原雅明, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/masaaki-hara/ Mon, 31 Jul 2023 06:18:17 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.2 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 原雅明, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/masaaki-hara/ 32 32 断片から解き明かされるブラック・カルチャーという“代替現実”——書評:グレッグ・テイト『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』 https://tokion.jp/2023/07/31/review-flyboy-2-black-music-culture-essay/ Mon, 31 Jul 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=201287 2021年に急逝したブラック・カルチャー/ミュージック批評の重要人物、グレッグ・テイト。5月に刊行されたテイトの評論集『フライボーイ2』を音楽評論家の原雅明が読み解く

The post 断片から解き明かされるブラック・カルチャーという“代替現実”——書評:グレッグ・テイト『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
鋭い知性と広範な知識によりブラック・カルチャー/ミュージックを多角的・多層的に論じ、“ヒップホップ・ジャーナリズムのゴッドファーザー”とも称された米国の批評家/ジャーナリスト、グレッグ・テイト。5月に日本語訳が刊行された『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』は、2021年に惜しくも急逝したテイトが残した2冊目の評論集となる。マイルス・デイヴィスやギル・スコット=ヘロン、ミシェル・ンデゲオチェロ、トニ・モリスン、スパイク・リー、ウータン・クランなど、ジャンルや時代を超えた面々がその目次に並ぶ本書で、テイトは何を語りどのようなヴィジョンを描き出したのか。書き手としてテイトに多大な影響を受けたという音楽評論家/〈rings〉プロデューサーの原雅明が、テイトとの出会いを糸口として、本書を読み解いていく。

グレッグ・テイトとは何者か

「ネルソン・ジョージとグレッグ・テイトの2人は、(雑誌の)ブラック・レビューの門番のような存在だった」と、かつてクエストラヴは言った。2人がレビューで支持した作品は、必ず他の批評家からも絶賛された。ザ・ルーツでデビューする直前の80年代末のブラック・ミュージックを取り巻く状況を振り返っての話だ。音楽雑誌のレビューを熱心にチェックし、批評的に評価される作品を作ることに夢中になっていたと素直に吐露したクエストラヴの音楽オタクぶりは、特殊な話かもしれない。しかし、グレッグ・テイトの影響力の大きさは広く認められた話だった。この『フライボーイ2』は、テイトの単著としては初の翻訳となる。同じ1957年生まれのネルソン・ジョージの著書の翻訳(『リズム&ブルースの死』、『モータウン・ミュージック』、『ヒップホップ・アメリカ』、『スリラー』)が進んでいるのとは対照的だが、もともとテイトは単著が少ない。長きに渡りVillage Voice誌のスタッフ・ライターを務めたのをはじめ、さまざまなメディアに音楽のみならず、美術、映画、文学などについても精力的に寄稿した。その1つひとつの記事が、テイトの評価を高めた。まとまった評論を書くアカデミックな研究者ではなく、雑食的な生粋のライターだった。

異なる視点・独特の文体を持ったテイトのテキストとの出会い

自分がテイトを意識したのは、90年代末までのヒップホップの歩みと文化を総括した『ヒストリー・オブ・ヒップホップ』に掲載されたテキストだった。『Vibe』誌が編集し(日本語版は『Blast』誌が監修)、50名以上のライターや批評家らが名を連ねる読み応えのある書籍だったが、その最後の章にテイトによる「ヒップホップの輝かしい未来のための15の議論」が掲載されていた。15の断片的なテキストは、論文でも、議論のためのサマリーでもなく、思考のメモやリリックのような言葉の羅列から構成されていた。その独特の文体と他の執筆者とは明らかに異なる視点に惹かれた。例えば、ジャズとヒップホップについて、こんな記述があった。

「ヒップホップにとってのジャズはメラニン(黒色素)にとっての数学である。ヒップホップにとってのジャズはレイディ・デイ(御告げの祭り)にとっての聖母である。ヒップホップにとってのジャズは無差別な暴力に対する名人芸である。ヒップホップにとってのジャズはメソッド・マンにとってのマイケル・ジョーダンである。自然発生性のブラック・サイエンス対イズムの自然発生性なのだ」

「15の議論」の中で、ジャズはヒップホップと対を成して語られた。それは、90年代に表面化していったこの2つのジャンルの関係性を、サンプリング・ソースやミュージシャンのフィーチャーという表面的なつながりではなく、そこに通底する概念を捉えて、ヒップホップの内部で考えることとジャズの内部で考えることが重なるポイントを見出そうとしていた。それは、ヒップホップの先に見え隠れするジャズについて考えていた自分にとって、最もしっくり来る捉え方だった。

黒人文化という“代替現実”にまつわるさまざまな表現を論じた『フライボーイ2』

『フライボーイ2』の最後の章にも、20の断片的なテキストが収められている。番号を振られた各テキストはその順番通りではなくて、ランダムに並べられていた。全体のタイトルは、「カラハリのけんけん遊び、あるいは二〇巻におよぶアフロ・セントリックなフューチャリストのマニフェストのためのノート」で、アフロ・フューチャリズムに関する考えをまとめたものである。そこにはこんな記述がある。

「私たちがアメリカにおけるブラック・アート、ブラック・ミュージック、ブラック・ヒストリー、ブラック・カルチャー、ブラック・エクスペリエンスと呼ぶものすべて、実は、白人至上主義という虚構の貧弱な廃墟のうえに作られた代替現実なのである。その虚構が、代替現実を現実化させ、ヤバいやつらを生み続けたのだ」

これは、実にテイトらしい言い回しで、『フライボーイ2』を的確に要約している。この本自体が代替現実のさまざまな表現にまつわるレビューや批評的なエッセイ、インタビューをまとめたものだ。幅広い多様な対象を扱い、音楽家と対等に、美術家、キュレーター、振付師、ストリート・ダンサー、映画監督、作家、学者たちを取り上げる。しかし、黒人の表現だけが対象ではなく、黒人文化を構成するものについての固定観念に懐疑的でもある。「彼女の感覚と姿勢がいかに“黒人”的であるか、さらに言えば“ヒップホップ”的でさえあるか」とジョニ・ミッチェルへのインタビューは始まり、ボブ・ディランの『ラヴ・アンド・セフト』のレビューでは「彼は私たちがブラック・ミュージックと呼ぶこの世界に、深い、雪男のような大きい足跡を残した」と記す。

ヒップホップに対するアンビヴァレントな感情

そして、黒人の表現を手放しに褒めるわけでもない。ヒップホップに批判的な姿勢を崩さないウィントン・マルサリスへのインタビューでは、兄のブランフォードと十代の頃にやっていたファンク・バンドの話題を振り、ソウルの定義を問いただし、ヒップホップの口述性にはブルースとのつながりがあると指摘して食い下がる。そして、ウィントンから「ヒップホップはアフロ・アメリカンの音楽の伝統であるという意味では有効だ」という発言を引き出す。

一方で、『フライボーイ2』においては、ヒップホップに対する「輝かしい未来」の言葉は語られない。「三〇歳になったヒップホップ」というテキストでは、ヒップホップという大衆芸術の誕生を「天国と地獄の結婚に他ならない。新世界アメリカアフリカの創意工夫とグローバルな超資本主義という悪魔のトリックだ」と記す。超富裕層を満たす一大産業となったヒップホップへの失望が強くあるが、それでも「ヒップホップがラディカルで革命的な産業」であり、「社会変革の担い手になるというアフロ・セントリックな未来を私は夢見ている」と記している。これが書かれた2004年からテイトが死去した2021年まで、つまりヒップホップがより巨大産業化した時代に彼はその夢を見続けることができたのだろうか。

少なくとも、『フライボーイ2』(原著は2016年の出版)の中には、ヒップホップに対するアンビヴァレントな感情が維持されていることを感じ取れる。特にその感情を秀逸に綴っているのが「もしジェイムズ・ブラウンがフェミニストだったら」という2007年のテキストだ。ここでテイトは、「超世俗的ファンクの四大巨頭」と呼んで、ベディ・デイヴィス、チャカ・カーン、グレイス・ジョーンズ、ミシェル・ンデゲオチェロを取り上げる。この4人の女性は「みずからの身体を超越的な快楽を得るための道具として前景化した音楽とパフォーマンスを見せてくれた」という。ジェームス・ブラウンの強力な男性性は、ショービズ界でハードに働いている女性こそを活性化させたと指摘する。

特にンデゲオチェロは、テイトにとって常に身近にいる表現者であった。ヴァーノン・リードとブラック・ロック・コーリションを結成したギタリストでもあるテイトは、90年代初頭にンデゲオチェロとブラック・ロックのバンドを組んでいたこと、彼女がマドンナのレーベル〈Maverick〉で『Plantation Lullabies』から『Comfort Woman』までをリリースした10年間に、ドクター・ドレーやパフ・ダディと仕事をすることを幾度も勧められるが断り続けたことを明かしている。また、ワシントンDCのゴーゴー・シーンから登場した彼女がゴーゴーを取り入れないのは、「ゴーゴーはスタイルではなく、教会のようなものであり、宗教的な奉仕だから」という理由も語られる。それは、ンデゲオチェロの音楽が、ジェームス・ブラウンのファンクやチャック・ブラウンのゴーゴーのグルーヴを極めて倫理的に扱っていたことの顕れでもある。テイトはこうした女性たちの表現を丁寧に追い、ヒップホップの背後にあったストーリーも綴っている。

事実と向き合い、それを解き明かす言葉を探る

テイトが死の直前に残したテキストの1つに、マイルス・デイヴィスのライナーノーツがある。マイルスの未発表音源シリーズ『That’s What Happened 1982-1985:The Bootleg Series Vol.7』(2022年)に寄稿したものだ。テイトは、マイルスのバンドに参加すると高額の年俸が払われ、彼のギグ以外に演奏する必要がないことが保証される状況を独特の言い回しで書いた。

「彼はミュージシャンの精神に対する創造的財産権を主張していたのだ。少なくとも、舞台の内外におけるミュージシャンの音楽的な意識は彼のものだった。自分なりの、暴君のようなやり方で、マイルスは偉大な師であるチャーリー・パーカーに倣っていた」

