断片から解き明かされるブラック・カルチャーという“代替現実”——書評:グレッグ・テイト『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』

鋭い知性と広範な知識によりブラック・カルチャー/ミュージックを多角的・多層的に論じ、“ヒップホップ・ジャーナリズムのゴッドファーザー”とも称された米国の批評家/ジャーナリスト、グレッグ・テイト。5月に日本語訳が刊行された『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』は、2021年に惜しくも急逝したテイトが残した2冊目の評論集となる。マイルス・デイヴィスやギル・スコット=ヘロン、ミシェル・ンデゲオチェロ、トニ・モリスン、スパイク・リー、ウータン・クランなど、ジャンルや時代を超えた面々がその目次に並ぶ本書で、テイトは何を語りどのようなヴィジョンを描き出したのか。書き手としてテイトに多大な影響を受けたという音楽評論家/〈rings〉プロデューサーの原雅明が、テイトとの出会いを糸口として、本書を読み解いていく。

グレッグ・テイトとは何者か

「ネルソン・ジョージとグレッグ・テイトの2人は、(雑誌の)ブラック・レビューの門番のような存在だった」と、かつてクエストラヴは言った。2人がレビューで支持した作品は、必ず他の批評家からも絶賛された。ザ・ルーツでデビューする直前の80年代末のブラック・ミュージックを取り巻く状況を振り返っての話だ。音楽雑誌のレビューを熱心にチェックし、批評的に評価される作品を作ることに夢中になっていたと素直に吐露したクエストラヴの音楽オタクぶりは、特殊な話かもしれない。しかし、グレッグ・テイトの影響力の大きさは広く認められた話だった。この『フライボーイ2』は、テイトの単著としては初の翻訳となる。同じ1957年生まれのネルソン・ジョージの著書の翻訳(『リズム&ブルースの死』、『モータウン・ミュージック』、『ヒップホップ・アメリカ』、『スリラー』)が進んでいるのとは対照的だが、もともとテイトは単著が少ない。長きに渡りVillage Voice誌のスタッフ・ライターを務めたのをはじめ、さまざまなメディアに音楽のみならず、美術、映画、文学などについても精力的に寄稿した。その1つひとつの記事が、テイトの評価を高めた。まとまった評論を書くアカデミックな研究者ではなく、雑食的な生粋のライターだった。

異なる視点・独特の文体を持ったテイトのテキストとの出会い

自分がテイトを意識したのは、90年代末までのヒップホップの歩みと文化を総括した『ヒストリー・オブ・ヒップホップ』に掲載されたテキストだった。『Vibe』誌が編集し(日本語版は『Blast』誌が監修)、50名以上のライターや批評家らが名を連ねる読み応えのある書籍だったが、その最後の章にテイトによる「ヒップホップの輝かしい未来のための15の議論」が掲載されていた。15の断片的なテキストは、論文でも、議論のためのサマリーでもなく、思考のメモやリリックのような言葉の羅列から構成されていた。その独特の文体と他の執筆者とは明らかに異なる視点に惹かれた。例えば、ジャズとヒップホップについて、こんな記述があった。

「ヒップホップにとってのジャズはメラニン(黒色素)にとっての数学である。ヒップホップにとってのジャズはレイディ・デイ(御告げの祭り)にとっての聖母である。ヒップホップにとってのジャズは無差別な暴力に対する名人芸である。ヒップホップにとってのジャズはメソッド・マンにとってのマイケル・ジョーダンである。自然発生性のブラック・サイエンス対イズムの自然発生性なのだ」

「15の議論」の中で、ジャズはヒップホップと対を成して語られた。それは、90年代に表面化していったこの2つのジャンルの関係性を、サンプリング・ソースやミュージシャンのフィーチャーという表面的なつながりではなく、そこに通底する概念を捉えて、ヒップホップの内部で考えることとジャズの内部で考えることが重なるポイントを見出そうとしていた。それは、ヒップホップの先に見え隠れするジャズについて考えていた自分にとって、最もしっくり来る捉え方だった。

黒人文化という“代替現実”にまつわるさまざまな表現を論じた『フライボーイ2』

『フライボーイ2』の最後の章にも、20の断片的なテキストが収められている。番号を振られた各テキストはその順番通りではなくて、ランダムに並べられていた。全体のタイトルは、「カラハリのけんけん遊び、あるいは二〇巻におよぶアフロ・セントリックなフューチャリストのマニフェストのためのノート」で、アフロ・フューチャリズムに関する考えをまとめたものである。そこにはこんな記述がある。

「私たちがアメリカにおけるブラック・アート、ブラック・ミュージック、ブラック・ヒストリー、ブラック・カルチャー、ブラック・エクスペリエンスと呼ぶものすべて、実は、白人至上主義という虚構の貧弱な廃墟のうえに作られた代替現実なのである。その虚構が、代替現実を現実化させ、ヤバいやつらを生み続けたのだ」

これは、実にテイトらしい言い回しで、『フライボーイ2』を的確に要約している。この本自体が代替現実のさまざまな表現にまつわるレビューや批評的なエッセイ、インタビューをまとめたものだ。幅広い多様な対象を扱い、音楽家と対等に、美術家、キュレーター、振付師、ストリート・ダンサー、映画監督、作家、学者たちを取り上げる。しかし、黒人の表現だけが対象ではなく、黒人文化を構成するものについての固定観念に懐疑的でもある。「彼女の感覚と姿勢がいかに“黒人”的であるか、さらに言えば“ヒップホップ”的でさえあるか」とジョニ・ミッチェルへのインタビューは始まり、ボブ・ディランの『ラヴ・アンド・セフト』のレビューでは「彼は私たちがブラック・ミュージックと呼ぶこの世界に、深い、雪男のような大きい足跡を残した」と記す。

