コラム Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/コラム/ Wed, 28 Feb 2024 08:51:47 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png コラム Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/コラム/ 32 32 ルース・アサワ——線が彫刻になるとき https://tokion.jp/2024/02/28/ruth-asawa/ Wed, 28 Feb 2024 08:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=221905 昨年からホイットニー美術館にて回顧展が開催されていた日系2世のアメリカ人アーティスト、ルース・アサワ。大きな功績にもかかわらず日本では知名度の低いアーティストの作家性を育んだルーツを探り、複数の次元を横断する彼女の作品を改めて考える。

The post ルース・アサワ——線が彫刻になるとき appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
Laurence Cuneo, Ruth Asawa holding a paperfold, c. 1970s. Gelatin silver print, 9 13/16 × 7 5/16 in. (24.9 × 18.6 cm). Courtesy of the Department of Special Collections, Stanford University Libraries. Photograph © Laurence Cuneo. Artwork © 2023 Ruth Asawa Lanier, Inc. / Artist Rights Society (ARS), New York. Courtesy David Zwirner

ニューヨークのホイットニー美術館は、開館以来、アメリカ人作家の仕事を紹介することを一つの使命として活動してきた施設である。その意味で、今回のアサワ展は特殊な意義をもつ。アサワはアメリカ国籍と市民権をもつアメリカ人作家であるが、同時に、日本にルーツをもつ日系二世の作家でもあるからだ。同館は、1948年に日本からアメリカに移住した移民一世の画家・国吉康夫の回顧展を開催している。同館が日系人作家の回顧展を開催するのは、(米国在住経験のある草間彌生を除けば)国吉以来のことだろう。

昨年から今年にかけて、ホイットニー美術館で、ルース・アサワの回顧展「Ruth Asawa Through Line」(2023年9月16日〜2024年の1月15日)が開催された。アサワは、日本ではまだ知名度がそれほど高くないものの、近年国際的な再評価が著しい作家である。
アサワといえば、金属のワイヤーを編み込んで制作された球体状の彫刻作品で知られている。しかし、ホイットニー美術館の回顧展は、むしろ代表作となるワイヤー彫刻の出品数を抑え、彼女のドローイングや紙の作品を多く展示することによって、アサワの作品の多様性とさまざまな素材を横断する造形的な実践に焦点が当てられた。

とすれば、国吉の回顧展とアサワの回顧展のあいだには、実に76年の歳月が横たわっていることになる。が、国吉とアサワはある同時代性を共有していた。両者は、ともにアメリカで太平洋戦争の開戦を経験したからだ。アメリカに在住していた日系人たちの人生は、それにより大きく変わった。日系人は、多くがアメリカ市民であるにもかかわらず、突如として敵性外国人として扱われることになった。アサワも例外ではなかった。1942年にアサワ家はそれまで居住していた土地を追われ、日系人キャンプに強制収容された。しかし、この収容施設でアサワはほかの日系人の美術家たちと出会い、彼らから素描などを学ぶことにより、芸術的領域への関心を深め、自らの才能に目覚めていくことになる。

ルースは、1926年に7人きょうだいの4番目の子供としてカルフォルニアに生まれた。アサワ家は、農地をもたない「トラック・ファーマー」として、さまざまな農産物を育て販売して生計を立てていた。当時の法律では、ルースの両親はアメリカ市民になることができず、耕作地をもつことも許されていなかったことによる。一家の生活は豊かではなかった。アサワもまた、6歳になる頃には一家の労働力として農業を手伝っていたという。
だが、彼女は繰り返し農業という仕事が自身の芸術に与えた影響を語った。種を蒔き、植物を育てる過程で目撃した自然の生成力は、彼女の芸術の重要な手がかりになったからだ。自然は、その機能と可能性をその形態のなかに宿している。アサワは、自然の形態を手がかりにすることを通じて、多くの素描や彫刻を残した。

同時代の日系人と同じく、30年代から40年代にかけてのアサワの人生は苦難の連続であったはずである。30年代に、アメリカが大恐慌時代に突入すると、日系人は激しい排外主義の対象となってゆく。また、1941年にアメリカは第二次世界大戦に参戦し、その翌年には、真珠湾攻撃を発端とする太平洋戦争がはじまった。

戦争が終わり、収容所から解放されたのち、アサワは美術教師を目指すが、終戦直後のアメリカ国内の日系人差別は根深く、彼女が置かれていた当時の環境では、アメリカで日系人が美術の教員になることは事実上不可能であった。そのような状況に置かれていたとき、アサワは二人の友人を通じて、ノース・カロライナにある芸術学校の存在を知る。

その芸術学校は「ブラックマウンテン・カレッジ」と言った。アサワは、46年にブラックマウンテン・カレッジの夏期講習に参加し、三年間をカレッジで過ごした。その学校は、1933年に、周囲を山々が囲む小さな町「ブラックマウンテン」の郊外の山のふもとで開校した。開校からしばらく経ったあと、カレッジは「レイク・エデン」と呼ばれる小さな湖に面する場所に、モダニズム様式の建物をつくりキャンパスとした。のちに、この小さな学校こそがアメリカの戦後美術に巨大な足跡を残す、いわば「伝説の芸術学校」として知られることになる。
ブラックマウンテン・カレッジは、サマースクールという夏期講座を設けており、そこを訪れた講師陣には、ジョン・ケージ、マース・カニングハム、バックミンスター・フラーら錚々たる人物たちがいた。領域横断的な実験を許す自由な学内の気風が、同校で学んだロバート・ラウシェンバーグ、サイ・トゥオンブリー、スーザン・ヴェイユ、レイ・ジョンソンといった芸術家のその後の仕事を後押ししたことは疑いえない。

ブラックマウンテン・カレッジの美術分野で主導的な立場を果たしたのが、ドイツの芸術学校「バウハウス」で教鞭を執っていたジョセフ・アルバースである。アルバースは1933年の同校の開校に合わせて妻のアニ・アルバースとともにアメリカに移住し、夫妻はともに同校の芸術教育を担った。アサワは、入学後、アルバースの基礎デザインと色彩コースを受講した。またアサワは、フラーの授業にも参加し、デザイナー、発明家であり思想家として多領域にわたる超人的な活動を行なっていたフラーの思想やデザインに傾倒していく。

 二人の教師の存在が、アサワのその後の人生を決定的なものにした。その影響の大きさは、アサワ自身によって繰り返し語られている。彼女の作品を見れば、アルバースとフラーの実践との連続性がいくつも見出されるだろう。アルバースとフラーとの交流は生涯にわたって続いた。アルバースとフラーの自宅には、アサワの作品が飾られていた。

 彫刻作品で知られるアサワだが、彼女は彫刻を専門的に学んだわけではなく、また「彫刻家」を自認していたわけでもない。むしろ、アサワの仕事の独自性が、アルバースの授業を受講したあとに制作された素描や平面作品にすでに見出される点が重要である。アサワの素描と、後に展開されることになる彫刻は多くのつながりをもつ。

 アルバースの多くの教育実践のなかで、アサワにとってとりわけ重要だったのが、ネガティヴ・スペースの活用可能性である。ネガティヴ・スペースとは、実体的な物に対置される、非実体的な空間のことだ。たとえばアルバースは、指と指のあいだの空間や、椅子の脚の下の空間は、実在する指や椅子と同等に重要であると学生たちに語った。アサワの彫刻では、実際に、ワイヤーでつくられた球体のなかに、別の球体が格納される。それは、球体の内部の、ネガティヴ・スペースを活用するがゆえに可能になったものだ。アサワの素描においても、アルバースの教えを忠実になぞるように、線そのものではなく、線と線の「あいだ」からかたちが生まれることに意識が置かれている。そこで線を引くことは、紙の上に空白からなるかたちを造形することにほかならなかった。

 アサワは自身の彫刻に使われるワイヤーの線を、紙の上に展開された素描の線の延長にあるものみなしていた[1]。ワイヤーという一本の線を編み込み立体化するアサワの彫刻は、空間に展開された素描だった。つまり、アサワの彫刻では、最初に線として開始されたものが、面として広がってゆき、そしてそれが球体となり、形態が閉じるまで展開される。その意味でアサワの作品には、線→面→球体という展開がある。ゆえに、彼女の作品は、このような複数の表現形式の横断性、あるいは線、面、立体という異なる次元の変換と横断という特質をこそ備えていたということだ。

 同じことが、アサワが多く手がけた折り紙の作品にも言える。日系人であるアサワは幼少期から折り紙の文化に触れることができたが、偶然にアルバース自身もまた自身の教育活動において紙をさまざまな手法で立体的に折るプログラムを取り入れていたのだった。アサワはこの二つをルーツとして、ブラックマウンテン・カレッジを卒業後も紙を立体的に展開した作品を持続的に制作し続けた。紙を折ることは、平面を屈折させ、立体として展開することである。そのため折り紙は、平面と立体の区分を横断する。折り紙とは、複数の幾何学的な面の構成体からなる立体である。

 その意味でアサワの芸術は、線描、紙、彫刻といったそれぞれの芸術ジャンルを拘束する次元を可変的なものにするのだ。アサワの芸術が、素描、紙、彫刻という三つのジャンルに等しい重要性を与えながら展開されたことは、この問題と直結している。通常の芸術ジャンルの区分は意味をなさない。そこではすべてが彫刻であり、同時にすべてが素描でもある。それぞれは、一次元から三次元までの複数の次元を越えることで連続する。そのいずれもが、彼女の芸術においてはたがいに連続し、知的に呼応しあう関係にある。

 このような次元の変換(線、面、立体への展開可能性)という観点において彼女の芸術を考えたときに重要なのが、フラーの存在である。フラーは、「ジオデシック・ドーム」をはじめとする構造体をデザインしたことで知られるが、一貫して、三角形を基準として構造設計を行うことを重視していた。その際、重要なのは、フラーが多面体などの幾何学的図形を説明する際に、木棒や糸をつかって構造体のモデルをつくり、学生たちの前で実演したことである。すなわちフラーのドームもまた、アサワと同様に「線」から始まるということだ。

三角形は、面をつくりだす材料としては最も少ない三つの棒でつくりだされる図形だ。三角形は、最もシンプルであるにもかかわらず、幾何学的図形のなかでも強固な構造を可能にする。それは、四本の棒でつくられる四角形よりもはるかに安定しており強度も高い。フラーにとって三角形は、最も少ない材料で最大の効率を実現するかたちだった。フラーは、三角形のユニットを基準として、20枚の正三角形の面で形成した正二十面体を基本骨格とした球体のドームを設計した。とすれば、フラーは、三つの「線」をつなげて三角形という「面」をつくり、さらにそれを連続させることで三次元の「球体」のドームをつくったと言える。そこには、同様に「線、面、立体」の展開可能性が存在する。実際、アサワやフラーにとって、線、面、立体はたがいに隔絶した場所に存在するものではなく、むしろ連続性、発展可能性において捉えられていたと言えるだろう。

 アルバースやフラーの活動を引き継ぐように、生活と制作の拠点としたサンフランシスコにおいてアサワは、アーティストとしてのみならず、芸術教育の活動家として知られていた。彼女は折り紙をもとにした紙を折るワークショップや、フラーの幾何学をもとにした授業を子どもたちに向けて実施した。アサワにとって、アルバースやフラーから受け取ったものを作品として創造することと、それを他者に分け与えることに、いかなる区別もなかったはずである。その活動において、つくること、学ぶこと、それを教えることは、すべて一体である。

[1] Asawa, typed statement for J.J Brooking Gallery, June 5, 1995, Ruth Asawa Papers, box 127, folder 7. 

