インタビュー Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/interview/ Tue, 31 Oct 2023 04:35:07 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png インタビュー Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/interview/ 32 32 アートコレクター笹川直子が語る「ビジネスにも通じるアートの魅力」 https://tokion.jp/2023/10/31/interview-naoko-sasagawa/ Tue, 31 Oct 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=214295 アートコレクターでビューティ企業の代表としても活動する笹川直子が語る「アートとビジネスの関係」。

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笹川直子

笹川直子(ささがわ・なおこ)
株式会社クィーン代表取締役 / アートコレクター。山脇学園女子短期大学英文科卒業。野村総合研究所リサーチ&コンサルティング本部勤務ののち、結婚退職。IT系企業での経験を経て2000年に株式会社クィーンを設立。2005年にナチュラルヘアケアブランド「ウルオッテ(uruotte)」を発売し、今に至る。 現代アートに魅せられ20歳からコレクションをスタート。出産&育児で一時中断するも執念でコレクションを再開。ライフワークであるアートと美容ビジネスの接点を探りつつ、アートのある人生を楽しんでいる。

アートコレクターの笹川直子は20歳で初めてアート作品を購入し、以降も数多くのアートコレクションを続けている。一方で、自身の会社で2005年にナチュラルヘアケアブランド「ウルオッテ(uruotte)」をスタートするなど、ビューティ企業の代表としても活動する。今年4月には空山基とコラボしたアイテムを発売するなど、アートに造詣が深いからこその商品を開発している。今回、アートとビジネスの関係について、話を聞いた。

——笹川さんがアートに興味を持ち始めたきっかけを教えてください。

笹川直子(以下、笹川):母が美術大学出身で、もともと家にユニークな品が飾ってあったりしたので、子どもの頃からアートには興味はありました。高校生になってから母の友人が経営していた「鎌倉画廊」に遊びに行くようになり、アートって買えるものなんだと知りました。それで1989年、20歳の時に「鎌倉画廊」で、アーティストのクロード・ヴィアラさんの展示をやっていて、そこで初めてアート作品を購入しました。

——以前のインタビューで、それが100万円を超える作品だったと話されていました。

笹川:まだ1年目の会社員だったんですけど、バブル期で、みんなが車を買ったり海外旅行に行ったり、ブランドのバッグを買ったり、散財していた時代でした。そんな時代の雰囲気もあり、思い切って欲しいと思ったものを購入しました。

その記念すべき1点目の作品は今でも大切に持っていて、去年、高知県の「すさきまちかどギャラリー」でコレクターの友人との合同コレクション展で展示しました。サイズがかなり大きくて、家に飾ることができなかったので、改めて展示されているのを見て、いい作品だなと思いました。

——そこからアートをコレクションしていくんですか?

笹川:そうですね。週末はいろいろなアートギャラリーを見てまわって楽しむという感じでした。ただ1990年代は、まだ現代アートが今ほど高くなくて、中には自分でも買える作品もありました。蔡国強のインスタレーションが考えられないほどの価格で入手できたりもして。他にも森山大道さんの作品なども購入していました。

それから私が1999年に出産して、そこから10年くらいはコレクションにブランクがあります。それで2000年代終わり頃からまたアートコレクションをするようになりました。

——笹川さんが作品を購入する時のポイントは?

笹川:強いていえば、どのくらい真剣に制作と向き合っているのか、何か新しいことをやろうとしているか、でしょうか。あとは好みと、タイミングです。私は作家と話して作品のことを知って購入したいのですが、若い時は作家に話しかけるのを遠慮していたんです。でも作品について聞くと意外と喜んで話してくれるんですよね。だから、気になる作家には作品について聞いてみるといいですね。

——今回、いくつかお気に入りの作品を持ってきていただきました。

笹川:応援の気持ちもあって購入している、若手作家の作品をお持ちしました。糸目友禅染めという日本独自の技法を使っている石井亨さんやパリ在住の田中麻記子さん、板坂諭さん、エヴァン・ネスビット(Evan Nesbit)さん、玉山拓郎さん、大久保紗也さんなど。板坂さんは「ウルオッテ」のパッケージデザインも手掛けてくださる建築家ですが、作家活動もされています。

——特に好きな作家さんはいますか?

笹川:思い出深いのは、この前まで「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」で開催していた展示「中園孔二 ソウルメイト」に作品を貸し出ししていた、中園孔二さんですね。キャンバスで縦、横2m50cmほどある作品で、最初の個展の時に購入しました。大きすぎて倉庫に入れてあり、なかなか見る機会がないので、美術館の会場で見られて嬉しかったです。

中園さんは音楽もやっていて、初個展ではヴォイスパフォーマンスもされたり。純粋な人でしたね。26歳で亡くなるまでの短期間に約500点と多くの作品を遺しています。 

アートとビジネスの関係

——笹川さんが考えるアートの魅力は?

笹川:アートがおもしろいのは、見て美しい、圧倒されるなど感情を揺さぶられる体験ができること。また、作品を通して既存の考えや常識にとらわれず、想定外の発想やものの見方、価値観を学べるところにもあると思います。平たくいうと「ぶっとんだ発想」みたいなものです。

ここに、ビジネスでいうところのイノベーションにつながるヒントが隠されている、と感じることもあります。一見するとどう解釈してよいかわからない作品も多いのですが……。

——確かにぱっと観ただけだとわからない作品も多いですよね。

笹川:そうですよね。でも作家やギャラリストに「どうしてこういう作品をつくったのか?」「何を表現しているの?」と聞いてみたらいいですよ。「なるほど!」「へぇ~!」と、新鮮な驚きと感動をあじわえることがよくあります。

——そういうアート好きなことがご自身の今の仕事にも生かされていますか?

笹川:私も商品を作るのに人と違ったことをやりたいと思うタイプで、売れるかどうか、儲かるかどうかよりも自分はこれがつくりたいっていう思いのほうを優先したものづくりをしています。

2005年にヘアケアのブランドを立ち上げた時も、アレルギー家系で自然食と石鹸シャンプー育ちだったのですが、自然派でもっと使用感のよいシャンプーが欲しいと思って自らつくったのが始まりです。当時子育て中だったので、あまり手間をかけずに1本で完結するシャンプーを開発しました。その当時からプラスチック削減や節水など、社会との関わりも意識して、環境に配慮したものづくりを心掛けていました。

——アーティストとのコラボもやられていますよね。

笹川:2018年に田中麻記子さんとコラボしたのが最初で、白髪の一時染めをする商品“リタッチヘアマスカラ”のキービジュアルを描き下ろしてくれました。2020年以降は榎本マリコさんにキービジュアルをお願いしています。

あと、2020年11月に「ウルオッテ」のリニューアルを建築家でプロダクトデザイナーの板坂さんにお願いしました。板坂さんはアーティストとしても活動している方で、このパッケージのグラデーションは日本の四季の移ろいを表現しています。塗装しているので、ごく微妙なムラも発生しますが、そこには多様性を許容するというメッセージがあります。

——今年の4月には空山基さんともコラボしました。

笹川:そうですね。空山さんとはアートギャラリーの「NANZUKA」さん経由で2015年か16年に知り合って、いつかご一緒に仕事したいなと思っていました。それで2年ほど前にコラボさせていただける奇跡に恵まれて、受けていただけることになったんです。そこから試行錯誤して、2023年の発売になりました。そしたら空山さんの個展(「Space Traveler」)のタイミングが重なって。テーマも宇宙旅行でリンクしていたんです。

——テーマが同じだったので、もともとタイミングを合わせるようにしていたのかと思っていました。

笹川:全然違うんです。商品のほうは、本当はもっと早く出す予定だったんですけど。すごい香りやパッケージにこだわって。もともとコスメの大量生産、大量消費、大量廃棄へのアンチテーゼとして、違う価値観をどう提案していけるかを考えて今回は「体験を提供していきたい」と思いました。香りで無重力を表現しているので、テーマが「宇宙旅香」なんです。

——空山さんにはどのような要望をしたんですか?

笹川:要望というのはおこがましく。空山さんが作りたい世界観があって、クリエイティブチームはそれを大切に進めました。

空山さんご自身も、イラストをただプリントするだけのコラボは望まれていなくて、何か「全く新しいチャレンジ」が必要でした。なので、今回一緒にものづくりができたのはすごく楽しかったですし、空山さんも商品にはとても満足して喜んでくださいました。

——今後も他のアーティストとのコラボも考えていますか?

笹川:そうですね。コスメは新しいブランドが出ては消えてゆくレッドオーシャンの世界で、売れているものの二番煎じ商品も多いと感じています。わが社は、シンプルケアの自然派コスメというブランドの核を守りつつ、アーティストとともに、他社が真似のできない新しい価値を提案していけたら、と思っています。

Photography Kohei Omachi(W)

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連載「The View My Capture」Vol.17 写真家・カクユウシが見る「後ろ姿」の向こう側にある微かな光たち https://tokion.jp/2023/10/30/the-view-my-capture-vol17/ Mon, 30 Oct 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=213012 観察対象の全体像が見えず五里霧中の状態でも、その輝いている視線に照らされた先から滲み出る微かな光をかき集めれば、ボヤけていたはずの後ろ姿の向こう側をイメージすることができる。

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気鋭の若手写真家を取り上げて、「後ろ姿」という1つのテーマをもとに自身の作品を紹介する連載企画。後ろ姿というのは一見して哀愁や寂しさを感じられることが多いが、見る対象や状況によっては希望に満ちたポジティブな情景が感じられることもある。今回は、グラフィックデザイナーを経て、広告制作会社に勤めながら個人の作品を制作する台湾出身の写真家・カクユウシの作品。観察対象から滲み出る微かな光をかき集めることで、見えてくる「後ろ姿」の向こう側とは。

カクユウシ
台湾出身。グラフィックデザイナーの活動を経て来日。
日本写真専門学校卒業後、現在広告制作会社に勤務しながら個人の作品を制作している。
Instagram: @y.kaku.u
https://kakuyushifoto.wixsite.com/portfolio

背中の向こう側

いつも何かの憬れを精一杯に追いかけている。

けれどもそれはあまりにも高くそびえる存在であって、全体像を掴むこともできず近づけば近づくほどボヤけて曖昧になり、徐々にわからなくなったり、見失ったりして途方に暮れる。

全体像が見えず五里霧中の状態だけど、その輝いている視線に照らされた先から滲み出る微かな光をかき集めれば、次第に後ろ姿の向こう側をイメージすることができる。

そしたらボヤけていたはずの後ろ姿も鮮明に見えるようになってくる。そんな気がしている。

直接観察するよりも後ろ姿を越えてその先を観察すれば、「なぜここに?」、「何のために?」、「どういう風に?」など、本質的なものがより見えてくる。

こういった観察対象から無意識の中に滲み出る情報をパッと見た時に、零細でまとまりに欠けているように見えるかもしれないけれど、心象風景や存在意義およびそれに対する問いかけ等、大事なことがそこに隠れていると直感的に思っている。

だからいつも目を見開き、その微光の中にある大切な情報を見落とさないように。

それは物事について知る時でも、人と付き合う時でも、同じなのだ。

現実が現実っぽく見えない、違和感が溢れてくる瞬間を切り取る

−−写真を始めたきっかけは?

カクユウシ(以下、カク):今振り返って見ると、特にきっかけと言えるきっかけがなく、ただただデッサンのように世界を観察する手段として中高生の頃からずっと撮り続けてきました。

−−シャッターを切りたくなる瞬間は?

カク:現実が現実っぽく見えない、違和感が溢れてくる瞬間です。

−−オンとオフで愛用しているカメラは?

カク:「ジナー P」

−−インスピレーションの源は?

カク:音楽。最近はレコードを聴きながら物事を考えています。

−−今ハマっているものは?

カク:Google Mapを見ずに、目的も目的地もなく散歩をすることです。

−−今後撮ってみたい作品は?

カク:シネマグラフ。写真と動画の隙間で遊びまくりたいです。

−−目標や夢は?

