術科学大学の川上幸之介先生の協力のもと、Sister主催でゲリラガールズの展覧会を開催したんですが、菅野優香先生は、そこで展示した10作品のテキストの翻訳を手掛けてくださっていて。その時からのご縁です。

菅野:そうですね。その時は直接はお会いできなかったのですが、私も長尾さんとはお話してみたかったので、今回こうしてお話しできて嬉しいです。

長尾:菅野先生は2023年4月に「クィア・シネマ -世界と時間に別の仕方で存在するために-」を刊行されています。私がたまたま京都を訪れた際に、出町座という映画館でこの書籍を見かけて購入し、読ませていただきました。個人的にこの本にはとても影響を受けまして、映画についての私の新たな視点を開いてくれたと思っています。今一度、「クィア・シネマ」とはどういうものの見方、概念なのか、先生の言葉でご説明いただけますか。

菅野:クィア・シネマを考える上では、当然ですが「クィア」とは何かということが大切になってきます。クィアは、良くも悪くもとらえどころがなくて、常に変化するものであり、少し専門的な言葉を使うとすれば「生成する」もの。LGBTQIA+の概念と重なる部分もあるけれども、クィアはより「視点」や「方法論」として考えることが多いです。

つまりクィアとは、ジェンダーやセクシュアリティに関する用語、カテゴリー、そして常識に対して、「それって本当なの?」と問い返すような視点であり、その常識が「間違っている」のであれば、それとは違う形をいかに見出せるかを探る方法論でもあると考えています。

その前提には、今の社会の状況が全くもって十分じゃないという認識があって、だからこそクィアは、変化すること自体、そして、もっと良いものになる可能性自体を表しているとも思っています。女性とは?男性とは?異性愛者とは?シスジェンダーとは?トランスジェンダーとは?そんなことを根本から問いつつ、異性愛規範、つまり人は異性愛であるべきだという考え方を問い直すことがクィアにとっては重要です。だからこそ、他者との親密な関係や欲望、あんなふうになりたいという強い思いを、映画を通して考えることがクィア・シネマにとって大切だと思っています。

長尾:なるほど。自分のことを少しお話しさせていただくと、私は地方出身で、文化に疎い家庭で育ったので、地元にいた頃は、まさにハリウッドを中心とした映画産業の中で作られた異性愛主義的なエンタメを消費してきたんです。ただそんな自分も、作品の中で常に男女のハッピーエンドが描かれることに対してどこか違和感を感じてきたのは事実で、上京してから知った様々な作品を通して、多様な世界観に触れて安心したような感覚になりました。そんな中、メジャーからマイナーまで様々な映画をクィアな視点で分析されている菅野先生の「クィア・シネマ」を読んだことで、また新たな方法で映画に向き合えると思えたんです。

菅野:映画は近代のテクノロジーとして発展してきた装置ですが、同時に、ジェンダーやセクシュアリティ、そして人種のテクノロジーとして発展してきた側面もあります。映画が生まれた当初から、近代家族や男女の恋愛など、常に異性愛的なモチーフが描かれてきましたし、観客はそれらを通して様々な規範を教えこまれてきました。それは今の時代でも言えることです。

ただ一方で、映画はそういった規範を転覆させる力も持っているんじゃないでしょうか。一見ヘテロセクシャルな恋愛を描いていたとしても、その中に実はクィアな瞬間や可能性が隠されていたりする。映画はそういうことができるメディアでもあります。長尾さんがおっしゃるように、主流映画にはジェンダー、セクシュアリティ、人種などに関する規範が詰め込まれているのも事実ですが、同時に、それらを転覆させ、組み替えることができるような要素も含まれていて。クィア・シネマという視点を通して映画を見ると、そういうものが見えてくる面白さもあります。

長尾:私も先生の本を手引きに、パトリシア・ハイスミス原作のヒッチコック映画「見知らぬ乗客」を改めて見たんですが、菅野先生が書かれているように、実は主流映画にも規範に抗うような瞬間が隠されているんだなと感じることができました。

「女性を愛する女性にとって最悪の時代」を生きたハイスミス

長尾:さて早速、今回のテーマである「パトリシア・ハイスミスに恋して」についてお話していきたいと思います。本作は、ハイスミスのパーソナルな日記を紐解く中で、ハイスミス個人と、作家としての彼女の姿が対比的に描かれています。ただ一方で、実はそれぞれの作品が彼女のパーソナルな部分ともリンクしていると感じさせられました。なんでも菅野先生はパトリシア・ハイスミスのファンでいらっしゃるとか。

菅野:好きすぎてあまり語ってきていないんですが、実は大ファンです。この映画も日本で配給が決まる前に見ていて。在外研究員として2018年から1年間ニューヨークに住んでいたんですが、その時にグリニッジ・ヴィレッジを含め、ハイスミスゆかりの場所や、作品の舞台になっているところなどを訪れて「ハイスミス詣(もうで)」をしていました(笑)映画のもとになった日記やノートをまとめた本も、その前に出版されていたジョーン・シェンカーやアンドリュー・ウィルソンの書いたハイスミスの伝記本も読みました。

長尾:そうだったんですね!お話をうかがうのが楽しみです。映画では、ハイスミスがレズビアンとしての自覚を持ちながらも時代の価値観に翻弄されて罪悪感を抱いていたこと、そして自身のアイデンティティをめぐって母との大きな確執を抱えてきたことが描かれています。そういった経験が作品にも大きな影響を与えているんでしょうか。冷戦の中、ラベンダーの恐怖*1が起こった当時のアメリカでは、同性愛者として創作すること自体が容易ではなかったんでしょうね。

菅野:ハイスミスは、作家であることとレズビアンであることが分かち難く結びついていた人だと思います。彼女は1921年生まれなので、冷戦が始まる頃(1940年代後半から50年代)に自分のアイデンティティを見出していったわけですが、「レズビアンの歴史」(筑摩書房 1996)の著者であるリリアン・フェダマンによれば、その時代は「女性を愛する女性にとって最悪の時代」だったと。レズビアンであることを絶対に隠さなきゃいけないような時代を、ハイスミスは生きていた。彼女自身も精神分析に通ったりして、異性愛者になろうと努力はしましたが、結局異性愛者にはなれませんでした。