The post ルース・アサワ——線が彫刻になるとき appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
学ぶのに遅すぎることなんかないのだ:工藤キキのステディライフ最終回 https://tokion.jp/2024/02/28/kiki-kudos-steady-life-last/ Wed, 28 Feb 2024 07:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225533 工藤キキがコロナ禍で見出した、ニューヨークとコネチカットのデュアルライフ。連載最終回。

The post 学ぶのに遅すぎることなんかないのだ:工藤キキのステディライフ最終回 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
ライター、シェフ、ミュージックプロデューサーとして活動する工藤キキ。パンデミックの最中にニューヨークシティからコネチカットのファームランドへと生活の拠点を移した記録——ステディライフを振り返りながらつづる。

コロナの影響でまだまだ生活が規制されていた2020年の頃、運転免許を取り始めた友人が周りにちらほらいた。ニューヨーク以外は広い郊外であるアメリカでは、16歳から免許が取得できて、赤ちゃんと住所不定者だけ運転免許を持ってないと言われるほど。東京にいた時は運転免許のことを考えたこともなかったが、ほとんどのアメリカ国民が持っているのがあたりまえらしい。

アメリカに引っ越して4年ぐらいの頃、遊びに行った遊園地のコニーアイランドでバンパーカーに乗ろうということになったが、実は基本的な操作がわからずパニックを起こし、私の車はフロアの真ん中で立ち往生してしまったことが。楽しげにぶつかり合う車の上を、セキュリティの人が飛び石を渡るように車を飛び越えて私を救出してくれた……というトラウマもあり正直、自分で車という鉄の塊を運転できる自信が全くなかった。

そして友人達がサラッと運転免許を取っていくなか、最寄りの駅が車で1時間という場所に引っ越した2021年にようやく運転免許を取ろうと誓った。必須科目の交通ルールを学ぶための8時間クラスをコロナの影響でZoomで受けることになり、自宅にいながら授業を受けられたのはラッキーだったが、DMVでの仮免試験を通過するまでの道のりは長かった……。

家から一番近いマーケットが車で10分。私達の住む地域では、タウンごとにトランスファーステーションと呼ばれる廃棄物を細かく分別しているごみ捨て場があり、そこに行くのでさえ車で9分かかる。どこへ行くにもブライアンに運転を頼まなければいけない。彼は喜んで運転してくれるが、やっぱり1人でサクっと買い物に行ったり、寄り道したりできるのがいい。ニューヨークまで運転する日がくるかもしれないと、車を運転できちゃう自分という淡い夢はいつも心にあった。

しかし、この仮免を取るまで紆余曲折あり、結果2年費やしてしまったのだった。緊張の頂点でパニックになった朝、ブライアンの車がパンクしていて試験会場まで行けずテストをキャンセルしたり、テストを受ける前に実は目が悪かったことを知らずに視力検査で落ちてしまい、そこからメガネを作るまで数ヵ月かかったり、テストを予約した前日にコロナになったり……なかなか免許を取らない自分に大家のジムも免許の話になると励ましてはくれるが、不思議そうな表情を浮かべていた(笑)。テストは正解だと思うものを選択する形式で、ようやくテストを受けるも2点足りず落第。ルールはルールなので丸暗記すればいいんだろうけど、質問の英語は普段使わない言い回しだったため、内容を理解しにくく、自分にとっては車の免許というより英語の試験だった。

2023年の10月、友人のアイリスが1週間ほど家にステイしていた時。せっかくだから何かプロジェクトをやろうというので、私は迷わず「運転免許を取るのを手伝ってくれ!」と頼んだ。LA育ちの彼女からすると、「プロジェクトってそれかよ(笑)」という感じだったが、アイリスからの最高のアドバイスは、「キキ、一番安全だと思う答えを選べばいいんだよ」というものだった。それは本当で、標識などは覚えないといけないけど、安全だと思う答えを選んだら、なんと全問正解で通過したのでした。ありがと〜アイリス!

そんなわけで、ようやく助手席に免許を持っている人が乗っていれば運転できるという仮免を取得。車の運転がシミュレーションできる、ハンドル・ブレーキ・アクセルがついたゲームのコントローラーをブライアンにプレゼントしてもらい、本試験に向けてXboxのドライビングゲームで特訓している最中です(笑)。次にお会いする時には車を運転している話ができることを願っています!

The post 学ぶのに遅すぎることなんかないのだ:工藤キキのステディライフ最終回 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
『PERFECT DAYS』が世界に接続した新たな東京像 不完全な街と不完全な人間から生まれる静かな豊かさ——連載「ファッションと社会をめぐるノート」第3回 https://tokion.jp/2024/02/27/notebook-on-fashion-and-society-vol3/ Tue, 27 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225411 巨匠ヴィム・ヴェンダースが役所広司を主演に贈る映画『PERFECT DAYS』。そこに映し出された東京という都市の相貌・現在性を、小石祐介が紐解く。

The post 『PERFECT DAYS』が世界に接続した新たな東京像 不完全な街と不完全な人間から生まれる静かな豊かさ——連載「ファッションと社会をめぐるノート」第3回 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
東京の都市像の映像化とその成功

 2023年10月の日比谷は夏のような熱気で、街は外国人観光客が溢れていた。そんな中、カンヌ国際映画祭で役所広司が男優賞を受賞したことでも話題を呼んだ映画『PERFECT DAYS』が、東京映画祭のオープニング作品としていち早く上映された。シートに座って館内が暗くなり、役所広司が演じる平山が小さな古いアパートで目覚めるシーンがスクリーンに映った。平山が木造の六畳間で覚醒するのと同時に私は映画の中に引き込まれた。日本を舞台にした日本語の映画だったが、間違いなくヴェンダースの映像だった。エンドロールが流れる前にこの作品は重要な作品になると直感した。特に日本と海外を往来するクリエイター達にとってだ。なぜなら、2020年代の「東京の都市像の映像化」に成功した作品は無かったからだ。視覚化された都市像は我々日本に住む人が、海外の人とコミュニケーションを取る際の共通言語になる。「あの東京」と言えるようになるから。年が明け、数ヵ月経ってもまだ映画の余韻が残っている。

 『PERFECT DAYS』が映し出した東京は「今の東京」を紛れもなく映していた。役所広司が演じる平山はトイレを清掃する清掃員。スカイツリーの見える東京の東側に小さく居を構えている。そして働くエリアは東京の西側、渋谷区の公共トイレ「THE TOKYO TOILET」だ。平日は目覚ましがなくても早朝に誰かが外で箒を掃く音でいつも目が覚める。ひげを剃り、歯を磨き、植木鉢に霧吹きをかけ、清掃員の格好に着替えて時計や小銭を持って外に出る。現金主義、QRコード決済なんて使わない。車は赤帽車としても使われるダイハツ・ハイゼット・カーゴ。労働者の車だ。朝食代わりの缶コーヒーとカセットテープの音楽をともにしながら、平山は東京の東側から西側に向かう。ダウンタウンからアップタウンへと向かう、東京近郊で生活する人々のリズムのリアルさがここでは描かれている。東と西の都市経済の濃淡のリアルを描くこのシーンは、ロードムービーの名手であるヴェンダースだからこそ、程よい湿度感で切り取られていると思う。朝日に照らされる道路の風景はヴェンダースの作品を知っている人にも既視感がある。1989年にヴェンダースが山本耀司を撮った『都市とモードのビデオノート』でも映る道路の風景だ。

TOKYOという幻影を求めて

 東京で海外旅行者を見かけない日は無くなった。2003年は521万人だった入国者数は2023年には2500万人、20年で約5倍に増えた。コロナパンデミックで落ち込んだ空白期を乗り越え、月間外国人入国者数はついに2023年の年末にコロナ前の2019年の数字を超えたのだ。京都あるいはニセコといった観光名所は外国人観光客で埋め尽くされているが、東京も同様だ。銀座、表参道を歩いているうち半分以上が海外からの旅行者ではないかと思う時がある。円安の状況も手伝ってTOKYOの街に引き寄せられる人は増えた。この外国の人たちが求める東京像とはどんなものだろうか。

 過去に東京の映像化を作り出すことに成功した作品で代表的なのはソフィア・コッポラによる『LOST IN TRANSLATION』(2003)だ。未だに海外の人を魅了するこの映画の作中には、当時の海外から見たTOKYOのカルチャーの断片が映し出されていた。テクノロジー、カラオケ、コスプレ、クラブ、フェティッシュカルチャー、ファッション、音楽、テレビ番組、伝統文化など、一見相容れないカルチャーの記号が街の中で撹拌し織り合わされた、エコノミックアニマルが住む得体のしれないTOKYO像。そこには藤原ヒロシや、DUNEの編集長であった林文浩、ロケハンに関わった野村訓市、HIROMIXなどがカメオ出演している。2003年に発表されたこの作品は、特にヨーロッパとアメリカの人々にとって、真新しさとエキゾチックさが共存する都市を求める人々の心を掴んだ。映画の舞台となったPARK HYATT TOKYOではNIGOが選曲した音源をホテルにリクエストすると聞くことができる。映画公開から20年が経過した今も映画の中で描かれた都市の幻影を追いかけて、この街とPARK HYATT TOKYOを訪れる人々が絶えない。この映画で描写された東京の生活は、渋谷、新宿といった東京の西側のシーンが中心だったことも指摘しておきたいと思う。一方、『PERFECT DAYS』で描かれた東京は誰もがアクセスできるという意味でリアルだ。知り合いがいないと入れないような秘密の東京(Best-kept secret Tokyo)ではない。公園、居酒屋、古書店、コインランドリー、木造のアパート、西側のトイレであり、永遠に終わらなそうな都市計画の途上にある東京の町並みと東西を結ぶ路上の風景だ。それは東京に暮らす多くの人々にとっては珍しくない、一度は触れたことがあるような日常の風景だ。

始まりが映画ではなかったからこそ生まれた映画

 『PERFECT DAYS』のプロデュースと共同脚本を務めた高崎卓馬、そして共同プロデューサーであり映画の資金提供者である柳井康治によれば、この作品は数々の偶然から生まれたものだという。映画の舞台となったTHE TOKYO TOILETは渋谷区に設置された公共のトイレだ。トイレと言えば、谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で、その陰鬱さにこそおもしろみや独特の美があると評したが、読者はどう思うだろうか。THE TOKYO TOILETはトイレの影の部分をスターアーキテクト、デザイナー達によって照らすプロジェクトだ。坂茂、安藤忠雄、そしてNIGOやMark Newsonといった世界的建築家やデザイナーによって作られた17ヵ所のトイレは、ファーストリテイリングの柳井康治のキュレーションによって誕生した。実は、THE TOKYO TOILETのトイレを大切にきれいに使ってもらうにはどうしたらよいかという話について柳井康治と高崎卓馬の両名でカジュアルなブレストをしたことがきっかけとなって『PERFECT DAYS』が生まれたという。映画誕生の詳細については、『SWITCH』2023年12月号の「PERFECT DAYS特集号」に高崎と柳井の対談が掲載されているのでぜひご覧いただきたい(注1)。  

ハリウッドの対岸から制作された映画

 ヴェンダースは何と言ってもロードムービーの名手だ。『都会のアリス(Alice in den Städten)』(1974)、『まわり道(Falsche Bewegung)』(1975)、『さすらい(Im Lauf Der Zeit)』(1976)の三部作、そして、彼を不動の地位に押し上げた『パリ・テキサス』(1984)もアメリカのテキサス州を舞台としたロードムービーだ。そしてこの『PERFECT DAYS』も東京を東西に走るロードムービーである。ヴェンダースはハリウッド映画に対する反骨精神を持つ監督としても知られる(注2) 。彼のインスピレーション源にはハリウッドの対岸から生まれた小津安二郎の映画がある。小津の映画は「真に国際的でありながら、アメリカ的帝国の一員にはならず、独自の帝国を築き上げた」とヴェンダースは熱く語っている。

「ヴェンダース、小津を語る」 /Wenders Discusses Ozu Short Version

 小津の映画作品から筆者は、芥川龍之介の『文芸的な、余りに文芸的な』(1927)に書かれた芥川と谷崎潤一郎との議論を思い出す。小説は筋のおもしろさ、物語の構造が最も重要であるという谷崎の立場に対し、話らしい話のない小説にも強い価値を見出すのが芥川の立場だ。小津の映画は芥川が良しとする要素から成立している。作品は静的で細部までこだわり抜かれたセット、美しいカメラワークから作り出された空気感がある。奇抜なシーンや派手な筋書きは無く、そこに存在するのはテクスチャーの機微の連続的変化から生まれる豊かさであり、それ自体が作品なのだ。そしてヴェンダースはこの小津に影響を受けて映画を制作してきた。そしてこのはヴェンダースの経験を完全な形で日本映画として投影した作品がこの『PERFECT DAYS』だ。

小津の平山、ヴェンダースと高崎の平山

 高崎卓馬は『PERFECT DAYS』の主人公に「平山」と名付けた。この名は小津映画にもたびたび登場するが、高崎によると意図したものではなく偶然だったらしい(注3)。小津の平山で有名なのは『東京物語』(1953)の主人公である平山周吉(笠智衆)、そして『秋刀魚の味』(1962)の平山周平(笠智衆)だ。映画で描写される小津の平山の日常は、当時の日本人にとって当たり前のものだったかのように錯覚するが実はそうではない。60年代も日本はまだ貧しかった。黒澤明の『どですかでん』(1970)は『秋刀魚の味』よりも後に制作されたものだが、貧しく荒んだ街が舞台だ。大島渚の『愛と希望の街』(1959)は小津の『東京物語』と同じく50年代に生まれた作品だが、舞台はやはり荒んだ東京であり、主人公は貧しい子どもだ。同じ昭和でも小津の描く世界は裕福だ。

