児玉浩宜, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/hironori-kodama/ Wed, 21 Feb 2024 08:17:55 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 児玉浩宜, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/hironori-kodama/ 32 32 写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.6 シウダー・イダルゴ -後編- https://tokion.jp/2024/02/26/mexico-reporto-diaries-vol6/ Mon, 26 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=224910 写真家の児玉浩宜が思いのままにたどり着いた国、メキシコを縦断した記録を写真とともに綴るフォトコラム。第6弾はシウダー・イダルゴの後編。

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.6 シウダー・イダルゴ -後編-

旅が始まって最大の危機

深夜。小突かれて目を覚ました。顔を上げると、バスの通路に立つ大柄な女性がいた。彼女のポロシャツの胸には移民局の刺繍。パスポートを見せようとすると、女性は「荷物を持って降りろ」と私に命じた。言われるがままバスを降りると、ライフルを持ったメキシコ軍の兵士がいた。検問所らしい。道路脇にある倉庫のような建物に入れと兵士達が私を促す。暗がりの中には30人ほどがいただろうか。皆、大きな荷物を持ったまま不安そうに立っていた。移民の人々だった。

私達はグアテマラの国境を離れ、夜行バスに乗ってメキシコ南東部にあるサン・クリストバル・デ・ラス・カサスを目指していた。バスに同乗していた旅のパートナーである編集者の圓尾さんにメッセージを送る。彼も私を心配して降りようと試みたが止められたらしい。「バスはそのまま出発しちゃいましたよ」と連絡が来た。こちらの状況を報告すると「無事を祈ります」というメッセージが届いたきり連絡が途絶えた。彼は車内で眠ってしまったようだ。なんと薄情な……と思ったが仕方がない。国境に行きたいと言ったのは私だ。問題は今のこの状況である。

兵士が移民達に何かをささやく。すると移民達はそれぞれ顔を合わせてため息をついた。その後、兵士に何かを渡すのがちらっと見えた。今度は兵士がライフルを見せつけるようにして私に話しかけてくる。スペイン語だったが「Dinero=金」という単語は理解できた。不法入国を見逃してやるから金を払えということだ。だが、私は移民ではない。夜中に起こされ、移動手段を奪われ、金まで要求されるとさすが腹立たしい。言葉がわからないふりをする。

私の隣には東洋系らしい顔立ちのグループがいた。中南米の先住民にもそういった顔立ちの人がいる。彼らも金を払って出ていった。残ったのは私1人。知らんぷりを決め込む私に彼は苛立っていたが、しまいには「どうにか頼むよ、少し払ってくれればそれでいいから」と懇願するような表情を見せた。やむを得ない。倉庫を出ながら金を出そうとすると兵士は慌てて「もっと奥の暗いところで金を出してほしい」と言った。一般の通行車両に見られたくないのか。結局400ペソ(約3500円)を取られた。兵士は集めた金をすべて移民局の女性に手渡していた。

時計を見ると午前3時過ぎ。バスが走り去ったあとを歩く。手元のGoogleマップを見ると、道路はグアテマラ国境から続く舗装された一本道で200号線というらしい。国道のようなものか。グアテマラとの国境では入国管理が全く機能していない理由がわかった。国境で堂々と賄賂を取るわけにはいかないので、わざと不法入国させてから効率的に金を集めたいのだろう。

歩き進むとさっき倉庫にいた集団がいた。彼らは落ち着いていた。こんな目に遭わされるのはいつものことなのだろうか。彼等はすぐに道路脇で野宿を始めた。私も混じって寝転ぶ。

さっき見かけた東洋系の1人が私に話しかけてきた。その言葉に驚いた。それは中国語だった。なぜこんなところに中国人がいるのだろう。私は日本人ですが、と告げると「なんでこんなところに日本人がいるの?」「あなたもアメリカを目指しているの?」と矢継ぎ早に質問される。言葉を濁していると、唐突に「台湾は台湾。中国じゃない」と聞いてもないのに政治的な問題を話し始める。彼は浙江省出身の36歳。妻、そして7歳の息子を連れてアメリカを目指す移民だった。彼はここにいる理由を話してくれた。

コロナ禍、中国での過度なロックダウンは結果的に多数の死者を出すことになった。強権的な政治体制に恐怖を感じた彼らは中国を飛び出した。そして向かったのは南米エクアドルだった。中国からビザ無しで渡航できる国の1つがエクアドルだ。彼らはほぼ1ヵ月かけて歩いてメキシコまで辿り着いた。パナマの密林を歩いていた時に同じ境遇の中国人の仲間を見つけ、今は7人で行動をともにしている。「ジャングルでは行き倒れた移民の遺体をたくさん見た」と恐ろしげに語る。

「俺達は仕事が欲しいわけじゃない。最低限の人権を求めたいだけだ」彼らがアメリカに受け入れられる保証はないが、英語もスペイン語も話せないまま国を飛び出し「それでも挑戦する価値がある」と力説する彼らの行動力はすごいというほかない。その後も大学生グループや、子連れの夫婦などといった中国からの移民を見かけた。聞くところによると今、中南米を北上する中国からの移民が急増しているらしい。私がバスから降ろされたのは、見た目が彼らと同じだから、という単純な理由だろう。そういえばアメリカ国境の橋の下で出会ったトニーも中国人の移民のことを話していた。

続く難局

夜が明け、人々は動き始めた。隣の町まで歩くという。その距離120km。実はこれまで多くの移民達と話しているうちになぜか私まで「アメリカを目指さなければ」という感覚に陥っていた。雰囲気に流されるとはこのことだ。その気になっていた私は彼等と共に歩きだした。しかし、根拠の無い上っ面だけの威勢は、太陽が昇るとあっさりと急速に萎んでいく。暑すぎる。すぐに足も痛くなった。これから100kmも歩くのは無理だ。情けない私は適当な理由を告げて彼等と別れた。

ふらふらになってマパステペクという町に入った。うまく検問所を迂回できたようだ。疲れた体で安宿を探す。夜はこの町も移民で溢れるのだろう。夕方までなら、という条件で金を払って休ませてもらう。圓尾さんは無事、サン・クリストバルに到着したと連絡があった。

日が暮れてから宿を出る。バスターミナルを探して今夜10時発のチケットを買う。待合室で人に話しかけられて相手をしていると、なんと乗るはずのバスが出てしまった。チケット売り場の窓口を閉めようとしていたおばさんに告げたら呆れられた。次のバスは翌朝10時らしい。宿に戻っても部屋はない。また移民の人達と道路脇で野宿。

再び夜が明ける。カメラを持って歩いていると「フォト! フォト!」と声をかけられる。面倒なことになるのは嫌なので無視していたら、女の子が飛び出してきた。「えー!」と私はすっとんきょうな声を出した。その子の顔に見覚えがあったのだ。グアテマラ国境で「私はただのツーリスト」と言っていたシシリアだった。旅行者なんて真っ赤な嘘で、移民として国境の川を越えていたのだった。

彼女達も昨夜からここで野宿していたらしく「あんたの隣で寝てたよ」と言って笑った。まさか再会できるとは。バスを逃した甲斐はあった。彼女達もまた隣町まで歩くと言い、手を振って去っていく。

ようやくバスに乗る。エアコンの効いた車内の窓越しに国道200号線を歩く移民の列がひっきりなしに見えた。そこに中国から来た彼等、そしてシシリアの姿が見えないか、何度も探そうとした。だが、疲れていたせいで私はすぐに眠ってしまった。

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.5 シウダー・イダルゴ https://tokion.jp/2024/02/15/mexico-reporto-diaries-vol5/ Thu, 15 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=223841 写真家の児玉浩宜が思いのままにたどり着いた国、メキシコを縦断した記録を写真とともに綴るフォトコラム。第5弾の都市はシウダー・イダルゴ。

