キュレーター、プロデューサー、そして翻訳家として、増渕愛子は日本映画を世界に届けるための道を切り開いている。このインタビューでは、増渕の言葉から日本映画のこれからについて、見解の片鱗に迫る。
近年、アメリカの映画賞を受賞する作品は、映画的というよりも、むしろ社会文化的な変容を示し始めている。その矢先にある映画監督によって決定的な衝撃が与えられた。昨年の『ドライブ・マイ・カー』と『偶然と想像』を監督した濱口竜介だ。『ドライブ・マイ・カー』は「アカデミー作品賞」にノミネートされた。アカデミー賞がこの部門で初めて日本映画を受け入れた瞬間だ。明らかになったのは、アカデミー賞がアメリカ国外に関心を向けてこなかったということと、「アカデミー外国語映画賞」というカテゴリーの名称自体が国外の作品対して不快感を抱かせるものだということである。(訳註:2020年、「アカデミー外国語映画賞(Best Foreign Language Film Award)」は「アカデミー国際長編映画賞(Best International Feature Film Award)」に変更された)
しかし、この変化の予兆はすでに現れていた。『ドライブ・マイ・カー』の成功により、濱口の映画は国内外問わず、大型・小規模、両方の映画館で上映されている。
増渕は2013〜2018年の5年間、ニューヨークのジャパン・ソサエティで、さまざまな日本映画を新しいオーディエンスに紹介してきた。最近では、Japanese Film Project,に参加し、GINZAZAを通じて東京に素晴らしくバラエティに富んだショートフィルムのセレクションを届けた。国際的な波に乗る日本映画に対する彼女の見解を探る。
翻訳とコラボレーションの狭間で
−−昨年秋、『偶然と想像』と『ドライブ・マイ・カー』のプロモーションでニューヨークを訪れていた濱口さんの通訳を務めていました。濱口さんと過ごした日々はいかがでしたか?
増渕愛子(以下、増渕): 満悦至極でした。濱口さん事は2016年くらいからのお知り合いで、彼のように賢く、謙虚で誠実な方の通訳を務めることができてうれしく思います。彼が世界に歓迎される様子に立ち会えて感激しました。
−−リンカーン・センターでの『偶然と想像』のプレミア上映では、観客から時に不安そうな笑いやあけすけな笑いがたくさん起きました。日本の観客も同じでしょうか?
増渕:そうですね。アメリカの映画館の観客は、日本よりももっとはっきり声を出す傾向があると思います。東京フィルメックスでの『偶然と想像』の上映には立ち会えませんでしたが、上映中は笑いに包まれていたと聞きました。これって日本ではレアな事ではないでしょうか?
−−最近では、1970年代と1980年代に書かれた鈴木いづみのSF集『ぜったい退屈(Terminal Boredom)』の翻訳をされていました。増渕さんにとって、翻訳と通訳モードの違いは何ですか?
増渕:そうですね。あのプロジェクトは友達のサム・ベットと彼のコラボレーターのダニエル・ジョセフとデイビット・ボイドが指揮をとりました。プロジェクトの誘いを受けるまで、鈴木いづみさんの作品を一切読んだことがなかったのですが、彼女の世界にのめり込みとても感化されました。翻訳をする機会は多いのですが、ほとんどがアーティストの著作物、歌詞やエッセイです。なので、私にとって初めての文学翻訳となりましたが、今後もっと取り組んでいきたいと思いました。翻訳と現場での通訳では全く違うモードに切り替わります。大きな違いは、通訳する際はアドレナリンが放出されるという点でしょうか。翻訳ではさまざまな言葉の選択肢を熟慮できるのに対して、通訳する際は言葉を選んでいる余裕はありません。編集や見直しの余地がほとんどありませんので、とにかくその場に集中するほかないんです。
−−どちらかが楽しいと思ったりしますか?
増渕:それぞれ違う挑戦や喜びがあるので、両方とも楽しいです。。1つ言えるのは、誰かとコラボレーションするのが好きですね。通訳する時は、通訳する相手と二人三脚で協力しあいながら動いている感じがあります。書物の翻訳の場合は、素晴らしい編集者や私が信用している共同翻訳者と一緒に翻訳する作業が特に好きです。リスペクトする人々とアイデアを交換し合うのが好きなんです。
−−映画プログラマーとしての経験上、他の国の映画にもあればいいと思う日本映画の特徴はありますか? もしくは逆のパターンはありますか?