そして、テイトはこの録音に参加したギタリストのジョン・スコフィールドやベーシストのダリル・ジョーンズらの証言を丁寧に拾っていく。彼らの言葉を通して、晩年のマイルスがメンバーの演奏の細部をどれほど聴いていたのかが明らかになる。それは、50年代から60年代にかけてのクインテットの頃から変わらぬことが何だったのかを伝える。テイトは空虚なマイルス論は書かない。ただ事実と向き合い、それを解き明かす言葉を探るだけだ。『フライボーイ2』でも同じことが淡々と繰り返されている。

明確な結論ありきではない、断片から浮き彫りにされていく事柄を丁寧に拾っていくテイトのテキストの集積が、『フライボーイ2』である。取り扱われている事象を顧みるともう数年早く翻訳出版されていればという思いも抱くのだが、それでも、これから幾度も読み返されるべき本であることは間違いない。

グレッグ・テイト『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』

■グレッグ・テイト『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』
著者:グレッグ・テイト
訳者:山本昭宏、ほか
発行:Pヴァイン
https://www.ele-king.net/books/009181/

The post 断片から解き明かされるブラック・カルチャーという“代替現実”——書評:グレッグ・テイト『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
短期連載「今また出会う、レイ・ハラカミの音楽」 第2回:マーク・“フロスティ”・マクニールが語る、「流動体のような音楽」との出会い・その特異性 https://tokion.jp/2022/04/15/rei-harakami-music-vol2/ Fri, 15 Apr 2022 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=109784 故レイ・ハラカミの幻のカセットテープ音源リリースに寄せて、全3回の短期連載を実施。第2回は、LAの地でレイ・ハラカミの音楽をリアルタイムに発見していたマーク・“フロスティ”・マクニールを、90年代から親交を持つ音楽ジャーナリスト・原雅明がインタビュー。

The post 短期連載「今また出会う、レイ・ハラカミの音楽」 第2回:マーク・“フロスティ”・マクニールが語る、「流動体のような音楽」との出会い・その特異性 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
昨年末にリリースされた故レイ・ハラカミの初期作品集『広い世界 と せまい世界』のリリースに寄せて、稀代の音楽家の歩みを始まりから改めて見つめ直すべく、全3回の短期連載企画を実施。第2回となる今回は、LAのネットラジオ「dublab」の創設者であり、レイ・ハラカミの音楽をリアルタイムに発見していたマーク・“フロスティ”・マクニールのメールインタビューをお届けする。質問を投げかけたのは、生前のレイ・ハラカミと親交を持ち、またマーク・“フロスティ”・マクニールとも長年の付き合いがある音楽ジャーナリスト/レーベルプロデューサー・原雅明(原は「dublab」の日本支局である「dublab.jp」のディレクターも務める)。

レイ・ハラカミの音楽との出会い、ライヴで感じたこと

ワールドワイドにリスナーを持つロサンゼルスのネットラジオdublabの創設者であり、長年ラジオDJとして活動を続けてきたフロスティことマーク・マクニールは、レイ・ハラカミの音楽をリアルタイムに発見し、DJとして同じ場所に立ったこともある。フロスティは、日本のシティ・ポップを中心に取り上げたコンピレーション・シリーズ(『Pacific Breeze: Japanese City Pop, AOR And Boogie 1976-1986』、『Pacific Breeze 2: Japanese City Pop, AOR And Boogie 1972-1986』、『Somewhere Between: Mutant Pop, Electronic Minimalism & Shadow Sounds Of Japan 1980-1988』)のキュレーターとしても知られている。海外の音楽の目利きであり、現在も日本の音楽の熱心なリスナーであるフロスティは、レイ・ハラカミの音楽をどう聴いてきたのだろうか。レイ・ハラカミの音楽の海外での受容を知る手掛かりとして、フロスティに話を訊いた。

――初めてレイ・ハラカミの音楽を聴いた時の印象から訊かせてください。また、それはいつで、何がきっかけだったのでしょうか?

フロスティ:レイの音楽を初めて聴いた時ははっきり覚えてないんだけど、ゆっくりその存在を認識したという印象なんだ。まるで空気が鳴り響いて、彼の音楽が物質化して自分の意識に入ってきたかのようだった。このように、自分の意識の変化とともに彼の音楽を発見できたことは、自分にとって満足感があり、レイ・ハラカミのサウンドに合っていると思う。彼の音楽が僕の意識に入り込んでから、自分がすでに彼の作品をたくさん持っており、ラジオでも放送したことがあることに気付き、ある意味レイ・ハラカミの音楽による催眠状態に入っていたのかもしれない。何十年も前にスパイラル・レコーズの試聴機の前に立って、東京の喧騒に囲まれながらも、ヘッドホンで彼の音楽を聴きながら異次元に飛んでいた記憶がある。レイのことをはっきり認識した時、彼が制作した楽曲や作品の詳細にフォーカスするようになったが、未だに彼の音楽には捉えどころのない側面があり、まるで夢の中の可能性の果てで浮遊しているかのようだ。現実とは思えないほど強烈に輝いているよ。

――東京で初めて聴いたわけですね。その後、dublabの自分の番組でも掛けたのですか?

フロスティ:そうだね。長年レイの音楽をラジオ、ライヴ、自分がキュレーションしたプレイリスト、アート・イベントでもプレイしてきたけど、一番よく聴いているのが自宅でなんだ。彼の作品には独特の空気感があり、曲を聴けばすぐにレイ・ハラカミだとわかる。まるで、音響的なシェイプシフターだよ。彼の音楽は流動体のように、さまざまな瞬間と調和することができるんだ。

——カルロス・ニーニョが来日した時(2010年)、東京のUNITでレイ・ハラカミがライヴも行い、あなたはその前にDJをしていました。彼のライヴを実際に見て、何を感じましたか?

フロスティ:ライヴには心底から衝撃を受けた。まず、バックステージでレイ・ハラカミと会話をした時に、彼の温かいスピリットに感銘を受けた。彼が演奏し始めると、会場の強力なサウンドシステムが、まるで空間的なスーパーシステムに変貌したかのようだった。音のプラネタリウムに紛れ込んで、レイ・ハラカミの奏でる音が僕らをさまざまな星座や異次元へと誘っているような感覚さえ覚えた。洗練されていながらも無駄を削ぎ落としたパフォーマンスでは、1つひとつの音色が静寂と空間に構造を与えるために発生し、リスニング体験をガイドしてくれる道しるべのような役割を果たしていた。脳と身体がリセットされ、新鮮な気持ちで世界の不思議を体験できているかのようだった。ライヴの後に絶賛すると、さらに彼は謙虚な態度になり、まるで演奏した音楽がすでにそこに存在していて、彼はジェスチャーをして、そのエッセンスの在処を教えてくれているかのようだった。

日本の音楽に惹かれた理由、レイ・ハラカミの特異性

――あなたは、dublabがスタートする頃(1999年)にも日本を訪れましたね。その時に僕は初めて会いましたが、日本の音楽、特に同時代のインディの音楽をよく知っていて驚きました。なぜ日本の音楽に興味を持ったのでしょう?

フロスティ:幸運なことに、僕らは本当に長い間交流があるね! 1994年に南カリフォルニア大学でラジオに関わるようになってから、音楽という素晴らしい世界への飽くなき好奇心が加速した。1999年にdublabを設立してから、その好奇心はさらに歯止めが効かなくなった。日本の音楽に興味を持ったきっかけは、実はそのさらに何年も前に遡るんだ。母親がNonesuch Explorer Seriesの『A Bell Ringing in the Empty Sky』という日本の尺八音楽のアルバムを持っていて、子どもの頃はそれを何時間も聴き続けて、ジャケの複雑な線画を眺めていた。レコードの中で、まるで幻想の世界が具現化しているかのようだった。何年も後に黒澤明の『夢』を見た時に、同等のエモーションを表現している作品を発見したという実感があった。このようなクリエイティヴな作品を見つけたいという探究心がさらに強まり、日本の音楽を真剣に探すようになった。1999年にsoup-diskからリリースされたCappablackの『The Opposition EP』を伝説的レコード店Aron’s Recordsで見つけてからは、日本のサウンドを探したいという欲求に本格的に火がついたんだ。

――レイ・ハラカミと同時代の日本の音楽もあなたはよく聴いていたと思います。その中でも、彼の音楽がユニークだと思った点はありますか?

フロスティ:それはもちろんある。大学時代からdublabの初期の時代の間に、DJ Krush、竹村延和、Susumu Yokotaなどが大好きになって、今でも大好きだけど、それがきっかけで日本の音楽への自分の関心が高まった。レイの音楽は、まるでグラスに入っている結晶のようにクリアな水のようで、窓際にそのグラスを置くことで、窓から光が差し込み、グラスの反対側に全く新しい光景が投影されているかのような状態。喉の渇きを癒すために、そのグラスの水を飲もうとした時に、自分の身体は以前の光を求めているのではなく、そのグラスの水からのさまざまな栄養を吸収しようとしているんだ。この文章を書きながらレイ・ハラカミの音楽を聴いていると、2010年の東京UNITで見たレイのコンサートのように、過去を恋しく想う、懐かしい感覚も蘇るけど、同時に今の瞬間にしかない喜びを与えてくれる。

――レイ・ハラカミが活動したのは、1998年のデビューから2011年まででした。この時代のエレクトロニック・ミュージックの中に彼の音楽も位置づけられますが、世界の潮流の中で、彼の音楽が成し得たことを、改めてあなたはどう評価していますか?

フロスティ:これはとても難しい質問だし、自分でも把握しようとしているところなんだ。レイ・ハラカミの音楽は未だに過小評価されていると思うけど、それは決して悪いことではない。幸運なことに彼の音楽と出会うことができた人たちは、彼の音楽がいかに貴重か理解できるからなんだ。生前に評価されないアーティストが多くいるのは、受け取る側の心と魂が、彼らの作品を評価できる状態にまだ達していないからだ。レイの音楽はタイムレスであり、今の世の中のように常にカオスが続いている状態において、彼の音楽はサンクチュアリーであり、発見すれば必ず癒しを与えてくれる存在だ。

――レイ・ハラカミの音楽には、エレクトロニック・ミュージック以外の音楽からの影響も感じられると思いますが、何か具体的に影響を感じるような音楽は思い浮かびますか?

