異文化の間で躍動するチベットの作家達

星泉
1967年千葉県生まれ。東京外国語大学 アジア・アフリカ言語文化研究所 教授。専門は、チベット語学、言語学。博士(文学)。1997年に東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所に着任。チベット語研究のかたわら、チベットの文学や映画の紹介活動を行っている。編著書に『チベット牧畜文化辞典(チベット語、日本語)』、訳書に『チベットのむかしばなし しかばねの物語』、ラシャムジャ『路上の陽光』『チベット文学の新世代 雪を待つ』、共訳書に『チベット幻想奇譚』、トンドゥプジャ『チベット現代文学の曙 ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』、ペマ・ツェテン『チベット文学の現在 ティメー・クンデンを探して』、タクブンジャ『ハバ犬を育てる話』、ツェラン・トンドゥプ『闘うチベット文学 黒狐の谷』等がある。『チベット文学と映画制作の現在 SERNYA』編集長。

チベットの研究者、翻訳者の星泉はチベットの文学作品には今を生きる人達の心情がよく表れていると話す。ニュースで報道される情報では、人々の生活や何を感じているのかまでを伝えきれないことも多く、チベット人達の日常の姿を知ることは難しい場合が多いという。一方でチベットの文学作品には、今を生きる人達の心情がよく描かれていて、日本人の読者の間では「チベットの物語の中には、宗教や人種を超えて共感できる内容が多く、多忙な現代を生きる日本人が忘れがちな思いやりやユーモア、他者への理解を深めるヒントに溢れている」と話す人も少なくない。

星が現在まで日本語に翻訳したチベット文学には、作家であり亡命チベット人の医師であるツェワン・イシェ・ペンバが遺した長編歴史小説『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』、現代チベット文学を牽引するラシャムジャの日本オリジナル作品集『路上の陽光』『雪を待つ』等がある。『路上の陽光』に収録されている日本を舞台にした短編「遥かなるサクラジマ」では、チベットの地を踏んだことのない、日本に暮らす亡命2世のチベット人女性の、生きる苦悩や葛藤が描かれている。星は同書のあとがきに「チベットでも近年増えている、進学や就職、出稼ぎなどで都会暮らしをする孤独な若者に呼びかけるような、力強いメッセージ性のある作品」と記している。

ラシャムジャの作品は、日本人が今読みたい海外文学として紹介されている。一方で、まだ知られていないチベット人作家は多く、その中には女性の作家や詩人も多い。チベット文学における異文化に触れる時の知的なアプローチは、迫害や抑圧の歴史によって培われた発想が元になり、多様性のある時代を生きる現代人に必須の考えが根付いている。世界的にチベット文学が注目を集めたきっかけと特異性、今注目すべき女性作家から、チベット語と漢語を使い分ける制作の意図までを聞いた。

創作活動の最前線に立つ、豊かな口承伝承の語り手達

ーー2010年代以降、日本を含めた世界各地で同時多発的にチベット文学が翻訳出版されたということですが、どのような経緯だったのでしょうか? 

星泉(以下、星):まず、現代のチベット文学を語る上で重要な作家に、ペマ・ツェテンさんとツェラン・トンドゥプさんがいます。私の推測ですが、この2人が日本、フランスやアメリカ等の研究者や翻訳家達と交流を深めたことがきっかけとなり、各国で同時多発的にチベット文学が翻訳出版されたのではないかと考えています。

ペマさんは作家であり、世界的に評価される映画監督です。2000年後半から本格的な映画界に入った彼は、すぐに実力を認められ、国際舞台で活躍するようになります。私は、2011年に映画祭でお会いした際にて小説を頂いたのですが、とてもおもしろい作品だったので、日本語に翻訳をして多くの人に届けたいと思いました。当初は翻訳をする予定ではなかったのですが、ペマさんから「英語の翻訳が始まって、多分来年には刊行されると思うんだけど、日本語ではどうかな?」と連絡がありました。作家から翻訳を期待されることは今までにない体験でしたし、連絡が気軽に取り合える仲になれたことで相互関係が始まり、翻訳出版に至りました。フランスやアメリカの映画祭でペマさんに本を渡された翻訳者達も同じように彼の作品と人柄に魅了されたのではないでしょうか。ペマさんは関わる人に喜びを与える人格者でした。個人的にもとても大切な人だったため、昨年5月に亡くなった時は本当に悲しかったですね。