『東京物語』の平山の息子は開業医や教師であり、『秋刀魚の味』の主人公の平山は丸の内近隣の大手企業の重役で登場人物の多くがホワイトカラーである(注4) 。

(注1)配給会社のBitters Endの公式アカウントではPERFECT DAYSに関わった関係者のインタビューが公開されている。映画と併せて見ると面白い。

(注2)ハリウッド映画といえば銃撃戦、戦争、英雄譚、ラブストーリー、資本主義のどん底とアメリカン・ドリームといった物語の様式だ。それらの多くは実際にアメリカ社会で起き得るシーンである。アメリカ社会の現実がハリウッド映画にリアリティを与えてきたとも言えるが、世界のどの国でもこのようなリアリティを持つかというとそうではない。

(注3)オンラインメディア「後現代 | POSTGENDAI」での高崎卓馬 (『PERFECT DAYS』共同脚本・プロデュース)のショートインタビューの中でこのエピソードが語られている。https://postgendai.com/blogs/postgendai_dictionary/takuma_takasaki

(注4)『秋刀魚の味』は、平山の娘である平山路子(岩下志麻)の縁談が物語に登場するが、ファッションの視点から見ても平山の生活が豊かなことがわかる。実際、この岩下志麻の衣装を手掛けたのは森英恵だった。平山家の調度品も、料亭もさながら『家庭画報』に登場するようなものたちだ。

『秋刀魚の味』のトレイラー(松竹)

 『PERFECT DAYS』の映画の中で、平山の妹が運転手付きのレクサスで登場する場面で、この平山は元来裕福な家の出身で自らの選択で家族と断絶し、東京の東側でひっそりと暮らしていることを我々は知る。もしかすると『PERFECT DAYS』の平山は、小津映画に登場する平山の親族なのかもしれないと筆者は思った。

 トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」と書いた。小津と同時代に作られた映画の多くが、社会問題が燻る世界を舞台とした。しかし、大戦中に徴兵され激動の人生を歩んだ小津が、ある種、幸福な世界を舞台に選んだのは「どれも似たように描かれうる舞台」だからこそ、自分の美意識が特徴的に際立つと考えていたからかもしれない。

 『PERFECT DAYS』の平山は東京のトイレ清掃員という役割を与えられた。彼が住む東京は、小津や黒澤の時代とは異なり、高度経済成長を経た後の東京である。バブル後の経済成長が失われた20年を経た東京はハリウッド的物語が映える場所ではない。この平山の生活を通して、今の東京の忘れられがちな日々の豊かさに気付かされる。平山が植木鉢に霧吹きをかけ、木漏れ日の写真を撮り(注5)、読書しながら眠りに落ち、夢を見る姿を見ると、彼がその豊かさを知っている人だとわかり、静かに平山に同意したくなる(注6)。

オリエンタリズムのまなざしに対峙

 2023年、日本の国家ブランド指数(NBI)(注7)が初めて世界1位になったそうだ。ランキングといったものは個人的にはそこまで意味はないと思うものの、この日本発信の映画が発表された年に世界1位になったのは奇遇である。

 『PERFECT DAYS』は日本のみならず世界中のオーディエンスを惹きつけている。昨年のカンヌ国際映画祭では平山役の役所広司が主演男優賞を受賞し、今年はアカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされた。1月にはイタリアでも興行一位を記録し、つい先日、ロサンゼルスのチャイニーズ・シアターで行われた北米公開前夜のイベントは大盛況だったようだ。

 日本から海外を視野に入れて作品を発表する時には、海外からオリエンタリズムのまなざしが向けられることは不可避で、求められるのは東洋のエッセンスだった。その期待に応えて成功した映画は数多い。前述した黒澤明も、そして裏社会の人間模様を舞台装置として映画を作った北野武もそうかもしれない。日本でニュースになった社会問題を抽出し、海外の人間が解せる形で演出した作品もそうだろう。『PERFECT DAYS』にもそのまなざしが向けられているだろうが、ヴェンダースという外国人監督が撮った東京はそのような過剰な期待を中和することに成功した。

 日本人には舶来主義が染みついている。音楽、文学、映画、ファッションに至るまで、欧米、特にアメリカの文化をオーバードーズ気味に摂取してきたため自然なことではある。その結果、日本のコンテンツの逆輸入による例外を除いて、西洋社会の対岸に住む我々日本人自体が日本生まれのコンテンツを過小評価する奇妙な状況が起こりやすい(注8)。アメリカの音楽や小説を好む平山を見れば、彼も我々と同様、欧米の文化に強く影響を受けてきたことがわかる。制作陣の高崎卓馬や柳井康治という面々もそうだろう。その彼らが、50年近く前から日本の映画に着目してきたヴェンダースと邂逅し、共に今の「東京像」を提示したこと自体、一つの大きな物語だと思う。 

 『PERFECT DAYS』が提示した「東京像」はTOKYOに新たな意味を付与した。我々の知っている東京の風景が世界に流れ、それについて国境を超えて語ることが可能になったことはこの映画の大きな成果だ。ニーナ・シモンの「Feeling Good」が鳴り響く最後のシーンは、平山が運転するワゴン車の車内だ。その車内は東京に限らず世界のどこにでも存在し得る小さな空間だ。その様子は我々を揺さぶる。揺れるのは我々の人生の記憶である。東京を東から西へ走る車のエンジン音を運転席で感じている平山のように、映画館の観客はシート越しに今の東京の振動を静かに感じるのである。

(注5)作中、登場する木漏れ日の映像はドナータ・ヴェンダースによって一部撮影された。またこの映像は 「KOMOREBI DREAMS: supported by THE TOKYO TOILET Art Project / MASTER MIND」の展示で2023年12月22日から2024年1月20日 の間、104 Galleryにて公開された。

(注6)村上春樹は、エッセイ『村上朝日堂』で「小さいけれど確かな幸せ」という意味で「小確幸」という言葉を使う。これは平山の日常に通じる。激しい運動をした後に冷えたビールを飲むことなど、日常の些細な、ただ確実に幸せに感じられることの豊かさを表す。

(注7)対象国の「文化」、「国民性」、「観光」、「輸出」、「統治」、「移住・投資」の6分野で評価するアンホルトGfKローパー国家ブランド指数(Anholt-GfK Nation Brands Index)のこと。2023年に日本が史上初の首位になった。過去のランキングはWikipediaで一覧できる。トランプ政権が誕生する2016年までアメリカがほぼトップを独走していた。https://en.wikipedia.org/wiki/Nation_branding

(注8) 劇中ホームレス役として登場する田中泯の踊りを映像化し編集した『Somebody Comes into the Light』(音楽は三宅純)というショートムービーが公開された。前述の「KOMOREBI DREAMS」展のクロージングイベントにて、田中泯は、古事記に登場する天宇受賣命(アメノウズメ)の踊りについて語った。現代では踊りというと西洋ではバレエに立脚するが、本来はあちこちの少数民族の文化であり、それが植民地支配、時代の流れの結果、滅びてしまった。踊りということに立ち返れば、西洋的枠組みに囚われるのは制約になると彼は言及していた。ヴェンダースのハリウッド映画に対する感覚と通じるものがそこにはある。

『PERFECT DAYS』全国大ヒット上映中
監督: ヴィム・ヴェンダース
脚本: ヴィム・ヴェンダース、 高崎卓馬
製作: 柳井康治
出演: 役所広司、柄本時生、中野有紗、アオイヤマダ、麻生祐未、石川さゆり、田中泯、三浦友和
製作: MASTER MIND 配給: ビターズ・エンド
2023/日本/カラー/DCP/5.1ch/スタンダード/124 分
© 2023 MASTER MIND Ltd.
Webサイト:perfectdays-movie.jp

The post 『PERFECT DAYS』が世界に接続した新たな東京像 不完全な街と不完全な人間から生まれる静かな豊かさ——連載「ファッションと社会をめぐるノート」第3回 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
「沖縄の戦後」と「パレスチナ」——これから世界がどうなるべきか 連載:小指の日々是発明 Vol.9 https://tokion.jp/2024/02/23/hibikorehatsumei-vol9/ Fri, 23 Feb 2024 03:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225126 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義で音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第9回は「沖縄の戦後」と「パレスチナ」について。

The post 「沖縄の戦後」と「パレスチナ」——これから世界がどうなるべきか 連載:小指の日々是発明 Vol.9 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
「沖縄の戦後」と「パレスチナ」——これから世界がどうなるべきか 連載:小指の日々是発明 Vol.9

先々週、私達は沖縄へ行った。きっかけは、オペラシティで開催されていた沖縄の写真家・石川真生さんの展覧会と、その帰りにギャラリーショップで買った『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』(集英社)という1冊のルポルタージュだった。
この本は藤井誠二さんというノンフィクションライターの作品で、これが沖縄の戦後史を非常に緻密に取材されたすさまじい作品だった。無知な私は、この本で初めて戦後の沖縄の苦しみ、というより本土が沖縄に押し付け続けていた問題を知った。私は強烈に「沖縄を見たい、見なければ」と思った。
すると数日後、偶然見た旅行サイトに片道5000円という破格の飛行機を見つけた。半ば衝動的に同行者(夫)の分と往復分のチケットを買い、カバンの中に財布とボールペン、『沖縄アンダーグラウンド』の文庫だけを詰めて早速ブーンと沖縄へ飛んだ。そして、この本の中で語られている沖縄の街と歴史を辿っていったのだった。

那覇空港に着くと私達は高速バスに乗り込み、「キャンプハンセン」という米軍基地のある「金武町」へ向かった。一時間半ほどバスに揺られて金武町の社交街に着くと、横文字の看板ばかりの昔の横須賀のドブ板通りみたいな街並みが目に飛び込んできた。
はじめはちょっとした懐かしさも感じたが、建物はどれもかなり老朽化しており街全体ががらんどうとしている。夜の街だから昼に行っても人はいないだろうと思ってはいたものの、想像していた以上に人の気配がない。ここに暮らす人達は一体どこへ行ってしまったんだろうと不思議になるほどだった。
そこから数百メートル歩いた所には「いしじゃゆんたく市場」というバラック造りの小さな市場があり、そこはさっきの社交街とうってかわって昔の沖縄の空気を凝縮したようなのどかな雰囲気だった。木でできた台の上で南国の果物や野菜、日用品、家具、米軍の服やアメリカの缶詰なんかがフリマみたいに売られていて、その脇でお年寄り達がお茶とお菓子をひろげ、ゆんたく(世間話)していた。東京の私達にとってはどれも目新しいものばかりで見ているだけで面白かったが、その中でも特に度肝を抜かれたのは、ゴロゴロと積まれた見たこともない大きさの巨大やまいもだった。やっと両手で抱えられるほどの重さで、茶色のデコボコした表面にはびっしり逞しいヒゲ根が生えている。沖縄だけに自生する「クーガ芋」という希少種のやまいもがあると噂で聞いたことがあるが、この「クーガ」とは沖縄の方言で『男性の睾丸』という意味らしい。あの形からして、もしかしたらあれが伝説のクーガ芋だったのかもしない。

その後、私達はバスに乗って「コザ」へ向かった。コザとは、沖縄最大の米軍基地・嘉手納基地のある街だ。知人から「まるで外国だよ」と言われて気になってはいたものの、いざ行ってみると外国というより岐阜のシャッター商店街のような歴史と郷愁を感じた。コザ十字路に沿って伸びる広く長いアーケード商店街は店のほとんどがシャッターを下ろし、午後にも関わらずとても暗い。私達の他に歩いているのは、酒を片手に片足を引きずって歩く酔っ払いだけだった。さっきの金武町といい、基地のために作られた場所は時代と共に置き去りにされているように見えた。
商店街を歩いた後は、同行者がかねてから行きたがっていたゲームショップへ行くことにした。同行者はこのゲーム屋が唯一の沖縄旅の目的だったようで、ぜひ行かせてやりたい……と思って行ってみたものの、店の前について私達は言葉を失った。グーグルでは「営業中」と表示されているにも関わらず、店のドアのガラスは破られ、中は散乱し、挙げ句アーケードゲームの台は誰かに殴られたのかバリバリに画面を割られて外の歩道に打ち捨てられていた。
私達は肩を落とし、その日の宿へ向かった。