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.5 シウダー・イダルゴ

メキシコ最南端の町、チアパス州シウダー・イダルゴ

南米からアメリカを目指す移民の人々。一体、彼等はどのようにメキシコへと渡ってくるのだろう。報道で伝えられるのはアメリカとメキシコの国境のことばかりだ。ネットには海外メディアによるメキシコとグアテマラやベリーズの国境についての情報はある。しかし、匂いや手触りといった現場の雰囲気まではつかみづらい。それを知りたければ人の流れを遡っていくしかない。私達はバスを乗り継ぎ、いくつかの街を経由してグアテマラとの国境に向かって南下した。

街角にはフルーツ売りが立ち、三輪タクシーが通りをのろのろと走る。メキシコ最南端の町、チアパス州シウダー・イダルゴは一見のんびりとした東南アジアの片田舎を思わせる。だが、街を歩くと異様な雰囲気に気付く。人の流れがぞろぞろと続いている。移民の人々だ。国境が近いのだろう。行列の脇に国境警備隊の姿も見かけたが、彼等はただ眺めているだけで何もせずにいた。

旅のパートナーである編集者の圓尾さんと共に、人混みをかき分けていく。急にぱっと視界が明るくなった。国境の川、スチアテ川だ。グアテマラの対岸までの川幅は150メートルほどで、アメリカ国境にあるようなフェンスや鉄条網は見当たらない。茶色く濁った水は流れず静かに漂うだけ。

しかしながら川面はにぎやかだった。いくつものイカダが人々を乗せて行き交っている。乗客は皆リュックを背負ったり抱きかかえている。移民の人々だ。あまりにも堂々と越境する姿に面食らってしまう。運賃は片道わずか20ペソ(約200円)。川は浅く、歩いて渡る人もいる。300メートルほど川下にはコンクリートの橋があった。そこで正式な入国管理をしているようだが、たまにバイクが通る程度で日常的には使われていないようだ。

川岸には洗濯物が干してあり、アウトドア用のテントが並ぶ。川を渡って来た人達が休むのだろう。煮炊きができる簡素な小屋もあった。薪が乏しいのか、プラスチックを燃やす刺激臭が鼻を刺す。裸の子どもが走り回り、疲れ果てた大人達が横たわっている。私達は町へ戻りゲストハウスを探した。どの宿も移民で溢れかえり満室。移民特需があるのだろう。仕方なく町の一番外れにある宿へ向かった。

夕方、食堂を探して町を歩いていると、急に大粒の雨が降り始めた。適当なひさしに入ると声が聞こえた。振り返ると暗がりに先客がいた。ベネズエラからここまで歩いて来たという女性達。手持ちの金がないらしく「ここまでの道中ずっと路上で寝泊まりしていた」という。しばらくすると1人の男性が現れて彼女達を呼び、土砂降りの中へ走っていった。彼女達は今晩どうやって過ごすのだろう。

翌日は晴れ。私達は対岸の街、グアテマラのテクン・ウマンへ向かった。目的地は「移民の家」というシェルター。移民の相談や休息ができる施設だ。対応してくれたシャロンさんは突然訪れた私達に親切に対応してくださった。彼女に一番気になっていたことを質問する。「この川の往来を管理しているのは誰なのか?」私達はアメリカの国境の一部をカルテル傘下のギャングが管理しているのを身を以て知った。私達の質問にシャロンさんは微笑みながら「そんなのいませんよ。通る人が多すぎて国境警備隊も何もしないほどですから」と言った。

スチアテ川へ戻る。対岸にはついさっきまで私達がいたメキシコがある。この川を越え、さらに約3000キロを進んだ先に移民の人々の最終目的地、アメリカがある。眺めてみると確かにこの先に、何か可能性のようなものを感じる。さっきまで対岸にいたことは都合よく忘れ、目前に広がる未知の地への期待をしばらく味わっていたが、イカダの客引きがしつこいので離れることにした。

しばらくするとグアテマラ側の岸辺に4人組の家族が現れた。彼らもまたベネズエラからここへたどり着いたらしい。待ち構えていたイカダの船頭に彼等はおずおずと声をかけた。そのうちの1人、母親だろうか。彼女がイカダに足をかける直前、立ち止まった。両手を広げると口元がわずかに動き、天を仰いで祈った。さらにグアテマラの地元の人も乗り込み、総勢10人が不安定なイカダに身を預けた。

船頭が棹(さお)を握り締めて全体重をかけると、ゆっくりとイカダは進み始める。ベネズエラの一家の表情は硬く押し黙ったままだ。故郷を出て、コロンビア、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、そしてグアテマラへと越境を続け、今ようやくメキシコにたどり着くのだ。橋のたもとに国境警備隊の影がちらっと見えたようだが、動きはない。川面に棹を差す水音だけが聞こえる。

川の中央を過ぎた頃だった。母親が自分のリュックのポケットに手を入れて何かを探している。その後の彼女の行動に私は驚いた。取り出したのはスマートフォンだった。彼女は急に笑顔を作った。そして動画撮影を始めた。自分や家族、周りの風景を写しながらカメラに向かって喋る。彼女はまるでTikTokerのような仕草を続けた。この動画をどうするのだろう。

メキシコ側へ上陸すると、母親は再び天に向かって神に感謝した。そして頬を膨らませ大きく吐息。彼女の名前はライアンさん。喜びを隠しきれない顔をしつつ「パナマのジャングルを数日歩くと炎症を起こして皮膚がただれてしまい辛かった」とこれまでの苦労を話した。「私達は団結する。家族の未来のために。まだまだ先は長いけれど、これは私達にとって偉大な冒険なんです」勇ましく語るその言葉の力強さはどこから湧いて出てくるのだろう。考え込んでしまった私はさっきの動画のことを聞きそびれてしまった。

この一家の他に、新たに到着した若者のグループが川縁に座っていた。そのうちの1人に声をかける。シシリアさん、21歳。「アメリカへ行くの?」と聞くと彼女は「私はグアテマラから来たツーリストよ」と言ったので拍子抜けした。紛らわしいが、そういう人もいるのだろう。彼女達はバイクタクシーに乗って走り去った。

その日の夜、私達は相乗りのバンに乗って町をあとにした。隣の男性は熱心にスマートフォンで動画を見ていた。移民が川やジャングルを越えていく映像だった。彼らはこうやって情報を入手していくのか。イカダに乗った母親の映像もアップロードされるのだろうか。私は試しにInstagramで #inmigrante(移住する)と検索すると、移民の映像の他に、永住権を取得した成功例や米国での移民専門弁護士の広告が無尽蔵に出てくる。煽られて故国を出る人も少なからずいるだろう。画面のスクロールを続けていると、ついつい私も北へ向かい、チャンスを掴みたいと思えてくるのが不思議だ。

昨夜、宿で話した男性を思い出す。「兄がアメリカに行ってる。俺が成功したら次は弟を呼ぶんだ」。彼は兄とはいつもビデオ通話で連絡をとり、アメリカでの生活のことをよく聞かされるという。彼は兄のFacebookを見せてくれた。微笑む男性がベッドに優雅に寝そべる写真があった。ソーシャルメディアでは良い面だけが強調される。成功を羨む気持ちが彼を動かしたのだろうか。現実でも良いことだけがあれば素晴らしいのだが、そうじゃないことも私達は知っている。

