トビー レノルズ, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/toby-reynolds/ Tue, 12 Jul 2022 07:53:26 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.2 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png トビー レノルズ, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/toby-reynolds/ 32 32 日常にある奇跡的な瞬間を切り取るオカダキサラの観察眼 https://tokion.jp/2022/07/10/okada-kisara-captures-the-extraordinary-in-the-everyday/ Sun, 10 Jul 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=131663 何気ない日常で起こる奇跡的な瞬間を切り取る写真家のオカダキサラが捉える被写体や瞬間は、どのようにして生み出されるのか。

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東京の街中を舞台に、何気ない日常で起こる奇跡的な瞬間を切り取る写真家のオカダキサラ。彼女が捉える被写体や瞬間には多様なツッコミどころが含まれていて、あらゆる物語が湧き上がってくる。膨大なスナップ写真の作品群はどのようにして生み出されるのか? 東京という都市へのこだわりから巧みに瞬間を切り取る背景を中心に話を聞いた。オカダの目には何が写っているのか。

東京生まれの東京育ちで、東京在住だけど、東京にいると観光客のような気分になる

−−今回の個展のテーマは、「東京2020オリンピック」に関連するものですし、キサラさんの作品は「東京」という都市に深く関わっていますね。まず、自分が「東京人」だと思いますか?

オカダキサラ(以下、オカダ):私は東京生まれの東京育ちですし、今も住んでるのは東京なんですけど、東京にいると観光客のような気分になります。他県の人と比べると東京の人ではあるんですが、自分ではそう思えないしなんとも言えない気持ち。でも、東京の街を写すことによって、そこに住む人々を通じて東京さを感じられるような気がしています。その人間性がわかるんじゃないかと思って東京をテーマに撮影しています。

−−TOKY∞VER』の写真に写っている人達は、東京人だと思いますか?

オカダ:ある人はそうでしょうし、そうじゃない人もいますね。

−−個展の形式はどうやって決定したんですか?

オカダ:ステートメントで、2021年に東京オリンピックが開催されたことについて、言及しているんですが、本来開催される予定だったロゴマークの“2020年”がいつまでもあるので、珍しいと感じたんです。東京って流行を追いかけて目まぐるしく変わっていくはずの都市なのに、2020年に引きずられているようで、再び時が動き出す前にその時の写真をまとめて今回、発表しました。時計は時間を意味しているし、オリンピックの象徴的な輪を時計にアレンジしようと思ったんです。

−−オカダさんの写真には、力強さとミステリー感があります。ミステリーさを感じるのは一瞬ですか、それとも写真を改めて見返した時ですか?

オカダ:どっちもあって。ちょっと変わったものがあると、すぐにシャッターを切ります。撮りためた写真の中から、またもっとそういうイメージの写真を探してしまうんです。なので、ちょっとでもミステリアスだと感じたものは撮影していますね。

−−1日、200枚近くも写真を撮ると聞いたことがあります。

オカダ:そうですね、200枚くらい撮っています。今日も撮ってるんですけど……そうですね、200枚くらいですね。1年中撮っているという感じです。

一瞬だけ流行った“マスクの着用”という事実を実験的に、記録しているように撮影する

−−カメラと被写体の理想的な距離を見つけられたようですが、その距離感はどのようなものなのでしょうか?

オカダ:写真を始めて4年が経つんですけど、最初は近い距離感で撮っていたんです。そのうちに、1つのものよりも人物と場所が集まっているような観光っぽさが気になってきてから、だんだん距離を取るようになりました。4、5年前から距離が離れてきましたね。

−−ストリートフォトグラファーとして、撮られたことに気付いた人からはどんな反応がありますか?

オカダ:「おお、この人撮ったな」とか「あ、撮られてる」っていう感じの反応が多いですね(笑)。

−−でも、誰も会話をしないんですか?

オカダ:そうですね、特にはないですね。

−−東京のおじさん達にカメラを向けるのはなぜでしょうか?

オカダ:おじさんって歩き方とかにその人の人生が映し出されていることが多くて、マダムもそうですよね。今の若い人達って、撮られることに慣れているから固くなりにくいんですけど、年齢を重ねると自分らしさが出てくる。そんなおじさんが多いなと。あと、私の行動圏に多分おじさんが多いんですよね、通勤とか帰宅時もそうですけど。

−−写真のモデルとして見ているということですか?

オカダ:どうだろう……おじさんがモデルというわけではないです。でも、東京という街を表していると思うし……。おじさん達は、目的を持って街を歩いていると思うんです。若い人はブラブラ歩いても退屈しないけど、おじさんは目的がないと歩き出さないような気がするんですよね。一般的にですけど。そういうのと東京の街がちょっとだけリンクするような感じがあります。

−−キサラさんが最近撮った写真では、マスクの存在感が大きくなってしまいますよね。写真家として、マスクに対する反応はどのように変化していったのでしょうか。

オカダ:マスクをつけ始めた時、表情が見えないっていうことが街の雰囲気にも影響するのだとちょっとびっくりしました。顔の半分は見えているわけですから、アイコンタクトくらいはできると思ったんですけど、難しかったですね。でも、1つだけ言えることはマスクで隠している分、以前よりも撮られることの反発は少なくなった感じがしますね。私だけの考えかもしれません。

あと、長い目で見ると、マスクをしない時間のほうが長くなるわけじゃないですか。もっと、暑くなってくればマスクをしたがらなくなりますし。みんなが積極的にマスクをしている、本当に一瞬だけ流行ったという事実を実験的に、記録しているように撮影しています。まだ、何かが終わったわけでもないんですけどね。

一瞬、目を離すだけで変わっていく東京の風景

−−キサラさんの作品は、視点を分ける仕切りがありますよね。具体的な壁の写真でもあり、地下鉄の駅の黄色い線のような境界線もある。この仕切りは、いつも意識しているのですか?

オカダ:はい、意識しています。スクリーンを通して観るような感覚でデザインを意識しています。あの黄色い線は印刷物のイメージで捉えていますし、目が不自由な人のためのデザインであったり、そのデザインの意味を広く捉えていることもあると思います。

−−それはデザインそのものに対してでしょうか? それとも人の反応に対してでしょうか?

オカダ:個人的にも写真的にも両方の意味で捉えています。デザインが誰のためにあるのか、どのように作用しているのかということもありますよね。それも東京の一部として見ています。

−−今回の個展では、地下鉄で撮影された写真がかなり多いですね。地下鉄で撮影しようと思ったきっかけは何でしょうか?

オカダ:2021年って、東京オリンピック開催の影響で、地下鉄に乗っている人が少なかったんですよ。人が少ない地下鉄っていうのは今後、そう見られないと思ったんですが、実際に見てみると、人の動きや乗り換えがとてもドラマチック。人が少ないからドラマがないかというと、そうでもなくて。地下鉄の風景がよく見えるようになったから、何が起こっているかがわかりやすいし、人との関係性がおもしろくなって、写真を撮り始めたんです。

−−東京の工事現場や作業員等、物理的に変化する瞬間をよく撮影されていますね。それは必然なのでしょうか?

オカダ:必然的なものだと思いますし、それが東京だと思います。渋谷駅が典型的な例です。工事が終わっては始まり、それが終わればまた別の工事が始まるっていう、東京の都心部では全体的にそういうことが起きているんでしょうね。人口を支えるためのインフラは必要ですけど。田舎に行くと3年前に来た場所なのに、何も変わっていないと感じることがあります。でも、東京では迷子になっちゃうことも多いんです。その迷路のような感じ、動き回っている時間が東京の好きなところです。変化を続けることで、飽きることはない。

−−そのアクティヴな変化が、キサラさんを観光客のように感じさせるということでしょうか?

オカダ:そうですね。人は常に動いていて街の出入りも多いので、街も変わっていくんですよね。一瞬、目を離すだけで変わってしまうと思います。

−−写真に写っている広告が印象的でした。その表情は「広告」という文脈からは離れているような気がします。広告をどのように見ていますか?

オカダ:東京の特徴の1つが広告の多さだと思うんですよね。街に貼られてる広告がとにかく多いので、気になったのと、私は活字中毒なので、広告の一字一句を全部読んじゃう癖があるんです。それで広告を撮り始めました。広告をメインにしちゃうんですけど、「おっ、良い写真だな」と思って撮っています。

−−というと言葉は映像と同じように重要なのですね。

オカダ:言葉が大切な時もあります。特にコロナが蔓延し始めた時に「距離を置いて」っていうメッセージが出ましたよね……。

−−外国人である私の東京のステレオタイプなイメージは、夜の街で広告がライトアップされていたり、点滅しているようなものです。なぜ、日中の撮影が中心なんですか?

オカダ:ちょっと言いにくいんですが……1つには、私が昼型人間なので、そんなに遅くまで起きていられないんです(笑)。でも、正直なところ、夜だとすべてが大げさに見えてしまうと思うんです。私が写真で表現したいのは、日常の不思議という素晴らしさと周りを見れば楽しいことがあるということ。だから、特に何も起こらないような時間帯で撮影しています。

−−キサラさんの写真にユーモアのセンスを感じます。そのセンスは、内面から湧き出るのか、それとも外から見えるものなのでしょうか?