ヒップホップに対するアンビヴァレントな感情

そして、黒人の表現を手放しに褒めるわけでもない。ヒップホップに批判的な姿勢を崩さないウィントン・マルサリスへのインタビューでは、兄のブランフォードと十代の頃にやっていたファンク・バンドの話題を振り、ソウルの定義を問いただし、ヒップホップの口述性にはブルースとのつながりがあると指摘して食い下がる。そして、ウィントンから「ヒップホップはアフロ・アメリカンの音楽の伝統であるという意味では有効だ」という発言を引き出す。

一方で、『フライボーイ2』においては、ヒップホップに対する「輝かしい未来」の言葉は語られない。「三〇歳になったヒップホップ」というテキストでは、ヒップホップという大衆芸術の誕生を「天国と地獄の結婚に他ならない。新世界アメリカアフリカの創意工夫とグローバルな超資本主義という悪魔のトリックだ」と記す。超富裕層を満たす一大産業となったヒップホップへの失望が強くあるが、それでも「ヒップホップがラディカルで革命的な産業」であり、「社会変革の担い手になるというアフロ・セントリックな未来を私は夢見ている」と記している。これが書かれた2004年からテイトが死去した2021年まで、つまりヒップホップがより巨大産業化した時代に彼はその夢を見続けることができたのだろうか。

少なくとも、『フライボーイ2』(原著は2016年の出版)の中には、ヒップホップに対するアンビヴァレントな感情が維持されていることを感じ取れる。特にその感情を秀逸に綴っているのが「もしジェイムズ・ブラウンがフェミニストだったら」という2007年のテキストだ。ここでテイトは、「超世俗的ファンクの四大巨頭」と呼んで、ベディ・デイヴィス、チャカ・カーン、グレイス・ジョーンズ、ミシェル・ンデゲオチェロを取り上げる。この4人の女性は「みずからの身体を超越的な快楽を得るための道具として前景化した音楽とパフォーマンスを見せてくれた」という。ジェームス・ブラウンの強力な男性性は、ショービズ界でハードに働いている女性こそを活性化させたと指摘する。

特にンデゲオチェロは、テイトにとって常に身近にいる表現者であった。ヴァーノン・リードとブラック・ロック・コーリションを結成したギタリストでもあるテイトは、90年代初頭にンデゲオチェロとブラック・ロックのバンドを組んでいたこと、彼女がマドンナのレーベル〈Maverick〉で『Plantation Lullabies』から『Comfort Woman』までをリリースした10年間に、ドクター・ドレーやパフ・ダディと仕事をすることを幾度も勧められるが断り続けたことを明かしている。また、ワシントンDCのゴーゴー・シーンから登場した彼女がゴーゴーを取り入れないのは、「ゴーゴーはスタイルではなく、教会のようなものであり、宗教的な奉仕だから」という理由も語られる。それは、ンデゲオチェロの音楽が、ジェームス・ブラウンのファンクやチャック・ブラウンのゴーゴーのグルーヴを極めて倫理的に扱っていたことの顕れでもある。テイトはこうした女性たちの表現を丁寧に追い、ヒップホップの背後にあったストーリーも綴っている。

事実と向き合い、それを解き明かす言葉を探る

テイトが死の直前に残したテキストの1つに、マイルス・デイヴィスのライナーノーツがある。マイルスの未発表音源シリーズ『That’s What Happened 1982-1985:The Bootleg Series Vol.7』(2022年)に寄稿したものだ。テイトは、マイルスのバンドに参加すると高額の年俸が払われ、彼のギグ以外に演奏する必要がないことが保証される状況を独特の言い回しで書いた。

「彼はミュージシャンの精神に対する創造的財産権を主張していたのだ。少なくとも、舞台の内外におけるミュージシャンの音楽的な意識は彼のものだった。自分なりの、暴君のようなやり方で、マイルスは偉大な師であるチャーリー・パーカーに倣っていた」

そして、テイトはこの録音に参加したギタリストのジョン・スコフィールドやベーシストのダリル・ジョーンズらの証言を丁寧に拾っていく。彼らの言葉を通して、晩年のマイルスがメンバーの演奏の細部をどれほど聴いていたのかが明らかになる。それは、50年代から60年代にかけてのクインテットの頃から変わらぬことが何だったのかを伝える。テイトは空虚なマイルス論は書かない。ただ事実と向き合い、それを解き明かす言葉を探るだけだ。『フライボーイ2』でも同じことが淡々と繰り返されている。

明確な結論ありきではない、断片から浮き彫りにされていく事柄を丁寧に拾っていくテイトのテキストの集積が、『フライボーイ2』である。取り扱われている事象を顧みるともう数年早く翻訳出版されていればという思いも抱くのだが、それでも、これから幾度も読み返されるべき本であることは間違いない。

グレッグ・テイト『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』

■グレッグ・テイト『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』
著者:グレッグ・テイト
訳者:山本昭宏、ほか
発行:Pヴァイン
https://www.ele-king.net/books/009181/

author:

原雅明

音楽の物書き。レーベルringsのプロデューサー、LA発のネットラジオdublab.jpのディレクター、DJやホテルの選曲も務める。早稲田大学非常勤講師。単著『Jazz Thing ジャズという何か』など。 https://linktr.ee/masaakihara

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