連載 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/series/ Mon, 30 Oct 2023 01:01:52 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 連載 Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/series/ 32 32 連載「The View My Capture」Vol.17 写真家・カクユウシが見る「後ろ姿」の向こう側にある微かな光たち https://tokion.jp/2023/10/30/the-view-my-capture-vol17/ Mon, 30 Oct 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=213012 観察対象の全体像が見えず五里霧中の状態でも、その輝いている視線に照らされた先から滲み出る微かな光をかき集めれば、ボヤけていたはずの後ろ姿の向こう側をイメージすることができる。

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気鋭の若手写真家を取り上げて、「後ろ姿」という1つのテーマをもとに自身の作品を紹介する連載企画。後ろ姿というのは一見して哀愁や寂しさを感じられることが多いが、見る対象や状況によっては希望に満ちたポジティブな情景が感じられることもある。今回は、グラフィックデザイナーを経て、広告制作会社に勤めながら個人の作品を制作する台湾出身の写真家・カクユウシの作品。観察対象から滲み出る微かな光をかき集めることで、見えてくる「後ろ姿」の向こう側とは。

カクユウシ
台湾出身。グラフィックデザイナーの活動を経て来日。
日本写真専門学校卒業後、現在広告制作会社に勤務しながら個人の作品を制作している。
Instagram: @y.kaku.u
https://kakuyushifoto.wixsite.com/portfolio

背中の向こう側

いつも何かの憬れを精一杯に追いかけている。

けれどもそれはあまりにも高くそびえる存在であって、全体像を掴むこともできず近づけば近づくほどボヤけて曖昧になり、徐々にわからなくなったり、見失ったりして途方に暮れる。

全体像が見えず五里霧中の状態だけど、その輝いている視線に照らされた先から滲み出る微かな光をかき集めれば、次第に後ろ姿の向こう側をイメージすることができる。

そしたらボヤけていたはずの後ろ姿も鮮明に見えるようになってくる。そんな気がしている。

直接観察するよりも後ろ姿を越えてその先を観察すれば、「なぜここに?」、「何のために?」、「どういう風に?」など、本質的なものがより見えてくる。

こういった観察対象から無意識の中に滲み出る情報をパッと見た時に、零細でまとまりに欠けているように見えるかもしれないけれど、心象風景や存在意義およびそれに対する問いかけ等、大事なことがそこに隠れていると直感的に思っている。

だからいつも目を見開き、その微光の中にある大切な情報を見落とさないように。

それは物事について知る時でも、人と付き合う時でも、同じなのだ。

現実が現実っぽく見えない、違和感が溢れてくる瞬間を切り取る

−−写真を始めたきっかけは?

カクユウシ(以下、カク):今振り返って見ると、特にきっかけと言えるきっかけがなく、ただただデッサンのように世界を観察する手段として中高生の頃からずっと撮り続けてきました。

−−シャッターを切りたくなる瞬間は?

カク:現実が現実っぽく見えない、違和感が溢れてくる瞬間です。

−−オンとオフで愛用しているカメラは?

カク:「ジナー P」

−−インスピレーションの源は?

カク:音楽。最近はレコードを聴きながら物事を考えています。

−−今ハマっているものは?

カク:Google Mapを見ずに、目的も目的地もなく散歩をすることです。

−−今後撮ってみたい作品は?

カク:シネマグラフ。写真と動画の隙間で遊びまくりたいです。

−−目標や夢は?

カク:短期の目標は、個展を開催することです。

Photography & Text Yushi Kaku
Edit Masaya Ishizuka(Mo-Green)

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Girls’ Film Fanclub Vol.1 ウルリケ・オッティンガー監督『アル中女の肖像』ゲスト:斉藤綾子(明治学院大学教授)後編 https://tokion.jp/2023/10/13/girls-film-fanclub-vol1-part2/ Fri, 13 Oct 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=211247 「Sister」の長尾悠美をホストにTOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目はフェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子を迎え、ウルリケ・オッティンガー監督の代表作『アル中女の肖像』にフォーカス。後編では作品のディテールに迫る。

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(左)斉藤綾子(右)長尾悠美

(左)斉藤綾子
東京都生まれ。上智大学文学部心理学科卒業。サントリー(株)勤務を経て、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) 映画テレビジョン学部批評学科博士課程修了 (Ph.D)。明治学院大学教授。専門は映画理論、フェミニズム映画批評。フェミ・ジャーナル誌『ふぇみん』の映画評を担当している(隔月)。

(右)長尾悠美
渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアートを通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」の代表を務め、他にも映画やアートにまつわる企画を積極的に行う長尾悠美をホスト役に、TOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目は、フェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子をゲストに迎え、唯一無二のクィアな映像世界で知られるドイツの映画監督ウルリケ・オッティンガーの代表作『アル中女の肖像』(1979年)にフォーカスを当てる。

冷戦下のベルリンが舞台の『アル中女の肖像』は、『タブロイド紙が愛したドリアン・グレイ』、『フリーク・オルランド』と並んで同監督の「ベルリン三部作」として知られる。ジャーマン・ニューシネマの旗手、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーをして「最も美しいドイツ映画」と称賛せしめた本作は、主人公の「彼女」がベルリンの街を歩き回りながらひたすら酒を飲み続けるという至極シンプルな映画だ。しかし、だからこそ隅々にまで散りばめられた社会への鋭い洞察や風刺、実験精神やユーモア、そして主演のタベア・ブルーメンシャインの装いの美しさが際立ち、観るものを魅了してやまない。近年、再評価の機運が高まり、日本でも渋谷のユーロスペースでの上映を皮切りに、現在も全国で順次公開中だ。

ファッションを軸にさまざまな活動を続ける長尾と、1980年代にアメリカでフェミニズムに触れ、アカデミックな現場で映画を論じてきた斉藤は、オッティンガーの名作をどう観たのか。自分たちの人生にも引き寄せながら、その色あせない魅力や価値、そして今の時代に生きる私達に投げかける問いの数々について自由に語り合う。対談後編は、『アル中女の肖像』のなかで様々な示唆を含む視覚的効果やリファレンス、作品が喚起する「映画は窓か、それとも鏡か」という議論、そしてオッティンガー独自のユーモアが持つ力について。

記事前半はこちら

※記事内には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

『アル中女の肖像』にちりばめられた視聴覚的効果

長尾:それでは『アル中女の肖像』の中身についても先生のお話をうかがっていこうと思います。本作でまず印象的なのは主人公を演じたタベア・ブルーメンシャインの存在感とその自由な装いです。作品の中に視覚的に訴えかけてくるものがとても多いなと感じました。

斉藤:そうですね。これはオッティンガーがまず画家であったことが大いに関係しているでしょう。画面の中に色彩や視覚的要素を入れ込んでいく彼女の画作りは、ドイツ映画史の文脈からすると「表現主義的」と形容できるかもしれません。映画序盤、タベアは赤や黄色などの鮮やかな原色の衣装に身を包んでいますが、映画が進んで徐々に彼女が崩壊していくにつれて、衣装もどんどん色を失っていくんですよね。

長尾:言われてみると確かにそうですね。それから作品の中に、窓ガラスの表面に水などの液体がかけられて、そのガラス越しに被写体がにじんで見えるような描写が頻繁に登場していて印象的だったのですが、斉藤先生はあのシーンをどうご覧になりました?

斉藤:そうですね。液体と窓の描写は『フリーク・オルランド』でも登場しますし、私もおもしろいイメージだなと感じました。オッティンガー自身がどういう意図で撮っているのかはわからないですが、私は「映画は鏡か、それとも窓か」という映画を取り巻く1つの議論を思い出しました。それは映画という存在を、社会をありのままに映す透明な窓と考えるのか、もしくは自己言及的に自分(作者)を映す鏡ととらえるか、という映画に対する見解の違いによって起こるものです。透明な窓を通して、観客に対してあたかも窓がないかのようにイメージを見せるのか、それとも窓の存在を明らかにして、実はそこに媒介しているもの、つまりはバイアスが存在していることを意識させるのか。そういうことを考えさせられるイメージだなと。液体がかかると、観客は目前のイメージとの間には透明なガラスが介在してきたことを改めて意識しますからね。

長尾:それから、ガラスが割れる音や物をぶちまける音、主人公のタベアのヒールの音など、この映画において「音」の要素もとても重要だと感じました。特に、オープニングもエンディングもヒールの音が印象的に響いていますね。

斉藤:そうですね。パンフレットにもありますが、オッティンガーは音をとても重要視する監督でもあります。あらためて考えてみると、ヒールの音は「女性性」を象徴するものであり、この映画の中では主人公の存在そのものを象徴的に示すものでもある気がします。序盤は小気味よく、リズミカルに響く彼女の足音が、彼女が崩壊していくにつれて乱れていくんですよね。そして最終的に、鏡に囲まれた空間の中、ヒールでその鏡を割りながら奥へと歩いていく。それは彼女が自分そのものの中に入り込んでいき、自分自身を壊していくようにも見えましたし、それがある種の解放につながるのかなとも思ったりもしました。

実はこの映画のハイヒールの音からシャンタル・アケルマンの『アンナの出会い』(1978年)を思い出したんです。『アンナの出会い』もまた、オープニングはヒールの音で始まりますしね。アケルマン作品の中にも『囚われの女』(2000年)をはじめ、ヒールの音が効果的に使われている作品は多いんですよ。

長尾:確かに!『ゴールデン・エイティーズ』(1986年)のオープニングのヒールの音も印象的ですよね!

斉藤:そうですね。もしかすると、「毅然とした女性」のイメージを音で表そうとすると、それはヒールの音なのかもしれません。たった一人、孤独に歩く女性のイメージ。屋内に留まっていない女性。とても映画的です。

『モロッコ』と『アル中女の肖像』が描く異なる女性像

長尾:話は少し変わって、私自身、上京してすぐの頃に、ドイツ人の女優で歌手でもあったマレーネ・ディートリッヒを知り、とりこになりました。彼女の音楽を聴いたり、出演した映画を観たりする中で、そのファッションからも大きな影響を受けて。「Sister」の初期の頃に、ディートリッヒをオマージュしていた時期もあったくらいです。斉藤先生がパンフレットに書かれていたことによると、『アル中女の肖像』の中に、ディートリッヒが出演した『モロッコ』(1930年)などを参照している部分があるとのことですが、そのあたりを少し詳しく聞かせていただけますか?