宿に着いた頃にはすっかり夜も更け、スマホの万歩計を見て私達は驚愕した。なんと、たった1日で23kmもの距離(ホノルルマラソン半周分)を歩いていたのだ。普段運動不足の私達にはあり得ないことだ。そのせいか同行者の足は蒸れに蒸れ、悶絶するほどの悪臭を放っていた。
宿のおじいさんが「どこから来たの」と声をかけてくれたので「東京です」と返すと、和室に招かれお茶を出してくれた。おじいさんの優しさに感激したが、この臭い足で本当に部屋にあがっていいものなのか、バレて人が変わったように怒られたらどうしようとか内心気が気でなかったが、おじいさんが子供の頃のコザの話や興味深い話をたくさんしてくれるのでいつの間にか夢中で聞き入っていた。

私が「商店街はほとんどお店が閉っちゃってますね」と言うと、おじいさんは手を大きく広げ「今日は日曜日だから。あなた達、今度は金曜日か土曜日に来るといいよ。もう、沖縄中のベース(基地)から人が集まって、すごいことになるよ。肩をぶつけないように歩くのが大変なくらい!」と言った。金と土は人が溢れるくらい大繁盛らしく、私達が来た今日(日曜日)はその祭りのあとだったようだ。他の曜日は店を開けなくていいくらい、その2日間だけで充分な稼ぎになるのだという。
このおじいさんは生まれも育ちもコザで、30代から大阪でトラックの運転手をして引退後戻ってきたらしい。だから内地(沖縄以外の県)は全部行った、沖縄よりもよく知ってるよ、と誇らしげだった。私が「今の私と同い年くらいですね」と言うと、「ちょうどその頃に返還されたからね」とサラッと言った。そうか、沖縄がアメリカから返還されたのは1972年。それまでは米国の統治下で内地へ行くにもパスポートが必要だった。返還と共に、おじいさんの日常はずいぶん変わったに違いない。少ししんみりして、「おやすみなさい」と別れ部屋に帰った。

翌日、私達は朝から開いているゴヤ市場の天ぷらとおにぎりを路上で食べながら散策をした。路地を一本入ると古い家屋が増え、東京では見ないようなヤシ科の木、埃っぽい白壁を眺めていると下手な観光名所を見るよりずっと濃い沖縄を感じた。時々、ニワトリのコケコッコーという威勢のいい鳴き声がどこかから聞こえてくる。コザと隣の胡屋という町の路地だけでもニワトリを飼っている家を3軒も見つけた。
しばらく歩き、この辺り懐かしいな、とふと電柱を見たら「照屋」という町名が書いてあった。『沖縄アンダーグラウンド』によると、ここはかつて”照屋黒人街”と呼ばれた特飲街だったとある。当時は歓楽街ごとに、利用する客の人種が分かれていたらしい。石川真生さんもかつてこの照屋のバーで働き、同僚の女性達を写真に撮っていた。私はあの展覧会で石川さんの作品に圧倒されたが、現在の照屋の街は意外なほどに静かで、やさしげな陽射しがさしていた。腰を曲げて歩くおばあさんが、ゆっくりと目の前を横切っていった。

旅先ではその地の銭湯に寄ると決めている私達は、沖縄で現存する最後の銭湯「中乃湯」に立ち寄った。入り口に座っていた高齢の女性が、店主さんのようだ。
浴場ではご近所さんと思われる婦人達が和気藹々とおしゃべりしていて、1人でいる私にまで「どこから来たの? 東京のどこ? 息子が所沢にいるよ」と、声をかけてくれた。結果のぼせて目の前がチカチカしてくるまで雑談の輪に混ざった。ここの湯は天然温泉らしく、まるであんかけのようにとろみがあり肌がすべすべとする。お湯から上がろうとすると「ここの湯は足の裏もツルツルになりすぎるから、床で滑らないように」と私の転倒まで気にかけてくれ、この沖縄の優しさあふれる銭湯をあとにした。

最後の日の夜は、一泊800円の宿に泊まった。8000円ではなく、800円だ。前の宿泊客のゴミも掃除されていない稀に見る酷い宿だったが、座布団みたいに薄べったい布団を2人でお腹に巻き付けているうち気付いたら朝になっていた。この日は「神の島」と言われている久高島に行ったが、その辺りの話はちょっと今回のコラムと大筋がずれてしまうので今度改めて漫画にでも描こうと思う。

私は帰りの飛行機の中で、道中ずっと持ち歩いていた『沖縄アンダーグラウンド』を読み返していた。沖縄でいろんな街を見て回ってからというものの、この本の中にある戦時中や戦後の占領下の様子が読んでいていっそう身につまされた。

<上陸時から米兵は沖縄の民間人に対して傍若無人にふるまい、凶悪犯罪、とりわけレイプ事件を頻発させた>(『沖縄アンダーグラウンド』より引用)
<強盗や暴行致死、クルマで轢き殺すなど、沖縄の人々を人と思わないような犯罪が日々重ねられた。沖縄戦を生き残った人々は、戦後は米兵たちの暴力に怯える日々を送らねばならなかったのである>(『沖縄アンダーグラウンド』より引用)

女性の被害に関する記録は特に、まるで自分の身に起きているかのように恐ろしく、胸が痛んだ。米兵による女性の連れ去りは日常茶飯事だったという。家にいても扉を蹴破られ自宅で襲われ、食べ物をあげるからと基地へ誘き寄せられて襲われ、食料を探しに海や山菜取りに行った先でも襲われ殺害された。”集団で”芋掘りをしている時さえも、女性達は襲われたという。そして、米兵がいくらこれらの蛮行を働いてもろくに処罰もされず闇に葬られた。

私はこの当時の沖縄の話が、頭の中でパレスチナの現状と重なった。
パレスチナ人もまた、ずっと入植者(イスラエル人)に人権を蹂躙されてきた。『ガザとは何か~パレスチナを知るための緊急講義〜』(著:岡真理)によると、イスラエルの不条理な暴力に耐え続けたパレスチナ人が対抗すれば逮捕されてしまい、イスラエルの刑務所に入れられたという。パレスチナ人というだけで子供まで逮捕される。だが入植者はというと、殺人をしても放火をしても逮捕されることはなかった。
ガザ地区が封鎖されてからは、物資の搬入出も制限され、燃料も食料も医療品も入らず、病院では足の切断手術も”麻酔なし”でおこなわれた。汚水処理施設も稼働していないので汚染された水で病気になり、貧困や栄養失調で命をおとしていく。そして今は、広島の原爆の2倍の火薬量に匹敵する爆発物を落とされ虐殺されている。その中でも使用されている「白リン弾」は、国際法では禁じられている非人道兵器だ。そんなものを使って逃げようのない民間人が日々殺されているのだ。
ガザの惨状を、ずっとSNSで見続けてきた。人の体があまりに破壊され尽くすと、人形か石や焦げた木切れに見えてくる。それはおそらく、自分の心が破壊されないようにするための脳の防衛本能だと思う。それでも息を止めて目を凝らすと、その遺体になってしまった人が殺される前は確かにここで生きて、笑ったり悲しんだり、家族や大切な人達と暮らしていた様子が見えてくる。もちろん一度も会ったこともない人だけど、時に自分の身内と重なって頭の中に浮かんでくることもある。
ある日、臓器を抜かれた(臓器売買のため)パレスチナ人の遺体が発見されたという報道を目にした。その時、それまでいた足元が一気に崩れるような衝撃と恐怖を感じた。もしかすると、私も知らず知らずに心を削られていて、こうやって理由をつけて無意識的に沖縄へ逃げたのかもしれない。

私はこれから世界がどうなるべきか、小さな脳みそで自分なりに考えてみた。
おそらくもう「停戦」だとか「人道」なんて言葉では足りなくて、この世界から植民地というものをなくすしかないんじゃないだろうか。虐殺をする国もそれを支持する国も、このままじゃ未来永劫、世界平和など口にする権利はない。

今、「ラファ」というガザ南部の唯一の避難エリアが攻撃を受けている。ここが爆撃されれば150万人が命を落とし、いよいよパレスチナ人は殲滅させられてしまう。
そこで殺されているのは、この旅で出会った銭湯の奥さん達や宿のおじいさんのご先祖様達のような、ただその時代に生まれ、その土地に生きていただけのパレスチナの人々だ。

現実を知ることはつらくて苦しい。できたら、私もずっと自分の世界にこもって夢を見ていたい。だけど、知らないままでいたら声をあげそびれてしまう。未来を変える機会を見過ごしてしまう。生活に追われてそれどころじゃないという人もいるかもしれない、資料を読んだり見聞きして情報を集めることも簡単なことではない。自分の心を守るためにはどうしても直視できないという人もいるかもしれないし、「知らないから教えて」と気軽に聞ける隣人がいなくて孤独と罪悪感を募らせている人もいるかもしれない。だから、私はどんな人でも今の状況を知れるような文や漫画をまた描かなきゃと思った。
そういうことに気づかせてもらうために、きっと私は沖縄に呼ばれたのだ。

The post 「沖縄の戦後」と「パレスチナ」——これから世界がどうなるべきか 連載:小指の日々是発明 Vol.9 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.5 シウダー・イダルゴ https://tokion.jp/2024/02/15/mexico-reporto-diaries-vol5/ Thu, 15 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=223841 写真家の児玉浩宜が思いのままにたどり着いた国、メキシコを縦断した記録を写真とともに綴るフォトコラム。第5弾の都市はシウダー・イダルゴ。

The post 写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.5 シウダー・イダルゴ appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.5 シウダー・イダルゴ

メキシコ最南端の町、チアパス州シウダー・イダルゴ

南米からアメリカを目指す移民の人々。一体、彼等はどのようにメキシコへと渡ってくるのだろう。報道で伝えられるのはアメリカとメキシコの国境のことばかりだ。ネットには海外メディアによるメキシコとグアテマラやベリーズの国境についての情報はある。しかし、匂いや手触りといった現場の雰囲気まではつかみづらい。それを知りたければ人の流れを遡っていくしかない。私達はバスを乗り継ぎ、いくつかの街を経由してグアテマラとの国境に向かって南下した。

街角にはフルーツ売りが立ち、三輪タクシーが通りをのろのろと走る。メキシコ最南端の町、チアパス州シウダー・イダルゴは一見のんびりとした東南アジアの片田舎を思わせる。だが、街を歩くと異様な雰囲気に気付く。人の流れがぞろぞろと続いている。移民の人々だ。国境が近いのだろう。行列の脇に国境警備隊の姿も見かけたが、彼等はただ眺めているだけで何もせずにいた。

旅のパートナーである編集者の圓尾さんと共に、人混みをかき分けていく。急にぱっと視界が明るくなった。国境の川、スチアテ川だ。グアテマラの対岸までの川幅は150メートルほどで、アメリカ国境にあるようなフェンスや鉄条網は見当たらない。茶色く濁った水は流れず静かに漂うだけ。

しかしながら川面はにぎやかだった。いくつものイカダが人々を乗せて行き交っている。乗客は皆リュックを背負ったり抱きかかえている。移民の人々だ。あまりにも堂々と越境する姿に面食らってしまう。運賃は片道わずか20ペソ(約200円)。川は浅く、歩いて渡る人もいる。300メートルほど川下にはコンクリートの橋があった。そこで正式な入国管理をしているようだが、たまにバイクが通る程度で日常的には使われていないようだ。

川岸には洗濯物が干してあり、アウトドア用のテントが並ぶ。川を渡って来た人達が休むのだろう。煮炊きができる簡素な小屋もあった。薪が乏しいのか、プラスチックを燃やす刺激臭が鼻を刺す。裸の子どもが走り回り、疲れ果てた大人達が横たわっている。私達は町へ戻りゲストハウスを探した。どの宿も移民で溢れかえり満室。移民特需があるのだろう。仕方なく町の一番外れにある宿へ向かった。

夕方、食堂を探して町を歩いていると、急に大粒の雨が降り始めた。適当なひさしに入ると声が聞こえた。振り返ると暗がりに先客がいた。ベネズエラからここまで歩いて来たという女性達。手持ちの金がないらしく「ここまでの道中ずっと路上で寝泊まりしていた」という。しばらくすると1人の男性が現れて彼女達を呼び、土砂降りの中へ走っていった。彼女達は今晩どうやって過ごすのだろう。

翌日は晴れ。私達は対岸の街、グアテマラのテクン・ウマンへ向かった。目的地は「移民の家」というシェルター。移民の相談や休息ができる施設だ。対応してくれたシャロンさんは突然訪れた私達に親切に対応してくださった。彼女に一番気になっていたことを質問する。「この川の往来を管理しているのは誰なのか?」私達はアメリカの国境の一部をカルテル傘下のギャングが管理しているのを身を以て知った。私達の質問にシャロンさんは微笑みながら「そんなのいませんよ。通る人が多すぎて国境警備隊も何もしないほどですから」と言った。