そんなふうに時代の価値観に翻弄され、葛藤していたんですが、その反面で人種やジェンダーの規範を大いに内面化していた部分もあって。「リプリー」の中で主人公のトム・リプリーが思いを寄せる、青い目をした巻毛の裕福な青年・ディッキーの描写にも彼女のフェティシズムが色濃く表れていますし、彼女自身が私生活で好きになる人も、「見た目の良い」白人の女性たちがほとんどでした。ハイスミスはとても魅力的な作家である反面、人種主義や女性蔑視の傾向を持つ人でもあったんです。

長尾:映画の中にも、晩年は日記の中に人種差別的な言葉が目立ち始めたとありますね。若い頃から積み重なった葛藤や取り込んできた規範が、表面化したものとも言えるのかなと思いました。彼女はもともと南部の生まれで、そこからニューヨークに移りましたよね。映画の中では、幼少期のハイスミスが黒人の男の子と手を繋いでいたのを見た母親と祖母が激昂し、別の学校に転校させたというエピソードが紹介されていますが、そのような保守的で、人種差別的な母親と祖母の影響は大きかったんでしょうか。

菅野:そう思います。でもそれと同時に、家族や「生まれ」には還元できない彼女自身が培った人種主義的な考え方があるんじゃないかとも思うんです。教養のある家に生まれた人は別かもしれませんが、たいがい親に代表される「上の世代」というのは時代錯誤なことやトンチンカンなことを言うものじゃないですか。でもいくら親とは言え、おかしいと思うこともあるし、大人になったら、この人たちとは意見が違うなと線引きできるときがくると思うんです。

ハイスミスは思慮深いところもあるし、ヨーロッパに住んでアメリカを相対化させられる場所にいたわけですから、保守的な考え方から脱却することもできたはずだけど、それをしなかった。もちろん彼女の出自が無関係ではないにせよ、そうした価値観を持ち続けたのは、自分自身の責任とも言えるのではないかと思います。

「リプリー」とダブル・アイデンティティ

長尾:今のお話にも登場した「リプリー」は、彼女の代名詞となったキャラクターであり、ハイスミス自身の生き写しだとも語られていますね。先生はトム・リプリーというキャラクターをどう見られていますか?

菅野:私は文学の専門家じゃないので、あくまで1人の読者としての感想ですが、ハイスミスは「リプリー」という男性に同一化して初めて創造的に作品を作れたんじゃないかと思うところがあります。リプリーをはじめ、複雑で狂気すれすれとも言える魅力的な男性キャラクターに比べて、ハイスミスが描く女性は、人の体型を揶揄する意地悪なキャラクターや、自立していない面白みのないキャラクターが多いんです。それはハイスミスが内面化していたある種のミソジニー(女性嫌悪)の現れのようにも感じられて。実際に「女性は不完全な存在だ」という趣旨の発言もしていますし。

だから、自分自身が男性になること、リプリーになること、いわば「ダブル・アイデンティティ」というものに魅力を感じたんじゃないかと。「ダブル・アイデンティティ」はハイスミスを考える上でとても大事なテーマだと思っています。例えばリプリーがディッキーになりすますことだけでなく、長編第1作目の『見知らぬ乗客』でも、ガイとブルーノの「ダブル・アイデンティティ」が示唆されていたり。ハイスミス自身も長い間レズビアンであることと、作家であることの「ダブル・アイデンティティ」を保持していたのではないでしょうか。

また彼女は、英語の他にもフランス語やドイツ語、スペイン語を使って日記を書いていました。言語を切り替えることで、別の人になりきっていた側面もあるんじゃないかと思うんです。リプリーがディッキーになりすますように、ハイスミスもまたドイツ語やフランス語で日記を書いてドイツ人やフランス人になりすましたり。そういう普段からの「ダブル・アイデンティティ」の実践が、リプリーの着想に繋がったんじゃないかと想像しています。

長尾:それは面白いですね。女性たちが不自由な環境に置かれていたからこそ「もし自分が白人男性だったら」ということに憧れを強く抱き、男性キャラクターへの想像力が大いに働いたんでしょうか。そういう意味で、リプリーは彼女の理想や欲求が詰め込まれた存在なのかもしれませんね。

菅野:そうですね。彼女のどこかマスキュリンな装いは、そういう「男性」への憧れも関係していたのかなとも思います。

レズビアン・サブカルチャーと「ドラァグ」

長尾:マスキュリンな装いと言えば、モニーク・ビュフェ(ハイスミスの元恋人)は「ドラァグ」について映画の中で言及していました。レズビアン・バーを中心にして行われてきた「ドラァグ」は、男性的な服に身を包むだけでなく、男性役の人が皆の飲み代を奢ったりすることも含んでいるようですね。それは男性が伝統的に担うとされてきた社会的な役割を茶化しつつロールプレイすることで、固定化したアイデンティティやジェンダーロールを錯乱させるような面白い実践だと改めて感じました。

菅野:おっしゃる通りです。1950年代のニューヨークのレズビアン・バーはマフィアが仕切っているところが多く、出入りする人は労働者階級の人たちがほとんどでした。そこにあったのがブッチ/フェム文化*3でした。それは単に異性愛を模倣しているのではなく、それをパロディ化していて。本人たちは「私は、シスジェンダーのヘテロ男性よりも『男性』らしく振る舞うことができる」というプライドを持って大真面目に「ドラァグ」をしていたと思うんです。だからこそ、ブッチはたとえ一文なしだったとしても、メンツを保つために、パートナーからお金を借りて彼女の飲み代を出したりするような「男らしさ」を演じることもあったし、フェムの人たちは、男らしさをアピールしたいパートナーの気持ちを慮って、ブッチのそういう体面を守ってあげたり。ある意味、自分たちは男性とは同じ立場にいないことをわかっているから、彼女たちは異性愛的な役割分担をずらしながら行う。そういう文化を当時のレズビアンたちが発展させたのは、とても興味深いですよね。

長尾:そんなニューヨークのレズビアン・バーで知り合い、一時期生活を共にしていたのがこの映画でも登場するマリジェーン・ミーカーですね。彼女の言葉もまた、当時のレズビアン・コミュニティについて知る貴重な証言だと感じました。

菅野:ハイスミスはとにかくバーが好きだったようで(笑)マリジェーン・ミーカーと初めて出会った日も、グリニッジのエルズというバーに1人で繰り出して、ジンを飲んでいたそうです。

ハイスミスがクレア・モーガン名義で『The Price of Salt』(『キャロル』の原題)を発表した1952年に、マリジェーン・ミーカーも『Spring Fire』というレズビアン・パルプフィクション*2を代表する作品を発表してベストセラーになりました。ある意味では、レズビアンカルチャーにおいてはむしろハイスミスよりもミーカーの方が重要な存在と言ってもいいくらいで。ポリアモリーを自認していたハイスミスは、ミーカーと同棲していた期間も色んな人に会っていたみたいですけどね。

