写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.3 サマラユカ

広大な砂漠に囲まれた街

シウダー・フアレスから国道を50キロほど南下すると、サマラユカという町がある。砂漠地帯に囲まれているこぢんまりとした町だ。通りに沿って数えるほどの雑貨屋や自動車の整備工場が並んでいるだけの少し寂しげな町だ。

空腹だったので1軒の食堂を見つけてドアを開けた。店内は薄暗かったが、奥のカウンターでは従業員の女性達が山盛りのコリアンダーを刻んでいる。私はハンブルゲサ(ハンバーガー)とコーラを注文した。他に客は家族連れが1組しかいない。なのに従業員のおばさん達は5人も6人もいて忙しく調理をしている。話しかけると「今日はお祭りだからね、たくさん客が来る」と浮き足だったような口調で言った。私はすっかり目的を忘れていたが、明日はメキシコの独立記念日なのだ。首都メキシコシティでは今夜は盛大な花火が上がり大騒ぎになるだろうが、騒ぎは面倒なのであえてこの小さな町に来たのだ。今夜は町の広場でささやかな前夜祭が開かれるという。

「近くに砂丘があるらしいんですよ。聞いた話ですけど」旅を共にする編集者の圓尾さんが言った。Googleマップを確認すると、町の東側に巨大な砂漠地帯がある。距離を見れば歩いて2時間ぐらいか。砂漠にある町からわざわざ砂丘見物に歩いて行くのはどうかしてると思うが、祭りまでにはまだ時間がある。私達は向かうことにした。

町を出て砂漠を歩く。乾いた砂利にぽつぽつと灌木やサボテンが生えた景色が果てしなく続いている。強烈というよりは凶暴な太陽ががんがんと皮膚を焼き、滝のように汗を垂らす。私はすぐに後悔しはじめた。

ウクライナでも広大な土地を歩いたことがあった。もっと肥沃で粘り気のある土で、雪解けのあとを歩くと泥がぶらさがるように靴底に張り付いた。あの時は少し草むらに入るのもかなり躊躇した。地中に地雷が埋まっていたり不発弾が残っていたりするからだ。ウクライナ軍の兵士は「絶対に道の真ん中を歩け」としつこく繰り返していた。今でもその恐怖心が残っていて、道を外れて歩くとつい足がすくんでしまう。今は全く違う土地にいると頭ではわかっているのに、体に残った記憶を引きずっている。

遠くに畑が見え、スイカやズッキーニといった瓜科の野菜を収穫している男達がいた。私達に気付いた1人が転がっていたスイカを拾いあげてポケットからナイフを取り出す。脇に停めていた車のボンネットにスイカを置き荒々しくぶった切った。断面はみずみずしくメキシコの太陽を反射させた。「食ってみろ」ということらしい。ありがたく口に入れる。味は日本のものよりややあっさりしているが、水分が豊富で口から汁がこぼれ落ちる。なぜ砂漠でこんな作物がつくれるのだろうか。彼らは私達の姿を満足げに眺めた。その中に中学生ぐらいの少年がいたので話しかけてみたが、恥ずかしそうに微笑んだあと、うつむいて黙々と作業に戻った。彼らに今夜の祭りのことを聞くと、当然のように知っていた。

さらに砂漠を歩いた。多少の起伏はあるが、いくらも景色が変わることはない。スマホのGoogleマップだけを頼りに歩く。日焼けで肌がヒリヒリするが、さらに追い討ちをかけるような衝撃的な痛みを足に感じた。トゲである。そこら中に乾き切った低木の枝が落ちており、その枝にあるトゲが靴底を貫いて足の裏に刺さるのだ。東京の量販店で買った税込1900円の靴はウクライナの荒地でも頑張ってくれていたのだが、所詮は安物。履き潰して靴底がペラペラだ。靴下を脱いでみると足の裏に血が滲んでいた。泣きそうになりながら靴底のトゲを抜き、いばらの道をまた歩く。ウクライナの地雷とメキシコのトゲでは天地雲泥だがそれでも辛い。