スチアテ川へ戻る。対岸にはついさっきまで私達がいたメキシコがある。この川を越え、さらに約3000キロを進んだ先に移民の人々の最終目的地、アメリカがある。眺めてみると確かにこの先に、何か可能性のようなものを感じる。さっきまで対岸にいたことは都合よく忘れ、目前に広がる未知の地への期待をしばらく味わっていたが、イカダの客引きがしつこいので離れることにした。

しばらくするとグアテマラ側の岸辺に4人組の家族が現れた。彼らもまたベネズエラからここへたどり着いたらしい。待ち構えていたイカダの船頭に彼等はおずおずと声をかけた。そのうちの1人、母親だろうか。彼女がイカダに足をかける直前、立ち止まった。両手を広げると口元がわずかに動き、天を仰いで祈った。さらにグアテマラの地元の人も乗り込み、総勢10人が不安定なイカダに身を預けた。

船頭が棹(さお)を握り締めて全体重をかけると、ゆっくりとイカダは進み始める。ベネズエラの一家の表情は硬く押し黙ったままだ。故郷を出て、コロンビア、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、そしてグアテマラへと越境を続け、今ようやくメキシコにたどり着くのだ。橋のたもとに国境警備隊の影がちらっと見えたようだが、動きはない。川面に棹を差す水音だけが聞こえる。

川の中央を過ぎた頃だった。母親が自分のリュックのポケットに手を入れて何かを探している。その後の彼女の行動に私は驚いた。取り出したのはスマートフォンだった。彼女は急に笑顔を作った。そして動画撮影を始めた。自分や家族、周りの風景を写しながらカメラに向かって喋る。彼女はまるでTikTokerのような仕草を続けた。この動画をどうするのだろう。

メキシコ側へ上陸すると、母親は再び天に向かって神に感謝した。そして頬を膨らませ大きく吐息。彼女の名前はライアンさん。喜びを隠しきれない顔をしつつ「パナマのジャングルを数日歩くと炎症を起こして皮膚がただれてしまい辛かった」とこれまでの苦労を話した。「私達は団結する。家族の未来のために。まだまだ先は長いけれど、これは私達にとって偉大な冒険なんです」勇ましく語るその言葉の力強さはどこから湧いて出てくるのだろう。考え込んでしまった私はさっきの動画のことを聞きそびれてしまった。

この一家の他に、新たに到着した若者のグループが川縁に座っていた。そのうちの1人に声をかける。シシリアさん、21歳。「アメリカへ行くの?」と聞くと彼女は「私はグアテマラから来たツーリストよ」と言ったので拍子抜けした。紛らわしいが、そういう人もいるのだろう。彼女達はバイクタクシーに乗って走り去った。

その日の夜、私達は相乗りのバンに乗って町をあとにした。隣の男性は熱心にスマートフォンで動画を見ていた。移民が川やジャングルを越えていく映像だった。彼らはこうやって情報を入手していくのか。イカダに乗った母親の映像もアップロードされるのだろうか。私は試しにInstagramで #inmigrante(移住する)と検索すると、移民の映像の他に、永住権を取得した成功例や米国での移民専門弁護士の広告が無尽蔵に出てくる。煽られて故国を出る人も少なからずいるだろう。画面のスクロールを続けていると、ついつい私も北へ向かい、チャンスを掴みたいと思えてくるのが不思議だ。

昨夜、宿で話した男性を思い出す。「兄がアメリカに行ってる。俺が成功したら次は弟を呼ぶんだ」。彼は兄とはいつもビデオ通話で連絡をとり、アメリカでの生活のことをよく聞かされるという。彼は兄のFacebookを見せてくれた。微笑む男性がベッドに優雅に寝そべる写真があった。ソーシャルメディアでは良い面だけが強調される。成功を羨む気持ちが彼を動かしたのだろうか。現実でも良いことだけがあれば素晴らしいのだが、そうじゃないことも私達は知っている。

深夜発のバスに乗り換え、私達は次の街へ向かった。旅が始まって最大の危機はその道中に起きたのだった。

The post 写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.5 シウダー・イダルゴ appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
世界を魅了するノルウェーのプロダクトデザインの魅力 日本文化からの影響も https://tokion.jp/2024/02/09/charm-of-th-norwegian-product-design/ Fri, 09 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=222998 北欧デザインを代表するトゥーリ・グラムスタッド・オリヴェールのデザイン集『turi』が限定発売した。日本の民藝運動をけん引した作家や日本文化に感化された作品も登場する。

The post 世界を魅了するノルウェーのプロダクトデザインの魅力 日本文化からの影響も appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
Photography Seiji Kondo

(左から)
森百合子
北欧ジャーナリスト、エッセイスト。北欧5カ国で取材を重ね、ガイドブックや旅エッセイ、インテリアやライフスタイルをテーマに執筆。著書には『3日でまわる北欧』シリーズ(トゥーヴァージンズ)、『北欧のおもてなし』(主婦の友社)、『日本で楽しむ わたしの北欧365日』(パイ インターナショナル)等がある。北欧ヴィンテージ食器とテキスタイルの店「Sticka」を運営している。
https://hokuobook.com/

青木順子
ノルウェー語講師、翻訳・通訳、講演会講師。ノルウェー国立ヴォルダカレッジ、オスロ大学に留学。2000年からノルウェーの情報提供を目的としたコミュニティー・サイト「ノルウェー夢ネット」を運営。著書に『テーマで学ぶノルウェー語』『ノルウェー語のしくみ<新版>』『ニューエクスプレスプラスノルウェー語』『「その他の外国文学」の翻訳者』など。訳書に『うちってやっぱりなんかへん?』『わたしの糸』等がある。

シモンフッデレ
デザインスタジオ/出版社 trykkSAK 代表。グラフィックデザイナーとしてアートやデザインにまつわる本の制作を中心に手掛ける。特に本を通じて、現在の社会問題や政治問題について考えさせる機会を増やすのがゴール。陶芸の地としても知られるノルウェーのスタヴァンゲル郊外に事務所を構える。
https://trykksakforlag.no/

トゥーリ・グラムスタッド・オリヴェール(以下、トゥーリ)は、ミッドセンチュリーの時代から活躍してきたノルウェーを代表するアーティストだ。昨夏ノルウェーで、トゥーリが生涯で創作してきた500以上のイラストや写真のアーカイヴ、創作活動を共にした仲間達達とのエピソードや私生活までを綴ったデザイン集『turi』が発売された。著者は、作家兼美術史家のトルン・ラーセン。

11月に同書のデザインを手掛けたノルウェーのデザインスタジオ兼出版社「trykkSAK」の代表、フッデレとシモンが来日し、北欧ジャーナリストの森百合子がオーナーの北欧雑貨店「Sticka」 でトークイベント「可愛いノルウェーへようこそ ~世界を魅了する北欧デザイン、turiの世界」を開催した。通訳、聞き役として、ノルウェー語の翻訳家の青木順子も登壇した。

評判の代表作の裏側にある知られざる苦悩

デザイン集『turi』は、フッデレとシモンが5年かけて膨大な作品や写真を厳選し、当時の話や語られることのなかった葛藤を聞きながらまとめたものだ。あと数冊を出版する計画もあるというほど、人生のエピソードが豊富な作家でもある。

同イベントではトゥーリの社内デザイナー時代まで遡り、その歴史から紐解かれた。ノルウェー南西部のフィッギオにある老舗陶器メーカー「フィッギオ」の代表作である『ロッテ』はトゥーリがデザインを手掛け、1962年の販売後にノルウェー国外でも高く評価され、20年以上ものロングセラーとなった。人気の理由は、物語の1編を感じさせるような愛らしい少女や植物が描かれたデザインにあるのだが、意図的にストーリー性を落とし込んだのではないという。そのエピソードとして、発売当時に熱心なファンから「『ロッテ』にはどのような物語があるのか?」という手紙が「フィッギオ」に届いた時、トゥーリは「物語を綴っているのではなく鳥や花に溢れた夢のような場所を想像して、リラックスしてほしいという思いがあった」と返信したという。

『ロッテ』の海外輸出が本格的に始まった後は、日本やカナダ等、一気に国外での知名度を得た。世界的にブランドが広がる一方、トゥーリは売り上げ優先のブランディングとの葛藤で1975年に「フィッギオ」を去る。人気シリーズの『エルヴィラ』は営業部の反対を押し切って試作品を販売し売上は好調だったものの、社内評価は低かったという。

そもそも、当時のノルウェーにおいて工芸品は美術としての評価は高くなかったが、トゥーリは手工芸品の制作を続けた。「フィッギオ」退社後は地元のアーティスト達と関わりながら、手工芸品の価値向上を目指して多くの作品を制作した。結果、自宅のスタジオで制作したテキスタイルは工芸品として認められた。

また、トゥーリは陶芸家や教師達とともに、フェミニストとして精力的に活動した。同書によれば、ノルウェーの南西部に位置するサンネスは、この活動で多くのフェミニストが誕生した街として知られる。1915年に設立された世界で最も古い女性の平和団体、婦人国際平和自由連盟(Women’s International League for Peace and Freedom, WILPF)のサンドネス支部には、トゥーリが作った「平和の解放(release a peace)」が掲げられている。

日本の民藝との出会い

1978年に初来日したトゥーリは、23人のノルウェー人アーティストとともに、京都で開催された世界クラフト会議・京都国際大会(World Crafts Council)に参加した。同大会には、世界各国から2,400人の専門家とともに25,400の工芸品の展示やセミナー、ワークショップが行われた。当時のトゥーリの日記には、2,000人が参加した庭園パーティのことや陶芸家達と訪れた滋賀県・信楽陶芸村で2トンの粘土とともに歓迎されたこと等が記されている。

来日の一番の楽しみは、日本の民藝運動を担った重要人物の1人、濱田庄司の益子の窯を訪れることだった。工房内の見学許可は下りていなかったものの、濱田の息子がトゥーリ達の手が“陶芸家の手をしている”ことで見学を許されたという。トゥーリにとって、日本の旅で感化されたものは焼物だけではなく、自然への敬意、実用性を踏まえた日本の伝統工芸と職人技にまで及んだ。

この旅で得たインスピレーションが元となり、タペストリー作品「私の日本庭園(Minejapans Bager)」が生まれ、日本をテーマにしたテキスタイルのデザインも行っている。さらには、芸術家の河井寛次郎の自宅を訪問した際に、英字書『We Do Not Work Alone』の詩的な人生観に触発され、自身も「美とは何か でも喜びが見つかった すべての人生の中で(What is beauty But joy found In all of life)」という詩を残しているほどだ。

『turi』制作中の思い出とトゥーリの日本での評価

「trykkSAK」は「『turi』の制作を通して、トゥーリが女性として、デザイナーとして多くの試練を経験したもかかわらず、作り上げるデザインにはそれが見えず楽しい世界が描かれている点にプロ意識の高さを感じた」と語った。トゥーリの創作意欲は現在も衰えず、絵を描くことはやめず、ノルウェー国立博物館で開催したルイーズ・ブルジョワの大展覧会のために「オスロへ行く」と話していたそうだ。さらに制作中の忘れられないエピソードとして、訪れたトゥーリ家では、チャイムが鳴り止まないほど、常に来客があったことを挙げた。彼女の人と会うことが大好きな性格やどんなに苦しくても人を楽しませ、明るい気持ちにさせる社交性がデザインに反映されているのかもしれない。

青木はデザイン集の出版が今回初ということにも驚きつつ、首都のオスロではなく、郊外のサンネスで活動を続けたこととインターネットがない時代にグローバルに活動していた功績を讃えた。また、ノルウェー絵本の翻訳を多く手掛ける青木にとって、ノルウェーと日本とでかわいいと捉えられる絵が異なり、絵本の魅力を日本の読者に伝えることに苦労した経験を交え、日本でも愛されるトゥーリのデザイン性の高さを評価した。

『turi』に寄稿している森は、自身もトゥーリ作品の愛用者で「Sticka」には、祖母や母の代から『ロッテ』を使っているという顧客がたびたび来店しているという。ジャーナリストとして、ヴィンテージアイテムのバイヤーとして、長年北欧を訪れている経験からも「トゥーリの作品は特別な存在」という。その理由は「ノルウェーのデザインは日本ではまだあまり知られていないが、トゥーリの作品に興味を持つ顧客は多く、トゥーリをきっかけに北欧デザインやヴィンテージ製品に興味を持つ人がいる」からだ。「一般的には北欧デザインといえばモダンな家具やシンプルなインテリアをイメージする人も多いが、トゥーリが生み出した自由で、自然に囲まれた愛らしい世界観もまた、日本の人々が思い描く北欧のイメージと重なるのかもしれない」と締めくくった。