ハイスミスは次々に恋人を作るけれども、すぐに「執筆には孤独が必要」などと言って恋人の存在が疎ましくなる。彼女の日記では、いつも相手が悪いことになっているんですが、きっとそんなことはなくて(笑)惚れっぽくて最初は相手に熱を上げるけれど、結局小説を書くことが優先になって、そのために「ひとり」になりたいという身勝手な部分があって。すごく人間的とも言えますが。

長尾:作家としての彼女のイメージとのギャップがすごい(笑)そんなふうに数々の女性たちと恋愛関係にあったハイスミスですが、この連載でも前回取り上げたウルリケ・オッティンガー作品での出演で知られるタベア・ブルーメンシャインとも関係があったことにも驚きました。この出会いもレズビアン・バーのコミュニティが起点となっていたようですね。

菅野:そうですね。ドキュメンタリーの中で、タベアを主演にたてて「リプリー」の映画を撮る構想があったことが紹介されていましたが、ぜひ見てみたかったですよね。タベアはオッティンガーにとってもミューズでしたし、単に「美形」ということではなくて、内面もぶっ飛んでいたからこそ、女性作家たちの感性を刺激するものがあったんでしょうね。

後編に続く

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*1 ラベンダーの恐怖:
20世紀半ばに同性愛者の大量解雇につながった、アメリカ政府内の同性愛者に対するモラル・パニック。マッカーシズムを背景に、ゲイやレズビアンは国家安全保障上のリスクや共産主義者のシンパであると言われ、彼らを国家公務員から排除しようという呼びかけにつながった。

*2 レズビアン・パルプフィクション:
レズビアンをテーマにした20世紀半ばのペーパーバック小説やパルプ雑誌を指す。1950年代から1960年代にかけてレズビアンのための、あるいはレズビアンにまつわる文学はほとんどなかったため、一般大衆(レズビアンであろうとなかろうと)がレズビアンとは何かを認識するための唯一の参考文献が、これらの本であったことも少なくなかった。

*3 ブッチ/フェム文化:
レズビアンのサブカルチャーで使用される用語で、男性的(ブッチ)または女性的(フェム)なアイデンティティとそれに関連する特徴、行動、スタイル、アイデンティティなどを認識するために使用される。

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映画『パトリシア・ハイスミスに恋して』予告編

『パトリシア・ハイスミスに恋して』

監督・脚本:エヴァ・ヴィティヤ 
ナレーション:グウェンドリン・クリスティー
出演:マリジェーン・ミーカー
   モニーク・ビュフェ
   タベア・ブルーメンシャイン
   ジュディ・コーツ
   コートニー・コーツ
   ダン・コーツ 
音楽:ノエル・アクショテ 
演奏:ビル・フリゼール
   メアリー・ハルヴォーソン

2022年/スイス、ドイツ/英語、ドイツ語、フランス語/88分/カラー・モノクロ/1.78:1/5.1ch 

原題:Loving Highsmith 
字幕:大西公子 
後援:在日スイス大使館、
   ドイツ連邦共和国大使館 
配給:ミモザフィルムズ
© 2022 Ensemble Film / Lichtblick Film  
【Web】https://mimosafilms.com/highsmith/

Photography Mika Hashimoto
Text / Edit Shinichiro Sato(TOKION)

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Girls’ Film Fanclub Vol.1 ウルリケ・オッティンガー監督『アル中女の肖像』ゲスト:斉藤綾子(明治学院大学教授)後編 https://tokion.jp/2023/10/13/girls-film-fanclub-vol1-part2/ Fri, 13 Oct 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=211247 「Sister」の長尾悠美をホストにTOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目はフェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子を迎え、ウルリケ・オッティンガー監督の代表作『アル中女の肖像』にフォーカス。後編では作品のディテールに迫る。

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(左)斉藤綾子(右)長尾悠美

(左)斉藤綾子
東京都生まれ。上智大学文学部心理学科卒業。サントリー(株)勤務を経て、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) 映画テレビジョン学部批評学科博士課程修了 (Ph.D)。明治学院大学教授。専門は映画理論、フェミニズム映画批評。フェミ・ジャーナル誌『ふぇみん』の映画評を担当している(隔月)。

(右)長尾悠美
渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアートを通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」の代表を務め、他にも映画やアートにまつわる企画を積極的に行う長尾悠美をホスト役に、TOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目は、フェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子をゲストに迎え、唯一無二のクィアな映像世界で知られるドイツの映画監督ウルリケ・オッティンガーの代表作『アル中女の肖像』(1979年)にフォーカスを当てる。

冷戦下のベルリンが舞台の『アル中女の肖像』は、『タブロイド紙が愛したドリアン・グレイ』、『フリーク・オルランド』と並んで同監督の「ベルリン三部作」として知られる。ジャーマン・ニューシネマの旗手、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーをして「最も美しいドイツ映画」と称賛せしめた本作は、主人公の「彼女」がベルリンの街を歩き回りながらひたすら酒を飲み続けるという至極シンプルな映画だ。しかし、だからこそ隅々にまで散りばめられた社会への鋭い洞察や風刺、実験精神やユーモア、そして主演のタベア・ブルーメンシャインの装いの美しさが際立ち、観るものを魅了してやまない。近年、再評価の機運が高まり、日本でも渋谷のユーロスペースでの上映を皮切りに、現在も全国で順次公開中だ。

ファッションを軸にさまざまな活動を続ける長尾と、1980年代にアメリカでフェミニズムに触れ、アカデミックな現場で映画を論じてきた斉藤は、オッティンガーの名作をどう観たのか。自分たちの人生にも引き寄せながら、その色あせない魅力や価値、そして今の時代に生きる私達に投げかける問いの数々について自由に語り合う。対談後編は、『アル中女の肖像』のなかで様々な示唆を含む視覚的効果やリファレンス、作品が喚起する「映画は窓か、それとも鏡か」という議論、そしてオッティンガー独自のユーモアが持つ力について。

記事前半はこちら

※記事内には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

『アル中女の肖像』にちりばめられた視聴覚的効果

長尾:それでは『アル中女の肖像』の中身についても先生のお話をうかがっていこうと思います。本作でまず印象的なのは主人公を演じたタベア・ブルーメンシャインの存在感とその自由な装いです。作品の中に視覚的に訴えかけてくるものがとても多いなと感じました。

斉藤:そうですね。これはオッティンガーがまず画家であったことが大いに関係しているでしょう。画面の中に色彩や視覚的要素を入れ込んでいく彼女の画作りは、ドイツ映画史の文脈からすると「表現主義的」と形容できるかもしれません。映画序盤、タベアは赤や黄色などの鮮やかな原色の衣装に身を包んでいますが、映画が進んで徐々に彼女が崩壊していくにつれて、衣装もどんどん色を失っていくんですよね。

長尾:言われてみると確かにそうですね。それから作品の中に、窓ガラスの表面に水などの液体がかけられて、そのガラス越しに被写体がにじんで見えるような描写が頻繁に登場していて印象的だったのですが、斉藤先生はあのシーンをどうご覧になりました?

