LIFESTYLE Archives - TOKION https://tokion.jp/category/genre/lifestyle/ Wed, 28 Feb 2024 02:55:56 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.2 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png LIFESTYLE Archives - TOKION https://tokion.jp/category/genre/lifestyle/ 32 32 連載ショートストーリー:菊池良「きみはユメを見ている」第7夜  https://tokion.jp/2024/02/28/you-are-looking-at-a-dream-7/ Wed, 28 Feb 2024 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225584 作家・ライターの菊池良による「ユメ落ち」をテーマとしたショートストーリー。現代版『夢十夜』とでも言うべき掌編の第7夜、時間の合わない時計が並ぶ不思議な時計屋に入った「きみ」を待つものとは。

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連載ショートストーリー:菊池良「きみはユメを見ている」第7夜 

 きみはこんなユメを見た。

 使い古された大きな手提げ袋が通りの端に放置されていた。忘れものにも見えるし、最初からそこへあったかのようにも見える。だれも拾うものはいない。だれも関心を持たなくなってすぐに風景と一体化した。視界に入っても、だれも認識しなくなった。そういうものだ。それは黒い塊で、表面はつやつやとしていて弾力もありそうだった。雨が降ると水滴を弾いて雫が光っていた。それで、たまに放し飼いの猫が鼻を近づけて様子をうかがうだけだった。

 しかし、日に日に黒い塊はすこしずつ大きくなっているようにも思えた。やがて手提げ袋におさまらないほどぱんぱんになっていった。しかし、だれも気に止めなかった。一度風景と同化してしまったら、もう違いを察知することはできない。

 じゃあ、だれがそんなことに気づいたのか? 手提げ袋が置かれた往来のすぐ目のまえに時計屋があった。その店主だ。その時計屋はめったに人が訪れず、店主はひまをもてあそんで、よく目のまえの通りを眺めていた。そうして、言語化できない哲学的思索に耽っていた。

 その時計屋で売っている時計はどれも時間が合っていなかった。そのうえ、時間の合わせ方もわからなかった。時間を合わせる機能がついてなかったのだ。間違った時間を刻んでいる時計はいいほうで、針が止まっているものや逆に動いているもの、針さえないものもあった。そこは時計じゃない時計を売る店だった。壁には「時間がわかるかたは教えてください」という張り紙が貼られていた。

 店主は何ものかが手提げ袋を置いていった瞬間を見た気がしていた。しかし、それが実際の記憶なのか、手提げ袋を眺めているうちに作られた偽の記憶なのかわからない。

 店主はついに手提げ袋を間近に見ようと往来に出た。なにかに引き付けられるように通りへ出た。それは朝だったのか、夜だったのか、それともその境目か。店主がゆっくりと指を伸ばし、震える指のさきで黒いかたまりに触れる。その瞬間、糸が切れたかのように、なにかが弾けた。すると、黒いかたまりは風船のようにゆっくりと浮上していく。やがて、それは空に浮かび、雲のように漂った。

 休暇で訪れた岬の展望台で、きみはカメラを首から下げていた。連れてきていた犬をゲージから出すと、嬉しそうにあたりを走り回っている。とっさにカメラを向けてシャッターを切る。見晴らしのいい景色が背景にくるよう画角を調整しながら。走っている犬を捉えるのは難しいが、くすぐったいような喜びが背中を走り、きみは確信する。ああ、この瞬間が幸せに間違いなく、いつか噛みしめるように思い出すときがくるはずと。それは休暇の終わりが近づいて自宅に戻ったときかもしれないし、20年後かもしれない。

 背景になにやらノイズのようなものが映る。空の一部が塗りつぶされたかのように真っ黒となっている。きみがファインダーから顔を離すと、それが黒いかたまりだということがわかる。

 きみはカメラを向ける。再びファインダーを覗き、黒いかたまりに向けてシャッターを切る。この光景をだれかに伝えなきゃいけないような気がして。

 そのとき、きみはユメから目覚める。最高の朝がやってくる。いままでにない最高の朝が。

Illustration Midori Nakajima

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学ぶのに遅すぎることなんかないのだ:工藤キキのステディライフ最終回 https://tokion.jp/2024/02/28/kiki-kudos-steady-life-last/ Wed, 28 Feb 2024 07:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225533 工藤キキがコロナ禍で見出した、ニューヨークとコネチカットのデュアルライフ。連載最終回。

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ライター、シェフ、ミュージックプロデューサーとして活動する工藤キキ。パンデミックの最中にニューヨークシティからコネチカットのファームランドへと生活の拠点を移した記録——ステディライフを振り返りながらつづる。

コロナの影響でまだまだ生活が規制されていた2020年の頃、運転免許を取り始めた友人が周りにちらほらいた。ニューヨーク以外は広い郊外であるアメリカでは、16歳から免許が取得できて、赤ちゃんと住所不定者だけ運転免許を持ってないと言われるほど。東京にいた時は運転免許のことを考えたこともなかったが、ほとんどのアメリカ国民が持っているのがあたりまえらしい。

アメリカに引っ越して4年ぐらいの頃、遊びに行った遊園地のコニーアイランドでバンパーカーに乗ろうということになったが、実は基本的な操作がわからずパニックを起こし、私の車はフロアの真ん中で立ち往生してしまったことが。楽しげにぶつかり合う車の上を、セキュリティの人が飛び石を渡るように車を飛び越えて私を救出してくれた……というトラウマもあり正直、自分で車という鉄の塊を運転できる自信が全くなかった。

そして友人達がサラッと運転免許を取っていくなか、最寄りの駅が車で1時間という場所に引っ越した2021年にようやく運転免許を取ろうと誓った。必須科目の交通ルールを学ぶための8時間クラスをコロナの影響でZoomで受けることになり、自宅にいながら授業を受けられたのはラッキーだったが、DMVでの仮免試験を通過するまでの道のりは長かった……。

家から一番近いマーケットが車で10分。私達の住む地域では、タウンごとにトランスファーステーションと呼ばれる廃棄物を細かく分別しているごみ捨て場があり、そこに行くのでさえ車で9分かかる。どこへ行くにもブライアンに運転を頼まなければいけない。彼は喜んで運転してくれるが、やっぱり1人でサクっと買い物に行ったり、寄り道したりできるのがいい。ニューヨークまで運転する日がくるかもしれないと、車を運転できちゃう自分という淡い夢はいつも心にあった。

しかし、この仮免を取るまで紆余曲折あり、結果2年費やしてしまったのだった。緊張の頂点でパニックになった朝、ブライアンの車がパンクしていて試験会場まで行けずテストをキャンセルしたり、テストを受ける前に実は目が悪かったことを知らずに視力検査で落ちてしまい、そこからメガネを作るまで数ヵ月かかったり、テストを予約した前日にコロナになったり……なかなか免許を取らない自分に大家のジムも免許の話になると励ましてはくれるが、不思議そうな表情を浮かべていた(笑)。テストは正解だと思うものを選択する形式で、ようやくテストを受けるも2点足りず落第。ルールはルールなので丸暗記すればいいんだろうけど、質問の英語は普段使わない言い回しだったため、内容を理解しにくく、自分にとっては車の免許というより英語の試験だった。

2023年の10月、友人のアイリスが1週間ほど家にステイしていた時。せっかくだから何かプロジェクトをやろうというので、私は迷わず「運転免許を取るのを手伝ってくれ!」と頼んだ。LA育ちの彼女からすると、「プロジェクトってそれかよ(笑)」という感じだったが、アイリスからの最高のアドバイスは、「キキ、一番安全だと思う答えを選べばいいんだよ」というものだった。それは本当で、標識などは覚えないといけないけど、安全だと思う答えを選んだら、なんと全問正解で通過したのでした。ありがと〜アイリス!

そんなわけで、ようやく助手席に免許を持っている人が乗っていれば運転できるという仮免を取得。車の運転がシミュレーションできる、ハンドル・ブレーキ・アクセルがついたゲームのコントローラーをブライアンにプレゼントしてもらい、本試験に向けてXboxのドライビングゲームで特訓している最中です(笑)。次にお会いする時には車を運転している話ができることを願っています!

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Dos Monos、奇奇怪怪、脳盗のTaiTan アンダーグランドな存在感のまま、大衆にも開かれる、令和のドン・キホーテを目指す  https://tokion.jp/2024/02/26/interview-taitan/ Mon, 26 Feb 2024 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225047 Dos Monos、『奇奇怪怪』、『脳盗』と多岐に渡って活動するTaiTanへのインタビュー。2023年の活動を振り返りながら、個々の企画に込められた意図を聞く。

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TaiTan

TaiTan
Dos Monosのメンバーとして3枚のアルバムをリリース。台湾のIT大臣オードリータンや、作家の筒井康隆とのコラボ曲を制作するなど、領域を横断した活動が特徴。また、クリエイティブディレクターとしても¥0の雑誌『magazineii』やテレ東停波帯ジャック番組『蓋』などを手がけ、2022年にvolvoxを創業。Spotify独占配信中のPodcast『奇奇怪怪』やTBSラジオ『脳盗』ではパーソナリティを務める。
Instagram:@tai_____tan
X:@tai_tan
X:@kikikaikai_noto

3人組ヒップホップユニットDos Monosのラッパーであり、Podcast番組『奇奇怪怪』とTBSラジオ『脳盗』ではパーソナリティを務め、雑誌やウェブメディアへの寄稿、数々のインタビューにも登場しているTaiTan。2023年の活動を振り返りながら、個々の企画に込められた意図を探る。

コロナ禍を清算する物理的な表現

——2023年はDos Monosのライブやリリース、レギュラーのPodcastとラジオに加え、メディアへの露出もかなり多かったですね。

TaiTan:いま僕の活動はかなり多岐にわたっていて、いわばホールディングス化してきているんですよね。軸としては、Dos Monosのメンバーとしての活動、『奇奇怪怪』および『脳盗』のパーソナリティ、あとはクリエイティブディレクターとして企画を考える仕事と、この3つでまわっています。

——まずDos Monosとしては、2023年7月20日に、初のライブ・アルバム『Don’t Make Any Noise』が、アクリル盤という形式でリリースされました。

TaiTan:盤を販売してお金をつくる、という経済的な要請もあって、ライブ盤を出すことになり、でもライブ盤って、基本的には熱心なファンが買うもので、広く流通するものではない。収録されるライブはコロナ禍にやったもので、自分達なりに「コロナ禍とは何だったのか」というのも清算したかった。しかも、この時代にわざわざ盤という形を伴って出す以上は、それを物理的に表現するべきだろうと考えて、コロナが一旦終息して使われなくなり、各地で無用の長物化していたアクリルパネルを加工することにしました。

実際にライブハウスや飲食店をまわって、アクリルパネルをかき集めて、みんなで裁断して。500枚限定なので、数字的なヒットにはなり得ないですけど、韓国の「VISLA Magazine」とかから記事にしたいというオファーがきたり、海外からも反応がありました。言語に依存しない企画の性質もあり、届くところには届いたのかなと思います。

——こういった企画性のあるものについては、TaiTanさんが主導で考える?

TaiTan:そうですね。Dos Monosの音楽面については荘子it君が担っているので、僕はPRだったり、リリースにあたっての仕掛けだったり。これまでのオードリー・タン氏とのコラボ、トラックデータを全公開した広告、テレビ東京で上出遼平さんと組んだ番組『蓋』とかは、僕が主導で動かすことが多いです。

カルチャーの中でも音楽は最強

——荘子itさんのXでは「Dos Monos第一期終了、第二期始動。」という声明も発表されていました。「Dos Monosはヒップホップクルーを経て、ロックバンドになる(戻る)」と。

TaiTan:もともと僕らはラップユニットの前にバンドとして結成したので、原点回帰というか。荘子it君が、これからは楽器なりによるビビッドなリアクションや身体感覚を音に落とし込みたい、と言い始めたので、僕はもう「ついていきます」と(笑)。すでに新作のレコーディングも終わっていて、僕も久しぶりにドラムを叩いたり、バンドサウンドになっているので、楽しみにしていてほしいです。

——Dos MonosにおけるラッパーとしてのTaiTanと、『奇奇怪怪』をはじめとした各メディアで披露されるTaiTan個人としてのキャラクターは、一貫性があると見ていいのでしょうか。

TaiTan:別に名前を変えているわけでもないですし、一貫してますよ。リリックに落とし込む時には、韻だったりボースティングだったり、ある程度ラップマナーに則った表現になるので、Podcastのパーソナリティとしてのしゃべりとは微妙なニュアンスの違いはあると思いますけど、考えていることは変えようがないというか。なんなら、Dos Monosの新作の1曲では、とうとう僕しゃべってますから。

——最初にDos Monosとして世に出た当時から、個人としての活動も視野に入れていた?