深夜発のバスに乗り換え、私達は次の街へ向かった。旅が始まって最大の危機はその道中に起きたのだった。

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.4 クアウテモック https://tokion.jp/2024/02/05/mexico-reporto-diaries-vol4/ Mon, 05 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=223083 写真家の児玉浩宜が思いのままにたどり着いた国、メキシコを縦断した記録を写真とともに綴るフォトコラム。第4弾の都市はクアウテモック。

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.4 クアウテモック

色彩が低い集落メノナイト

タクシーの運転手は私達を広大な畑に囲まれた一本道に降ろした。彼に伝えた住所は「カンポ6A」。カンポはスペイン語で「畑」という意味なのでここで間違ってはいない。

チワワ州クアウテモック。ここからさらに奥へ入った辺鄙な場所に「メノナイト」という人々の集落がある。砂利道を進んでいくと家が点在しているが、色鮮やかなメキシコのイメージとは違って色のない建物ばかりだ。「意匠を取り払った建物」「原初的なコンクリート建築」とでも言えば良いのだろうか。簡素な佇まいに、ついミニマリストという現代的な言葉が口に出そうになる。それは私が日頃から現代の物質的に満たされた暮らしをする人間だからだ。メノナイトはそういった暮らしを求めていない。ここでは広告看板も一切見当たらない。

メノナイトとは16世紀の宗教改革に端を発したキリスト教の一派であり、中央ヨーロッパで誕生した。農業や手工業で自給自足に近い、質素な生活を共同体の中で営む。非常に保守的な価値観を持ち、酒や娯楽は禁忌とされ、世俗社会から離れた地域に定住している。あまりに保守的なため自動車ではなく馬車に乗り電気製品を一切使わずに近代文明を拒絶して、19世紀そのままの暮らしを続けるコミュニティもあるらしい。アメリカには同じような生活をする「アーミッシュ」という集団がいる。

メノナイトの歴史は流転の歴史だ。メキシコ・チワワ州に入植したグループは、かつてロシアで農業を営んでいた。だがボルシェビキ革命の影響で農地を奪われ、アメリカやカナダへ移住。その後、北米の近代化が進むと逃げるようにメキシコへ南下した。独自の信仰と理想の暮らしを守るためだ。クアウテモックには1920年代に大規模な入植があったが、メキシコも近代化が進み、さらに南米へと移住した集団もいるらしい。


メキシコへ来て出会った南米からの移民希望者の人々は「自由や金」を信じて「より良い暮らし」を目的に北を目指していた。時代や信じるものは違えど、同じ目的で逆のルートを辿ってきた人達がいることに驚く。それも1世紀も前に。

とはいえ私は彼等についての知識は少ない。実際の暮らしはどうなのだろう。街の中心部には観光客向けにメノナイトの資料館があり昔の暮らしを再現するガイドがいるらしいが、そのようなものに興味が持てなかった(休館日でもあったのだが)ので、この集落へ訪れたのだ。

メノナイトのルーツを示す建物

集落を歩いていると、庭に年老いた白人の男性がいた。いわゆるメノナイトらしい作業着の装いである。彼は猟銃を手にしてこちらをじっと見ていた。部外者である私達を警戒しているのだろうか。聞きかじった下手なスペイン語でとりあえず声をかけてみたが、彼は無言のまま銃に弾のようなものを込めている。緊張感が漂った。焦りつつ発音を変えて挨拶を繰り返していると、男性は困惑した表情で私の言葉を遮った。


「英語で話してくれるかな? スペイン語はわからなくて」彼が流暢な英語を話したので私は脱力して転びそうになった。彼はピーターと名乗った。カナダ出身の78歳の彼もまたメノナイトでここでの共同体の暮らしを求めてきたという。残念ながら耳が遠いようであまりしっかりとコミュニケーションが取れない。彼は庭に飛んでくる鳥を撃っていた。「やってみるか?」と手渡されたのはなんのことはない、ただの空気銃だった。

しばらくして少年2人がバイクに乗ってやってきた。ジョシュアくん15歳とトバイアスくん14歳。彼らが通っている学校もメノナイトが運営している。授業について聞くと「学校でスペイン語、ドイツ語、高地ドイツ語、英語も勉強してるんだ」と言った。彼らは母語の低地(平地)ドイツ語を「ジャーマニー」と呼び、一般的な標準ドイツ語を「ハイジャーマニー」と呼んでいた。外から見るか中から見るかでは視点は逆になる。

道路沿いにガソリンスタンドがあり、真新しい4輪バギーに乗った5人組の若者達がいた。彼等の祖父母達もまたロシアからカナダを経由して移住してきたという。「昔は馬に乗ってたらしいけどね。今じゃスマートフォンだって持ってるし、都会と変わらない暮らしだよ」と言った。彼らとお互いのInstagramのアカウント交換という現代の極みのような交流をした。

他にも家の庭で優雅にホームパーティーをしている家族も見かけたが、どうも彼等の暮らし向きは決して悪くはなさそうだ。あとで調べてみると、農業で成功している一族も多いらしい。むしろこの街そのものが、メノナイトが持ち込んだ酪農産業によって経済を刺激して大きくなったという。

外界から隔絶された農地を求めてここへ入植した信徒の姿を今となっては想像しがたい。だが私は彼等のルーツを示す建物を道路脇で見つけた。電話店だ。メノナイト達が家の中で電話を使うことを良しとしなかった時代の産物だろう。壁にはカナダとアメリカの国旗が誇らしげに描かれている。ここから国際電話をかけていたようだ。故郷の親類と話すことで心の結びつきを保っていたのだろう。

先住民で山岳民族のタラウマラの女性

私達は通りかかったバスに乗りさらに奥にある街へ向かった。派手な衣装を身につけた人達が目に入る。山岳民族である先住民「タラウマラ」の女性達だ。メノナイトの佇まいとは真逆で、原色に染められたふんわりとしたブラウスやスカートは寝間着のようにも見える。

これまで彼女達に何度か声をかけたが、まともに応じてくれる人は少なかった。タラウマラの人々はかつてのスペイン人の征服者から逃げ、山間部の岩穴に隠れるように暮らして伝統的な習慣を維持して生きてきた。近代になって街に下りてきた人々が今でも警戒心が強いのはその名残なのだろう。

街の外れにトラックに乗り込もうとしていたタラウマラの家族がいた。そのうちの頭巾をかぶった1人のおばあさんの衣装がとても気になったので挨拶をすると、おばあさんの娘が「なぜ写真を撮りたいの?」と私に聞いた。私は率直に、彼女の服がとても美しいからですと言った。娘がおばあさんに伝えると、彼女は「仕方がないねえ」というようなことを言いつつ、まんざらでもなさそうな顔をした。そして車からぴょこんと飛び降り、路上に立ち姿勢を正した。

車が去るのをおばあさんの娘が見送ったあと、彼女はスマートフォンを取り出した。そしてWhatsAppの画面を見せて「写真を私に送ってね」と言った。

もちろん場所によるが「昔ながらの暮らし」を期待するのは常に外部の人間であり、ほとんど勝手な理想の作り話のようなものである。先住民の土地の権利問題や、メノナイトと地元住民との軋轢もあるだろう。時には自然や異文化とせめぎ合い、時には移動することによって、彼らはぎりぎりの調和を維持して暮らしているのではないだろうか、などと大仰なことを考えながら私達は翌日、次の街へ移動した。

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.3 サマラユカ https://tokion.jp/2024/01/11/mexico-reporto-diaries-vol3/ Thu, 11 Jan 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=221568 写真家の児玉浩宜が思いのままにたどり着いた国、メキシコを縦断した記録を写真とともに綴るフォトコラム。第3弾の都市はサマラユカ。

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.3 サマラユカ
写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.3 サマラユカ