斉藤:そうですね。液体と窓の描写は『フリーク・オルランド』でも登場しますし、私もおもしろいイメージだなと感じました。オッティンガー自身がどういう意図で撮っているのかはわからないですが、私は「映画は鏡か、それとも窓か」という映画を取り巻く1つの議論を思い出しました。それは映画という存在を、社会をありのままに映す透明な窓と考えるのか、もしくは自己言及的に自分(作者)を映す鏡ととらえるか、という映画に対する見解の違いによって起こるものです。透明な窓を通して、観客に対してあたかも窓がないかのようにイメージを見せるのか、それとも窓の存在を明らかにして、実はそこに媒介しているもの、つまりはバイアスが存在していることを意識させるのか。そういうことを考えさせられるイメージだなと。液体がかかると、観客は目前のイメージとの間には透明なガラスが介在してきたことを改めて意識しますからね。

長尾:それから、ガラスが割れる音や物をぶちまける音、主人公のタベアのヒールの音など、この映画において「音」の要素もとても重要だと感じました。特に、オープニングもエンディングもヒールの音が印象的に響いていますね。

斉藤:そうですね。パンフレットにもありますが、オッティンガーは音をとても重要視する監督でもあります。あらためて考えてみると、ヒールの音は「女性性」を象徴するものであり、この映画の中では主人公の存在そのものを象徴的に示すものでもある気がします。序盤は小気味よく、リズミカルに響く彼女の足音が、彼女が崩壊していくにつれて乱れていくんですよね。そして最終的に、鏡に囲まれた空間の中、ヒールでその鏡を割りながら奥へと歩いていく。それは彼女が自分そのものの中に入り込んでいき、自分自身を壊していくようにも見えましたし、それがある種の解放につながるのかなとも思ったりもしました。

実はこの映画のハイヒールの音からシャンタル・アケルマンの『アンナの出会い』(1978年)を思い出したんです。『アンナの出会い』もまた、オープニングはヒールの音で始まりますしね。アケルマン作品の中にも『囚われの女』(2000年)をはじめ、ヒールの音が効果的に使われている作品は多いんですよ。

長尾:確かに!『ゴールデン・エイティーズ』(1986年)のオープニングのヒールの音も印象的ですよね!

斉藤:そうですね。もしかすると、「毅然とした女性」のイメージを音で表そうとすると、それはヒールの音なのかもしれません。たった一人、孤独に歩く女性のイメージ。屋内に留まっていない女性。とても映画的です。

『モロッコ』と『アル中女の肖像』が描く異なる女性像

長尾:話は少し変わって、私自身、上京してすぐの頃に、ドイツ人の女優で歌手でもあったマレーネ・ディートリッヒを知り、とりこになりました。彼女の音楽を聴いたり、出演した映画を観たりする中で、そのファッションからも大きな影響を受けて。「Sister」の初期の頃に、ディートリッヒをオマージュしていた時期もあったくらいです。斉藤先生がパンフレットに書かれていたことによると、『アル中女の肖像』の中に、ディートリッヒが出演した『モロッコ』(1930年)などを参照している部分があるとのことですが、そのあたりを少し詳しく聞かせていただけますか?

斉藤:これは私も関連する文献を読んでいるなかで発見したことなんです。ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督とマレーネ・ディートリッヒが組んで1930年に公開された『モロッコ』は、字幕映画の第1号として日本でも公開されてヒットしましたし、私も大好きな映画で、彼女が男装して歌うシーンも有名です。

『アル中女の肖像』の冒頭で、タベア演じるアル中女がフランス語で「Aller jamais retour (=二度と戻らない)」と言ってベルリンへの片道航空券を買うんですが、『モロッコ』でも、ディートリッヒ演じる歌手のアミー・ジョリーが冒頭、モロッコへ向かう船に現れた時、彼女のような女たちは「片道切符だけで二度と戻って」こない「自殺志望者」と呼ぶと船長が言うんです。もう1つはラストシーンなんですが、『モロッコ』で行軍するトム(演:ゲイリー・クーパー)の部隊を追って、アミー・ジョリーが砂漠の中を延々と歩いていく後ろ姿が映し出されます。その時、彼女はずっと履いていたハイヒールを脱ぐんですよね。先ほどハイヒールは「毅然とした女性」を象徴すると言いましたが、主人公のアミーが男性のもとに向かうためにヒールを脱ぐということが、彼女自身の変化を表していると言うこともできます。一方で『アル中女の肖像』のラストでは、主人公は酒でボロボロになりながら1人で背を向けて鏡の中へと歩いていく。その後ろ姿のイメージは『モロッコ』にも重なりますが、彼女は歩くのもままならない状態なのに最後までハイヒールを脱がなかった。その対比はとても示唆的でおもしろいと思います。

長尾:確かにおもしろいですね。オープニングとラストシーンにそれぞれ『モロッコ』のレファレンスが含まれているのも興味深いです。

斉藤:1920年代のワイマール文化の中にあったベルリンは、文化的にとても豊かで、まさに芸術の街。劇場が50館近く、映画館も300館以上、キャバレーが70軒以上、そして数えきれないほどのカフェもあったと言われ、男装が流行、同性愛者も多くいました。こうした豊かな文化はナチ時代に消失し、戦後でもドイツでは同性愛を禁止する刑法175条という法律が撤廃されずに1994年まで残っていました。加えて70年代初めドイツではテロリズムなどが起こり、社会状況は混乱していました。そんな中で『アル中女の肖像』を作っていたオッティンガーが『モロッコ』などの作品を参照したのは、ディートリッヒが体現した1920年代のワイマール文化やベルリンへの憧憬、そして作中に登場する彼女の魅力的な男装姿にあらためて美を見出したことの現れなのかもしれません。