カク:短期の目標は、個展を開催することです。

Photography & Text Yushi Kaku
Edit Masaya Ishizuka(Mo-Green)

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注目のロック・デュオ、ノヴァ・ツインズが投げかける社会へのメッセージ 「私達を見て、『やろうと思えばなんだってできるんだ』って感じてもらえたら嬉しい」 https://tokion.jp/2023/10/27/interview-nova-twins/ Fri, 27 Oct 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=214025 今夏「サマーソニック」で初来日を飾った注目のロック・デュオ、ノヴァ・ツインズが自分達のルーツやバックグラウンドについて語る。

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ノヴァ・ツインズのエイミー・ラヴ(左)とジョージア・サウス(右)

ノヴァ・ツインズ(Nova Twins)
2014年にロンドンで結成されたロック・デュオ。メンバーはエイミー・ラヴ(Amy Love)(Vo / G)とジョージア・サウス(Georgia South)(B)で、2人は子どもの頃からの友達。2020年、ジェイソン・アーロン・バトラー(Jason Aalon Butler)のレーベル、「333 Wreckords Crew」からデビュー・アルバム『Who Are the Girls?』をリリース。また、ブリング・ミー・ザ・ホライゾン(Bring Me The Horizon)とコラボレーションし、ツアーも実施。2022年6月には、セカンド・アルバム『Supernova』をMarshall Recordsよりリリース。
https://novatwins.co.uk

今のイギリスで注目を浴びているのは「ギター・バンド」だけではない。グライムとパンクが融合したヘヴィなサウンドでロック・シーンを沸かせているのがエイミー・ラヴ(Amy Love)とジョージア・サウス(Georgia South)によるデュオ、ノヴァ・ツインズ(Nova Twins)だ。これまでに2枚のアルバムを発表し、昨年リリースの最新作『Supernova』はマーキュリー・プライズの候補に選ばれるなど高い評価を獲得。ウルフ・アリスやリトル・シムズのサポート・アクトを務めて頭角を現す中、ブリング・ミー・ザ・ホライズンのプロジェクト作『Post Human: Survival Horror』に参加し話題になったことも記憶に新しい。錚々たるアーティストが名を連ねたギャング・オブ・フォーのトリビュート盤『The Problem Of Leisure: A Celebration Of Andy Gill & Gang Of Four』ではマッシヴ・アタックの3Dとも共演を果たし、彼女達への注目はジャンルを超えて広がりを見せている。

「あなたがまだ知らない最高のバンド」。デビューして間もない彼女達をツアーに抜擢したトム・モレロ(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、プロフェッツ・オブ・レイジ)はそう賛辞を寄せた。しかし彼女達への賛辞の理由は、その生演奏にこだわったサウンドや音楽性だけが理由ではないだろう。ともにミックスである彼女達は、白人社会や音楽業界における有色人種の女性としての葛藤をストレートに歌い、その力強いメッセージ性はノヴァ・ツインズというグループを貫くアイデンティティの大きな中心になっている。また彼女達は「Voices for the Unheard」というプラットフォームを立ち上げ、英国黒人音楽賞「MOBO」に働きかけるなど、自分達と同じ立場や境遇のアーティストの支援にも積極的に関わっている。「ルックスは買えるけど、遺伝子は変えられない/私はストレート・トーカー(※歯に衣着せぬ人)、言いたいことははっきり言え」(「Cleopatra」)――。この夏「サマーソニック」で初来日を飾った彼女達に、その活動を支えるルーツやバックグラウンドについて話してもらった。

ノヴァ・ツインズのルーツ

——先ほどお2人のSNSを拝見したら、サマーソニックで共演したBABYMETALと一緒に撮った写真がアップされていて。

ジョージア・サウス(以下、ジョージア):大好きなんです。ライヴはとてもエネルギーに満ちていて、演出やパフォーマンスも壮大で素晴らしかった。だから会えて嬉しかったし、本当に素敵な体験でした。

エイミー・ラヴ(以下、エイミー):ブリング・ミー・ザ・ホライゾンを通じて彼女達のことを知りました。私達が参加した彼等のEP(『Post Human: Survival Horror』)に彼女達も参加していて。彼女達のライヴを観たのは今回が初めてで、それで実際に会うことができたんです。

——ノヴァ・ツインズのサウンドは、パンクやガレージ・ロック、メタル、グライム、ダブステップなどさまざまなジャンルをシームレスに融合させたものです。そうしたスタイルはどのようにして生まれたのでしょうか。

ジョージア:私達にとってはごく自然なことだったと思います。最初に作ったのはベースとヴォーカルだけでできたもので、だから私達のサウンドの基本はリフが効いていて(riffy)、エレクトロニックなスタイルを土台にパンキッシュな叫び声のようなヴォーカルを乗せたものでした。そしてそれを時間をかけて成長させて、進化させてきました。ロック、R&B、グライム、ポップ、ジャズなどさまざまな音楽から影響を受けてはいますが、私達としては自分達が気持ちいいと感じることをやっているだけなんです。

エイミー:ジョージアが言う通り、それはつまり私達の友情と経験が組み合わさったものなんだと思う。私達が育った場所や家族、ライフスタイルなどすべてが私達の音楽には反映されています。

——その上で、お2人が影響を受けたり、自分達を音楽の世界に導いてくれたアーティストを挙げるとするなら誰になりますか。

ジョージア:ビヨンセやミッシー・エリオット、デスティニーズ・チャイルドのような1990年代のR&Bから、ザ・プロディジー、ニューヨーク・ドールズのようなバンド、それにスティーヴィー・ワンダーやメロディ・ガルドーも大好き。だから嫌いなジャンルというのがないんです。私達は常にオープンでありたいし、いろんな音楽が好きなんです。

エイミー:それと間違いなく、私達の両親。私達の母——彼女達はとても強い女性なんです。だから彼女達は私達にとって大きなお手本でした。それとジョージアの父親はジャズ・ミュージシャンだから、私達に楽器を弾かせてくれたり、いつもインスパイアしてくれました。彼はいつも「練習しなさい」って言ってましたね(笑)。

——お2人は音楽が身近にあふれた環境で育ったと聞きました。小さい頃からいろいろなアートやカルチャーに触れる機会があったのでしょうか。

ジョージア:家では誰かしらが音楽を聴いたり、楽器をいじったりしているような感じでした。エイミーが私達の家族と一緒に住んでいた時は、いつもジャムったり、ライヴをやって家に帰ってきてからもそれについて話したりして。だから常に音楽があったし、みんな音楽が大好きでしたね。

エイミー:それとカルチャーということでいうと、私達は2人ともミックスで。私はイランとナイジェリア、ジョージアはジャマイカとオーストラリアにルーツがあって、私はエセックスの出身、ジョージアはロンドン南東部出身で、お互いにイギリス人という(笑)。だからカルチャー的にもいろいろなものが混じり合っている。逆に言うと、何かを選ぶ必要がなかったというか、あらゆるものに触れることができる環境だったので、その影響は私達の音楽に表れていると思います。

——一方、特にエイミーさんは白人が多い地域に育ったこともあって、小さい頃は自身を投影したり感情移入できるロールモデルを見つけることが難しかった、と聞きました。そうした中で、音楽を聴いて「これは私のための歌だ、私のことを歌った曲だ」と思わせてくれたアーティストは誰でしたか。

エイミー:私にとっては間違いなくデスティニーズ・チャイルドがそうでした。彼女達を初めて見た時、「わあ、なんて強そうな女性なんだろう」って。姉妹のような結束感があって、女性のパワーがたくさん詰まっているけれど、女性の自立した強さが感じられて。それは私が若い頃に憧れていたイメージそのもので、そう見られたいと思っていました。特にビヨンセは私達にとって特別なロールモデルでした。

ジョージア:“ID”なんてどうでもいいんです。だって、どれもみんな全く違うものだから。私達の中ではいろいろなものがミックスされて1つになっていて、だから特定のジャンルの音楽に惹かれるということもなかった。それが私達が出会った理由なんです。だから一緒にバンドを始めたんです。

——ちなみに、ジョージアさんはグライムMCのノヴェリストと同級生だったことがあるとか?

ジョージア:ああ(笑)。もう長い間会っていませんが、学校で一緒に過ごした時期がありましたね。

——エイミーさんはロンドンの音楽学校で学ばれたそうですね。

エイミー:自分で音楽を始めたばかりの頃で、漠然とアーティストになりたいと思い描いていたんですけど、ただ『パフォーマンス』というものをよく理解していなくて。だからそれを学びに行こうとしたんだと思います。若い時って、自分が求めているものが何なのかわからないことがありますよね。音楽をやりたいのはわかっているけど、それをどう表現したらいいのかわからなかった――それを仕事にする方法も。そんな私に学校は自分自身を見つける時間をくれました。それと多くの友達と出会うことができて、だからどちらかというと、社会的な側面で得るものが多かったかもしれない。ロックやガーリッシュでパンクな音楽を発見して、友達にオススメのレコードを教えてもらったりしてね。

音楽とファッション、ヴィジュアルの関係

——お2人は音楽活動と並行して、ファッションブランドとコラボレーションしたり、また自分達の衣装のデザインを手掛けたりもしていますよね。音楽とファッション、ヴィジュアルの関係についてはどんなポリシーや哲学を持っていますか。

ジョージア:“音楽が先にある”ことですね。自分達で服をカスタマイズし始めたのも、自分達の音楽を感じられるような服が着たいと思ったからで。それで裁縫を始めて、ミュージック・ビデオやステージで着る服を自分達で作り始めました。私達はそれを“Bad Stitches”と呼んでいるんです。というのも、私達は縫い方を学んでいる途中だったから(笑)。いつか「Bad Stitches」というブランドを発表して、みんなに着てもらいたい。今はその準備の最終段階なんです。

エイミー:私達の服は私達の音楽のように“聞こえる”。だから、音楽に合わせると服はこんなふうに見えるんです(笑)。バンドを始めた頃は、よく2人でショッピングに出かけていろいろなものを見てたんです。でも、心に響くものは何もなくて、それにどれも高価なものばかりで。それで、だったら自分達で作ったほうがいいって思ったんです。最初はあまり上手くなかったけど(笑)、ミシンの使い方を学んで、ミシンを使うようになったらだんだんといい感じになりましたね。

——好きなファッションのテイストはありますか。

ジョージア:原宿系ファッションが大好きです。全部欲しくなる(笑)。あと1990年代のスポーツ・カルチャーが大好きで、さっき挙げたヒップホップやR&Bともカルチャー的に繋がりがあるように思います。でも同時にパンクみたいなものも大好きで、だから私達のファッションは音楽と同じで全てが組み合わさったものなんだと思う。

エイミー:私達は絵を描くのが好きで、ミュージック・ビデオではセットにペイントしたり自分達でデザインも手掛けています。手を使うことや、創造的でアートな活動を楽しむのが好きなんです。

「音楽業界をもっとインクルーシヴな場所にしたかった」

——一方でお2人は、音楽業界における自分達と同じような境遇——有色人種(POC)のアーティストやイギリス国内の黒人女性をサポートする活動にも力を入れています。

エイミー:私達は混血の女性で、ロック・ミュージックをやっていて……でも私達がバンドを始めた時、誰も理解してくれなかったんです。ロックは白人がやるものみたいな風潮があって。私達はまだ若かったし、無知で世間知らずでした。どうしたらいいのかわからなかった。でも、それが私達の目を開かせたんです。彼等の認識を変えたいって。音楽業界をもっとインクルーシヴな場所にしたかった。だって、それって誰にでもできることなんですよね。あなたがどこから来たかなんてことは、あなたができることとできないことを決定したり区別したりするものではない。

——ええ。

エイミー:そして今、本当に素晴らしいと思うのは、音楽をやる女性がとても増えていること、それも世界中から集まってきていることです。イギリスでは女性のエンパワーメントが進んでいて、その一部になれてとても誇りに思っています。特に若い世代の人達には多くの選択肢がある。私達のようなスタイルの音楽をやりたいと思わない人もいるかもしれないけど(笑)、でも私達を見て「ああ、やろうと思えばなんだってできるんだ」って感じてもらえたら嬉しい。私達が若かった頃は難しかったけど、ただデスティニーズ・チャイルドのような存在がいたからこそ、私達もそう思えたんです。彼女達は私達とどこか似ているように感じられたから。

——お2人は有色人種のオルタナティヴ・アーティストを支援する「Voices for the Unheard」というプラットフォームも立ち上げられていますが、もし今の音楽業界の何かを変えることができるとしたら、何を変えたいですか。

ジョージア:ゲートキーパーはもっとリスクをとるべきだと思う。なぜなら、誰もがメインストリームに供給されるものに従っていて安全策をとっているから。もし彼等がアンダーグラウンドに目を向けて、そこで活動するアーティストに——よくできた誰かのカーボンコピーのような人達に与えるのと同じだけのチャンスを与えるようになったら、もっと面白くなると思うんです。だから早くそうなってほしい。

エイミー:音楽業界にとって大事なのは、自分の意見を恐れず、アーティストに対して公平で正当な評価を提供することだと思います。というのも、中には印税の分け前を正しく得られなかったりするケースがあり、しかもその多くはインディペンデントのアーティストで、彼等はメジャー・レーベルとは異なる状況に置かれているからです。友達の中には、自分達がやりたい音楽をやらせてもらえなかったり、アートを手放さなければならなくなるという深刻な問題を抱えているアーティストもいます。だから何より、より多くのアーティストが自分らしくいられるように音楽業界は後押ししてほしいんです。

——ちなみに、「Thelma and Louise」という曲がありますが、あれは映画の『テルマ&ルイーズ』にインスパイアされて?