広大な砂漠に囲まれた街

シウダー・フアレスから国道を50キロほど南下すると、サマラユカという町がある。砂漠地帯に囲まれているこぢんまりとした町だ。通りに沿って数えるほどの雑貨屋や自動車の整備工場が並んでいるだけの少し寂しげな町だ。

空腹だったので1軒の食堂を見つけてドアを開けた。店内は薄暗かったが、奥のカウンターでは従業員の女性達が山盛りのコリアンダーを刻んでいる。私はハンブルゲサ(ハンバーガー)とコーラを注文した。他に客は家族連れが1組しかいない。なのに従業員のおばさん達は5人も6人もいて忙しく調理をしている。話しかけると「今日はお祭りだからね、たくさん客が来る」と浮き足だったような口調で言った。私はすっかり目的を忘れていたが、明日はメキシコの独立記念日なのだ。首都メキシコシティでは今夜は盛大な花火が上がり大騒ぎになるだろうが、騒ぎは面倒なのであえてこの小さな町に来たのだ。今夜は町の広場でささやかな前夜祭が開かれるという。

「近くに砂丘があるらしいんですよ。聞いた話ですけど」旅を共にする編集者の圓尾さんが言った。Googleマップを確認すると、町の東側に巨大な砂漠地帯がある。距離を見れば歩いて2時間ぐらいか。砂漠にある町からわざわざ砂丘見物に歩いて行くのはどうかしてると思うが、祭りまでにはまだ時間がある。私達は向かうことにした。

町を出て砂漠を歩く。乾いた砂利にぽつぽつと灌木やサボテンが生えた景色が果てしなく続いている。強烈というよりは凶暴な太陽ががんがんと皮膚を焼き、滝のように汗を垂らす。私はすぐに後悔しはじめた。

ウクライナでも広大な土地を歩いたことがあった。もっと肥沃で粘り気のある土で、雪解けのあとを歩くと泥がぶらさがるように靴底に張り付いた。あの時は少し草むらに入るのもかなり躊躇した。地中に地雷が埋まっていたり不発弾が残っていたりするからだ。ウクライナ軍の兵士は「絶対に道の真ん中を歩け」としつこく繰り返していた。今でもその恐怖心が残っていて、道を外れて歩くとつい足がすくんでしまう。今は全く違う土地にいると頭ではわかっているのに、体に残った記憶を引きずっている。

遠くに畑が見え、スイカやズッキーニといった瓜科の野菜を収穫している男達がいた。私達に気付いた1人が転がっていたスイカを拾いあげてポケットからナイフを取り出す。脇に停めていた車のボンネットにスイカを置き荒々しくぶった切った。断面はみずみずしくメキシコの太陽を反射させた。「食ってみろ」ということらしい。ありがたく口に入れる。味は日本のものよりややあっさりしているが、水分が豊富で口から汁がこぼれ落ちる。なぜ砂漠でこんな作物がつくれるのだろうか。彼らは私達の姿を満足げに眺めた。その中に中学生ぐらいの少年がいたので話しかけてみたが、恥ずかしそうに微笑んだあと、うつむいて黙々と作業に戻った。彼らに今夜の祭りのことを聞くと、当然のように知っていた。

さらに砂漠を歩いた。多少の起伏はあるが、いくらも景色が変わることはない。スマホのGoogleマップだけを頼りに歩く。日焼けで肌がヒリヒリするが、さらに追い討ちをかけるような衝撃的な痛みを足に感じた。トゲである。そこら中に乾き切った低木の枝が落ちており、その枝にあるトゲが靴底を貫いて足の裏に刺さるのだ。東京の量販店で買った税込1900円の靴はウクライナの荒地でも頑張ってくれていたのだが、所詮は安物。履き潰して靴底がペラペラだ。靴下を脱いでみると足の裏に血が滲んでいた。泣きそうになりながら靴底のトゲを抜き、いばらの道をまた歩く。ウクライナの地雷とメキシコのトゲでは天地雲泥だがそれでも辛い。

靴底のトゲを幾度も抜きながらたどり着いた砂丘は、水を抜き切った海の底のようだった。高い砂山があるかと思えば、極端に深く沈む場所がある。それがどこまでも続いている。しかし感動というよりはどうも落ち着かない。茫漠とした景色を見つめても視点が定まらないのだ。いったいどのくらい広いのか想像もつかない。私達がいるのはまだ砂丘の入り口でしかない。試しに丘を1つ越えてみると、砂丘の彼方に鉄塔と送電線があるのが遠くに見えた。なにもこんなところにまで。人間というのはすごい。足元を見ると、ビールの空き瓶が1本転がっていた。こんなところにまで。人間はすごい……。思わぬ発見で嬉しくなった。

メキシコ独立記念日前日の前夜祭

夕方、町に戻ると昼間の寂れた雰囲気とは一転して華やいでいた。男達が冷やしたビールを続々と運んでくる。無邪気に走り回る子どもを追いかける母親。広場には明かりを煌々と放つ出店が並ぶ。どこか懐かしさを感じていると、突然、警笛が聞こえた。広場の脇にある地平線まで続くレールの上にヘッドライトを灯した列車が見えた。シウダー・フアレスで出会った南米からの移民希望者達が乗ってきたという貨物列車だ。屋根の上や連結部分に男性、女性、子どもが乗っていた。このままアメリカ国境まで向かうのだろう。列車から「VIVA MEXICO!」と叫ぶ者がいた。手を振り返す地元の人。地元で祭りを楽しむ人々と、故郷を出て列車に飛び乗った人々が交錯する瞬間の風景があった。

列車が過ぎ去り、すぐに祭りの喧騒が戻る。音楽が始まり、地元の人達がすぐに踊り出してその輪が広がっていく。メキシコ北東部モンテレイで偶然出会った客に魅せる踊りではなく、これは純粋に楽しむための踊りだ。派手さはないが体を揺らし和やかに興じている。昼間に見かけた畑で農作業をしていた少年の姿もあった。彼は同い年ぐらいの女の子と身をくねらせていた。スイカを運んでいた彼とは全く違う、凛々しい顔つきだった。

祭りを撮影したあと私達はヒッチハイクでシウダー・フアレスまで戻れるのではと都合よく考えていた。だが深夜2時を過ぎても踊りは続き、帰ろうとする車がない。町にはホテルもなく、野宿をするしかない。寝袋がわりにリュックに詰め込んでいた服をすべて着込み、広場の隣にあった建物の影に寝転ぶ。自分の見通しの甘さが嫌になったが、独立記念日の夜にこの小さな町で野営するのも悪くないはずだ。

朝6時頃に目が覚める。圓尾さんは寒くてほとんど眠れなかったようだ。誰もいなくなった広場にはゴミが散乱していて野良犬がエサを漁っていた。犬と同じく私達も腹が減っていたので昨日の食堂に顔を出す。昨夜はこの店も遅くまで繁盛していたのだろう。店内には客達が立ち去ったあとの余韻が漂っていた。従業員のおばさん達に昨日のような笑顔はなく、ひたすら眠そうに仕事を始めていた。

Photography Hironori Kodama

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.2 シウダー・フアレス https://tokion.jp/2023/12/05/mexico-reporto-diaries-vol2/ Tue, 05 Dec 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=218002 写真家の児玉浩宜が思いのままにたどり着いた国、メキシコを縦断した記録を写真とともに綴るフォトコラム。第2弾の都市はシウダー・フアレス。

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.2 シウダー・フアレス

アメリカとメキシコを隔てる“トランプの壁”

国境で交渉を試みたが、負けはほとんど見えていた。相手は入国係官ではなくギャングの男だ。私達が立っているのは山の中腹に引かれている国境線だがフェンスや目印のようなものはない。サボテンや灌木がまばらに生えているだけだ。こんなところで殺されても岩陰に放置されておしまいだろう。「メキシコは命の値段が安い」何度か耳にした言葉が頭をよぎった。