TaiTan:デビューした時から、並行して企画を考える仕事とかはしていましたし、いろんなことに興味が分散する性分ではあるので、今のような活動を計画的に考えていたわけではないですけど、何かしらやっていたんだと思います。Podcastを選んだのも、ラジオが好きだったこともありつつ、あの時点での流れによるところが大きいので、この先スッと別の形になる可能性も全然ある。1つのことを深く掘り下げるよりも、同時多発的にやっていたいんです。

——多方面に及びながらも、Dos Monosの音楽活動がコアにあることは、表現者としては大きな強みになるのでは。

TaiTan:カルチャー全般を見渡しても、やっぱり音楽は最強ですよね。音楽にはすべてがある。バイラルする性質を持っていて、巻き込み力が違う。しかもラッパーなんて最も身軽ですから。ただ、バンドでもユニットでも、もともとあった形のまま、30代になっても音楽を続けていくことはすごく難しいので、Dos Monosがいまだに結成時のメンバーで活動を続けられていることは奇跡的だと思ってますし、大事にしていきたいですね。

——国内のラップシーンとの関わりというか、つながりは?

TaiTan:もちろん個々のアーティストや周辺の人達とのつながりはありますけど、Dos Monosがラップシーンにいるかって言ったら、まぁいないですよね。音楽性としてもオルタナですし。あと僕らは単純に友達が少ないっていう(笑)。なので、自分達で経済圏をつくって、音楽性はもちろん、アイデアなり企画力で勝負していくことを考え続けます。

書籍に広告を入れる、書店に3000冊を積み上げる

——2023年8月に刊行された『奇奇怪怪』書籍化の第2弾は、その装丁のオリジナリティはもちろん、単行本としては異例の、中に広告のページがあるという仕様でした。

TaiTan:せっかく本を自分で作るからには、本の作り方そのものから考え直して、オルタナを指向したかったんです。雑誌に広告が入っているのは当たり前ですが、書籍に広告が入ることは業界的にはありえない。でも、担当編集に調べてもらったら、暗黙の了解や慣習として入れていない面もあるということもわかり。だとするなら、書籍の母体となる『奇奇怪怪』という番組には、すでにコミュニティが存在していて、リスナーには個人でも法人でも事業者が多いことはわかっていたので、そのリスナーからの広告費で制作費を賄う、という枠組みはコンテンツとの相性がいいのではと考えました。それに、装丁自体が漫画雑誌風というアイデアだったので、広告が入ることがむしろ演出の補強にもつながるという判断も決め手になりました。結果、アイデアの太さと、売り上げとは関係なく、絶対に赤字にはならない経済的なメリットの両立が達成できたかなと思っています。

僕自身が出版業界の人間ではないというのと、版元が石原書房という、この『奇奇怪怪』が1冊目の刊行物になるインディーの出版社だったので、どうにか実現できました。そのぶん、とんでもない苦労をそれぞれが味わいましたけど……。

——販売方法にしても、代官山蔦屋書店でおよそ3000冊の本を積み上げる特設展示『密と圧』が話題になりました。

TaiTan:あれは「本そのものを本の広告にする」というコンセプトです。本は1冊が置いてあるだけではただの本でしかないけれど、それが10冊、20冊と積み上がっていけば、次第に物体としての存在感を獲得しますよね。つまり、本自体が本の広告をし出す閾値がどこかにあって、それを最大規模でやったらどうなるか、という実験でした。完璧な理想としては、お菓子の家みたいに、壁も扉も本でできている、本の家くらいの圧がほしかったんですけど、さすがに一般の書店ではレギュレーションにも限界があるので、結果こういう形になりました。それでも物量的に異常なインパクトですし、本が売れて減っていくと、中にはまた別の作品が隠れている仕様で、本を買うという行為自体を楽しんでもらう試みとしては上手くできたなと思います。

——1つの書店で3000冊も入荷するとなれば、記録にも残りますよね。

TaiTan:オルタナを指向するからには、相手のメリットになる記録なり数字なりの説得力がないと実現は難しい。なので、詳しい数字は言えないのですが、代官山蔦屋での売上記録を事前に聞いて、そこを目指して動きます、という形で企画の承認をもらいました。そして結果的に、それをちゃんと達成できたのでよかったなと。話の筋としても、いきなり代官山蔦屋書店に乗り込んだわけではなく、それまでに番組で本をたくさん紹介してきた経緯があったり、書店員さんに番組のファンがいたこともあって、こういう突飛な企画も通してもらえました。

もし僕に何か特徴があるとしたら、企画はがんばって考えるのは当然として、それよりも、相手のメリットにならないような、無茶な提示はしないようにしてるっていうことかなと思うんです。数字とか納期の話とか。それが結果的にいいアウトプットに繋がる気がしています。あとは、それを実現させてくれるチームに恵まれているのも大きいですね。

——TaiTanさんの仕事は、その企画性や新規性が前面に出るクールな印象がありますが、根底には情熱がこもっていますよね。

TaiTan:やっぱり根っこにあるのは、ラップでもPodcastでも、企画仕事でも一貫していて、言葉の力でオルタナティブな現実をつくりたい、ということに尽きるかなと思います。もっと言えば、受け手に「自分にも何かできるかもしれない」、そういうことを感じてほしい。そのへんはわりとピュアに、原動力になっていますね。

『奇奇怪怪』と『脳盗』と『品品』の明確な役割分担

——書籍版『奇奇怪怪』の発売と同じ8月には、Forbes JAPAN が選ぶ「世界を変える30歳未満」に選出されました。以降、各メディアへの露出も増えましたね。

TaiTan:声をかけてもらえるのはありがたいですが、いろいろなところへお呼ばれして出続けていると、便利屋的な存在として、あっという間に消費され尽くしてしまうことも自覚しています。そうならないためにも、きちんとクリエイティブディレクションを担当した成果物を見せたり、最近だと、武田砂鉄さんの『わかりやすさの罪』の文庫版の解説を書いたんですけど、そういうまとまったまともな文章を書く仕事を増やしたり、少しでも地に足のついた活動をプレゼンテーションし続けなければいけないな、と思ってますね。

——Podcast番組の『奇奇怪怪』と、そこから派生したTBSラジオの『脳盗』は、どういった住み分けをしていますか。

TaiTan:『奇奇怪怪』はノリや世界観を作る場所で、『脳盗』は仲間を作る場所。この2つに加えて、『品品』というプロジェクトもあって、それは売り上げを作る場所です。ちょうど2月に「品品団地」という拠点になるマーケットを開設しました。

——3本の柱で、明確に役割分担がある。

TaiTan:ありますし、それぞれが収斂していくことが理想ですね。『脳盗』は自主制作のPodcastと違い、キー局の番組なので、著名なゲストも呼びやすいし、同じTBSラジオで番組を持っているパーソナリティとの共演もしやすい。外部と交流を持つことで広がりが生まれて、僕らを知ってもらえる機会も増える。とはいえ、ゲスト頼みになると、広がりは生まれても、自分達だけの深みは失われていくので、『奇奇怪怪』は基本(玉置)周啓君と2人で、ゲストを呼んだとしても身内のノリが共有できる人達。そして、広さも深さも追求しながら活動を続けていくために、『品品』で資金を稼ぐ。という循環です。

——『脳盗』のゲストのラインアップを見ると、爆笑問題の太田光、ライムスターの宇多丸といったTBSラジオのパーソナリティとは別軸で、ダ・ヴィンチ・恐山やFranz K Endoといった、ネット発のクリエイターも呼んでいるところがユニークでいいですよね。

TaiTan:それも明確に狙いがあって、ネット発の人達を、テレビよりさらに古いメディアであるラジオに呼ぶことで、彼らの圧倒的なおもしろさを、誤配的にラジオリスナー達に届けられたらと思っています。ある種キュレーター的に「こんなおもしろい人がいる」ということをいろんな人に伝えたいというか。そこが公共放送ならではの醍醐味なのかなと思います。デジタル畑の人を、デジタルメディアのPodcast番組に呼んだとしても、聴く人の属性がそこまで変わらないじゃないですか。

——ひとまず『奇奇怪怪』は安定として、『脳盗』の今後はどのように考えていますか。

TaiTan:まさに近々の課題ですね。いま考えているのは、ラジオでは音楽を流せることが、Podcastではできない最大の利点なので、しゃべりと選曲を担当するという意味でのディスクジョッキーを目指したいなと思っています。つまり、パーソナリティというよりはDJとしての認識が強いです。ただ、陽気に音楽を紹介するFMラジオのノリではなく、しゃべりはあくまでAMのノリで。スタイルとしては『菊地成孔の粋な夜電波』が好きだったので、その影響を受けているかもしれません。

——AMラジオのトークと選曲がばっちりハマった時は、異様な高揚感がありますよね。

TaiTan:本当にそうで、僕は演劇に近いものがあると思っているんです。劇中のストーリーに音楽が完璧にハマった時の祝祭感は、暴力的と言ってもいいくらいの破壊力がある。その高揚感をラジオでも再現したい。あくまでも曲が中心にあって、トークはその前座的な役割にすぎないというか。知っている楽曲だったとしても、トークと接続されることで聴こえ方が変わったりするので、そういうおもしろを届けたいですね。そのためには、ラジオショーとしての演劇的な発話が必要になってくるので、『奇奇怪怪』みたいにボソボソしゃべっていてはダメだなと。Podcastとラジオでの求められる発話の違いなども模索してる最中です。

「品品団地」という新しい拠点

——先ほど話に出た「品品団地」について、改めて詳細を聞かせてください。

TaiTan:「品品団地」を作った最大の目的は、これまでSpotify独占配信だった『奇奇怪怪』を、Spotifyの援助を受けずに、自分達で資金繰りも含めて運営していく、ということです。そのために、リスナーから月額で支援を募る体制にしました。

企業からの制作援助は非常にありがたいし、Spotifyには感謝しかないですけど、特定の一社に生命線を委ね続けることのリスクはどうしてもある。SpotifyがいつPodcast事業から撤退するかわからないですし、それは僕らを信頼してくれている担当者の裁量ではどうにもならないことなので。

——直接課金制と聞くと、どうしてもオンラインサロン的な、せっかくのコミュニティが閉じていく可能性も感じてしまうのですが、そのあたりはどう考えていますか。

TaiTan:そこはコミュニケーションのとり方の問題かなと思っています。僕らからは、今のところ「番組を続けていくために支援してほしい」ということしか発信していません。いわゆるオンラインサロンの特徴とも言える、あなたの居場所を作りますとか、何かを伝授します的なことは一切言ってないし、言うつもりもありません。それに、番組自体をクローズドにしていくわけではないので、番組の性質自体が変わるわけでもないですし。

あとは、アンケートに答えてくれたリスナーの属性はある程度わかるようになったので、こっちから特性に合わせた相談をすることもあるかもしれない。

例えば、今回ブランドの拠点となるウェブサイトをしっかり作ったのですが、そのサイトもリスナーであるChooningというエンジニアチームと一緒に開発してたりします。そういうポジティブな広がりが生まれるのも期待してますね。

令和のドン・キホーテ、猫の玉置周啓

——TaiTanホールディングスとしての未来図は?