ジョージア:そう。あの映画を観て、主人公の2人の絆と友情に感動したんです。生きるか死ぬかみたいな状況の中、最後まで一緒にいる2人の姿は本当に素晴らしかった。それに共感して、あの曲を書いたんです。

Photography Tameki Oshiro

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海外で再評価が高まるDIYシティポップアーティスト・鈴木慧が1980年代からの音楽活動を振り返る https://tokion.jp/2023/10/27/interview-satoshi-suzuki/ Fri, 27 Oct 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=213490 ミュージシャン、鈴木慧がこれまでの経歴や音楽活動の変遷、今回のリリースのきっかけなどを語る。

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鈴木慧(すずき・さとし)
1958年7月、東京生まれ。1977年以来の現役ライブハウス・ミュージシャン。担当楽器はジャズピアノだが、好む音楽はソウルミュージック。従って出来上がる音はAOR。
http://litera.in.coocan.jp/tealive.htm

鈴木慧。1980年代からソロ音源を制作し、これまで幾枚かのアルバムをリリースしてきた、「シティポップアーティスト」。今もなお現役パフォーマーとして活動し、コンスタントにライブ演奏を行う都会派ミュージシャン。そのように紹介したとしても、実際のところ、彼の名前にピンとくる読者はごく限られているだろう。それもそのはず。鈴木慧は、これまでのキャリアの中でヒットを飛ばすどころか、メジャーな音楽シーンに名を刻んできたわけでもない、あくまでマイペースに音楽を奏で続ける1人のアマチュアミュージシャンなのだから。

しかし。近年になって、その彼が今から35年も前にリリースしたLPレコードが、国内外の一部の音楽ファンのあいだでにわかに話題となっている。先鋭的なDJや、「ディガー」と呼ばれるコアなレコード好き、あるいは夜な夜な東京のクラブで音楽を楽しむ一部のリスナー達が、鈴木慧の音楽に魅了され、まるで、人知れずタイムカプセルに保存されていた品と不意に対面したかのような驚きをもって、大切に耳を傾けてきたのだ。

その親密な宅録サウンドは、まるで、ジェフ・フェルペスやドワイト・サイクス、チャック・センリック、ジョー・トッシーニといった、この10年ほどで発掘されたDIYソウル〜AORにも通じる温かで繊細な魅力に溢れており……いや、こうしてそれらしい固有名詞を並べて「音楽オタク」向けに賢ぶってアピールしてみてもあまり意味はないかもしれない。決して大多数から熱狂的に支持されるタイプのものではないが、ある種の人々の心を確実に捉えてやまない……それが鈴木慧の音楽だからだ。

今回、そんな鈴木慧が過去に残した音源が、米ポートランドのレーベル「INCIDENTAL MUSIC」によって、編集盤『遠い旅の同行者』としてまとめられ、アナログリリースされる。昨今、過去に制作されたさまざまな日本産音楽が海を越えて再評価されているが、今作のリリースは、そんな一連の出来事の中でも特に喜ばしい慶事といえる。

発売に際し、これまでの経歴や音楽活動の変遷、今回のリリースのきっかけなど、鈴木慧本人にじっくりと話を訊いた。

早熟リスナーからバンドマンへ

——生年と出身地から教えていただけますか?

鈴木慧(以下、鈴木):1958年7月、東京生まれです。生まれてこの方ずっと池袋在住です。

——子どもの頃から音楽はお好きだったんですか?

鈴木:はい。中学の頃からは、今でいうシティポップの前身となるような音楽——はっぴいえんど、キャラメル・ママからティン・パン・アレー関連の音楽など——を好んで聴いていました。当時、TBSラジオの『パック・イン・ミュージック』木曜日の回や、『こずえの深夜営業』等、馬場こずえさんのラジオ番組をよく聴いていたんですが、その辺りの曲をよくかけていたんですよ。荒井由実や吉田美奈子のデビュー作も、細野晴臣さんの『HOSONO HOUSE』も、大瀧詠一のファースト・ソロ『大瀧詠一』も、最初は全部ラジオを通じて耳にしました。

——かなり早熟なリスナーだったんですね。

鈴木:そうだったのかもしれませんね。1970年代半ば頃まで、あくまで主流は歌謡曲やフォーク系のニューミュージックでしたから。

今日の取材のために、1977年当時自分で編集したカセットを持ってきたんです。シングル盤を買い集めてはせっせとダビングしていました。(インデックスカードを見ながら)大貫妙子さんの「Wander Lust」、「明日から、ドラマ」、南佳孝さんの「これで準備OK」、「ソバカスのある少女」、吉田美奈子さんの「恋は流星 part2」、尾崎亜美さんの「旅」、ハイ・ファイ・セットの「風の街」、伊藤銀次さんの「風になれるなら」、松任谷由実さんの「潮風にちぎれて」、かまやつひろしさんの「サテンドレスのセブンティーン」、久保田麻琴さんの「バイ・バイ・ベイビー」……。

——(インデックスカードを見ながら)ミュージシャンのクレジットも自ら書き込んでいたんですね。

鈴木:当時からパーソネルをチェックして、ティン・パン・アレーがバッキングに参加しているものを片っ端からを手に入れていました。高校を出た後に、江古田のレコード屋さんでバイトを始めたので、欲しいものはすべて自分で注文して買っていたんです(笑)。

——ご自身で演奏を始めたのはいつからですか?

鈴木:高校生の時、クラスの友達とバンドを始めて、卒業後の1977年からライブハウスに出始めました。高円寺のレッドハウス、荻窪のロフト、渋谷のヤマハ他……都内のライブハウスはかなりの数出演したと思います。

僕のパートはキーボードとボーカルで、他にアコースティックギター兼ボーカルのメンバーが2人いて、トリオでやっていました。割と早い時期にフェンダーローズを頑張って買って、ライブでも使っていました。編成的にはシンプルな形ですけど、キャロル・キングやジェイムス・テイラーの大ファンだったので、ベタなフォークというよりは、もっと洗練したものを志向していましたね。3人のコーラスも重要な要素でした。ギターの2人にジェイムス・テイラーや吉川忠英さんのプレイを研究してもらったり……。

——その頃のレパートリーはオリジナルソングだったんですか?

鈴木:はい。高校を出て尚美高等音楽学院(現・尚美ミュージックカレッジ専門学校)へ進んで、作曲を習っていたんです。本来はクラシックの作曲科なんですけど、僕はポップスの作曲をやっていました(笑)。ジャズ科の連中と交流したり、割と自由な環境でしたね。クラシックの理論を学びつつ、ジャズのバークリーメソッドも勉強する、といった日々です。ジャズの理論を勉強することで、ボサノヴァのコードを使えるようになったり、そこでの経験が自分のその後の作曲にとって大きな糧になりました。

——ソウル系の音楽も聴かれていましたか?

鈴木:聴いていました。クインシー・ジョーンズのA&M時代のアルバムが日本盤として一挙にリリースされて、それを買ったのがソウル的なものに触れるようになったきっかけです。1980年代以降はブラックコンテンポラリーと呼ばれるものをよく聴くようになりました。

——AOR系は?

鈴木:もちろん大好きです。マイケル・フランクスやスティーリー・ダン、ボズ・スキャッグス等々……。よくレコードを買いましたね。

——後にリリースされるアルバム『週末の光と風』の帯で、「ジャズ40%、ソウル30%、ブラジル20%、歌謡曲10%」とご自身の音楽を説明されていますが、まさにその頃の音楽体験が反映されているわけですね。

鈴木:おっしゃるとおりです。

——その後バンド活動はどうなったのでしょうか?

鈴木:1977年からおよそ8年間、1985年くらいまで活動していました。けれど、みんな社会人になって忙しくなっていって、自然と解散してしまいました。

——バンドでも録音を残しているんですか?

鈴木:エアーで一発録りで一応録りました。随分前にネットに上げてたりもしたんですが。

1980年代から宅録を開始

——1人で宅録をはじめたのはいつからですか?

鈴木:1983年からです。TEAC244というマルチトラックレコーダー(MTR)を手に入れたのがきっかけです。それまではアマチュアが自宅で多重録音するといっても、デッキを2つならべてピンポンするとか、かなり手間がかかる作業だったので、MTRの存在は本当に画期的でしたね。

——オケはどうやって作っていたんですか?

鈴木:今日も持ってきているこのYAMAHA CS01をメインで使ってました。あとは、ちょうど発売されたばかりのYAMAHA DX-7、それとカシオのシンセサイザーも使っています。やっぱりDX-7はすごく画期的でしたね。それまではポリフォニックといってもいろいろと制約がありましたし。

——当時流行していたテクノポップ〜ニューウェーブ系の音楽をやってみようという気はなかったんでしょうか?

鈴木:そうはならなかったんですよね。僕はあくまで洗練された音楽をやりたかったんです。1980年代初頭をピークにそれ以降シティポップ的なサウンドが停滞していくわけですけど、それはやっぱりニューウェーブの存在が大きかったと思うんです。ニューウェーブというのはパンクに由来するものだから、既存の音楽を壊すというスタンスじゃないですか。だから僕が好きなものとはちょっと違ったんです。

けど、自然と耳に入ってはきていましたよ。僕が1983年当時勤めていた会社に、ニューウェーブ好きの同僚がいましたし。一方、上司はカシオペアやAB’Sが好きで職場でレコードを流していたりして。僕としてはどちらかといえばそちらに惹かれていました。その職場というのが、リットーミュージックのソフトウェア開発部門だったので、みんな当然音楽好きで。

——リットーミュージックに勤務されていたんですね!

鈴木:短い期間でしたけどね(笑)。その後はシンセサイザー奏者の神谷重徳さんのスタジオに勤めていました。

——そうだったんですか!

鈴木:神谷さんのお父さんが画家で、そのアトリエをスタジオに改造していたんです。僕の入社前ですが、坂田明さんや村上“ポンタ”秀一さんなどいろいろなミュージシャンがそのスタジオを使われていたようです。本物のメロトロンとか、立派な機材がたくさんありましたね。といっても、僕の仕事はスタジオ業務に直接関わっていたわけじゃなくて、リットー時代と同じくソフトウェア開発だったんですが。

——そういった生活をされながら日々音源を録りだめていき、1980年代後半に数枚のLPとしてリリースされたわけですね。

鈴木:はい。

——ネットが普及した今でこそセルフリリースは珍しいことではなくなりましたが、当時レコードを自主リリースするのにはいろいろなハードルがあったのだろうなと想像します。

鈴木:自分の中では案外そうでもなかったですね。ナゴムレコードとか、ニューウェーブ系のインディーズも多かったし、その辺りのジャンルだと自主制作している人も結構いましたから。僕もそういう例を見て、自分でも出したいなと思うようになりました。どうやったらレコードを作れるのか調べたら、アテネレコード工業(現・アテネ)という会社が制作の窓口をやってくれるのを知ったんです。

——今となっては、自主制作レコードの名門としてマニアの間で名高いアテネレコードですね。

鈴木:教育目的のレコードを制作している会社で、打ち合わせに行ったら、スーツ姿のマジメそうな社員の方に対応してもらったのを覚えています(笑)。そのアテネに自分で作ったマスターを持ち込んで、カッティング用のマスターテープに変換してもらいました。

——計3枚LPをリリースされていますが、発売された順番は?

鈴木:厳密にいつリリースしたのか記憶が曖昧なんですが……おそらく1987年に『Mandheling Street』を、1988年に『週末の光と風』を、その後に『夏が見せる夢』を出したように記憶しています。『Mandheling Street』と『夏が見せる夢』に入っている曲は1983年以来同じ時期に並行して制作していたもので、もともとバンド時代に演奏していた曲をアレンジし直して1人で録ったものが中心になっています。自分の中では『夏が見せる夢』のほうがファーストアルバムという認識だったんですが、『Mandheling Street』の方が明るい曲が多かったので先に出しました(笑)。『週末の光と風』は、1987年以降に書き下ろした新曲を収録しています。

——ジャケットの制作もご自身でディレクションされたんですよね?

鈴木:はい。

——自主盤にしては、というと語弊があるかもしれませんが、印刷のクオリティがとても高いですよね。

鈴木:神谷さんのスタジオの後、広告代理店に勤めていたんです。レーベル名になっているReal Creative Agencyという会社です。なんでも作る会社だったので、デザインや印刷のディレクションのノウハウがあったんです。実際のデザインをやってくれたのも会社のデザイナーです。「一度でいいからレコードのデザインやってみたかったんだよなあ」と言って喜んでくれました(笑)。若い方は想像もできないと思いますが、当時はまだ版下入稿の時代でした。

——今回の編集盤『遠い旅の同行者のジャケットにもなっていますが、『週末の光と風』のカヴァー写真は特に素晴らしいですね。

鈴木:これは妻が撮ってくれた写真です。市ケ谷駅のホームから外堀を臨んでいる構図ですね。勤務先の広告代理店が市ケ谷にあったので、毎日ここを通っていたんですよ(笑)。

——完成したレコードをどうやって流通させたんでしょうか?

鈴木:営業も納品もすべて自分でやりました。といっても、100枚プレスでしたから、「山野楽器」や江古田の「おと虫」とか、一部店舗に卸したのみです。音楽雑誌にも送りましたよ。「キーボード・マガジン」や「シンプジャーナル」で紹介してもらいました。それを読んだ地方の方から問い合わせを受けて発送した記憶もあります。

米ポートランドのレーベルから編集版をリリース

——そうやっておよそ35年前にリリースされたLPが巡り巡ってのちの世代のリスナーの手に渡り、ついには米ポートランドのレーベル「INCIDENTAL MUSIC」から編集盤がリリースされることになったわけですが、こうした展開について、ご本人としてはどんなお気持ちですか?