フロスティ:他の音楽からの影響というよりかは、彼の作品を聴いていると、彼はわかる人にしかわからないこの世のマジック、はかない奇跡に魅了されている人だったと思う。このような掴みどころのない要素こそが人間らしさというものを形成しているわけで、彼はその感覚を大切にしていた。

――近年、レイ・ハラカミの音楽に海外からの関心が高まっていることを感じますが、どういった点に関心が持たれていると思われますか?

フロスティ:音楽はとても主観的なものであり、一瞬一瞬、我々は常に変化しているので、他の人が何を感じているか、憶測するのは難しい。でも、彼の音楽は世の中のカオスからの癒しを与えてくれる存在だということは容易に想像できるよ。

――今回リリースとなった正式デビュー前の音源集『広い世界 と せまい世界』にはどんな感想を持ちましたか?

フロスティ:このリリースにはとても興奮している。僕にとってはとても新鮮な作品なので、これから何年かかけて聴き込んでいけることを楽しみにしている。レイ・ハラカミの初期作品を聴くと、さらに彼のことが大好きになるよ。この作品を作った時の彼の喜び、興奮、ユーモアが伝わってくるからね。レイの初期の楽曲を聴くことで、後の作品への理解が深まるし、この幅広いレンズを通して、彼のパーソナリティがより鮮明に伝わってくる。

レイ・ハラカミ『広い世界 と せまい世界』(2022/7/6より配信が開始に)

日本シティ・ポップの紹介が米音楽シーンに与えた影響、レイ・ハラカミ以降の注目アーティスト

――あなたは、『Pacific Breeze』で日本のシティ・ポップを海外に紹介しました。シティ・ポップはレイ・ハラカミより前の世代の音楽ですが、紹介するあなたのスタンスには共通するものを感じます。

フロスティ:世界には無限の可能性があるのに、メインストリーム・メディアとマーケティングの狭い視点によって、我々の潜在能力が抑圧されていると感じている。数多くの音楽作品がクリエイトされているのに、それは少数の人間の耳にしか届いておらず、その一方で一般大衆はほんの一部の作品しか聴いていない。僕の人生のミッションは、この傾向を覆すことであり、過小評価されたクリエティヴな音楽を世界に届けることなんだ。人間の頭脳には大きな潜在能力が秘められており、音楽はそれを広げる上で有効な手段だ。日本では素晴らしい音楽がたくさんクリエイトされているので、そういう作品が日本国内だけに留まっているのはもったいない。だから、日本の音楽の素晴らしさを理解する人が増えているのは喜ばしいことだし、自分がその中で小さな役割を果たすことができたことに感謝しているよ。

――シティ・ポップの紹介は、アメリカの音楽シーンにどんな影響を与えましたか?

フロスティ:久しぶりにレコード店に行ってみたら、日本のレコードのセクションにはたくさんのレコードが入っていたけれど、それぞれのアルバムがお店の他のレコードより3倍から4倍の値段だった。それだけ日本の音楽への関心が高まっているが、需要が高まったことで、レコードを入手できる人も減少してしまった。中古レコード市場のバブルがはじけて、求めやすい価格になることを願っている。もちろん、配信サービスはいろいろあるけれど、このようなプラットフォームでは未発表の素晴らしい音楽がまだたくさんあるんだ。フィジカル・メディアの値段が高すぎて、リスナーがレコードを買うことで食費がなくなってしまうという状況は避けるべきだと思う。だから、Light in the Atticと共同で『Pacific Breeze』シリーズや『Somewhere Between』などのコンピレーションをプロデュースできたのはとても嬉しい。莫大な数のレコードの中から選曲をし、珠玉の楽曲のコレクションとしてまとめ上げることで、リーズナブルな価格でリスナーに作品を届けたかったんだ。

――レイ・ハラカミ以降の日本の音楽に関して、あなたは関心がありますか? 今現在、あなたが注目している日本の音楽家がいれば教えてください。

フロスティ:Foodman(食品まつり)の作品は大好きだよ。H. Takahashiには常に驚かされるし、Chee Shimizuはいろいろな意味でキーマンだと思う。Kuniyuki Takahashiの作品はいつも間違いないし、Meitei(冥丁)は掘り下げながらも啓発的なサウンド。YtamoやOorutaichiは僕にとって光り輝く存在であり、Kenji Kihara(木原健児)を聴いていると地に足がついた気持ちになり、高田みどりの音楽は完璧なバランスを保った月食のようだ。

――レイ・ハラカミがもし存命していたとしたら、音楽シーンにどんな影響を与えていたと思いますか?

フロスティ:彼は、自分の心を素直に表現した音楽を作り続けていたと思うし、彼のピュアな姿勢は、他の人にも、自らの情熱に従って生きるインスピレーションを与えたと思う。

――あなたが選ぶレイ・ハラカミの楽曲、ベスト10を教えてください。

Rei Harakami – after joy
Rei Harakami – sequence_01
Rei Harakami with Ikuko Harada – sequence_03
Rei Harakami – unexpected situations
Rei Harakami – remain
Rei Harakami – double flat
Rei Harakami – on
Rei Harakami – a certain theme
Rei Harakami – owari no kisetsu
Rei Harakami – くそがらす(『広い世界 と せまい世界』からはこれからも大好きな曲が登場すると思うよ)

マーク・“フロスティ”・マクニール

マーク・”フロスティ”・マクニール
DJ、ラジオプロデューサー、キュレーター、大学教員、そしてエミー賞受賞のドキュメンタリー映画監督として、ロサンゼルスを拠点に活動。1999年以来、多岐に渡るジャンルの音楽を探求する先駆的なネットラジオ局「dublab.com」の創設者であり、同局で毎週ラジオ番組の司会を務めている。Daedelus とのユニットであるAdventure Timeとして新たな音の世界を創造するとともに、「dublab」のDJらとアンビエント・ユニットのGolden Hitsとしても活動する。また、フロスティとして、超越的な音体験の共有をミッションとする、ハイコンセプトなDJセットを世界中で披露している。
Web: frosty.la
Radio: dublab.com/djs/frosty
Twitter: @dublabfrosty
Instagram: @dubfrosty

Translation Hashim Kotaro Bharoocha

Edit Takahiro Fujikawa

The post 短期連載「今また出会う、レイ・ハラカミの音楽」 第2回:マーク・“フロスティ”・マクニールが語る、「流動体のような音楽」との出会い・その特異性 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
孤高の表現者・語り部=志人、その探究の道程と現在地を語る―後編― https://tokion.jp/2021/11/06/the-past-and-present-of-his-craft-part2/ Sat, 06 Nov 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=72940 ゼロ年代に降神のMCとしてシーンに登場して以来、独自の感性・視点から日本語表現を探究し続ける表現者・志人へロングインタビュー。後編は「書く」という営為や新プロジェクト『8 ∞』について。

The post 孤高の表現者・語り部=志人、その探究の道程と現在地を語る―後編― appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
ヒップホップへの目覚めや演劇との出会いを語ったインタビュー前編に続き、今回は志人の表現の根底にある「書く」という営為や、ルリー・シャバラや吉増剛造らも参加する新プロジェクト『8 ∞』を紐解いていく。

最初にあるのは、閃きを「書く」という衝動

――『音で観るダンス』では、「志人(語り部)」とクレジットがありましたが、それは現在の志人さんの立場にも近いのでしょうか?

志人:そうですね、わからないものを語り継いでいく、あるいは自分が死んだあとに、こんな話があったんだよねっていうのを誰かが語り継いでいくということが生まれていったらおもしろいかなと思います。僕は耳人間というか、全部世の中が音楽だと思っていて、目に見えている世界よりも、音を信じているというところがあるので、そういう部分で実際もし自分が目が見えなかったとして、ダンスをどうやって楽しむかと考えました。ダンスを踊っている姿を1つの物語にしてみたいと思ったんです。あまり普段聴かないようなことを聴いてもらいたい、感じてもらいたいというのがあって、ダンサーの捩子さんの動きから想起される物語を事細かに描写してみましたね。

「音で観るダンスのワークインプログレス」テキスト・朗読:志人(語り部)

――書く、話す、歌う、ラップするということは、ご自分の中でどのように位置付けられているのでしょうか?

志人:書くという行為はやっぱり先にくるものなんですが、ただその衝動なんですよね。どうしても書いてしまう、もはや病的なくらいなんですけども。

――まず書くことが先に来るのですか?

志人:書くというか、「アッ!」という閃きが来るんでしょうね。閃いて、それを書いておかないとという使命感に駆られるというか。書いていくと、その言葉の森の中に入ってしまって、言葉が次にどこへ向かおうとしているのか探りながら旅をする感覚なんです。きっと、その時に言葉で話しているのではないかなと思います。韻律であったり、音声で捉えていく。で、これは最近なんですが、たった1つの文字も「なんでこんな形しているんだろう?」と、もっとより深く探るようになりました。去年、京都市内の漢字ミュージアムから、漢字もしくは言葉はどこからきたのかっていう展示をしてほしいという空間展示の依頼があったんです。漢字はすでにある、意味のあるものなんですけど、それが生まれる軌跡を探ることを2ヵ月間展示で行う。ところが、緊急事態宣言も発令されて、幻の展示になってしまったんです。たぶん1週間もやらなかったですね。ただ、それをきっかけに自分の中で言葉のおもしろさに改めて気付かされました。目から鱗というか、なんで今までこんなおもしろいことを考えてこなかったんだと気が付きましたね。

——なるほど。音を再発見したプロセスと重なりますね。

志人:その展示が始まりで、書くという行為において、自分が、もしくは人が書いた文章をちょっと虫眼鏡で見るぐらいの気持ちで、もう一度見てみるということをやっていました。例えば「行」という漢字、右と左で似てる。でも少し傾いている。これがもしかして、昔の藁草履って右と左がない、でも行きは右履いて、帰りは左履いていってそれによって、右左のバランスが整っていく。もしかして、その草履の形を表しているんじゃないかっていう想像をしたり。遡ってルーツを探してみたりする。遡っていくのは自分が心のテーマにしている「未来は懐かしいものだ」というところが大きいと思います。未来なんてどうなるかわからないんだから、懐かしいっていう表現はおかしいんですけどね。でも、「ああ見たことあったよね」というような昔に戻っていく感覚、楽しいっていう感覚を取り戻しています。

文字への探究心により紡がれた『心眼銀河 書契』

――逆に言うと、過去が新しいということもあるかもしれないですね。文字に対しての興味は『心眼銀河』の本にもつながっているということですか?