TaiTan:令和のドン・キホーテみたいな存在になりたいですね。超アンダーグラウンドな存在感を保ったまま、圧倒的に大衆に開かれている。さらに、言語の壁を超えて観光地的なおもしろさも獲得しているという。NewJeansが日本へ来た時にもわざわざドンキ行ってましたよね。そして何より経済的な成功も桁違いという。ドンキを超えるユニークなブランドはないと思います。

それに運命的なものも感じていて、ドン・キホーテの創業者である安田隆夫氏が、最初にディスカウントショップを開業したのが29歳の時で、僕が闇市を構想して『品品』を始めた歳と同じなんです。しかも、その最初につくったショップの名前が「泥棒市場」っていう。そういうセンス含めて、思想的にも近いものを感じています(笑)。これまでの活動で基盤はできたと思うので、今後は音楽、Podcast、クリエイティブディレクター業と、いろんな文脈で培った力を結集させて、訳のわからない作品や環境を作り出していきたいなと夢想しています。

——では最後に。ここまで多方面にわたって意図や計画を聞かせてもらいましたが、玉置周啓さんには、どういう役割を期待しているのでしょうか。

TaiTan:友達でいてくれたら、それでいいです。強いて言うなら僕自身、気質が完全に裏方タイプなので、いわゆる演者に向けられるスター的な視線を浴びることは、周啓君に任せているという感じですかね。音声メディアにはどうしたってヒューマニティが必要で、散々能書きを語ってきましたが、コンテンツとしては玉置周啓がいないことには成立しません。芸人コンビでもよくある構図ですよね。ネタも書かない、戦略を考えたりもしないけど、圧倒的にファンから愛されるのはあっち、っていう。最近はもはや猫みたいな存在と考えていて、ただそこにいる玉置周啓を動画に撮ってアップしています。究極のスターは猫なので(笑)。そして、それだけで喜んでもらえるのだから、羨ましいなと思っています。

Photography Keisuke Nagoshi(UM)

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.6 シウダー・イダルゴ -後編- https://tokion.jp/2024/02/26/mexico-reporto-diaries-vol6/ Mon, 26 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=224910 写真家の児玉浩宜が思いのままにたどり着いた国、メキシコを縦断した記録を写真とともに綴るフォトコラム。第6弾はシウダー・イダルゴの後編。

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写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.6 シウダー・イダルゴ -後編-

旅が始まって最大の危機

深夜。小突かれて目を覚ました。顔を上げると、バスの通路に立つ大柄な女性がいた。彼女のポロシャツの胸には移民局の刺繍。パスポートを見せようとすると、女性は「荷物を持って降りろ」と私に命じた。言われるがままバスを降りると、ライフルを持ったメキシコ軍の兵士がいた。検問所らしい。道路脇にある倉庫のような建物に入れと兵士達が私を促す。暗がりの中には30人ほどがいただろうか。皆、大きな荷物を持ったまま不安そうに立っていた。移民の人々だった。

私達はグアテマラの国境を離れ、夜行バスに乗ってメキシコ南東部にあるサン・クリストバル・デ・ラス・カサスを目指していた。バスに同乗していた旅のパートナーである編集者の圓尾さんにメッセージを送る。彼も私を心配して降りようと試みたが止められたらしい。「バスはそのまま出発しちゃいましたよ」と連絡が来た。こちらの状況を報告すると「無事を祈ります」というメッセージが届いたきり連絡が途絶えた。彼は車内で眠ってしまったようだ。なんと薄情な……と思ったが仕方がない。国境に行きたいと言ったのは私だ。問題は今のこの状況である。

兵士が移民達に何かをささやく。すると移民達はそれぞれ顔を合わせてため息をついた。その後、兵士に何かを渡すのがちらっと見えた。今度は兵士がライフルを見せつけるようにして私に話しかけてくる。スペイン語だったが「Dinero=金」という単語は理解できた。不法入国を見逃してやるから金を払えということだ。だが、私は移民ではない。夜中に起こされ、移動手段を奪われ、金まで要求されるとさすが腹立たしい。言葉がわからないふりをする。

私の隣には東洋系らしい顔立ちのグループがいた。中南米の先住民にもそういった顔立ちの人がいる。彼らも金を払って出ていった。残ったのは私1人。知らんぷりを決め込む私に彼は苛立っていたが、しまいには「どうにか頼むよ、少し払ってくれればそれでいいから」と懇願するような表情を見せた。やむを得ない。倉庫を出ながら金を出そうとすると兵士は慌てて「もっと奥の暗いところで金を出してほしい」と言った。一般の通行車両に見られたくないのか。結局400ペソ(約3500円)を取られた。兵士は集めた金をすべて移民局の女性に手渡していた。

時計を見ると午前3時過ぎ。バスが走り去ったあとを歩く。手元のGoogleマップを見ると、道路はグアテマラ国境から続く舗装された一本道で200号線というらしい。国道のようなものか。グアテマラとの国境では入国管理が全く機能していない理由がわかった。国境で堂々と賄賂を取るわけにはいかないので、わざと不法入国させてから効率的に金を集めたいのだろう。

歩き進むとさっき倉庫にいた集団がいた。彼らは落ち着いていた。こんな目に遭わされるのはいつものことなのだろうか。彼等はすぐに道路脇で野宿を始めた。私も混じって寝転ぶ。

さっき見かけた東洋系の1人が私に話しかけてきた。その言葉に驚いた。それは中国語だった。なぜこんなところに中国人がいるのだろう。私は日本人ですが、と告げると「なんでこんなところに日本人がいるの?」「あなたもアメリカを目指しているの?」と矢継ぎ早に質問される。言葉を濁していると、唐突に「台湾は台湾。中国じゃない」と聞いてもないのに政治的な問題を話し始める。彼は浙江省出身の36歳。妻、そして7歳の息子を連れてアメリカを目指す移民だった。彼はここにいる理由を話してくれた。

コロナ禍、中国での過度なロックダウンは結果的に多数の死者を出すことになった。強権的な政治体制に恐怖を感じた彼らは中国を飛び出した。そして向かったのは南米エクアドルだった。中国からビザ無しで渡航できる国の1つがエクアドルだ。彼らはほぼ1ヵ月かけて歩いてメキシコまで辿り着いた。パナマの密林を歩いていた時に同じ境遇の中国人の仲間を見つけ、今は7人で行動をともにしている。「ジャングルでは行き倒れた移民の遺体をたくさん見た」と恐ろしげに語る。

「俺達は仕事が欲しいわけじゃない。最低限の人権を求めたいだけだ」彼らがアメリカに受け入れられる保証はないが、英語もスペイン語も話せないまま国を飛び出し「それでも挑戦する価値がある」と力説する彼らの行動力はすごいというほかない。その後も大学生グループや、子連れの夫婦などといった中国からの移民を見かけた。聞くところによると今、中南米を北上する中国からの移民が急増しているらしい。私がバスから降ろされたのは、見た目が彼らと同じだから、という単純な理由だろう。そういえばアメリカ国境の橋の下で出会ったトニーも中国人の移民のことを話していた。

続く難局

夜が明け、人々は動き始めた。隣の町まで歩くという。その距離120km。実はこれまで多くの移民達と話しているうちになぜか私まで「アメリカを目指さなければ」という感覚に陥っていた。雰囲気に流されるとはこのことだ。その気になっていた私は彼等と共に歩きだした。しかし、根拠の無い上っ面だけの威勢は、太陽が昇るとあっさりと急速に萎んでいく。暑すぎる。すぐに足も痛くなった。これから100kmも歩くのは無理だ。情けない私は適当な理由を告げて彼等と別れた。

ふらふらになってマパステペクという町に入った。うまく検問所を迂回できたようだ。疲れた体で安宿を探す。夜はこの町も移民で溢れるのだろう。夕方までなら、という条件で金を払って休ませてもらう。圓尾さんは無事、サン・クリストバルに到着したと連絡があった。

日が暮れてから宿を出る。バスターミナルを探して今夜10時発のチケットを買う。待合室で人に話しかけられて相手をしていると、なんと乗るはずのバスが出てしまった。チケット売り場の窓口を閉めようとしていたおばさんに告げたら呆れられた。次のバスは翌朝10時らしい。宿に戻っても部屋はない。また移民の人達と道路脇で野宿。

再び夜が明ける。カメラを持って歩いていると「フォト! フォト!」と声をかけられる。面倒なことになるのは嫌なので無視していたら、女の子が飛び出してきた。「えー!」と私はすっとんきょうな声を出した。その子の顔に見覚えがあったのだ。グアテマラ国境で「私はただのツーリスト」と言っていたシシリアだった。旅行者なんて真っ赤な嘘で、移民として国境の川を越えていたのだった。

彼女達も昨夜からここで野宿していたらしく「あんたの隣で寝てたよ」と言って笑った。まさか再会できるとは。バスを逃した甲斐はあった。彼女達もまた隣町まで歩くと言い、手を振って去っていく。

ようやくバスに乗る。エアコンの効いた車内の窓越しに国道200号線を歩く移民の列がひっきりなしに見えた。そこに中国から来た彼等、そしてシシリアの姿が見えないか、何度も探そうとした。だが、疲れていたせいで私はすぐに眠ってしまった。

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異文化の間で躍動するチベットの作家達 https://tokion.jp/2024/02/24/the-world-of-tibetan-writers/ Sat, 24 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=224980 2010年代、世界で急速に広まったチベット文学。2020年に日本で刊行された『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』は発売わずか2ヵ月で重版となった。 その魅力を研究者の星泉とたどる

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星泉

星泉
1967年千葉県生まれ。東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 教授。専門は、チベット語学、言語学。博士(文学)。1997年に東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所に着任。チベット語研究のかたわら、チベットの文学や映画の紹介活動を行っている。編著書に『チベット牧畜文化辞典(チベット語、日本語)』、訳書に『チベットのむかしばなし しかばねの物語』、ラシャムジャ『路上の陽光』『チベット文学の新世代 雪を待つ』、共訳書に『チベット幻想奇譚』、トンドゥプジャ『チベット現代文学の曙 ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』、ペマ・ツェテン『チベット文学の現在 ティメー・クンデンを探して』、タクブンジャ『ハバ犬を育てる話』、ツェラン・トンドゥプ『闘うチベット文学 黒狐の谷』等がある。『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』編集長。

チベットの研究者、翻訳者の星泉はチベットの文学作品には今を生きる人達の心情がよく表れていると話す。ニュースで報道される情報では、人々の生活や何を感じているのかまでを伝えきれないことも多く、チベット人達の日常の姿を知ることは難しい場合が多いという。一方でチベットの文学作品には、今を生きる人達の心情がよく描かれていて、日本人の読者の間では「チベットの物語の中には、宗教や人種を超えて共感できる内容が多く、多忙な現代を生きる日本人が忘れがちな思いやりやユーモア、他者への理解を深めるヒントに溢れている」と話す人も少なくない。

星が現在まで日本語に翻訳したチベット文学には、作家であり亡命チベット人の医師であるツェワン・イシェ・ペンバが遺した長編歴史小説『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』、現代チベット文学を牽引するラシャムジャの日本オリジナル作品集『路上の陽光』『雪を待つ』等がある。『路上の陽光』に収録されている日本を舞台にした短編「遥かなるサクラジマ」では、チベットの地を踏んだことのない、日本に暮らす亡命2世のチベット人女性の、生きる苦悩や葛藤が描かれている。星は同書のあとがきに「チベットでも近年増えている、進学や就職、出稼ぎなどで都会暮らしをする孤独な若者に呼びかけるような、力強いメッセージ性のある作品」と記している。

ラシャムジャの作品は、日本人が今読みたい海外文学として紹介されている。一方で、まだ知られていないチベット人作家は多く、その中には女性の作家や詩人も多い。チベット文学における異文化に触れる時の知的なアプローチは、迫害や抑圧の歴史によって培われた発想が元になり、多様性のある時代を生きる現代人に必須の考えが根付いている。世界的にチベット文学が注目を集めたきっかけと特異性、今注目すべき女性作家から、チベット語と漢語を使い分ける制作の意図までを聞いた。

創作活動の最前線に立つ、豊かな口承伝承の語り手達

ーー2010年代以降、日本を含めた世界各地で同時多発的にチベット文学が翻訳出版されたということですが、どのような経緯だったのでしょうか? 