オカダ:圧倒的に外からです。私はそんなにセンスがないと思っていて、世の中がおもしろすぎるんですよね。そのおもしろさの一端を捉えることができるのは魔法のようなもの。私が撮影している間にも後ろでもっとすごいことが起きているのかもしれない。圧倒的に外の世界がおもしろいんです。

オカダキサラ
1988年東京都生まれ。2012年、武蔵野美術大学映像学科卒業。2011年に第4回1_WALLファイナリストに入選する。2015年にニコンサロンJuna21に、2016年にはコニカミノルタプラザフォトプレミオに入選する。2021年に個展「ⒸTOKYO to KYO too」をGallery TK2で開催した他、「©TOKYO 現想幻実の東京日和」(京都写真美術館 ギャラリー・ジャパネスク、2021)、「トーキョーテンペンチーズ!」(キヤノンギャラリー銀座・大阪、2022)等がある。Kis/PHOTO
Instagram:@okadakisara
Twitter:@oKadaKisara

■「TOKY∞VER(トーキョーオーヴァー)」
会期:8月1〜14日
会場:ROOMCRIM NAGOYA
住所:愛知県名古屋市中区大須3-1-35 HASE-BLDG.3 2階
公式サイト:www.roomcrim.conceptshop.online/
Instagram:@roomcrim_nagoya
※今まで撮りためた作品の中から厳選して45点ほどを展示。作曲家ウチダアキヒコとのコラボ作品も展示する

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映画プロデューサー・増渕愛子が考える日本映画の未来  https://tokion.jp/2022/06/29/interview-aiko-masubuchi/ Wed, 29 Jun 2022 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=105748 キュレーター、プロデューサー、そして翻訳家として、NYと東京をベースに活動する増渕愛子が語る日本映画の未来。

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キュレーター、プロデューサー、そして翻訳家として、増渕愛子は日本映画を世界に届けるための道を切り開いている。このインタビューでは、増渕の言葉から日本映画のこれからについて、見解の片鱗に迫る。

近年、アメリカの映画賞を受賞する作品は、映画的というよりも、むしろ社会文化的な変容を示し始めている。その矢先にある映画監督によって決定的な衝撃が与えられた。昨年の『ドライブ・マイ・カー』と『偶然と想像』を監督した濱口竜介だ。『ドライブ・マイ・カー』は「アカデミー作品賞」にノミネートされた。アカデミー賞がこの部門で初めて日本映画を受け入れた瞬間だ。明らかになったのは、アカデミー賞がアメリカ国外に関心を向けてこなかったということと、「アカデミー外国語映画賞」というカテゴリーの名称自体が国外の作品対して不快感を抱かせるものだということである。(訳註:2020年、「アカデミー外国語映画賞(Best Foreign Language Film Award)」は「アカデミー国際長編映画賞(Best International Feature Film Award)」に変更された)

しかし、この変化の予兆はすでに現れていた。『ドライブ・マイ・カー』の成功により、濱口の映画は国内外問わず、大型・小規模、両方の映画館で上映されている。

増渕は2013〜2018年の5年間、ニューヨークのジャパン・ソサエティで、さまざまな日本映画を新しいオーディエンスに紹介してきた。最近では、Japanese Film Project,に参加し、GINZAZAを通じて東京に素晴らしくバラエティに富んだショートフィルムのセレクションを届けた。国際的な波に乗る日本映画に対する彼女の見解を探る。

翻訳とコラボレーションの狭間で

−−昨年秋、『偶然と想像』と『ドライブ・マイ・カー』のプロモーションでニューヨークを訪れていた濱口さんの通訳を務めていました。濱口さんと過ごした日々はいかがでしたか?

増渕愛子(以下、増渕): 満悦至極でした。濱口さん事は2016年くらいからのお知り合いで、彼のように賢く、謙虚で誠実な方の通訳を務めることができてうれしく思います。彼が世界に歓迎される様子に立ち会えて感激しました。

−リンカーン・センターでの『偶然と想像』のプレミア上映では、観客から時に不安そうな笑いやあけすけな笑いがたくさん起きました。日本の観客も同じでしょうか?

増渕:そうですね。アメリカの映画館の観客は、日本よりももっとはっきり声を出す傾向があると思います。東京フィルメックスでの『偶然と想像』の上映には立ち会えませんでしたが、上映中は笑いに包まれていたと聞きました。これって日本ではレアな事ではないでしょうか?

−−最近では、1970年代と1980年代に書かれた鈴木いづみのSF集『ぜったい退屈(Terminal Boredom)』の翻訳をされていました。増渕さんにとって、翻訳と通訳モードの違いは何ですか?

増渕:そうですね。あのプロジェクトは友達のサム・ベットと彼のコラボレーターのダニエル・ジョセフとデイビット・ボイドが指揮をとりました。プロジェクトの誘いを受けるまで、鈴木いづみさんの作品を一切読んだことがなかったのですが、彼女の世界にのめり込みとても感化されました。翻訳をする機会は多いのですが、ほとんどがアーティストの著作物、歌詞やエッセイです。なので、私にとって初めての文学翻訳となりましたが、今後もっと取り組んでいきたいと思いました。翻訳と現場での通訳では全く違うモードに切り替わります。大きな違いは、通訳する際はアドレナリンが放出されるという点でしょうか。翻訳ではさまざまな言葉の選択肢を熟慮できるのに対して、通訳する際は言葉を選んでいる余裕はありません。編集や見直しの余地がほとんどありませんので、とにかくその場に集中するほかないんです。

−−どちらかが楽しいと思ったりしますか?

増渕:それぞれ違う挑戦や喜びがあるので、両方とも楽しいです。。1つ言えるのは、誰かとコラボレーションするのが好きですね。通訳する時は、通訳する相手と二人三脚で協力しあいながら動いている感じがあります。書物の翻訳の場合は、素晴らしい編集者や私が信用している共同翻訳者と一緒に翻訳する作業が特に好きです。リスペクトする人々とアイデアを交換し合うのが好きなんです。

−−映画プログラマーとしての経験上、他の国の映画にもあればいいと思う日本映画の特徴はありますか? もしくは逆のパターンはありますか?

増渕:正直、「日本映画」「海外映画」や“国家”という枠組みで映画を語るのはあまり好きではないんです。映画部担当の1人としてジャパン・ソサエティにいた時、日本の映画の幅広さを示し、「ある国の映画」へ対する凝り固まった概念を解消するように努めていました。映画は国境を超えて影響し合うものだと思いますし、映画は“しきたり”と言われるものを常に覆していると思います。

癒しと楽しみを提供する映画館に向けて

−−オンライン上映など、映画際がコロナ禍にとった一時的手段は映画界の未来にどのような影響を与えると思いますか?

増渕:正直わかりません。オンライン上映は本当に一時的なものなのかもわかりません。コロナ禍前は、何らかの理由で映画祭に出席できなかった人達が、オンライン上映によって参加できるようになったことは良いことでもあると思います。

私がプロデュースした『鶏・THE CHICKEN』という短編映画は、コロナ禍の2020年にロカルノ映画祭がオンラインで短編映画のみをプレミア上映すると決めたことで確実に良いこともありました。もし、オンライン上で通常の規模で映画祭を再現する運びになっていたら、この短編作品はここまで注目さられることはなかったと思います。

この経験で、映画をオンラインで上映するには、もしかすると、通常以上のケアが必要であると確信しました。この年の「ロカルノ」の選択肢や判断が正解かどうかとは関係なく、私からすると、彼等が映画をオンラインで発表しようと決めた背景には明確なキュレーション的なビジョンや意志があったように感じます。ただオンラインのプラットフォームに全てを移行して終わりというようにはしていません。私は、映画の公開方法がわれわれの体験を左右すると思いますし、それは映画そのものに影響を与えると思います。携帯電話なしで、映画館の暗闇の中で鑑賞することは、日々のタスクに囲まれながらパソコン画面で観るのとでは明らかに違いますし、近所のカフェでの上映会で友達と映画を観るのと、大規模な映画祭で裕福層がお互いを褒め称えている状況で鑑賞するのもまた違う体験です。上映を囲む状況そのものが作品の捉え方に影響を与えて映画の未来にも影響すると思います。

−−映画評論家のマッテオ・ボスカロルは最近Twitterで「小規模な映画館は映画を観るための特別な空間から何か『ハイブリッド』なものに変化する宿命にある」と言及していました。小規模な映画館にはどのような未来を望みますか?

増渕:小規模な映画館からは常に刺激を受けますし、大きなスクリーンで映画を観るのも好きです。より多くの独立系作品や独立系上映者に巨大スクリーンで映画を上映できる空間ができればいいと思います。ミカエル・アルナルとアニェス・サルソンが書いた『Cinema Makers』という本にヨーロッパのさまざまなミニシアターのお話が描かれているのですが、とても刺激的で心動かされるストーリーが展開されています。あと、コロナの影響でリリースが延期されていて、今後リリースされる予定の「ナン マガジン」とのプロジェクトでアジアのミニシアター空間を取り上げていますが、みなさんに観ていただくのが待ち遠しいです。癒しと楽しみを観客と映画館で働いている方々にも提供できるような映画館がもっと増えてほしいと願っています。

−−2022年にリリースされる映画で観るのを楽しみにされている、もしくはご自身がキュレーションされる作品はありますか?

