マイルス・デイヴィスから、環境音楽へ——ジャズの「帝王」が1980年代の日本の環境音楽に与えた影響を探る

言わずと知れたジャズの「帝王」、マイルス・デイヴィスを主題としたドキュメンタリー映画『マイルス・デイヴィス クールの誕生』が日本全国で順次公開中だ。さまざまな音楽的「革命」を成し遂げてきたマイルスの、ジャンルを超えた後続への影響についてはこれまで多くが論じられてきた。しかし、あまり事細かには言及されてこなかったこともある。それは、彼を起点として日本の1980年代の「環境音楽」へと至る接続線だ。
本稿では、著書に『Jazz Thing ジャズという何か』を持つ音楽評論家の原雅明が、1970年代マイルスのアンビエントミュージックとの近接性——ブライアン・イーノ との交錯点——、そして「環境音楽」へと向かっていった1980年代の日本の音楽家達に与えた影響について、紐解いていく。

マイルス・デイヴィスとブライアン・イーノが交わる場所

マイルス・デイヴィスとの初めてのレコーディング・セッションに参加したギタリストのジョン・マクラフリンは、終了するなり、一緒に参加したハービー・ハンコックにこう言った。

「分からない。僕たちがやったのは何か良いことだったんだろうか? 僕たちは何をしたんだろう? 何がどうなっているのか分からないよ」。(※1)

『In A Silent Way』(1969年)のレコーディングでの話だ。今ではアンビエント・ミュージックのプロトタイプとも評される本アルバムは、中心を欠いている音楽を作り出したとも言える。ハンコックやウェイン・ショーター、トニー・ウィリアムスら1960年代のアコースティック期のマイルスを支えた第2期クインテットのメンバーも参加したが、演奏は大きく変化した。

Miles Davis『In A Silent Way』(1969年)

ブライアン・イーノは、『Ambient 4: On Land』(1982年)のセルフ・ライナーノーツで、フェデリコ・フェリーニの映画『アマルコルド』と並んで、マイルスの1970年代前半のレコーディング・セッション集『Get Up With It』(1974年)収録の「He Loved Him Madly」が、このアンビエント・アルバムを作る上で大きなインスピレーションを与えたと記した。イーノはアンビエントを、「場所の感覚(風景や環境)に関連した音楽」と定義した。

イーノが評価したのはマイルスたちの演奏だけではなく、スタジオ空間における音の配置であり、曲構成であり、ミックスなどのプロダクションだった。その実現は録音と編集を担当したプロデューサーのテオ・マセロによるところが大きく、マイルスという絶対的なアイコンが中央に位置しながらも、ワウ・ペダルをかけたトランペットは主ではない。曲が始まって10分以上経過してからようやくドラムはリズムをキープするがまるで扉を隔てて漏れ聞こえてくるかのようであり、他の何れの楽器も中心を成すことはないまま、「He Loved Him Madly」はイーノの言うところの「“ゆったりとした”(spacious)クオリティ」を30分以上も維持した。この楽曲の録音は1974年で、参加ミュージシャンも『In A Silent Way』の頃とは様変わりして、ギタリストのレジー・ルーカスやピート・コージーのようにマイルスの意図をより理解する面々が加わっていた。

Brian Eno『Ambient 4: On Land』(1982年)

コード進行に囚われないモード・ジャズや、ギル・エヴァンスのオーケストレーションで1960年代のマイルスが実践してきたことの行き着いた先が、この中心を欠いた演奏だったことは、至極真っ当な進化だった。この後、マイルスは活動を休止して、1980年代に復活を果たすわけだが、1970年代のマイルスが成したことは、マイルス自身ではなく、イーノのようなジャズ以外のフィールドや、アメリカ以外の国で更に独自の音楽を発展させる契機となった。ここでは、日本での受容と変化に触れたい。

日本での受容と「環境音楽」への接続線

『Kankyo Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』(2019)がグラミー賞にノミネートされて、1980年代の日本の環境音楽に海外から大きな関心が寄せられるようになったが、この時代に日本のジャズ・ミュージシャンの一部は、環境音楽やアンビエントに意識が向かっていた。そして、そこに影響を与えたのは、1970年代のマイルスと、アンビエント以降のイーノだった。

ピアニストの菊地雅章は、ギル・エヴァンスと1970年代から活動をともにし、1970年代後半、表向きには一切演奏活動をしなかったことになっているマイルスの非公式のレコーディング・セッションにラリー・コリエルやアル・フォスターらと共に参加した。筆者は1997年に雑誌の取材で菊地にインタビューする機会があった。1970年代のマイルスの発展形だと評価される『Susto』(1981年)の制作に至る、シンセサイザーやドラム・マシンの導入の経緯を訊くとともに、関心がジャズ・ピアノからシンセサイザーに移行した時期の気持ちを訊ねた。当時の取材メモから少し引用しよう。

「俺は、叙情の世界の音楽をやってきたわけ。で、コンピュータ音楽とか電子音って、ある程度、見限ったところで音楽しなきゃいけない。それに俺は叙情性を持たせようとしたから大変でさ」。

「ブライアン・イーノ! イーノには凝ってて、あのころ全部レコード集めてさ。それで、何とか俺のもやりたいなと思った。でも機材が十全じゃないし、自分で納得いかないし、自分のフィーリングが入らないから、それを何とかしようと思ったんだよね」。

菊地雅章『Susto』(1981年)

菊地は、1976年に指を怪我して満足にピアノを弾くことができない状況になり、それがきっかけでシンセサイザーでの音楽制作を始めた。『Susto』や『One Way Traveller』(1982年)を経て、菊地はさらに1人でアンビエントの制作を進めた。同じ頃、かつて菊地のグループに在籍し、その後はNYで活動していたベーシストの鈴木良雄がシンセサイザーやドラム・マシンを導入して1人で制作した『Morning Picture』(1984年)がリリースされた。環境音楽として依頼されて作られたアルバムだが、鈴木本人は「自分の中にある日本の空間、NYにいると特に強く感じる宇宙空間」を表現したのだと言う。

鈴木良雄『Morning Picture』(1984年)

海外で再評価が著しい清水靖晃や、日野皓正に見出された三宅純のように、ジャズを出自として、1980年代のフュージョンのブームがデビューを後押したミュージシャンたちも、時流のフュージョンとは距離を置いた独自の表現を模索した。そこにも1970年代のマイルスとイーノの影が見え隠れした。マイルスが復活を遂げた1980年代には、菊地が言う「叙情の世界」をもデジタル化するように音楽は制作され始めていた。そこには、かつてのマイルスが作り出し、イーノが惹かれた「“ゆったりとした”クオリティ」が入り込む余地はもはやないかのようだった。しかし、環境音楽やアンビエント、ミニマル・ミュージック、インプロヴァイズド・ミュージック、スモール・アンサンブル、そしてエレクトロニカといった音楽の中には、1970年代のマイルスとイーノの影を今も聴き取ることができる。その道筋を付けたのは、混沌とした1980年代に、環境音楽や個という空間を意識した音楽へと向かった日本の作り手たちだったのではないだろうか。いま改めて、そう感じている。

※1Paul Tingen著『Miles Beyond: “The Electric Explorations of Miles Davis, 1967-1991” 』より

author:

原雅明

音楽の物書き。レーベルringsのプロデューサー、LA発のネットラジオdublab.jpのディレクター、DJやホテルの選曲も務める。早稲田大学非常勤講師。単著『Jazz Thing ジャズという何か』など。 https://linktr.ee/masaakihara

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