靴底のトゲを幾度も抜きながらたどり着いた砂丘は、水を抜き切った海の底のようだった。高い砂山があるかと思えば、極端に深く沈む場所がある。それがどこまでも続いている。しかし感動というよりはどうも落ち着かない。茫漠とした景色を見つめても視点が定まらないのだ。いったいどのくらい広いのか想像もつかない。私達がいるのはまだ砂丘の入り口でしかない。試しに丘を1つ越えてみると、砂丘の彼方に鉄塔と送電線があるのが遠くに見えた。なにもこんなところにまで。人間というのはすごい。足元を見ると、ビールの空き瓶が1本転がっていた。こんなところにまで。人間はすごい……。思わぬ発見で嬉しくなった。

メキシコ独立記念日前日の前夜祭

夕方、町に戻ると昼間の寂れた雰囲気とは一転して華やいでいた。男達が冷やしたビールを続々と運んでくる。無邪気に走り回る子どもを追いかける母親。広場には明かりを煌々と放つ出店が並ぶ。どこか懐かしさを感じていると、突然、警笛が聞こえた。広場の脇にある地平線まで続くレールの上にヘッドライトを灯した列車が見えた。シウダー・フアレスで出会った南米からの移民希望者達が乗ってきたという貨物列車だ。屋根の上や連結部分に男性、女性、子どもが乗っていた。このままアメリカ国境まで向かうのだろう。列車から「VIVA MEXICO!」と叫ぶ者がいた。手を振り返す地元の人。地元で祭りを楽しむ人々と、故郷を出て列車に飛び乗った人々が交錯する瞬間の風景があった。

列車が過ぎ去り、すぐに祭りの喧騒が戻る。音楽が始まり、地元の人達がすぐに踊り出してその輪が広がっていく。メキシコ北東部モンテレイで偶然出会った客に魅せる踊りではなく、これは純粋に楽しむための踊りだ。派手さはないが体を揺らし和やかに興じている。昼間に見かけた畑で農作業をしていた少年の姿もあった。彼は同い年ぐらいの女の子と身をくねらせていた。スイカを運んでいた彼とは全く違う、凛々しい顔つきだった。

祭りを撮影したあと私達はヒッチハイクでシウダー・フアレスまで戻れるのではと都合よく考えていた。だが深夜2時を過ぎても踊りは続き、帰ろうとする車がない。町にはホテルもなく、野宿をするしかない。寝袋がわりにリュックに詰め込んでいた服をすべて着込み、広場の隣にあった建物の影に寝転ぶ。自分の見通しの甘さが嫌になったが、独立記念日の夜にこの小さな町で野営するのも悪くないはずだ。

朝6時頃に目が覚める。圓尾さんは寒くてほとんど眠れなかったようだ。誰もいなくなった広場にはゴミが散乱していて野良犬がエサを漁っていた。犬と同じく私達も腹が減っていたので昨日の食堂に顔を出す。昨夜はこの店も遅くまで繁盛していたのだろう。店内には客達が立ち去ったあとの余韻が漂っていた。従業員のおばさん達に昨日のような笑顔はなく、ひたすら眠そうに仕事を始めていた。

Photography Hironori Kodama

author:

児玉浩宜

1983年兵庫県生まれ。民放テレビ番組ディレクターを経てNHKに入局。報道カメラマンとして、ニュース番組やドキュメンタリーを制作。のちにフリーランスとして活動。香港民主化デモを撮影した写真集『NEW CITY』、『BLOCK CITY』を制作。2022年から2023年にかけてロシアのウクライナ侵攻を現地で取材。雑誌やWebメディアへの写真提供、執筆など行う。写真集『Notes in Ukraine』(イースト・プレス)を制作。 Instagram:@kodama.jp https://note.com/hironorikodama/

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