増渕:松竹のアーカイブを掘り下げるシリーズが、今月から近代美術館で始まり、私が共同企画を担当しました。年末にはニューヨークでも別のシリーズが始まります。また、年始にサンフランシスコのデイヴィッド・アイルランド・ハウスで、吉開菜央とチェリー・ユーの短編をプログラムしましたが、満員御礼だったと聞いています。この2人の作品がとても好きで、以前から作品を紹介したいと思っていました。また、空 音央と共同企画したショートフィルムの特別シリーズ「GINZAZA」の第1回が終了したばかりです。

私がプロデュースしたドキュメンタリー映画「百年と希望」(西原孝至監督)が6月18日に日本で劇場公開されました。あと、蔦 哲一朗監督の45分の美しい作品が7月にマルセイユ国際映画祭で初上映される予定です。これらの作品が共鳴し、来場者に届くよう願っています。

増渕愛子
ニューヨークと東京を拠点に映画キュレーター、プロデューサー、翻訳家として活動。2013〜2018年までニューヨークのジャパン・ソサエティーでシニア・フィルム・プログラマーを務めた。フリーになってからの現在は「MoMA」や「Anthology Film Archive」等の劇場でゲスト・キュレ―ターとして活動している。また、蓮沼執太とU-zhaanの「A Kind of Love Song」のミュージックビデオや短編映画『The Chicken』(16ミリ・フィルムで撮影)や池添俊の『あなたはそこでなんて言ったの?』のプロデューサーも務めた。今年日本公開を控える西原孝至が監督した長編ドキュメンタリーの『百年と希望』のプロデュースも手掛けている。翻訳家としては、村上春樹、恩田晃やアン・カーソンの文章を翻訳し、濱口竜介、西川美和、樹木希林、詩人の吉増剛造等の通訳も担当した。さらに、ミュージシャンとしての活動も行っている。
オフィシャルサイト:AIKO MASUBUCHI

Translation Ai Kaneda

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ジーク・ヘミによる「コンスタント・プラクティス」 「Y2K」のトレンドと進化し続ける洋服・デザインへの視線 https://tokion.jp/2022/02/16/zeke-hemmes-constant-practice/ Wed, 16 Feb 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=95554 アメリカ・リッチモンドにある「コンスタント・プラクティス」は、ニッチなアイテムで著しい脚光を浴びている。オーナー兼バイヤーのジーク・ヘミがストアの歴史を語る。

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現在の若者が注目している未来には驚くほどの過去が存在している。2021年にアメリカで最も興行収入が大きかった映画は、新『スパイダーマン』で、日本では『エヴァンゲリオン』だった。昔から存在する作品であるものの、若い客層からは斬新な作品として捉えられている。ファッションでも、20年ルールのように、1990年代から2000年初期のスタイルがZ世代の格好のインスピレーション源となっている。自然と多くのブランドがその流れに乗り、ニューヨークの街中でも、フレアパンツや厚底シューズが席巻している。さらに元ネタであるオリジナルアイテムがメインストリームになっていることにも気付かされる。カニエ・ウェストも最新のアルバムで、「ディオール」のジャケットではなく、ジュンヤ・ワタナベがデザインした昔のレアな腕時計についてラップしている。

そんな中、ジーク・ヘミが率いる「コンスタント・プラクティス」のInstagramは、ディテールアディクトなファッションファン(セレブリティー、インフルエンサー)による12万人強のフォロワーを得ている。投稿は、販売している洋服のモデルをヘミ本人がほとんど行っているが、アヴァンギャルドなファッションとヴィンテージ・アウトドアギアのエキスパートならではのユーモアを感じ取ることができる。彼の世界観やそれを象徴する数々のアイテムをさらに詳しく知るためにこれまでの経歴や、ショップ、そしてファッションに対する考えについて話を聞いた。

チャレンジのためのファッションと空間

−−今はバージニア州のリッチモンドに店舗を構えていますが、以前はフィラデルフィアにあったんですよね?

ジーク・ヘミ(以下、ヘミ):そうです。以前はフィリー(フィラデルフィア)にあって、その前はニュージャージー州のホーボーケンにありました。1人目の娘が生まれるタイミングで、家賃も安いし、フィリーに場所を移したんです。ニューヨークあたりは生活費が高いですからね。フィリーのあとは親族が多く住んでいることもあって、リッチモンドに引っ越したんです。もう1年が経つけど、今の場所に満足していますよ。ダウンタウンにオフィスも構えています。ここを見つけるのに6〜7ヵ月くらいかかったと思います。おそらく、狭いと感じるまでここで過ごすと思いますね。ただ、たくさん洋服があるし……46.5㎡しかないので、広い場所とは言えないですし、すべての洋服をハンギングするには狭すぎます。今は工夫して場所を確保しているところです。

−−以前はホーボーケンを拠点にお仕事をしていたとのことですが、ホーボーケン出身なんでしょうか?

ヘミ:幼少期はケンタッキー州のルイビルに住んでいて、大学からホーボーケンに引っ越したんです。昔からなんとなくファッションに興味はあったんですけど、大学を卒業してから自由な時間が増えたせいで、さらにのめり込みました。在学中はずっとサッカーをやっていて、チャレンジすることを楽しんでました。ビジネスもチャレンジの連続ですしね。2016年頃にアーカイヴストアが増え始めたんですが、当時も今もとても意識しています。どこにもないユニークなアイテムを取りそろえていて、誰もが行きたいと思えるようなショップにしたいですから。

−−初めて扱ったアイテムは「アンダーカバー」だったそうですが、ブランドのどういったところに惹かれたんですか?

ヘミ:当時「アンダーカバー」はとても人気があったんです。もちろん、今でもすごく人気ですけど、リユースにおいて、ほとんどのショップがアーカイヴのアイテムを押している中、「アンダーカバー」はメインブランドの1つでした。2015〜2016年頃は「アンダーカバー」「ラフ・シモンズ」「ヘルムート・ラング」が最も人気でした。この3ブランドが、アーカイヴ・ブームの火付け役。「アンダーカバー」は、見慣れたものに一捻り加えたようなデザインを展開していますよね。残念なのは、僕の身体が大きかったせいでどのアイテムもサイズが合わずに、着られなかったこと。アスリートのような体型なんです。それから他のブランドで自分が着られるアイテムを探すようになって、「C.E」「ヨウジヤマモト」「イッセイ ミヤケ」や「コム デ ギャルソン・オム」は、比較的大きいサイズ感のアイテムも多いので着られたんです。特に「ヨウジヤマモト」のサイズ感は気に入っています。

ショップでは、最初「アンダーカバー」をメインに扱って、徐々に「C.E」を販売するようになって、2016年にグレイルドに「C.E」を卸し始めたんです。その半年後に、一度ショップの方向性を考えて販売を止めてしまったんですけど。自分でもなぜ止めたのかわかりません。そのまま続ければよかったのに、何か新しいことをしなければいけないと追いかけられていたのかもしれません。でも、さらに半年経って、事業を再開して、「ヨウジヤマモト」「イッセイ ミヤケ」「コム デ ギャルソン」のみを販売するようになったんです。当時のマーケットでは「ラフ・シモンズ」「ヘルムート・ラング」「アンダーカバー」の3強でした。ただ、いつかピークは過ぎるものと考えていたし、3ブランドが個人的に大好きだったので、特に気にしていませんでしたね。今でもたくさん集めていますよ。自分用のコレクションと販売するためのものの両方あります。

「コム デ ギャルソン」に関しては、比較的集めやすい価格だったのと、「イッセイ ミヤケ」も当時は、そこまで売買される数量が多くなかったんです。「ヨウジヤマモト」はすでに人気でしたし、価格も高かったですね。「アンダーカバー」のジャケットはだいたい450とか500ドルで売れるけど、「ヨウジヤマモト」のジャケットはその価格で仕入れとなる。ビジネスで考えるとリスキーですけど、もし、売れなければ僕が着ればいいというくらいに考えていました。

レアなブランドのアイテムを集めて売る意味

−−ショップの運営をストップした期間で、仕入れた洋服のアーカイヴを販売すること以外に活用しようと思ったことはありましたか?

ヘミ:ブランドの歴史や背景を人に伝えたりという意味ですか?

−−はい。

ヘミ:そうですね。やりたいと思うんですけど、今はとにかく時間がないんです。最近で言うと、「マンダリナダック」が挙げられるかな。他のブランドのアイテムも集め出したんです。だから、今後取り扱うブランドに関してはパッケージ化して、よりそのブランドの世界観を組み込んで展開していくことを検討しています。「マンダリナダック」はブランドの情報があまり出回っていないので、ブランドの全体像が伝わるようにしたいですね。店頭では1つのブランドのアイテムを集約した売場を作る予定です。ブランドのイメージがそこまでネットに掲載されていなくても、店内で100点以上のアイテムを目にすれば、世界観を理解しやすいですよね。

僕の仕事は、質の良いヴィンテージブランドの世界観を伝えることであるとも思っています。昨日も顧客と話していたんですけど、ブランドのどこに魅力を感じるかによってどの程度の対価を支払うかが変わってくる。「マンダリナダック」に関して言うと、クオリティーの高いアイテムを作り続けていること、生地や肌触り、特徴的な柄に対価を支払うことになる。典型的ではないパターンとカッティングにもです。でも、ブランドの洋服をInstagramの投稿で見ても、その点に気付くことはできないでしょう。この特徴を画像で感じることはできないんです。生地を手に取って感じる必要があるし、カッティングやパネルを見せる必要があります。細かいディテールにブランドの魅力があるんです。しかも、これは機能性の話にもなってくる。意味が通じますかね?

−−コンスタント・プラクティス」はプロダクトのデザインや機能性、その他のディテールでアイテムの特徴を際立たせて、さらに重要視しているように見えます。

ヘミ:そう捉えてくれているんですね。正直、最終的に自分がやりたいことを追求していますが、常に目標としていることは、今、言ってくれたことです。毎日、着られるような便利で機能的なデザインでありながら、少し変わったディテールの洋服を探しています。自分のスタンスを言葉にしたことがなかったので、感謝します。

−−これから洋服以外のビジネスを手掛けようと思いますか?