斉藤:これは私も関連する文献を読んでいるなかで発見したことなんです。ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督とマレーネ・ディートリッヒが組んで1930年に公開された『モロッコ』は、字幕映画の第1号として日本でも公開されてヒットしましたし、私も大好きな映画で、彼女が男装して歌うシーンも有名です。

『アル中女の肖像』の冒頭で、タベア演じるアル中女がフランス語で「Aller jamais retour (=二度と戻らない)」と言ってベルリンへの片道航空券を買うんですが、『モロッコ』でも、ディートリッヒ演じる歌手のアミー・ジョリーが冒頭、モロッコへ向かう船に現れた時、彼女のような女たちは「片道切符だけで二度と戻って」こない「自殺志望者」と呼ぶと船長が言うんです。もう1つはラストシーンなんですが、『モロッコ』で行軍するトム(演:ゲイリー・クーパー)の部隊を追って、アミー・ジョリーが砂漠の中を延々と歩いていく後ろ姿が映し出されます。その時、彼女はずっと履いていたハイヒールを脱ぐんですよね。先ほどハイヒールは「毅然とした女性」を象徴すると言いましたが、主人公のアミーが男性のもとに向かうためにヒールを脱ぐということが、彼女自身の変化を表していると言うこともできます。一方で『アル中女の肖像』のラストでは、主人公は酒でボロボロになりながら1人で背を向けて鏡の中へと歩いていく。その後ろ姿のイメージは『モロッコ』にも重なりますが、彼女は歩くのもままならない状態なのに最後までハイヒールを脱がなかった。その対比はとても示唆的でおもしろいと思います。

長尾:確かにおもしろいですね。オープニングとラストシーンにそれぞれ『モロッコ』のレファレンスが含まれているのも興味深いです。

斉藤:1920年代のワイマール文化の中にあったベルリンは、文化的にとても豊かで、まさに芸術の街。劇場が50館近く、映画館も300館以上、キャバレーが70軒以上、そして数えきれないほどのカフェもあったと言われ、男装が流行、同性愛者も多くいました。こうした豊かな文化はナチ時代に消失し、戦後でもドイツでは同性愛を禁止する刑法175条という法律が撤廃されずに1994年まで残っていました。加えて70年代初めドイツではテロリズムなどが起こり、社会状況は混乱していました。そんな中で『アル中女の肖像』を作っていたオッティンガーが『モロッコ』などの作品を参照したのは、ディートリッヒが体現した1920年代のワイマール文化やベルリンへの憧憬、そして作中に登場する彼女の魅力的な男装姿にあらためて美を見出したことの現れなのかもしれません。

「良識」「社会問題」「正確な統計」が私たちに問うもの

長尾:それから、アル中女と対比をなすように一貫してグレーの服に身を包み、彼女に付きまとう「良識」、「社会問題」、「正確な統計」という3人の女性達もこの映画を象徴する存在ですよね。

斉藤:そうですね。これは監督自身が語っていることかもしれませんが、「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人の言葉は、私達が社会の中で押し付けられる制約や、否応なく内面化させられている声なのかなという気がします。そしてそれは、タベア演じる「彼女」がなぜあんなふうに酒を飲み続け、破滅に向かっていくのかという部分につながっていて。つまり、それらに耳を貸さないために、彼女は言葉も話さないし、酒を飲み続けるんじゃないかと。そうやって「社会の規範」にギリギリまで抵抗するけれども、最終的には彼女自身も色を失い、崩壊してしまう。そんなふうに感じましたね。

長尾:私も「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人の言葉で気になる言葉がたくさんありました。例えば「急に自立した女は不安になりやすい」や「女性が人前で酔うなんて」とか。それから「今もはびこるダブルスタンダードで男性が酩酊しても『男らしい』と肯定的に見られる一方で、女性が酔うと下品で不快とされてしまう」とか、「同性愛のサブカルチャーって余暇の文化なのよね」など。

斉藤:日本でも、こんなことを言う人は未だにたくさんいますよね(笑)。

長尾:社会に出てから大きな仕事を成し遂げた時に、目上の男性に「女の割にはよくやった」と褒められたことがあって(笑)。皮肉っぽい人だったので、それは彼の中では最大限の賛辞だったとは思うんですが、すごくモヤっとしました。それから、東京でファッションの勉強をしたいと言った時も、「女のくせに東京に出るなんて、何を考えてるんだ!」と祖父に怒られたことも。そういう言葉が投げかけられる環境で生きてきたからか、自分に自信はあるんだけど、どこかでその言葉が自分の中に根付いてしまっているところもあって。だから主人公の気持ちはすごくわかるなと思ったんです。

斉藤:そうですね。日本では未だに80歳くらいの重鎮達がいつまでも引退せずに政治を仕切っていますからね。ただ、世代が変われば価値観がすぐに変わるかというとそう単純な話でもなく、戦い続けなきゃいけないのか、と途方にくれたりします。でも反面、若い世代の男性達の考え方がかなり変わってきていることは希望でもあって。難しいのは、そういう人達もいざ家庭に入って子どもを育てるフェーズになった時に、我が子がなるべく社会で生きやすいようにと処世術を教えたくなっちゃうんですよね。社会の中で自分の主張を通して反抗し続けるのはとても大変ですから、どうしても保身に向かいがち。とにかく、この3人の言葉というのは今言われても全然おかしくないし、口に出さなくてもそんなふうに見ている人は未だにたくさんいるなと思わされますね。

長尾:思い返してみると、こういう言葉って常に身近にあったなと。言われてきた言葉は決して無くならないけれど、大人になってオッティンガーの映画や、いろんなフェミニストの方達の著作に触れて、「あの言葉はおかしい」と言ってもらえたことで、その言葉を真に受けずに済むようになったというのはありますね。オッティンガーは常に主人公の「彼女」に付きまとう「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人にあえてそういう言葉を言わせることで、その言葉がいかに人を傷つけるかを示してくれていると感じました。

斉藤:おっしゃる通りです。ネガティブなものは語らず、無かったことにするというやり方もありますが、それって実はすごく全体主義的でもある。オッティンガーはそういう態度を嫌いました。それは彼女とも親交のあったライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の考え方にも共通するところです。彼等は、現実に起こっていることから目を背けずに描かなきゃいけないという考えのもと、それをどうやって寓話やファンタジーの形で観客に見せるかということに注力しました。目を向けたくないような現実や社会でまかり通っている言説を、ユーモアやパロディー、皮肉を交えることによって、理解しやすい形で私達に提示してくれているんですよね。

ただそういう戦術は、それ自体が差別的な言説を助長するんじゃないかという批判の対象にもなり得る。実際そういう批判も受けてきたので諸刃の剣とも言えますが、私自身はそのようなアーティストの勇気を評価するし、必要なことだと思っています。

オッティンガー作品が持つユーモアの力

長尾:私はオッティンガーの『ベルリン三部作』を観てみて、彼女はだいぶギャグセンス高めだなと思いましたね(笑)。描いているものがすでに視覚的に強烈なのに、そこに笑いを上乗せしていて。自分がこういう映画を撮れと言われても、1つもまねできないなと思います。それもある意味で勇気づけられました。

ユーモアで言うと、その「良識」、「社会問題」、「正確な統計」の3人が、映画の中で何度か主人公になびくようなシーンがあっておもしろかったですよね。レズビアンが集まるバーで、それまで常に平静を装っていた3人のうちの1人がダンスを踊り出すシーンがその1つです。彼女達は社会的なルールの外側にいる主人公のような存在を見下しながらも、その自由さや傍若無人さをどこかで羨ましく思っているような感じもしました。

斉藤:おもしろいですよね。他にも自分達が死んだ後の棺桶の話をしているときも、タベアが持っている酒をグビっと飲むシーンもあったりして。あの3人は、いわゆる「建前」として社会的なことを語る時はもっともらしいことを言いますが、自分の「死」について考えたり、ダンスに誘われたりする時に、ふと個人としての「本音」をのぞかせるんですよね。

あの3人は誇張されて描かれていますが、私達の中にも「こうすべきだ」というような、いわゆる「良識」はあるわけです。例えば、街を歩いている時に、ボロをまとった「浮浪者」のような人が酔っ払って倒れていたら、とよく考えるんです。実際にそういう機会に遭遇した時も、すぐに手を差し伸べたり、アクションを起こしたりできたかと言われると、実は難しかったりしますよね。そういう意味で、私達はあの3人を完全には否定できないのではないでしょうか。そんなふうにオッティンガーの作品は、デフォルメされた、あり得ない世界を描いているように見えて、実はすごくリアリティーがあって、ふいに私達に鋭い問いを投げかけてきます。だからストーリーがよくわからなかったとしても、ディテールの部分に引き込まれるし、作品としての力が色あせないんでしょうね。

長尾:本当にそう思います。先生のお話のおかげで作品の理解も深まりましたし、オッティンガーを通していろんなトピックを考えることができました。とっても貴重なお話、ありがとうございました!

ウルリケ・オッティンガー「ベルリン三部作」予告編
『アル中女の肖像』(国内劇場初公開)Bildnis einer Trinkerin, Photo: Ulrike Ottinger 
© Ulrike Ottinger
Bildnis einer Trinkerin, Photo: Ulrike Ottinger 
© Ulrike Ottinger

■『アル中女の肖像』(国内劇場初公開)

1979年/西ドイツ/カラー/108分
原題:Bildnis einer Trinkerin
英題:Ticket of No Return
監督・脚本・撮影・美術・ナレーション:
ウルリケ・オッティンガー
音楽:ペーア・ラーベン
衣装:タベア・ブルーメンシャイン
歌:ニナ・ハーゲン
出演:タベア・ブルーメンシャイン
   ルッツェ
   マグダレーナ・モンテツマ
   ニナ・ハーゲン
   クルト・ラープ
   フォルカー・シュペングラー
   エディ・コンスタンティーヌ
   ウルフ・ヴォステル
   マーティン・キッペンバーガー
HP:  https://punkte00.com/ottinger-berlin/

Photography Emi Nakata
Text & Edit Shinichiro Sato (TOKION)
Cooperation Punkte 
Yumi Nagao’s dress is supplied by FRANGANT 

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連載:音楽家・諭吉佳作/menの頭の中 第3回「20歳の挑戦」 https://tokion.jp/2023/10/12/inside-the-mind-of-musician-yukichikasaku-men-vol3/ Thu, 12 Oct 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=211053 シンガーソングライターの諭吉佳作/menによる連載。第3回は「20歳の挑戦」
について。

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2003年生まれのシンガーソングライターの諭吉佳作/men(ユキチカサクメン)。小学6年の時に作曲をスタートし、iPhoneアプリのGarageBandだけで楽曲制作を始める。2021年5月にはトイズファクトリーからEP『からだポータブル』、『放るアソート』を同時リリースし、メジャーデビュー。今年7月12日に20歳の誕生日を目前に、10代ラストのEP『・archive:EIEN19』をリリースした。そんな諭吉佳作/menに、連載の第3回では「20歳の挑戦」について綴ってもらった。

コンビニエンスストアへ入って、いつもと少しも変わりませんという体をとるために店内をうろついたあと、おれはこれまでならば見向きもしなかった、レジに立つ店員の背後に目を凝らした。20歳になったその日に酒を飲んでたばこをやることを前々から決めていたからだ。

でもたばこを買う、それはけっこうどうしようもないことだった。うちにはたばこを嗜むものがいなかった。知識としてたばこに興味を持ったこともなかった。だから、手がかりが極端に少なかったのだ。

何かをやり始めるときっていうのは、この部分が本当におかしい。なぜ何もわからないのにやろうと思うのか。どうやって始めるのか。身近にやるものがいたとして、じゃあ彼はどうして始めたのか。その身近にもやるものがいたからだとして、じゃあ彼は。

おれの場合はただ、ここまで法的に制限されていた(その制限を窮屈に感じたことは一度たりともないので制限とも思ってこなかったのだが)から、今日この日やるのにだけは唯一、個人的な以上の価値があり得ると思ったからだ。そう、まあつまり記念だ。この日に1本吸って実績を残し、そのあとは必要に応じて、というだけで、今生をかけて喫煙者をやることを決意したわけではない。だから始めるという表現は違うのかもしれない。むしろ、どちらかと言えば、おれはこれ以降吸わない、の方にベットしていた。

やったことのないものの強さや味などわからない。調べても文字で書いてあるだけで、それを読むおれの身に何かが明確に差し迫ってくるわけでもない。今日吸ったものを吸い続ける約束をしたわけでもない。今日以降吸う予定がない。たった1回、20歳を証明するためだけに吸うたばこが、甘かろうが苦かろうが濃かろうが薄かろうが知ったことではない。たばこを吸えればなんでもいい。いざとなったら「7番をください」と言おうとも決めていた。7が好きだからだ。おれは7には特別な感情を持っていた。

でも身分証の提示を求められたら、「こいつは今日の20年前に生まれて、ここぞと急いでコンビニへやってきて、自分の誕生月の番号を呼んでたばこを求めやがったが、一体どれだけ自らの誕生の歓喜を信じてやがるんだ」と笑われるだろうと思った。だからそういうのをひっくるめて全部温かい目で見てくれる、できれば自分の2倍くらい以上の年齢の店員に対応してもらいたいと思っていた。

かくして、コンビニエンスストアへやってきたわけだが、2つのレジのうちの一方にしか店員がおらず、それは追い打ちをかけるようにしっかりと若者風だった。おれはがっくりした。落胆を気取られまいとするだけの気勢さえ削がれて、いっそ落胆して見せた。誰にかというと、たぶん神様とかそういうものに。そうしたら何か変わるかもしれないので。願掛けを終えて、いつもと少しも変わりませんという体をとるために店内をうろついたあと、おれはこれまでならば見向きもしなかった、レジに立つ店員の背後に目を凝らした。