「良識」「社会問題」「正確な統計」が私たちに問うもの

長尾:それから、アル中女と対比をなすように一貫してグレーの服に身を包み、彼女に付きまとう「良識」、「社会問題」、「正確な統計」という3人の女性達もこの映画を象徴する存在ですよね。

斉藤:そうですね。これは監督自身が語っていることかもしれませんが、「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人の言葉は、私達が社会の中で押し付けられる制約や、否応なく内面化させられている声なのかなという気がします。そしてそれは、タベア演じる「彼女」がなぜあんなふうに酒を飲み続け、破滅に向かっていくのかという部分につながっていて。つまり、それらに耳を貸さないために、彼女は言葉も話さないし、酒を飲み続けるんじゃないかと。そうやって「社会の規範」にギリギリまで抵抗するけれども、最終的には彼女自身も色を失い、崩壊してしまう。そんなふうに感じましたね。

長尾:私も「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人の言葉で気になる言葉がたくさんありました。例えば「急に自立した女は不安になりやすい」や「女性が人前で酔うなんて」とか。それから「今もはびこるダブルスタンダードで男性が酩酊しても『男らしい』と肯定的に見られる一方で、女性が酔うと下品で不快とされてしまう」とか、「同性愛のサブカルチャーって余暇の文化なのよね」など。

斉藤:日本でも、こんなことを言う人は未だにたくさんいますよね(笑)。

長尾:社会に出てから大きな仕事を成し遂げた時に、目上の男性に「女の割にはよくやった」と褒められたことがあって(笑)。皮肉っぽい人だったので、それは彼の中では最大限の賛辞だったとは思うんですが、すごくモヤっとしました。それから、東京でファッションの勉強をしたいと言った時も、「女のくせに東京に出るなんて、何を考えてるんだ!」と祖父に怒られたことも。そういう言葉が投げかけられる環境で生きてきたからか、自分に自信はあるんだけど、どこかでその言葉が自分の中に根付いてしまっているところもあって。だから主人公の気持ちはすごくわかるなと思ったんです。

斉藤:そうですね。日本では未だに80歳くらいの重鎮達がいつまでも引退せずに政治を仕切っていますからね。ただ、世代が変われば価値観がすぐに変わるかというとそう単純な話でもなく、戦い続けなきゃいけないのか、と途方にくれたりします。でも反面、若い世代の男性達の考え方がかなり変わってきていることは希望でもあって。難しいのは、そういう人達もいざ家庭に入って子どもを育てるフェーズになった時に、我が子がなるべく社会で生きやすいようにと処世術を教えたくなっちゃうんですよね。社会の中で自分の主張を通して反抗し続けるのはとても大変ですから、どうしても保身に向かいがち。とにかく、この3人の言葉というのは今言われても全然おかしくないし、口に出さなくてもそんなふうに見ている人は未だにたくさんいるなと思わされますね。

長尾:思い返してみると、こういう言葉って常に身近にあったなと。言われてきた言葉は決して無くならないけれど、大人になってオッティンガーの映画や、いろんなフェミニストの方達の著作に触れて、「あの言葉はおかしい」と言ってもらえたことで、その言葉を真に受けずに済むようになったというのはありますね。オッティンガーは常に主人公の「彼女」に付きまとう「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人にあえてそういう言葉を言わせることで、その言葉がいかに人を傷つけるかを示してくれていると感じました。

斉藤:おっしゃる通りです。ネガティブなものは語らず、無かったことにするというやり方もありますが、それって実はすごく全体主義的でもある。オッティンガーはそういう態度を嫌いました。それは彼女とも親交のあったライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の考え方にも共通するところです。彼等は、現実に起こっていることから目を背けずに描かなきゃいけないという考えのもと、それをどうやって寓話やファンタジーの形で観客に見せるかということに注力しました。目を向けたくないような現実や社会でまかり通っている言説を、ユーモアやパロディー、皮肉を交えることによって、理解しやすい形で私達に提示してくれているんですよね。

ただそういう戦術は、それ自体が差別的な言説を助長するんじゃないかという批判の対象にもなり得る。実際そういう批判も受けてきたので諸刃の剣とも言えますが、私自身はそのようなアーティストの勇気を評価するし、必要なことだと思っています。

オッティンガー作品が持つユーモアの力

長尾:私はオッティンガーの『ベルリン三部作』を観てみて、彼女はだいぶギャグセンス高めだなと思いましたね(笑)。描いているものがすでに視覚的に強烈なのに、そこに笑いを上乗せしていて。自分がこういう映画を撮れと言われても、1つもまねできないなと思います。それもある意味で勇気づけられました。

ユーモアで言うと、その「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人が、映画の中で何度か主人公になびくようなシーンがあっておもしろかったですよね。レズビアンが集まるバーで、それまで常に平静を装っていた3人のうちの1人がダンスを踊り出すシーンがその1つです。彼女達は社会的なルールの外側にいる主人公のような存在を見下しながらも、その自由さや傍若無人さをどこかで羨ましく思っているような感じもしました。

斉藤:おもしろいですよね。他にも自分達が死んだ後の棺桶の話をしているときも、タベアが持っている酒をグビっと飲むシーンもあったりして。あの3人は、いわゆる「建前」として社会的なことを語る時はもっともらしいことを言いますが、自分の「死」について考えたり、ダンスに誘われたりする時に、ふと個人としての「本音」をのぞかせるんですよね。

あの3人は誇張されて描かれていますが、私達の中にも「こうすべきだ」というような、いわゆる「良識」はあるわけです。例えば、街を歩いている時に、ボロをまとった「浮浪者」のような人が酔っ払って倒れていたら、とよく考えるんです。実際にそういう機会に遭遇した時も、すぐに手を差し伸べたり、アクションを起こしたりできたかと言われると、実は難しかったりしますよね。そういう意味で、私達はあの3人を完全には否定できないのではないでしょうか。そんなふうにオッティンガーの作品は、デフォルメされた、あり得ない世界を描いているように見えて、実はすごくリアリティーがあって、ふいに私達に鋭い問いを投げかけてきます。だからストーリーがよくわからなかったとしても、ディテールの部分に引き込まれるし、作品としての力が色あせないんでしょうね。

長尾:本当にそう思います。先生のお話のおかげで作品の理解も深まりましたし、オッティンガーを通していろんなトピックを考えることができました。とっても貴重なお話、ありがとうございました!