ヘミ:ざっくり言うとデザインとかですね。おそらく、洋服に関することだと思います。僕は洋服持ちですし、それが今の自分の仕事なので、洋服が関係してくるはず。家具等、洋服以外にも興味はあるんですけど、のめり込むことはないですね。

すでに持っているブランドの他のアイテムを探したり、自分の世界観に合った新しいブランドを探したりすることに時間をかけています。最近だと「シーイング レッド」「ブライアン・ヒメネス」「パー・ギョーテソン」とか、ショップに合う新鋭のデザイナーやブランドを探しています……すごく時間のかかる作業です。1日8〜12時間くらいかけて探していますね。

未来に向けた“完成された”アイテム

−−シーイング レッド」や「パー・ギョーテソン」等のアイテムを売る時、今までリサーチしてきたブランドと一緒に売っていますが、新しいアイテムを取り扱う時に、将来性需要が高まるクオリティーなのかをどう見極めていますか?

ヘミ:取り扱っているブランドはすべて、コンセプトがしっかり定まっていて、それに忠実なんです。ブランドの精神を見出して、それに沿った商品を作り続けることはデザイナーにとってすごく難しいこと。「ブライアン・ヒメネス」は「リック・オウエンス」を思い出させます。「リック」よりもミリタリーの要素が強く、もう少しインダストリアルなデザインに仕上げたような感じかな……(笑)。カラーリングも素晴らしいですし、シルエットが本当に好きなんです。あと、ミリタリーに影響を受けたデザインのアイテムが多いので、「ブライアン・ヒメネス」はいつもミリタリーアイテムをリサーチして、参考にしているから個人的に共感できます。

「シーイング レッド」はユニークでグロテスクなデザインを展開しています。コアとなる定番アイテムが10パターンあって、使用する色や素材、表現が一貫しているんです。すごく難しいことですよね。カラーリングは1つのアイテムに5つの異なる色を混ぜ合わせていて、一般的にはうまくいかないように思えるけど、ブランドの世界観には似合うんですよ。色をよく理解しているからなんですよね。だって、フーディーのボディーの色を決めて、コントラストとなる色の糸で縫製して、さらに別の色の糸でも縫製するとうるさくなると思いませんか? でも、全体的にまとまりがある。「シーイング レッド」は新しいデザイナーのブランドですが、完成度の高さに気付かされました。特にグローブは最近のデザイナーのアイテムで完璧な商品の1つでした。もう1つは2019-20FWの「パー・ギョーテソン」のデジトワール・ジャケットですね。

−−ヘミさんが育ったのは1990年代ですよね? 最近の「Y2K」を懐かしむ感じやその時代からくるトレンドに関してはどう思いますか?

ヘミ:僕は1991年生まれなので2001年で10歳。「オークリー」はクールだと思うしたくさん持っていますよ。あと、(「オークリー」の腕時計“タイムボブ”を見せながら)これも「オークリー」だしね!

僕はトレンドを気にする時もあれば、気にしない時もある。キュレーションする形態のショップである以上、両方をそろえる必要があるんです。でも、常にトレンドを追うことはしたくない、こだわりを持てないことになりますからね。もし、アヴァンギャルドな路線を貫けば、コアな顧客基盤を築くことはできますが、それ以上の広がりを見出すことは難しい。でも、トレンドの両方を取り扱うことで、その中間層を見出すことができますし、後に、顧客の好みのスタイルが変わっても、別のブランドやアイテムに興味を持ってくれるかもしれないですから。

−−最後に、「マンダリナダック」のコレクションをリリースしたばかりですが、2022年のプランは何ですか?

ヘミ:ここ1年半の間に集めているブランドが他にもあるので、一部を今後リリースするかもしれません。少し秘密にしておきたいのですが。次にピックアップするブランドは、これまでよりもアイテムの情報をしっかり盛り込んで、計画的な発表をしたいと考えています。僕にとって新しい取り組みになるはず。この6〜7年間、別の仕事もしていたので、洋服の写真を撮って投稿する時間しかなかった。サブ的な位置づけでしたが、今はフルタイムの仕事になったので、ブランディングを考えたり、スケジュールを組んだり、より計画を立てられるようになってきました。突発的なアイデアも取り入れたいですがね(笑)。その方が真剣に取り組むことができると思っています。

ジーク・ヘミ
バージニア州・リッチモンドに拠点を置く、ヴィンテージや機能性、アヴァンギャルド、そしてアーカイヴ・ファッションのショップ「コンスタント・プラクティス」のオーナー。6年前から、自身のウェブサイトとInstagram、そしてユーズドのメンズ服の買い取りと販売を行うオンラインプラットフォームの「グレイルド」で洋服をコレクションし販売する。
https://Constant Practice.com/
Instagram:@constant_practice

Translation Ai Kaneda

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『誰がメンズファッションをつくったのか?』著者ニック・コーン×デーヴィッド・マークス対談 ファッションとカルチャーの関係性と“東京”の役割 -後編- https://tokion.jp/2021/09/28/discuss-today-there-are-no-gentlemen-part2/ Tue, 28 Sep 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=60019 昨年、日本で復刊された歴史的メンズファッション史本の著者、ニック・コーンと日本を拠点に活動するファッション・ジャーナリスト、デーヴィッド・マークスによる、ファッション×カルチャーのクロストーク。

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1971年のロンドン。ニック・コーンはメンズファッションについての初めての書籍を発表した。靴職人が嘆いた言葉をタイトルにしたという『Today There Are No Gentlemen』(以下、『Gentlemen』)は、第二次世界大戦後のイギリスのメンズファッションシーンの変化を巧みに描いている。昨年の秋に『Gentlemen』は初版以来、初めて邦訳復刊された。今回は、服飾史本として異例のロングセラー『Ametora: How Japan Saved American Style』(以下、『Ametora』)の著者であるデーヴィッド・マークスがコーンと対談する。前編では、『Gentlemen』のコンセプトとその日本語訳、背後にあるサブテキストや歴史について語り合った。後編では、カルチャーとその移り変わりに関する見解とともに、『Gentlemen』以後の数十年間に焦点を当てていく。

目まぐるしく変化する音楽とファッション

デーヴィッド・マークス(以下、マークス):『Gentlemen』は、おそらくファッション史本で最も目まぐるしいカルチャーの変遷を記述しています。この10年、大きなカルチャーチェンジは起こっていなくて、ゆっくりとした流れの今だからこそ興味深い。『Gentlemen』を読んで、1960年代は通常ではなく、例外だったという結論に達しました。また、当時のようなカルチャーチェンジをずっと追い続けることはとても難しい。日々変化するカルチャーについて、当時ははっきりとした輪角が見えていたのでしょうか? それとも、振り返ってから気付きましたか?

ニック・コーン(以下、コーン):振り返ってからですね。当時は、自動的に変化しているようでした。潮流はドラッグによって後押しされて、奇妙なことも普通に感じていたかもしれませんが……。しかも、瞬時に切り替わったように感じましたね。

どこかでこの話をした記憶があるのですが、1964年に新鋭のバンドのヴォーカルに「君は真のアーティストだ」と言うと、おちょくっている意味に取られて、殴られることもありました。一方で、1967年に、同じことをすると、彼等はショックを受けつつも、俗物の言葉だと、無視されたでしょうね。たった2、3年のうちに、ポップミュージックはビジネスやアートとして捉えられるようになりました。ファッションに関しても同様です。もちろん、両方ともお金が関係している話です。

マークス:1960年代の映画を観れば、フィルムグレインや色、登場人物が身に着けているものから、何年の作品かを言い当てることができたと思います。でも、現代の映画では難しい。2002年の映画を見ても、製作年を言い当てることはできません。

コーン:その通りですね。1960年代や1970年代は、例えばクラッシュなどのグループもそうですが、「自分はウェスト・ロンドンのバンドで、今は1979年。あのストリートとクラブでつるんでいて、こんなファッションをして、ファンも真似している」というように、特定的であることが重要でした。しかし、現代では時代性とのリンクはさほど重要とされずに、カルチャーが均一化されてしまっています。どこかのストリートや場所から生み出されたものは、すぐ世に広まり大衆化されてしまう。もはや、最初に場所や時間を特定するものを取り除くことから始まります。1960年代には、そんなことはあり得ませんでした。出身地や人が育ってきた環境が無視されることはありませんでしたね。

マークス:イギリスでテディ・ボーイがリバイバルした直後の1971年に『Gentlemen』が出版されて、まもなく、パンクロックが到来しましたが、この2つに関しては書かれていませんでした。当時はどう考えていましたか?

コーン:テディ・ボーイのリバイバルについてはあまり真剣に捉えていませんでしたし、リアルだとも思っていませんでした。誰かの主義というよりも、ただのマーケティング・コンセプトにしか見えませんでしたね。ただ、パンクはリアルに受け止めていました。個人的に、ヒップホップが到来するまで、パンクはいろいろな意味で最もオーセンティックなストリート・ムーブメントだったと思います。

パンク勃興と1970年代サブカルチャーの変革

マークス:マルコム・マクラーレンも1960年代のアパレル起業家のような人だったのでしょうか? もしくは、新鋭な印象ですか?