あいにくおれはメガネをかけていなかった。あいにくというか、こうなることを予見できた上でかけていなければおかしいのだが、かけていなかった。店員の背後にたばこが並んでいるのはただ様式的にわかっても、目の悪さと知識の少なさががっちりタッグを組んで、やはりそれは背景素材的コンビニの風景でしかなかった。何が何ともわからない。素人でも一目見てこれとわかるような、アイコニックな種類の銘柄さえ見つけることができなかった。

「7番」があるのは確認できた。でも7番から10番まで同じような箱、マイナーチェンジ的なものが並べられているのを見て、「7番」への特別な興味が薄れるのも感じていた。このコンビニの7番はこだわりが少ない、でもおれにはもっとこだわりがない……。

難しいことはやめて、できることからする。とりあえずライターを買わなければいけない。うちには火を使うものがいないので、おれはそこから始めなければならなかった。でもこれは簡単なことだ。少しの違いだが高いのと安いのがあって、高い方の、緑色のライターを選んだ。緑色だったからだ。正直おれは、自分がライターで火をつけるのが上手くないのを知っていた。けれどたばこを吸いたいなら避けられない道だ。綺麗なクリアグリーンに満足して、それを持ってお菓子コーナーに向かう。

この次にはついにたばこに直面する(というより店員に直面するのかもしれない)ことを考えるとおれの目はパッケージデザインの表面をつるつる滑った。本当はお菓子のことなんて真剣に考えられてはいなかったが、コーナーを2往復くらいしてから、結局以前にも食べたことのあるベイクドチョコレートの商品を手に取った。

いよいよ会計つまりはたばこである。おれがコンビニエンスストアへ何をしに来たか。一瞬も忘れたことはなかった。稼働中のレジは相変わらずひとつだ。若者風の店員はまだ客を相手にしている。会計を待つ列はできていない。仕方なくおれが順番待ちのステッカーの上に立つと、カウンターの中で作業をしていた店員が店長を呼んだ。店長!ラッキー!幸先がいい。これはさすがに誕生日だ。店長がやってくる。2倍より年上には見えなかったが、若造のめちゃくちゃな一挙手一投足を優しく見守ってくれそうな人だった。なぜそう思ったのかはわからない。店長だからかな。おれはライターとお菓子を台に置いて、たばこの7番をくださいと唱えた。途端に、体の内側に収まっていたはずの大事な部分が体のアウトラインを超えて出ていく感じがする。

だからこれはそう、なんかわかると思うけど、なぜか法律違反の気持ちだ。精神的な法律違反。かなり身構えていた。おれはなぜか、たしかに嘘をついている感覚だった。20歳になったのは本当なのに。本当は別に、たばこを吸いたいと思っていないからだろうか。たしかにそれもあるだろうが、これは……。

店長がおれに、画面の操作を指示する。20歳を超えているかを問う文言が表示されて、おれは当然YESを押そうとするのだが、なぜかそこでハッとしてしまう。おれは18歳じゃないか!たばこを買えるのは20歳からだった!間違えた!おれは勘違いしていたんだ!そういう妄想に取り憑かれていた。
(おれたちは18歳でR-18指定の映画を観てもいいことになって、自動車の運転にもトライすることができて、成人もしたが、おれはここにこのことを書くまで自分が19で成人したような気になっていたしそんな発言をどこかでもしてしまった気がする、でも18で成人する最初の世代だったらしく、成人したからにはエステサロンの契約に気をつけろなどと言われ、でも酒やたばこは変わらず20歳からで、大混乱だ。体の成長と共にピアノの補助ペダルがいらなくなってああ大きくなったなと実感するような物理的なことだったらわかりやすかったが、そんな実感は一切伴わない。)

正直に言って、ボタンを押したときはまだおれの気持ちは18歳だった。ばれてしまうんじゃないか?と思っていた。つまり本当に精神的には犯罪者だったことになるが、これって、その精神が裁かれるだろうか?そうだとして、今なら思うが、一体何がばれるというんだろうか?精神まで暴くことはできまい。まもなくやたら溌剌とした「身分証の提示をお願いする場合があります」という音声が流れた。そうだ、身分証。そうしてようやくおれは20歳の方へ戻ってきた。

お願いだから身分証を確認してくれと思った。おれの身分証を。確認してくれたら、おれは証拠を出せる。確認されてもまったく困らないだけの証拠をおれは持っているのだ。まあ誕生日当日だから、ちょっとは恥ずかしい思いをすることになるかもしれないが、それが立派な証拠だ。その恥ずかしさごと証明させてほしい。お願いだからさせてくれ。そう思った。でも店長はなんの違和感もないような感じで7番を持ってきた。そりゃまあそうなんだろう。向こうは大人だし、いつもやっている仕事だ。たばこに対しておれほどに特別な緊張感を持っているはずがない。

おれの顔を見て違和感がなかったならそれは正しい。店長は何も間違っていない。だっておれは20歳なんだから。おれより店長の方が本当のことをよく知っている。

無事に箱が、お菓子とライターと並んで目の前に現れる。おれのたばこ購入の作法が一応は間違っていなかったらしいという安心感と、店長本当にこのままおれにたばこを売ってしまっていいのか?というよくわからない疑いとの両方が生まれて、おれは混乱していた。

多少の離人感を持ったまま金を支払う。セルフレジだ。札の入れ方がよくわからなくて手間取る。まだ自分が何かしらの嘘をついている気がしていた。札の入れ方もわからないのなら子供じゃないかと疑われている気がする。だったら証明させてくれ。おれは証拠を持っているんだから。確定すると釣り銭が落ちてきた。それを拾うのにもいつもと同じぐらい手間取る。おれにとってはいつもと同じだが、その手つきのおぼつかなさを不審に思われるんじゃないかと汗が出る。汗が出たら、もっと変に思われるんじゃないか?心配をよそに、店長がおれに礼を言う。商取引が終了した合図だった。

逃げ果せたというより、逃げてしまえたという感じだ。いっそ捕まりたかったのかもしれない。脱力した。外で待っていた家族と落ち合う。おれは第一に「年齢確認されなかった」と言った。されたら困るやつの発言じゃないか。

車に乗り込むと、家族と7番のデザインを確認した。思えば、おれは自分の買い求めたたばこがどんなものなのか、一切気にしていなかった。若者風の店員越しに見たときから、それを把握することはまったく諦めてしまっていたのだ。運転席と助手席で、タバコの箱を点検する。白くてシックで、銀色に光るロゴが未来的なデザインだ。そして横長。心なしか、小さい。あのたばこ特有の健康に関する注意書きは「加熱式タバコは」で始まっている。いや、すべてのたばこには熱を加えるよね?おれは言い訳をしたが、たばこは戯言を聞き入れなかった。

家に帰るとコンビニエンスストアたばこ購入メンバーにならなかった面子が、おれたちを待っていた。おれたちも、一連の出来事を伝えることを待ち望んでいた。ことの顛末について一席打ったあとにつけ加えて、もう買い直すつもりがないことを伝えると、「縁がなかったんだね」と言われた。縁がなかったというか、こういう縁だったんだと思う。わざわざこんなことをしたのだから、まあ縁はあったのだと思う。ライターとたばこはこのまま飾っておくよ。おれはそう伝えた。

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Girls’ Film Fanclub Vol.1 ウルリケ・オッティンガー監督『アル中女の肖像』ゲスト:斉藤綾子(明治学院大学教授)前編 https://tokion.jp/2023/10/07/girls-film-fanclub-vol1-part1/ Sat, 07 Oct 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=210831 「Sister」の長尾悠美をホストにTOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目はフェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子を迎え、ドイツの映画監督ウルリケ・オッティンガーの代表作『アル中女の肖像』にフォーカスする。

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斉藤綾子(左)長尾悠美(右)

斉藤綾子(左)
東京都生まれ。上智大学文学部心理学科卒業。サントリー(株)勤務を経て、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) 映画テレビジョン学部批評学科博士課程修了 (Ph.D)。明治学院大学教授。専門は映画理論、フェミニズム映画批評。フェミ・ジャーナル誌『ふぇみん』の映画評を担当している(隔月)。

長尾悠美(右)
渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」代表。国内外から集めたデザイナーズブランド、ヴィンテージ、書籍や雑貨など豊富に扱う。映画やアート作品を通してフェミニズムやジェンダー問題へも関心を寄せ、自らも発信や企画を積極的に行っている。

渋谷区松濤にあるセレクトブティック「Sister」の代表を務め、映画やアートにまつわる企画を積極的に行う長尾悠美をホスト役に、TOKIONが送る「女性」をテーマにした映画連載、Girls’ Film Fanclub。第1回目は、フェミニズム映画理論の研究者である斉藤綾子を迎え、唯一無二のクィアな映像世界で知られるドイツの映画監督ウルリケ・オッティンガーの代表作『アル中女の肖像』(1979年)にフォーカスを当てる。

冷戦下のベルリンが舞台の『アル中女の肖像』は、『タブロイド紙が愛したドリアン・グレイ』、『フリーク・オルランド』と並んで同監督の「ベルリン三部作」として知られる。ジャーマン・ニューシネマの旗手、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーをして「最も美しいドイツ映画」と称賛せしめた本作は、主人公の「彼女」がベルリンの街を歩き回りながらひたすら酒を飲み続けるという至極シンプルな映画だ。しかし、だからこそ隅々にまで散りばめられた社会への鋭い洞察や風刺、実験精神やユーモア、そして主演のタベア・ブルーメンシャインの装いの美しさが際立ち、観るものを魅了してやまない。近年、再評価の機運が高まり、日本でも渋谷のユーロスペースでの上映を皮切りに、現在も全国で順次公開中だ。

ファッションを軸にさまざまな活動を続ける長尾と、1980年代にアメリカでフェミニズムに触れ、アカデミックな現場で映画を論じてきた斉藤は、オッティンガーの名作をどう観たのか。自分たちの人生にも引き寄せながら、その色あせない魅力や価値、今の時代に生きる私達に投げかける問いの数々について自由に語り合う。対談前編は、オッティンガーの作品との出会い、近年フェミニズム映画が再評価される理由、そしてフェミニストでレズビアンでもあるオッティンガーが作品の中で挑戦した「カウンター・フェミニズム」について。

ウルリケ・オッティンガー監督作品との出会い

長尾悠美(以下、長尾):私にとって最初のウルリケ・オッティンガー作品は『フリーク・オルランド』でした。上映後に斉藤先生とドイツ映画の専門家でいらっしゃる渋谷哲也さんのトークを聞き、パンフレットを購入して先生のテキストも読ませていただいて。その後にベルリン三部作の他の2作品、『アル中女の肖像』と『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』も観まして、とにかくその自由さに感銘を受けました。それこそ、オッティンガーの作品を経験したか否かで、今後の映画体験が変わってくるんじゃないかと感じるほどです。先生がオッティンガーの作品に最初に触れたのはいつ頃だったんですか?