ウルリケ・オッティンガー「ベルリン三部作」予告編
『アル中女の肖像』(国内劇場初公開)Bildnis einer Trinkerin, Photo: Ulrike Ottinger 
© Ulrike Ottinger
Bildnis einer Trinkerin, Photo: Ulrike Ottinger 
© Ulrike Ottinger

■『アル中女の肖像』(国内劇場初公開)

1979年/西ドイツ/カラー/108分
原題:Bildnis einer Trinkerin
英題:Ticket of No Return
監督・脚本・撮影・美術・ナレーション:
ウルリケ・オッティンガー
音楽:ペーア・ラーベン
衣装:タベア・ブルーメンシャイン
歌:ニナ・ハーゲン
出演:タベア・ブルーメンシャイン
   ルッツェ
   マグダレーナ・モンテツマ
   ニナ・ハーゲン
   クルト・ラープ
   フォルカー・シュペングラー
   エディ・コンスタンティーヌ
   ウルフ・ヴォステル
   マーティン・キッペンバーガー
HP:  https://punkte00.com/ottinger-berlin/

Photography Emi Nakata
Text & Edit Shinichiro Sato (TOKION)
Cooperation Punkte 
Yumi Nagao’s dress is supplied by FRANGANT 

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Girls’ Film Fanclub Vol.1 ウルリケ・オッティンガー監督『アル中女の肖像』ゲスト:斉藤綾子(明治学院大学教授)前編 https://tokion.jp/2023/10/07/girls-film-fanclub-vol1-part1/ Sat, 07 Oct 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=210831 「Sister」の長尾悠美をホストにTOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目はフェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子を迎え、ドイツの映画監督ウルリケ・オッティンガーの代表作『アル中女の肖像』にフォーカスする。

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斉藤綾子(左)長尾悠美(右)

斉藤綾子(左)
東京都生まれ。上智大学文学部心理学科卒業。サントリー(株)勤務を経て、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) 映画テレビジョン学部批評学科博士課程修了 (Ph.D)。明治学院大学教授。専門は映画理論、フェミニズム映画批評。フェミ・ジャーナル誌『ふぇみん』の映画評を担当している(隔月)。

長尾悠美(右)
渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアート作品を通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」の代表を務め、映画やアートにまつわる企画を積極的に行う長尾悠美をホスト役に、TOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目は、フェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子を迎え、唯一無二のクィアな映像世界で知られるドイツの映画監督ウルリケ・オッティンガーの代表作『アル中女の肖像』(1979年)にフォーカスを当てる。

冷戦下のベルリンが舞台の『アル中女の肖像』は、『タブロイド紙が愛したドリアン・グレイ』、『フリーク・オルランド』と並んで同監督の「ベルリン三部作」として知られる。ジャーマン・ニューシネマの旗手、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーをして「最も美しいドイツ映画」と称賛せしめた本作は、主人公の「彼女」がベルリンの街を歩き回りながらひたすら酒を飲み続けるという至極シンプルな映画だ。しかし、だからこそ隅々にまで散りばめられた社会への鋭い洞察や風刺、実験精神やユーモア、そして主演のタベア・ブルーメンシャインの装いの美しさが際立ち、観るものを魅了してやまない。近年、再評価の機運が高まり、日本でも渋谷のユーロスペースでの上映を皮切りに、現在も全国で順次公開中だ。

ファッションを軸にさまざまな活動を続ける長尾と、1980年代にアメリカでフェミニズムに触れ、アカデミックな現場で映画を論じてきた斉藤は、オッティンガーの名作をどう観たのか。自分たちの人生にも引き寄せながら、その色あせない魅力や価値、今の時代に生きる私達に投げかける問いの数々について自由に語り合う。対談前編は、オッティンガーの作品との出会い、近年フェミニズム映画が再評価される理由、そしてフェミニストでレズビアンでもあるオッティンガーが作品の中で挑戦した「カウンター・フェミニズム」について。

ウルリケ・オッティンガー監督作品との出会い

長尾悠美(以下、長尾):私にとって最初のウルリケ・オッティンガー作品は『フリーク・オルランド』でした。上映後に斉藤先生とドイツ映画の専門家でいらっしゃる渋谷哲也さんのトークを聞き、パンフレットを購入して先生のテキストも読ませていただいて。その後にベルリン三部作の他の2作品、『アル中女の肖像』と『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』も観まして、とにかくその自由さに感銘を受けました。それこそ、オッティンガーの作品を経験したか否かで、今後の映画体験が変わってくるんじゃないかと感じるほどです。先生がオッティンガーの作品に最初に触れたのはいつ頃だったんですか?

斉藤綾子(以下、斉藤):大学を卒業して一般企業での仕事を5年半ほどした後、30代を目前にして結婚や出産はどうしたらいいのか考えたタイミングが私にもありました。悩んだ末に結局日本を出てアメリカに渡ったんです。研究者になろうとは思っていなかったんですが、もう一度大学に入って映画を専攻することにして。私がアメリカに渡った1986年は、1960年代の女性解放運動を経て、フェミニズムという領域が体系的に整理され、学術として理論化が進められている真っ只中で、大学でも先進的な理論としてそれらが教えられるようになった時期でした。また文学や比較文学などの文脈で映画を論じてきた研究者達が、多くの大学で映画研究を新しい学問として確立し始めていたのです。

私は上野千鶴子さんたちより少し下の世代で、大学にいた頃は女性学も知らず、「ウーマンリブ」にもあまり関心も持てずにいました。そんな中、アメリカに渡って驚いたのは、フェミニズム理論の先生達がみんなファッショナブルだったこと。『アル中女の肖像』のタべア・ブルーメンシャインのように真っ赤な口紅をつけて、ミニスカートで、きれいなマニキュアをつけて教壇に立っていて。アメリカでは、1960年代以降展開されていた「化粧=男性にこびている」という考え方とは違う、新しいフェミニズムを体現した研究者達が大学で教えるようになっていたんです。そういう先生達のもとで多くの映画に触れ、映画祭でたまたま『Joan of Arc of Mongolia』(1989年)を観たのがウルリケ・オッティンガー監督の映画との出会いでした。

長尾:先生を含め、いろんな方のお話を聞くと、日本と外国の状況の違いはすごく感じますし、海外でメンターと呼べるような人に出会ったという方は多いですよね。その時代のアメリカで学ぶことができた先生をとても羨ましく思います。