鈴木:本当に不思議な気持ちですよね。正直にいえば、当時の音は隙間だらけだし、もっとできたはずなんだけどなあ、という気持ちもあって(笑)。今作っている音に比べるとどうしても……この隙間だらけの音を面白いと思ってもらっているとは思うんですが。

——1人のアマチュアミュージシャンが日常の中で作り続けていた音楽だけに宿る、ある種の親密さやロマンが詰まっていると感じます。メジャー産の「製品」にはない、そういう繊細でプライベートな質感が若い世代のリスナーの耳を捉えているんだと思います。

鈴木:今では基本的に打ち込みですべて完結できてしまいますからね。そういう意味で、これらの曲は全く今の音と質感が違いますね。ドラムも当時のリズムマシンですし、なんといってもローズピアノを多用しているっていうのがこの質感を作り出している気がします。今ではシンセの白玉(長音符)をポーンって入れちゃいますけど、そうじゃなくてあくまで手弾きのピアノを入れているというのが、手作り感を強めているのかもしれませんね。

——歌詞も文芸的でとても素敵ですね。あの時代の東京の、ちょっと儚げな空気というか……どこか孤独感が漂っているというか……。

鈴木:ありがとうございます。歌詞にはストーリー性を込めているんですが、すべてフィクションとして書いているんですよ。

——今回の編集盤には、後の1993年に同じく自主制作されたCDアルバム『心適わない夏、そして秋』からも3曲が収録されています。LP収録の各曲に比べると、サウンドが変化しているのがわかります。

鈴木:ドラムマシンも違うものを使っていて、シンセサイザーも別のカシオのモデルを使っています。マイナー調で、ファンクっぽい曲が増えたのも特徴かもしれませんね。

——今回の編集盤リリースのきっかけを教えてください。

鈴木:サウンドクラウドにいくつか曲を上げているんですが、それを「INCIDENTAL MUSIC」のオースティン(・トレットウォルド)さんが偶然発見したらしいんです。それで、ある日彼からメッセージが来てやり取りする中で、「過去にはこういうのも出していたんだよ」とLPの曲を送ってあげたんです。そしたら、「これらは素晴らしい内容だから、編集盤を作りませんか?」と提案されたんです。

その時点で僕は既にここ(インタビュー場所)のpianola recordsの國友さんと知り合いだったので、「こういう問い合わせが来たんだけど、どう思いますか?」と聞いてみたんですよ。そしたら、数年前に既に國友さんが参加しているレーベル(「conatala」)と「INCIDENTAL MUSIC」が共同である作品(Pale Cocoon『繭』)の復刻リリースをしていたと知ったんです。

——國友さんがオースティンさんに紹介したのではなかったんですね。

鈴木:そうなんです。偶然が重なってリリースが決まりました。

——選曲を担当したのもオースティンさんですか?

鈴木:はい。過去の音源をすべて彼に渡して、好きに選んでもらいました。すごく新鮮な体験でしたね。ボサノヴァ調の曲を多めに選んでくれたのが面白かったです。音源自体はすべて再収録用にDAWでミックスし直しています。

オースティンさんは当初、最近の曲も混ぜて編集盤を作るアイデアを提案してくれたんですが、やっぱりそれは別に考えたいというのがありました。今やっている音は当然今回のコンピレーションに入っているものとは違うし、あくまでここに集められているのは、「1980年代〜1990年代初頭の鈴木慧」なんです。

——鈴木さんは現在も活発にライブをやってらっしゃって、僕も何度か拝見しているんですが、初めて見た時、その特異なセッティングに驚きました。あらかじめ録っておいたリズムをカセットテープで流しながら、YAMAHA CS01にストラップをつけてショルダーキーボードのスタイルで弾き語りするという……。

鈴木:僕のパフォーマンスは、あの形態ありきだと思っているんですよ。ソロライブを始めた1983年当時からずっとあのスタイルです。もともとはYMOが散開ツアーでテープを使っているのを知って、彼らがやっているくらいだから「アリ」なんだ、と思ったのがきっかけです(笑)。

——普通だったらリズムマシンやラップトップを使いそうなところを、カセットを実際に再生しているという……。1曲ごとにカセットテープ入れ替える様子が、キーによってブルースハープを持ち替えるブルースマンのようで素敵でした。

鈴木:まず、カセットをステージ上に並べて、それを曲ごとに入れ替える様子を見てもらいたいというのがあって(笑)。そのカセットの音も、PAに繋ぐのではなく手元のシンセにラインで繋いでいますから、独特の音質になるんですよね。

——ぜひこのインタビューを読んでいる皆さんにもライブを見てもらいたいですね。

鈴木:ぜひいらしてください。近年制作した音源も各サイトにアップしているので、それらも聴いてもらいたいですね。

Photography Mayumi Hosokura

■鈴木慧『遠い旅の同行者 – Distant Travel Companion』(LP)
価格:¥4,200
現在も活動を続けるシンガーソングライター鈴木慧が1980年代から90年代に残した稀少な作品群から選曲したコンピレーション盤が登場。

JP
https://pianola-records.com/collections/distro/products/satoshi-suzuki-distant-travel-companion

EN
https://incidental-music.com/shop-releases/satoshi-suzuki-distant-travel-companion-lp-pre-order

■鈴木慧『遠い旅の同行者』LPリリース・パーティ
日程:2023年11月3日
時間:19時〜
会場:FORESTLIMIT住所:東京都渋谷区幡ケ谷2-8-15 KODAビルB1階
料金:¥2000+1ドリンク
http://litera.in.coocan.jp/tealive.htm

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「ニューバランス」と「ジュンヤ ワタナベ マン」がコラボしたスニーカー“650”の日本限定カラーが11月3日に発売 https://tokion.jp/2023/10/23/junya-watanabe-man-new-balance-650/ Mon, 23 Oct 2023 09:30:00 +0000 https://tokion.jp/?p=213310 販売は「ジュンヤ ワタナベ マン」の取り扱い店舗で行う。サイズは25〜29cmで、価格は¥46,200。

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「ニューバランス(New Balance)」と「ジュンヤ ワタナベ マン(JUNYA WATANABE MAN)」がコラボしたスニーカー“650”の日本限定カラーが11月3日に発売される。サイズは25〜29cm(※ハーフサイズ無し)で、価格は¥46,200。販売は「ジュンヤ ワタナベ マン」の取り扱い店舗で行う。

1989年に発表された、衝撃吸収性とクッション性を特徴とした「ニューバランス」のバスケットボール競技用シューズ “PRIDE 650(ハイカット)”を復刻し、「ジュンヤ ワタナベ マン」バージョンにアップデートした。

一貫して黒のさまざまなパーツや素材の集合体で表現された「ジュンヤ ワタナベ マン」2023年秋冬コレクションに合わせて、フットウェアの各パーツを、さまざまな異なる黒の素材でパッチワークのように仕立てている。日本限定カラーは、 ヘアリースエード / ヌバック / レザーの異素材コンビネーションを、ブラックからチャコールグレーのグラデーションで洗練された印象に仕上げた。シュータンラベルとインソールにダブルネームのロゴが入る。

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映画『アアルト』から紐解く アルヴァ、アイノ・アアルト夫妻の素顔 https://tokion.jp/2023/10/23/interview-aalto-virpi-suutari/ Mon, 23 Oct 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=212784 建築家・デザイナーのアルヴァ・アアルトのドキュメンタリー映画『アアルト』公開中。日本公開のために来日したフィンランド出身のヴィルピ・スータリ監督に、映画の制作秘話等を聞いた。

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『アアルト』原題:AALTO 監督:ヴィルピ・スータリ(Virpi Suutari)

2023年に生誕125年を迎えた、フィンランドが誇る偉大な建築家・デザイナーのアルヴァ・アアルトのドキュメンタリー映画『アアルト』が10月13日に公開された。アアルトが世界中でアイデアを形にしていった過程を美しい映像と音楽で綴った本作は、その人生と作品を巡るだけでなく、同じく建築家だった1人目の妻アイノとの愛の物語を描いた初めての作品だ。貴重な家族写真やアーカイブ映像、関係者の証言に加えて、アルヴァとアイノの間で交わされた親密な手紙を通して、その知られざる素顔に触れることができる。ここでは、日本公開を前に来日したフィンランド出身のヴィルピ・スータリ監督に、映画の制作秘話やアアルト作品への想いを聞いた。

ヴィルピ・スータリ
1967年生まれ。フィンランドのヘルシンキを拠点に、映画監督、プロデューサーとして活躍。ヨーロッパ・フィルム・アカデミー会員。映画『アアルト』は、フィンランドのアカデミー賞と称されるユッシ賞にて音楽賞、編集賞を受賞した。

アルヴァ・アアルト
1898年、フィンランドのクオルタネ生まれ。本名フーゴ・アルヴァ・ヘンリク・アアルト。 測量技師として働く父のもとに生まれ、1916年からヘルシンキ工科大学(現アアルト大学)で学ぶ。代々、森林官を務める家系に生まれ、幼い頃から樹木に親しみながら育つ。1923年、アルヴァ・アアルト建築事務所設立。1935年、妻アイノとともに、2人がデザインする家具や照明器具、テキスタイル等を世界的に販売することを目的に「アルテック」を創業。生涯、200を超える建物を設計し、そのどれもが有機的なフォルム、素材、そして光の組み合わせが絶妙な名作として知られている。

アイノ・アアルト
本名アイノ・マルシオ=アアルト。ヘルシンキ生まれ。1913年、ヘルシンキ工科大学(現アアルト大学)に入学。1924年にアアルト事務所で働き始める。その後、アルヴァと結婚。32年に発表したグラス「ボルゲブリック/アイノ・アアルト グラス」でその名が広く知られるようになる。49年に亡くなるまで、アルヴァの公私にわたるパートナーだった。

アアルト建築で過ごした幼少期の体験を軸にした物語

――まずは、監督とアアルト建築や作品との出会いについてお聞かせください。

ヴィルピ・スータリ(以下、ヴィルピ):フィンランドにはアアルトによる建築が多いですし、ほぼすべての家庭にアアルトがデザインした製品があるので、国民の誰もがアアルト作品に触れているはずです。アアルトが手掛けた幼稚園用の家具もあり、学校でもアイノ・アアルトやアルテックの他のデザイナーによる家具が使われています。私達にとって、アアルト作品は日常生活の一部なんです。

私が本作を作るきっかけとなったのは、ラップランド地方の北極圏のそばにある故郷の街、ロヴァニエミでの幼少期の記憶でした。ロヴァニエミは第二次世界大戦で破壊され、完全に焼け落ちてしまったのですが、1950年代から1960年代にかけて、アルヴァ・アアルトを含むフィンランドの建築家達が復興支援のためにやって来て、再び都市計画を始めたのです。アアルトはロヴァニエミのために数多くの記念碑的な建築物を設計したのですが、そのうちの1つが、私がほぼ毎日、放課後に訪れていたアアルト図書館でした。ロヴァニエミの冬はとても厳しく、マイナス30℃まで気温が下がるほど寒いので、私は暖を求めて図書館に通っていたんです。それは私にとって大切な場所となり、メインホールの形やレザーの椅子、美しいガラスのランプ等、あの図書館のすべてが大好きになりました。さらに、私はアアルト・シアターの音楽学校にも通ったので、アアルト建築の中で過ごす時間が長く、その記憶が残っていたんです。

約30年にわたってドキュメンタリー映画を制作してきた私は、そろそろアルヴァ・アアルトや妻のアイノ、そして2番目の妻のエリッサがどのような人だったのか、注意深く探求すべき時だと考えました。個人的にも彼等のことが知りたかったですし、なぜあの図書館で過ごした時間があんなにも素晴らしいものだったのか理解したいと思ったのです。あの場所の何がそんなに特別だったのか? 彼等の建築的思考はどのようなものだったのか? 自分自身が理解した上で、フィンランドをはじめ、日本や他の国のみなさんとも共有しようと思いました。

――アルヴァ・アアルトはフィンランドのみならず、国際的にとてもアイコニックな存在です。そのような人物についてのドキュメンタリーを手掛ける上でプレッシャーは感じましたか? リサーチにはどれほどの時間を費やしたのでしょうか?

ヴィルピ:とても良い質問ですね。というのも、フィンランド人は誰もがアアルト建築について意見を持っているんです。フィンランドのタクシーの運転手は、その誰もがアアルト建築の最高の批評家だと自負しています(笑)。彼等は非常に批判的ですが、同時にとても誇りに思っています。また、アアルトのピューリタンというか、“アアルトについては決して批判してはならない”という考えのファンもいるんです。

つまり、誰もが意見を持っているわけですが、とても注意深くリサーチして、自分自身の視点からアアルトの映画を作るべきだと考えました。自分の美学を大切に、アアルト建築で過ごした幼少期の体験を主軸にしようと考えたのです。そのためには、愛やユーモアや温もりが感じられる作品にする必要がありました。リサーチをしっかりして最も良い形で素材を使えば、作品に自信が持てるはずだと思ったので、その通りにしたんです。4年にわたって、まるで我が家にアアルト夫妻が住んでいるような状況でした。夢に出てくるほど、私は常に彼等のことを考えていたんです。最終的に、夫はちょっとうんざりしていました。俳優の夫は本作でアルヴァ・アアルトの声を演じてくれたのですが、映画が完成すると、とても優しく、でもはっきりと、「そろそろアルヴァとアイノに我が家から出て行ってもらおう」と言いました(笑)。今回は彼等を日本に連れてくることができて、本当にうれしいです。

――本作は非常に人間的なドキュメンタリーで、アアルトによる建築や作品だけでなく、その中心に人としてのアアルトが描かれていたのもうれしい驚きでした。このようなアプローチでドキュメンタリーを作ろうと決めた理由は?