志人:そうですね、やっぱり展示を見てもらいたかったので、『心眼銀河』を作る中で、自分が言葉について虫眼鏡で見る衝動に駆られていった背景を少しだけ詰めたのです。ただ、これも作りためてやったということではなく、2週間ぐらいずーっと書いて作ったものなんです。書いたり、叩いたり、削ったり、上に乗っかって足踏みして、いろんな摩擦を起こしながら作っていきました。

――現物を手にして驚いたんですが、物としての存在感が圧倒的にあって、写真で撮られている元の作品の力や文字自体のおもしろさが確かに伝わってきました。

志人:ここから実物を見てみたいと思う人もいてくれたら嬉しいし、逆に、同じ言葉や表現をやっている人達が、自分がやっていることを改めて見つめてみるきっかけが生まれたらいいなと思います。今触れるということが疎かになっているというのと、人と人との距離を取らなくちゃいけなかったり、握手の機会すら少なくなったりしている。人間は、1日のうちに何に触れていただろうと深く意識していなくて、一方で、福島智さん(注:バリアフリー研究者、東京大学教授)のように、目も見えなくて、耳も聞こえない方が世界にはいらっしゃって、そういう方達に言葉を伝える方法に指点字というのがあって(注:盲ろう者の指を点字タイプライターの6つのキーに見立てて、左右の人差し指から薬指までの6指に直接打つ方法)、指先で人と触れ合うことで言葉が初めてわかるという人がいることを忘れちゃいけないと思うんです。触れる、指先の宇宙っていうのを福島智さんもおっしゃってますけど、今何に触れるかということが大事なんじゃないですかね。

世界の表現者・文化人達との共創プロジェクト『8 ∞』、吉増剛造との出会い

――その視点は、現在進行されているプロジェクト『8 ∞』につながる話ですね。

志人:『8 ∞』という企画では、自分の作品を作るだけでなく、全く違う人の作った作品を虫眼鏡で見てみて「これはこういう意味なんじゃないか」と思うことを、自分と広島大学のPh.Dの方を含む何名かで作っています。ヒップホップの環境でやってきた頃は、人のこととかどうでも良いという感覚でした。人のリリックや人が書いたものを本当に真剣に読むってことをしてこなかったんです。それこそ原さんが書かれている文章とか、そういう物を読ませてもらって、この人がどういうことをやっていたんだろうかって、もう一度虫眼鏡で見るような分析をしたり、その中で理解を深めたりすることが、同時におもしろくて、人もどんどん訪ねていきました。例えば、吉増剛造さん(編集部注:1939年生まれ、日本の現代詩を代表する詩人)が70年代に書かれた『刺青』という詩を肉声でご提供いただく中で、吉増さんからいただいた1通のお手紙も1つの作品なんですよね。この1行の言葉のズレとかが意味があるんじゃないかと、信号みたいなものを受け取ってしまって、これは文章じゃなくて作品だと感じました。他の人の詩を自分なりに解釈したり、あわよくば、その人の縁の地まで歩いて行って、その人の空気を感じたあとに書していくという、人の心への歩み寄り方にエネルギーをずっと持ってらっしゃる方と出会ったことで、他者が書いた詩に対してもどれほど真剣に取り組むことができるかということが、今、僕のテーマになっています。

――吉増さんとは、どのような経緯で出会ったのですか?

志人:僕自身、吉増さんの作品には大学時代に数作品しか触れていなかったんです。先ほど言ったようにあまり人のことに興味はなかったので(笑)。で、この『8 ∞』は自分が勝手に始めてみて、いつ終わるかわからないという企画なんですけど、ゲーリー・スナイダーに声をかけたんです。ちゃんとメッセージが返ってきて、「ちょっと今回は参加できない、今自分の集大成の詩集を仕上げているから」と言っていて、それも詩的な返事で、「楽しみにしているよ」ともおっしゃってくださって、そんな感じで実はいろんな人々にオファーをかけて、ソウル・ウィリアムズやケイ・テンペスト(旧称:ケイト・テンペスト)にも声をかけたんですけど、本当に閃きで、今のシーンとかわからなくて、最近どんな詩を書かれているんだろうとか、その人達の人となりに遠隔で少しずつ触れながら、今どういうことを言うんだろうと聞いてみたい方達に声をかけていく中で、吉増さんに関しては突然、「吉増さんだな」となったんです。

――一切面識はなく、声をかけたのですね。

志人:そうですね。北海道の書肆(しょし)吉成さんという古本屋さんに連絡をとって、長文のお手紙を書いて、そこからつなげていただいたという形になります。今朝も吉増さんとお電話で話していたんですよ。

――吉増さんは、かつてはジャズ・ミュージシャンと一緒にやられていましたね。また、アメリカではジャズ・ポエトリーの流れがあり、詩人がジャズの精神的な支柱にもなりました。ソウル・ウィリアムズやケイ・テンペスト、あるいはマイク・ラッドなどは、ヒップホップと同様の結び付きがありました。志人さんの現在の表現活動はその流れを汲むことのようにも感じられます。

志人:僕自身はそういう風には全く考えていないですが、確実に1つ僕の、良い思い違いであればいいなと思うことがあって、詩人の言葉を聞いていれば世界のことがわかる、それこそすべてだというぐらい極端になっています。いろんな情報や言葉が飛び交っていますが、詩人の言葉はそれをすべてふるいにかけた後にたった一粒残った物だと思うので、詩人達が今残す言葉や声を聞いていれば、それが世界でいいという、大きな思い違いを僕はしていたいと思っています。

――特にコロナ禍でリアルに触れ合う機会が失われたことで、逆に言葉に対して以前より意識的に、敏感になっている人もいると思います。それだけに、『8 ∞』に対する興味を持つ人も現れてくるのではないでしょうか。

志人:ルリー・シャバラというインドネシアのヴォーカル・アーティストからは、今回、自分の直筆で書いた詩と肉声と、タイプされた文字が来ているんですが、すべて自分が作った言語なんです。誰も話さない、誰もわからない、文字も自分で作ったものなんですよ。もうその領域に行っていて、わかってもらわない、わからない、でも肉声を聞くとイルカを表現してるんだろうか、水なんだろうかと想像はできるんです。それを見て聞いていると、本当に子どもが鏡文字を書いたり、文字ならぬ文字を書いたりする行為だったり、人が初めて文字を刻んで何かを伝達していく手段として、どうしていたのかとかに立ち返りました。今は、どうやったら人に伝えられるのか、伝えられないというもどかしさや、わかってもらおうとしてもわかり合えない状態がある中で、いろんなことを考えている人がいるということを知るべきなんですよね。福島智さんの本を読むと「沈黙は地獄だ」じゃないですけれど、沈黙は恐ろしいことだと言っているんですよね。目も見えず、耳も聞こえない、自分の喋る言葉も聞こえない、人が何を言っているのかとか何にも触れてもなくて、宇宙にポーンと放り出されているような状態で、とにかく何か話しかけてくれというのをずっと言っていた時期があったそうです。何も話しかけないでくれという人もいれば、真逆に思っている人もいるんだよというのは知っておくべきですし、そういう時に僕らはどんな言葉を投げかけたらいんだろうと感じます。

――すぐにはわかってもらわない、わからないというのは、『心眼銀河』にも表現されていることですね。

志人:やっぱり『心眼銀河』も、『8 ∞』から派生して確実に生まれているので「生きることは息をすること」っていうのを2曲目ぐらいで言っているんですが、野菜や木に話しかけるだけで、人間は酸素を吸って二酸化炭素を出しているわけですから、成長していくというか、お互い声にならない声を聞いていくということで、今何に触れて、どんな話を聞いたらいいか、詩人やある次元で語りかけている人達は、それを聞いていれば十分だよ、っていうぐらいの領域のことをやっていると思っています。そういう人が世界にいるんだよということを知ってもらいたいし、第一線には現れてこないかもしれないけれど、人間、言葉、話しかけているということの表現においては、それぞれの際に立っているような人が、世界中にはいらっしゃるということを楽しみにしたいです。そこからどんどんといろんな人と出会っていく中で、人間と触れ合う時間や人間の言葉に耳を傾ける時間をもう一度思い出させてもらっているというのはありますね。

フィールドレコーディングという営為、すべてが音楽という境地

CHIKYU NAUT -翁嫗 OUOU- 語部:志人/sibitt

――『心眼銀河』の先にあるものとして、『CHIKYU NAUT -翁嫗 OUOU-』という音源を作られていますね。フィールドレコーディングが元で、ビートはなく、アンビエント的でもあり、非常に興味深かったです。

志人:これを作っていた時は、社会福祉施設の方々と一緒に詩を作ってみようという講座を遠隔でやることになったんです。遠隔なのでどうしてもズレとかが生じるのと、無理やりでも何か形にしようという企画側の意思と、僕のそんなに急がなくてもいいんじゃないかという思いが少し火傷してしまいまして、作品を残すことはできなかったんですけど、彼らと過ごす数週間の中でCHIKYU NAUTを作っていったんですね。彼らが閃かせてくれたという風にも感じているんです。

――フィールドレコーディングは初めてですか?

志人:フィールドレコーディングは、毎日、手の届くところにレコーダーを置いてやっていて、ずっと10年ぐらい癖でやっています。今までは作品にはあまり使ってはいなかったんです。

――では、それを聴いて何か書くことにつながる、というわけでもないのですか?