星泉(以下、星):まず、現代のチベット文学を語る上で重要な作家に、ペマ・ツェテンさんとツェラン・トンドゥプさんがいます。私の推測ですが、この2人が日本、フランスやアメリカ等の研究者や翻訳家達と交流を深めたことがきっかけとなり、各国で同時多発的にチベット文学が翻訳出版されたのではないかと考えています。

ペマさんは作家であり、世界的に評価される映画監督です。2000年後半から本格的な映画界に入った彼は、すぐに実力を認められ、国際舞台で活躍するようになります。私は、2011年に映画祭でお会いした際にて小説を頂いたのですが、とてもおもしろい作品だったので、日本語に翻訳をして多くの人に届けたいと思いました。当初は翻訳をする予定ではなかったのですが、ペマさんから「英語の翻訳が始まって、多分来年には刊行されると思うんだけど、日本語ではどうかな?」と連絡がありました。作家から翻訳を期待されることは今までにない体験でしたし、連絡が気軽に取り合える仲になれたことで相互関係が始まり、翻訳出版に至りました。フランスやアメリカの映画祭でペマさんに本を渡された翻訳者達も同じように彼の作品と人柄に魅了されたのではないでしょうか。ペマさんは関わる人に喜びを与える人格者でした。個人的にもとても大切な人だったため、昨年5月に亡くなった時は本当に悲しかったですね。

ツェラン・トンドゥプさんの小説も、アメリカやフランスで翻訳されています。近著が出ると連絡をくれたり、交流のある各国のチベット研究者や翻訳者と引き合わせてくれて、彼を中心にして輪が広がっていきました。何か相談すると即座に応えてくれる協力的な人で、貴重なチベットの情報を提供してくれます。この2人が、世界の翻訳者達の影で動いてくれたことがとても大きいと思います。なるべくして同時多発的にチベット文学が刊行されたんですね。

加えて、過去のチベット研究の蓄積、翻訳書籍はありますが、2010年代にはチベット語でやりとりのできるネット環境が充実したこと、自分達の活動を広く世に届けやすくなったことも関係していると思います。

ーー近年、日本でもチベット文学が取り上げられる機会が増えているように感じます。どのような特徴がありますか?

星:チベットには「語り」を重視する文化があります。チベット文学は口承が中心で、一般の人達にとって物語とは読むものではなく、聞いて楽しむものでした。そういった背景から、説得力を持った言葉を用いて自分の声で語ることが重要視されます。

私が仲間達と作ったチベット語、日本語辞書『チベット牧畜文化辞典』 の中に「男の備えるべき9つの能力」という単語があります。そこには「力が強く、泳ぎがうまく、動きが素早く、土地の歴史を熟知し、笑い話が得意、議論に強く、物知りで賢く、忍耐強く勇敢で、言語明晰であること」とあります。そのうち5つが語りに関わることなのです。土地の歴史を熟知して語れると一人前として周りに認められることが読み取れます。

チベット文字の成立は1300年ほど前と古く、また仏教に支えられた長い古典文学の伝統もあるのですが、一般の人達がそうした文学を読んだり書いたりする文化はありませんでした。彼らは自分達の経験を語り継いでいくことで記憶に残してきたのです。

激動の時代に学び、物語を書いた希少な女性作家達

ーー日本で紹介されているチベット文学の魅力の1つとして「ことわざ」を巧みに使うことが挙げられます。ことわざはチベットの人々の暮らしの中では欠かせないもので、上手に使えるようになることは大人の証でもあるそうですね。

星:はい。ことわざは、問題が起きたときに闘ったり解決したりするためのプロセスでよく使われます。例えば、物語の中では喧嘩の場面でことわざが頻出するのですが、「威張った犬ほどよく吠える、威張った人間ほどよく喋る」と言って、ここぞという時、相手を打ち負かしたい時に繰り出します。意味合いとしては、古くから積み上げられてきた真実や結果が凝縮された「ことわざ」を根拠に、自分の言ってることが正しいという論理にもっていきます。自分の主張を助けてくれる援軍のようなイメージです。

もう1つ、理解し難い奇想天外な複雑な事柄を整理して納得するためのツールともいえます。理不尽な出来事をよく理解して受け入れられなければ、自分の心が壊れてしまいますよね。そんな時に、昔から語り継がれてきたことわざを引用し、わからない出来事を理解するための手がかりとしても使っている。「長く伝えられてきた言葉だから正しいだろう」「似たような出来事は過去にも起こっている、人間ってしょうがないね」という風にことわざを通して、現実を理解しているのでしょう。

ーー昨年日本で出版された『チベット女性詩集』には、女性達が現代詩を発表してから40年とあり、1960~1980年代生まれのチベットを代表する7人の女性詩人の詩が収められています。星さんは、1960年代生まれの詩人達の作品を重要視されているそうですね。

星:そうですね、1970年代後半に、学齢期だった1960年代生まれの男女は、チベットにおける時代の転換期を経験しています。中国全土で1966年から1976年まで起こった文化大革命を経験した女性達は、男女共に1960年代は学校に行けなかったものの、1976年ぐらいにようやく通学できるようになります。ただ、女性の場合は、親の協力を得られたほんの一握りしか学校に行けなかった世代です。そういった意味でも、この世代の女性達が書いたものは大変貴重です。例えば、女の子は学校にいくことを許されませんでした。なぜなら、当時多くのチベット人が従事していた牧畜、農業においては、家事労働は欠かせない労働であり、家事を親から子にしっかりと継承することが重要視されたからです。牧畜民として生きていく上での重要な家事を、母親が娘にしっかりと仕込んでおかないと、村で生きていけませんから、家事を教える機会が失われないように学校に行かせなかったんですね。

他には、女の子が学校に行くと「ろくなことにならない」とも言われていました。1967年生まれの詩人、デキ・ドルマさんは、学校に行きたいと言ったことが、村中で大騒動になり、学校に行きたいなんて、あの娘には鬼でも取りついたのではないかと噂が立ち、とても悲しい思いをしました。でも、諦められずにいる娘をかわいそうに思った父親が、馬で寮制の学校に連れていったことで、学校に通えた。大変な苦労や辛い思いをしなければ女の子は学校にいけない世代でした。

創作をするという点では、1960年代生まれの作家は男女共に、詩や物語をチベット語で書く先達がいなかったために苦労も多かったと思います。その理由は、根本的にチベット語というものが一般の人々の心情を描くような言葉ではなく、宗教のための言葉だったことも関係しています。

ーーチベット語で書くのが難しい状況下で、漢語で書く場合はどうだったのでしょうか?

星:チベット人女性で、1960〜1970年代に漢語で教育を受け、中学、高校、大学で漢語を習得し、中国や海外の文学を男性と同じように受容した人達は限られた数ですが存在します。

その時代の特徴としては、幹部の子弟は優先的に学校教育を受けられる、つまり庶民ではなく、役人になることを期待されて、男女共に進学することができました。そうすると、北京大学等に進学したチベット人が現れるんですね。その中には物語が好きな女性がいて、大学を卒業して、漢語で文学作品を書いた人達もいます。 中国の大学では、古典の漢文の基礎を教えますから、それが女性達の書きたいという思いを助けたんです。漢語だと大勢の先達の作家がいるので、自分も書けると思えたのではないでしょうか。

異文化の間で躍動するストーリーテラー達

ーーチベット文学は、漢語で書かれた長編小説もたくさんあるそうですね。チベット人作家はどのような理由で、チベット語と漢語の使い分けをしているのでしょうか?

星:まず、ほとんどのチベット人は、チベット語と漢語のバイリンガルです。漢語を使わないと生きていけないということもありますし、学校でもチベット語だけを教えるところはありません。テレビやインターネットが普及して手軽に学べる環境があることも関係していますが、それ以前からバイリンガル化が進んでいました。ただ、読み書きの方はどういう教育ルートを通ったかで異なります。

作家を分類すると、漢語だけで書く作家、チベット語だけで書く作家、そしてバイリンガルで書く作家がいるんですが、漢語だけで書く作家は、小さいうちは親元で育ったとしても中学校からは中国の漢語学校に通います。すると、チベット語を学ぶ環境がほぼないので、親が頑張って教えなければ、チベット語の読み書きは習得せずに大学まで進学します。 でも、自分達のアイデンティティはチベットにあるため、漢語で故郷のチベットの物語や詩を書いています。

あまり多くはないものの、チベット語で書く作家達のほとんどはチベット語で教える各県の民族学校に進学し、チベット語による高等教育を受け、民族大学のチベット語課程で学び、作家になります。バイリンガルで書く作家は、先述したペマ・ツェテンさんとツェラン・トンドゥプさんで、チベット語と漢語の翻訳も自分達でしています。

ーー同じところで生を受けても、教育ルートによって、言語だけでなくインプットされる知識も大きく変わりそうですね。

星:そうですね。漢語教育を受けるか、民族学校でチベット語の教育を受けるかでインプットするものも変わりますし、特に古典作品の受容が全然違いますよね。古典の勉強は、その人の教養の素地を作りますから、同じ場所で育ったとしても、親に与えられた言語教育の中で読み書きを習得していく過程で、全く違う表現を身につけていきます。

先述したペマさんは、民族中学に進学しましたが、最初に書いた作品は漢語です。 その作品が、ラサのチベット自治区で発行されている漢語の文芸誌に発表されて、高く評価されてからは、チベット語で書き始めました。ただ、チベット語だけで映画を撮りはじめてからは、小説は漢語だけで書くことにシフトし、漢語の読者を獲得することに努めていました。

ーー漢語で書くことにこだわった理由は何でしょうか?

星:まずは漢語で書けば読者が増えるからでしょうね。教育環境の影響で漢語でしか読み書きのできないチベット人も大勢いるので、そういう人達にも届けることができます。チベットの人達にとって物語は目で読むものというより、耳を傾けるものという意識が根強いようで、ラジオで文学作品が朗読されることもあるそうです。特にコロナ禍のチベットではロックダウンが長期間続いたのですが、チベットの古典文学から現代文学まで、さまざまな朗読がインターネット上に掲載され、多くの人が耳を傾けたそうです。作家達はいろいろなことを考えてチベット語と漢語を使い分け、受容する方もそれぞれの環境で目で読んだり耳で聴いたり、選択しているのが今のチベットの状況ですね。

声で語ることを大事にする文化という意味では、日本でも漢文の素読であったり、落語があります。日本人が落語を楽しむようなイメージで文学を楽しんでいるチベット人がいるということですね。私もチベット人方式を真似て、日本語に訳した文学作品を朗読で紹介してみよう等と考えています。

ーー英語原作の小説『白い鶴』で、作中に「グリーン・ブレインド」とあり、英語では「環境問題に意識の高い」という意味があるものの、チベット語では「レバ・ジャング(脳+緑色の)」というイディオムをふまえ、思想的に腐っている、遅れたという意味で使われているそうですね。星さんは、混合語や作家が創作した言葉を、チベット語と英語の変換も踏まえながら翻訳をされているんですね。

星:『白い鶴』に限らず、チベット人作家の作品は、括弧で強調したり、注釈なしに「チベット語化した英語」と「チベット語を踏まえた英語」を多用したり、チベット語を英語風に書いてみたりと、複数の言語を自由に使った表現方法に富んでいます。そういった表現を「言語の脱領土化」と言いますが、英語という大言語に完全に乗っ取られるのではなく、大言語の中でチベット語の存在感をしっかりと放つ営みでもあります。

例えば、それを口頭でやっているのがシングリッシュやインド英語で、少言語で大言語を変容させていくような営みです。だから、英語で書かれた本でも、紛れもなくチベット人の作家が書いたものであり、英語しか知らない人には絶対に書けない表現がたくさん散りばめられていると思います。

ーー近日、日本では初となるチベットの女性作家の長編小説が刊行されるそうですね。

星:はい、ツェリン・ヤンキーという女性作家の長編小説『花と夢』 の翻訳が4月中旬に出ます。ラサの小さなアパートで共同生活をしながらナイトクラブで働く4人の娼婦のシスターフッドの物語です。4人共つらい過去があり、彼女達を待ち受ける運命も悲痛なものなのですが、それを温かく見守るようなまなざしで描いた素晴らしい作品です。女性達の会話がとても生き生きとしていて、彼女達がすぐ側にいるような感覚を味わえると思います。刊行は「春秋社」から。新しいシリーズ「アジア文芸ライブラリー」の1冊です。楽しみにしていただけるとうれしいです。

Photography Seiji Kondo

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「沖縄の戦後」と「パレスチナ」——これから世界がどうなるべきか 連載:小指の日々是発明 Vol.9 https://tokion.jp/2024/02/23/hibikorehatsumei-vol9/ Fri, 23 Feb 2024 03:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225126 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義で音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第9回は「沖縄の戦後」と「パレスチナ」について。