ヴィルピ:アカデミックな映画にはしたくなかったんです。もちろん、間違いがないように綿密なリサーチをするつもりでしたし、正確な情報を得たいと思いました。でも、私は誰にでも楽しんでもらえる映画が作りたかった。本作を観るのに専門家である必要はありません。もちろん、建築家が観ることもできますし、リサーチャーや専門家にも新しい発見はあるはずです。でも、普通の観客も本作から多くのことを学んでもらえると思います。私はどんな人にも伝わる映画を作りたいんです。もちろん、建築やディテールや美しい作品にも興味はあるのですが、私は人間に興味があるんです。ドキュメンタリー作家として、人間こそが私の興味の対象なのです。

私にとって、アルヴァ・アアルトやアイノ・アアルトが何者だったのかを理解するためには、舞台裏に目を向けることが重要でした。また、アアルト建築やデザインにおける、アイノ・アアルトの重要性に光を当てることが非常に重要だったのです。夫妻が手掛けた建築の美しいインテリアは、そのほとんどが彼女によるものでしたから。アイノや2番目の妻のエリッサを心から称賛するべきだと思いました。

「最も心を揺さぶられたのは、晩年のアイノの孤独」

――アルヴァとアイノの手紙を通して、これまでに見えなかった彼等のパーソナリティーや関係、仕事上でのコラボレーション等が理解できて、とても興味深かったです。手紙を読んで最も驚いたことは何ですか?

ヴィルピ:彼等の考え方がとても現代的だったことに驚きました。100年前と言われると、どこか古めかしい人達を想像しがちですが、彼等は彼等の時代を生きていたのです。特にアアルト夫妻は、生活のあらゆる面においてモダンな考え方の持ち主でした。新しいテクノロジーに興味を持っていましたし、セクシュアリティや健康についての概念を広げることにも興味を持っていたようです。それは私にとって驚くべき発見でした。

でも、私が最も心を揺さぶられたのは、晩年のアイノの孤独です。アルヴァ・アアルトはとても社交的で外交的な人でした。素晴らしくチャーミングな性格の持ち主でしたが、自己中心的でもあったんです。時にアイノ・アアルトは、CEOとアートディレクターとして家具会社のアルテックを1人で運営していました。家には2人の10代の子どもがいて、建築家でもあり、やることが山積みだったのです。それに、アルヴァ・アアルトがアメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)で仕事をしていた頃は、1人で過ごすことが多かったようです。手紙を読んで、アイノが自らの抱いている孤独感や、アルヴァのように物事を大きく考えられないことについて、常に自分を責めていたことに心を揺さぶられました。

また、アルヴァの手紙からは、夫婦で仕事を始めた初期の頃を懐かしがる様子が何度も出てきたのが印象的でした。夫婦の関係がうまくいっていて、一緒に新しいモダニズムを見出していた時期について、彼はいつも夢見ていたのです。2人で仕事をしていた当時の精神状態に戻りたいと何度も書いていました。

――劇中では貴重な家族写真等も使用されており、アアルト夫妻の素顔を垣間見ることができます。本作を手掛けるにあたって、アアルト家の方々とはどのようなお話をされましたか? 何か制約はあったのでしょうか?

ヴィルピ:信用してもらうまでに少し時間を要して、アアルト家の方とお孫さんに何度かお会いしました。信用を得てからは本当にオープンに接してくれて、制約も全くありませんでした。もちろん、常に連絡は取っていましたし、自分の計画を共有していましたが、素材は完全に自由に使っていいと言われたんです。アルヴァが描いたアイノの死に顔等、中にはとてもデリケートな素材があることは承知していました。あのような貴重な素材を扱う際は、細心の注意が必要でした。

アアルトのお孫さんが私のオフィスにいらっしゃった日のことは忘れられません。彼が車のドアを開けると、中から大きな茶色い箱が出てきました。私達はそれをオフィスに運び込み、中に入っていた手紙を読んだのです。そして、私はアシスタントに、「OK、この映画を作ろう」と伝えました。建築だけでなく、美しい夫婦の間にあった、時代を超越した創造性についての映画を作る上で、彼等の手紙は私に自信を与えてくれました。

――例えば代表的な作品の1つであるマイレア邸等において、アアルトは日本の建築からも影響を受けていたと聞きました。監督がリサーチする中で、アアルトが日本から受けていた影響等は感じられましたか?

ヴィルピ:そう思いますし、私より詳しい方々も、あの邸宅には日本からの影響が見られるとおっしゃっています。例えば、ウィンターガーデンには日本を感じさせるフィーチャーや空間があります。アアルト夫妻は日本に行ったことがなかったのですが、文学には触れていたようです。それに、当時はストックホルムにとても有名な日本の茶室があり、多くの建築家が影響を受けていました。リサーチャーによると、アアルトもおそらくあの茶室を訪れたことがあり、アイデアを得ていたはずだとのことです。木材の使い方も、まるで森がインテリアに入り込んでいるような感じですよね。リビングルームには複数の木の柱があり、日本の考え方と類似する部分があります。インテリアとエクステリアの対話もそうです。

マイレア邸は、私がこれまでに訪れた中で最も美しい民家だと思います。撮影クルーと一緒に滞在して、朝の日差しや夜の暖炉の炎等、さまざまな光の中であの家を眺めたり、腎臓のような形をした美しいプールで泳いだりと、贅沢な時間を過ごすことができました。そういう時は、「ドキュメンタリー作家って、なんて素晴らしい仕事なんだろう!」と思います(笑)。 

――多くのドキュメンタリーでは、専門家が語る姿が次々と出てきて、とてもアカデミックな印象を受けます。本作では専門家のコメントがナレーションのみで紹介され、美しい音楽とともに終始アアルトの世界観に浸れるのが素晴らしかったです。そこは監督のこだわりだったのでしょうか? 

ヴィルピ:間違いなく意図的なものでした。アーカイブを基に、すでに存在しない主題についての映画を作るのは、とても難しいものです。本作における課題は、映画を流動的でオーガニックなものにし、アーカイブ素材から埃を取り除くこと。そのためには、サウンドスケープや音楽、そして編集が大きな役割を果たしました。専門家の姿を映さず、複数のナレーターを1人のようにまとめることは、重要かつ大きな選択でした。大変な作業でしたが、観客がアアルトの世界観に飛び込めるような、よりオーガニックで美しい映画に仕上がったと思っています。

アアルトが得意としていたディテールが生み出す美しさを、より鮮明に感じられる作品

――本作を観て、より一層アアルトのことが好きになりました。監督が特に好きなアアルト建築や家具があれば教えてください。

ヴィルピ:今、こうして東京のアルテックのお店(Artek Tokyo Store)に座っていると、美しい椅子やランプを全部持ち帰りたくなります(笑)。私は本作を完成した後、自分へのご褒美にパイミオチェアを買いました。最高に座りやすい椅子とは言えないかもしれませんが、毎日眺めて惚れ惚れしています。本当にゴージャスで、まるで座れる彫刻なんです。本作を作る過程で、アアルトが得意としていたディテールに気付くことができました。ドアのとってや手すり、それにもちろん、家具やガラス製品まで、すべては細心の注意を払って作られています。映画を観た後は、ディテールが生み出す美しさをより鮮明に認識することができると思います。

――最後に、映画を楽しみにしている日本のアアルト・ファンや映画ファンに伝えておきたいことはありますか?

ヴィルピ:世界中のアアルト建築を巡る、魅惑的で特別なツアーをお届けする作品なので、ぜひチェックしていただけたらうれしいです。フィンランドだけでなく、アメリカやヨーロッパ各国の建築も楽しめます。今すぐ旅に出られないとしても、映画館に行ってチケットを買えば、もっとリーズナブルに旅することができますよ。そして、モダニズムを代表する偉大なカップルである、アルヴァとアイノの美しい愛の物語に没頭してください。

■『アアルト』
原題:AALTO
監督:ヴィルピ・スータリ(Virpi Suutari)
制作:2020年 配給:ドマ 宣伝:VALERIA
後援:フィンランド大使館、フィンランドセンター、公益社団法人日本建築家協会 
協力:アルテック、イッタラ
2020年/フィンランド/103分/(C)Aalto Family (C)FI 2020 – Euphoria Film  
公式HP:aaltofilm.com

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サンダーキャットが語る「MF DOOMとの絆」から「ベジータ的ユーモア」、そして「ゲーム音楽からの影響」 https://tokion.jp/2023/10/20/interview-thundercat/ Fri, 20 Oct 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=212228 8月に来日したサンダーキャットのインタビュー。彼が影響を受けたアニメやゲーム音楽など、カルチャーにまつわる話を聞いた。

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サンダーキャット(Thundercat)

サンダーキャット(Thundercat)
ベーシスト、ソングライター、音楽プロデューサー。1984年10月19日生まれ。アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身。超絶技巧のベースプレイとスイートな歌声、そして奇抜なファッションや底抜けに明るいキャラクターで数多くの音楽ファンを虜にしている。サンダーキャット名義でのソロ活動のほか、フライング・ロータスやケンドリック・ラマー、トラヴィス・スコット、ゴリラズ、故マック・ミラーらの作品にも参加。2022年はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのワールドツアーにサポートアクトとして抜擢されたことも話題となった。またアニメやゲームなど、日本のカルチャーに精通していることでも知られる。ジャズ/ヒップホップ/ファンク/AOR/LAビートを軽快かつチャーミングに横断していく表現力は圧巻の一言。
https://theamazingthundercat.com
Instagram:@thundercatmusic
X(旧Twitter):@Thundercat
YouTube:@thundercatmusic

サンダーキャット(Thundercat)のインタビューには、たくさんの友人の話が出てくる。盟友フライング・ロータスはもちろん、子ども時代のオタク仲間、聖歌隊時代の友達、デザイナー、ネイリスト、ケンドリック・ラマー、ドミ & JD ベック、そして惜しまれつつ世を去った仮面のヒップホッパー、MF DOOM。彼はあらゆる出会いの中で、自らのポジションを考えつつ、テクニックとユーモアを磨く。その成熟する姿はまるで、彼が愛する『ドラゴンボール』のベジータのようではないか!?アニメーションやゲーム音楽とサンダーキャットとの繋がりについて聞いた今回のインタビュー。彼は、ソニック・ザ・ヘッジホッグとMF DOOMの大きなネックレスを首からぶら下げて現れた。

——MF DOOMのネックレス、すごくいいですね。

サンダーキャット:いいだろ。これにはストーリーがあるんだ。MF DOOMが亡くなる直前に、フライング・ロータスと一緒に彼と仕事する機会があってね、彼が住んでいたロンドンに会いに行ったんだ。

マッドリブがMF DOOMに僕のことを話してくれたらしくて、彼は僕がエリカ・バドゥと仕事をしていることを知っていて。僕も彼とはコネクションを持ちたかったからね。

——MF DOOMとの仕事は「Lunch Break」ですね。クールな曲です。

サンダーキャット:彼は素晴らしかった! 誰も知らないような音楽をたくさん聴かせてくれて、僕がフライング・ロータスと作っている曲を聴いてくれた。彼とはおかしなくらいとても気があって。彼は僕が着けているジュエリーに興味を持って、いっぱい質問をしてきたよ。

——亡くなったのはつらい出来事でしたね。

サンダーキャット:MF DOOMはハンチョロ(Han Cholo)というLA在住のデザイナーとコラボレーションして、スペシャルなリングを作っていて。彼が亡くなる前、僕との仕事の支払いをどうするか相談を受けたんだけど、僕が「お金なんていいから」って言ったら、じゃあ代わりに、ってことで自分が持っている鋳造の型からリングとネックレスを作って僕に贈ってくれたんだ。でも、残念ながらリングは盗まれちゃったんだよね。

——それは悲しい……。

サンダーキャット:ネックレスは持ってるんだけどね。それは小さいネックレスで、今首からかけてるのは別の物。彼のマスクを作っている人とも友達になって、僕らはメモリアルになにか作りたいという話をした。今つけているマスク型のネックレスを一緒に作ったんだ。ガーネットが入った、オリジナルのネックレスだ。すごく重たいんだ(笑)。でも鍛えてるから大丈夫(笑)。

——(笑)。

サンダーキャット:MF DOOMは、リリシストとしてもプロデューサーとしても本当に優れた人だった。彼の人間性も大好きだった。僕がネックレスを首から下げていると、みんな注目するんだよね。そこで今みたいに思い出を語るから、彼の記憶をいつも身に着けているって感じがするんだ。

——記憶を身に着けている。すごく素敵な話ですね。

サンダーキャット:僕が持っている中で2番目に好きなネックレスだね。1番はこのソニック(笑)。

——ソニック(・ザ・ヘッジホッグ)はずっと好きなキャラクター?

サンダーキャット:そうだね、ソニックは大好きだ。今はマリオが1番だけど(笑)。このソニックのネックレスは僕のために作ってくれたもので、ゲームの『SONIC R』で使われている「Can You Feel the Sunshine」の歌詞が刻んであるんだ。

——『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は観ましたか?

サンダーキャット:まだ観られてないんだ。とても忙しい時期だったからね。今僕はLAに住んでいるんだけど、シアターに行くとソールドアウトで入れなかったりするんだよね。

——すごい人気ですよね。

サンダーキャット:ほんとにビッグな人気だ。でも、そろそろ誰も観てないと思うから、僕が観る時は劇場を独り占めできるといいな(笑)。

——アメリカの批評家には子どもっぽいって批判している人もいるけど、そんなことないですよ!