志人:今、僕は土の蔵の中のスタジオでやっているんですけど、いつも自然の音が背景に流れているので、シンセサイザーで弾いたとしても、自分が録音した音源を聴いていたとしても、雨の時か、静かな夜か、すごくたくさんのカエルが鳴いているかとか、それによって聴こえ方が違うんです。皆が聴けるような一定した表現の他に、聴いている時の皆さんの家の環境音が音楽に1つ加わって音楽になると思っているので、その時に言葉が閃くというよりは、すべてが音楽というところを自然に出せたらいいなと思っています。なので、どこかある場所に行って、何かフィールドレコーディングで録ってくることも考えながら、自分でもまだ何がしたいかはわからないですけれど、旅を重ねていきたいです。

志人 sibitt
1982年日本生まれ。詩人/作家/作詩家/語り部。
独自の日本語表現の探求により、言葉に秘められた全く新しい可能性を示す「言葉の職人」。
音楽表現のみならず舞台芸術、古典芸能の分野においても国内外で活動する表現者。
2020年より“8 ∞”という企画で世界中の表現者と1つであり無限の物語を紡ぐ企画を主宰し、現在、志人、Khyro、Rully Shabara、なのるなもない、Bleubird、Bianca Casady、吉増剛造の7名が詩人/ボイスパフォーマーとして参加している。
2021年にセルフ・プロデュースアルバム「心眼銀河-SHINGANGINGA-」、「視覚詩・触覚詩 心眼銀河 書契」を発表。
sibitts official blog Wheres sibitt? : sibitt.exblog.jp/
TempleATS: templeats.net/
8 ∞:88project.info/

The post 孤高の表現者・語り部=志人、その探究の道程と現在地を語る―後編― appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
孤高の表現者・語り部=志人、その探究の道程と現在地を語る―前編― https://tokion.jp/2021/10/25/the-past-and-present-of-his-craft-part1/ Mon, 25 Oct 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=68958 ゼロ年代に降神のMCとしてシーンに登場して以来、独自の感性・視点から日本語表現を探究し続ける表現者・志人へロングインタビュー。前編はヒップホップへの目覚めや演劇との出会いについて。

The post 孤高の表現者・語り部=志人、その探究の道程と現在地を語る―前編― appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
ラッパーとしての姿を最後に見たのは、いつだったろう。その記憶はもはや曖昧だが、強烈に覚えていることはある。ステージのない、地下にあるコンクリート剥き出しの小さなスペースで、DJもバックトラックもなく、唯一人で言葉を繰り出していた。マイクも握っていなかった。それを、パフォーマンスやスポークン・ワードと呼ぶことを躊躇わせる何かがあったことも覚えている。

2021年に話は飛ぶ。僕のもとに送り届けられた『心眼銀河-SHINGANGINGA-』の音楽に聴き入り、手作りの書籍の質感を確かめながら頁をめくった。そして、現在の表現にまで至る話を素直に訊きたいと思ったのが、このインタビューをオファーした理由だ。こぼれ落ちるものを丁寧に拾い上げるように、話は進んでいった。

自然の中に住むことで見えてきたもの

――京都にはいつから住んでいるのですか?

志人:7年前ぐらいからですね。

――生活は変わりましたか?

志人:生活が逆転するような感じでした。自然は小さい頃から大好きだったんですけど、より深く分け入っていく感じがありましたね。あと、京都の方は職人肌の人が多いところもあるので、そういった職人の下にいると怒られたり(笑)。

――市内ではなく、山のほうでの暮らしなんですね。

志人:そうなんですよ。今まで自然と優しく触れ合って生きていくっていうのは好きだった一方で、京都に来た時は、下手に生半可な気持ちでいくとのみ込まれてしまう、自分が命を奪われてしまう可能性もある、という局面も勉強することができました。

――職人さんというのは仕事で関わっている方ですか?

志人:そうです。初めて職人気質の人間として出会ったのは、山仕事をしている人でした。林業を生業にしているんですけど、おじいちゃん、おばあちゃんから栃の木を買い取って、刳物や捏鉢を自分で作り、どこかに売り出したりもせずにひたすらやっている、僕より10歳ぐらい上の人です。その人に散々怒鳴られたりしましたね。俗世間を離れているような人なんですけど、その人との出会いは、「表現をずっと僕も続けていきたい」と思わせてくれる、大事な縁でした。僕はよく「木こりなんですか?」とか「山仕事をやっている人なんですか?」とか言われますが、自分でも肩書きはわからなくて。体験や仕事が直接、詩を書くことにつながっていく、ということなんですね。でも、肩書きも人前に立つことも考えず、黙々と物を作っているその人の姿を見た時に、もっと真剣に自分が今取り組んでいることをやっていきたいなと思うようにもなりました。

――詩を書くことと、現在は自分でトラック作りもしていて、『心眼銀河』も、基本的に自分1人で制作されてますね。

志人:今さら音を作るのは、自分でも想像していなかったです。自分自身、初めからヒップホップをやっているというつもりはなかったんですけど、周りにはそういう仲間がたまたまいて、その仲間達の中で、言葉の表現を探っていったところがあるんです。でもだんだんと音楽を作ってた連中も大人になり、あまり新しい作品を作らなくなったんです。音の中で何か詩を生み出そうとする時、その人の音の持っている精神性が理解できるという人が少なくなっていったんです。であれば、自分では今どういった音で詩を書きたいんだろうと思うと、無音だった。音がない状態であれば、どこまででも行ける。その中で、少し音を奏でてみたいなという気持ちになり、やり出したのが本当に最近ですね。

志人 SHINGANGINGA 2021 trailers
<心眼銀河-SHINGANGINGA-> 蝶道 – CHYOUDOU- 作詩・作曲:志人/sibitt
志人 SHINGANGINGA 2021 trailers
<心眼銀河-SHINGANGINGA-> 玄+時無種殻 -GEN+TIMECAPSULE- 作詩・作曲 志人/sibitt
志人 SHINGANGINGA 2021 trailers
<心眼銀河-SHINGANGINGA-> 夢遊趨 – Gun Lap Run- 作詩・作曲 志人/sibitt

――では、『心眼銀河』はその最初の作品になるのですね。

志人:きっかけは、「音楽を作ってみてください」と依頼されたのもありましたね。「0〜2歳の赤ちゃん向けの歌を作ってください」と去年お話いただいて。ほぼほぼ音を作ったことがなかったのでどうしようかと思い、ヤマハ、僕は山葉って呼んでますけど、ヤマハのシンセサイザーで、ディスカウントショップで買えるような古い物を鳴らしてみたんですよ。譜面も読めないですし、勉強もしてこなかったので、自分にとって音楽ってなんだろうと立ち返ったら、セミの鳴き声だったり生活音だったり、全部が音楽だなという感覚があったので、ひたすら赤ちゃんになって音と戯れてみて、心に響く物を探し出すようになりました。

今改めて振り返る音楽遍歴、ヒップホップへの目覚め

降神『降神』(2003年)

――降神(編集部注:志人、なのるなもないの2MCとトラックメイカーのonimasを中心として構成され、東京のヒップホップ・シーンで特異な存在感を放ったヒップホップクルー)のファースト『降神』(2003年)が出た頃に、僕は志人さんと出会いました。降神以前、どんな音楽を聴き、何をしたいと思っていたのか、少し伺えますか?

志人:表現をし始めようという前の若い頃にアジアを放浪して聴いていた音楽は、全然ヒップホップではなくて、それこそボアダムスとか羅針盤とかを聴いてましたね。DJと付く人と言ったらスプーキーとか。ゴアトランスとかも聴いてましたし、ハルシノゲンとかも。とにかく、「なんだこの音」っていうのを旅の最中に聴いていて。一線を越えてしまうような音が好きでしたね。1つ覚えているのが、アジアの路上で路店商の人がカセットテープを流していて、それがDJ KRUSHの曲だったんです。「これはどこの国の音楽ですか?」と聞くと、「日本の音楽だ、お前の国の音楽だよ」と言われて。DJ KRUSHさんは日本ではなく路上で出会いましたね。

――日本に戻ってきてから、ヒップホップを始めたわけですね。

志人:学生時代というのもあって、何か表現したい、作りたいという気持ちが強くなって出会ったのが、ヒップホップをしている仲間達だったんです。僕は早稲田大学で、そこに地下部室っていうのがあって、隣にブラジルミュージック研究会と手話サークルがある混沌とした場所だったんですけど、レゲエスターズっていうレゲエの連中がいて、大学の落ちこぼれ達が集まっていたんです。で、初めてマイクを握ったのは公園にターンテーブルを出したブロックパーティだったので、レゲエで初めてマイクを握ったんです。

――降神が登場した頃は、アメリカのアンダーグラウンド・ヒップホップの勢いもありました。似通った表現として存在していましたが、降神は特異でした。2人のラッパーはもちろんのこと、トラックもヒップホップの枠を逸脱していると感じました。

志人:ヒップホップに対して、もちろん良い文化の部分やおもしろいなと夢中になる部分もあるんですけど、ヒップホップとはなんぞやと語れる身分でもないんです。若い頃はフリースタイルしたり、サイファーをしたりはしていたけど、それでもおもしろいなと思う音楽ってオーソドックスなヒップホップではなかったです。いろんなジャンルに詳しい友達のところに行って、それこそアンダーグラウンド・ヒップホップを聴いたあとに、フィッシュマンズのビデオを見るみたいな、全然よくわからないことを若い頃はしていましたね。

――降神のメンバーからの音楽的な影響は当然ながら大きかったのですね。

志人:降神ですとonimasっていう台湾とアメリカの人がいたので、彼がだんだんとトータスとかマイスパレードとかポストロックを聴き出して、トラックがヒップホップだけじゃない要素になっていって。僕自身はオーソドックスなヒップホップよりは、何とジャンル分けすればいいか分からない、ハッとするような音楽がやはり好きでした。自分がどんな音を奏でたいのか考えるようになったからかもしれないですね。そうしていくうちに、長い間ヒップホップのシーンでライヴをやらせていただいたんですけども、だんだんと全然違うジャンル、ロックやハードコアの連中とやるようになったり、その果ては……、誰も追わないような状態になっていて、気付いたらヒッピー・コミューンみたいなところでしかライヴしないような、なんでそうなったんだろうとふと思いますよね。そうなって雲隠れしていったみたいなところもあるんですけど。

どのように言葉に向き合っているのか

――ただ、そうした変化の中で、ラップ、さらには言葉を扱うスキルは磨かれていったのではないかと思うのですが、いかがですか?