The post 世界を魅了するノルウェーのプロダクトデザインの魅力 日本文化からの影響も appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.4 クアウテモック https://tokion.jp/2024/02/05/mexico-reporto-diaries-vol4/ Mon, 05 Feb 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=223083 写真家の児玉浩宜が思いのままにたどり着いた国、メキシコを縦断した記録を写真とともに綴るフォトコラム。第4弾の都市はクアウテモック。

The post 写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.4 クアウテモック appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.4 クアウテモック

色彩が低い集落メノナイト

タクシーの運転手は私達を広大な畑に囲まれた一本道に降ろした。彼に伝えた住所は「カンポ6A」。カンポはスペイン語で「畑」という意味なのでここで間違ってはいない。

チワワ州クアウテモック。ここからさらに奥へ入った辺鄙な場所に「メノナイト」という人々の集落がある。砂利道を進んでいくと家が点在しているが、色鮮やかなメキシコのイメージとは違って色のない建物ばかりだ。「意匠を取り払った建物」「原初的なコンクリート建築」とでも言えば良いのだろうか。簡素な佇まいに、ついミニマリストという現代的な言葉が口に出そうになる。それは私が日頃から現代の物質的に満たされた暮らしをする人間だからだ。メノナイトはそういった暮らしを求めていない。ここでは広告看板も一切見当たらない。

メノナイトとは16世紀の宗教改革に端を発したキリスト教の一派であり、中央ヨーロッパで誕生した。農業や手工業で自給自足に近い、質素な生活を共同体の中で営む。非常に保守的な価値観を持ち、酒や娯楽は禁忌とされ、世俗社会から離れた地域に定住している。あまりに保守的なため自動車ではなく馬車に乗り電気製品を一切使わずに近代文明を拒絶して、19世紀そのままの暮らしを続けるコミュニティもあるらしい。アメリカには同じような生活をする「アーミッシュ」という集団がいる。

メノナイトの歴史は流転の歴史だ。メキシコ・チワワ州に入植したグループは、かつてロシアで農業を営んでいた。だがボルシェビキ革命の影響で農地を奪われ、アメリカやカナダへ移住。その後、北米の近代化が進むと逃げるようにメキシコへ南下した。独自の信仰と理想の暮らしを守るためだ。クアウテモックには1920年代に大規模な入植があったが、メキシコも近代化が進み、さらに南米へと移住した集団もいるらしい。


メキシコへ来て出会った南米からの移民希望者の人々は「自由や金」を信じて「より良い暮らし」を目的に北を目指していた。時代や信じるものは違えど、同じ目的で逆のルートを辿ってきた人達がいることに驚く。それも1世紀も前に。

とはいえ私は彼等についての知識は少ない。実際の暮らしはどうなのだろう。街の中心部には観光客向けにメノナイトの資料館があり昔の暮らしを再現するガイドがいるらしいが、そのようなものに興味が持てなかった(休館日でもあったのだが)ので、この集落へ訪れたのだ。

メノナイトのルーツを示す建物

集落を歩いていると、庭に年老いた白人の男性がいた。いわゆるメノナイトらしい作業着の装いである。彼は猟銃を手にしてこちらをじっと見ていた。部外者である私達を警戒しているのだろうか。聞きかじった下手なスペイン語でとりあえず声をかけてみたが、彼は無言のまま銃に弾のようなものを込めている。緊張感が漂った。焦りつつ発音を変えて挨拶を繰り返していると、男性は困惑した表情で私の言葉を遮った。


「英語で話してくれるかな? スペイン語はわからなくて」彼が流暢な英語を話したので私は脱力して転びそうになった。彼はピーターと名乗った。カナダ出身の78歳の彼もまたメノナイトでここでの共同体の暮らしを求めてきたという。残念ながら耳が遠いようであまりしっかりとコミュニケーションが取れない。彼は庭に飛んでくる鳥を撃っていた。「やってみるか?」と手渡されたのはなんのことはない、ただの空気銃だった。

しばらくして少年2人がバイクに乗ってやってきた。ジョシュアくん15歳とトバイアスくん14歳。彼らが通っている学校もメノナイトが運営している。授業について聞くと「学校でスペイン語、ドイツ語、高地ドイツ語、英語も勉強してるんだ」と言った。彼らは母語の低地(平地)ドイツ語を「ジャーマニー」と呼び、一般的な標準ドイツ語を「ハイジャーマニー」と呼んでいた。外から見るか中から見るかでは視点は逆になる。

道路沿いにガソリンスタンドがあり、真新しい4輪バギーに乗った5人組の若者達がいた。彼等の祖父母達もまたロシアからカナダを経由して移住してきたという。「昔は馬に乗ってたらしいけどね。今じゃスマートフォンだって持ってるし、都会と変わらない暮らしだよ」と言った。彼らとお互いのInstagramのアカウント交換という現代の極みのような交流をした。

他にも家の庭で優雅にホームパーティーをしている家族も見かけたが、どうも彼等の暮らし向きは決して悪くはなさそうだ。あとで調べてみると、農業で成功している一族も多いらしい。むしろこの街そのものが、メノナイトが持ち込んだ酪農産業によって経済を刺激して大きくなったという。

外界から隔絶された農地を求めてここへ入植した信徒の姿を今となっては想像しがたい。だが私は彼等のルーツを示す建物を道路脇で見つけた。電話店だ。メノナイト達が家の中で電話を使うことを良しとしなかった時代の産物だろう。壁にはカナダとアメリカの国旗が誇らしげに描かれている。ここから国際電話をかけていたようだ。故郷の親類と話すことで心の結びつきを保っていたのだろう。

先住民で山岳民族のタラウマラの女性

私達は通りかかったバスに乗りさらに奥にある街へ向かった。派手な衣装を身につけた人達が目に入る。山岳民族である先住民「タラウマラ」の女性達だ。メノナイトの佇まいとは真逆で、原色に染められたふんわりとしたブラウスやスカートは寝間着のようにも見える。

これまで彼女達に何度か声をかけたが、まともに応じてくれる人は少なかった。タラウマラの人々はかつてのスペイン人の征服者から逃げ、山間部の岩穴に隠れるように暮らして伝統的な習慣を維持して生きてきた。近代になって街に下りてきた人々が今でも警戒心が強いのはその名残なのだろう。

街の外れにトラックに乗り込もうとしていたタラウマラの家族がいた。そのうちの頭巾をかぶった1人のおばあさんの衣装がとても気になったので挨拶をすると、おばあさんの娘が「なぜ写真を撮りたいの?」と私に聞いた。私は率直に、彼女の服がとても美しいからですと言った。娘がおばあさんに伝えると、彼女は「仕方がないねえ」というようなことを言いつつ、まんざらでもなさそうな顔をした。そして車からぴょこんと飛び降り、路上に立ち姿勢を正した。

車が去るのをおばあさんの娘が見送ったあと、彼女はスマートフォンを取り出した。そしてWhatsAppの画面を見せて「写真を私に送ってね」と言った。

もちろん場所によるが「昔ながらの暮らし」を期待するのは常に外部の人間であり、ほとんど勝手な理想の作り話のようなものである。先住民の土地の権利問題や、メノナイトと地元住民との軋轢もあるだろう。時には自然や異文化とせめぎ合い、時には移動することによって、彼らはぎりぎりの調和を維持して暮らしているのではないだろうか、などと大仰なことを考えながら私達は翌日、次の街へ移動した。

The post 写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.4 クアウテモック appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
建築家・磯崎新とヒップホップの邂逅——大分市「磯崎新と祝祭の広場」レポート https://tokion.jp/2024/01/18/report-arata-isozaki-and-festival-square-in-oita-city/ Thu, 18 Jan 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=221842 2023年12月に大分市で開催されたイベント「磯崎新と祝祭の広場」についてのレポート。

The post 建築家・磯崎新とヒップホップの邂逅——大分市「磯崎新と祝祭の広場」レポート appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
大分駅から徒歩3分、まさに大分市一丁目一番地に位置する「お部屋ラボ 祝祭の広場」は、晩年の磯崎が発案し、完成まで尽力を注いだ市民のための”みんなの広場”である

東京には空と広場がないーー。
「東京には空がない」と綴ったのは詩人・高村光太郎だったが、
東京、ひいては「日本には広場がない」と言い「広場」の創出に尽力したのが、
一昨年逝去した建築家・磯崎新(いそざき・あらた)だった。

現在、約200以上の高層ビルが建設される「東京大改造」が着々と進んでいる東京都。渋谷の宮下公園が複合商業施設に生まれ変わり街の風景が一変したことは記憶に新しいが、東京都では今なお“100年に1度”の大規模再開発が進行中。日本橋や湾岸地区では外資系企業の誘致を狙う最先端オフィスビルの建設ラッシュに伴って街の再開発が進み、明治神宮外苑や日比谷公園など歴史ある都市公園もその対象になり、樹木の大量伐採や再開発計画に反対する地元住民が署名運動を続けるなど物議を醸している。ただこれは東京都に限った問題ではない。現在、大阪、名古屋、静岡など全国各地で、公園や広場の「稼げる公園化」が急速に進み、都市の公共圏はいま瀕死の危機に直面している。

そんな中、大分県大分市では街の一等地にある公共の広場でストリート文化の祭典が開催された。2023年8月に誕生50周年を迎えたヒップホップカルチャーを構成する4大要素であるDJ、ラップ、ブレイクダンス、グラフィティを網羅したライブパフォーマンスやトークインベントに加え、広場にはスケートボードのランプが設置、地元名物のフードトラックも出店し、市の企画とは思えない充実したラインアップに驚く。全国では規制でがんじがらめになった公園が増えているように、今、こうしたアクティヴィティが屋外でオープンに行える場所はほとんどなくなってしまった。

年の瀬が迫る12月17日に開催されたこのイベントのタイトルは「磯崎新と祝祭の広場」。つまり一昨年末に逝去した大分出身の建築家・磯崎新(1931-2022)の追悼イベントだったのだが、世界的建築家である磯崎新とヒップホップの関連性を意外に感じた人も少なくないのではないだろうか。実は、この広場の誕生に尽力したのが、晩年の磯崎新だったという。異例づくしのイベントを覗いてみた。

「反建築家」が流した涙

磯崎新は「つくばセンタービル」や大分県立大分図書館(現・アートプラザ)、米ロサンゼルス現代美術館など数多くのポストモダン建築を手掛けたが、その一方で「反建築家」との異名も持つ。そこには街中に”物理的な建造物”を超えた何かを目指した姿勢と試みが評価された背景がある。

最初に挨拶したのは生前親交があった演出家の高山明。
高山は思いがけず、この広場の設立に関わった関係者の1人として、その経緯と誕生秘話を披露した。そもそものきっかけは高山が2017年にKAAT神奈川芸術劇場で上演したワーグナー作曲のオペラ『ニュルンベルグのマイスタージンガー』をヒップホップで現代版として再解釈するという意欲的な作品『ワーグナー・プロジェクト』(※1)だったという。

(※1)『ワーグナー・プロジェクト』 ―「ニュルンベルクのマイスタージンガー」2017年10月に横浜 KAAT神奈川芸術劇場で初演後、国内外で上演。民衆による歌合戦を描いたワーグナーによる19世紀のオペラ「ニュルンベルグのマイスタージンガー」をヒップホップで現代版として再解釈。「ヒップホップの学校」と銘打ち、公開オーディションを経た「ワーグナー・クルー」の出演者とともに、劇場を舞台にライブやワークショップなどのイベントを同時多発的に展開。構成・演出は高山明(Port B)。音楽監督は荏開津広、空間構成は小林恵吾。
https://www.wagnerproject.jp/

本作は、もともと16世紀ドイツ・ニュルンベルクの歌合戦という物語を、現代のラッパー達によるラップ・バトルに置き換え、かつてヒトラーをも心酔させた“ファシズム的な集中と求心の手法”で知られるワーグナーの楽劇を、ストリートの視点から描いて返歌したまったく新しい舞台芸術だった。その構想には、1970年代の大阪万博で建築家・丹下健三が手掛け磯崎が設計した「お祭り広場」が前景にあったという。「使う人の用途によって変化する“お祭り広場”のように、中央集権的な舞台ではなく、同時多発的にいろいろなことが起きる舞台を目指した」という高山は、劇場でストリートを創出する演出を手掛け、初日には磯崎を招待してオープンインタビューを行った。この時、磯崎はヒップホップを市民の総合芸術の1つとしてとらえ、市民社会や都市文化に大きな可能性を見出した『ワーグナー・プロジェクト』の斬新な試みをおもしろがり、理解と共感を示していた。