サンダーキャット:そもそもマリオは子どものためのものじゃないか(笑)。そんなの批判にならないよ。

ベジータ的ユーモア

——あなたのドラゴンボール好きは有名だけど、あなたは以前、孫悟空よりベジータに共感するって語っていましたよね。

サンダーキャット:そうだね。

——あなたには、どこかベジータ的なところがあるんじゃないかなと思うんだ。

サンダーキャット:わかる!  悟空はフライング・ロータスだろ?(笑)。

——そう! あるいはケンドリック・ラマー。

サンダーキャット:ケンドリックは『超ドラゴンボール』に出てくる孫悟飯ビーストだ(笑)。

——あなたの曲にはユーモアがあると思う。

サンダーキャット:その通り。

——「Dragonball Durag」は、恋人に愛を懇願する歌だけど、何度も「俺のドゥーラグ(頭に巻き付ける布のかぶり物)似合ってる?」と聞くじゃないですか?  すごく可笑しいですよね。

サンダーキャット:ははは! そう、ラブソングに見せかけて、実はひどい歌なんだ(笑)。

——そうしたユーモアは意識している?

サンダーキャット:自然に出てくるものだと思う。いろんなものが面白い、笑えるって感じるタイプなんだ。シリアスなものに限っておかしかったりするだろ? それが自然と出てくるなら、無理に抑える必要はないよね。

——「Friend zone」の、「俺はモータルコンバットやりたいから、どっか行ってくんないかな」と歌った後にケンドリック・ラマーの「Bitch don’t kill my vibe」を引用するとこなんか、爆笑してしまいました。

サンダーキャット:笑えるよね! あれ、引用しちゃって大丈夫かなと心配だったんだけど、ケンドリックも笑ってくれたよ。

——あなたのそういうユーモア、私は「ベジータ的」だと思うんですよね。

サンダーキャット:わかる。彼はプライドが高いのに、悟空みたいなすごい奴の前では常に謙虚にならざるをえない。「今イケてる!」と思っている時には、誰も見ていない(笑)。

——そういう体験を積んでるからか、彼は次第に客観的な視点を持つ、優しいキャラクターになっていく。

サンダーキャット:僕の中にも、もう1つの視点が常にあるんだ。言いたいことが、そのまま伝わるとは限らない。僕はそういうハードな経験をたくさんしてきた。だから、何かを言おうとする時、何かを表現する時には、いくつかの視点を常に持っているんだと思う。

ゲーム音楽からの影響

——あなたの音楽自体とても多義的ですよね。そもそも、あなたはスーサイダルテンデーシーズとエリカ・バドゥのベーシストとしてキャリアをスタートしているから、ハードコア・パンクとネオ・ソウルの両方に関わっている。

サンダーキャット:そうだね。

——今のあなたの音楽には、ジャズやヒップホップのグルーブもあるけど、同時にゲーム音楽的な直線性も感じられる。常に遠い音楽のミックスをしているように思えます。

サンダーキャット:子どもの頃から色々な音楽を聴いて育ったんだ。ジャズもゲーム音楽も大好きだった。あと、僕はシンプルなものに色を加えていくのが好きなんだ。マリオだって、最初のテーマ曲は今も使われていて、それがどんどんアレンジの変化で色を変えていってる。僕はそれが面白いと思う。やっぱり音の色合いなんだよ。

——ゲーム音楽はもともとすごいシンプルですよね。

サンダーキャット:1980年代から90年代初期のゲーム音楽は素晴らしいよね。下村陽子のカプコンでの仕事とか、僕は大好きだ。あれだけ限られた素材で、最大限のことをやってのけた。そこに子どもの頃の僕は興味を持ったんだと思う。今のゲーム音楽はリッチになって幅が拡がった。もちろん今も優れたものはあるけど、僕はやっぱり、限定された素材で創作していた頃のゲーム音楽の特異性に惹かれるんだよね。

——あなたの音楽にはYMOの雰囲気も感じるんですけど、それはゲーム音楽を通してなんじゃないかな。ゲーム音楽にはYMOの影響が絶大だから。例えばドラゴンボールの『超(スーパー)武闘伝』というゲームソフトで、ほとんど「ライディーン」そのままみたいな曲が使われていたりします。

サンダーキャット:その曲は知っているよ(笑)。でも、あれだけビッグなアーティストだからね。僕も含め、どこかで影響を受けちゃうんじゃないかな。YMOや坂本龍一も、シンプルな中に複雑な要素を秘めているよね。

——あなたは以前ドラゴンボールを「成熟した作品」と語っていましたよね。どこに成熟したものを感じますか。というのは、日本人にとって『ドラゴンボール』は少年のための作品、成熟する前に見る作品という印象が強くて。その違いが面白いと思ったんです。

サンダーキャット:たぶんアメリカ人にとって、『ドラゴンボール』は暴力的なんだよ。だから子どものものとは思われていない。『ドラゴンボールZ』や『NARUTO』は、アメリカでは暴力的なシーンを編集で切って放送している。僕はそんな必要ないと思うけどね。

——なるほど。子どもが見るものは暴力的であってはいけない。

サンダーキャット:おかしいことに、アメリカで一番売れてるカートゥーンは、結局日本のものなんだ。『呪術廻戦』、『NARUTO』、『ドラゴンボールZ』……。そうしたアニメは変に編集が入ってる。僕は1990年代から『新世紀エヴァンゲリオン』を観ているけど、あれはカルト的なパワーがあるよね。そういう作品にも編集はかけられるけど、オリジナルの生々しさが失われちゃう。

——そうだったんですね。

サンダーキャット:でも、アメリカの大人向けカートゥーンやコミックはもともとめっちゃ暴力的だからね! 暴力的なコミックに影響を受けている僕のことだから、アメリカ人の一般的意見じゃないよ(笑)。僕はクレイジーだから信用しちゃいけない。

——『ドラゴンボール』のアニメーションには、修行のシーンがあります。でもアメリカのスーパーヒーローは、最初からスーパーヒーローですよね。

サンダーキャット:バットマンもアイアンマンも金持ちだからね(笑)。彼ら自身の身体能力は、ただの人間だしね。

——ドラゴンボールにおける「修行して強くなる」過程が、アフリカン・アメリカンの境遇と重なるんじゃないかという話を聞いたことがあります。どう思いますか?

サンダーキャット:確かに、可能性としてはあると思う。ストラグル、闘争や葛藤ってのはアフリカン・アメリカンのコミュニティにとって大事な要素だからね。ヒーロー・コンプレックスという言葉もあるくらいでさ。やっぱり社会から認められていない境遇があるから、日本のアニメーションのトライする姿勢に共感するところはある。

——シンパシーを覚えるんですね。

サンダーキャット:でもわからないな。子どもの頃はただアニメに夢中だった。『ドラゴンボール』が好きな友達にはメキシカンもアジアンもいた。でも、教室では少数派だったね。僕らは人種を問わず、ただ「オタク」だったんだ(笑)。その「オタク」達が、成長して今はお金を稼ぐ立場にいる。そういう奴等は惜しみなく欲しいものに金を使う。だから余計にアニメが流行る(笑)。

——(笑)。

サンダーキャット:あの頃の友達と、「誰も俺らの趣味わかってくれなかったよな?」って話はよくするよ。僕達、日本で売ってる『ドラゴンボール』のカードダスが欲しかったけど、アメリカでは売ってなかった。だから、ネットでがんばって拾った写真を自分達でコピーして、ファイリングしてたよ。それをみんなで回して見てたんだ。「今日はお前が持ってていいけど、明日は俺が持ってくよ」って具合にさ。ファイルを見ながら、一生懸命自分達で勝手にストーリーを作ったりして楽しんでたんだよ。

——まさにゲーム音楽みたいな話ですね! 素材が限られているからクリエイティブになってた。

サンダーキャット:そう。自分達だけで頑張らなきゃいけなかったんだ。

ケヴィン・パーカーとのコラボ

——あなたの最新曲「No More Lies」での、テーム・インパラのケヴィン・パーカーとのコラボレーションはどのような経緯で生まれたんですか?

サンダーキャット:僕は最初のアルバムの頃から、ケヴィンとはずっと一緒にやってみたかったんだ。グラミーの時に会ってるんだけど、酔っ払ってて覚えてないんだよね(笑)。彼にアプローチしたら、「前に会ったよね?」と聞かれたよ(笑)。それで向こうも一緒にやりたいと言ってくれた。実際に会って曲作りをしたけど、楽しかったよ。パズルがはまるみたいにうまくことが運んだんだ。

——あなたとケヴィンは少し声が似てますよね。あなたの囁くような歌声は、黒人のミュージシャンでは特殊なんじゃないかな。

サンダーキャット:子どもの時に教会の聖歌隊で歌ってたんだよね。それに、歌と楽器でヤマハスクールにも通ってたから、歌うこと自体には抵抗なかった。レコーディングにコーラスで参加しているのも、子どもの頃からの友達だ。

——そうだったんですね。

サンダーキャット:レコードやライブで歌うのに慣れてくのには時間がかかったけどね。友達に「お前の声好きじゃない」と言われて落ち込んだり(笑)。でも、僕にとって憧れのプレイヤーはみんな歌ってた。トニー・ウィリアムス、ジョージ・デューク、フランク・ザッパ。ジャコ(パストリアス)ですら歌ってる。トニー・ウィリアムスがアリなら俺もできると言い聞かせてた。あいつの声、ほんとクレイジーなんだもん(笑)これがアリなら自分もできるなと思った。

——あなたのベースはパーカッシブだから、柔らかい声はきれいなコントラストを描いていると思います。

サンダーキャット:昔から僕はテナーだった。高い声も力が入るから、この歌い方が向いてるんだよね。普段の声はディープなんだけどね。地声で歌うとスリップノットみたいになるよ(笑)。

——それも聴きたいです(笑)。

サンダーキャット:すげぇハードになるよ!

——今日持っているスカルのバッグは、「プロスペクティブフロー(Prospective Flow)」とのコラボですよね。彼らとはどのようなつながりがあったの?

サンダーキャット:彼らは日本からLAに来てるよね。知り合う前から買って着ていたんだ。すごく着ててフィットするんだよ。ドミ & JD ベックが最初に知り合って、僕を紹介してくれたんだ。

——そんなつながりが。

サンダーキャット:コラボレーションを始めたのは最近のことなんだけど、もう長く友達だよ。すごくいい連中だし。

——あなたのジュエリーやネイル、それにヘアスタイルはどこかフェミニンなところがあると思います。意識していますか?

サンダーキャット:前も同じような質問を受けたんだよね。「内包している女性性」を指摘されたんだけど、自分ではピンときていないんだ。エリック・ベネイとツアーしたせいかな(笑)。彼のセクシーさに女性性を刺激されたのかもしれない(笑)。実際は、男性性・女性性というより、形や色が好きってだけだな。直感、フィーリングがすべてだよ。

——今日のネイルも素敵ですよね。

サンダーキャット:LAの友人のネイリストにやってもらったんだ。彼女は優れたアーティスト。こんなの彼女にしちゃシンプルなほうだよ。

——あなたの話を伺っていると、いろいろな人の名前が出てきます。他人とのつながりによって自分が成り立っているという感覚が、あなたの言葉や身振りから伝わってきました。最近「ブレインフィーダー」に入った長谷川白紙のことは知ってる?

サンダーキャット:もちろん。新曲も聴いたよ。素晴らしい曲だし、ビデオも素敵だった。エクレティックなサウンドで、「ブレインフィーダー」にふさわしいよね。一度会ってるんだよね。でも酔ってて覚えてないんだ(笑)。また彼に会いたいよ。

Photography Takuroh Toyama

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画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」 https://tokion.jp/2023/10/19/interview-ryusuke-sano/ Thu, 19 Oct 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=212598 10月28日にまで個展「ZOOOOOOOOOOM展」を開催している画家の佐野凜由輔にこれまでの経歴と本展への思いを聞いた。

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佐野凜由輔

佐野凜由輔
1994年生まれ、北海道・札幌出身。幼少期はカートゥーン、アニメーション、漫画に没入し、10 代後半でエゴン・シーレ、ジャクソン・ポロック、ジャン=ミシェル・バスキア、エリック・パーカーらに衝撃を受ける。画家を志して、2016 年にNYへ渡米。2018年に開催した初の展覧会から、規則性のない具象性と抽象性が共存する私的な記憶に基づく多色使いの表現方法を“ZOOM(ズーム)”というコンセプトに込め、精力的に作品を描き下ろす。アジア圏でのソロ展示やグループ展への参画の他、2022年に1st作品集を上梓。
https://ryusukesano.com
Instagram:@ryusukesano

ほぼ独学でありながら、その力強い絵で多くの人を魅了する画家・佐野凜由輔(さの・りゅうすけ)。2019年1月にリリースされたKing Gnuのアルバム『Sympa』のイラストを手掛けたことで、一躍注目される存在となり、その後も積極的に個展を行っている。もともとはファッションデザイナーを目指していた佐野が、いかにして画家となったのか。「運が良かった」と語る彼のこれまでのストーリーを、10回目となる個展「ZOOOOOOOOOOM 展」の会場で聞いた。

画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」
画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」

——もともと文化服装学院に通っていた佐野さんが画家を志した経緯から教えていただけますか?