志人:難しい質問ですね。人との出会いというところと、最近では人と出会わなくなったからこそ、もっと深く見つめられる部分があるんだと思います。影響を与え合いながら切磋琢磨していた頃に身に付いていったものと、何の影響でもないものというか、言葉を浴びていた時期からだんだんと草分けをしていくことを今は考えるようになりました。

――降神でも、ソロでも、日本の古い歌の要素が入っています。音楽的には欧米のほうを向いている部分があっても、日本に対しての関心や意識は当初からあったのですか?

志人:そうですね。僕は新宿区で生まれたのですが、祖父母が四国出身で戦争中に好きなことができなかったので、戦後長野県で自分達で開墾から始めて家を建てて、五右衛門風呂と薪ストーブのような不便を厭わない生活をしていたんです。小学校の頃やもっと小さい頃からそこに行っていたので、祖母が散歩しながら「これはワレモコウというのよ、我もこうなりたいと言ってそういう名前になるのよ」とか「この虫はウスバカゲロウ」と言って、虫や鳥や草花の名前を小さい頃から教えてもらっていました。自分も詩を書いていく中で「何でこんな言葉出てきたんだろう」というのがほとんどなんですよ。調べて、ここに草花の話をおこう、っていうのではなくて、頭の片隅から出てきた言葉が降ってきているという感じなので、表現を始める以前に染み付いていた祖父母の姿と、言霊のような日本人が名付けた花や草木の名前っていうのがずっと頭にこびりついていたのはありますね。

演劇との出会いが教えてくれたこと

――意識して日本語にこだわるというわけではなかったのですね。

志人:日本語じゃなければいけないという縛りは自分では課してなかったんですが、「自分の言葉がどこからきたのか」とか、果ては「日本はどんな国なんだろう」とか、「天皇って何なんだろう」とか自分なりに歩きながら考えるところがありますね。今でも日本語の起源というか、言葉の鳴り響き方だったりは勉強していきたいと思います。ただその一方で、演劇のことを最近やっていて、数年前に維新派(編集部注:故・松本雄吉により1970年に結成された劇団。2017年の台湾での公演をもって解散)の松本雄吉さんが演出を手掛けた『PORTAL』(脚本:林慎一郎 演出:松本雄吉)という劇で役者をやらせていただいたことがあったんです。それは全く真逆で、外来の言葉を使って架空の街やゲームをテーマにしていたんですけど、初め僕は「え、できるかな?」とも思っていました。けれど、音で日本語だけでなくても日本語と結びつこうとしている言葉があるんじゃないかという興味もあったのと、特に言葉が多い劇だったので、実は僕がわざと自分で首を絞めていた部分もあったかもしれないと気付き、「日本語だけでないと」ということはないような気がして、いろんな外来の言葉も自分の中に溶けていくところで探していきましたね。

――その演劇の中では、具体的に何をやられたのですか?

志人:クラウドという役がいて、雲を掴むような役なんですが、その役回りはどういうものなのかを台本の中で理解して、でも話す言葉は自分で作ってみても良いということを条件に、引き受けました。あまり今まで人の言葉を読むということをやっていなかったし嘘になってしまうと思っていたので、線を引いていたのですが、その役のところに自分が入り込める余地があって、なおかつそこから言葉が生まれるならどういうものなんだろうというのを自分でも試してみたいと思ったんです。で、自由に作らせていただけるならやってみたいです、となり、ある意味、実験的にやりました。

――演劇は、身体表現でもありますね。単に言葉を操るだけではないところで、新しい発見はありましたか?

志人:維新派の動きというのが独特なんです。僕が自分自身をヒップホップではないという根本の部分としては、我とか、主語がなく、何が話しているんだろうという状態のものを作っているという、無私なところがあって、そういう状態から動きに入ることによって、ここにいるんだけれども、いないような状態になるんです。他界しているとか、自分は幽霊なのかとか、変な感覚に陥るんです。劇の動きはしっかりと決められたものなので、自由に動くことは場面によってはないんですけども、自分でありながら、役っていうのもありながら、動きもある状態で、無くさなきゃいけないとなると、何者でもなくなっちゃうような状態になるんですよね、動きが。維新派の動きからはそういう体感をしましたね。

――ラップしている時から、やはり無私という意識だったのですか?

志人:自分もあんまりカッコつけることができなくて、かっこいいラップをする人はたくさんいるけど……。

――十分にラップはかっこいいですよ(笑)。

志人:いやいや(笑)。ナルシシズムというか、そういうのが自分でも苦手なところはあるんです。植物が喋ったり、木が喋ったりとか、人間が疎遠になってしまっているものの声を代弁することができないだろうかと思うんですよ。代弁はできなくても通訳はできるかもしれない、間違っていたとしても。人としての立場で、人間界から人間界へ向けてという立場で話してしまうと、どうしてもおざなりになってしまうところがあるので、奥のところは、もう言葉ではない言葉を超えた音のようなもので話しかけてきていると思うので、そっちのほうに心が向くというか、僕が通訳するべき時なのかな、と思ってやっていますね。

後編に続く)

志人 sibitt
1982年日本生まれ。詩人/作家/作詩家/語り部。
独自の日本語表現の探求により、言葉に秘められた全く新しい可能性を示す「言葉の職人」。
音楽表現のみならず舞台芸術、古典芸能の分野においても国内外で活動する表現者。
2020年より“8 ∞”という企画で世界中の表現者と1つであり無限の物語を紡ぐ企画を主宰し、現在、志人、Khyro、Rully Shabara、なのるなもない、Bleubird、Bianca Casady、吉増剛造の7名が詩人/ボイスパフォーマーとして参加している。
2021年にセルフ・プロデュースアルバム「心眼銀河-SHINGANGINGA-」、「視覚詩・触覚詩 心眼銀河 書契」を発表。
sibitts official blog Wheres sibitt? : sibitt.exblog.jp/
TempleATS: templeats.net/
8 ∞:88project.info/

The post 孤高の表現者・語り部=志人、その探究の道程と現在地を語る―前編― appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
BIGYUKI NYでジャズの最前線を生きる日本人アーティストの今・これから https://tokion.jp/2021/05/12/bigyuki-the-new-york-based-japanese-artist/ Wed, 12 May 2021 06:00:38 +0000 https://tokion.jp/?p=32665 狭義の「ジャズ」を超え活動するNY拠点の日本人キーボーディスト/プロデューサー・BIGYUKI。昨年12月に久しぶりの自身名義のEPをリリースしこの2月にはプロデュースを務めたCHAIの楽曲も発表された同氏の現在地について、音楽評論家の原雅明が尋ねる。

The post BIGYUKI NYでジャズの最前線を生きる日本人アーティストの今・これから appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
コロナ禍で、ミュージシャンは等しく活動の停止を余儀なくされたが、ロックダウンのNYでBIGYUKIは何を感じ、どんなことを考えていたのか、まずはその話から訊いた。少しずつ、音楽に向き合い直すことを始め、再び、演奏と制作活動に取り組みだした過程も振り返ってもらった。アメリカで活動を続けてきた中で得た、社会やコミュニティ、シーンに対する責任や貢献にも話は及んだ。そして、日本に暮らす人達にも伝える義務があるという、その思いにも触れるインタビューとなった。一時帰国を経てNYに戻るBIGYUKIの次なる予定は、ピート・ロックのバンドでのライヴになるという。
(編集部注:本インタビューはBIGYUKIが一時帰国中の2月末に実施された。)

コロナ禍のNYの過ごし方や、音楽シーンの動向を振り返って

――コロナ禍はNYにいらしたのでしょうか?

BIGYUKI:基本的にはそうですね。2020年の3月までツアーであちこち回っていたんですが、それ以降はパタリと動くこともなくなりました。

——ミュージシャン仲間とも会わずでしたか?

BIGYUKI:NYでもレコーディングがたまにありましたが、一番状況が酷かった3、4月の間は、ほぼ会わなかったですね。その間は、州単位の補償があったり、ミュージシャンズユニオンのような互助団体による寄付が盛んに行われたりと、救いの手がいくらかあったので、僕やミュージシャン仲間たちも自宅から発信ができるようにと、マイクとかモニタースピーカーといった機材を揃えて準備はしていました。

——補償や寄付等の支給は、オンラインでの活動が条件ですか?

BIGYUKI:これからの活動への補償ではなく、今まで音楽業界にどのように貢献したかで判断されました。どのアルバムに参加しているか、ツアーはどういったものに参加したかなどを訊かれるので、僕もそれを全部申請しました。

——その状況下で、音楽に向かうモチベーションは保てましたか?

BIGYUKI:いや、3、4月の間は全くなかったです。ステイホームが大事だ、外に出ないことが世界を救うと言われていたじゃないですか。正直に言うと、そのメッセージに甘んじていたところもあり、ずっと家にいてネットフリックス見たり自炊をしたりと、ただただ消費をする毎日でしたね。当時は完璧なロックダウンでしたからね、本当にあのNYが沈黙していました。で、そうしている内に他のミュージシャンからキーボード・ビデオリレーに誘われる等、お互いに気持ちを高めていこうよっていうムーヴメントがあったりして、徐々に音楽筋肉のようなものが戻ってきた実感がありますね。

——ホセ・ジェイムズのオンライン・ライヴにも参加してましたが、同じ時期ですか?