磯崎は、当時既に大分市内で広場を設立するプロジェクトを発案しており、ただ自分自身で広場を設計するのではなく、建築家を広く公募する予定だったが、どのようなコンペにするかを思案していたところだった。磯崎は『ワーグナー・プロジェクト』のラップ・バトルに着想を得たことで、市民の前でフリースタイルで企画のプレゼンをしてもらい、市民が審査に参加できる行程をデザインしていくことになる。

「磯崎さんはその後4日間も劇場に連日通って舞台を観てくださって、現場のスタッフはびっくりしていましたね。しかも楽屋で一緒になった羽藤英二さんと『大分、Yo!』とラップをして遊んでいました。この時に磯崎さんとラップしていた都市工学者である羽藤英二さん、そして(建築や都市設計において)門外漢の僕も、この後『祝祭の広場』建築コンペに審査員として関わることになったんです」。

かくして『ニュルンベルグのマイスタージンガー』はヒップホップのラップバトルとして現代版にアップデートされた『ワーグナー・プロジェクト』を経由し、1970年代に「お祭り広場」を手掛けた磯崎の共鳴によって、コンペという形で歌合戦のエッセンスが継承され、大分の街に「広場」として変貌して再生を果たすことになる。コンペ後の記者会見に出席した磯崎は、嬉しさで感極まっていたという。

「磯崎さんは『日本で初めて正真正銘の広場が誕生したんだ』といたく感動して、涙を流していました。こうした場所は条例文では『公園』になってしまうことが多い中、初めて『広場』して登録されたんだと。僕はその姿を見て、これまで世界的な仕事をしてきた建築家が、これだけピュアに”市民の広場”について考えてきたのか、と感動しました」。

都市における「広場」の重要性

ポストモダン建築の旗手として国際的に活動し「建築界のノーベル賞」とも言われるプリツカー賞を受賞した磯崎。情報都市「コンピューター・エイディッド・シティ」や、地球温暖化や環境問題をテーマにした「都市ソラリス」など、常に時代の先を見つめた都市モデルを発表してきた。その一方で、街における「広場」の重要性を繰り返し訴えてきた。生前「日本には公園はあっても広場はなかった。かつても、それから現在も。だけど広場の需要はある」と発言し「公共の手で広場に近いものを造っていけば、それを広場のように市民は使ってくれるはず。このことについて頭を絞るのがこれから一番重要な都市づくりのポイントではないだろうか」と話している。「公園」と「広場」の違いはなんだろうか。条例上では、土地面積の違いや、ある目的のもと人為的に造られた経緯などが考えられるが、磯崎が見ていた景色は、おそらくそうした違いの先にあるのだろう。

続いて登壇したラッパーのダースレイダーは「建築とは明日の廃墟である」という磯崎の言葉が今も頭に残っているという。「『何を作っても完成した後は廃墟になる。でもその瞬間にワクワクするだろう? それが大事なんだ』と言っていた磯崎さんの思想は、まさにヒップホップと共通していると思いました。磯崎さんは生涯、見知らぬ他者や未知の可能性やワクワクの創出に向けて、常に自分自身を開き続けていた。こうやって広場でリズムを鳴らして踊って、美味しい食べものを出して、人が集まってくるとワクワクが起きる可能性が増えてくる。1秒後に何かとんでもないことが起こるかもしれない。そうした瞬間を日常生活の中でどうやって共有するか、これが磯崎さんがモノを作ることに対するある種の目標だったと思うし、その瞬間を連続させていく、人生というのはそういうものなんじゃないかと教えてもらった気がする」とヒップホップに通じる磯崎哲学を振り返った。

伝説のディスコ「パラディアム」への想い

実際に磯崎がその作品を通じてストリートカルチャーの歴史と接点を持ったのは、1985年のこと。DJでライターの荏開津広はこの日のトークイベントで、磯崎がニューヨークの伝説的なクラブ「パラディアム」の設計を担当したことの重要性について語った。「パラディアム」は古い音楽ホールを改装したクラブで、磯崎が設計し、ジャン=ミシェル・バスキアやキース・ヘリングらのミューラルが設置されたことで知られる。特にヘリングは、この場所で自ら作品の展示やイベントを開催、重要なアート活動の拠点になっていた。荏開津はこの「パラディアム」の設計に、ヒップホップに通じる<磯崎建築>の特異性があることを指摘した。

「磯崎先生は、当時『パラディアム』の設計を引き受けることは『かなり危険な賭けだった』と書かれています。ディスコのように消費的なエンターテインメントを目的とする商業建築は“周縁に位置付けられているもの”で、手を出す類いのものではないと。しかもこれが磯崎先生にとってニューヨークでの最初のデビュー作品になる機会でもありました。そのリスクを理解しつつ、それでも『パラディアム』の建築を手掛けた」と当時の経緯と背景を解説する。

「でも磯崎先生はそこに興味を持ったと仰っています。それは『もはや建築とは呼びにくい』とも書かれていますが、でも、その後にはこう続きます。『私にとってはそれこそが建築だけど』と。『パラディアム』はその後1990年代後半まで続き、自分が訪れた時もNASやパフ・ダディといったストリートのセレブ達がラウンジにおり、メイン・フロアはファンクマスター・フレックスが満場の観客を沸かせていました。磯崎先生の『パラディアム』がストリートに愛されていたことは確実でしょう。同時に、世間に疎んじられていたディスコという場所に『聖なるものの示顕がある』とまで仰っていて、さらに建築家としてのご自分のキャリアのマイナスになるかもしれないリスクを覚悟の上で『パラディアム』を設計した経緯を思うと、やはりストリートを愛してくれた人だったのだと自分は考えています」。

『反建築家』のルーツを育んだ土壌

ハイカルチャーのみならず、市民の生活やポップカルチャーにも同等に目を向けていた磯崎。その気質とルーツは、故郷である大分の土壌で培われたと指摘するのは大分市美術館の菅章館長だ。「磯崎さんは高校時代にデッサンを学んだ画材店のアトリエで、絵画サークルの仲間と共に前衛美術グループ『新世紀群』を結成しています。磯崎さんは当時まだ学生でしたが、リーダー的な存在として活躍し、グループ名の発案者でもありました。過激なマニフェストや前衛的な作風で知られるこのグループは、野外展を行なうなど、大分でも注目されていました。その後、1960年に東京で結成した反芸術的前衛美術集団『ネオ・ダダイズムオルガナイザーズ(ネオ・ダダ)』も、主なメンバーは吉村益信、赤瀬川原平、風倉匠など、大分の『新世紀群』出身者が中心でした。活動拠点は吉村のアトリエである新宿ホワイトハウスで、これも磯崎さんの設計です。建築家としての磯崎さんが唱えた『反建築』という廃墟の思想は、『新世紀群』や『ネオ・ダダ』のラディカルな破壊の精神に、そのルーツがあるといえるでしょう」。

そのラディカルな姿勢や作品を支えたのも、大分の市民だった。
今回の追悼イベントが開催された広場は、大分駅から徒歩3分という街の中心部に位置する。もともとは商業施設が建っていた場所で、ビルが閉鎖した後、市民のための広場を作るため、2017年に大分市が土地を買取り、磯崎は総合アドバイザー兼選考委員会の特別選考委員に就任。「公園ではなく広場であることが重要」というコンセプトのもとコンペを開催し、2019年9月、可動式屋根が付いたステージや芝生広場、移動式植栽コンテナ、駐輪場やシェアサイクルの貸し出しポートを備える約4,310平方メートルの広場が完成した。「祝祭の広場」を命名した名付け親も磯崎だった。

街の中心部に、これほど広々した市民の広場がある光景はめずらしい。当日遊びに来ていた市役所や関係者の方々に話を聞いてみると、大分市役所は前例のないプロジェクトに官民一丸となって取り組んで実現にこぎつけたようだ。当時まちなみ企画課の担当職員としてプロジェクトの立ち上げに関わった武安高志は「前代未聞のプロジェクトでした。例えば、地元住民への説明会や選考委員会の会議も市役所の会議室で行うのが常ですが、磯崎さんはそうじゃないんです。選考委員会では、机と椅子を取っ払って、市役所の職員も磯崎さんも地元の人達も、車座になって何時間も話し合いました」と振り返る。さまざまな立場の人を巻き込んだプロジェクトの過程そのものも「広場」の重要な一部だったのだろう。

「私の作品は、私の作品であって私の作品ではない」

今回の追悼イベントのコーディネーターを務めたナリトライダーは、広場のコンセプトを伝えることを念頭にプログラムを検討したという。

「まずは若い人達に、公共の広場というものは自由な場所で、誰でも何でもできる場所なんだよということを知ってもらうことが大事だと思いました。ゲツマニぱん工場のJohnなど若いクリエーターに声をかけたり、ブレイクダンスだけでなく、ヒップホップダンスのパフォーマンスも取り入れました。大切なのは続けていくこと。この後、運営側の僕達がいなくなっても、この広場や磯崎さんの考えが、次の世代に継承できたらと思っています」。

また高山が「ヒップホップの人達は街の使い方が上手い」と言っていた言葉を受けて、都市の見方や使い方に長けたスケートボードも取り入れることに。「近年スケボーが文化ではなくスポーツとして消費される状況に疑問を持っていました。ただスケートボードを入れると、どうしても当日ケガや事故のリスクが上がってしまいます。だけど広場はみんなのものだと感じられる場所になることが重要だと思っていたので、会場には常に余白をつくって、人と人との交流が生まれるようなレイアウトを工夫しました。大分スケートボード協会の相原フランシスコ良和会長に協力してもらって、安全面には最大限気を遣いつつ、動線を何度も再考しました」。

ナリトライダーに「今回の追悼イベントを振り返って、嬉しかったことはなんですか?」と尋ねてみると「ぜひこれを見てください」とInstagramの投稿動画を見せてくれた。「この動画を見たらイベントをやってよかったなって、すごく嬉しくなったんですよ」。

@spin_cats_kou / kousei提供

「このベンチは広場を訪れた人達が座れるように設置していたもの。広場にはランプも設置していたので、多くのスケーターはその場所で滑っていましたが、彼はベンチを障害物に見立てて、それを乗り越える形で、新しい技を生み出している。滑走中に体だけジャンプして障害物を飛び越えて着地するヒッピージャンプという技がありますが、その応用でベンチを駆け上がるという新しいスタイルですね。スケボーは技術の上手さだけではなく、アティチュードが重要。彼は大分市の若いスケーターなんですけど、この動画を見て、街を自分達のものとして乗りこなしていく、次世代のエネルギーや可能性を感じました」。

最近では全国各地の公園は、規制でがんじがらめになるか、もしくは商業施設化の二極化が進んでいる。そんな中、この「祝祭の広場」では、火を使った飲食や音楽、ダンス、トーク、グラフィティやスケボーを楽しむ人達の姿が見られた。あたりまえの風景のように見えるが、実は今こうした広場を日本で見ることはとても難しくなってしまった。でも市民の中で、クリエイティヴィティやコミュニティがあれば都市における「みんなの場所」が生き残る可能性はまだ残っているのだろう。

生前の磯崎から「君は上手い。バスキアみたいだ」と賛辞を送られたグラフィティライターのSNIPE1は追悼ミューラルを制作して広場の舞台に設置したほか、市民にタギング講座を行った。「今回は一日限りでしたが、本当に感慨深い日になったと思ってます。“磯崎新イズム”はグラフィティという媒体で自分が継続する!と決心した日でもあります」。

この広場のプロジェクトの立ち上げに関わった元市役所職員の長野保幸は、この日の追悼イベントの現場でこう話してくれた。

「かつて大分市役所の隣には磯崎さんの初期の作品である旧大分県医師会館があったのですが、取り壊されてしまったんです。当時、私は建物の保存運動にも関わりましたが、結局保存はできなかった。けれど、その時に磯崎さんは『私の作品は、私の作品であって私の作品ではない』というようなことを仰っていたんです。あの建物は解体されてしまいましたけど、その一方で、いまこの広場を通じて磯崎さんの思い描いていた街が実現しようとしている。不思議で、感慨深い気持ちです」。

(文中敬称略)

The post 建築家・磯崎新とヒップホップの邂逅——大分市「磯崎新と祝祭の広場」レポート appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
たまに恋しくなる人間のエナジー 連載:工藤キキのステディライフVol.6 https://tokion.jp/2024/01/16/kiki-kudos-steady-life-vol6/ Tue, 16 Jan 2024 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=221569 工藤キキがコロナ禍で見出した、ニューヨークとコネチカットのデュアルライフ。連載第6回。クリエイティブな友人の来訪は田舎暮らしの大きな楽しみの1つ。