斉藤綾子(以下、斉藤):大学を卒業して一般企業での仕事を5年半ほどした後、30代を目前にして結婚や出産はどうしたらいいのか考えたタイミングが私にもありました。悩んだ末に結局日本を出てアメリカに渡ったんです。研究者になろうとは思っていなかったんですが、もう一度大学に入って映画を専攻することにして。私がアメリカに渡った1986年は、1960年代の女性解放運動を経て、フェミニズムという領域が体系的に整理され、学術として理論化が進められている真っ只中で、大学でも先進的な理論としてそれらが教えられるようになった時期でした。また文学や比較文学などの文脈で映画を論じてきた研究者達が、多くの大学で映画研究を新しい学問として確立し始めていたのです。

私は上野千鶴子さんたちより少し下の世代で、大学にいた頃は女性学も知らず、「ウーマンリブ」にもあまり関心も持てずにいました。そんな中、アメリカに渡って驚いたのは、フェミニズム理論の先生達がみんなファッショナブルだったこと。『アル中女の肖像』のタべア・ブルーメンシャインのように真っ赤な口紅をつけて、ミニスカートで、きれいなマニキュアをつけて教壇に立っていて。アメリカでは、1960年代以降展開されていた「化粧=男性にこびている」という考え方とは違う、新しいフェミニズムを体現した研究者達が大学で教えるようになっていたんです。そういう先生達のもとで多くの映画に触れ、映画祭でたまたま『Joan of Arc of Mongolia』(1989年)を観たのがウルリケ・オッティンガー監督の映画との出会いでした。

長尾:先生を含め、いろんな方のお話を聞くと、日本と外国の状況の違いはすごく感じますし、海外でメンターと呼べるような人に出会ったという方は多いですよね。その時代のアメリカで学ぶことができた先生をとても羨ましく思います。

斉藤:私は、アメリカでフェミニズム映画を専門にしようと決めたというよりは、その時代に学んだ身として、フェミニズム理論を批評に取り入れることはごく普通のことだと思っていたんです。加えて、ローラ・マルヴィ*1という映画研究者の「視覚的快楽と物語映画」という論文を日本語に翻訳をしたこともあり、1994年に帰国してからは、フェミニズム映画理論に関する講義や執筆の依頼が多くなりました。ただ日本に戻って気付いたのは、映画批評の理論展開が、アメリカで学んできたものとは全く違ったこと。日本では依然として男性の評論家の影響力が非常に強く、映画批評という領域でフェミニズム理論が取り入れられること自体がまれな状況でした。そんな背景もあり、日本映画をフェミニズム的に批評できるのか、そして作り手のジェンダーは作品とどんな関係があるのか、そんな問いを抱きながら、徐々に自分の研究テーマとなっていったんです。

フェミニズム映画再評価の背景

長尾:Sisterは、国際女性デーに合わせて毎年イベントを企画していて、今年はアメリカのフェミニスト・コレクティブ「Guerrilla Girls」を取り上げました*2。彼女たちは80年代からアート界のジェンダーギャップについて、正確なデータを元に作品で抗議してきた人たちです。展示の中で、作品と関連づけて日本の表現の現場に関するデータも紹介したかったので、表現の現場調査団*3という方達に企画にご協力いただいて。その方達の調査によると、例えば日本の美術の現場でも、学芸員やキュレーターは女性が圧倒的に多いけど、いまだに管理職は男性の割合が非常に高いようです。そのために現場の女性たちの意向が尊重されづらい状況が生まれるなど、体制の問題で生まれる弊害や苦労も多いようです。

そんな中、シャンタル・アケルマン監督の代表作『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』 が2022年のイギリス映画協会が10年ごとに選出する「史上最高の映画100」で見事1位に輝きました。アケルマン自身が影響を受けたと公言しているアルフレッド・ヒッチコックの『めまい』(同2位)を差し置いての1位ですから、感慨深いものがあります。映画史において、フェミニズム映画やクィア映画を見直す熱が高まっているように感じますが、背景にあるものはなんだと思いますか?

斉藤:まず近年のアカデミー賞にも言えますが、受賞作品を選出する投票者の偏りが見直され、多様化したことはあるでしょうね。確立された男性批評家が大半を占めていた審査員の枠が、外国籍、女性、クィアの人達にも開かれるようになりました。それによって選出される映画のラインアップも大きく変わってきますから。ただ、選出する上でイギリス映画協会にもさまざまな思惑はあったと思いますが、思惑だけでは1位にはならないでしょうしね。

長尾:はい、思惑だけではないと思います。『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』に主演したデルフィーヌ・セイリグはオッティンガー監督の『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』にも出演していますが、彼女のドキュメンタリー(『ジャンヌ・ディエルマンをめぐって』)を観た時に、その意識の高さと真摯な姿勢に感動しましたし、だからこそアケルマンの作品もあれだけの名作になったんだと納得しました。

斉藤:デルフィーヌは素晴らしい俳優ですよね。実は日本の場合、オッティンガーやアケルマンの映画が全く上映されてこなかったわけではなかったのですが、単発的な特集上映が多く、大御所の批評家に取り上げられることもないまま埋もれていた状況でした。昨今は、アケルマンについても配給会社の若い世代の人達が作品を気に入り、上映のために尽力したという経緯がありますし、今回のオッティンガー作品の公開についても同じことが言えます。配給をする側にも世代交代が起き、その人達が改めてこれらの映画と出会い、価値を見出し、上の方達もそれに応えてゴーサインを出したという。#MeTooなどの影響も多分にあったとは思いますし、そういう時代の流れと変化はあると思います。

オッティンガーの「カウンター・フェミニズム」

長尾:背景についてのお話が聞けたところで、本題である『アル中女の肖像』についてお話をうかがっていこうと思います。ディテールに踏み込む前に、まず監督であるウルリケ・オッティンガーについてですが、彼女はいわゆるニュージャーマンシネマと第二派フェミニズムが重なる時代に映画を撮り始めていますね。先生がパンフレットの中の論考でも書いていらっしゃる、彼女が挑んだ「カウンター・フェミニズム」とはなんなのか、少しご説明いただけますか?

斉藤:「カウンター・フェミニズム」という考え方は、そもそも1970年代に出てきた「カウンター・シネマ」という概念を土台にしています。この「カウンター・シネマ」というのは、60年代から70年代に映画批評で言及されるようになりましたが、それをクレア・ジョンストソン*4という映画理論家がフェミニズム批評に取り入れて提唱したもので、女性が作った映画が、主流映画に対するカウンターとして機能しうる、という主張です。特に五月革命が一つの契機となり、主流のハリウッド映画とは異なる映画的実践である実験映画や前衛映画は、ハリウッド的な物語性を壊したり、見ていて美しいと感じる視覚的快楽を否定したりすることで、新たな映画や革命的な映画を目指した実験性を打ち出していきました。それに対して「カウンター・シネマ」は、ハリウッド的な商業映画や物語映画をただ否定するのではなく、主流映画の枠内で対抗的な映画を作ることでその制度を転覆させる可能性をもっている、という考え方です。言ってみれば、すでに存在する主流の映画の手法を用いながら、内側からそれ自体に対してカウンターパンチを食らわす、というイメージです。

初期のフェミニズム映画の文脈では、男性の目にこびるように映る美しい女性のイメージを否定して、「現実の女性」を描写しようとするドキュメンタリーを評価する傾向が強く、ある意味では女性性を前景化したイメージに対して「禁欲的な」側面が強かったんです。その中においてオッティンガーは、そういったイメージとは異なるきらびやかな女性を初期から描いてきました。それは彼女の持っているクィア性、つまり、レズビアンである彼女自身が女性を欲望や愛の対象として見るという感性を持っていたことと大きく関わっているはずです。彼女の視点を通してみれば、女性が化粧をし、自らを美しく保とうとすることは、男性のためだけではなく、女性のためでもあり、自分のためでもある。オッティンガーは、そういった女性性や快楽を否定せず、ある種の新しい形のフェミニズムを自作で提示していきました。そんな彼女の姿勢を「カウンター・フェミニズム」という言葉で形容してみたんです。

長尾:なるほど。私自身、オノ・ヨーコさんの「Sisters, O Sisters」という曲にちなんで名付けた「Sister」というお店を15年前に始めましたが、オープン当時から女の子達だけでやろうという意気込みで、きれいに化粧をして、ドレスを着てお店に立っていました。それも必ずしも男性に見てもらうためではなくて、自分たちがいかに美しくいられるか、というところを大事にしてたんです。私生活では数年前に離婚を経験してシングルマザーになったんですが、そもそもオノ・ヨーコさんの曲も女性解放運動の文脈で作られた曲ですし、結婚制度の中で感じていた違和感なども思い返して、ああ私ってフェミニストだったんだと思い至ったところがあって。それまでフェミニズムというものは知っていたけど、自分のこととして深く考えられていなかった。そういう経緯もあって、オッティンガーやアケルマンの作品を観た時に、自分が求めていたものと合致したな、という感覚がありました。昔の映画だけれど、今観ても新鮮な視点を提示してくれますね。

「見る」と「見られる」「出会う」と「変わる」

斉藤:そうですね。先ほども話に出したローラ・マルヴィという人は「視覚的快楽と物語映画」の中で、主流映画において、見る(欲望する)男性と見られる(欲望される)女性というジェンダー的に非対称な構造があることを指摘しました。ただ、その論文はある種のマニフェスト(宣言文)のような主張だったので、図式化された「まなざす男性とまなざされる女性」という二項対立が強調されてしまった面があり、インパクトが強い分、物議を醸しました。実際のところは、当時から多くの女性観客がハリウッド映画を楽しんで観ていたわけですし、同性愛的な視点ではなくても、女性が女性をまなざし、憧れの感情を抱く、といった現実に存在した女性観客の経験や彼女たちの視線についてはどう考えたらいいのかと、多くのフェミニストたちを巻き込んだ議論を生みだしたんです。

女性が、画面を通して理想のロールモデルのような女性に出会い、自分もああなりたいと憧れ、欲望の視線で見つめる。あるいは、スクリーン上で知る新たな女性のあり方や生き方に影響を受けて自分自身も変わる。『麗しのサブリナ』のオードリー・ヘプバーンを見て、皆がサブリナパンツをはいたように、憧れのファッションを身に着けて日常の中でちょっとしたトリップをするというか、小さな異空間を作り出すというか。そういうものをもたらす効果も映画にはあるんですよね。オッティンガーの映画にとっても、デビュー作の『ラオコーンと息子たち』を始めとして「変身」はとても重要なテーマですが、より本質的な変化や新生に繋がっています。

長尾:出会いや変化で言うと、私は地方出身者で、近所の映画館といえば大きなショッピングモールの中にあるシネコンしかなかったんですよね。そういう環境でメジャーな作品にしか触れてこなかったから、上京してミニシアターでホドロフスキーやデレク・ジャーマンとかの作品に触れた時は衝撃を受けて。一気に多様な映画にのめり込んでいきました。

斉藤:おっしゃるように、出会いというのは本当に大きくて。長尾さんが東京に来て感じた、すべてが変わるようなカルチャーショックを私はアメリカで味わいました。多くのクィアな友人に囲まれていろいろなことを学びましたし、多種多様な映画を観ることができました。当然、1つの映画をとっても、その人の立場、例えば性的指向や人種的バックグラウンドによって見え方が変わってきます。そういう多様さに触れる中で私自身も変容して、それまで見えなかったものが見えてくるような感覚があった。映画というのは、常にいろんなイメージを提供してくれているんですよね。でも、そこから何を見るかによって作品の受け取り方が全く変わっていきますし、いろんなものが見えるようになるとおもしろさが広がっていくと思います。

後編に続く


*1: ローラ・マルヴィ
1941年、イギリス生まれのフェミニスト映画理論家。マルヴィは、1975年に発表した記念碑的な論文「視覚的快楽と物語映画」の中で、ハリウッドを中心とする主流映画が「見る男性、見られる女性」というジェンダー非対称の構造に依存していることを指摘し、フェミニズム映画理論の必要性を訴えた。今回のゲストの斉藤綾子は、本論文を1990年代に日本語に翻訳している

*2: Guerrilla Girls(ゲリラ・ガールズ)展
セレクトブティック「Sister」は、2023年3月の国際女性デーに合わせ、倉敷芸術科学大学の川上幸之介研究室の協力のもと、アート界のジェンダーギャップに抗うアクティビスト集団「Guerrilla Girls(ゲリラ・ガールズ)」の展覧会を渋谷PARCOにて主催した。『「F」ワードの再解釈:フェミニズム!』をモットーに1985年にニューヨークで結成されたゲリラ・ガールズは、現在に至るまで55名以上の匿名メンバーで構成されている。 偽名を用い、公共の場ではゴリラのマスクを着用して、事実と皮肉、ユーモアとインパクトのあるヴィジュアルを交えた作品で、公共に介入する。政治や文化の腐敗のほか、性別や民族の偏見を作品により明らかにし、主体としての物語の転覆を試みている。本展では、ゲリラ・ガールズの作品展示とグッズの販売を行い、売上の一部はゲリラ・ガールズの活動費として寄付、またジェンダー関連書籍として図書館へ寄贈している。

*3:表現の現場調査団
アーティストやジャーナリスト、俳優などにより結成された有志団体で、全ての人に平等に開かれた表現の場を実現するために、ハラスメントやジェンダーバランスの実態調査と結果の公開、WEBでの各種情報提供を行っている。
https://www.hyogen-genba.com