コーン:彼は“フェイク”という意味で本物でした。知り合いではありませんでしたが、素晴らしい精神を持った、危険を顧みないリスクテイカー。アンドリュー・オールダムが1960年代のローリング・ストーンズに飛びついたように、新しいものに常に目を向けていました。先見の明があったので、それと引き換えになるリスクも負うことができたんだと思います。彼の全くリスクを恐れない姿勢にリスペクトしています。

――マルコムは、『Gentlemen』がきっかけでショップをキングズ・ロードにオープンしたと、生前話していた記録が残っていると、読みました。とても象徴的な1コマだったと思います。

コーン:(笑)。

――『Gentlemen』が出版されてからすぐに、マルコムは有名な存在となりましたが、『Ametora』に少なくとも2回登場します。まず、原宿の「クリームソーダ」と山崎眞行さんから始まり、その後は、再び1980年代初頭に戻り、藤原ヒロシさんがマルコムに会いに行った話が書かれています。

マークス:そこは地続きになっているからです。マルコムのブティックは一時期、「レット・イット・ロック」という名前だったのですが、ある時から「トゥー・ファスト・トゥ・リヴ、トゥー・ヤング・トゥ・ダイ」に変わったんです。「トゥー・ファスト・トゥ・リヴ、トゥー・ヤング・トゥ・ダイ」は日本初のロックンロール・ストアである「クリームソーダ」のスローガンにもなりました。「クリームソーダ」を立ち上げた山崎眞行さんは、1974年から1975年までをロンドンで過ごし、マルコムのショップにも来ていました。帰国後、彼は原宿に「スーパーセックス」というパンクファッションのショップも立ち上げました。「スーパーセックス」は「セックス」(マルコムが妻ヴィヴィアン・ウェストウッドと立ち上げたブティック)をモデルとしていたので、当時、マルコムは日本のユースカルチャーに絶大な影響を与えていたんです。原宿は、東京のカーナビ―・ストリートのようなイメージで、「クリームソーダ」などのショップをはじめ、ユースカルチャーの源といえる場所。また、1990年代のストリートファッションの隆盛を作り上げた、藤原ヒロシさんは早くにヒップホップに目をつけていました。彼は、セディショナリーズに夢中でロンドンに行きましたが、そこでマルコムに「ヒップホップこそが新しいパンクだ」と言われたそうです。その後、彼はニューヨークに行き、日本とニューヨーク、ロンドンのストリートカルチャーの架け橋のような存在になったのです。

僕が今執筆している本には、彼等の歴史から一歩下がり、どのような “ルール”のもとにカルチャーに変化が生じたのかを追求しています。重力のような法則によってカルチャーのムーブメントが起こっているように感じます。そして、『Gentlemen』からわかることは、一定のリズム(期間)で切り替わっているということ。それぞれが、時代に爪痕を残すために生み出されるものの、次第にアイデアが他で利用され、商業化されてしまうことで、画一化されてしまう。さらに、次のムーブメントが現れて強く反発するわけですが、モッズからスキンヘッズへと時代が変化した時に見られた現象です。重要なのは各々が独立していないということ。以前のムーブメントを誇張したり、否定することから生まれているということです。つまり、カルチャーの変革は単独で起こるのではなく、常に前代のカルチャーと連動しているんです。

コーン:私も同じ考えですが、1つだけ補足したいことがあります。当時の前代のムーブメントへの反発に関しては、極端に別の方向へ向かっているような感じがしていましたが、振り返ってみると、そうではなかったと思います。ただ、次から次へと時代がつながっているだけであって、「自分は唯一無二」と言っているだけなんです。過去を繰り返すことで、自分達を追い詰めている。スローガンは異なりますが、根底にある衝動は変わりません。

数年前、アイルランド北部出身の女性から、私の人生を描いた映画を作りたいとアプローチがありました。きっかけを彼女に聞くと、彼女は日本のモッズに関するドキュメンタリーを制作する時に日本に行ったそうです。その時、日本人になぜ良いモッズの映画がないのか聞いたところ、「あなたは勘違いをしている。素晴らしいモッズ映画が1つあります。『サタデー・ナイト・フィーバー』」と答えたそうです。もちろん、彼等はディスコとモッズの違いも両方の関連性も理解していたんです。

マークス:彼等がファッションで起こそうとしているムーブメントの動機は同じですが、違いを表現するためには、常にその前から存在するカルチャーの文脈を理解しなければいけないということですね。

コーン:その通り。“父殺しの”フロイトの考えに似ていますね。

――マークスさんに聞きます。『Gentlemen』で、セシル・ジーのショップウィンドウに飾られていたミュージシャンのディスプレイに興味を抱き、魅力を感じているシーンがあります。「今まで見たことのない素晴らしい光景。ラメやシルク、サテンのティンセルが全体に施されて、マルーン、ゴールド、パープル、シルバー、真っ青なスカイブルーの色が、キラキラと花火のように光るダンスユニフォームのよう」と。1957年は音楽やファッションなど、ニックさんがロンドンに拠点を置くきっかけとなった重要な年だと解釈しました。『Ametora』は幅広いスタイルについて言及していますが、あなたも同じように衝撃的な瞬間を経験し記録したいと感じたのでしょうか?

マークス:僕はフロリダのペンサコーラという知名度があるほど大きな町でなく、大都市からかなり離れた都市で育ちました。ですので、(セシル・ジーのような)ショップへ出掛ける機会はありませんでした。僕にとってはMTVがすべて。兄と姉がいて2人とも、バンドにはまっていたんです。ほとんどの若者がメタルを聴いていた時に、僕はR.E.M.やU2を聴いて育ちました。ですので、早い段階で音楽の知識に関しては自信を持っていたと思います。

一方、ファッションは遠い存在に感じていました。当時のアメリカで洋服といえばTシャツやスニーカー、ショートパンツ、ジーンズがメインで、すべて20ドルで「GAP」で揃えるのがあたりまえ。そんな僕の人生を変えたのは、1996年、19歳の時に訪れた東京。今まで見たことのない、ファッションに溢れた街に突然出合ったわけです。当時のアメリカの雑誌などでは、「日本のキッズ達はクールじゃない」と書かれていたのですが、実際はTシャツ、ジーンズ、スニーカーだったとしても、スタイルが完璧でした。

例えば、あるブランド限定のTシャツに300ドル相当のセルビッジデニムをロールアップ、しかも、あえてセルビッジ・ラインを見せて、アメリカでは誰も履いていなかった「アディダス」の“スーパースター”を合わせていんです。そこから、ファッションに夢中になりました。Tシャツを買うために3時間も並んだことがありました。毎回この話をするたびに、大げさに聞こえますが、本当にたった1枚のTシャツのために3時間。その後に別のショップで同じTシャツが2倍の価格で売られているのを目にしました。その時に転売が始まっていたんですね。

東京での経験は、ただ服への関心を目覚めさせただけでなく、服を通して社会性を考えるきっかけとなりました。「一体どんな人が、Tシャツを1枚買うためだけに、3時間も並ぶのか?」今では「シュプリーム」のように、世界では当たり前の光景です。でも当時は、日本、東京でしか見られない現象でした。

ニック・コーン
1946年ロンドン生まれ。“ロック・ジャーナリストの父”と称されるジャーナリスト。主な翻訳書に『ブロードウェイ大通り』(河出書房新社)がある。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』は、コーンが1976年の「ニューヨーク」誌に寄せた記事が原案になった。2020年、ファッションに革命を起こした、ブティックのオーナーやスタッフ、仕掛け人、デザイナー、ロックスターをテーマに、流行の変遷を詳述した傑作ノンフィクション『誰がメンズファッションをつくったのか? 英国男性服飾史』(DU BOOKS) が初めて邦訳された。

デーヴィッド・マークス
1978年、オクラホマ州生まれ、フロリダ州育ち。2001年にハーバード大学東洋学部卒、2006年に慶應義塾大学大学院修了。日本の音楽やファッション、アートについて「ニューヨーカー」「GQ」などに寄稿。ウェブジャーナルの「ネオジャポニスム」を編集。2017年に刊行された『AMETORA 日本がアメリカンスタイルを救った物語』は服飾史本としては異例の6刷のロングセラーとなる。
Twitter:@wdavidmarx

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『誰がメンズファッションをつくったのか?』著者ニック・コーン×デーヴィッド・マークス対談 ファッションとカルチャーの関係と“東京”の役割 -前編- https://tokion.jp/2021/09/24/discuss-today-there-are-no-gentlemen-part1/ Fri, 24 Sep 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=59969 昨年、日本で復刊された歴史的メンズファッション史本の著者、ニック・コーンと日本を拠点に活動するファッション・ジャーナリスト、デーヴィッド・マークスによる、ファッション×カルチャーのクロストーク。

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今から50年前、1971年のロンドン。ニック・コーンはメンズファッションについての初めての書籍を発表した。靴職人が嘆いた言葉をタイトルにしたという『誰がメンズファッションをつくったのか? 英国男性服飾史Today There Are No Gentlemen)』(以下、『Gentlemen』)は、第二次世界大戦後のイギリスのメンズファッションシーンの変化を巧みに描いている。執筆時のコーンは25歳という若さだった。1969年初頭に出版した、王道のスタイルに抗うロック文化が芽吹くきっかけを辿りながら、ロック精神の死を訴えた話題作『Awopbopaloobop Alopbamboom』の執筆中に収集した情報を基にしているという。1960年代におけるロンドンの音楽シーンのジャーナリストとして、かけがえのない人生を体験してきた現代におけるストーリーテラーでもあるコーンは、サブカルチャーの勃興や変遷、ブティック経営者達の関わり、労働者階級の若者がなけなしの金をはたいてスーツをあつらえたエピソードなどを鮮明に描き出した。2020年に『Gentlemen』は初版以来はじめて、日本語訳で発表された。

今回は、服飾史本として異例のロングセラー『Ametora: How Japan Saved American Style』(以下、『Ametora』)の著者であるデーヴィッド・マークスがコーンと対談する。『Gentlemen』再来の立役者でもあるマークスとニックの対談から、『Gentlemen』の日本や世界における意味に迫る。

『Today There Are No Gentlemen』の制作背景と日本語訳のきっかけ

デーヴィッド・マークス(以下、マークス):2015年に拙著『Ametora』が出版されました。アメリカ版「エスクァイア」のファッションエディターであるニック・サリバンが、インスタグラムに書籍の写真とともに「最初のページしか読んでいないが、メンズファッションについて書いた、『Today There Are No Gentlemen』以来の傑作だ」と投稿してくれたんです。