José James – Come To My Door (Live at Levon Helm Studios)

BIGYUKI:あれは2つライヴをしていて、1つ目を8月に行いましたが、とても良いきっかけの1つになりましたね。ロックダウンになって以降、バンドで演奏するのは初めてでしたし、素晴らしい体験でした。NYの陰鬱で不気味な雰囲気から、気の知れた仲間と会って情報交換をして、久々に音を出して、そのバンドで演奏をすることも初めてで、より新鮮に感じました。演奏自体、僕自身は納得行くものじゃなかったのですが、経験としては素晴らしかったです。

——あのライヴはリリース(『New York 2020』)されるそうですね。

BIGYUKI:そうなんですか。そっか……だけどまあ、1周回って、それは良いとして(笑)、今楽しみに信じていることがあって、コロナがある程度収束して経済活動が戻り、文化活動ができるようになった時に、アート・ルネッサンスのような爆発的なエネルギーがいろんなところで発散されると思うんです。特にNYはストレスを与えられた分、カウンターがすごいと思います。そうなった時には、自分もそのシーンに貢献していきたいし、自分から何か意味のあるものを発信していきたいと思っているので、今はそこに焦点を当ててモチベーションを取り戻しています。

——NYのミュージシャンたちは、普段バラバラに行動していても、いざという時は一致団結してサポートし合うパワーがあるように感じます。

BIGYUKI:そうですね。互助団体からの援助も積極的でしたし、仲間うちで情報もどんどんシェアしていました。オンラインの動きでおもしろいのが、成功しているプロデューサーたちが、自分の発信力を使ってYouTubeやInstagramで、ビートコンペのように一般公募でビートを集めて審査する取り組みをしている。それによって、無名で才能のあるビートメイカーが新しい仕事をゲットしたり、そのシーンに認知されたりした。大きなチャンスを各々が与えようとしている。お互いを巻き込んでシーンとして高め合おうというのはすごく健康的で良いことだと思いますね。そういう動きを見ているのもあって、僕もどうやって貢献できるかっていうのは常に考えています。

——それは、アメリカの音楽シーンに受け入れられていると感じるからでもありますよね。

BIGYUKI:バークリーに在籍していた15年ぐらい前にゴスペル音楽に興味を持ち、縁あって、とある教会で演奏が決まり、いきなりそのコミュニティへ飛び込んで、そのコミュニティがどんなファンクションを持っているかも知らないまま演奏を始めたのですが、その時に、異質なものをまっすぐ受け入れてくれる懐の深さのようなものを感じました。それは、アメリカなのか、ブラックカルチャーなのかはわからないのですが、来る者は拒まずという姿勢でしたね。そして、文化を吸収したい、好きだという意思を伝えれば、その分返って来るという感覚もありました。

嗜好性の変化から生まれた最新作『2099』のこと、CHAIやハトリミホとのコラボレーションのこと

BIGYUKI『2099』

——昨年リリースした『2099』はコロナ禍の状況を反映したものですか?

BIGYUKI:反映されていると思います。貢献の話じゃないですが、自分が2020年にどうにか生き延びて、その中で素直に感じたことを表現したいなと思っていましたし、ストレスにさらされていると聴きたい音楽もガラッと変わったんです。普段だったら緊張と緩和というか、不愉快になるぐらいのものからリリースされるような感覚へ持っていく音楽が結構好きでしたが、今はちょっと聴き方が変わったのかなと感じています。そういった新しく仕上げた曲やそれまでに自分の中で持っていた曲も含め、とにかく2020年に作品を出したいなという気持ちがありましたね。

——『2099』はジャンルに括れず、でも幅広くクロスオーバーなことをやっているわけではなく、やりたい音楽の軸がはっきりある印象を受けました。

BIGYUKI:そうですね。先日、稲垣吾郎さんがMCしているラジオ番組に出させてもらって、僕の音楽のジャンルについて、吾郎さんに「ジャズって言って良いんだよね?」って言われて、僕は「ブラックミュージックです」ってその時は言いましたが、僕が言うべきだった正しい答えは「ブラックミュージックというものが根底にあって、そこから自分なりのフィルターを通して出した音楽」ですね。これが、何というのかも僕にはまだわからないですけど。

——自分でビートを作ってプロダクションを手掛け、一方でプレイヤーとしてインプロビゼーションもできることもすべて自然につながっていると感じました。

BIGYUKI:すごく嬉しいですね、ありがとうございます。それは自分の目指すところです。プロデュースもすごく好きなのですが、大きな目で見たらバンドを編成する時と気持ちは同じで、プロダクションへ関わる人もインプットがおもしろいから一緒にやりたい、自分の引き出しを開けてくれるような人と演奏をしたいと思っていて、ビートを作って一緒に組むプロデューサーに対しても、そういった感性を重要視しています。

——プロデュースでは、意外なことに最近CHAIの新曲を手掛けていましたね。

BIGYUKI:あの制作は、僕のバークリー以来の友人がつないでくれたんです。彼女たちのプロデュースにも関わっている友人で、コロナ禍になってから僕からアウトプットがない状態なのを気にかけてくれていました。そこで、それまで自分が比重を置いていなかったプロダクションやトラック作りとか、自分1人で完結することを少しずつ始めて、時間を割くようになったっていうのをその友人に話していたんです。それなら良いアイデアが思い浮かんだら送ってちょうだい、という流れになり、ブラッシュアップしようとなった曲の1つが「チョコチップかもね」です。あんな形で完成したことは嬉しく思いますね。ビデオもかわいいですし。

CHAI – チョコチップかもね/Maybe Chocolate Chips (feat. Ric Wilson)

——CHAIとのイメージのギャップがあるのもおもしろいですね。

BIGYUKI:CHAIのその1つ前のシングル「ACTION」をプロデュースしたのは、僕がよく一緒に曲作りをしているルーベンというプロデューサーなんです。彼のプロダクションは洗練されていて、すごく緻密なプログラミングが為されているので、僕のプロデュースで大丈夫かな?と正直思っていました。でも、逆にらしさというか、ヘタウマ感みたいなのが、曲のイメージにもハマったのかなと思いたいですね(笑)。

——加えて、ハトリミホさんのアルバム(『Between Isekai and Slice of Life 〜異世界と日常の間に〜』)にも参加されてましたね。

BIGYUKI:ブルックリン・ミュージアムでの演奏に誘っていただいた際に、僕の感性に興味を持ってもらったんです。シンセサイザー・プレイヤーとして参加したので、僕なりのアレンジやこういう音を足したらいいんじゃないかという提案をしながらいろいろ試していたところ、彼女が気に入ってくれて、その後にアプローチがあり、またブラッシュアップして、彼女のプロダクションに僕のアレンジを足したという経緯です。

——ハトリさんもずっとアメリカで活動されてますね。

BIGYUKI:ハトリさんはカッコいいですよね、先輩って感じですね。

今そしてこれからのアメリカ社会、そして日本の音楽シーンへの思い

——今後もアメリカで活動をすることが重要になると思いますか?

BIGYUKI:コロナ前に日本へライヴで来て、自分より若い世代のミュージシャンの演奏を見る機会があったんです。その時に、今の20代の、特にドラマーですごくおもしろい、骨の入ったビートを持っているミュージシャンがいたので話をすると、ダラスのシーンがとても好きで、僕がNYで一緒に演奏しているミュージシャンのこともよく調べていたんですよね。今はYouTubeのおかげで視覚的にもしっかりと確認できる。文化的な情報を吸収する方法が自分が20代だった頃よりもとても広がっていて、地理的な不利さは前よりはなくなっていると思いました。もちろん、その場にいて人間同士の関わりを築いていくと音楽にも還元されるし、とても大事なこととは思いますが、実際にクリエイティヴな交換をして、クリエイティヴな環境を築くのもオンラインでできることが増えているので、絶対にアメリカに住まなきゃいけないということもないと思います。僕の場合は昔、バークリーを出た時の選択肢が日本、NY、LAで、自分を追い込みたくてNYを選んだだけなんです。でも、これからはわからないですね、流動的に柔軟に生きていきたいなとは思います。

——先は読めないほうがいいということでしょうか?

BIGYUKI:今自分のいる場所である程度認知され、リスペクトを得られて活動していくのは比較的やりやすくコンフォタブルですよね。でも、そこで自分の環境を変えて、何か新しい人と知り合って多少のリスクを取っていくことで、結果的には自分でも気付けなかったポテンシャルを見出すきっかけにもなります。やはり自分は表現者であり、いつになったら終わるわけでもなく、ずっと人生のすべてが自分を探すプロセスなわけです。だから、できる限りいろんな場所に行っていろんなバックグラウンドを持つ人と会って、自分の世界観を自分の想像する範囲以上に無理矢理押し広げられるような機会や経験は大事だと思っていて、そういう意味では他の場所へ移るのはプラスに還元されるものだと思っています。僕は日本人男性であり、日本では圧倒的マジョリティです。でも、それが実はどれだけ恵まれていることなのかを、アメリカに渡り、自分がマイノリティになり、学生で社会的に弱い立場で英語も喋れなかった時に初めて痛感しました。僕自身そういう経験もあったので、「Black Lives Matter」の件についても想像力がすごく大事だと改めて思いました。アメリカでは絶対に歴史の教科書に載るような事件が起きている傍らで、日本での報道やリアクションを新聞、web、SNSでリサーチしていると、リアルに寄り添って正しく理解することはとても難しいことだと実感しましたね。アメリカの歴史に脈々と露骨に刻まれて来ていたものが、だんだんと先人たちの戦いの中で差別や偏見を取り締まる法律が生まれ、徐々に表面上は公平になってきてはいるけれど、巧妙で洗練された形で「差別」が根本的なシステムに組み込まれ、現代社会の中に潜んでいると思うんです。「Black Lives Matter」のムーヴメントの話の流れで、アジア人も差別されている、というのは全く見当はずれだと思うし、実際に住んで体感している僕が、そのルーツを伝える義務は感じています。想像力を持って理解しようとしてくれている人もいるけれど、皆がそう真剣に頭を働かせて考えるわけでもないですし。ってあれ、なんの話でしたっけ?(笑)

——こういった話も伺いたかったので大丈夫です(笑)。

BIGYUKI:僕はこういった話をする義務のようなものを感じていて、影響力があるわけでもないですが、僕自身がこのような話をする機会があり、発信するプラットフォームを与えられているので、それらを存分に活かしていく責任を意識するようになりました。微力ではあるかもしれないけれど、僕のような人間がどうプラスに動けるか考えるべきですし、自分が目の当たりにした経験から人種や人権のことは発言しなければ、という義務感を感じています。

——若い世代のミュージシャンも関わるようになってきた、日本のメジャーシーンの音楽はどういう風に見えていますか?