ツェラン・トンドゥプさんの小説も、アメリカやフランスで翻訳されています。近著が出ると連絡をくれたり、交流のある各国のチベット研究者や翻訳者と引き合わせてくれて、彼を中心にして輪が広がっていきました。何か相談すると即座に応えてくれる協力的な人で、貴重なチベットの情報を提供してくれます。この2人が、世界の翻訳者達の影で動いてくれたことがとても大きいと思います。なるべくして同時多発的にチベット文学が刊行されたんですね。

加えて、過去のチベット研究の蓄積、翻訳書籍はありますが、2010年代にはチベット語でやりとりのできるネット環境が充実したこと、自分達の活動を広く世に届けやすくなったことも関係していると思います。

ーー近年、日本でもチベット文学が取り上げられる機会が増えているように感じます。どのような特徴がありますか?

星:チベットには「語り」を重視する文化があります。チベット文学は口承が中心で、一般の人達にとって物語とは読むものではなく、聞いて楽しむものでした。そういった背景から、説得力を持った言葉を用いて自分の声で語ることが重要視されます。

私が仲間達と作ったチベット語、日本語辞書『チベット牧畜文化辞典』 の中に「男の備えるべき9つの能力」という単語があります。そこには「力が強く、泳ぎがうまく、動きが素早く、土地の歴史を熟知し、笑い話が得意、議論に強く、物知りで賢く、忍耐強く勇敢で、言語明晰であること」とあります。そのうち5つが語りに関わることなのです。土地の歴史を熟知して語れると一人前として周りに認められることが読み取れます。

チベット文字の成立は1300年ほど前と古く、また仏教に支えられた長い古典文学の伝統もあるのですが、一般の人達がそうした文学を読んだり書いたりする文化はありませんでした。彼らは自分達の経験を語り継いでいくことで記憶に残してきたのです。

激動の時代に学び、物語を書いた希少な女性作家達

ーー日本で紹介されているチベット文学の魅力の1つとして「ことわざ」を巧みに使うことが挙げられます。ことわざはチベットの人々の暮らしの中では欠かせないもので、上手に使えるようになることは大人の証でもあるそうですね。

星:はい。ことわざは、問題が起きたときに闘ったり解決したりするためのプロセスでよく使われます。例えば、物語の中では喧嘩の場面でことわざが頻出するのですが、「威張った犬ほどよく吠える、威張った人間ほどよく喋る」と言って、ここぞという時、相手を打ち負かしたい時に繰り出します。意味合いとしては、古くから積み上げられてきた真実や結果が凝縮された「ことわざ」を根拠に、自分の言ってることが正しいという論理にもっていきます。自分の主張を助けてくれる援軍のようなイメージです。

もう1つ、理解し難い奇想天外な複雑な事柄を整理して納得するためのツールともいえます。理不尽な出来事をよく理解して受け入れられなければ、自分の心が壊れてしまいますよね。そんな時に、昔から語り継がれてきたことわざを引用し、わからない出来事を理解するための手がかりとしても使っている。「長く伝えられてきた言葉だから正しいだろう」「似たような出来事は過去にも起こっている、人間ってしょうがないね」という風にことわざを通して、現実を理解しているのでしょう。

ーー昨年日本で出版された『チベット女性詩集』には、女性達が現代詩を発表してから40年とあり、1960~1980年代生まれのチベットを代表する7人の女性詩人の詩が収められています。星さんは、1960年代生まれの詩人達の作品を重要視されているそうですね。