The post たまに恋しくなる人間のエナジー 連載:工藤キキのステディライフVol.6 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
ライター、シェフ、ミュージックプロデューサーとして活動する工藤キキ。パンデミックの最中にニューヨークシティからコネチカットのファームランドへと生活の拠点を移した記録——ステディライフを振り返りながらつづる。

ニューヨークに住み始めた頃に驚いたことの1つが、休日やホリデーはシティから離れたいと考えている友達が多かったことだ。都会の喧騒とはいえ、歩いているだけで楽しくて刺激的なニューヨークから一瞬でも離れたいってどんな心境なんだろうと当初は思ったけど、まさにシティの喧騒にもまれてみたらよくわかる。緑や新鮮な空気、サイレンス、自然に身をゆだねることがシティでのソーシャル疲れを一瞬で吹き飛ばし、またシティが恋しくなる。

ニューヨーク州は案外大きくて、マンハッタンから北西に向かうとほとんどが森林とアメリカの典型的な郊外の風景が広がっている。マンハッタンから車で1、2時間も走れば、アップステートと呼ばれるニューヨークの田舎でハイキングや天然のプールを楽しむこともできる。私も来たばかりの頃に友人に連れられて、誰かのセカンドハウスに行ったり、ファーマーズマーケットで取れたての野菜にうっとりしたり、サウナ付きのレンタルハウスに泊まったり。グランドセントラルからバスでウッドストックに住む友人達の家に遊びに行くことで、シティの喧騒から一瞬逃れていた。

コネチカットの家もニューヨークからは車で2時間なので、週末になるとニューヨークから友達が遊びに来ることも多い。真冬は雪深くなるのでそんなにアクティブに遊べないけど、夏は湖で泳いだり、春や秋はたくさんあるハイキングコースを片っ端から歩きまくったりすることも。とはいえ、平日だとブライアンは起きた早々から音楽やアニメーションを作っているし、私もケータリングのプランや家のことで時間が過ぎてしまうから、週末に友達が来訪する際は、こんなに近くにある自然の素晴らしさを再確認することができる。一緒に山を登ったり、泳いだり、音楽を作ったり、ご飯を食べたり、料理のインスピレーションをくれる来客は非常に嬉しい。気がつけばニューヨークの友達以外にも、イビザ、ミラノ、パリ、コスタリカ、LA、日本からのアーティストやミュージシャンの友達がステイしていて、私達もクリエイティブな時間を過ごせる友達がここまで来てくれるのは、田舎暮らしの大きな楽しみの1つだ。

今年初めて家でパーティらしいパーティをしてみた。ニューヨークに引っ越してきた早々に知り合ってからずっと仲良くしている、出会った当時は「アメリカンアパレル」のクリエイティブディレクターだったアイリスが立ち上げたエシカルブランド「EVERYBODY.WORLD」のパーティ。ブライアンは“Pond”ショーツ、私は“Lake”パンツと名付けたコントリビューターコレクションのローンチイベントだった。2度目のコラボだが、1年かけてLAチームとサイズ感を往復書簡のように交わしてデザインし、フィット感は大満足の仕上がりになったと思う。友達をモデルにしたローンチパーティの様子をプロモーションに使いたいということで、ニューヨークから呼んだ友達やコネチカットのネイバーをゲストに、流しそうめんパーティをやることにした。

話は飛ぶようで、またアップステートの話に戻るのだが、もう1つコネチカットで再現してみたかったことが流しそうめん。2012年にアップステートで開催したアーティストキャンプ「The Last weekend 」にコントリビューターとして参加した時、ニューヨークで竹を買うところから初めて作った(!)通称“フローイングソウメンパーティ”または“バンブーヌードルスライダー”をコネチカットの家でやりたかった。正直、日本にいた頃でも体験したことがなかった流しそうめんだったけど、思いがけず美しいバンブースカルプチャーができ上がり、流れる麺をキャッチして食べるというストレンジなイベントに参加者は喜んでいたので、それをまた作れる機会ができたのにはわくわくした。またしても竹をオンラインショッピングで買うところから始まり、節を削ったり、ヤスリをかけて滑りをよくしたり。ブライアンにも手伝ってもらって、家のガーデンに再現できた時の達成感。当日は、ブルックリンのクールなマッシュルームカンパニー「Small Hold 」がスポンサードしてくれたフレッシュで美しいマッシュルームで天ぷらを作ったり、家で取れたトマトやきゅうりなどを薬味にしながら流れるそうめんをキャッチしながら食べたり……ローンチパーティを楽しんでもらえたからよかった。

流しそうめんのあとは、みんなで近くの湖に泳ぎに行った。アンダーウォーターカメラマンのハサンが、“Pond”ショーツ“Lake”パンツで泳ぐ私達の姿を水中撮影してくれたり、ブライアンがパーティの様子を撮影とディレクションしてくれたり、コネチカットの夏のストレンジな風物詩を美しいプロモーションビデオとして残せたのが最高だった。ちなみにそのローンチパーティの様子が『VOGUE』のオンラインに載ったので、よかったらチェックしてみてください〜。

The post たまに恋しくなる人間のエナジー 連載:工藤キキのステディライフVol.6 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.3 サマラユカ https://tokion.jp/2024/01/11/mexico-reporto-diaries-vol3/ Thu, 11 Jan 2024 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=221568 写真家の児玉浩宜が思いのままにたどり着いた国、メキシコを縦断した記録を写真とともに綴るフォトコラム。第3弾の都市はサマラユカ。

The post 写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.3 サマラユカ appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.3 サマラユカ
写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.3 サマラユカ

広大な砂漠に囲まれた街

シウダー・フアレスから国道を50キロほど南下すると、サマラユカという町がある。砂漠地帯に囲まれているこぢんまりとした町だ。通りに沿って数えるほどの雑貨屋や自動車の整備工場が並んでいるだけの少し寂しげな町だ。

空腹だったので1軒の食堂を見つけてドアを開けた。店内は薄暗かったが、奥のカウンターでは従業員の女性達が山盛りのコリアンダーを刻んでいる。私はハンブルゲサ(ハンバーガー)とコーラを注文した。他に客は家族連れが1組しかいない。なのに従業員のおばさん達は5人も6人もいて忙しく調理をしている。話しかけると「今日はお祭りだからね、たくさん客が来る」と浮き足だったような口調で言った。私はすっかり目的を忘れていたが、明日はメキシコの独立記念日なのだ。首都メキシコシティでは今夜は盛大な花火が上がり大騒ぎになるだろうが、騒ぎは面倒なのであえてこの小さな町に来たのだ。今夜は町の広場でささやかな前夜祭が開かれるという。

「近くに砂丘があるらしいんですよ。聞いた話ですけど」旅を共にする編集者の圓尾さんが言った。Googleマップを確認すると、町の東側に巨大な砂漠地帯がある。距離を見れば歩いて2時間ぐらいか。砂漠にある町からわざわざ砂丘見物に歩いて行くのはどうかしてると思うが、祭りまでにはまだ時間がある。私達は向かうことにした。

町を出て砂漠を歩く。乾いた砂利にぽつぽつと灌木やサボテンが生えた景色が果てしなく続いている。強烈というよりは凶暴な太陽ががんがんと皮膚を焼き、滝のように汗を垂らす。私はすぐに後悔しはじめた。

ウクライナでも広大な土地を歩いたことがあった。もっと肥沃で粘り気のある土で、雪解けのあとを歩くと泥がぶらさがるように靴底に張り付いた。あの時は少し草むらに入るのもかなり躊躇した。地中に地雷が埋まっていたり不発弾が残っていたりするからだ。ウクライナ軍の兵士は「絶対に道の真ん中を歩け」としつこく繰り返していた。今でもその恐怖心が残っていて、道を外れて歩くとつい足がすくんでしまう。今は全く違う土地にいると頭ではわかっているのに、体に残った記憶を引きずっている。

遠くに畑が見え、スイカやズッキーニといった瓜科の野菜を収穫している男達がいた。私達に気付いた1人が転がっていたスイカを拾いあげてポケットからナイフを取り出す。脇に停めていた車のボンネットにスイカを置き荒々しくぶった切った。断面はみずみずしくメキシコの太陽を反射させた。「食ってみろ」ということらしい。ありがたく口に入れる。味は日本のものよりややあっさりしているが、水分が豊富で口から汁がこぼれ落ちる。なぜ砂漠でこんな作物がつくれるのだろうか。彼らは私達の姿を満足げに眺めた。その中に中学生ぐらいの少年がいたので話しかけてみたが、恥ずかしそうに微笑んだあと、うつむいて黙々と作業に戻った。彼らに今夜の祭りのことを聞くと、当然のように知っていた。

さらに砂漠を歩いた。多少の起伏はあるが、いくらも景色が変わることはない。スマホのGoogleマップだけを頼りに歩く。日焼けで肌がヒリヒリするが、さらに追い討ちをかけるような衝撃的な痛みを足に感じた。トゲである。そこら中に乾き切った低木の枝が落ちており、その枝にあるトゲが靴底を貫いて足の裏に刺さるのだ。東京の量販店で買った税込1900円の靴はウクライナの荒地でも頑張ってくれていたのだが、所詮は安物。履き潰して靴底がペラペラだ。靴下を脱いでみると足の裏に血が滲んでいた。泣きそうになりながら靴底のトゲを抜き、いばらの道をまた歩く。ウクライナの地雷とメキシコのトゲでは天地雲泥だがそれでも辛い。

靴底のトゲを幾度も抜きながらたどり着いた砂丘は、水を抜き切った海の底のようだった。高い砂山があるかと思えば、極端に深く沈む場所がある。それがどこまでも続いている。しかし感動というよりはどうも落ち着かない。茫漠とした景色を見つめても視点が定まらないのだ。いったいどのくらい広いのか想像もつかない。私達がいるのはまだ砂丘の入り口でしかない。試しに丘を1つ越えてみると、砂丘の彼方に鉄塔と送電線があるのが遠くに見えた。なにもこんなところにまで。人間というのはすごい。足元を見ると、ビールの空き瓶が1本転がっていた。こんなところにまで。人間はすごい……。思わぬ発見で嬉しくなった。

メキシコ独立記念日前日の前夜祭

夕方、町に戻ると昼間の寂れた雰囲気とは一転して華やいでいた。男達が冷やしたビールを続々と運んでくる。無邪気に走り回る子どもを追いかける母親。広場には明かりを煌々と放つ出店が並ぶ。どこか懐かしさを感じていると、突然、警笛が聞こえた。広場の脇にある地平線まで続くレールの上にヘッドライトを灯した列車が見えた。シウダー・フアレスで出会った南米からの移民希望者達が乗ってきたという貨物列車だ。屋根の上や連結部分に男性、女性、子どもが乗っていた。このままアメリカ国境まで向かうのだろう。列車から「VIVA MEXICO!」と叫ぶ者がいた。手を振り返す地元の人。地元で祭りを楽しむ人々と、故郷を出て列車に飛び乗った人々が交錯する瞬間の風景があった。

列車が過ぎ去り、すぐに祭りの喧騒が戻る。音楽が始まり、地元の人達がすぐに踊り出してその輪が広がっていく。メキシコ北東部モンテレイで偶然出会った客に魅せる踊りではなく、これは純粋に楽しむための踊りだ。派手さはないが体を揺らし和やかに興じている。昼間に見かけた畑で農作業をしていた少年の姿もあった。彼は同い年ぐらいの女の子と身をくねらせていた。スイカを運んでいた彼とは全く違う、凛々しい顔つきだった。

祭りを撮影したあと私達はヒッチハイクでシウダー・フアレスまで戻れるのではと都合よく考えていた。だが深夜2時を過ぎても踊りは続き、帰ろうとする車がない。町にはホテルもなく、野宿をするしかない。寝袋がわりにリュックに詰め込んでいた服をすべて着込み、広場の隣にあった建物の影に寝転ぶ。自分の見通しの甘さが嫌になったが、独立記念日の夜にこの小さな町で野営するのも悪くないはずだ。

朝6時頃に目が覚める。圓尾さんは寒くてほとんど眠れなかったようだ。誰もいなくなった広場にはゴミが散乱していて野良犬がエサを漁っていた。犬と同じく私達も腹が減っていたので昨日の食堂に顔を出す。昨夜はこの店も遅くまで繁盛していたのだろう。店内には客達が立ち去ったあとの余韻が漂っていた。従業員のおばさん達に昨日のような笑顔はなく、ひたすら眠そうに仕事を始めていた。

Photography Hironori Kodama

The post 写真家・児玉浩宜がウクライナを離れてたどり着いた場所 メキシコ・ルポダイアリー Vol.3 サマラユカ appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>