アメリカ・メキシコ国境といえば、もう何年も前から移民の話題が伝えられている。《移民希望者数が急増》《暴力や貧困からの脱出》《大統領選の争点》もう新鮮さはあまり感じられない。実はアメリカとメキシコを隔てる国境の壁(いわゆるトランプの壁)は西から東まですべて繋がっているわけではない。フェンスも壁もない箇所がいくつかあるらしい。メキシコ北部のシウダー・フアレスの街外れにある山もその1つ。国境をまたぐように山があるが、私有地のために壁の建設ができないという。実際に山の麓を訪れると、西の地平から連なってきた鋼鉄製の壁が唐突に途切れていた。

その先はどうなっているのだろう。同行している編集者の圓尾(まるお)さんと一緒に山道を進む。すぐに窪みに隠れるように歩く10人ほどの姿を見かけた。越境を試みる移民だろうか。彼等のうちの1人の男に声をかけられた。「お前は警察なのか?」そう聞いてきた男はギャングだった。彼はここを仕切るコヨーテと呼ばれる密入国の斡旋業者だ。密入国の手助けは麻薬カルテルのサイドビジネスから始まったともいわれている。越境するためには彼等に多額の金を払わなければならないらしい。彼に事情を説明すると男は足元にあった針金を拾い上げて「お前らが次に来た時はこれだ」と首を絞めるポーズをしてみせた。私達は後ずさりをしながら「わかった、わかった」と答え、引きつった顔で山を下りた。

そして2日後、私達は今度はアメリカ側からその山に登ってしまった。そして再びギャングに遭遇。冒頭の続きだ。懲りてないどころかさすがに馬鹿げている。何が「わかった、わかった」だ。だいたい同じ言葉を2度繰り返すやつは信用ならない。前回とは違う男達だったが「アメリカドルとメキシコペソを全額、それに携帯電話とカメラをよこせ!」と怒鳴ってきた。従わないと私達をメキシコ側に連れ去るという。交渉で時間を稼ぎたかったが、私の財布にあるのはわずか25ドル。これでは交渉材料にもならない。ペソの手持ちもなく(ATMでカードが受け付けなかったため)どうしても帰りのバス代のために少しはドルが必要なんだと必死に頼み込んだ挙句、15ドルを巻き上げられてしまった。少額とはいえドルを見せると男達は携帯電話やカメラのことは忘れてしまい、私達は解放された。私の命はこんなものか。持ち金もしみったれているが、払う額も同様にケチくさい。状況を静観していて1ドルも要求されなかった圓尾さんが「割り勘にしましょうか」と言った。ありがたいがそれでは私の命の値段が半額になるので遠慮した。山の麓まで下りて国境までのバスで5ドル使ってしまった。残りは5ドル札1枚。私達はメキシコに帰るしかなかった。

国境にかかる橋は地元の人達が行き交っていた。彼等は通勤や通学のために国境を渡っていく。壁の向こうの街も地元民にとっては1つの生活圏なのだ。麻薬戦争により、かつては世界で一番危険な街とも評されたシウダー・フアレスも現在は平穏らしい。私達はメキシコ側に戻って国境沿いを歩いた。さっきの山と違い、鉄の壁や有刺鉄線が視界を横切るように貫いていて、監視する国境警備隊や装甲車も見える。それらを眺めているとまるで自分が刑務所にいるような気分になる。周辺にはボロ雑巾のように破れた衣類や歯ブラシなどの生活用品が散らばっていた。それらを辿っていくと、国境の橋の下に20人ほどの人達がたむろしている。彼等は移民希望者で、多くは中南米の出身者の若者だ。さっき橋を渡ってきた時には気付かなかったが、彼等はここで野宿しているらしい。

メキシコ国境のアメリカ移民の実態

トニーという男が流暢な英語で話しかけてきた。恰幅のよいホンジュラス出身の54歳。すでに3ヵ月近くここで暮らしているという。「ここにはボスもギャングもいない。みんなは家族みたいなもんさ」とトニーは言ったが、仲間から気さくに話しかけられたり、持っていた果物を分け与えている姿を見ると彼自身が親分肌の持ち主のようだ。「メキシコの人達は食料や服の援助もしてくれるので助かっている。でもメキシコの警察はダメだ。すぐにここから追い払おうとする。俺達は猿や犬じゃないんだぞ」と言ってトニーは頭を横に振った。警察はあくまでポーズとして追い出す姿勢を見せているらしいが、それに付き合わされる彼等も大変である。警察が去ると彼等はすぐにここに戻ってくるという。「ホンジュラスだったら警官は簡単に人を殺すからね。ギャングに頼まれて小遣い稼ぎのために。あそこに比べればこの街はいい。アメリカはもっといいだろうな」と言って笑った。

何のためにアメリカへ行くのか。彼等に聞くと、その答えは壁にボールを投げたように軽々と跳ね返ってくる。私達はそもそも「移民」という言葉のイメージに否応なしに重い何かを背負わせている。しかし、ほとんどの場合そこに驚くような理由があるわけではない。「今より少しでもいい暮らしがしたい」それは常日頃から私達が同じように思っていることだ。ただ違うのは「少しでもチャンスがあるのならそれに賭ける」という覚悟だ。貧困や暴力、そして経済破綻。それらの状況はより一層その思いを強くするのだろう。

日が傾き始める頃、その場にいた若者達が大声を上げて一斉に走り出した。彼等が見上げた視線の先には、国境の橋を渡る通行人の姿があった。「1ドルでも1ペソでもいい、僕達に恵んで! ご飯を食べるお金を!」しばらくして立ち止まった通行人が、手すりの隙間から1枚の紙幣を落とすのが見えた。紙幣は風に漂い、ひらひらと舞った。それを目掛けて若者たちが走りだす。ひとりが高くジャンプして掴もうとした、が空振る。揉み合いになって砂埃が巻き上がる。ようやく地面すれすれで紙幣を掴んだ者は頭上の通行人に「グラシアス!(ありがとう!)」と叫んだ。すると、また別の人が落とした紙幣が風に乗ってくる。

金を落とすのは物価の安いメキシコで遊んで帰るアメリカ人や、故郷に戻っていてアメリカへ帰るメキシコ出身者のようで落ちてくる紙幣にドル札がかなり混じっている。恵まれている者が持つ罪悪感からなのか、利他的な精神から施すのだろうか。あいにく掴み損なった者は悔しさを見せるが、その姿が滑稽なのか時々笑いが起こり、悲壮感はまるでない。ふと振り返ってみると、トニーは拾ってきたような折り畳み式のアウトドアチェアをどこからか引っ張り出して腰を落ち着けている。年長者の余裕なのか中年者の遠慮なのかわからないが、若者達の姿を悠然と眺めていたのが印象的だった。

翌日も橋の下へ。昨日は見かけなかった集団がいて、こちらを遠巻きに眺めているのに気がついた。「あいつらはきっと新入りだろう」とトニーが興味ありげに言った。挨拶代わりに手を挙げるとその集団の1人が私に話しかけてきた。「ベネズエラから来たんだ。ようやく今日ここに到着したんだよ」精悍な顔つきの彼はタバコを吸いながら嬉しそうに言った。ベネズエラの位置を頭の中で巡らせてみる。コロンビア、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、グアテマラ、そしてメキシコ。アメリカへ渡るために彼らが通過する国はなんと7ヵ国。想像が追いつかない代わりになぜ彼等には切羽詰まったような佇まいがないのかわかった気がした。彼等はようやくここに辿り着いたのだ。若者達と話しこんでいた圓尾さんが「彼等はもう9割方成功しているんじゃない?」と言った。あとはもうあの壁だけだ。では、彼等はどうやって壁を通り抜けるのだろうか。私達が登った壁が途切れる山のことを聞いたが誰も知らなかった。彼等に質問をすると「飛び越えるんだよ」と臆せず答えた。