佐野凜由輔(以下、佐野):文化服装学院のアパレルデザイン科に通っていたんですが、本当にパターンを引くのが下手くそで、周りにも優秀な人が多かったこともあり、2年生の頃に「一生服の仕事でやっていくのは難しいかも」と思い始めたんです。それでどうしようかなと漠然と考えていて、3年生の卒業間近の12月に「そういや海外のこと何も知らないな」と思って、以前から興味があったニューヨークに1週間ほど行きました。

最初は「ブルックリンミュージアム」にバスキアの作品を観ようと思って行ったんですが、ニューヨークの街はそこら中に現代アートがある環境で、そういったことにも触発されたんだと思います。それでニューヨークから日本に帰る途中で「画家になりたい」と思ったんです(笑)。

——それまでも絵は描いていたんですか?

佐野:Tシャツに描いたりする程度でした。学校を卒業して、1年間バイトしてお金を貯めて、もう1度ニューヨークにビザ無しで3ヵ月とりあえず行きました。そこで運良く、向こうに在住している日本人アーティストの方のアシスタントをさせてもらい、そこでアートやペインティングについて1から教えてもらいました。初めてキャンバスに絵を描いたのはその時です。

その師匠に「凜由輔は絵を描くのは速いから、とりあえずビビらずに描きまくれ」と言ってもらい、ニューヨークにいる時は絵をひたすら描きまくりました。その時に「絶対に画家になろう」と決意したんです。それで日本に戻ってきてからも展示のためにお金を貯めながら、絵を描き続けました。

——最初から今の作風でしたか?

佐野:もともとはボールペンで松本大洋さんのような線画を描いていました。でも、師匠から絵の具で描いた方がいいとアドバイスされて、それから今の作風になりました。

画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」
画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」
画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」

——佐野さんの特徴であるコラージュ的な作風もその時からですか?

佐野:それは最初からでしたね。コラージュに関しては、ファッションからの影響が大きいと思います。もともとリメイクものや「ジュンヤ ワタナベ」みたいに異素材をミックスさせるのが好きで。あと、色使いは「マルニ」の鮮やかな色の組み合わせの影響はあると思います。

僕の絵は1枚の中に綺麗なものがあったり、ストリートを感じるものがあったり、さまざまなモチーフが多層的にミックスされています。そのバランスに関しては、まだまだ発展途上で日々模索中です。

転機となった初個展とKing Gnuのジャケット

画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」

——初の個展はいつ頃でしたか?

佐野:2018年11月です。それも本当に運が良くて、原宿の「offshore(オフショア)」ってギャラリー兼アパレルのお店をやっている的場(良平)さんと僕の友人が知り合いだったんです。的場さんに「個展やりたいです」って話したら、「うち(「offshore」)でやっていいよ」と言ってくれて。それですぐに準備をして、そこで初めての個展をやりました。

実はちょうど同じ時期に、その個展のフライヤーをPERIMETRONの(佐々木)集さんが見てくれたみたいで、King Gnuのアルバム『Sympa』(2019年1月16日リリース)のジャケットの絵の依頼がきて。個展とそのジャケットの制作時期が重なったんですけど、「ここが勝負どころだな」と思い、それまでやっていたバイトを辞めて、本気でその作品に取り組みました。本当に時間がなくて、めちゃくちゃ大変だったんですけど、それがきっかけで仕事も増えて、本気でやってよかったと思います。

——その時から「ZOOM」というタイトルでやっていたんですか?

佐野:そうですね。当時はそこまでコンセプトを決めずに自分の感覚で絵を描いていて、個展のタイトルもどうしようかと考えていた時に、友人から「佐野の作品からはいろんな景色が見える」っていわれて。確かに、引きで見た時と寄って見た時と作品の見え方も違ってくるなと思い、「ZOOM」というタイトルをつけることにしました。

あと、イームズ社が作っている「Powers of Ten」っていう動画もヒントになりました。その映像の中で1番引いた時と1番寄った時、どちらもノイズっぽくなる。観る視点を変えれば、同じものでも違って見えるし、逆に最終的には同じものでもある、みたいなことを提示できそうだなと思いました。

同じタイトルで中身をどんどんアップデートしていくと意味を込めて、「ZOOM」シリーズを続けています。回数を重ねるごとにOを増やしていて、今回は10回目なので「ZOOOOOOOOOOM」なんです。

画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」
画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」
画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」
画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」

30歳までの目標をかなえる

画家・佐野凜由輔が切り開く新たな可能性 「独学でもここまでできるっていうのを見せたかった」

——今回が10回目の個展ということですが、それもあって北海道(2023 年9月26日〜10月6日)と東京の2ヵ所で展示をしようと思ったんですか?

佐野:10回目というのはあまり関係がなくて、もともと30歳になるまでに自分で企画して大きな展示をやろうと、3年くらい前から考えていました。独学でアートをやってきた自分でも、ここまでできるっていうのを見せたくて。それで会場をどうしようかなと考えていたところ、地元の北海道への帰省中にモエレ沼公園に行った時に、ガラスのピラミッドでやってみたい、ここでやろうと決めました。ただ、モエレ沼は公園なので、展示はできても販売ができないんです。ちょうどその時に、MU GALLERYさんとのご縁があり、巡回展として東京でもやることになりました。

モエレ沼公園での展覧会では、企画から準備など全部自力でやったので、妻にも協力してもらい、本当に大変な毎日でした。でも、目標としていた30歳までに、思い出に残る企画展をやる、という目標をかなえられたことはよかったです。

また、2ヵ所でやることで、場所が違えば作品もまた違って見えて、そこも「ZOOM」っていうタイトルに繋がっているなと思います。

——今回、過去最大サイズ(3,000×5,400mm)の作品も制作していますね。

モエレ沼公園での展示風景

佐野:本当はもっと大きいのを作りたかったんですけど、キャンバスを調達できず、今制作できる最大のサイズとしてこの大きさになりました。

——佐野さんが現在、長野に住んでいるんですよね。それは大きい作品を作りやすいからですか?

佐野:そうですね。個人的には「売れる」「売れない」を抜きにして、大きなサイズの作品を作りたいという欲求があって。でも当時住んでいた埼玉の一軒家だとなかなか満足いくサイズが作れなくなってきて、たまたま知り合いが長野に移住したこともあって話を聞くと、長野もいいなと思い、良い場所が見つかったタイミングで3年前に移住しました。

あと、ノイズのない環境で制作することで、より自分にも作品にも向き合えるなと思ったことも移住した理由の1つです。

——立体作品制作も考えていますか?

佐野:それはまだ考えてはいないです。もちろんオファーがあったら前向きに考えることにはなると思いますが、自分的にはまずは絵をちゃんと描き続けることが今一番やるべきことだと思っています。それでもっと売れて、アーティストとして一人前に食べていけるようになったら、もしかしたら自分から作りたいと思えるかもしれないですね。

——今後は海外での展示も視野に入れていたりしますか?

佐野:そうですね。今回のイサム・ノグチがデザインしたモエレ沼公園での展示の実績が、海外に向けてのプレゼンテーションになるかなと思っていました。そうしたら、偶然ニューヨークのギャラリーから個展をやらないかとオファーをいただき、来年の夏頃に向こうで展示をやる予定です。

——確実に目標がかなっていますね。今後については?

佐野:本当に運が良いんだと思います。とりあえず今はそのニューヨークの展示をどうしようかなという感じでいろいろと考えています。体力が続く限り、全力で絵を描き続けていきたいと思っています。

佐野凜由輔「ZOOOOOOOOOOM展」

■佐野凜由輔「ZOOOOOOOOOOM展」
会期:2023年10月14〜28日
会場:MU GALLERY
住所:東京都品川区東品川1-32-8 TERRADA ART COMPLEX II 2F
時間:12:00~18:00 
休日:日曜、月曜
入場料:無料
https://www.mugallery-tokyo.com

Photography Yohei Kichiraku

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チュートリアル徳井義実が短編映画を制作 監督から出演まで“1人5役”をこなすクリエイティブ秘話 https://tokion.jp/2023/10/19/yoshimi-tokui-interview/ Thu, 19 Oct 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=211861 2024年の上映に向けて鋭意編集作業中の徳井にインタビュー。

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徳井義実

チュートリアルの徳井義実が、「別府短編映画制作プロジェクト」第5弾に、短編映画『喝采は聞こえない』で参加した。監督、脚本、撮影、編集、出演の1人5役のフル稼働。2024年の上映に向けて鋭意編集作業中の徳井に時間をもらい、作品や活動、仕事への向き合い方について聞いた。

――『喝采は聞こえない』を監督することになった経緯から教えてください。

徳井義実(以下、徳井):15〜16年前に「YOSHIMOTO DIRECTOR’S 100 〜100人が映画撮りました〜」で、『nijiko』という短編を監督したんです。「別府短編映画制作プロジェクト」の知り合いのスタッフが、それをすごく好きだったみたいで、声をかけてくれました。YOUTUBE「徳井Video」をやり始めてちょっとたった頃で、動画を作るのが好きやったから、映画というよりは動画を撮るテンションでよかったら、という感じでしたね。いつか動画か小説か何かにしたいなと思っていたお話が僕の頭にあったので、それを形にできるかなとも思って。

――「劇団で伸び悩んでいる女優が、人生のターニングポイントを迎える」ストーリーとのことですが、どのように思いついたんですか?

徳井:2年くらい前に家の近所を普通に歩いてて、ふとお葬式を見たか、お葬式のことを思ったか、したんですよ。その時に、「死んだ人ってお葬式の主役なんやな。圧倒的な」と思って。参列者が観客って考えると、なんとなくストーリーが思い浮かんだんです。

――監督、脚本、撮影、編集、出演をされたそうですが、どの作業が一番楽しかったですか?

徳井:楽しいのはやっぱり編集……でも撮影も楽しかったですね。大人の文化祭みたいで。チームで1つのものを作るというのはすごく楽しい。編集も、撮れたものを持って帰って、いい感じに並べるとか、色味をいじるとか、音を付けるとか、そういうのもおもしろいですね。

――徳井さんは1人でコツコツ作業をするのが好きなタイプだと思っていたので、チームで動く映画の現場が楽しいというのはちょっと意外でした。

徳井:映画はさすがに1人じゃできないんで、必要に駆られてやってるだけで。基本的には、大人数ででっかいものを作っていこうとはあんまり思ってないかもしれないです。30代とか40代前半ぐらいまでは、いろんな人に思いを伝えて動いてもらったり、いろんな人の力を借りたりしないといけないなって思ってましたね。そもそもがそんなに社交性がない人間なんで、20代の頃とかほんまに全部1人でやってたから、それではいかんなと。東京に出てきて、お仕事の規模とかも大きくなっていくにつれて、やっぱ人を巻き込んでやらなあかんなっていう意識を持つのが40代前半までで。番組にしても、スタッフさんとコミュニケーションを取るとか、共同作業をしているという意識をちゃんと持つというか。もうそれは散々やったから、こっから先の人生は閉ざしていこうという心境です(笑)。無理して広げず、1人でやったほうがいいと思ったら1人でやる。映画みたいに、みんなの力が必要なものをやることになったら、みんなと作る。

――メディアの違いはありますよね。YOUTUBEは1人でも作れるけれど、テレビ番組は1人では作れない。徳井さんの中で今、テレビはどういう位置づけにありますか?

徳井:うーん、テレビを作る人達に自分が必要とされているかどうかっていうところで、以前は必要とされなあかんし、テレビにも出ていかなあかんっていう気持ちでやってましたけど、今は「必要とされるのであれば、全力でやります」って感じですね。もうちょっと自分の仕事にわがままになっていいのかなというか。テレビって誰かのためにやってる要素がかなり多くて。僕なんかは特に、「番組を成立させよう」とか「スタッフさんの意図をくもう」とか、そういう意識がすごく強かったので。今は、もうちょっと自分のやりたいようにやらしてもらおうかなっていうところですね。

――「場の空気を意識する」というところで、映画監督として現場を動かす時に、どんなことを意識しましたか?

徳井:現場がせかせかしないように、嫌な感じにならないように。みんなが楽しくできるようにってことを、一番に考えてますね。あまりにも疲れてる人がいたら休憩取ったらいいし。とにかく、エンタメを作ってるんやから、みんなが楽しいほうが絶対にいい。終わってから、1人残らず「楽しかったね」って言えたほうがいいと思うんで。それは目指してやってます。

――チームに自分の考えを伝えるのって大変ですよね?

徳井:めちゃくちゃ難しいですよね。今回の映画でもそうですけど、それ以前に芸人としてのライヴとか番組内の企画、コント番組のコントとかで僕が考えた台本をやりましょうという時も、「こんな伝わらんか!?」っていうことがめちゃくちゃありました。人には100言っても10ぐらいしか伝わらへんっていうのを大前提にずっとやってますね。せやから伝えたあとも注意して見ているとか、それをもっと伝わるようにするためにはどうしたらいいのかっていうのも考えながらやってます。もうちょっと若い時は、「伝わらんでも俺がわかってるから、最後は俺が引き取っていつか完成すればいいや」みたいなところもあったんですけど、それはちょっと無責任やなって最近思ってきて。人に伝える作業から逃げてはいけないなって思うようになってます。

制作者としての新たな自分。「発信したいものを発信する」

――YOUTUBE「徳井Video」は監督、撮影、出演、編集と、すべて自分1人でやっているそうですが、その自分にしっくりくる肩書はありますか?