斉藤:私は、アメリカでフェミニズム映画を専門にしようと決めたというよりは、その時代に学んだ身として、フェミニズム理論を批評に取り入れることはごく普通のことだと思っていたんです。加えて、ローラ・マルヴィ*1という映画研究者の「視覚的快楽と物語映画」という論文を日本語に翻訳をしたこともあり、1994年に帰国してからは、フェミニズム映画理論に関する講義や執筆の依頼が多くなりました。ただ日本に戻って気付いたのは、映画批評の理論展開が、アメリカで学んできたものとは全く違ったこと。日本では依然として男性の評論家の影響力が非常に強く、映画批評という領域でフェミニズム理論が取り入れられること自体がまれな状況でした。そんな背景もあり、日本映画をフェミニズム的に批評できるのか、そして作り手のジェンダーは作品とどんな関係があるのか、そんな問いを抱きながら、徐々に自分の研究テーマとなっていったんです。

フェミニズム映画再評価の背景

長尾:Sisterは、国際女性デーに合わせて毎年イベントを企画していて、今年はアメリカのフェミニスト・コレクティブ「Guerrilla Girls」を取り上げました*2。彼女たちは80年代からアート界のジェンダーギャップについて、正確なデータを元に作品で抗議してきた人たちです。展示の中で、作品と関連づけて日本の表現の現場に関するデータも紹介したかったので、表現の現場調査団*3という方達に企画にご協力いただいて。その方達の調査によると、例えば日本の美術の現場でも、学芸員やキュレーターは女性が圧倒的に多いけど、いまだに管理職は男性の割合が非常に高いようです。そのために現場の女性たちの意向が尊重されづらい状況が生まれるなど、体制の問題で生まれる弊害や苦労も多いようです。

そんな中、シャンタル・アケルマン監督の代表作『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』 が2022年のイギリス映画協会が10年ごとに選出する「史上最高の映画100」で見事1位に輝きました。アケルマン自身が影響を受けたと公言しているアルフレッド・ヒッチコックの『めまい』(同2位)を差し置いての1位ですから、感慨深いものがあります。映画史において、フェミニズム映画やクィア映画を見直す熱が高まっているように感じますが、背景にあるものはなんだと思いますか?

斉藤:まず近年のアカデミー賞にも言えますが、受賞作品を選出する投票者の偏りが見直され、多様化したことはあるでしょうね。確立された男性批評家が大半を占めていた審査員の枠が、外国籍、女性、クィアの人達にも開かれるようになりました。それによって選出される映画のラインアップも大きく変わってきますから。ただ、選出する上でイギリス映画協会にもさまざまな思惑はあったと思いますが、思惑だけでは1位にはならないでしょうしね。

長尾:はい、思惑だけではないと思います。『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』に主演したデルフィーヌ・セイリグはオッティンガー監督の『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』にも出演していますが、彼女のドキュメンタリー(『ジャンヌ・ディエルマンをめぐって』)を観た時に、その意識の高さと真摯な姿勢に感動しましたし、だからこそアケルマンの作品もあれだけの名作になったんだと納得しました。

斉藤:デルフィーヌは素晴らしい俳優ですよね。実は日本の場合、オッティンガーやアケルマンの映画が全く上映されてこなかったわけではなかったのですが、単発的な特集上映が多く、大御所の批評家に取り上げられることもないまま埋もれていた状況でした。昨今は、アケルマンについても配給会社の若い世代の人達が作品を気に入り、上映のために尽力したという経緯がありますし、今回のオッティンガー作品の公開についても同じことが言えます。配給をする側にも世代交代が起き、その人達が改めてこれらの映画と出会い、価値を見出し、上の方達もそれに応えてゴーサインを出したという。#MeTooなどの影響も多分にあったとは思いますし、そういう時代の流れと変化はあると思います。

オッティンガーの「カウンター・フェミニズム」

長尾:背景についてのお話が聞けたところで、本題である『アル中女の肖像』についてお話をうかがっていこうと思います。ディテールに踏み込む前に、まず監督であるウルリケ・オッティンガーについてですが、彼女はいわゆるニュージャーマンシネマと第二派フェミニズムが重なる時代に映画を撮り始めていますね。先生がパンフレットの中の論考でも書いていらっしゃる、彼女が挑んだ「カウンター・フェミニズム」とはなんなのか、少しご説明いただけますか?

斉藤:「カウンター・フェミニズム」という考え方は、そもそも1970年代に出てきた「カウンター・シネマ」という概念を土台にしています。この「カウンター・シネマ」というのは、60年代から70年代に映画批評で言及されるようになりましたが、それをクレア・ジョンストソン*4という映画理論家がフェミニズム批評に取り入れて提唱したもので、女性が作った映画が、主流映画に対するカウンターとして機能しうる、という主張です。特に五月革命が一つの契機となり、主流のハリウッド映画とは異なる映画的実践である実験映画や前衛映画は、ハリウッド的な物語性を壊したり、見ていて美しいと感じる視覚的快楽を否定したりすることで、新たな映画や革命的な映画を目指した実験性を打ち出していきました。それに対して「カウンター・シネマ」は、ハリウッド的な商業映画や物語映画をただ否定するのではなく、主流映画の枠内で対抗的な映画を作ることでその制度を転覆させる可能性をもっている、という考え方です。言ってみれば、すでに存在する主流の映画の手法を用いながら、内側からそれ自体に対してカウンターパンチを食らわす、というイメージです。

初期のフェミニズム映画の文脈では、男性の目にこびるように映る美しい女性のイメージを否定して、「現実の女性」を描写しようとするドキュメンタリーを評価する傾向が強く、ある意味では女性性を前景化したイメージに対して「禁欲的な」側面が強かったんです。その中においてオッティンガーは、そういったイメージとは異なるきらびやかな女性を初期から描いてきました。それは彼女の持っているクィア性、つまり、レズビアンである彼女自身が女性を欲望や愛の対象として見るという感性を持っていたことと大きく関わっているはずです。彼女の視点を通してみれば、女性が化粧をし、自らを美しく保とうとすることは、男性のためだけではなく、女性のためでもあり、自分のためでもある。オッティンガーは、そういった女性性や快楽を否定せず、ある種の新しい形のフェミニズムを自作で提示していきました。そんな彼女の姿勢を「カウンター・フェミニズム」という言葉で形容してみたんです。