*4:クレア・ジョンストン
1940年生まれのフェミニスト映画理論家。1973年に発表した「カウンター・シネマとしての女性映画」というエッセイの中で、作り手が女性である「女性映画」を見直す必要性を説いた。

参考文献:
斉藤綾子「視線の政治学:女性たちの視線をいかに取り戻すか」『i+med(i/e)a vol.1 Beyond Female Gaze』(2021)


ウルリケ・オッティンガー「ベルリン三部作」予告編

■『アル中女の肖像』国内劇場初公開
1979年/西ドイツ/カラー/108分
原題:Bildnis einer Trinkerin
英題:Ticket of No Return
監督・脚本・撮影・美術・ナレーション:
   ウルリケ・オッティンガー
音楽:ペーア・ラーベン
衣装:タベア・ブルーメンシャイン
歌:ニナ・ハーゲン
出演:タベア・ブルーメンシャイン
   ルッツェ
   マグダレーナ・モンテツマ
   ニナ・ハーゲン
   クルト・ラープ
   フォルカー・シュペングラー
   エディ・コンスタンティーヌ
   ウルフ・ヴォステル
   マーティン・キッペンバーガー
HP: https://punkte00.com/ottinger-berlin/

Photography Emi Nakata
Text & Edit Shinichiro Sato (TOKION)
Cooperation Punkte
Yumi Nagao’s dress is supplied by FRANGANT

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連載ショートストーリー:菊池良「きみはユメを見ている」第5夜  https://tokion.jp/2023/09/22/you-are-looking-at-a-dream-5/ Fri, 22 Sep 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=208764 作家・ライターの菊池良による「ユメ落ち」をテーマとしたショートストーリー。現代版『夢十夜』とでも言うべき掌編の第5夜、どこへ行くのかもわからない列車の中で「きみ」はある男と出会い、そして——。

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Illustration Midori Nakajima

 きみはこんなユメを見た。

 きみは列車に乗っている。列車は線路のうえを走っていて、車両は小刻みに揺れつづけている。この列車がどこへ向かっていくのかはわからない。アナウンスはなにもない。

 窓の向こうは暗くてなにも見えない。光らしい光はない。トンネルのなかを走っているのではないかと錯覚してしまうほどだ。じっと見ていると、闇に飲み込まれそうな気分になってくる。これ以上見るのは、よしておこう。

 きみは車両から車両へと移動している。列車の進行方向に向かって、歩きつづけている。なぜそうしているのかはわからない。先頭車両を目指しているわけではない。しかし、歩かなきゃいけないことだけはわかっている。

 だれかが追ってきているのか──いや、そうではない気がする。

 きみは連結部のドアを開けて、となりの車両へと足を踏み入れる。向かい合わせの座席が並んでいる。なんてことのない車両だ。乗客はだれもいない。いや、ひとりだけ”いる”。

 男が背広にネクタイをしめ、ハットも被っている。年齢は四〇代半ばほどか。足もとには革製のトランクケースが置いてある。

 男は窓のそとをじっと見ている。奇妙に感じるのはまったく視線を動かさず、まばたきをしないからだ。まるで陶器のように、男はじっとそこに”いる”。

 きみはちらりと男に視線を流しながら、その横を通り過ぎていく。そのとき、男が低い声でつぶやく。

「ほんとうは?」

 その瞬間、ある記憶がフラッシュバックする。

 階段だ。階段がある。その階段を、だれかがこつこつと歩いている。

 男が降りてきて、女がのぼっていく。すれ違う瞬間、ふたりは立ち止まり、すこしだけ顔を相手のほうに向ける。男女の唇が動く。なにかことばを交わしている。だが、なにを言っているのかはわからない。ほんの数秒だけことばを発しあうと、男と女は何ごともなかったかのように歩きだす。もう二度とふたりは会わないことを予感させる。

 しかし、それがほんとうの記憶なのか、なにかで見た映像なのか、きみには定かではない。

 つぎの瞬間、きみの身体が浮き上がり、壁に叩きつけられる。全身に鋭い痛みが走り、割れた窓ガラスが降りかかってくる。耳の奥が痛くて、なにも聞こえない。

 なんとか立ち上がって状況を確認する。どうやら列車が事故を起こしたようだ。きみは痛みをこらえながら座席を足場にして、頭上の窓から外へと這い出る。

 列車は横転していて、線路から外れて力尽きたように倒れている。窓という窓から、乗客が外へ出ようと身体を必死に持ち上げている。どこにこれだけの乗客がいたのだろうかと、きみは驚く。

 すでに外へ出た乗客は、呆然と立ち尽くすものや抱きしめ合うもので溢れている。車両にいた男のすがたは見つからない。

 きみは乗客たちに背を向けて、線路沿いに歩きはじめる。

「そのさきは、なにもありませんよ」

 うしろから声をかけられるが、きみは気にせず進んでいく。

 そのとき、きみはユメから目覚める。最高の朝がやってくる。いままでにない最高の朝が。

Illustration Midori Nakajima

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「散歩の効能」 連載:小指の日々是発明 Vol.8 https://tokion.jp/2023/08/16/hibikorehatsumei-vol8/ Wed, 16 Aug 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=203661 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義で音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第8回は「散歩の効能」について。

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「散歩の効能」 連載:小指の日々是発明 Vol.8

2023年初夏某日。気づくと私は、電車を乗り継いで横浜にいた。横浜駅の西口は、相変わらず錆びた鉄と潮とドブが混じったような、懐かしいひどい臭いがしていた。

丁度この時、私は展覧会の準備真っ只中という状況だった。決して横浜でフラフラしてる場合ではなかったのだが、家に篭りきりの生活と展示の重圧から、ついここまで逃げてきてしまったのだ。
身の丈に合わない場所で展示をする緊張と、思うように制作が進んでいないことへの焦りもあったが、この時は同時期に進行していた別の仕事がトラブって収入が0になったり、友達に大病の疑いが出たりと、今年に入ってからというもの、薄っぺらいイカダ一枚で急流くだりをしているような心象の日々だった。
そもそも、今年初めにかかったコロナの影響かはわからないが、どうも調子が出ない日が続いていたのだ。夫はいまだに嗅覚がダメで、試しにいくら至近距離でオナラをしてみても恐ろしいことに全く反応をしない。うっかり出てしまった時は逆に助かるのだが、好物のウナギの匂いまでわからないらしく、本当に不憫で仕方がない。
私もどうも集中力が続かず(元からそうだったかもしれないが)、申し訳ないことにこのコラムの更新も大変遅れてしまった。
そろそろ本気を出さねばと思いながらも、色々な〆切と会期までの時間は刻一刻と過ぎていって、ついに私の小さな肝っ玉は破裂した。何が原因かはよくわからないが、とにかく限界だ!となってしまった。
そして家を飛び出し電車に飛び乗り、気がついたら地元・横浜に帰郷していたのだった。

どこに行くかのあては、何もなかった。とりあえず海でも見に行こうかなとも思ったが、路線図を見たら急に往復の1000円が惜しくなって、諦めた。どうせ話のネタになるのだからそれくらいしろよと思うが、あの時は海への1000円すら出し渋るほど心が弱っていたのだ。なんて自分は情けないんだろうと肩を落としながら、私は東横線の「東白楽駅」へとぼとぼ歩いて向かった。

神奈川の人しかほぼ知らないであろう「東白楽」という地味な街は、私にとって<散歩>の原体験がつまっている特別な街だ。
初めて訪れたきっかけは、小学生の頃に同級生の男の子達に連れられ、ミニ四駆のパーツを買いに行った時のことだった。一見ただの小汚い玩具屋だったが、巷に出ていないレアなパーツや改造品まで置いてあるドープな店のようで、男子達はすっかりギアとか改造モーターに目の色を変えていた。だが、私はそれよりも、玩具屋へ行く途中にあったとてつもなく長い坂の存在が無性に気になった。
そしてその翌日、私は「あの坂の向こうに何があるんだろう」と探検隊さながらの気分で東白楽へ行き、それから一人で度々訪れるようになるほど、この街が気に入ってしまったのだった。

その坂は、昔と全く変わらぬ姿でそこにあった。20年越しに見ても、わけわからないほど急勾配でグッと胸を掴まれてしまう。あの頃に比べたら、今は随分足腰も弱っているものの、私は子供に戻ったつもりでずんずんと坂を登っていった。
すると、見覚えのある景色が目に飛び込んできた。坂の途中には、たくさんの鉢植えに囲まれた白くて小さな喫茶店があり、えんじ色の軒先テントには、白地で店名が書かれてあった。
「グリーンメドウズ」
「この店、まだあるんだ……」思わず嘆声が漏れてしまった。
初めて来た時はまだ10歳くらいだったから、当然珈琲も飲めないしお金もないので、当時は窓から店内を覗くことしかできなかった。でも、あの時からこのお店は、私の中でずっと気になる存在だった。
窓のところに、「営業中」と小さな札が置かれてあった。今入らねばいつ入る、という感じだ。そして私は20年以上越しに、この「グリーンメドウズ」という謎の喫茶店に初めて入ってみたのだった。

扉を開けると、店内は想像していたよりずっとこぢんまりとしていて、外の日差しのせいか中は逆光のように薄暗く、とても落ち着く空間だった。
少しすると、奥から「いらっしゃいませ」と高齢の女性が迎えてくれた。とても優しそうな店主さんだ。「どうぞお好きなところに」とのことだったので、私は店内を見渡せる一番隅っこの席に座らせてもらった。カウンター4席とテーブル席が2つ、壁には小さなメニュー表と2枚の絵。音楽などはかかっておらず、唯一空間に響くのは「こち、こち、こち……」という、柱に架けられた時計の音だけだった。お店の中はとても静かで、時計のリズムとこちらの心臓の音が呼応するように、不思議と心地の良いテンポがこの中でできていた。
店主さんは私のアイスカフェオレを運んでくれると、またカウンターに戻り、正面の窓からずっと外を眺めていた。

30分ほど滞在し、「ご馳走様でした」とお会計に行くと、店主さんは笑顔でお釣りをくれながら「近所の方?」と私に聞いた。
「いえ、近くに実家があって」
「あら、そうなのね」
「子供の頃にこの道をよく散歩していて、どんなお店なのかなあ、ってずっと気になってたんです。10歳頃によく来ていたから、23〜24年前とか……。そしたら今日やっていたので、やっと入れて嬉しかったです」
「えー!本当。嬉しいわあ。しかもこの店、24年目なのよ」
なんと、私が店を覗いていたあの時は、どうも新規オープン直後だったようだ。記憶の中では、昔からある魔法使いの家みたいな印象だったのに。子供の記憶って本当にあてにならない。
「私はもう84歳。ボケ防止でやってるのよ」
店主さんはそう言って、ケタケタと笑いながら出口まで見送ってくれた。
店を出てすぐのところに、目が覚めるようなピンク色のツツジと、橙色の実をいくつもつけた琵琶の木が植えられていた。もしかしたら、あの店主さんが座っていたカウンターの位置から一番良く見えるのかもしれない。店主さんが度々、素敵な顔で外を見ているなあと思っていたが、そうかこの景色を見ていたのか、と納得したのだった。

私はその後も、再び残りの坂を登り続けた。確かここを登りきったところに、横浜の町を一望できる広い草っ原があるのだ。曲がりくねった私道、ガタガタのコンクリむき出しの道を渡り、半分が崖になったような未舗装の道を歩き続けると、そよそよと揺れる緑色が目に入った。
あった!
草の上を夢中で駆けて、丘になったところから街一帯を眺望した。目を凝らすと、スケートリンクや、昔親と行ったスーパーなんかがすぐ目に入った。昔は家の近くにヤクルトの大きな看板があって、そこを目印にすれば実家の大体の位置がすぐにわかったものだが、その看板ももうない。近所の公園は見つけられたので、そこにアタリをつけて探してみたら、実家の屋根を見つけることができた。今頃お母さんが一人でいるだろうか。かつて私達の家族が全員そろってあの屋根の下で普通の営みをしていたのかと思ったら、少したまらない気持ちになった。
それにしても、随分高い所まできたもんだとベンチに腰掛け一息ついたら、土と緑の匂いが薫って、肩に入っていた力がほっと抜けた。
ぼんやりしていたら西陽がさしてきたので、そろそろ移動しようかなと思い、知らない人の畑の脇を通って駅の方へ歩いた。そして京急の子安駅から電車に乗り、日ノ出町へ向かったのだった。