トニーは靴を脱いでくつろいでいた。はるばるホンジュラスからたどり着いたのに彼は3ヶ月もここにいる。すでにこの街が居心地良くなってしまっているのではないだろうか、と私は少し訝しく思っていたので「トニーはいつ壁を飛び越えるの?」と聞いた。彼は途端に言葉を詰まらせた。「……近いうちだ」私は半信半疑だったが、彼は半ばムキになり「見ろ!あのパイプを!俺は若くはないがネズミみたいに穴を潜ったり壁を這ったりいくらでも動ける!」と慌てて指さした。その先には川に注がれる排水口があったが、遠目に見ても直径は30cmほどもない。私はしどろもどろになる彼の反応を見て考えた。彼らが辿ってきた長い道のりを考えると慎重になるのは当然だろう。最後に失敗はできない。私なら怯んで何もできないかもしれない。話題を逸らすようにトニーは続けた。「つい2日前にも中国人の若い男が壁を飛び越えたんだ。あいつは成功したんだよ!」まるで自分のことのように嬉しそうに彼は話した。なぜ中国人がここに来てまで密入国をするのかよくわからない。中南米にはインディオの血を引く東洋人のような顔立ちの人もいるので勘違いだろうと思って聞き流した。

隣にいた男が私に声をかけきて顎をしゃくるようにして橋の通行人を指した。「お前もやれ」ということらしい。スペイン語がろくに話せない私は大袈裟に手を振ってしばらく通行人に訴えてみたものの金は落ちてこなかった。無力な私を見て男は鼻で笑った。次第に立ったまま声を張り上げるのが面倒になった者は地面に寝転び始めた。仰向けのまま、頭上の橋を行く人達に大声で呼びかける。私も同じように寝転んでみた。心地がいいとはいえないが、橋がちょうど日陰になっていて涼しい風が吹いた。どこからともなくマリファナの匂いが漂ってくる。あたりが暗くなり始めると橋の下に「帰宅」する人が増えてきた。

帰り際、トニーに別れの握手ついでに手持ちの残りの5ドルを渡した。餞別にしては恥ずかしい額だ。彼も「サンキュー」と言っただけで嬉しくもなさそうだった。メキシコで使えない金を渡しても仕方がないが、できればアメリカで使ってほしかった。彼等が壁を越えられたとしても、その先の市街地には何重にも検問があるらしい。移民申請が認められるかどうか、仕事が見つかるかどうかもわからないギャンブルのようなものだ。たとえ「命の値段が安い」としても、勝負に勝ち続ければそれは何倍もの価値になるだろう。金を掴もうと走る若者達の姿が目に焼き付いている。

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.1 モンテレイ https://tokion.jp/2023/11/09/mexico-reporto-diaries-vol1/ Thu, 09 Nov 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=215439 写真家の児玉浩宜が思いのままにたどり着いた国、メキシコを縦断した記録を写真とともに綴るフォトコラム。第1弾の都市はモンテレイでの出会いについて。

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.1 モンテレイ

「純粋な旅を続けたい」ウクライナを離れ、募る想いとともにたどり着いたメキシコ

いつのまにか、ほとんどの顔ぶれが入れ替わってしまっている。

乗客を乗せた長距離バスはいくつもターミナルを経由していった。窓からは砂漠に岩山、そしてサボテンが現れては視界から消えていく。もっと純粋な旅を続けたい。何度も取材で通った戦時下のウクライナの風景から離れ、さらに遠いところへ。募る想いとともにたどり着いたのはメキシコだった。

「こっちに住む人たちに聞いたんですよ。そしたらみんなバスだけは止めとけって」

そう言ったのは旅のパートナーである編集者の圓尾(まるお)さんだ。

私たちはメキシコ中部のマテワラという小さな町の宿で、彼を半ば説得するように話していた。

彼が言うのも無理はない。この国は広大だ。日本の5倍以上の面積がある。地方へ行きたい場合、ふつうは地元の人でも飛行機を使う。長距離バスの場合、24時間近く乗らなければいけないこともあるらしい。それに夜行バスは警察や強盗に金銭を要求されることもあるという。

「それでもいまのメキシコを見るならバスで移動するほうがいい」と私は食い下がった。

飛行機だと事前にチケットを予約してスケジュールを決めなければならない。滞在は約1ヵ月。時間は十分にある。できれば細かい予定を立てず、流れるように転がるように旅をしたい。自由を求めてアメリカの路上を彷徨ったジャック・ケルアックも、神秘的体験に惹かれたウィリアム・バロウズも目指したのはメキシコだった。彼等が魅了されたものは何だったのだろう。昨今のメキシコと言えば麻薬、ギャング、移民問題など、印象が良いとはいえない。その背景にはいまを生きる人々の素顔が隠されているのではないか。だからこそ私は心が向くままに旅をしながら、現在のメキシコを肌で感じてシャッターを押したい。旅の目的を素直に話した。

圓尾さんはため息をつきながらも、こちらの提案を理解してくれた。ただ彼はどうしてもメキシコシティで開催されるライブを観たいらしい。出演者はモリッシー。ご存知、イギリスのアーティストである。いきなりラテンアメリカの旅路から逸れてしまう気がしたが、こちらもわがままを受け入れてもらっている身だ。大いに楽しんでもらいたい。それに私たちに定まったルートなどないのだ。とにかく彼は一旦メキシコシティに戻る。そして3日後にアメリカとの国境の街、北部シウダー・フアレスへそれぞれ空路で向かって合流し、そこを起点として南下する旅を始めることを決めた。

その間に少しでも北に近づこうと、心細くはあったがひとりでモンテレイにバスで向かうことにした。

ターミナルに到着したのは夕方近くだった。降り立った途端、蒸した空気に身体が包まれる。さっき見た電光掲示板では気温は39度を示していた。メキシコ北東部にあるモンテレイはアメリカの国境に近く、日本を含めて外資系企業が多数進出する工業都市であり、経済の中心地だという。とはいえホテルの周辺を歩いてみたが、ナイトクラブから爆音でディスコミュージックが漏れ聞こえ、娼婦が路地に立ち、猥雑な雰囲気が漂う。

バックパックを背負って近くの安宿街を訪ね歩いてみたが、どこも満室だと断られた。どうも南米からアメリカを目指す移民たちが大勢滞在しているらしい。どこの宿の入り口もそういった人々がたむろしていた。

ようやく空きがあるホテルを見つけたが、お世辞にもきれいとは言えなかった。部屋のドアは落書きだらけ。天井にあるファンは室内の空気を掻き回しているが、感じられるのは熱風だけ。水シャワーを浴びたがそれでも暑さに耐えきれず、結局すぐに外へ出た。

近くの屋台でひとりタコスを食べて部屋に戻る。しかし、部屋はサウナのようで身体が休まることなく、夜中に何度も目が覚める。涼みに外に出ようにも、夜間は危険ということでホテルの出入り口は施錠されている。繰り返し水シャワーで身体を冷やしていたら朝になっていた。

2000頭の馬の群れと1000人が踊る記念日のパレード

翌日は日曜だった。睡眠不足のままメインストリートを歩く。休日のためか人の往来はさほど多くない。商業ビルが立ち並ぶ大通りを歩いていると、突然現れた警察官が道路の規制を始めた。事故かな、と思っていると、いきなりアスファルトの路面を叩くような音が連続した。