ニック・コーン(以下、コーン):(笑)。

マークス:それを見て僕は、「おお! ニック・サリバンが僕の本を気に入ってくれている……」と口にした後、「『Today There Are No Gentlemen』って何だ?」と思いました。聞いたことのないタイトルでしたので。すぐにその本を検索したところ、レアな中古本で、しかも900ドルの高値で売られているのを見つけてがっかりしていました。そしたら、ある時、友達が図書館でこの本を見つけて、すべての内容を僕に送ってくれたんです。この本を読み始めた時、『Ametora』のメソドロジー(方法論)とストーリーに、とても近いことに気付いて驚きました。僕が書いたことがそのまま40年前に書かれているように感じたと同時に、この本を参考にしなかった自分が恥ずかしくなりました。

ファッション関連の本でいつも不満に思うのは、トレンドが、魔法のように急に現れるように書かれていること。ある日、モッズが現れて、また別の日にスキンヘッズが現れるというように。あなたの本は、その時どんな人物が集団を作り上げたのか、具体的なブティックやデザイナーが書かれています。サブカルチャーの視点で、モッズと呼ばれるようになる若者に関する話も載っています。『Ametora』でも、カルチャーやムーブメントが突然湧き出るのではなく、特定の人達によって生み出されてきた事実を伝えようと思いました。

『Gentlemen』はファッション史上、最も価値の高い作品の1つと思っていたので、どうにか復刊できないかと考えていましたが、その方法を見つける事ができずにいましたが、ようやくエージェントを見つけることができました。その後、1年かけて『Ametora』を日本で出版してくれた「ディスクユニオン」の出版部門に働きかけて、一緒に翻訳に取りかかりました。日本語版『Gentlemen』には『Ametora』と同じ翻訳家を起用し、1950年代のブリティッシュ英語特有の慣用句(例えば、“Super-mac”はハロルド・マクミラン首相を指す)など、翻訳しづらい部分を特定し、全般にわたって、サポートを続けて、この本の重要性を説明するために序文を執筆しました。何より僕がこの本を復刊させたかったのは、出版された1971年よりも、メンズウェアの勢いが高まっている現在の方が、興味を持つ読者がいると思ったからです。

コーン:それは、素敵な言葉をありがとう。ただ、『Gentlemen』は、「人は洋服の選択で自らを表現する。身に着けるものすべては、適当に選ばれたものではなく、着る人を物語り、自分がどうありたいかを世の中に示す」という、非常にシンプルな考えから生まれたものです。今、この考えはベーシックだと思いますが、出版当時はそうではなかった。「自分はクローゼットにあった洋服をただ適当に着ただけ。ファッションで自分を表現するなんて、気取ってるだけでくだらない」と男性読者の反発を生みました。多くの批判を浴びたために、すぐに打切りになってしまいました……。その他にも、イギリスに特定した内容だったことも追い打ちでしたね。当時はアメリカや諸外国の姉妹編を、少しずつ増やしていく予定だったため、この本は儚いというよりなくなってしまいました……。今まで私が執筆した本で、先ほどマークスが言っていた、この本の日本語版を除いて、唯一重版されなかった作品です。トレンドとは別の視点でファッションを捉えたり、ファッションそのものが“ストーリー”になることに対して、ようやくみんなが話して、注目するようになったのではないでしょうか?

マークス:ニックはそれまでロックンロールについて執筆していましたが、ファッションを書こうと思ったきっかけはなんですか? 出版社からの提案だったのでしょうか? それとも、自らファッションについて書きたいと思ったのでしょうか?

コーン:確か出版社の人とランチをした時に話し合って決めたと思います。彼は『Awopbopaloobop』の時に、お世話になった出版社のトニー・ゴッドウィン。聞き上手だったので「『Awopbopaloobop』のアイデアについてもっと聞かせてくれないか?」と聞かれたんです。

マークス:最近の人は“テディ・ボーイ”“スキンヘッズ”“モッズ”等、サブカルチャーをリスペクトしていますが、当時は明らかに、多くの人々に嫌われていませんでしたか?

コーン:全くその通り。

マークス:あなたのソーシャル・ムーブメントを真摯に受け止める姿勢を見て、当時の読者はどのようなリアクションをされていましたか? 本書はソーシャル・ムーブメントを揶揄したり、批判ではなく、「サブカルチャーに関わる人は洋服を通して正当に自身を表現している」ということが書かれています。

コーン:いつも実践していることを書いていたので、ある意味、自分のトレードマークのような感じでした。例えば、他の作家は社交界には出向くけど、ストリートに注目することはなかった。だから、あえてストリートに出たんです。私はいつも「ストリートにはエネルギーと現実がある」と言ってきましたし、そこから、ロックに関わる本や、『Gentlemen』のアイデアが生まれたんです。その後、映画化されるまで非難を浴び続けた、『Saturday Night Fever』もストリートから生まれた物語です。

マークス:あなたの本には「イギリスにおける洋服は“紳士服”を表す。つまり、ファッションは上流階級が実践してから世に広まったもの」という概念に対する思いがたくさん込められています。「労働者階級の若者が上流階級のファッションのアイデアを見て盗み、自己流に解釈することで新しいファッションを生み出していた」と書かれています。トム・ウルフがアメリカのユース・カルチャーについて書いた内容に似ている箇所がたくさんあるのですが、トム・ウルフの当時の作品についてどう思っていましたか?

コーン:もちろん、トム・ウルフは知っていましたが……ファンになったことはありません。主題から外れて作家が主体になるような内容は書きたくありませんでしたから。ウルフの作品は自らを誇示する内容が多く、本来のストーリーが見えなくなってしまっている。あと『The Noonday Underground』(ブリティッシュ・モッズについてのエッセイ本)を書いていましたが、リアリティーを感じる事ができませんでした。なぜかというと、私はもちろん、その本に登場する人々やクラブをよく知っていましたから。気取った人が、気取った一日を過ごすための休暇でイギリスに観光しに来た印象しか残りませんでした。私にとってこの場所は、人生であり、週末だけでなく毎日の生活の舞台なんです。

マークス:とても興味深いお話ですね。

時代を作るカルチャーは一瞬でなくなってしまうような“エフェメラ性”にこそ魅力がある

コーン:でも、私の人生ではなくなってしまいました。20代の後半に突然ファッションに対する興味を失ってしまったんです。

――1970年代後半でしょうか?

コーン:1970年代半ばでしたね。“スタイル”について書く若い作家が急増して、私を“スタイル”を生み出した人として紹介したんです。何の反応も示しませんでした。だって「ロック評論」を生み出したほど、“スタイル”を作っているわけではなく、ただ興味のあることを書いていただけですから。

マークス:本の終盤に、ファッションへの興味を全くなくすことも“ファッショナブルな選択”と書かれているので伝わりました。ご自身のことを言っていたんですね?

コーン:ある程度はそうですね。当時、ロックやファッションは、その時代だけのもので一瞬でなくなってしまうような“エフェメラ性”に魅力を感じていたんだと思います。だから、誰かがブティックをオープンして素晴らしい洋服を作ったとして、40年後も同じ人達が働き続けてオリジナルのレプリカを作るようなことが、どうしても受け入れられなかったんです。新しい洋服は瞬間的に楽しみ、とことん味わった後は次に進むべきだと考えていました。

――あなたの本に素晴らしい一文があります。“テイスト”についてドノヴァンは「とてもつまらなく、無意味なものだ」と言っています。彼の考えに対して「彼としては、非常に無知な発言。“テイスト”は絶対的なものでなく、常に進化していくもの。また、ある世代にとって良い“テイスト”とされていたものは、次の世代で廃れるかもしれない。われわれの時代では、オーソドックスや礼儀正しさと同等の意味を持つ言葉として使われていたが、それは間違っている。良い“テイスト”の意味を定義するなら、“その時々”に言える感性であるべき。例えば、1960年代に白シャツとグレーのバギーなスーツは全く受け入れられなかったようにね」と。

コーン:(笑)。

マークス:“テイスト”の概念の重要なターニングポイントを年代を追って詳細に説明していると思いました。長年、良い“テイスト”があるという権威的な考え方がありました。確かに、良い“テイスト”はゆっくり変化していきます。「1960年代に“テイスト”は上流階級の特権から離れ、より自由に変化することができ、その瞬間にふさわしいものになった」と書いています。今では当たり前になりましたが、本の中でその変化をリアルタイムで捉えています。

コーン:うーん……。その一文には裏の意味があるんです。当然、出版社はそこを掘り下げてほしくなかったはずですが、1971年に労働者階級の人々がファッションのムーブメントを作っていると思われていましたが、実際には、ゲイカルチャーからアイデアを採用していました。当時のイギリスでの話ですが、それまでのカルチャーに変化を与えたもののほぼすべては、ゲイカルチャーやクラブが源泉で、労働者階級の若者が取り込んだというわけです。当時、彼等の大半はゲイに偏見を持っていましたが、一目で素晴らしさや新しさは理解できたんです。

マークス:ユダヤ人の影響もあります。ラルフ・ローレンやJ.プレス等、アメリカのアパレル業界を代表するパイオニアの多くは、ユダヤ人が立ち上げたブランドであり、アメリカン・スタイルを築き上げてきました。この事について、具体的な見解はありますか?

コーン:実は、当時はそこまで考えていませんでしたね。私自身がユダヤ人ということも特に意識していませんでしたし、身近過ぎて気にしていませんでした。私の両親は2人ともユダヤ人でしたが、ユダヤの文化については教えてくれませんでした。今、考えるとゲイというよりも、ユダヤ系のゲイの人達でしたね。

マークス:ブライアン・エプスタインも含まれるのでしょうか?