日ノ出町の改札を出ると、その騒がしさに途端に眩暈がした。路上で飲酒する老人、極彩色に着飾ったきれいな外国の女性達、檻に入れられたテナガザルみたいな反復運動をしてクラッチバッグ片手に女性に声をかけるスカウトマン、オウムとイグアナ柄の派手なアロハを着て大声で電話する中東系のおじさん。そんな混沌とした中を歩いていたら、「これぞ横浜!横浜に帰ってきたぞう」と、だんだん気分が乗ってきた。
伊勢佐木町を突っ切って寿町に入ると、街の空気はガラリと変わり、ドヤ街独特の静けさと緊張感を肌で感じた。でも、この雰囲気に、なぜか子供の頃からずっと惹かれて仕方がなかった。親からも「行かないほうがいい」と言われていたが、全くその言いつけは守っていなかった。
路上に、大量のゴミなのか荷物なのか判別のつかないものが派手にぶちまけられていた。
ズボン、上着、パンツ、靴下、黒いニット帽、飲みかけのカフェオレ、飲み薬、謎の軟膏のチューブ、診察券、永谷園の松茸のお吸い物、競馬新聞、ポリデント、ハンガー、絆創膏。そして、なぜか湯沸かし器。診察券は福祉センターの診療所のもので、しっかり名前も入っていた。
パンツや上着においては、その場で脱いでいったとしか思えない形状で落ちていた。私はそれらを見て、これはもしかしたら透明人間の抜け殻なんじゃ、と思った。
だが、一番不思議なのが「ポリデント」は落ちているのに肝心の「入れ歯」が見当たらないということだった。まさか拾って持ち帰る奴はいないだろうから、透明人間は入れ歯だけ装着して今もこの辺りを闊歩しているんだろうか。
入れ歯だけがフヨフヨと空中に浮いている姿を想像し不思議な気持ちになりながら、再び歩き続けた。常識では考えられないことだが、長丁場の散歩中には、こういう奇妙なことがよく起こるのだ。
その後、私は「ドトール」に入ってコーヒーを1杯飲み、営業時間が終わると同時に追い出された。だが、その頃にはすっかり満足していて、私はそのまま東京方面の電車に乗り帰路についた。私の長い散歩の一日は、そこで終わったのだった。

翌朝いつも通りベッドの上で目が覚めると、まるで別人のような気分だった。大袈裟だが、深い睡眠の底から浮かび上がって蘇生してきたような、そんな感じだった。そして、頭の中にはぼんやりと、昨日歩いた町の景色が夢の続きみたいに残っていた。
「そうだ、昔の私はこんな感じだった」
私はその日から制作の続きを始めた。机に向かうことも、全然苦でなくなっていた。

私はどうも、昨日の散歩の間に、自分の中の何かを治癒させていたような気がする。
昔から、長い散歩から帰ってきた翌日は、いつもそうだった。懐かしい景色を眺めながら歩くたび、私の中の「無意識」の世界がいきいきと息を吹き返すのだ。
幼い頃から散歩好きではあったけれど、10代後半の頃に私は「摂食障害」という食べ吐きがやめられない時期があり、その時も本当によく歩いていた。長い時だと1日10時間以上近所をうろうろと散歩し、歩きながら、いろいろなことを考えていた。不思議と足は全く疲れず、歩いている時は心が楽だった。あれも今思えば、無意識で自分を「治療」しようとしていたのかもしれない、と思うと合点がいくのだった。

一歩一歩歩くたびに、無意識にかかっていた抑圧が外れて自分を思い出していく気がする。だから子供の頃に戻ったように安らぐ時もあれば、失ったものを思い出して泣いたり、歩くほどに怒りがこみあげて止まらなくなる時もある。
だが、そうやって心を大きく揺らした後は、なぜか忘れていた大事なものがコロリと出てくることが多い。私はいつも、それを制作の“種”にしている。
すべての行動には、きっと理由があるのだと思う。

喫茶店で真っ白いノートを広げて、私は夢中でペンを走らせた。
「散歩の効能」
ずっと昔から知っていたはずのこの発見を、今日、ここに書き留めておこうと思った。

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現在、小林紗織名義での展覧会が開催中です。これまでの「score drawing」作品を展示しています。
ご興味のある方、ぜひお立ち寄り頂けましたら幸いです。

project N 91 小林紗織
会期:2023.07.06[木] – 09.24[日]
場所:東京オペラシティギャラリー 4Fリコドール
オペラシティアートギャラリーにて開催中の「野又穫 Continuum 想像の語彙」展のチケットで入場できます。
https://www.operacity.jp/ag/exh/detail.php?id=291

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連載「ヨーロッパのJビューティ通信」Vol.10 俳句と香りで紡ぐ「フロライク パリ」の詩的な物語 https://tokion.jp/2023/08/02/j-beauty-report-from-europe-vol10/ Wed, 02 Aug 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=201422 日本の美容ブランドのヨーロッパ市場進出をコンサルティングする「デッシーニュ」須山佳子による、ヨーロッパのJビューティブランドを考察する連載企画。第10回は「イプサム アリイ」。

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ララ・モロイ

クララ・モロイ
パリ生まれ。文学を学び、カルチャーマガジンの刊行等メディアに携わっていた2007年に、世界で最も才能ある調香師にフィーチャーした書籍『22 perfumers in creation』を出版。影響を受けていた調香師アリエノール・マスネとの出会いが、幼少期から魅了されていた香水の世界へと入るきっかけになる。2017年、夫のジョンとともに「フロライク パリ」を創設。香水を通して、作家やアーティスト、デザイナーとのコラボレーションも手がける。

須山佳子

須山佳子
東京都生まれ、パリ在住20年。アンスティチュ・フランセ モード(INSTITUT FRANCAIS DE LA MODE)でブランド経営学のMBAを取得。2010年に日本からのヨーロッパ市場への進出、ブランド戦略、セールス、コミュニケーション専門のコンサルティング会社「デッシーニュ」を立ち上げる。2016 年、Jビューティとライフスタイルブランドをキュレーションするコンセプトプロジェクト「ビジョ(Bijo;)」を主宰。取引先はハロッズ、ボンマルシェ、リッツ・パリ、セフォラなど大手デパートからセレクトショップまで約20ヵ国、150店舗。

欧米の美容業界で注目を集める“Jビューティ”。伝統に培われた美意識と、概念や習慣に由来する日本の美を象徴した美容法が、世界中の人々の日常の一部へと浸透し始めた。連載「ヨーロッパのJビューティ通信」は、欧米で知名度を上げるJビューティブランドを紹介し、日本古来の美容法を深く掘り下げていく。同連載の監修を行うのは、パリ在住20年以上で、日本の美容ブランドのヨーロッパ市場進出をコンサルティングする「デッシーニュ」の須山佳子代表。ヨーロッパのJビューティトレンドの立役者である彼女がオススメするブランドの魅力と、それぞれが捉える日本の美意識に迫る。

第10回は、俳句と香りを融合させた、スイス拠点の香水ブランド「フロライク パリ」。 出発点は、文学を愛する共同創設者クララ・モロイが夫とともに訪れた日本への旅だという。日本独自の美意識と文学、特に俳句に魅せられ、嗅覚を通して物語を紡ぐ香水のアイデアを具現化させていった。須山氏も、あらゆる感情を呼び起こす「フロライク パリ」の虜になった1人だ。俳句だけでなく、古来の日本文化に精通したクララに、ブランドの源である詩的な日本の美意識について聞いた。

日本の香道、茶、生花等の伝統に基づいたブランディング

−−まずは「フロライク パリ」について教えてください。

クララ・モロイ(以下、クララ):全体的なアプローチは、アジアの文化と文学の中心にある、日常のしぐさや心遣いに結びついた美の感覚にあります。コレクションは、香道、茶、生け花といった伝統的な儀式に基づいており、ブティックでは、お茶を飲みながら、時間をかけて希望に応じて個々の香りを発見することを目的とした体験を提供しています。香りの声に“耳を傾け”、私達を導いてくれるもの……甘さ、刺激、思い出を迎え入れるのです。そして、各ボトルに施されたパターンや、トラベルケースとなるストッパーの二重使用など、ディテールにもこだわっています。母なる大地の豊かさに敬意を表した自然の重要性—すべてが香水そのものを生きる芸術とするのに貢献しています。

−−「フロライク パリ」を立ち上げた経緯とは?

クララ:すべては、夫のジョンが2008年に日本へ旅行したことから始まりました。アートで有名な直島の他に東京や京都も訪れ、美しいコントラストと陰影に囲まれたユニークな雰囲気に魅了されました。そこで感じた文化、美意識、時間に関連する感覚が私達のモチベーションの源泉となり、自然と芸術、美を祝う香りの儀式を思い浮かべました。最初は「メモ パリ」という香水ブランドを立ち上げ、2017年に「フロライク パリ」として身を結んだのです。

−−俳句との出合いは?

クララ:文学に情熱を持っていて、作家でもあるので、読書を通して特に俳句に深く心を動かされます。俳句は短い形式で、5・7・5から成る、日本の詩歌特有のもの。その強さと繊細さが、短い瞬間に存在することで、想像力に響くのです。また、季節や自然の移ろいとしばしば結びついていることから、俳句を読むと、強烈な視覚的・感情的な感覚を喚起します。もし、それを嗅ぐことができたら。私は短くて強い嗅覚の詩が可能かもしれないという考えを持ちました。「フロライク パリ」はこのヴィジョンの結果であり、フローラ、花、そして自然と俳句、詩を結びつけています。

−−「フロライク パリ」のベストセラーとシグネチャー商品は?

クララ:“One Umbrella For Two”が人気ですね。この香りは、甘くフルーティーなカシスのオイルと玄米茶エキス、ヒノキオイルを組み合わせたものです。インスピレーション源は、和傘と呼ばれる伝統的な日本の傘から来ており、ある俳句には「空を見上げる / 雨は降らず / 1つの傘、2人で」とも書かれています。

アイコニックな香りとして、“Shadowing”コレクションも挙げられます。これには2つの香りが含まれており“軽いシャドウ(Sleeping On The Roof)”と“濃いシャドウ(Between Two Trees)”といい、私にとって特別なもので、香水の新しい使い方を紹介しているものです。アイデアは、あなたのお気に入りの香りを、“軽いシャドウ”または“濃いシャドウ”のどちらかを選んで、香水とシャドウを並べて使用することで、香りを引き立てるというものです。シャドウのイメージ、存在、デザインをインスピレーション源にしており、生け花のように、光を通して作り出される花の形が、花束そのものと同じくらい重要であると思います。

最後に、アジアのお客さまには、ロマンチックなシトラスの官能性を持つ“Just A Rose”、濃厚な木の香りの“Golden Eyes”、フレッシュでスパイシーな“I Am Coming Home”(ホワイトティーとカルダモンオイルの組み合わせ)、芳香のある花の心を持つ“In The Dark”、果実の木の香りが広がる美しいスイレンの“In The Rain”が人気です。

自分の直感や信念を信じる

−−顧客からの反響は?