星:そうですね、1970年代後半に、学齢期だった1960年代生まれの男女は、チベットにおける時代の転換期を経験しています。中国全土で1966年から1976年まで起こった文化大革命を経験した女性達は、男女共に1960年代は学校に行けなかったものの、1976年ぐらいにようやく通学できるようになります。ただ、女性の場合は、親の協力を得られたほんの一握りしか学校に行けなかった世代です。そういった意味でも、この世代の女性達が書いたものは大変貴重です。例えば、女の子は学校にいくことを許されませんでした。なぜなら、当時多くのチベット人が従事していた牧畜、農業においては、家事労働は欠かせない労働であり、家事を親から子にしっかりと継承することが重要視されたからです。牧畜民として生きていく上での重要な家事を、母親が娘にしっかりと仕込んでおかないと、村で生きていけませんから、家事を教える機会が失われないように学校に行かせなかったんですね。

他には、女の子が学校に行くと「ろくなことにならない」とも言われていました。1967年生まれの詩人、デキ・ドルマさんは、学校に行きたいと言ったことが、村中で大騒動になり、学校に行きたいなんて、あの娘には鬼でも取りついたのではないかと噂が立ち、とても悲しい思いをしました。でも、諦められずにいる娘をかわいそうに思った父親が、馬で寮制の学校に連れていったことで、学校に通えた。大変な苦労や辛い思いをしなければ女の子は学校にいけない世代でした。

創作をするという点では、1960年代生まれの作家は男女共に、詩や物語をチベット語で書く先達がいなかったために苦労も多かったと思います。その理由は、根本的にチベット語というものが一般の人々の心情を描くような言葉ではなく、宗教のための言葉だったことも関係しています。

ーーチベット語で書くのが難しい状況下で、漢語で書く場合はどうだったのでしょうか?

星:チベット人女性で、1960〜1970年代に漢語で教育を受け、中学、高校、大学で漢語を習得し、中国や海外の文学を男性と同じように受容した人達は限られた数ですが存在します。

その時代の特徴としては、幹部の子弟は優先的に学校教育を受けられる、つまり庶民ではなく、役人になることを期待されて、男女共に進学することができました。そうすると、北京大学等に進学したチベット人が現れるんですね。その中には物語が好きな女性がいて、大学を卒業して、漢語で文学作品を書いた人達もいます。 中国の大学では、古典の漢文の基礎を教えますから、それが女性達の書きたいという思いを助けたんです。漢語だと大勢の先達の作家がいるので、自分も書けると思えたのではないでしょうか。

異文化の間で躍動するストーリーテラー達

ーーチベット文学は、漢語で書かれた長編小説もたくさんあるそうですね。チベット人作家はどのような理由で、チベット語と漢語の使い分けをしているのでしょうか?

星:まず、ほとんどのチベット人は、チベット語と漢語のバイリンガルです。漢語を使わないと生きていけないということもありますし、学校でもチベット語だけを教えるところはありません。テレビやインターネットが普及して手軽に学べる環境があることも関係していますが、それ以前からバイリンガル化が進んでいました。ただ、読み書きの方はどういう教育ルートを通ったかで異なります。

作家を分類すると、漢語だけで書く作家、チベット語だけで書く作家、そしてバイリンガルで書く作家がいるんですが、漢語だけで書く作家は、小さいうちは親元で育ったとしても中学校からは中国の漢語学校に通います。すると、チベット語を学ぶ環境がほぼないので、親が頑張って教えなければ、チベット語の読み書きは習得せずに大学まで進学します。 でも、自分達のアイデンティティはチベットにあるため、漢語で故郷のチベットの物語や詩を書いています。

あまり多くはないものの、チベット語で書く作家達のほとんどはチベット語で教える各県の民族学校に進学し、チベット語による高等教育を受け、民族大学のチベット語課程で学び、作家になります。バイリンガルで書く作家は、先述したペマ・ツェテンさんとツェラン・トンドゥプさんで、チベット語と漢語の翻訳も自分達でしています。

ーー同じところで生を受けても、教育ルートによって、言語だけでなくインプットされる知識も大きく変わりそうですね。

星:そうですね。漢語教育を受けるか、民族学校でチベット語の教育を受けるかでインプットするものも変わりますし、特に古典作品の受容が全然違いますよね。古典の勉強は、その人の教養の素地を作りますから、同じ場所で育ったとしても、親に与えられた言語教育の中で読み書きを習得していく過程で、全く違う表現を身につけていきます。

先述したペマさんは、民族中学に進学しましたが、最初に書いた作品は漢語です。 その作品が、ラサのチベット自治区で発行されている漢語の文芸誌に発表されて、高く評価されてからは、チベット語で書き始めました。ただ、チベット語だけで映画を撮りはじめてからは、小説は漢語だけで書くことにシフトし、漢語の読者を獲得することに努めていました。

ーー漢語で書くことにこだわった理由は何でしょうか?