増渕:正直、「日本映画」「海外映画」や“国家”という枠組みで映画を語るのはあまり好きではないんです。映画部担当の1人としてジャパン・ソサエティにいた時、日本の映画の幅広さを示し、「ある国の映画」へ対する凝り固まった概念を解消するように努めていました。映画は国境を超えて影響し合うものだと思いますし、映画は“しきたり”と言われるものを常に覆していると思います。
癒しと楽しみを提供する映画館に向けて
−−オンライン上映など、映画際がコロナ禍にとった一時的手段は映画界の未来にどのような影響を与えると思いますか?
増渕:正直わかりません。オンライン上映は本当に一時的なものなのかもわかりません。コロナ禍前は、何らかの理由で映画祭に出席できなかった人達が、オンライン上映によって参加できるようになったことは良いことでもあると思います。
私がプロデュースした『鶏・THE CHICKEN』という短編映画は、コロナ禍の2020年にロカルノ映画祭がオンラインで短編映画のみをプレミア上映すると決めたことで確実に良いこともありました。もし、オンライン上で通常の規模で映画祭を再現する運びになっていたら、この短編作品はここまで注目さられることはなかったと思います。
この経験で、映画をオンラインで上映するには、もしかすると、通常以上のケアが必要であると確信しました。この年の「ロカルノ」の選択肢や判断が正解かどうかとは関係なく、私からすると、彼等が映画をオンラインで発表しようと決めた背景には明確なキュレーション的なビジョンや意志があったように感じます。ただオンラインのプラットフォームに全てを移行して終わりというようにはしていません。私は、映画の公開方法がわれわれの体験を左右すると思いますし、それは映画そのものに影響を与えると思います。携帯電話なしで、映画館の暗闇の中で鑑賞することは、日々のタスクに囲まれながらパソコン画面で観るのとでは明らかに違いますし、近所のカフェでの上映会で友達と映画を観るのと、大規模な映画祭で裕福層がお互いを褒め称えている状況で鑑賞するのもまた違う体験です。上映を囲む状況そのものが作品の捉え方に影響を与えて映画の未来にも影響すると思います。
−−映画評論家のマッテオ・ボスカロルは最近Twitterで「小規模な映画館は映画を観るための特別な空間から何か『ハイブリッド』なものに変化する宿命にある」と言及していました。小規模な映画館にはどのような未来を望みますか?
増渕:小規模な映画館からは常に刺激を受けますし、大きなスクリーンで映画を観るのも好きです。より多くの独立系作品や独立系上映者に巨大スクリーンで映画を上映できる空間ができればいいと思います。ミカエル・アルナルとアニェス・サルソンが書いた『Cinema Makers』という本にヨーロッパのさまざまなミニシアターのお話が描かれているのですが、とても刺激的で心動かされるストーリーが展開されています。あと、コロナの影響でリリースが延期されていて、今後リリースされる予定の「ナン マガジン」とのプロジェクトでアジアのミニシアター空間を取り上げていますが、みなさんに観ていただくのが待ち遠しいです。癒しと楽しみを観客と映画館で働いている方々にも提供できるような映画館がもっと増えてほしいと願っています。
−−2022年にリリースされる映画で観るのを楽しみにされている、もしくはご自身がキュレーションされる作品はありますか?
増渕:松竹のアーカイブを掘り下げるシリーズが、今月から近代美術館で始まり、私が共同企画を担当しました。年末にはニューヨークでも別のシリーズが始まります。また、年始にサンフランシスコのデイヴィッド・アイルランド・ハウスで、吉開菜央とチェリー・ユーの短編をプログラムしましたが、満員御礼だったと聞いています。この2人の作品がとても好きで、以前から作品を紹介したいと思っていました。また、空 音央と共同企画したショートフィルムの特別シリーズ「GINZAZA」の第1回が終了したばかりです。
私がプロデュースしたドキュメンタリー映画「百年と希望」(西原孝至監督)が6月18日に日本で劇場公開されました。あと、蔦 哲一朗監督の45分の美しい作品が7月にマルセイユ国際映画祭で初上映される予定です。これらの作品が共鳴し、来場者に届くよう願っています。