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「沖縄の戦後」と「パレスチナ」——これから世界がどうなるべきか 連載:小指の日々是発明 Vol.9

先々週、私達は沖縄へ行った。きっかけは、オペラシティで開催されていた沖縄の写真家・石川真生さんの展覧会と、その帰りにギャラリーショップで買った『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』(集英社)という1冊のルポルタージュだった。
この本は藤井誠二さんというノンフィクションライターの作品で、これが沖縄の戦後史を非常に緻密に取材されたすさまじい作品だった。無知な私は、この本で初めて戦後の沖縄の苦しみ、というより本土が沖縄に押し付け続けていた問題を知った。私は強烈に「沖縄を見たい、見なければ」と思った。
すると数日後、偶然見た旅行サイトに片道5000円という破格の飛行機を見つけた。半ば衝動的に同行者(夫)の分と往復分のチケットを買い、カバンの中に財布とボールペン、『沖縄アンダーグラウンド』の文庫だけを詰めて早速ブーンと沖縄へ飛んだ。そして、この本の中で語られている沖縄の街と歴史を辿っていったのだった。

那覇空港に着くと私達は高速バスに乗り込み、「キャンプハンセン」という米軍基地のある「金武町」へ向かった。一時間半ほどバスに揺られて金武町の社交街に着くと、横文字の看板ばかりの昔の横須賀のドブ板通りみたいな街並みが目に飛び込んできた。
はじめはちょっとした懐かしさも感じたが、建物はどれもかなり老朽化しており街全体ががらんどうとしている。夜の街だから昼に行っても人はいないだろうと思ってはいたものの、想像していた以上に人の気配がない。ここに暮らす人達は一体どこへ行ってしまったんだろうと不思議になるほどだった。
そこから数百メートル歩いた所には「いしじゃゆんたく市場」というバラック造りの小さな市場があり、そこはさっきの社交街とうってかわって昔の沖縄の空気を凝縮したようなのどかな雰囲気だった。木でできた台の上で南国の果物や野菜、日用品、家具、米軍の服やアメリカの缶詰なんかがフリマみたいに売られていて、その脇でお年寄り達がお茶とお菓子をひろげ、ゆんたく(世間話)していた。東京の私達にとってはどれも目新しいものばかりで見ているだけで面白かったが、その中でも特に度肝を抜かれたのは、ゴロゴロと積まれた見たこともない大きさの巨大やまいもだった。やっと両手で抱えられるほどの重さで、茶色のデコボコした表面にはびっしり逞しいヒゲ根が生えている。沖縄だけに自生する「クーガ芋」という希少種のやまいもがあると噂で聞いたことがあるが、この「クーガ」とは沖縄の方言で『男性の睾丸』という意味らしい。あの形からして、もしかしたらあれが伝説のクーガ芋だったのかもしない。

その後、私達はバスに乗って「コザ」へ向かった。コザとは、沖縄最大の米軍基地・嘉手納基地のある街だ。知人から「まるで外国だよ」と言われて気になってはいたものの、いざ行ってみると外国というより岐阜のシャッター商店街のような歴史と郷愁を感じた。コザ十字路に沿って伸びる広く長いアーケード商店街は店のほとんどがシャッターを下ろし、午後にも関わらずとても暗い。私達の他に歩いているのは、酒を片手に片足を引きずって歩く酔っ払いだけだった。さっきの金武町といい、基地のために作られた場所は時代と共に置き去りにされているように見えた。
商店街を歩いた後は、同行者がかねてから行きたがっていたゲームショップへ行くことにした。同行者はこのゲーム屋が唯一の沖縄旅の目的だったようで、ぜひ行かせてやりたい……と思って行ってみたものの、店の前について私達は言葉を失った。グーグルでは「営業中」と表示されているにも関わらず、店のドアのガラスは破られ、中は散乱し、挙げ句アーケードゲームの台は誰かに殴られたのかバリバリに画面を割られて外の歩道に打ち捨てられていた。
私達は肩を落とし、その日の宿へ向かった。

宿に着いた頃にはすっかり夜も更け、スマホの万歩計を見て私達は驚愕した。なんと、たった1日で23kmもの距離(ホノルルマラソン半周分)を歩いていたのだ。普段運動不足の私達にはあり得ないことだ。そのせいか同行者の足は蒸れに蒸れ、悶絶するほどの悪臭を放っていた。
宿のおじいさんが「どこから来たの」と声をかけてくれたので「東京です」と返すと、和室に招かれお茶を出してくれた。おじいさんの優しさに感激したが、この臭い足で本当に部屋にあがっていいものなのか、バレて人が変わったように怒られたらどうしようとか内心気が気でなかったが、おじいさんが子供の頃のコザの話や興味深い話をたくさんしてくれるのでいつの間にか夢中で聞き入っていた。

私が「商店街はほとんどお店が閉っちゃってますね」と言うと、おじいさんは手を大きく広げ「今日は日曜日だから。あなた達、今度は金曜日か土曜日に来るといいよ。もう、沖縄中のベース(基地)から人が集まって、すごいことになるよ。肩をぶつけないように歩くのが大変なくらい!」と言った。金と土は人が溢れるくらい大繁盛らしく、私達が来た今日(日曜日)はその祭りのあとだったようだ。他の曜日は店を開けなくていいくらい、その2日間だけで充分な稼ぎになるのだという。
このおじいさんは生まれも育ちもコザで、30代から大阪でトラックの運転手をして引退後戻ってきたらしい。だから内地(沖縄以外の県)は全部行った、沖縄よりもよく知ってるよ、と誇らしげだった。私が「今の私と同い年くらいですね」と言うと、「ちょうどその頃に返還されたからね」とサラッと言った。そうか、沖縄がアメリカから返還されたのは1972年。それまでは米国の統治下で内地へ行くにもパスポートが必要だった。返還と共に、おじいさんの日常はずいぶん変わったに違いない。少ししんみりして、「おやすみなさい」と別れ部屋に帰った。

翌日、私達は朝から開いているゴヤ市場の天ぷらとおにぎりを路上で食べながら散策をした。路地を一本入ると古い家屋が増え、東京では見ないようなヤシ科の木、埃っぽい白壁を眺めていると下手な観光名所を見るよりずっと濃い沖縄を感じた。時々、ニワトリのコケコッコーという威勢のいい鳴き声がどこかから聞こえてくる。コザと隣の胡屋という町の路地だけでもニワトリを飼っている家を3軒も見つけた。
しばらく歩き、この辺り懐かしいな、とふと電柱を見たら「照屋」という町名が書いてあった。『沖縄アンダーグラウンド』によると、ここはかつて”照屋黒人街”と呼ばれた特飲街だったとある。当時は歓楽街ごとに、利用する客の人種が分かれていたらしい。石川真生さんもかつてこの照屋のバーで働き、同僚の女性達を写真に撮っていた。私はあの展覧会で石川さんの作品に圧倒されたが、現在の照屋の街は意外なほどに静かで、やさしげな陽射しがさしていた。腰を曲げて歩くおばあさんが、ゆっくりと目の前を横切っていった。

旅先ではその地の銭湯に寄ると決めている私達は、沖縄で現存する最後の銭湯「中乃湯」に立ち寄った。入り口に座っていた高齢の女性が、店主さんのようだ。
浴場ではご近所さんと思われる婦人達が和気藹々とおしゃべりしていて、1人でいる私にまで「どこから来たの? 東京のどこ? 息子が所沢にいるよ」と、声をかけてくれた。結果のぼせて目の前がチカチカしてくるまで雑談の輪に混ざった。ここの湯は天然温泉らしく、まるであんかけのようにとろみがあり肌がすべすべとする。お湯から上がろうとすると「ここの湯は足の裏もツルツルになりすぎるから、床で滑らないように」と私の転倒まで気にかけてくれ、この沖縄の優しさあふれる銭湯をあとにした。

最後の日の夜は、一泊800円の宿に泊まった。8000円ではなく、800円だ。前の宿泊客のゴミも掃除されていない稀に見る酷い宿だったが、座布団みたいに薄べったい布団を2人でお腹に巻き付けているうち気付いたら朝になっていた。この日は「神の島」と言われている久高島に行ったが、その辺りの話はちょっと今回のコラムと大筋がずれてしまうので今度改めて漫画にでも描こうと思う。

私は帰りの飛行機の中で、道中ずっと持ち歩いていた『沖縄アンダーグラウンド』を読み返していた。沖縄でいろんな街を見て回ってからというものの、この本の中にある戦時中や戦後の占領下の様子が読んでいていっそう身につまされた。

<上陸時から米兵は沖縄の民間人に対して傍若無人にふるまい、凶悪犯罪、とりわけレイプ事件を頻発させた>(『沖縄アンダーグラウンド』より引用)
<強盗や暴行致死、クルマで轢き殺すなど、沖縄の人々を人と思わないような犯罪が日々重ねられた。沖縄戦を生き残った人々は、戦後は米兵たちの暴力に怯える日々を送らねばならなかったのである>(『沖縄アンダーグラウンド』より引用)

女性の被害に関する記録は特に、まるで自分の身に起きているかのように恐ろしく、胸が痛んだ。米兵による女性の連れ去りは日常茶飯事だったという。家にいても扉を蹴破られ自宅で襲われ、食べ物をあげるからと基地へ誘き寄せられて襲われ、食料を探しに海や山菜取りに行った先でも襲われ殺害された。”集団で”芋掘りをしている時さえも、女性達は襲われたという。そして、米兵がいくらこれらの蛮行を働いてもろくに処罰もされず闇に葬られた。

私はこの当時の沖縄の話が、頭の中でパレスチナの現状と重なった。
パレスチナ人もまた、ずっと入植者(イスラエル人)に人権を蹂躙されてきた。『ガザとは何か~パレスチナを知るための緊急講義〜』(著:岡真理)によると、イスラエルの不条理な暴力に耐え続けたパレスチナ人が対抗すれば逮捕されてしまい、イスラエルの刑務所に入れられたという。パレスチナ人というだけで子供まで逮捕される。だが入植者はというと、殺人をしても放火をしても逮捕されることはなかった。
ガザ地区が封鎖されてからは、物資の搬入出も制限され、燃料も食料も医療品も入らず、病院では足の切断手術も”麻酔なし”でおこなわれた。汚水処理施設も稼働していないので汚染された水で病気になり、貧困や栄養失調で命をおとしていく。そして今は、広島の原爆の2倍の火薬量に匹敵する爆発物を落とされ虐殺されている。その中でも使用されている「白リン弾」は、国際法では禁じられている非人道兵器だ。そんなものを使って逃げようのない民間人が日々殺されているのだ。
ガザの惨状を、ずっとSNSで見続けてきた。人の体があまりに破壊され尽くすと、人形か石や焦げた木切れに見えてくる。それはおそらく、自分の心が破壊されないようにするための脳の防衛本能だと思う。それでも息を止めて目を凝らすと、その遺体になってしまった人が殺される前は確かにここで生きて、笑ったり悲しんだり、家族や大切な人達と暮らしていた様子が見えてくる。もちろん一度も会ったこともない人だけど、時に自分の身内と重なって頭の中に浮かんでくることもある。
ある日、臓器を抜かれた(臓器売買のため)パレスチナ人の遺体が発見されたという報道を目にした。その時、それまでいた足元が一気に崩れるような衝撃と恐怖を感じた。もしかすると、私も知らず知らずに心を削られていて、こうやって理由をつけて無意識的に沖縄へ逃げたのかもしれない。

私はこれから世界がどうなるべきか、小さな脳みそで自分なりに考えてみた。
おそらくもう「停戦」だとか「人道」なんて言葉では足りなくて、この世界から植民地というものをなくすしかないんじゃないだろうか。虐殺をする国もそれを支持する国も、このままじゃ未来永劫、世界平和など口にする権利はない。

今、「ラファ」というガザ南部の唯一の避難エリアが攻撃を受けている。ここが爆撃されれば150万人が命を落とし、いよいよパレスチナ人は殲滅させられてしまう。
そこで殺されているのは、この旅で出会った銭湯の奥さん達や宿のおじいさんのご先祖様達のような、ただその時代に生まれ、その土地に生きていただけのパレスチナの人々だ。