星:まずは漢語で書けば読者が増えるからでしょうね。教育環境の影響で漢語でしか読み書きのできないチベット人も大勢いるので、そういう人達にも届けることができます。チベットの人達にとって物語は目で読むものというより、耳を傾けるものという意識が根強いようで、ラジオで文学作品が朗読されることもあるそうです。特にコロナ禍のチベットではロックダウンが長期間続いたのですが、チベットの古典文学から現代文学まで、さまざまな朗読がインターネット上に掲載され、多くの人が耳を傾けたそうです。作家達はいろいろなことを考えてチベット語と漢語を使い分け、受容する方もそれぞれの環境で目で読んだり耳で聴いたり、選択しているのが今のチベットの状況ですね。

声で語ることを大事にする文化という意味では、日本でも漢文の素読であったり、落語があります。日本人が落語を楽しむようなイメージで文学を楽しんでいるチベット人がいるということですね。私もチベット人方式を真似て、日本語に訳した文学作品を朗読で紹介してみよう等と考えています。

ーー英語原作の小説『白い鶴』で、作中に「グリーン・ブレインド」とあり、英語では「環境問題に意識の高い」という意味があるものの、チベット語では「レバ・ジャング(脳+緑色の)」というイディオムをふまえ、思想的に腐っている、遅れたという意味で使われているそうですね。星さんは、混合語や作家が創作した言葉を、チベット語と英語の変換も踏まえながら翻訳をされているんですね。

星:『白い鶴』に限らず、チベット人作家の作品は、括弧で強調したり、注釈なしに「チベット語化した英語」と「チベット語を踏まえた英語」を多用したり、チベット語を英語風に書いてみたりと、複数の言語を自由に使った表現方法に富んでいます。そういった表現を「言語の脱領土化」と言いますが、英語という大言語に完全に乗っ取られるのではなく、大言語の中でチベット語の存在感をしっかりと放つ営みでもあります。

例えば、それを口頭でやっているのがシングリッシュやインド英語で、少言語で大言語を変容させていくような営みです。だから、英語で書かれた本でも、紛れもなくチベット人の作家が書いたものであり、英語しか知らない人には絶対に書けない表現がたくさん散りばめられていると思います。

ーー近日、日本では初となるチベットの女性作家の長編小説が刊行されるそうですね。

星:はい、ツェリン・ヤンキーという女性作家の長編小説『花と夢』 の翻訳が4月中旬に出ます。ラサの小さなアパートで共同生活をしながらナイトクラブで働く4人の娼婦のシスターフッドの物語です。4人共つらい過去があり、彼女達を待ち受ける運命も悲痛なものなのですが、それを温かく見守るようなまなざしで描いた素晴らしい作品です。女性達の会話がとても生き生きとしていて、彼女達がすぐ側にいるような感覚を味わえると思います。刊行は「春秋社」から。新しいシリーズ「アジア文芸ライブラリー」の1冊です。楽しみにしていただけるとうれしいです。

Photography Seiji Kondo

author:

NAO

スタイリスト、ライター、コーディネーター。スタイリスト・アシスタントを経て、独立。雑誌、広告、ミュージックビデオなどのスタイリング、コスチュームデザインを手掛ける。2006年にニューヨークに拠点を移し、翌年より米カルチャー誌FutureClawのコントリビューティング・エディター。2015年より企業のコーディネーター、リサーチャーとして東京とニューヨークを行き来しながら活動中。東京のクリエイティブ・エージェンシーS14所属。ライフワークは、縄文、江戸時代の研究。公式サイト

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