BIGYUKI:この間、Mステのスペシャル見ましたよ(笑)。おもしろい人たちが増えてきたなと思います。情報を入れたい分だけ入れて掘ることもできる環境が整っていますし、距離が離れているからこそ、自分の知らないところで何が起きているかを知りたいという好奇心がある、貪欲に吸収しようとしている人が多いと思います。また、そうやってインプットを得て自由に表現するようなミュージシャンを必要としている場も多くなり、レベルも底上げされていると思いますので、楽しみですよ。自分が表現したいものがあってそれをどのレベルで表現できるかっていう方法の幅が広がって、それがどんどん高くなるんじゃないかなと思います。

BIGYUKI Solo Piano Live at COTTON CLUB

BIGYUKI
6歳からピアノを習い始め、クラシックを学ぶ。高校卒業後にアメリカの名門音楽大学“バークリー音楽院”へ入学。在学中からボストンのジャズ・クラブで活動したほか、教会音楽へも興味を持ち始め、教会へも演奏活動の場を広げた。その後ニューヨークへ進出し、ヒップホップ・シーンを牽引する大御所アーティスト=タリブ・クウェリと、ネオ・ソウル界で活躍しているシンガー=ビラルのバンドへ加入し同都市での認知度を高める。ビラルのバンドではロバート・グラスパーとも共演し、ジャズ・シーンにおいてもその存在感を強めていった。2016年には大手ジャズ専門誌の『Jazz Times』で読者投票のキーボード奏者部門でハービー・ハンコック、チック・コリア、ロバート・グラスパーと並んで入賞するという快挙を達成した。ア・トライブ・コールドやJ.Coleらの話題作にも参加し、ロバート・グラスパーやカマシ・ワシントンらとも共演を果たすなど、日本人ながらブラック・ミュージック・シーンの旗手ともいえる活躍を見せる注目アーティスト。
https://jazz.lnk.to/BIGYUKI2099
Twitter:@bigyuki

TOKION MUSICの最新記事

The post BIGYUKI NYでジャズの最前線を生きる日本人アーティストの今・これから appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
マイルス・デイヴィスから、環境音楽へ——ジャズの「帝王」が1980年代の日本の環境音楽に与えた影響を探る https://tokion.jp/2020/09/30/miles-davis-influence-on-japanese-ambient-music/ Wed, 30 Sep 2020 06:00:36 +0000 https://tokion.jp/?p=6887 1970年代にマイルス・デイヴィスが紡いだ音楽の「アンビエント性」を、1980年代の日本の音楽家達はどのように受け止めたのか。その接続線を音楽評論家・原雅明が紐解く。

The post マイルス・デイヴィスから、環境音楽へ——ジャズの「帝王」が1980年代の日本の環境音楽に与えた影響を探る appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
言わずと知れたジャズの「帝王」、マイルス・デイヴィスを主題としたドキュメンタリー映画『マイルス・デイヴィス クールの誕生』が日本全国で順次公開中だ。さまざまな音楽的「革命」を成し遂げてきたマイルスの、ジャンルを超えた後続への影響についてはこれまで多くが論じられてきた。しかし、あまり事細かには言及されてこなかったこともある。それは、彼を起点として日本の1980年代の「環境音楽」へと至る接続線だ。
本稿では、著書に『Jazz Thing ジャズという何か』を持つ音楽評論家の原雅明が、1970年代マイルスのアンビエントミュージックとの近接性——ブライアン・イーノ との交錯点——、そして「環境音楽」へと向かっていった1980年代の日本の音楽家達に与えた影響について、紐解いていく。

マイルス・デイヴィスとブライアン・イーノが交わる場所

マイルス・デイヴィスとの初めてのレコーディング・セッションに参加したギタリストのジョン・マクラフリンは、終了するなり、一緒に参加したハービー・ハンコックにこう言った。

「分からない。僕たちがやったのは何か良いことだったんだろうか? 僕たちは何をしたんだろう? 何がどうなっているのか分からないよ」。(※1)

『In A Silent Way』(1969年)のレコーディングでの話だ。今ではアンビエント・ミュージックのプロトタイプとも評される本アルバムは、中心を欠いている音楽を作り出したとも言える。ハンコックやウェイン・ショーター、トニー・ウィリアムスら1960年代のアコースティック期のマイルスを支えた第2期クインテットのメンバーも参加したが、演奏は大きく変化した。

Miles Davis『In A Silent Way』(1969年)

ブライアン・イーノは、『Ambient 4: On Land』(1982年)のセルフ・ライナーノーツで、フェデリコ・フェリーニの映画『アマルコルド』と並んで、マイルスの1970年代前半のレコーディング・セッション集『Get Up With It』(1974年)収録の「He Loved Him Madly」が、このアンビエント・アルバムを作る上で大きなインスピレーションを与えたと記した。イーノはアンビエントを、「場所の感覚(風景や環境)に関連した音楽」と定義した。

イーノが評価したのはマイルスたちの演奏だけではなく、スタジオ空間における音の配置であり、曲構成であり、ミックスなどのプロダクションだった。その実現は録音と編集を担当したプロデューサーのテオ・マセロによるところが大きく、マイルスという絶対的なアイコンが中央に位置しながらも、ワウ・ペダルをかけたトランペットは主ではない。曲が始まって10分以上経過してからようやくドラムはリズムをキープするがまるで扉を隔てて漏れ聞こえてくるかのようであり、他の何れの楽器も中心を成すことはないまま、「He Loved Him Madly」はイーノの言うところの「“ゆったりとした”(spacious)クオリティ」を30分以上も維持した。この楽曲の録音は1974年で、参加ミュージシャンも『In A Silent Way』の頃とは様変わりして、ギタリストのレジー・ルーカスやピート・コージーのようにマイルスの意図をより理解する面々が加わっていた。

Brian Eno『Ambient 4: On Land』(1982年)

コード進行に囚われないモード・ジャズや、ギル・エヴァンスのオーケストレーションで1960年代のマイルスが実践してきたことの行き着いた先が、この中心を欠いた演奏だったことは、至極真っ当な進化だった。この後、マイルスは活動を休止して、1980年代に復活を果たすわけだが、1970年代のマイルスが成したことは、マイルス自身ではなく、イーノのようなジャズ以外のフィールドや、アメリカ以外の国で更に独自の音楽を発展させる契機となった。ここでは、日本での受容と変化に触れたい。

日本での受容と「環境音楽」への接続線

『Kankyo Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』(2019)がグラミー賞にノミネートされて、1980年代の日本の環境音楽に海外から大きな関心が寄せられるようになったが、この時代に日本のジャズ・ミュージシャンの一部は、環境音楽やアンビエントに意識が向かっていた。そして、そこに影響を与えたのは、1970年代のマイルスと、アンビエント以降のイーノだった。

ピアニストの菊地雅章は、ギル・エヴァンスと1970年代から活動をともにし、1970年代後半、表向きには一切演奏活動をしなかったことになっているマイルスの非公式のレコーディング・セッションにラリー・コリエルやアル・フォスターらと共に参加した。筆者は1997年に雑誌の取材で菊地にインタビューする機会があった。1970年代のマイルスの発展形だと評価される『Susto』(1981年)の制作に至る、シンセサイザーやドラム・マシンの導入の経緯を訊くとともに、関心がジャズ・ピアノからシンセサイザーに移行した時期の気持ちを訊ねた。当時の取材メモから少し引用しよう。

「俺は、叙情の世界の音楽をやってきたわけ。で、コンピュータ音楽とか電子音って、ある程度、見限ったところで音楽しなきゃいけない。それに俺は叙情性を持たせようとしたから大変でさ」。

「ブライアン・イーノ! イーノには凝ってて、あのころ全部レコード集めてさ。それで、何とか俺のもやりたいなと思った。でも機材が十全じゃないし、自分で納得いかないし、自分のフィーリングが入らないから、それを何とかしようと思ったんだよね」。

菊地雅章『Susto』(1981年)

菊地は、1976年に指を怪我して満足にピアノを弾くことができない状況になり、それがきっかけでシンセサイザーでの音楽制作を始めた。『Susto』や『One Way Traveller』(1982年)を経て、菊地はさらに1人でアンビエントの制作を進めた。同じ頃、かつて菊地のグループに在籍し、その後はNYで活動していたベーシストの鈴木良雄がシンセサイザーやドラム・マシンを導入して1人で制作した『Morning Picture』(1984年)がリリースされた。環境音楽として依頼されて作られたアルバムだが、鈴木本人は「自分の中にある日本の空間、NYにいると特に強く感じる宇宙空間」を表現したのだと言う。

鈴木良雄『Morning Picture』(1984年)

海外で再評価が著しい清水靖晃や、日野皓正に見出された三宅純のように、ジャズを出自として、1980年代のフュージョンのブームがデビューを後押したミュージシャンたちも、時流のフュージョンとは距離を置いた独自の表現を模索した。そこにも1970年代のマイルスとイーノの影が見え隠れした。マイルスが復活を遂げた1980年代には、菊地が言う「叙情の世界」をもデジタル化するように音楽は制作され始めていた。そこには、かつてのマイルスが作り出し、イーノが惹かれた「“ゆったりとした”クオリティ」が入り込む余地はもはやないかのようだった。しかし、環境音楽やアンビエント、ミニマル・ミュージック、インプロヴァイズド・ミュージック、スモール・アンサンブル、そしてエレクトロニカといった音楽の中には、1970年代のマイルスとイーノの影を今も聴き取ることができる。その道筋を付けたのは、混沌とした1980年代に、環境音楽や個という空間を意識した音楽へと向かった日本の作り手たちだったのではないだろうか。いま改めて、そう感じている。

※1Paul Tingen著『Miles Beyond: “The Electric Explorations of Miles Davis, 1967-1991” 』より

The post マイルス・デイヴィスから、環境音楽へ——ジャズの「帝王」が1980年代の日本の環境音楽に与えた影響を探る appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>