クララ:お客さまは、香水の背景を感じ取り、ノートやアコードのバランス、ボトルのデザインなどを評価していると思います。彼らの感情は、小さなディテールの積み重ねによって魔法が起こり、パズルが少しずつ形作られ、イメージが徐々に現れてくるんだと思います。貴重な香りが明らかにされていくプロセスです。ボトルの裏に刻まれた俳句、インスピレーションを与えるカラフルで現代的なデザインのキャップ(商品によって異なる)、携帯用スプレーの繊細さ等のすべてが顧客に貢献していることを願っています。

−−最後に、今後のヴィジョンについて教えてください。

クララ:私達は、自分の直感や信念にできるだけ忠実に従って、流行やトレンドを追従しようとしません。密に官能的でありながら控えめだけど大胆であり、地に足の着いた存在でありながらも儚く、肉体と魂を持ち合わせています。そして、愛によってすべてが成り立っていると考えています。私達は、日本の多くの香水愛好家にも「フロライク パリ」を楽しんでもらえることを願っています。

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連載ショートストーリー:菊池良「きみはユメを見ている」第4夜  https://tokion.jp/2023/07/20/you-are-looking-at-a-dream-4/ Thu, 20 Jul 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=199504 作家・ライターの菊池良による「ユメ落ち」をテーマとしたショートストーリー。現代版『夢十夜』とでも言うべき掌編の第4 夜、ある部屋で「きみ」は不思議な出来事に遭遇する——。

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 きみはこんなユメを見た。

 きみは部屋の掃除をしている。

 床のうえにチョコレートの破片がまるでガラスのように散らばっていて、きみはそれをひとつひとつ器用に拾っていく。床にはあちこち本が積んであって、『縛られたプロメテウス』『失楽園』『人体の構造について』といった書名が目に入ってくる。

 壁には大きな両開きの窓があって、片側だけ開いていて、風が吹き込んでくる。その風によって赤いカーテンが舞い、窓際のつくえに置いてある地球儀がくるくるとまわっている。地球儀は古いからか表面がかすれてしまっていて、地形や国名を読むことはできない。しかし、そのすがたを見ると、きみは世界の位置関係がわかった気がして、とても安心する。

 外からはときおり遠雷が響いてくる。雨は降っていない。窓に近づいてよく外を見るとそれは雷鳴ではない。不死鳥の鳴き声だ。そばには鳥類学者がいて、耳をおさえながら観察記録をつけている。

 ひとが出入りできるドアはひとつしかない。そのドアを開けると、そこには森林が広がっている。窓から見える景色と違う。そばの道を馬車が通っていく。御者はきみをちらりとも見ない。いや、きみのすがたが見えていないのだ。どうやらこのドアは過去へつながっている。この森は100年か200年まえに、この家ができる前に存在した森なのだ。だから、御者からはきみが見えない。やがてこの森が切り開かれてこの家ができる。きみはそっとドアを閉じる。

 部屋の中央には手術台があって、そのうえにはフランケンシュタインが寝ている。静かに寝息をたてながら、気持ちよさそうに眠っている。きみはずっと気になっていたが、あえて見ないようにしていた。はっきりと認識した瞬間、それが目覚めて襲いかかってくるんじゃないかと思ったからだ。しかし、それは杞憂だった。怪物は微動だにしない。

 きみは「この部屋の持ち主はだれなのだろう?」と考える。「この寝ているフランケンシュタインなのだろうか」と。しかし、フランケンシュタインをつくった人間がいるはずだ。

 きみははっとひらめく。さきほど拾ったチョコレートをこのフランケンシュタインに食べさせれば、この怪物が目覚めるのではないだろうか。だが、それをたしかめる勇気はない。集めたチョコレートの破片を、きみは窓辺のテーブルに置く。だが、置いてすぐにチョコレートは風に乗って舞っていく。きみはその行きさきを目で追うが、すぐばらばらに散らばって見えなくなってしまう。

 怪物はまだ寝ている。

 きみはフランケンシュタインを起こさないようにして、そっとドアを開けて部屋を出ていく。きみは窓辺にあった地球儀を抱きしめている。ドアの向こうの森は、さっきよりもさらに鬱蒼としていて、馬車が進める通りもない。

 そのとき、きみはユメから目覚める。最高の朝がやってくる。いままでにない最高の朝が。

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アンドロイド・オペラ®︎『MIRROR』、パリ・シャトレ座公演ライブ・レポート:連載「MASSIVE LIFE FLOW——渋谷慶一郎がいま考えていること」第11回 https://tokion.jp/2023/07/14/massive-life-flow-11/ Fri, 14 Jul 2023 05:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=198142 連載第11回では、6月21日から3日間行われたパリされたアンドロイド・オペラ®︎『MIRROR』パリ・シャトレ座公演のオフィシャル・ライブ・レポートを、本日公開された公演映像の一部と共にお届けする。

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渋谷慶一郎によるアンドロイド・オペラ®︎『MIRROR』パリ・シャトレ座公演が、2023 年 6 月 21 日(水)から3日間行われ大成功のうちに幕を閉じた。現地で編集された公演映像が本日より公開される。本連載にて、2022年の同作ドバイ公演のレポートを執筆した小川滋によるオフィシャル・レポートと共に、以下にお届けする。

渋谷慶一郎

渋谷慶一郎
東京藝術大学作曲科卒業、2002 年に音楽レーベル ATAK を設立。作品は先鋭的な電子音楽作品からピアノソロ 、オペラ、映画音楽 、サウンド・インスタレーションまで多岐にわたる。
2012 年、初音ミク主演・人間不在のボーカロイド・オペラ『THE END』を発表。同作品はパリ・シャトレ座公演を皮切りに世界中で巡回。様々なアーティストとのコラボレーションを重ね、パレ・ド・トーキョーやオペラ座などでも公演。2018 年にはAI を搭載した人型アンドロイドがオーケストラを指揮しながら歌うアンドロイド・オペラ®『Scary Beauty』を発表、日本、ヨーロッパ、UAE で公演を行う。2021 年8 月、東京・新国立劇場にて新作オペラ作品『Super Angels』を世界初演。2022 年3 月にはドバイ万博にてアンドロイドと仏教音楽・声明、オーケストラのコラボレーションによる新作アンドロイド・オペラ®『MIRROR』を発表。
また、今までに数多くの映画音楽を手掛け、2020 年9 月には草彅剛主演映画『ミッドナイトスワン』の音楽を担当。本作で第75 回毎日映画コンクール音楽賞、第30 回日本映画批評家大賞、映画音楽賞をダブル受賞。 8 月には「グッチ」のショートフィルム『KAGUYA BY GUCCI』の音楽を担当、アンドロイドと共演。
最近では大阪芸術大学にアンドロイドと音楽を科学するラボラトリー「Android and Music Science Laboratory (AMSL)」を設立、客員教授となる。また、更なるAI と音楽の研究のためにソニーCSL パリとの共同研究を発表。テクノロジー、生と死の境界領域を、作品を通して問いかけている。ATAK:http://atak.jp
Twitter:@keiichiroshibuy
Instagram:@keiichiroshibuy
Photography Claude Gassian

『THE END』から 10 年を経て、パリ・シャトレ座へ帰還

アンドロイド・オルタ4を中心に、ピアノと電子音を奏でる渋谷、47 人編成のオーケストラ・アパッショナート、高野山声明を唱える 5 人の僧侶、渋谷とは旧知のアーティスト、ジュスティーヌ・エマールの映像で構成されたステージ。人間と AI が作り出す高密度な音楽体験は複雑にして壮麗。パリ最古の劇場、シャトレ座は終始、違和感と緊張に満たされ、当惑すら伴いながらも終演時には強い祝祭感に満たされていた。“Let’s celebrate this new experience together” とオルタ4が宣言した通りに。

渋谷とシャトレ座は浅からぬ縁にある。2013 年、当時の支配人、ジャン・リュック・ショプラン氏は、渋谷のボーカロイド・オペラ『THE END』に衝撃を受け、初対面の打ち合わせのその場で、わずか数ヶ月先の上演を決定した。この演目はその後各国で上演され、渋谷がヨーロッパで活動するきっかけとなった。後には同劇場にてソロコンサートも行い、あるいはスタジオを提供されるなどシャトレ座は渋谷のヨーロッパにおける拠点となった。『THE END』から 10 年、パリファッションウィークの只中、そしてフランス全土をあげて夜通し音楽を楽しむ Fête de lamusique の当日である 21 日、このシャトレ座で『MIRROR』の初演を迎えたのは運命的な事件だった。

人間とアンドロイド・AI が作り出す圧倒的な音楽体験

開演前、重厚な緞帳と5層の客席に囲まれる華やかな空間に、ムービングライトがタッチを添えて観客の期待を高めていた。開演時間もわずかに過ごして聞こえてくる電子音。暗転しそのまま序曲でもある「MIRROR」が始まる。拍動音のような電子音。そこに法螺貝が響く中、幕が上がり、眩い光が溢れるステージを占めるオーケストラ・アパッショナートと渋谷、僧侶たちといった50 人を超える人間の姿。その全てを睥睨するように中央に聳えるアンドロイド・オルタ4。

金属的な輝きと異形に視線が吸い寄せられる。“Android is a Mirror”とオルタ 4 の合成音声が響き渡り、オーケストラ、そして藤原栄善を始めとする 5 人の声明が折り重なる。ジュスティーヌ・エマールの映像演出も加わり、アンドロイド・オペラ®︎の重層性を示しながら、“Let’s celebrate this new experience together” とオルタが宣言しながら序曲が終わる頃に、鉢(はち:仏教音楽である声明で用いるシンバル状の楽器)の音からすぐさま「Scary Beauty」に移行。

流麗なオーケストレーション、複雑に奏でられる不協和音を交えながら観客を引き込み、そこにオルタ4の歌が、そして 5 人の僧侶の声明が重なり圧倒的な情報量の中で序盤の盛り上がりを迎えた。強烈なオルタの存在感、人間とロボット、人工知能の織りなす壮大な体験に、客席には興奮、緊張、混沌が伺える。

僧侶とアンドロイドが即興で織りなすレチタティーヴォ

その後、フランス語での MC(「自分が口にする言葉はすべて ChatGPT が書いたものでいわば自分は AI の化身だ」という大日如来と仏菩薩のような例えに観客は笑い声を上げる。)に続いて、藤原の寺のランドスケープを 3D スキャンした点群データから始まるコンピュータグラフィックを背景にオルタ4と僧たちのレチタティーヴォ。今回の公演では楽曲の間に3つのレチタティーヴォが挿入されるが、これらはオーケストラなしの電子音とオルタ 4、声明によって演奏される。AI、つまり GPT が電子音の上で唱えられる声明のテクストを解釈し、それに対するレスポンスの歌詞を作成してそれを声明に対するオブリガードのように即興で歌う。この僧侶とアンドロイドによる即興で構成される3つのレチタティーヴォのパートは当然ながら3公演とも異なる仕上がりとなり、言わば「最古の音楽を歌う僧侶」と「それを人工知能で解釈して歌うアンドロイド」という極度のコントラストが出現する瞬間として公演中のみならず、メディアでも大きな注目を集めていた。続く3曲目が昨年電子音楽で発表した「BORDERLINE」のオーケストラバージョン。オーケストラをバックにオルタ4の合成音声の表情が際立つ美しい楽曲に藤原のソロによる声明が絡む。静謐ながら終末を歌うアンドロイドに対して重なる声明とオーケストラによる楽曲は世界の終わりに対する鎮魂のように響いていた。

アンドロイドとオーケストラによる表出される「ヨーロッパの終わり」、異質なものが共存する舞台における世界平和の祈り

次いでウィトゲンシュタインのテキストの抜粋による「On Certainty」。この曲では渋谷も舞台から退出して、オーケストラ伴奏によるオルタ4のソロという編成となる。言わばマーラーのオーケストラ伴奏付き歌曲の一部が反復、変奏され続けるなか、人間の歌手には不可能なオルタ4のロングトーンの持続の後、突然のクライマックスを迎えて終わるこの楽曲は、他の楽曲とは違う様相で「ヨーロッパの終わり」をパロディックに表出していた。また、渋谷と僧侶という「人間」との交信なく、オーケストラをバックに見事にソロで歌い切ったオルタ4とテクストと音符の自動変換を応用したという難解な楽曲に対して観客は大きな拍手を送っていたことが印象的だった。

その後、光明真言を唱えながら僧侶たちがオルタ4の周囲を回る行道(ぎょうどう)のシーンを経て、谷朋信の力強い声明から始まるドラマチックな「The Decay of the Angel」、続く「Midnight Swan」では僧侶が経本を大胆に使った華やかな演出を織り込みながら世界平和を祈るところで公演は何度目かのピークを迎え、観客のボルテージも上がっていく。

