写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.4 クアウテモック

色彩が低い集落メノナイト

タクシーの運転手は私達を広大な畑に囲まれた一本道に降ろした。彼に伝えた住所は「カンポ6A」。カンポはスペイン語で「畑」という意味なのでここで間違ってはいない。

チワワ州クアウテモック。ここからさらに奥へ入った辺鄙な場所に「メノナイト」という人々の集落がある。砂利道を進んでいくと家が点在しているが、色鮮やかなメキシコのイメージとは違って色のない建物ばかりだ。「意匠を取り払った建物」「原初的なコンクリート建築」とでも言えば良いのだろうか。簡素な佇まいに、ついミニマリストという現代的な言葉が口に出そうになる。それは私が日頃から現代の物質的に満たされた暮らしをする人間だからだ。メノナイトはそういった暮らしを求めていない。ここでは広告看板も一切見当たらない。

メノナイトとは16世紀の宗教改革に端を発したキリスト教の一派であり、中央ヨーロッパで誕生した。農業や手工業で自給自足に近い、質素な生活を共同体の中で営む。非常に保守的な価値観を持ち、酒や娯楽は禁忌とされ、世俗社会から離れた地域に定住している。あまりに保守的なため自動車ではなく馬車に乗り電気製品を一切使わずに近代文明を拒絶して、19世紀そのままの暮らしを続けるコミュニティもあるらしい。アメリカには同じような生活をする「アーミッシュ」という集団がいる。

メノナイトの歴史は流転の歴史だ。メキシコ・チワワ州に入植したグループは、かつてロシアで農業を営んでいた。だがボルシェビキ革命の影響で農地を奪われ、アメリカやカナダへ移住。その後、北米の近代化が進むと逃げるようにメキシコへ南下した。独自の信仰と理想の暮らしを守るためだ。クアウテモックには1920年代に大規模な入植があったが、メキシコも近代化が進み、さらに南米へと移住した集団もいるらしい。


メキシコへ来て出会った南米からの移民希望者の人々は「自由や金」を信じて「より良い暮らし」を目的に北を目指していた。時代や信じるものは違えど、同じ目的で逆のルートを辿ってきた人達がいることに驚く。それも1世紀も前に。

とはいえ私は彼等についての知識は少ない。実際の暮らしはどうなのだろう。街の中心部には観光客向けにメノナイトの資料館があり昔の暮らしを再現するガイドがいるらしいが、そのようなものに興味が持てなかった(休館日でもあったのだが)ので、この集落へ訪れたのだ。

メノナイトのルーツを示す建物

集落を歩いていると、庭に年老いた白人の男性がいた。いわゆるメノナイトらしい作業着の装いである。彼は猟銃を手にしてこちらをじっと見ていた。部外者である私達を警戒しているのだろうか。聞きかじった下手なスペイン語でとりあえず声をかけてみたが、彼は無言のまま銃に弾のようなものを込めている。緊張感が漂った。焦りつつ発音を変えて挨拶を繰り返していると、男性は困惑した表情で私の言葉を遮った。


「英語で話してくれるかな? スペイン語はわからなくて」彼が流暢な英語を話したので私は脱力して転びそうになった。彼はピーターと名乗った。カナダ出身の78歳の彼もまたメノナイトでここでの共同体の暮らしを求めてきたという。残念ながら耳が遠いようであまりしっかりとコミュニケーションが取れない。彼は庭に飛んでくる鳥を撃っていた。「やってみるか?」と手渡されたのはなんのことはない、ただの空気銃だった。

しばらくして少年2人がバイクに乗ってやってきた。ジョシュアくん15歳とトバイアスくん14歳。彼らが通っている学校もメノナイトが運営している。授業について聞くと「学校でスペイン語、ドイツ語、高地ドイツ語、英語も勉強してるんだ」と言った。彼らは母語の低地(平地)ドイツ語を「ジャーマニー」と呼び、一般的な標準ドイツ語を「ハイジャーマニー」と呼んでいた。外から見るか中から見るかでは視点は逆になる。

道路沿いにガソリンスタンドがあり、真新しい4輪バギーに乗った5人組の若者達がいた。彼等の祖父母達もまたロシアからカナダを経由して移住してきたという。「昔は馬に乗ってたらしいけどね。今じゃスマートフォンだって持ってるし、都会と変わらない暮らしだよ」と言った。彼らとお互いのInstagramのアカウント交換という現代の極みのような交流をした。

他にも家の庭で優雅にホームパーティーをしている家族も見かけたが、どうも彼等の暮らし向きは決して悪くはなさそうだ。あとで調べてみると、農業で成功している一族も多いらしい。むしろこの街そのものが、メノナイトが持ち込んだ酪農産業によって経済を刺激して大きくなったという。

外界から隔絶された農地を求めてここへ入植した信徒の姿を今となっては想像しがたい。だが私は彼等のルーツを示す建物を道路脇で見つけた。電話店だ。メノナイト達が家の中で電話を使うことを良しとしなかった時代の産物だろう。壁にはカナダとアメリカの国旗が誇らしげに描かれている。ここから国際電話をかけていたようだ。故郷の親類と話すことで心の結びつきを保っていたのだろう。

先住民で山岳民族のタラウマラの女性

私達は通りかかったバスに乗りさらに奥にある街へ向かった。派手な衣装を身につけた人達が目に入る。山岳民族である先住民「タラウマラ」の女性達だ。メノナイトの佇まいとは真逆で、原色に染められたふんわりとしたブラウスやスカートは寝間着のようにも見える。

これまで彼女達に何度か声をかけたが、まともに応じてくれる人は少なかった。タラウマラの人々はかつてのスペイン人の征服者から逃げ、山間部の岩穴に隠れるように暮らして伝統的な習慣を維持して生きてきた。近代になって街に下りてきた人々が今でも警戒心が強いのはその名残なのだろう。

街の外れにトラックに乗り込もうとしていたタラウマラの家族がいた。そのうちの頭巾をかぶった1人のおばあさんの衣装がとても気になったので挨拶をすると、おばあさんの娘が「なぜ写真を撮りたいの?」と私に聞いた。私は率直に、彼女の服がとても美しいからですと言った。娘がおばあさんに伝えると、彼女は「仕方がないねえ」というようなことを言いつつ、まんざらでもなさそうな顔をした。そして車からぴょこんと飛び降り、路上に立ち姿勢を正した。

車が去るのをおばあさんの娘が見送ったあと、彼女はスマートフォンを取り出した。そしてWhatsAppの画面を見せて「写真を私に送ってね」と言った。

もちろん場所によるが「昔ながらの暮らし」を期待するのは常に外部の人間であり、ほとんど勝手な理想の作り話のようなものである。先住民の土地の権利問題や、メノナイトと地元住民との軋轢もあるだろう。時には自然や異文化とせめぎ合い、時には移動することによって、彼らはぎりぎりの調和を維持して暮らしているのではないだろうか、などと大仰なことを考えながら私達は翌日、次の街へ移動した。

author:

児玉浩宜

1983年兵庫県生まれ。民放テレビ番組ディレクターを経てNHKに入局。報道カメラマンとして、ニュース番組やドキュメンタリーを制作。のちにフリーランスとして活動。香港民主化デモを撮影した写真集『NEW CITY』、『BLOCK CITY』を制作。2022年から2023年にかけてロシアのウクライナ侵攻を現地で取材。雑誌やWebメディアへの写真提供、執筆など行う。写真集『Notes in Ukraine』(イースト・プレス)を制作。 Instagram:@kodama.jp https://note.com/hironorikodama/

この記事を共有