コーン:もちろん。ロバート・スティグウッドのような例外もいましたが、基本的にはそうだったと言えます。当時、彼等はアウトサイダーであり、反抗者であったため、労働者階級の反抗に共感し、それをビジネスにすることができました。そして、多くの場合、彼等がアシストして作り出されたすべてのカルチャーを大切にしていましたね。

マークス:モッズムーブメントの章を読んでいた時、パイオニアがゲイだったという印象を受けませんでしたが、彼等に対する当時の偏見によってゲイの影響については控えめに記述する必要があったのだと推測します。

コーン:その通りです。必ずしも全員がゲイである必要はありませんが、振り返ると、私がこの本を書いていた時、「彼はゲイ、彼はそうじゃない」とカテゴライズすることはありませんでした。カーナビ―・ストリートができたり、キングズ・ロードができたり、メンズファッションの変遷を振り返ると、企業家にはユダヤ人でゲイの人が多かったように気付きました。ティーンファッションの中心地である、カーナビ―・ストリートをほぼ1人で築き上げたジョン・スティーヴンは例外でしたが。

後編へ続く

ニック・コーン
1946年ロンドン生まれ。“ロック・ジャーナリストの父”と称されるジャーナリスト。主な翻訳書に『ブロードウェイ大通り』(河出書房新社)がある。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』は、コーンが1976年の「ニューヨーク」誌に寄せた記事が原案になった。2020年、ファッションに革命を起こした、ブティックのオーナーやスタッフ、仕掛け人、デザイナー、ロックスターをテーマに、流行の変遷を詳述した傑作ノンフィクション『誰がメンズファッションをつくったのか? 英国男性服飾史』(DU BOOKS) が初めて邦訳された。

デーヴィッド・マークス
1978年、オクラホマ州生まれ、フロリダ州育ち。2001年にハーバード大学東洋学部卒、2006年に慶應義塾大学大学院修了。日本の音楽やファッション、アートについて「ニューヨーカー」「GQ」などに寄稿。ウェブジャーナルの「ネオジャポニスム」を編集。2017年に刊行された『AMETORA 日本がアメリカンスタイルを救った物語』は服飾史本としては異例の6刷のロングセラーとなる。
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ヒロノ ニシヤマの浮動的に重なり合う音楽の世界 https://tokion.jp/2021/08/09/hirono-nishiyama/ Mon, 09 Aug 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=49491 7月7日に「めざめる惑星」をリリースしたグーテフォルク。本名であるヒロノ ニシヤマでのデビューから新作に至るまで、系譜と自身のアイデンティティについて話を聞く。

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西山豊乃(ニシヤマ ヒロノ)は22年前から、人を引きつける音楽を作り続けてきた。さまざまな言語で歌われる彼女の万華鏡のような曲は、独自のシーンや世界観を含んでいる。西山は1999年に竹村延和のレーベル<Childisc>から自身の名義で3枚のアルバムをリリースした。これまで彼女の自然と遊び心が共存した音楽は、独創的なDJ兼プロデューサーの竹村と共鳴し、コラボレーションをしてきた。初期作品は、最近ストリーミングのプラットフォーム上で初めて視聴可能となった。

西山の独特な歌と声は、内田也哉子や矢野顕子、細野晴臣から称賛され、2002年には細野のレーベル<Daisy World Discs>から新しいアイデンティティを持つグーテフォルクとして作品をリリースした。スコットランドのミュージシャンで文化史家のモーマスは2000年代初頭に、彼女の作品を「かわいい形式主義」と形容し理想的表現と称えた 。

西山は自身の名前とグーテフォルクの両方で、言語やジャンル、スタイルの折衷的な感性に導かれるまま楽曲やミュージックビデオ、コマーシャルの制作を行ってきた。彼女が作品を継続的にリリースし、アーティストからの名誉ある称賛を受けても、自身の言葉で発言することは滅多にない。 2021年、西山はアイデンティティとプロジェクトの狭間のどこに立っているのか? 幸運にも彼女へのインタビューで、進化する過程をさらに知る機会を得た。

デビュー前夜から竹村延和との出会い

−−今年リリースされたシングル「Funé」は、ヒロノ ニシヤマ名義でリリースした20年ぶりの新曲です。また、最初の3枚のアルバムは、現在ストリーミング・プラットフォームで配信されていますよね。ヒロノ ニシヤマとして音楽活動をすることに、どのような考えの変化がありましたか?

西山豊乃(以下、西山):「Funé」は、あえて過去作を意識せず、今の自分のフィーリングで制作しました。なので、過去のヒロノ ニシヤマの作風とは違う印象を持たれた方が多いだろうと思います。今のグーテフォルクでの活動は、<Childisc>時代にやっていたことを再びやるために再開したというよりは、グーテフォルクではできないことをしています。例えば、友達と趣味のバンド感覚でライブをやるとか、他のアーティストとコラボレーションを楽しむとか。20年前のヒロノ ニシヤマの進化系なわけです。グーテフォルクの活動は毎回コンセプチュアルに作り込む世界なので、もうちょっとラフに、良い意味でテキトウにやる場所もあっていいなと思っていたので。

−−デビューアルバムをリリースする前の1990年代、西山さんはパリに滞在し、人類学者が集めた珍しい楽器の音を録音したそうですね。どのような経験でしたか?

西山:人類学者の人……誰のことだろう? すみません、思い出せないです(笑)。私が過去にどこかで話していたのなら、完全に忘れています。もしかして、その時期にパリで知り合ったモーマスのことなら、彼の父親が言語学者なので、話がミックスされてしまったのかも。当時、私の作りかけの曲があって、彼が造語で歌詞を作ってくれました。素敵な曲です。未発表のままなので、これも近々リリースできたらいいなと思います。

−−竹村延和さんとはどのように出会いましたか?

西山:音楽を作り始めた頃、数曲できたのでデモテープを作って友達に配っていて。その中の一人の友達が、竹村さんが都内でDJをするからデモを渡しにいこうと誘ってくれました。いざ会場に行ってみると、竹村さんはたくさんのファンに囲まれてずっと写真撮影されていて、入る隙がまったくなく私は端っこでモジモジしちゃって(笑)。それを見かねた友達が私のデモを、竹村さんに手渡ししてくれたんです。数日後に竹村さんから電話をいただき、当時<Childisc>を始めようとされているタイミングだったため、そのままデビューという流れになりました。彼の音楽や世界観がこの世で一番くらい好きだったので、自分の作品に共感してもらえたことが、とにかくとても嬉しかったです。

“カバーしたい症候群”から生まれたアルバム「Cover Syndrome」

−−「回旋塔」のジャケットの写真について詳細を教えてもらえますか?

西山:「回旋塔」のジャケットの写真は、鎌倉にある教会の屋根裏で、ステンドグラスと壁に映り込んだ私の影を、撮影してもらいました。

−−グーテフォルクとして最近リリースしたアルバム「Cover Syndrome」の選曲が素晴らしいです。タイトルは不思議なニュアンスを示唆しているようにも感じます。

西山:数年前から、いろいろな曲をカバーしたくなってはいたのですが、なかなかじっくり取り掛る時間を持てなくて。そんな風に、やりたいことを我慢してると人って病気になるんです……。最終的に、どんな音楽を耳にしても「この曲カバーできそう」「いや、これは違うな」とかばかりを考えるようになり、すっかり“カバーしたい症候群”にかかっていました(笑)。そんなわけで、タイトルは文字通り「Cover Syndrome」。ジャケットまでも「Vermeer’s image」の真珠の耳飾りの少女を真似た私の姿です。ここまで来ると、もう重症ですね。

今回は洋楽カバーに絞って進めました。制作は本当にとても楽しかったです。14曲くらいを同時に進めていたのですが、現状、自分で気に入るところまで仕上がったのが7曲だったので、結果的にミニアルバムになりました。とりあえずカバー症候群が治るまでは、今後も定期的にカバーシリーズを出していく予定です。

−−最近はどんな曲を聴いていますか?

西山:ごく最近よく聴いているのは、まずバレエ音楽などのクラシックかな。クラシックバレエをやっているので聴く機会が日常的に多くなってると思います。ボサノバ、ジョアン・ジルベルト、ジョアン・ドナート、エデュ・ロボ、若い頃のワンダ・ジ・サーも本当に好きですね。インド音楽やケルティックも聴きます。他には、映画や海外ドラマで耳にする音楽を後で検索して聴き直すことが多いです。海外ドラマの「ストレンジャー・シングス」のテーマソングが大好きですが、あまりに短くて残念です。グーテフォルク名義で今度はこの曲もカバーしようと思っています。気が遠くなるほどの長尺アレンジして(笑)。

−−音楽に関する一番古い記憶を教えてください。

西山:祖父がラテン音楽のレコードや民族楽器のコレクターだったので、幼い頃から日常的に音楽に触れる機会が多かったです。とてもおじいちゃん子でしたので。両親よりも早く起きて、同じ敷地内に暮らす祖父母のところに行って、お茶と梅干しをいただいて一緒に音楽を聴くのが毎朝のルーティン。私の持つリズム感やコード感や梅干し好きは、祖父による影響が一番強いと感じます。

−−日本語以外で歌う時は、どのように感じますか?

西山:何語でもしっくりくる感じで歌っていると思いますが、日本語はやはり好きです。ただ、作詞がうまく進まない場合は、オノマトペにしてしまうことが多いです。メロディのニュアンスを出しやすいというか、歌いやすい点ではオノマトペが一番しっくりきます。

−−インタビューはめったに受けていらっしゃらない印象なので、今回機会を持てて本当に光栄です。自分の仕事について話すのは好きですか?