徳井:えー? 何やろう? 

――YOUTUBER?

徳井:YOUTUBERという言い方もよくわかんないんすけどね(笑)。なんなんやろなあ。制作者とか?

――しっくりきました。他の人に例えるのはあまり良くないかもしれないけれど、徳井さんのYOUTUBEを見ていて、ちょっと板尾創路さんを思い出しました。何もせずに黙ってカメラの前にいられる自信というか、肝の座り方に(笑)。

徳井:(笑)。別に笑いを取りに行こうとかしてないので。芸人がやってるYOUTUBEっていうことでもないような気がするし、僕も別に芸人としてではなく、1人のおっさんとしてやってるんで。ただ、構成やテンポ感はある程度考えてますね。映像に音を付ける作業がすごく好きなので、わりと手を掛けてます。

――自分が作った映像に対する、世間の反応を気にされますか?

徳井:YOUTUBEのコメントは全部見ます。もちろん批判的な反応もありますけど、全然気にならないですね(笑)。もしも再生回数を稼ごうとか、世間のニーズに合わせていく作業をしていたら、批判的な言葉が来たら「あ、これ違うんや」とショックを受けると思うんです。せやけど、僕は自分が発信したいものを発信しているだけなので、批判的な反応があったとしても「あ、そうですか。とはいえ別に僕変えません」なので(笑)。反応は気になりますけどね。「楽しんでくれてんねや」とか、「そんなふうに受けとるんや」とか。

――自分が発信したいものを発信して批判された場合、自分が否定されている気持ちになってしまう人もいると思います。「自分、愛されてない!」とショックを受けてしまうように。

徳井:そもそも愛されてると思ってないし、「愛されてないと嫌だ!」とか全くないんですよね。自分がその時に出したいものを出してるだけやから、「違う」「おもんない」と言われても、変えようとは全く思わないんで。すごくシンプルです。反応は反応。「こういう反応なんや」というだけ。

――逆に、再生回数が良くて、「これが受けるんだ!」と思っても、そっちに寄せない?

徳井:あんまりしないですかね。「これはわりと人気あるんやな」と思ったら、シリーズじゃないけどちょこちょこやってみるとかはありますけど、それで「味しめた感」が出るのも嫌やし(笑)。人気企画みたいなものに頼ってしまうと、瞬間風速は上がるけど持続しないチャンネルになってしまうかもしれないですし。僕は、粛々と出していくっていうスタイルです。

――YOUTUBEを始めてから、ファン層に変化はありますか?

徳井:男の人がすごく増えました。「YOUTUBE見てます」って言ってくれたり、ポップアップストアに来てくれたりする人も男の人がめちゃくちゃ多いですね。

――徳井さんはなんというか、フォームが崩れないですね(笑)。

徳井:そうですねえ。あんまり人に褒められても嬉しくもないし、否定されても悲しくもないんで。もう全然。なんでこんなやつになってしまったのか(笑)。

――どういう時にテンションが上がりますか?

徳井:「なんかめちゃくちゃいいのできた」とか、「今日よかった」とか、「あの時あんなんよう出たな」とか、自分で自分を褒める時しか嬉しくないですね。

「芸人」という立場における意識の変化

――今、徳井さんが「芸人」をどういうものと考えているのかが気になります。

徳井:そうですねえ……。そもそも芸人なんてものは、座敷に呼ばれて「とりあえず何かやれ」と言われてやって、なんとなく笑ってくれたらええかぐらいのやつらなので。芸人はこうじゃないといけないとか、芸人たるものみたいなとか、そういうふうに考えるのはなんか違うなと思うんで。なんとなく誰かを楽しませていればいいのかなっていう感じですね。

――徳井さん自身、「芸人」という意識はどれくらいあるんですか?

徳井:芸人として、というところでいうと、ネタをやってる時だけでいいのかなって思ってきてます。そもそもバラエティ番組に出ている時の自分が芸人なのかと言われたら、ちょっとわからない。僕は、芸人がテレビに出ている時は、テレビタレントなんじゃないかなと思うんです。それでも個人個人で違いはあって。自分がしゃべる番がきたらとりあえず笑いに向かっていくというか、笑いを目的としたことしか言わない人もいる。でも僕は、さっきも言ったようにわりと現場の空気を読んでしまうんで、どっちかっていうと、テレビに出てる自分はわりとテレビタレントやったのかなっていう気もするんです。今は、お笑い芸人としての欲求を満たすのは、ネタをやってる時だけでいいんやないかなっていう心境ですかね。

――2024年には監督作品『喝采は聞こえない』が公開されます。どんな方に見ていただきたい、どんなことを感じてほしいというのはありますか?

徳井:最初に話を作り出した頃の意図とは変わってしまったというか。人生って、切り替えたり諦めたりしないといけない時があると思うんです。でも、今までやってきたことを諦めるのも、切り替えて新しい方向に進むのも、今までのことが無駄だったのかなとか考えてしまうと結構つらいじゃないですか。そこで、切り替えを楽しむのも、不安はあるやろうけど希望を持って新しい生活に飛び込むのもいいんじゃないかなと、作っていくうちに、そういうところに着地したんですよね。誰しも1回ぐらいそういう分岐点みたいなのが人生で来ると思うんで、そんな時にふと思い出してくれるような映画になればいいですね。

――今の徳井さんだからそうなったのかなと感じました。では最後に、これからやりたいことや、計画していることを教えてください。

徳井:動画はこれからも撮りたいですね。今回の映画を撮る前から、短編動画みたいなものは撮りたいなとは思っていたので。YOUTUBEチャンネルも、今はキャンプの動画、ご飯を作る動画が軸になっているんですけど、もう1個ぐらい何か違うテイストの軸がほしいなと考え中です。それがドラマっぽいものなのか、何なのかはわからないですけど。あと、「徳井video」のキャンプイベントを6月にやって、10月(※10月14、15日に開催)に第2回をやるんですけど、それを移動遊園地みたいにしていきたいなと思ってるんですよね。高校の時の夢が、遊園地のオーナーだったんです。

――そうなんですか!

徳井:高1の時に、初めてまともに付き合った女の子とクリスマスに遊園地にデートに行って。最寄りのモノレール駅で、「帰ろっか」言うてたら、遊園地のイルミネーションがキラキラしてて、その子がうっとりとした表情で遊園地を見てたんですよ。そん時に高1の僕は「よし遊園地を作ろう」と思って、ずっとそういう思いがあったけど、もちろん遊園地なんて作れへんし。電鉄会社に入るのもオリエンタルランドに入るのも無理やなと。でも、キャンプのイベントやったら、移動サーカスみたいな空気感の遊園地ができるんやないか、あの頃に思い描いた夢がかなうかもしれないと思って、6月のイベントに大道芸人さんとか呼んでみたんです。静かなキャンプっていうよりは、夜も遅くまで騒げて、お酒飲んでワイワイやれるキャンプイベントです。それを大きくしていきたい。スポンサーさんもたくさん募って、そのお金を演出費に全部ぶち込んで、移動遊園地のメリーゴーランドとかをレンタルして置きたいなあと。花火も上げたいですね。

Photography Miyu Terasawa
Edit Nana Takeuchi

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連載「時の音」Vol.23 北村道子が見据える“現在”という点 https://tokion.jp/2023/10/13/tokinooto-vol23-michiko-kitamura/ Fri, 13 Oct 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=211774 自身の哲学を貫き、今もなお第一線で活躍している北村にインタビュー。

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北村道子(きたむら・みちこ)

その時々だからこそ生まれ、同時に時代を超えて愛される価値観がある。本連載「時の音」では、そんな価値観を発信する人達に今までの活動を振り返りつつ、未来を見据えて話をしてもらう。

今回は、ファッション業界歴40年以上というスタイリストの北村道子が登場。自身の哲学を貫き、今もなお第一線で活躍している北村が見つめる先にあるものとは。

思い出すのは「記憶」

ある晴れた午後に、このインタビューは行われた。待ち合わせの場所に着くと、すでに北村道子は待っていて、「外のほうが気持ちがいいと思って」とテラス席で言った。

「そこの噴水のところにカラスがやってきて、水を飲んでいたんですよ。それをここから眺めていたんです。眺めながら『どうしてここに水を飲みにやって来たのだろう、池は他にもいっぱいあるのに』とか、『あれは子どもかな』なんて、考えていたんです」。

連載「時の音」Vol.22 北村道子が見据える“現在”という点

北村は40年以上にもわたりスタイリストとして活動し、今もなお第一線に立っている。移り変わりの激しい世界に身を置き、広告、映画、ファッションとさまざまな領域に立ってきたが、そのどこにも属するわけではない。いつだって、自分のやり方で仕事をし、哲学を貫いている。だからこそ、多くの人が彼女に引きつけられるのだろう。そして同時に、これまでの足跡に関心を抱くのだけど、本人はきっぱりと言う。「私は過去は振り返らない。振り返ったことがないですね」と。

「これまでのことを聞かれたら、これが私の答えってことだと思います。昔を振り返って何があるの? 振り返ったりしたら、きっともう自分の言葉は出てこないですね。現在は点じゃないですか。だから今話したことも、もう過去になって行くんですよ。思い出すのは何かと言ったら、記憶ですよね。それは脳内の物質でしかないもの。今はみんな脳内にある社会ばかりを見ているんです。考えるって、脳内を見ているということでしょう。過去の話をするというのは、過去をリピートしているだけ。同じことをずっと繰り返して、何年も生きてしまうだけですよ。だけど、自分の脳内にあるものなんて、たかが知れているじゃないですか。リピートするだけでなく何かを発見しないと。発見によってアートが生まれるのだから。人はアートがなければ何もない生き物。あとはただお金もうけを繰り返して、そして壊れていくだけでしょう」。

次々に繰り出される言葉に耳を傾けていると、1人の人の生き方に触れている実感が押し寄せてくる。他愛もない話題から政治、文化、ファッションへと移り変わるうちに、今日はどんな取材なのか、テーマは何だったのか、この人物がどんな肩書を持つのか……というような意識はどこかに行ってしまい、ただそこにいる北村の、生身の世界に触れているように感じる。情報や記号を拾い集めて何かを理解したつもりになってしまいがちな最近の世界に生きていると、かなり新鮮な驚きと刺激に満ちた体験。取材のノートは、膨大な言葉であふれていく。

「じゃあ私が何を見ているのかって言ったら、それは目の前にある風景です。自分が見ているビジュアルこそが、私の好奇心。私はビジュアルにしか興味がないですから。そして目の前のビジュアルをずっと見ていると、その風景のことがわかってくるんですね。ああ、ここにはブナの木があるんだな。カラスがやってきた。なぜだろう? …というふうに、自分なりの疑問を投げかけるんです。頭の中の自問自答なんだけれど。そういうことなんです、私にとって言葉や知識が生まれるというのは。仕事において自分の作品を“残す”というのも、私には違う。作品というものは目の前で生まれていて、それを私はその場で見ているんです。撮影の現場で。だから、例えば雑誌の場合なら1ヵ月後くらいに誌面になるわけですが、そこに載っているのは私にとってはもう作品じゃない。フェイクのようなもの。でもそれをフェイクとわかっていながら、ずっとやってきているんです」。

どんなトピックスに対しても、北村は必ず独自の見方を投げかける。見るたびに見方が変わる。違う視点が見つかっていくようだ。「最近だと、つい先日見た映画『TAR/ター』がおもしろかった。あれは心理学と民俗学とセクシャルというテーマを色濃く含んだ作品だと思うんです。誰もそんなことは書いてないけれど、私はそう考えているんです。本当にいろんなディスカッションができる作品でしたね」。

これまでに3冊出版されている自著『衣裳術』の中にも見つけることができる言葉だが、北村は自身の服に対する見方やスタイリングについて語る時に、「服の力」という言葉を用いる。力というのは、哲学のこと。哲学があるから、人は引きつけられる。だとしたら、私達はこの取材で「人の力」を感じていたのだと思う。「人と同じがどうもダメ。それは子どもの頃からずっと」という彼女は、「若い頃から、『どうやってこの惑星を歩こうか、歩いてみようか』と生きていた」という。

噴水にやってきたカラスに、電車の中の人々にと、ささいなことをじっと見つめて感じ取る。その小さな感性の連なりが、いつしか北村道子という人物を作り上げている。「やっているのはどれも、どうってことないことなんですよ。でも、どうってことないことを、今はみんなやらないじゃない?」。

何気ないことをおもしろがる好奇心が、コピーアンドペースト不可能な人の個性の源泉となるのだろう。スマートフォン1つあればどんな情報でも得られる世の中では、最新のファッションやカルチャーは当然のこと、もっと突き詰めればパーソナリティや思考だって、すでにできあがったものを一式手に入れることが可能になってきている。そのことに多くの人が気付き始めている今、生身の言葉や鋭いまなざしが、ひときわ強い引力を放っている。なぜなら、そこにその人ならではの温度があるから。

Photography Anna Miyoshi
Edit Nana Takeuchi

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