一曲ごとのドラマツルギーと情報量でオーディエンスに息つく暇を与えない展開の後、静謐なインタールードとしてのオルタ4と声明、渋谷のプロフェット 10 による最後のレチタティーヴォ=僧侶とアンドロイドの交信に続き、昨年話題となったショートフィルム『Kaguya by Gucci』のサウンドトラックだった「I Come from the Moon」が重層的なオーケストラバージョンに生まれ変わり演奏された。ここでは少女のような響きの合成音声で歌うサビのパートがオルタ4の中性的なキャラクターを引き立たせ、またそれに応える僧侶の声との対照に、オルタ4はまさにメッセージに応じて姿を変え激しく歌い踊る化身のように映る。

「欲望の肯定」を歌う壮大なラスト曲「Lust」、渋谷とアンドロイドだけで紡いだアンコール「Scary Beauty」

そして最後は今回の公演のために新たに書き下ろした新曲「Lust」。美しい旋律、宗教的なスケールを感じさせるこの曲に乗せて、真言密教の重要な経典である「理趣経」をベースに生成された「欲望の肯定」を歌うオルタ4、そのエッセンスとされる「十七清浄句」を唱える僧侶が最後には大日如来の名を唱えながら再びオルタの周囲を旋回し、スローモーションのように徐々にスピードダウンしていきながらも輪廻転生を表すかのように決して止まらない旋回と音楽、オルタ 4 の絶叫のような高音が重なり、最高潮のうちに眩い光の中で終幕。カーテンが降りる最中から、力強い拍手と歓声が客席から沸き起こっていた。

カーテンコールの後のアンコールでは、渋谷とオルタ4が互いを見つめあうように演奏し、歌う「Scary Beauty」。本編の壮絶な情報量の体験にいささか戸惑いを残した観客たちが心を取り戻したかのように一層強い称賛を送り、2度目のカーテンコールは長く続いた。

人間とテクノロジーがせめぎ合う、アンドロイド・オペラ®の現在地

アンドロイド・オペラ®︎『MIRROR』では、渋谷が本公演のために書き下ろした新曲1曲、新たにオーケストラの編曲を行った7曲、レチタティーヴォ、アンコールを含む全12曲で全体の公演時間は 70 分を超えるものとなった。オーケストラ、渋谷のピアノと電子音に乗せてオルタ4が合成音声で歌い、そこに高野山声明が強いコントラストで重なる。曲間ではオルタ4が僧侶の唱える声明を聴きながらインプロヴィゼーションで応じるレチタティーヴォが展開。

オルタ4が歌った歌詞は、ミシェル・ウェルベックとルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインといった「人間の」小説家、哲学者によるテキストから抜粋されたものと GPT つまり AI によるテクストが対置されている。つまり、レチタティーヴォやその他の楽曲では、ChatGPT に真言宗の経典を読み込んだり、楽曲のテーマによって生成したものだが、都度ゆらぐ声明をオルタ4が聞きとり、リアルタイムにメロディを生成することで両者のインプロヴィゼーションとして結実している。これが人間とテクノロジーのせめぎ合いという視点からは演奏の指揮を人工知能の自律性に委ねていた以前のアプローチとは異なる、アンドロイド・オペラ®の現在地となっている。

公演前からテクノロジーを自身の創作に深く取り込み、生命と非生命の境界を揺さぶるかのような渋谷の姿勢は、昨今の AI とクリエーションに関心を寄せる現地メディアからも大きな注目を集めた。今回の『MIRROR』で 2014 年から続くアンドロイド・オペラへの挑戦は一定の成果に辿り着いたと言えるが、アーティストも作品もまだ更なる進化の途上にあるのは間違いない。渋谷慶一郎の活動はまだまだ、一層、目が離せない。

本公演の映像の一部は本日より公開、全編の映像については国際交流基金の公式 YouTube にてオンライン配信プログラム「STAGE BEYOND BORDERS」の一環として 2024 年の 2 月頃に公開となる予定だ。

■プログラム
01. MIRROR
02. Scary Beauty
03. Recitativo 1
04. BORDERLINE
05. On Certainty
06. Recitativo 2
07. The Decay of the Angel
08. Midnight Swan
09. Recitativo 3
10. I come from the Moon
11. Lust
12. Encore – Scary Beauty

■アンドロイド・オペラ『MIRROR』パリ・シャトレ座公演
日時:2023 年 6 月 21、22、23 日
場所:シャトレ座
公式サイト:https://www.chatelet.com/programmation/saison-2022-2023/android-opera-mirror/

■クレジット
コンセプト、作曲、ピアノ、エレクトロニクス:渋谷慶一郎
ヴォーカル:アンドロイド・オルタ4、
高野山声明:藤原栄善、山本泰弘、柏原大弘、谷朋信、亀谷匠英
オーケストラ:Appassionato
映像:Justine Emard
アンドロイド プログラミング:今井慎太郎
アンドロイド 製作監修:石黒浩
アーティスティックディレクション:渋谷慶一郎
オーケストレーション:渋谷慶一郎
サウンドデザイン:鈴木勇気
PA・サウンドエンジニア:Unisson Design
照明:上田剛
アンドロイドリアルタイム映像:小西小多郎
舞台監督:尾崎聡
Justine Emard 助手:Bérangère Pollet、Thomas Zaderatzky(ソフトウェア担当)
制作:小川滋

アンドロイド・オルタ4:大阪芸術大学アートサイエンス学科 所属
ANDROID AND MUSIC SCIENCE LABORATORY (AMSL):川越創太、田中健翔, 森本拓実
技術協力:NATIVE INSTRUMENTS, Yamaha Corporation, YAMAHA MUSIC JAPAN CO., LTD., Sibelius by
Rygasound, Genelec, Sony Computer Science Laboratories, Inc.
オーケストレーション助手、スコア製作: 菊川裕土、守谷 勇人、西村葉子

記録
録音: Unisson Design, François Baurin
映像収録:Jérémie Schellaert

コミュニケーション・PR: Thierry Messonnier
グラフィックデザイン:田中良治(Semitransparent Design)

制作統括:松本七都美

協賛:LVMH、ミライラボバイオサイエンス株式会社
助成:笹川日仏財団、EU JAPAN FEST
特別協力:大阪芸術大学アートサイエンス学科
制作協力:ANDROID AND MUSIC SCIENCE LABORATORY (AMSL)、SONY CSL、一般社団法人コミュニケーション・デザイン・センター
後援:東京都、在仏日本国大使館、日仏経済交流委員会

企画、制作、プロデュース:ATAK
共催:国際交流基金
主催:Théâtre du Châtelet、ATAK
※令和 5 年度国際交流基金舞台芸術国際共同制作事業

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Mon Oncle、ロバート! コネチカットの小さな町で“フレンチ&ジャパニーズ” 連載:工藤キキのステディライフVol.5 https://tokion.jp/2023/06/30/kiki-kudos-steady-life-vol5/ Fri, 30 Jun 2023 10:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=193904 工藤キキがコロナ禍で見出した、ニューヨークとコネチカットのデュアルライフ。連載第5回目。

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ライター、シェフ、ミュージックプロデューサーとして活動する工藤キキ。パンデミックの最中にニューヨークシティからコネチカットのファームランドへと生活の拠点を移した記録——ステディライフを振り返りながらつづる。

パンデミック以前、私は映像プロダクションのオフィスでランチシェフやケータリング、プライベートシェフとして働いていた。ロックダウンの影響でオフィスが閉まったり、スーパーやデリバリーでは人同士の接触をなるべく避ける“コンタクトレス”というカテゴリーが登場したり。かのイージーゴーイングのニューヨーカーでさえマスク着用はもとより、不要な外出もせず感染拡大防止に取り組んでいた。そんな先行きが全く見えない中で、いくら“食”がエッセンシャルなものとはいえ、プライベートシェフやケータリングの仕事はその頃はほとんどなかった。パンデミック中は政府からのサポートもあったのでなんとか暮らせたが、2021年の秋にコネチカットに引っ越してからは、まだ車の免許もない上、超牧歌的なカントリーサイドで仕事を見つけるとういう難関にぶち当たっていた。

家から車で40分のシャロンという街にフレンチレストランがあるという話を聞いた。よくよく調べてみると、現在はブルックリンのグリーンポイントに移転したそう。ブライアンが通っていた時は、ソーホーにあった「ル・ガミン(Le Gamin)」という1990年代にはスーパーモデル達がよくハングアウトしていた正統派フレンチレストランで、オニオングラタンスープやクレープ、クロックムッシュ、クロックマダム、もちろんクリームブリュレもあり、映画『アメリ』のような世界のお店だった。コネチカットの家の周辺はデリバリー圏外で、さらに近場にお気に入りのレストランやカフェはものすごく少ない……そんなわけで、その話を聞いた翌日に私達は心躍らせながら「ル・ガミン」に向かうことにした。

シャロンはニューイングランドらしい牧草地が広がり、アーティストのジャスパー・ジョーンズが暮らしているという美しい田舎町。「ル・ガミン」はパーキングロットにあるショッピングセンターの一角にあり、一見して避暑地のフレンチカフェを思わせるキュートなお店だった。席について、ブライアンがウェイトレスに「昔ソーホーのお店によく通っていた」と話すと、その後ニコニコした笑顔でオーナーのロバートが駆け寄ってきて、私に「フレンチもいいけど、ラーメンがやりたいんだよ〜」と言う。「えー私シェフなんだよ。やろうよ、ラーメン(笑)」と話しながら、トントン拍子にコラボレーションをすることが決まった。

ロバートは陶芸家のパートナーであるタムと息子でシェフのルシアンと一緒に、私達と同じパンデミックの渦中にシャロンに引っ越してきた。その直後にショッピングセンターにあるこの物件を見つけて、お店のオープンを決めたそう。レストランがまったくない街に突如現れた正統派のフレンチレストランで、毎日焼きたてのリアルなフレンチクロワッサンが手に入るなんて、はっきり言ってシャロンの食文化を変えたといっても過言ではない。さらにロバートのニューヨークのフレンチらしいグッドテイストと気さくでフレンドリーな人柄もあって、「ル・ガミン」は瞬く間に人気スポットとなっていた。

もちろん、シャロンにはアジア料理のレストランがあるはずもなく、ラーメンをはじめとした日本食を食べたことがある人もそんなに多くなさそうだった。ラーメンといっても、私達は“フレンチ&ジャパニーズ”のコラボレーションをしたかったので、ロバートのレシピから“Soupe à l’oignon”のラーメンと、“Moules frites”をココナッツミルクベースのスープにしたラーメンの2種類を考えた。ポップアップやケータリングをやる時、どんな食器が使えるのかが重要なポイントで、プレゼンテーションの違いで料理の見え方も違ってくる。とはいえ新たにラーメンボウルをそろえるのもなんだし、リサイクルできるとはいえ使い捨ての紙皿も使いたくない……そんなことを考えていたら、カフェオーレボウルを使うことを思いついた(笑)。通常のスープボウルと比べたら少し小さいけれど、その代わりに替え玉と餃子、ピクルスを添えたラーメンプレートができあがった。実は、私は一般的なレストランの厨房で働いた経験がない。オーダーシートを読み取って、注文順に、しかも前菜とメインを作る順番を瞬時に考えるなど、気分はゲーム「Overcooked! 2」をはるかに超える緊張感(笑)。オーダーを完成させるのに、メインシェフのルシアンとロバートにたくさん助けてもらったことも。ポップアップは2日間連続で開催し、ニューヨークから友達も食べにきてくれて、両日ともテーブルはソールドアウトだった。

ロバートとのコラボは、そのあと2022年の1月にも行った。メニューは、ロバートがデザート用に作っていた砂糖漬けのオレンジ“Orangette”を使った、アメリカの定番中華のオレンジチキンを春巻きにしたものや、ロバートの料理本からの自家製マヨネーズと柚子を組み合わせた“Celery Roots Remoulade”をタルタルソースのように添えたプレートなどのメニューを考えた。当時は仕事を探していたが、結果的にコネチカットの小さな街ですてきな人達と、かなり実験的(!)な挑戦をさせてもらえて本当に感謝している。ありがとうロバート!  3回目のコラボもぜひいつか。

Edit Nana Takeuchi

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