馬の群れだ。いったい何頭いるのだろうか。波のように押し寄せてくるので、数えきれない。馬にはカウボーイたちが乗っている。どこからか湧き出すように観衆が集まり始めた。パレードだろうか。馬の蹄が地面を蹴り、カウボーイたちは誇らしげにポーズをとる。それぞれブルージーンズにブーツ、そしてソンブレロと呼ばれるカウボーイハットがさすがに様になっている。馬に跨ったまま缶ビールをあおったり、スマートフォンで動画を撮りながら馬に乗る人も。観客らとともにパレードを追いかけた。隣にいた男性に話を聞くと、この日はモンテレイの市政記念日らしい。この日のために地元からおよそ2000頭の馬を集めたのだとか。カウボーイの歴史やルーツは、メキシコを拠点にしていたスペイン人の文化で、現地の言葉で「バケロ」と呼ぶらしい。

彼は「バケロは我々の自信と誇り、そして自由の象徴なんだ」と胸を張った。パレードの目的地であるサラゴサ広場に到着するとそこは馬だらけでまるで牧場のようだった。こんなイベントに遭遇するとはこれは幸先がいいぞ、と内心ほくそ笑んだ。

マリアという女性のスタッフに英語で声をかけられる。

「このあと午後5時に必ずここに来て。1000人が集まって踊るんだから」と言った。

1000人が踊る? なんだそれは。唐突すぎて理解が追いつかない。

周辺を散歩してから指定の時間より早めに広場に戻ると、すでにいくつかのグループが集まっておしゃべりをしていた。女の子たちはクラシックなドレス姿。青年たちもタイトなパンツにソンブレロを被っている。その凛々しい姿にかなわないなと思う。見惚れていると続々と他のグループも集まってきた。

広場にある仮設ステージの裏では地元の新聞社やテレビ局のカメラマンも大勢いて、担当者と打ち合わせをしていた。彼等を横目にこっそりステージに上って撮影ポジションを確保しようとすると、後ろから大声で話しかけられた。振り返ると、大柄の男性がいきなりスペイン語でまくし立てる。まずい。撮影するのに事前に許可が必要なのだろうか。返答に困っていると彼は私の肩をがっちりつかんで他のカメラマンたちのところへ連れていき、グッドサインをした。どうやら「あとでステージに上がらせてやるからここで待て」ということらしい。杞憂だった。

踊りはバンド演奏を合図に始まった。ブーツのつま先で激しく地面を蹴る独特のステップにひらひらと舞う衣装。集まった1000人がポルカのリズムに乗せて踊るのはさすがに息を呑む。だが、ラテン特有のおおらかさが作用しているのだろうか。一糸乱れぬ団体舞踊というよりも、純粋にそれぞれが踊ることを楽しんでいるようだ。見ていた地元の観客もつられて踊る様子がまた楽しい。

カメラマンの集団から抜けてステージを降りると、演奏が流れるスピーカーの前でさっきのマリアを見つけた。

「この踊りは何というの?」と大音量の演奏に負けじと彼女の耳元に話すと、マリアは叫ぶように「フォークロア・バレエよ!」と率直な答え。彼女によると、このイベントそのものは3年前から始まったらしい。伝統文化が根付きにくい工業都市に新たな潮流をつくりたいのだとか。2000頭の馬に1000人の踊りである。町おこしにしたって数がすごい。

1時間ほど続き、踊り疲れた彼等が向かったのは、ケータリングで用意されていた食事。それはまさかというか、やはりというか、大量のタコスだった。それも1000人分!晴々しい顔でかぶりつくタコス。早合点とはわかりつつも、これがメキシコか!と驚いていると「写真を撮ってくれ!」とさっそく声がかかる。

馬のパレードや踊り、そしてこのタコス。街を歩くだけで偶然にも彼等のアイデンティティに触れたような気がする。

その夜、圓尾さんから「モリッシーのライブは延期になりました」と落胆する連絡が来た。「残念でしたね」と言うほかないが、励ますように今日あった出来事を伝える。

2日後、飛行機は2時間弱でシウダー・フアレス空港に着陸した。滑走路は雨で濡れている。携帯電話が電波を拾い、旅のパートナーである圓尾さんが待つモーテルの住所が送られてきた。かつてこのシウダー・フアレスではカルテルによる麻薬戦争が勃発し「世界で最も危険な街」と呼ばれていたらしい。

機内から降りるとすぐにメキシコ移民局による身分証のチェックが始まり、私を含めた外国人は空港で待機させられた。IDカードを見せて素通りしていくメキシコ人たちとは対照的に、私たちは緊張感に包まれていた。係官がパスポートを入念にチェックした後、私は無事解放されたが、他の人々は移民局の護送車に乗せられ空港から連れて行かれてしまった。その場には重苦しい空気だけが残り不安を誘ったが、旅が始まる高揚感で自分を奮い立たせ、小雨の降るなか街へ向かった。

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ウクライナ・空襲警報の下でパーティーは続く 「俺達のノーマルを続ける。それは戦争中だろうが関係ないんだ」 https://tokion.jp/2022/05/27/photographer-hironori-kodama-reportage-in-ukraine/ Fri, 27 May 2022 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=119820 写真家の児玉浩宜によるウクライナ・
ルポ。オデーサの街で体験したパーティーで感じたこと。

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イベントの主催者、パブロと出会ったのは偶然だった。
「俺達のノーマルを続ける。それは戦争中だろうが関係ないんだ」と彼は繰り返し言った。

私はロシアの侵攻を受けたウクライナに、3月に続いて2度目の滞在をし、首都キーウ周辺や東部ハルキウなど、ロシア軍に徹底的に破壊された街や占領されていた村を取材していた。前回は1ヵ月間の滞在だったが、今回は3週間。残り少ない滞在日数で向かったのは、ウクライナ南部のオデーサ(オデッサ)だった。オデーサは黒海に面しており、国内最大の港を持つ要衝でもあるため、海と陸の両方からロシア軍の圧力が強まっている。市内中心部はミサイル攻撃はないものの、ショッピングモールやホテルなど、すでに何度も空爆されて死者も出ているとニュースで見た。一方でオデーサは「黒海の真珠」とも呼ばれ、歴史ある街並みや白亜のビーチがある有数のリゾート地とも聞いていて、取材の最後に訪れる街として魅力を感じていた。

しかし現実は厳しいものだった。確かに街の石畳や歴史ある建物は観光地の風情を感じるが、戦争中ともあって海外から訪れる人はほぼ皆無。街はひっそりとしたままだ。別荘が並ぶビーチも現在は、ロシア軍の上陸を阻むため「地雷あり、注意」という警告が白い砂に突き刺さる。街中のいたるところに撮影禁止の看板が掲げられているのは、街並みや地形といった軍事的にも重要な情報を外に漏らさないようにするためだろう。そして、この街もキーウやハルキウと同じように、1日に何度も空襲警報が鳴り響く。私は次第に陰鬱とした気分になり、暗く寂しい街を歩いていた。

青年セヴァとの偶然の出会い

そんな中、「どこから来たの?」とすれ違いざまに突然声をかけてきた青年がいた。彼はセヴァという地元出身の19歳で、手にはキャンバスを持っている。学生で、将来はペインター(絵描き)として生計を立てたいと考えているという。「いま描いた絵を運んでいるんだ。歩きながら話さない?」と言うので気晴らしについていった。

