ニューヨークの着付教室で多様性と自由について考える

世界中から人が集まるニューヨークに引っ越して、自分の、他人の、文化的なルーツについて強く意識するようになった。インド出身の友達はパーティのたび美しいサリー姿を披露する。仕事先で知り合ったムスリマは、SNSでヒジャブの飾り巻きアレンジを紹介するインフルエンサーだ。同じ言葉を話し、同じ街で暮らしながら、どれだけミックスしても完全には混じりきらない固有の文化が美しい。ずっと敬遠してきた「着物」を私も始めてみようかなと思えたのは、この街の雰囲気のおかげだろう。

世界を駆け巡るジャパンヴィンテージ

昨秋から自宅近所のイーストヴィレッジにある着付教室に通い始めた。日本語と英語を併記した山野流着装教室の教則本を使っていて、生徒は日本人とアメリカ人のほか、イタリア人、台湾人、フランス人など。週1回、コワーキングスペースの会議室で少人数制クラスの指導を受け、やっと初伝講座を修了したところだ。新型コロナウィルスの影響で現在は閉校中だが、いずれまた通いたいと考えている。

人に話すと、まず「お金かかるんじゃない?」と心配される。着物というと絢爛豪華な晴れ着のイメージが強烈だからだろう。例えば今年の「第92回アカデミー賞授賞式」で松たか子が着ていた総絞り。めまいがするほど美しかったが、あれは洋服に置き換えるとオートクチュールドレスのようなもの。かたや私の手持ちは、ジーンズやカットソーに相当するような、普段使いのカジュアルな着物ばかり。しかも大半が中古品だ。

着物の市場規模はみるみる縮小していて、年に数回以上着る日本女性は全体人口の1割以下、という調査結果もある。そのぶん、持ち主不在の素敵なお宝が数千円から掘り出されたりもする。私もヴァージニア州の女性から10ドルの名古屋帯を買ったり、日本在住の外国人店主から3着9000円のセール品を空輸してもらったり。もっか「格安古着のネット通販」にハマッているというのが、実際の感覚に近い。

初期投資がゼロとはいかないけれど、着付用小物さえ一式そろえれば、祖母の生年より昔に作られたアンティークだって着こなせるのがおもしろい。すぐにシルエットの流行が廃れてしまうブラウスやワンピースと同じ価格帯で、丈夫で上質で一生着られる、魔法の服が手に入るのだ。

着物には着物の解放感がある

「でも、着物って窮屈なものでしょう……?」と食い下がる人もいる。七五三や成人式、結婚式で着せ付けられて、さぞや息苦しい思いをしたのだろう。「身体をぎゅうぎゅうに縛りつけて活発な動きを制限するなんて、コルセットや纏足と同じ、女性の自由を奪う旧時代の遺物じゃないか」と、抵抗を示すフェミニストもいる。他ならぬ私自身がそうだった。

ところが、着物には着物なりの美しい自由がある。確かに準備には手間がかかるし、細かなルールが窮屈でないと言えば嘘になるが、ちゃんと習えば帯を締めても苦しくない。少なくとも、昔買ったミニスカートの二度と閉まらないファスナーほどには、私の自尊心を傷つけることはない。

露出の多い洋服を選ぶ時は、「脚が太いとサマにならない」「くびれがないとイケてない」「若い頃ほど似合わなくなった」など、どうしてもネガティブな制約が多くなる。かたや和服の世界では、徹底的に体形を補整するおかげで、好きなものを好きなように着ることができる。

昨冬、着付教室の生徒有志が一列に並んで集合写真を撮った。ずらりと着飾った女性達の統一感、さながら『美少女戦士セーラームーン』の変身後みたいで驚きを隠せない。だって私たち、国籍はもちろん年齢も体格も、本当はてんでバラバラなのだ。背が高く大柄な白人、背が低く小柄なアジア人、筋肉質のダンサーもいれば、ふっくらした子持ちの母親もいる。変身前の洋服姿は、デコボコしていてまるで共通項がない。

だが和装の着付けによって、みんなピシッと一つの伝統的な黄金比に定まっていく。大きな胸は平らに均し、痩せたところはタオルを巻いて肉付きをよくする。身長や手足の長さに合わせて衿や袖を調整する。デザイン関係の仕事をしている私はいつも、手書きのラフスケッチを描画ソフトのグリッドに取り込んで清書していく作業に似ているな、と思う。

同一規格におさめるからこそ、各人各様、デコレーションやコーディネートへのこだわりも際立つ。体形を覆い隠すことは個性をひた隠すことではない。安心安全な緩衝材にしっかり包まれた上から、きれいなラッピングペーパーをかけてもらうような気分だ。多様な生徒全員が「同じ」だけど「違う」。テンプレートのあるオシャレを体験して、私は自分が体形コンプレックスから解放されたのを感じた。

日本文化は誰のもの?

体形だけではない。日本の着物は、世界各国のありとあらゆる美しい布を、何でもかんでも内に取り入れてしまう。インドやジャワの更紗模様、中国の汕頭(スワトウ)刺繍、西洋風のレース生地、ステンドグラスの図案や、エジプト壁画の柄まである。私が先日久しぶりに買った新品は、アフリカンファブリックでできた夏用の浴衣だ。雪花模様にそっくりのパターンが目に涼しげで、遠目には伝統和柄のようにも見える。

そしてそれらが、驚くほど日本人「以外」にも似合う。私なら白塗りの水化粧でもしないと到底着こなせない寒色系の淡い振袖を、白人女性が粋に着こなす様子など見ると、目から鱗が落ちる思いだ。着付教室に通う生徒達の動機もさまざまで、日本人書家やアスリートの和服姿に憧れたとか、漫画やアニメのファンだとか。私がアンティーク着物を買い取って、詳細を英語で問い合わせている相手も、きっとこんな人々だろう。

2019年、キム・カーダシアンが自社商品のために「Kimono」という名称を商標登録しようとした時、真っ先に猛反発したのは米国のアジア系コミュニティ、次いで海外の着物愛好家達だった。日本国内の和装業界から世界へ発信された声は、一歩遅れてようやく追いついた印象だ。どんな日本文化だってもう日本人だけのものではない。

渡航制限に検疫強化、当面は「物理的に世界を旅する」ことが難しくなったアフターコロナの時代において、自国の「外」へ目を向けるのはどんどん難しくなっていくに違いない。それでも、カッコよくてカワイイものも、容認しがたい邪悪なものも、あっという間に世界に伝わってしまう。たとえ国境が封鎖されても、文化の裾野は果てしなく広がっていくのだ。多文化共生の中でわれわれは、自分のルーツとの向き合い方を何度でも問い直す必要があるだろう。

Picture Provided Iku Okada

author:

岡田育

文筆家。1980年東京都生まれ。出版社で雑誌や書籍の編集に携わり、2012年よりエッセイの執筆を始める。著書に『ハジの多い人生』(文春文庫)、『嫁へ行くつもりじゃなかった』(大和書房)、『天国飯と地獄耳』(キノブックス)、『40歳までにコレをやめる』(サンマーク出版)。二村ヒトシ・金田淳子との共著に『オトコのカラダはキモチいい』(角川文庫)。2015年より米国ニューヨーク在住。 https://twitter.com/okadaic

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