現実を知ることはつらくて苦しい。できたら、私もずっと自分の世界にこもって夢を見ていたい。だけど、知らないままでいたら声をあげそびれてしまう。未来を変える機会を見過ごしてしまう。生活に追われてそれどころじゃないという人もいるかもしれない、資料を読んだり見聞きして情報を集めることも簡単なことではない。自分の心を守るためにはどうしても直視できないという人もいるかもしれないし、「知らないから教えて」と気軽に聞ける隣人がいなくて孤独と罪悪感を募らせている人もいるかもしれない。だから、私はどんな人でも今の状況を知れるような文や漫画をまた描かなきゃと思った。
そういうことに気づかせてもらうために、きっと私は沖縄に呼ばれたのだ。

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「3.11」から被災地はどう「復興」したのか 11年目の風景を写した写真詩集『New Habitations from North to East 11 years after 3.11』 https://tokion.jp/2024/02/22/new-habitations-from-north-to-east-11-years-after-3-11/ Thu, 22 Feb 2024 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=224270 写真詩集『New Habitations from North to East 11 years after 3.11』(YYY PRESS)について、トヤマタクロウ、瀬尾夏美、柴原聡子、米山菜津子の4人に話を聞いた。

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『New Habitations from North to East 11 years after 3.11』から
『New Habitations from North to East 11 years after 3.11』から
『New Habitations from North to East 11 years after 3.11』から

2011年3月11日に起こった東日本大震災から11 年目に撮られた被災地の写真と、11 年の間に語られたその土地の言葉によって編み込まれた写真詩集『New Habitations from North to East 11 years after 3.11』(YYY PRESS)が出版された。

本書は写真家のトヤマタクロウが撮影を担当し、そこにアーティストで詩人の瀬尾夏美が詩を寄せている。編集は柴原聡子が、装丁は米山菜津子が担当し、4人で作りあげた。

先日の能登半島地震をはじめ、地震や台風、豪雨など近年は大きな自然災害が増えている中で、今、この本が出版される意義とは何か。本書に込めた想いを4人に聞いた。

——今、なぜ「3.11」をテーマにした本を出版したのか。その経緯からを教えてください。

柴原聡子(以下、柴原):私自身、もともと建築を学んでいて、昨今の日本における自然災害の増加などから、人間と土地の関係を考えるようになりました。その時、建築や都市計画だけでなく、アートから何かアプローチできないかと思い、3年ほど前から「住む風景/Scenes of New Habitations」というウェブプラットフォームをスタートしました。

このプロジェクトでは当初から瀬尾さんには声を掛けていて、一緒にリサーチを始めました。手始めに東北沿岸部の街をいくつか訪れたのですが、東日本大震災から10年が経ち、いわゆる「復興」がひと段落したという雰囲気が日本全体にある中で、被災地の現在をもう少し丁寧に伝えたいという思いが出てきました。それで、この機会に一気に被災地を巡りなおして1冊の本にまとめることには意義があるんじゃないか、という話になったのがきっかけです。

いろいろと話し合ううちに、「写真と詩を組み合わせてまとめよう」となり、今回装丁を担当してくれた米山さんと相談しました。米山さんからは、風景をなるべくありのまま撮ってくれる写真家がいいのでは、というご提案もあり、撮影をトヤマさんにお願いすることにしました。

瀬尾夏美(以下、瀬尾):コロナ禍もあって、「東日本大震災から10年」みたいな感じであまり話題にはならなかったんですけど、大きく被災地という括りで見られていた街が、それぞれ震災後にどのような復興の選択をしてきたか、ようやくその地域ごとの暮らしが見えるようになってきたタイミングではあったかなと思います。

——実際にこの写真詩集のプロジェクトがスタートしたのはいつ頃だったんですか?

柴原:まずは2022年6月頃に私と瀬尾さんと下調べとして、岩手から東北の沿岸部を1度まわってみて。その後、2022年10月にトヤマさんと米山さんも加えて、4人で岩手県から福島県まで太平洋側の被災地を中心に撮影しながらまわりました。

人の暮らしが伝わる写真

——トヤマさんにはどんな写真を撮ってほしいとオーダーをしたんですか?

柴原:最初は瀬尾さんがトヤマさんにその土地の情報を伝えつつ、それを受けてトヤマさんに基本的にはお任せで撮影してもらいました

トヤマタクロウ(以下、トヤマ):被災地を撮るということで、当事者ではない自分がどうテーマに対して向き合ったらいいのかな、と最初は構えていましたが、そういった気構えでは見る風景にバイアスがかかってしまうと思い、基本的には普段通りに、「ドラマチック」にならないように意識して撮影を進めました。

米山菜津子(以下、米山):1回目にみんなでまわった後にトヤマさんが撮影した写真を4人で見ながら、「もう少しこういう写真があったらいいよね」と、イメージを擦り合わせて、その後に今度はトヤマさん1人で1週間ほどかけてもう一度東北をまわって撮ってきてもらいました。

その時にプラスの要望として、初回は天気が悪かったり、人の気配がなかったりして、自分達が現地で感じていた印象よりも寂しい印象に見えてしまうところがあったので、「もう少し人の気配があってもいいかもね」っていう話しをして。あとは追加で撮影をお願いしたい場所を伝えて、自由に撮影してきてもらいました。

——本書を見ると風景の中に人の暮らしが感じられるカットがあるのが印象的でした。それはある程度意図的だったんですか?

トヤマ:そうですね。1回目の撮影から戻って4人で話して、人の気配がするものや、説明的過ぎない寄りの写真がもっとあってもいいだろうということになりました。2回目の撮影は1人の時間が多かったので、自分のペースで、より時間をかけて生活感のある風景や人々の暮らしが感じられるものを撮影できたと思います。

——それで最終的にセレクトは米山さんが行なったんですか?

米山:トヤマさんに2回目をまわってもらった後に、また、4人で写真を見てみて。それで最後にもう少し南の方の茨城県とか関東に繋がっていく場所の写真もあった方がいいとなって、3回目はまたみんなで行って。

全体としては北から南へと順番に掲載して、最後に関東に繋がっていく感じでということをみんなで決めて、各場所の写真は私が1度セレクトして、レイアウトして、みんなと微調整をしつつ、この写真の隣に文章をお願いしますと瀬尾さんにお伝えしました。

作っているうちに最初に想像していた本とは少しずつ変わってきて、当初はページ数ももっと少なく写真も住宅や地形の様子だけのイメージでしたが、最終的にはページ数も300ページ以上で、暮らしを感じるカットも入ってきて。このプロセスを経て、変わってよかったなと思いますね。

——トヤマさんの写真だからこそ、より伝わるものがある気はします。

トヤマ:基本的に写真には物事の表面しか写りませんが、そこからいろいろなことが読み取れると思うので、その土地の表面の質感が伝わるよう丁寧に撮影しました。表面下の部分は瀬尾さんの詩で補完されるだろうとも思っていました。 また、他所から来た人間だからこそ気づくことや撮れるものもあると思い、ある程度の距離を保ちながら土地を巡りました。

——瀬尾さんは詩をどのように考えていったんですか?

瀬尾:最初は米山さんがつくってくださった仮のレイアウトを見ながら書いていたんですが、うまく進められなくて。写真には2022年の風景が写っているんですけど、私にとっては震災のすぐあとから見続けてきた場所なんですよね。それで、過去のエピソードを入れ込みたいという気持ちもあったので、写真1枚1枚にあて書きをするのではなく、今回の旅をメインにしつつ、これまでに聞いたお話や風景の変化などを含めて、北からずっと下りてくる感じで、まちごとに詩を書いていきました。

「3.11」以降の変化

——瀬尾さんは震災後に東北に移住したんですよね?

瀬尾:そうです。当時は美大生で、東京のシェアハウスに住んでいて。私とトヤマさんは1988年生まれで震災のタイミングで大学卒業だったんですが、地震で卒業式もなくなりました。大学の友人達と、何かできることはないか、東京でもやれることはあるんじゃないかとか、いろいろ話し合ってはいたんですけど、わたしはやっぱり現場で起きていることを直接知るべきだと思ったので、ボランティアに行くことにしました。実際の現場で大したことはできなかったかもしれないけど、そんな中でも、被災された方達が話を聞かせてくれて、そのことを誰かに伝えてほしいと言われたりもして。その時に聞いた話は貴重なものだから、同時代の人達に伝えること、そして記録して未来に残すことも必要だと感じて、翌年の春に岩手県陸前高田市に引っ越したんです。それから10年ほどは東北に居て、今は東京に戻ってきました。

——瀬尾さんはずっと被災地を見てきて、復興の具合に関してはどう感じていますか?

瀬尾:地域ごとに復興のコンセプトが違っていて、例えば堤防をつくるべきか否かの考え方も街によって違ったりもして、そこが興味深いですね。福島県は原発事故の影響があって、復興のタイミングがどうしても遅れてしまっています。

米山:一言で「復興」と言ってもいろんなレイヤーがありますよね。その結果として、家の建ち方や堤防の高さなどが土地によって全然違うというのは、行ってみて実感しました。元のコミュニティがそのまま移動して、別の場所に仲が良さそうに家が建っている地域もあれば、家が流されてしまったけど、同じ場所に住みたいとバラバラに戻ってくる人もいたりして。そういうことをなんとなくでもトヤマさんの写真から感じてもらえるといいなと思います。

——瀬尾さんが東北に移住したように、柴原さん、米山さん、トヤマさんも3.11を機に変わったことはありますか?

柴原:私はアートの仕事をメインにしているのですが、震災が起きた時は、ちょうど建築学会の仕事も手伝っていました。そこでお付き合いのあった、いろいろな先生から被災地を実際に見ておいた方がいいと言われて。2011年6月くらいに気仙沼にボランティアで行きました。築200年の歴史ある立派な民家の片付けを手伝ったのですが、家は津波でぐちゃぐちゃ、住民の方ももう同じ場所には住めないと話していました。日本は土地信仰を強く、代々土地を継いでいくという考えがあると思うんですが、その経験もあって、それは不安定なものなんだと実感しました。以来、土地と人間の関係だったり、アートでも災害をモチーフにしている人が気になりだしたり、自分にとっては大きな変化でした。

米山:私は震災当時はデザイン事務所で働いていて、ちょうど雑誌のリニューアルを手掛けていた時期で忙しくしていました。震災後は社会全体がとても不安定で何をしていても不安だったけれども、だからこそ自分はなんとか普通に仕事を続けよう、という気持ちでした。

今回のプロジェクトの前に自分は被災地にほとんど行ったことがなくて。あえて避けてた部分もあったというか、どう受け止めたらよいかわからない怖さみたいなものがありました。津波の映像とかも全然直視できなくて、10年が経って、柴原さんと瀬尾さんに今回の写真詩集の話を聞いた時に、今だったら自分も関わることができるのかも、とやっと思えるようになりました。

——復興した後に見る被災地はどのように感じましたか?

米山:復興がひと段落したと言われているとはいえ、ちょっと目を凝らすと、震災の爪痕が残っていて。何か圧倒的なことがここで起きたんだなという雰囲気はすごく感じました。そういう場所の隣には新しい綺麗な家が建ってて、普通に暮らしている人達もたくさんいる。なんというかあまり見たことのない風景だなという印象を受けました。まだそれを何と表現していいか、自分でもちょっと咀嚼できてないのですが。

——トヤマさんは?

トヤマ:大学の卒業式を目前にして地震があったんですけど、揺れが起こった時は洋服屋のバイトでお店に立っていて、もともとは卒業後もそこで働くつもりでいたのですが、いろいろと悩んでしまって震災直後に辞めてしまいました。僕は、自分ではどうしようもないような大きな出来事が起こった時に、すぐに行動を起こすことができなくて、とにかく立ち止まって考える時間が必要でした。当時はいろんな情報が錯綜していて自分自身も不安定だったと思います。それで、大学も卒業して仕事も辞めたのですが、写真を撮る枚数はどんどん増えていったので、写真屋でバイトをしたりしながら写真を続けて今に至るという感じです。震災がなければ今のようには写真を撮っていなかったと思うので、このような本を作ることになって、少し不思議な気持ちです。  

被災地への想像力

——今回、この写真詩集を通して、何を伝えたいですか?