彼と訪れた場所はなんの変哲もない集合住宅の裏口だった。その扉をくぐり抜けた先に、倉庫を改装したアートスペースがあった。本来、この場所はクラブとして営業していたが、ロシアの侵攻直後に発令された戒厳令の影響によって、現在は休業中で、一時的にアートスペースとして若手のアーティストの作品を展示していると、ここの主要メンバーのパブロは教えてくれた。セヴァの作品もそのうちの1つらしい。

パブロによると、この場所を中心としたコミュニティがあり、運営メンバーはカフェの店員や美容師、ミュージシャンなど、普段はそれぞれ別の仕事をしながら、ここでたまにイベントをしてお金を集め、ボランティアへ寄付しているそうだ。

「そういえば週末の金曜にちょっとした音楽パーティーがあるんだけど来る?」とパブロが誘ってくれた。残念ながら私はほぼ取材も終わっていて、金曜日の夕方にはポーランド行きの国際列車に乗らなければならず、事情を説明し「顔だけ出すよ」と言ってその日は別れた。

イベント当日。昼過ぎに例の集合住宅の裏口から入ると、パブロが中庭でDJブースの準備をしていた。今日は小さなレイブイベントをするらしく、フロアとなる中庭から青空が見えて気持ちいい。パブロ以外のスタッフ達も楽しそうにイベントに向けて準備をしている。会場内にはウクライナならではなのだろうか、多くの花が飾られていた。「イベントは夜9時まで。オデーサでは夜10時以降は外出禁止だから、束の間の楽しみだよ」とパブロはそう言って笑う。

ほどなくして、用意されていたスピーカーから爆音で音楽が鳴り始める。さっそくDJブース前に陣取り、踊り始めるスタッフ達がいる。戦時下のウクライナで、DJの音楽に合わせて踊るという状況に私は少し戸惑いを感じたが、パブロが私のそうした思いを見抜くような表情で、「君は不思議に思っているんだろう? その気持ちはわかる。でもこれが俺達のノーマルなんだ。それを続けるんだ。それは戦争中だろうと関係がないんだよ」と言う。私はその会話の後、すぐにオデーサでの滞在を1日延ばす決断をした。この状況にぜひ長く立ち会いたいと思ったからだ。

午後3時を過ぎたあたりから徐々に人が集まってきた。それぞれが、いまできる限りのおしゃれをして、再会のハグをしたり、一緒に踊ったりして楽しんでいる。みんな運営メンバーの友達、またその友達、といった面々らしい。大げさに告知をしていないこともあり、客の数は15人ほど。少なく感じるかもしれないが、そもそもウクライナ全土は戒厳令下である。彼らができる規模はこれぐらいが限界なのだろうが、それでも心地良い時間が流れているのは確かである。

DJブースからの音楽はテクノが中心だが、シティ・ポップのような曲もある。とても耳に残るフレーズの曲が聴こえてきて、それに合わせて歌う女の子もいる。曲名が知りたくなり、DJブースにいた男の子に聞いてみると、「ロシアの歌謡曲で、これはそのリミックスなんだよ」と言って、私のスマホですぐに検索してくれた。私は素直に驚いた。戦争しているまさにその最中に、敵国の音楽を流して踊っている。ウクライナにはそれほどロシアからの文化は根強くあり、そしてこの戦争が単純に文化や習慣の対立などではなく、やはり一方的な侵略であることに改めて気付かされる。

戦時下でも“日常”を続ける

私は一旦落ち着こうと、裏口に向かった。1歩外へ出ると、普段通りの閑散とした街の風景だ。ドアの向こうから響くリズムがかすかに聞こえる。誰がここでDJパーティーをやっていると想像できるだろうか。人知れず行われている秘密のパーティーに参加している、そんなことが少し嬉しくなっている自分がいた。

一息ついた途端、あの忌まわしい音を耳にした。空襲警報だ。私はあわててドアを開けて戻った。そして再び驚いてしまった。みんな一心に踊り続けているのだ。会場の音が大きく、警報音が全く聞こえないのもあるが、それでも、警報が出るとスマホのアプリに通知がくるので、みんな知っているはずだ。スマホを手に取る人もいたが、それもすぐにポケットに戻して踊り続ける。空襲警報が鳴る空の下、踊りを止める者はいない。「俺達のノーマルを続けるんだ」。パブロが言っていた意味がようやくわかった気がした。ノーマルとは直訳すると「通常・普通」という意味になるが、この場合「日常」と訳したほうがふさわしいだろう。

音響の調整をしていたパブロに改めて聞く。
「あなたにとってのノーマル(日常)とはなんなの?」。
彼は即答した。「どんな状況でも素直に楽しむんだ。わかるだろ? 君はいつも写真を撮っている。きっとどんな状況でも撮るだろう。それと同じで俺もこうやって友人と会って、音楽を聴いて楽しむ。それがノーマルなんだよ。それを続けるんだ」。

聞けば戒厳令下ということもあり、彼らは3月と4月はただ無為に過ごしていたそうだ。さすがにもう我慢の限界なのだろう。5月からは週末の金曜日にだけ、こういったDJイベントを開催しているらしい。戦争中に、踊って楽しむことは平和な国に住む私達にとって非日常のように感じられるかもしれない。だが、それはあくまで外からの目線でしかない。彼らにとって突然侵略された体験そのものが非日常であり、戦争が始まるまでは彼らはこうやって日常的に踊りを続け、楽しんでいたのだ。今さら空襲警報が鳴ったからといって、それまでの暮らしにあった楽しみを止めるわけにはいかないのだ。

1人の男の子と目が合う。地元でラッパーをしているというユーリだ。BPMの速いダンスミュージックに合わせて、即興でウクライナ語の超速ラップを披露してくれる。歌っている内容はわからなかったが、彼はいまの心情について語ってくれた。
「戦争が始まった時は目の前が真っ暗になった。この国には戦争で家族を失った人がたくさんいる。そしてみんなとても心を痛めている。だからというわけじゃないけど、僕はこうやって友達に会って、夢について語ったりする。それだけでとても満たされている。少しは楽観的になったかなと思う」。

そういえば、ペインターのセヴァの姿が見えないのが気にかかる。再び外へ出てみると、表のエントランスにたむろしていた若者達の中に、彼がいた。「聞いてくれよ。なぜか僕がブラックリストに入ってるらしくて、中に入れないんだよ」と半分笑いながら肩をすくめる。前日にメンバーとちょっとしたトラブルで口論になったからだという。でも彼は根に持たない性格のようで、会場の外で久々の友人との再会を楽しんでいる。

若者達は踊り続ける

ウクライナの日没は遅い。夜8時ごろにようやく夕焼け空になり始める。DJがマイク越しにウクライナ語で何かのアナウンスをする。客の1人が「これからが一番盛り上がる時間だよ!」と教えてくれる。

外出禁止令まであと2時間。そろそろクライマックスといったところだろうか。この時間になると客も増え、30人ほどになっている。BPMに合わせて体を揺らす参加者達は、表情が輝いている。酒をがぶ飲みしては叫ぶ若者もいるが、それもご愛嬌のようなものだろう。私もつい笑顔になる。

「1日滞在を延長して本当に良かった。この場に立ち会えることが本当に嬉しい」とパブロに伝えた。「そりゃよかった。戦争だからといって何もせず、暗い気持ちになるのは俺達らしくないんだ。楽しむためのベストを尽くす。俺達のノーマル(日常)とはそういうことだ」と彼は返してくれた。

気丈に振る舞っているが、彼の中には悔しい気持ちもあるはずだ。戦争など無ければ、朝まで踊っていたいだろう。停戦の兆しが見えぬまま、侵攻開始からすでに3ヵ月が経つのだ。

夜間外出禁止令の時間まであとわずか。
空襲警報が鳴る中、この街の若者達はパーティーで踊り続ける。

Photography Hironori Kodama

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