西山:はい(笑)。

−−これからの予定について、教えていただけますか?

西山:Hirono Nishiyamaとしては来年にテニスコーツの植野隆司さんとのコラボレーションやボサノバのカバーアルバムをリリース予定です。いくつか曲ができたら、ゆるい感じのライブ配信でもやろうと思っています。

グーテフォルクとしては、4年ぶりとなるオリジナルの新作シングル「めざめる惑星」を7月7日にリリースしました。映像作家の辻川幸一郎さんが手掛けた、とてもかわいらしいMVが現在公開中です。今回、彼は制作過程をお互いのソーシャルメディアで日々リアルタイムに公開しながら、時間の経過とともにこのMVを完成させるというやり方を提案してくれました。スケッチ感覚で日々コマドリ撮影した映像の断片が送られてきて、それに私が音で応える、音と映像の交換日記として6月1日から7月9日まで毎日お互いのSNSで公開し続けました。彼の、子どものようにピュアな感性に触れているだけで毎日がほんとうに幸せで。つられるように自然に共振している自分がいて。こういう感覚になるのは初めてで す。とてもキュートなショートムービーシリーズになったので、ぜひSNSで楽しんでいただけたらうれしいです。第1章は終了しましたが、視聴者の方々からたくさん反響をいただいたこともあって、秋以降に企画の第2章として再開を予定しています。また、この交換日記によって新たに生まれたスピンオフ曲たちをマンスリーのシングル・シリーズとして9月からリリースの予定です。来年、2本目のMVが完成する頃にアルバムのリリースも予定しています。

※現在は廃止されているLiveJournalブログClick Operaから引用

西山豊乃
日本の音楽家であるHirono Nishiyamaによるソロ ユニット。電子音をべースにしながら多色な楽器や音が散りばめられ、さまざまなジャンルを食べ尽くしたような独創的なサウンドと、多国籍な言語や造語による歌詞で、イーヴィルでポップな世界観を表現している。1999年、竹村延和主催の<Childisc>より西山豊乃として活動開始。2002年に細野晴臣主催の<Daisy World Discs>に移籍し、グーテフォルク名義での活動をスタート。以降、国内外で多数の作品を発表する傍ら、ライヴツアーや、TV、CM音楽、舞台音楽を手掛ける他、DJや自作のミュージックビデオを公開するなど、ユニークな足取りで活動を続けている。
オフィシャルwebサイト:www.gutevolk.com
YouTube:Gutevolk
Instagram: @gutevolk_music
Twitter: @Gutevolk/グーテフォルク

辻川幸一郎
映像作家。CDジャケットや本の装丁などのアートディレクターとして活動をはじめ、友人のミュージシャンのMV制作を頼まれた事から映像制作をはじめる。現在ではCM、MV、ショートフィルム、などの映像作品を中心に、webやグラフィックなどの企画など様々なジャンルで国内外問わず制作中。
Instagram: @koichirotsujikawa
Twitter: @K_Tsujikawa

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Light In The Atticのマーク・マクニールに聞く シティポップのインターナショナルな明るい未来と可能性 https://tokion.jp/2021/02/08/city-pop-and-mark-mcneill/ Mon, 08 Feb 2021 06:00:54 +0000 https://tokion.jp/?p=19361 2002年にシアトルで設立されたLight In The Attic。DJでプロデューサーのマーク・フロスティ・マクニールが、欧米でも人気を誇るシティ・ポップを紐解く。

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英語圏に住む若者達の間でシティ・ポップを聴く人が増えている。その広がりはYouTube、Reddit、Tumblr、Instagramなどのサイトを見るとよくわかる。TikTokでは昨年12月から松原みきがトレンド入りし続けている。そこで興味深いのは、海外の若いシティポップファン達のその純粋な情熱に反して、彼らとその他の日本の1980年代音楽に関する文脈的繋がりが欠如していることだ。

その文脈的欠如の中でも、雄弁さには幅がある。1980年代風のファンアートを投稿しているのは最近シティ・ポップのコミュニティに入ってきたばかりの新参者だろうし、もう少し古株であればYouTubeのミックスやミームを作ったりするだろう。山下達郎、竹内まりや、松原みき、杏里などの代表的楽曲に関してはコミュニティ内で大方意見が一致しているが、サウンドやヴィジュアルの分類については意見が分かれるところだ。永井博の絵画に影響を受けたようなアメリカの西海岸をイメージした表現(永井自身が手掛けた『A Long Vacation』や、Light in the AtticとIkkubaruによる新作は別として)は最も王道だと言える。若いファン層にとっては、エキゾチックな東京のネオンライト、『セーラームーン』や『ゴールデンボーイ』のような1990年代のアニメ、はたまたゲームのドット絵などを彷彿させるような音楽は、彼らの無知さを補うものであるが、ここにこそ、シティポップの文脈的糸のもつれがあるとも言える––ネット上にあふれている表現を精査したところで、この音楽のジャンルの起源や連動するムーブメントなどを知ることはできないのだ。

しかし、この現状こそ、シティ・ポップがそのファンに与えてくれた未来なのであると私は思う。そもそもこのジャンルはさまざまな要素を組み立てて作られたものであり、「シティポップ」という用語自体、比較的新しいものである。以前TOKIONに掲載された流線形のクニモンド瀧口へのインタビューで、彼はその用語の由来について話している。同じく組み立てられたジャンルとしては、AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)やブルーアイドソウルに代表される西海岸のヨットロックが挙げられる。「Yacht or Nyacht」は独自にヨットロック曲を採点しランク付けしている発信力の高いウェブサイトだ。しかし国際的な聴衆に対応したそうした採点の基準が、シティポップにはまだ存在しない。

コンピレーション『Kankyo Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』でグラミー賞にノミネートされたことでも知られるアメリカのレコードレーベル、Light In The Atticは、多くの日本の曲を海外のリスナーに届けてきた。別のコンピレーション『Pacific Breeze: Japanese City Pop, AOR & Boogie 1976-1986』のライナーノーツでは、DJでプロデューサーのマーク“フロスティ”マクニールがシティポップについて「ムーブメントというよりはバイブの分類」と説明している。そのバイブの定義と、現在のシティ・ポップのアクセスしやすさ(確実にLight in the Atticの影響によるものだが)がいかにしてこのジャンルの将来を決定づけるかを尋ねるべく、フロスティと電話で話すことにした。

「音楽のおもしろさは、その境界線の曖昧さ……つまり音楽の重なり合いの中にあると思う」と彼は言った。1999年にロサンゼルスを拠点とするインターネットラジオ局Dublabを共同設立したマクニールは、ラジオのプレイリストのようなリアルタイムのロジックで音楽を捉えがちだ。「私にとってラジオ番組を作るということは、シンプルに音楽を流すということで、その上でバイブやサウンドの流れは大切なんだ」と彼は説明する。「DJセットでもラジオ番組でも、ミックステープやコンピレーションでもそのことを考える。リスナーは旅をしたかのように感じたいのだから、モノトーンな感じは欲しくない。『Pacific Breeze』のコンピレーションではフォークやインストルメンタル、トロピカル、素材音源、ディスコやファンクといったさまざまなジャンルを深掘りしたかった。サウンドが物を言う中で、ジャンルはそこまで気にされない。だからバイブとサウンドがとても重要なのだと思う」 

新しいサウンドを開拓するという体験は、その歌詞を理解しているかどうかに関わらず、リスナーの想像力を掻き立てる。1970年代の日本の音楽が、アメリカのポップ音楽に対する憧れを持つことで進化していったということは、たびたび指摘されている通りだ。しかし今見えてきているのは、この現象の新たな側面である。例えばカナダ人シンガーソングライターのマック・デマルコは、細野晴臣の音楽に多大な影響を受けたことを繰り返し明言している。曲をサンプリングするなど日本のシティ・ポップの影響を受けている世界の音楽について私が尋ねると、彼がこう強調した。「バイブは関係なしに、文化間の距離やその影響について探る必要があるのは間違いない」

「この海外でのシティ・ポップの広がりによって、日本国内のアーティストがその革新的なトレンドを途切れさせないよう、彼らにしかできないことをやり続けてくれたらいいな」と彼は続ける。「細野とその仲間達、はっぴいえんどやその他のアーティスト達のおかげで、ポップスやロックを日本語で歌うことが可能となった。それ以前はほとんどタブーとされてたんだ。英語で歌わないのはダサいかのように思われていた。ロックだけでなく、世界中の他の音楽にもそういう部分があると私は思っている。長期にわたって西洋のポップスが幅を利かせていたから、彼らの独特な表現をカッコ悪いとする概念が当たり前だったんだ。過去の音源がオンラインで再リリースされたり、海外の音楽に簡単にアクセスできたりするような黄金期に入って、この傾向は大きく変わった。人々がそうした文化的表現に親しみのあるサウンドの軌跡や基盤を見い出して、そこに真の美しさや価値を感じるようになったんだ。それは本当に素晴らしいことなんじゃないかな」

個人としての願いは、シティ・ポップが今よりさらにインターナショナルにアクセスしやすくなって人気になってほしいということと、その定義が曖昧なままであり続けてほしいということだ。松原みきの楽曲や永井博の絵画にインスパイアされるの人が多いのは素晴らしいことだが、このジャンルの価値観が固定的に定められてしまうのはもったいない。この音楽を通して、人々に旅の喜びや感動を見つけ続けてほしいと思うのだ。次世代の若者達がTikTokを通じてシティポップを知るなんてことが本当に起こり得るなら、それに越したことはない。

Translation Leandro Di Rosa

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