瀬尾:こうした大きな災害が起こると、当事者と非当事者、当事者の中でも被害が大きかった人と少なかった人……など、いろんな境界線が出来てしまって、立場の異なる他者にどう関われるのか、どうやって寄り添っていいのか、みんな悩みますよね。これは災害だけにかかわらず、さまざまなマイノリティの問題に関しても似たようなことが起きていると思います。

日本でも大きな自然災害が増えている中で、いつ自分が被害にあうかもわからない。そこで、当事者になった人達がどのように“その後”を生きているか、どんな風に風景が回復してきたかを知ることで、すこしホッとしたり、関わり代が見つかったりもするかもしれないと思っていて。この本が少しでもそのきっかけになればと思っています。

柴原:日本では毎年のように豪雨や震災といった災害が増えています。今まで被害がなかった地域でも、いつどうなるかわからない状況になってきている。だから被災地で被害を受けた人が、どう暮らしを再建させていくのか、都市部に住んでいる人でも知っておいた方がいいと思います。

トヤマ: 基本的にはやっぱり瀬尾さん、柴原さんが言ってくれたようなことが、この本の役割みたいなこととしてはあると思います。

2023年11月に下北沢のB&Bという本屋で小説家の小野正嗣さんを迎えたトークイベントをやった時に、知り合いのアートディレクターの方が聞きに来てくれて。その時まで知らなかったのですが、実はその方はこの本で撮影した岩手県の野田村の出身で、被災後に自分でも地元や被災地に関しての本を作ろうかとずっと思っていたらしいのですが、それがどうしてもできなくて、写真もなかなか撮れなかったそうで。この本を見て、すごく腑に落ちたっていうふうに言ってくださって、それを聞いて僕も救われたんです。質問の答えになっていないかもしれませんが、なにかそういう、見た人が腹落ちできるような本になっているのなら、嬉しいです。

米山:この本は純粋なリサーチの結果を報告するっていうものでもないし、何か物語になっているわけでもなくて。4人が4人、それぞれで感じていることがあわさったり、それぞれだったり、行ったり来たりしながら作った本という感じがしていて。そういう本は、一言で「こういう本だ」と言いいづらいところはあるんですが、読み込んでもらえると、想像力が働く部分があるのかなと思っていて。

都市部に住んでいる人間として、遠い場所のことを想像するとか、場所は遠くてもなにか似たようなものを窓に置いてる家があるんだなとか、何かそういう繋がりを発見したりというような知らない場所のことでも親近感を持ってイメージするみたいな想像力を働かせていくことが、とても大事なのではないかと思っています。そういうきっかけになればすごくいいですね。

柴原:本書について被災者の方からの感想を聞くと、この本に写っているのは日々皆さんが見ているリアルな風景なんだっていうのは思いました。3月2日からは福島県の郡山で展覧会を開く予定で、今後も定期的にイベントを行っていきたいと思っています。そこでいろんな人の感想を聞くのが楽しみです。

■『New Habitations from North to East 11 years after 3.11』
写真:トヤマタクロウ
詩:瀬尾夏美
文・編集:柴原聡子
装丁:米山菜津子
定価:¥6,050
出版社:YYY PRESS
仕様:上製 312ページ 横 188 × 縦 263 mm
ISBN 978-4-908254-10-9 C0070
https://newhabitations.com
https://newhabitations.com/new-habitations-book-2/
Instagram:@new_habitations

■「New Habitations: from North to East 11 years after 3.11 in FUKUSHIMA」 
東日本大震災から11年目に撮られた写真と、11年の間に語られた土地の言葉。 被災地の現在と過去が織り成す、「あたらしい風景」 
写真:トヤマタクロウ 
詩:瀬尾夏美 
会場:トトノエル gallery café
住所:福島県郡山市希望ヶ丘1-2 希望ヶ丘プロジェクト内
会期:2024年3月2〜20日
時間:(日〜水)12:00〜18:00
休日:木〜土  
http://www.totonoel-gallery-cafe.jp
Instagram:@totonoel_gallery_cafe

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連載「ものがたりとものづくり」 vol.14:スタイリスト・小山田孝司 https://tokion.jp/2024/02/21/monogatari-and-monodukuri-vol14/ Wed, 21 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=223799 作家・ライターの菊池良が、各界のクリエイターをゲストに迎え、小説やエッセイなどからの影響について対話を行う連載企画。第14回のゲストはスタイリストの小山田孝司。

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「ものづくり」の背景には、どのような「ものがたり」があるのだろうか? 本連載では、『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(宝島社)、『ニャタレー夫人の恋人』(幻冬舎)の作者である菊池良が、各界のクリエイターをゲストに迎え、そのクリエイションにおける小説やエッセイなど言葉からの影響について、対話から解き明かしていく。第14回はスタイリストの小山田孝司が登場。

小山田さんが挙げたのは次の2作品でした。

・岡本太郎『自分の中に毒を持て』(青春出版社)

・長島有里枝『not six』(スイッチパブリッシング)

さて、この2作品にはどんな”ものづくりとものがたり”があるのでしょうか?

8月に刊行された小山田さんの初の作品集『なにがみてるゆめ』に触れながら、お話を伺います。

言葉や他者についての感覚に共感を覚えた、岡本太郎『自分の中に毒を持て』

──1冊目は岡本太郎さんの『自分の中に毒を持て』です。岡本さんの生き方や芸術論を語った内容です。

小山田孝司(以下、小山田):あまり本を自分で買うことはなくて、人からもらったりしたものを読むことが多いんです。この本も、たぶん友達の引っ越しを手伝った時に、その友達からもらったんじゃないかな。

結構自分の同世代は岡本太郎が好きな人が多かったですね。

──岡本さんは著書も多く、影響を受けた人も多いです。

小山田:ただ、岡本さんの作品は、正直あまり得意じゃなかったんですよね。なんか、自分にはちょっと強すぎて。

だけど、たまたまもらったこの本を読んでみたら、岡本さんの挑発的な言葉が心にダイレクトに迫ってきたんです。なんだろうな、「人生って死と隣り合わせなんだ」という感覚が伝わってくるというか。

岡本さんは戦争を体験していることとも関係していると思うんですけど。

──岡本さんは1911年生まれで、1929年にフランスに渡りますが、戦中はそこで兵役に就いて、戦後は生活をしています。

小山田:この企画のために、十何年ぶりかに読み返したんですけど、今の自分への影響も改めて感じました。

この辺のくだりは、自分が言葉に対して抱いている感覚とつながっている気がします。

あなたは言葉のもどかしさを感じたことがあるだろうか。とかく、どんなことを言っても、それが自分のほんとうに感じているナマナマしいものとズレているように感じる。たとえ人の前でなく、ひとりごとを言ったとしても、何か作りごとのような気がしてしまう。
(岡本太郎『自分の中に毒を持て』青春出版社、97頁)

あとこの部分とか。

多くの他人との出会いによって、人間は”他人”を発見する。”他人”を発見するということは、結局、”自己”の発見なのだ。
(岡本太郎『自分の中に毒を持て』青春出版社、164頁)

この本を最初に読んだのはスタイリストを目指している時。その時は「クリエイターはこうでなきゃいけない」というところに引っ張られていたんですが、だけど、今は岡本さんの繊細な一面が気になりますね。

そういうことを知った上でいろいろと作品を見ると、刺激が強いのは変わらないんですが、愛着が湧いてきますね。

──小山田さんの写真集『なにがみてるゆめ』もある意味、他者との出会いですよね。

小山田:この写真集の撮影では、3着ぐらい僕のストックの服を持っていき、モデルがその日着てきた私服に対して、その中の1着を組み合わせて撮っているんです。

一点混ざった僕の服が、被写体のパーソナリティに別の視点を投げかけるのがおもしろくもあり、自己と他者の境界線が曖昧になる感覚が刺激的でした。

岡本さんの本に書かれている言葉のように、このプロジェクトでは「人に会いながら自分を見ている」みたいな感覚がありましたね。

──他人を撮ることで、自分が見えてくる。

小山田:あと、僕はスタイリングで異なる価値観をもったアイテム同士を組み合わせたいと思っているんです。よく知られているブランドに、無名のブランドを混ぜるというか。異なるアイテムを掛け合わせることで、すでにある両者のイメージが新しいものへと変化するのがおもしろくもあり、自分に新しい発見を与えてくれます。

言葉にできないほど衝撃を受けた、長島有里枝『not six』

──続いては長島有里枝さんの『not six』。こちらは長島さんの当時の配偶者を被写体にした写真集です。

小山田:この写真集は2010年ぐらいに出合ったものです。

最初、見ていて苦しい気持ちにもなったんですが、最終的にとても感動して。初めてこの本を手にした時の言葉にできない感覚を大切にしたくて、あまり頻繁に開けない1冊でもあります。

──『not six』は長島さんの写真のあいまに短文が挟まる構成になっています。

小山田:長島さんは、言葉も響きますよね。

説得力があるというか、冒頭の「彼が私のカルマじゃなかったら、何?」という言葉がこの本の写真のすべてを物語っているように、言葉と写真が両立した写真集だなと感じました。

──写真集のなかの文章では、被写体のプロフィールや関係性は明確に書かれていないんですよね。そこが詩的だなって思いました。

小山田:わかります。一方で、僕の『なにがみてるゆめ』には、言葉を全く入れていないんです。入れるかどうかずっと考えて、最終的には入れなかったんですけど。

言葉って1つの方向に持っていく力が強いと思っていて、ファッションの仕事をやっていて、扱うのが少し難しいなって感じているところがあるんです。

『なにがみてるゆめ』では、人とファッションが同じ存在感というか、同列に存在していることを表現したかったんですけど、そこに言葉があると邪魔になってしまうような気がして。

──『なにがみてるゆめ』を見ていると、「この人は、どんな人なんだろう」って考えるんです。すると、着ているものや部屋の小物からぼんやりとしたものが見えてくる。言葉がないことで、タイトルと共鳴しているように感じました。

Photography Kousuke Matsuki

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連載「ぼくの東京」Vol.11 民藝に新たな感性を吹き込む、染色家・宮入圭太が考える東京 https://tokion.jp/2024/02/20/my-tokyo-vol11/ Tue, 20 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=223271 アーティスト等による思い思いの「東京」を紹介する連載。第11回は手仕事の美しさを継承する染色家・宮入圭太が登場。

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ぼく・わたしにとっての「東京」を紹介する本連載。第11回は、宮入圭太が生まれ育った東京の新たな魅力を探しに。

宮入圭太
1974年東京都生まれ。型染を生業とする。古き良き先人の作品に感銘を受けながらも、自身の感じる自由を表現。民藝には生き様が投影される。あたりまえに過ごしてきた東京。知らぬ間に蓄積された感覚は、アートとして注目を浴びている。https://keitamiyairi.jp
Instagram:@keitamiyairi

制約の中に、自由を観る

民藝思想。1926年に柳宗悦等によって提唱されたこの文化は、華美な装飾ばかりを施した当時の工芸界に警鐘を鳴らすものだった。美は生活の中にこそある。そう考えた柳宗悦達が、名も無き職人の手から生まれた日常の道具を「民藝」と名付け、新しい美を提示したのだ。

「いつからか、この思想に惹かれるようになっていました」と、染色家の宮入圭太は言う。しかし、制約された表現のなかで、仕事をすることにそれが正しいとわかっていても、どこかふてくされている自分もいた。

「大衆に受けないと意味がないというか……個性とか趣味とかが悪とされる世界なんです。でも、自分が“好き”と思う感覚を大切にしたい。そんな時、柚木沙弥郎の作品に出会いました。あ、おもしろいぞ、って」。

生まれ育ちは池袋。幼い頃から、あたりまえのように都会の暮らしを楽しんでいた。気の向くままにスケートボードを手に取り、時には絵を描く少年だった。

「池袋の普通の家庭で育ったので、センスとかあまり考えたことがなかったです」。

そんな宮入は、結婚がきっかけで30代前半からは後楽園に転居。居心地のいい地元を離れ、友達もいない場所で黙々と自分の仕事と向き合う。近くの「小石川植物園」は好きな散歩コースで、気付くと一番いる場所になっていた。