長尾:なるほど。私自身、オノ・ヨーコさんの「Sisters, O Sisters」という曲にちなんで名付けた「Sister」というお店を15年前に始めましたが、オープン当時から女の子達だけでやろうという意気込みで、きれいに化粧をして、ドレスを着てお店に立っていました。それも必ずしも男性に見てもらうためではなくて、自分たちがいかに美しくいられるか、というところを大事にしてたんです。私生活では数年前に離婚を経験してシングルマザーになったんですが、そもそもオノ・ヨーコさんの曲も女性解放運動の文脈で作られた曲ですし、結婚制度の中で感じていた違和感なども思い返して、ああ私ってフェミニストだったんだと思い至ったところがあって。それまでフェミニズムというものは知っていたけど、自分のこととして深く考えられていなかった。そういう経緯もあって、オッティンガーやアケルマンの作品を観た時に、自分が求めていたものと合致したな、という感覚がありました。昔の映画だけれど、今観ても新鮮な視点を提示してくれますね。

「見る」と「見られる」「出会う」と「変わる」

斉藤:そうですね。先ほども話に出したローラ・マルヴィという人は「視覚的快楽と物語映画」の中で、主流映画において、見る(欲望する)男性と見られる(欲望される)女性というジェンダー的に非対称な構造があることを指摘しました。ただ、その論文はある種のマニフェスト(宣言文)のような主張だったので、図式化された「まなざす男性とまなざされる女性」という二項対立が強調されてしまった面があり、インパクトが強い分、物議を醸しました。実際のところは、当時から多くの女性観客がハリウッド映画を楽しんで観ていたわけですし、同性愛的な視点ではなくても、女性が女性をまなざし、憧れの感情を抱く、といった現実に存在した女性観客の経験や彼女たちの視線についてはどう考えたらいいのかと、多くのフェミニストたちを巻き込んだ議論を生みだしたんです。

女性が、画面を通して理想のロールモデルのような女性に出会い、自分もああなりたいと憧れ、欲望の視線で見つめる。あるいは、スクリーン上で知る新たな女性のあり方や生き方に影響を受けて自分自身も変わる。『麗しのサブリナ』のオードリー・ヘプバーンを見て、皆がサブリナパンツをはいたように、憧れのファッションを身に着けて日常の中でちょっとしたトリップをするというか、小さな異空間を作り出すというか。そういうものをもたらす効果も映画にはあるんですよね。オッティンガーの映画にとっても、デビュー作の『ラオコーンと息子たち』を始めとして「変身」はとても重要なテーマですが、より本質的な変化や新生に繋がっています。

長尾:出会いや変化で言うと、私は地方出身者で、近所の映画館といえば大きなショッピングモールの中にあるシネコンしかなかったんですよね。そういう環境でメジャーな作品にしか触れてこなかったから、上京してミニシアターでホドロフスキーやデレク・ジャーマンとかの作品に触れた時は衝撃を受けて。一気に多様な映画にのめり込んでいきました。

斉藤:おっしゃるように、出会いというのは本当に大きくて。長尾さんが東京に来て感じた、すべてが変わるようなカルチャーショックを私はアメリカで味わいました。多くのクィアな友人に囲まれていろいろなことを学びましたし、多種多様な映画を観ることができました。当然、1つの映画をとっても、その人の立場、例えば性的指向や人種的バックグラウンドによって見え方が変わってきます。そういう多様さに触れる中で私自身も変容して、それまで見えなかったものが見えてくるような感覚があった。映画というのは、常にいろんなイメージを提供してくれているんですよね。でも、そこから何を見るかによって作品の受け取り方が全く変わっていきますし、いろんなものが見えるようになるとおもしろさが広がっていくと思います。

後編に続く


*1: ローラ・マルヴィ
1941年、イギリス生まれのフェミニスト映画理論家。マルヴィは、1975年に発表した記念碑的な論文「視覚的快楽と物語映画」の中で、ハリウッドを中心とする主流映画が「見る男性、見られる女性」というジェンダー非対称の構造に依存していることを指摘し、フェミニズム映画理論の必要性を訴えた。今回のゲストの斉藤綾子は、本論文を1990年代に日本語に翻訳している

*2: Guerrilla Girls(ゲリラ・ガールズ)展
セレクトブティック「Sister」は、2023年3月の国際女性デーに合わせ、倉敷芸術科学大学の川上幸之介研究室の協力のもと、アート界のジェンダーギャップに抗うアクティビスト集団「Guerrilla Girls(ゲリラ・ガールズ)」の展覧会を渋谷PARCOにて主催した。『「F」ワードの再解釈:フェミニズム!』をモットーに1985年にニューヨークで結成されたゲリラ・ガールズは、現在に至るまで55名以上の匿名メンバーで構成されている。 偽名を用い、公共の場ではゴリラのマスクを着用して、事実と皮肉、ユーモアとインパクトのあるヴィジュアルを交えた作品で、公共に介入する。政治や文化の腐敗のほか、性別や民族の偏見を作品により明らかにし、主体としての物語の転覆を試みている。本展では、ゲリラ・ガールズの作品展示とグッズの販売を行い、売上の一部はゲリラ・ガールズの活動費として寄付、またジェンダー関連書籍として図書館へ寄贈している。

*3:表現の現場調査団
アーティストやジャーナリスト、俳優などにより結成された有志団体で、全ての人に平等に開かれた表現の場を実現するために、ハラスメントやジェンダーバランスの実態調査と結果の公開、WEBでの各種情報提供を行っている。
https://www.hyogen-genba.com

*4:クレア・ジョンストン
1940年生まれのフェミニスト映画理論家。1973年に発表した「カウンター・シネマとしての女性映画」というエッセイの中で、作り手が女性である「女性映画」を見直す必要性を説いた。

参考文献:
斉藤綾子「視線の政治学:女性たちの視線をいかに取り戻すか」『i+med(i/e)a vol.1 Beyond Female Gaze』(2021)


ウルリケ・オッティンガー「ベルリン三部作」予告編

■『アル中女の肖像』国内劇場初公開
1979年/西ドイツ/カラー/108分
原題:Bildnis einer Trinkerin
英題:Ticket of No Return
監督・脚本・撮影・美術・ナレーション:
   ウルリケ・オッティンガー
音楽:ペーア・ラーベン
衣装:タベア・ブルーメンシャイン
歌:ニナ・ハーゲン
出演:タベア・ブルーメンシャイン
   ルッツェ
   マグダレーナ・モンテツマ
   ニナ・ハーゲン
   クルト・ラープ
   フォルカー・シュペングラー
   エディ・コンスタンティーヌ
   ウルフ・ヴォステル
   マーティン・キッペンバーガー
HP: https://punkte00.com/ottinger-berlin/

Photography Emi Nakata
Text & Edit Shinichiro Sato (TOKION)
Cooperation Punkte
Yumi Nagao’s dress is supplied by FRANGANT

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