直観。大切にしてきたものが繋がる瞬間

「植物園や民藝館にはよく足を運びます。ネタ探しでもあり、刺激を受ける場所。特にコロナの時は、この植物園にめちゃくちゃ行ってました」。

「美術業界に知り合いなんて1人もいなかった」。そう話す宮入の前で、フォトグラファーの濱田が笑う。今では一緒に仕事もするし、遊ぶ仲だ。

「あの展示がなかったら出会ってないかもしれないな」。

宮入圭太という存在を大きくしたのは、世界的なグラフィティアーティストであるバリー・マッギーがきっかけ。彼の来日作品展で、宮入の作品が飾られたのだ。天井から吊り下げられた手ぬぐいに、多くの人がざわついた。

「無名だった私にたくさんの人が興味を持ってくれました。え、なんで!? バリーさん達とたまたま笑うものが一緒だった。あ、でもこの感覚(直観)って、すごく重要なのだと思いました」。

民藝とも通ずる直観。宮入が尊敬する柳宗悦の「素朴なものはいつも愛を受ける」という言葉は意外な場所で形を受けた。

「どこで生まれたとかは関係なくて、直観が共鳴すればすぐに繋がれるんだと感じました。そして、それを直に確かめ合えるのは東京だから、なのかな、とも」。

東京という存在が生んだもの

インターネットを知らない時代を生きてきた彼は、今日もシンプルな気持ちで作品と向き合う。売れることを考えれば必要なSNSも興味がない。ただ、目の前に見えるリアルな風景を楽しんでいる。彼にとっては今日も“好き(直観)”が重要だ。

「幼稚園の頃から染色を教えてきた娘は、もう中学生。明らかに子ども達の方が才能あるんです(笑)。子どもの自由さに勝てる人なんて、きっと1人もいないんだろうな。バリーさんの展示会のきっかけを作ってくれたタイラー君という友達もそういう目を持っている人で、彼とは4年間、毎日連絡をとっています」。

安定を求めて我執を隠して活動するより、自分が感じる正しさを表現したい。そんな彼が多くの出会いを経て感じたこともある。

「僕は東京生まれですが、実は東京出身の我々はダサいんじゃないか? と。作品を通して、東京を目指してきた人に会う機会も増え、その野心や感性に驚くし、知らない東京がまだまだがいっぱいです」。

Photography Shin Hamada
Text Akemi Kan
Edit Kana Mizoguchi (Mo-Green)

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連載「クリエイターのマスターピース・コレクション」Vol.11 映画監督・富田克也の“バイク” https://tokion.jp/2024/02/19/creators-masterpiece-vol11-katsuya-tomita/ Mon, 19 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=223120 さまざまなクリエイターの愛用するアイテムについてインタビューする連載コラム。第11回は、映画監督・富田克也が趣味の釣り移動で愛用している“バイク”を紹介。

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富田克也

富田克也
1972年山梨県生まれ。映画監督。映像制作集団「空族」の一員。処女作『雲の上』(2003)、『国道20号線』(2007)発表後、2011年の『サウダーヂ』で、ナント三大陸映画祭グランプリ、ロカルノ国際映画祭独立批評家連盟特別賞、高崎映画祭最優秀作品賞、毎日映画コンクール優秀作品賞&監督賞を受賞。その後、フランスでも公開された。以降もオムニバス作品『チェンライの娘 (『同じ星の下、それぞれの夜より』)』(2012年)、『バンコクナイツ』(2016年)、『典座-TENZO-』(2019)等を発表している。

独創的な視点と手法で商業ベースにとらわれない映画作りをしてきた映像制作集団「空族」。今回はその首謀者の1人である映画監督の富田克也に愛用品を紹介してもらった。持ってきてくれたのは、自分の生活、創作活動には欠かせないというバイク。富田監督スタイルにカスタムしたバイクのエピソードを思う存分話してもらった。

「釣りが目的だから山の中で走りやすいアウトドア仕様」

──富田監督の愛用品について教えてください。

富田克也(以下、富田):カブです、ホンダの。

──いつ頃買ったんですか?

富田:5年前くらい。でも、買ったんじゃなくて、もらったんです。俺は甲府でずっと育って、その後東京に出て、5年前に山梨に戻ってきた。再会した幼なじみはみんなバイクをいじってて、俺もバイクが好きなんで欲しいなと思ってたら、近所のおじいさんが「俺の乗らんである1台、おまんにやらあ」って話になって。その人、親父の同級生。今は釣り仲間で、いろいろ穴場を教えてもらってて。で、バイクもらって以来、今日も撮影場所を提供してくれた幼なじみの小坂武くんと一緒にエンジンをいじって、排気量をボアアップしたりして遊んでるんです。

──法律の範囲内で?

富田:もちろんもちろん! 正規にちゃんとナンバーも取ってやってるんで。

──カスタムの特徴は?

富田:釣りが目的だから、山の中で走りやすいようにタイヤをオフロード用に替えたり、荷台にケースつけたりとか、山仕様、アウトドア仕様です。それにパワーがないと山の中を走れないから、50ccから80ccにボアアップしたりとか。

──そもそもバイク歴は長いんですか?

富田:長いです。高校の時に免許を取ってから、バイクが好きでずっと乗ってるもんで。

──最初に乗ったのは何ですか?

富田:最初はスクーターでしたね。通学に使ってました。「ニュータクト」ってスクーターで、“ニュータク”と呼んでました。

──ヤンキーに人気のあるスクーターですね。

富田:そうそうそう! 不良が乗る、あれが最初で。その後、いろいろ乗り継いできました。

「オフロードバイクがメイン。ここら辺では通称『山っ駆け』」

──スポーツバイクにも乗ってました?

富田:いや、その頃はスポーツバイクは乗ってなくて、いわゆるネイキッドと呼ばれるバイクに乗ってました。で、50歳を過ぎてからスポーツバイクもいいなぁと思うようになって。

──中型は?

富田:乗ってました。400ccを2台くらい乗って、その後、ナナハン(750cc)乗って。今はバイク4台持ってます。カブとエイプ、TZR、この3台が50ccクラスで、もう1台は250ccのオフロードバイク。この辺では通称「山っ駆け」と呼ぶんですよ、オフロードバイクのことを。山の中を駆けるから「山っ駆け」。この言葉、こっちに戻ってきてから知ったんで、新鮮で気に入ってます。

東京でもバイクに乗ってたけど、田舎に住むことになったから、オンロードよりオフロードバイクがいいなと思って。250ccがメインで、カブは俺の中で一番道具っぽいイメージ。日常の移動手段であり、釣りで山の中に入っていく時に釣り道具を積んで運ぶための道具。

──釣りがあってのカブなんですね。

富田:やっぱカブが一番山の奥まで入っていける。オフロードの250ccだと、こっちの技術が追いつかなくて、もてあましちゃう。山の中に入るとパワーはあるけど車体も重いし、すっ転んで足でも下敷きになったら1人じゃ起こせないし。その点、心置きなく奥地に入っていけるのがカブ。自分のコントロール下に置いておけるって感じですかね。

──釣りをするのは湖ですか?

富田:おもに川、渓流、湖もです。この辺渓流だらけなんで。

──海、ありませんもんね。

富田:そう、海なし県なんで。

──渓流ではルアーですか?

富田:うん、ルアーもフライも。

──今頃ですと、湖ではわかさぎですか?

富田:あ、こないだ、わかさぎ釣りに行きました。河口湖で。昔と違って今のわかさぎ釣りって、でっかいビニールハウスが浮島として湖に浮いてるんですよ。そこまでボートで運んでもらって、暖房が効いた温かいところで釣るんです。

──今は湖が凍らないからですか?

富田:うん。昔はわかさぎ釣りというと、氷に穴開けてって感じでしたよね。昔はブラックバスもやってましたし。でも、海釣りはあんまり知識がなくて。冬になるとイカとか釣ってみたいと思って仲間と沼津のほうまで出張って、やってはみるものの3、4回行って、まだ1杯もイカが釣れたことないです(笑)。だいたい、海釣りなんかちゃんと始めちゃったら大変ですよ。1年中釣りしなきゃなんない。その点、渓流は禁漁期間があるから。3月から解禁、9月いっぱいで禁漁なんで釣りができるのは半年だけ。

「ホンダの名作。壊れても部品が山ほどある」

──話をバイクに戻しますけど……。

富田:そうだったそうだった!(笑)

──カブの魅力はどのあたりにあります?

富田:やっぱ、ギア付きのバイクが乗ってて一番楽しいし、カブは自分でギアチェンジしたいという欲望を満たしてくれる。スクーターだとギアがないから。それから、壊れないところもいいですね。とにかく頑丈なんで、転んでも壊れない。壊れたとしても、売上が1億台突破したほどの「ホンダ」の名作だから、古いバイクなんだけど部品が山ほどある。だから、未だに直し続けられるし。

──もともと機械いじりが好きなんですか?

富田:好きですね。釣りのリールをバラして、また組んでって。ギアとか、鉄と鉄がこすれ合って回るとか、好きなんでしょうね。空族の虎ちゃん(相澤虎之助/映画監督、脚本家)もバイク好きで、バイク屋で長いこと働いてたから、いじれるし、例え話は全部バイクに例えてくるから(笑)。

映画を撮るために東南アジアに行った時なんか、現地を走り回るにはバイクが一番いい。例えば、タイでカブは「ウェイブ」っていう名称なんですけど、レンタルバイク屋で必ずウェイブを借りるんです。「クリック」っていうオートマスクーターもあるんですけどギアなしだからそっちは借りない。だからいつも東南アジア行くとウェイブで走り回ってます。

──映画『バンコクナイツ』の世界ですね。

富田:そうそうそう!

──『バンコクナイツ』の発想もバイク好きというところから始まったんですか?

富田:まぁ俺達映画を作るのにバイクで走り回るところから始まりますからね。自分達で映画を作る時に1つ決まり事があって、それはバイク走行シーンを必ず入れること、それをやらないと、映画を撮った気がしない(笑)。

──『バンコクナイツ』では運転もみずからしたんですか?

富田:もちろんしました。昔は車のフロントガラスに飛び込んだこともありますよ。スタントなんか雇えないから、人が車に轢かれるシーンを撮るために、フロントガラスに突っ込んで。フロントガラスがビシッ!と割れる。ムチ打ちで3日くらい動けなくなりましたよ。

「バイクはロマンの乗り物だから」

──車には乗るんですか?

富田:レガシーBP5に乗ってます。この武くんからもらって。以前は車に関してはこだわりがなかったんだけど、レガシーに乗るうち、うわっ、この車はおもしろいと気付いてしまって。そこから車も好きになっちゃった。

──バイクと車、乗る頻度は半々くらいですか?

富田:そうですね、半々くらいですかね。車は日常の移動手段だけど、バイクは乗るために乗るというか、趣味ですね。ツーリングみたいに乗りたいからどこか出かけるって感じになりがちですね。

──最近、ツーリングしてるの中高年ばかりですよね。

富田:ですよね、だって若い人、バイク乗らないし。

──大型車は今じゃおじいさんの乗り物になっちゃいましたし。

富田:やっぱ、そうなりますよ。バイクはロマンの乗り物ですからね……。

──今回の取材で愛用品を選ぶ際、他にも候補はありましたか?

富田:釣り道具かバイクか考えました。最初は愛用品、何がいいかな、なんかかっこいいのねえかなって考えて。ほら、万年筆とかだと頭良さそうじゃないですか(笑)。しかし、しかし釣りとバイクって! もはや完全なるただのおっさん……。

──バイクで助かりました。作品とも結びつくんで。

富田:そんなこともあるかと思って、バイクにしました。

──釣りだと映画と結びつきませんからね。

富田:いや、それが、実は次回作と結びつくんですよ。釣りを1つの題材として取り上げようと考えてて。釣りをしている人間を描くつもりで、釣り仲間の田我流にそういう役をやってもらおうと進めてて。以前撮った「サウダーヂ」の続編にあたる映画として考えてるんですけど。虎ちゃんも釣りが好きだしね(笑)。釣りのこと、きちんと描いてる映画みたことないし。コロナの期間、俺等釣りしかすることがなくて。それは俺らに限らず、みんな自然のほうに行けば大丈夫だろうってことで、釣りとかアウトドアがすごい人気になりましたよね。それでいろいろ思うところがありまして、次回作は釣りも1つのテーマに入れようかなって。

Photography Kenji Nakata
Text Takashi Shinkawa
Edit Kei Kimura(Mo-Green)

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