混迷を極める香港で西と東のカルチャーをつなげる、ジョージー・ホーの人物像

香港だけではなく、世界に活動の幅を広げ、役者、シンガー、そして映画のプロダクションを自ら経営し、マルチな才能を持つセレブリティとして絶大な影響力を持つジョージー・ホー。最近では夫であるコロニー・チャンと共同運営する映画プロダクション「852 FILMS」で、彼女が出演を務める映画を、リュック・ベッソン監督、「アメリカン・ヒストリーX」で撮影を手掛けたトニー・ケイとコラボレーションし制作をすることが決まったことで、さらに注目を集めている。
その一方で、彼女の活動拠点である香港は混乱状態が続いている。先日、民主活動家、周庭(アグネス・チョウ)が香港国家安全維持法違反容疑で逮捕され、日本でも大きく取り上げられるなど波紋を呼んでいる。イギリスが香港を返還するにあたって、香港の人達による自治を50年保障する「一国二制度」が、今回の国安法が施行されたことにより制度自体が崩壊しつつあり、香港出身のアーティスト達への影響も計り知れない。「マカオのカジノ王」として知られ、昨年11月に亡くなった実業家スタンレー・ホーを父に持つジョージーは、この激変する香港を拠点に世界へ向けて自身のプロジェクトをとめることなく邁進させ、父親譲りの手腕を発揮し続けている。

――常に、映画や音楽など掛け持ちして忙しいイメージですが、最近ではどんなプロジェクトに取り組んでいますか?

ジョージー・ホー(以下、ジョージー):来年は日本でもジョージー・アンド・ザ・ユニ・ボーイというバンドのEPをリリースしたいと取り組んでいて進行中です。映画は『Raja』というイギリスの探検家、ジェームズ・ブルックを題材にした作品で、ソマリアのバーデールを彷彿とさせるマレーシア、サワラクで撮影しました。ジョナサン・リース・マイヤーズがブルックを演じているのですが、彼自身もイギリス出身で、冒険好きという共通点がありますし、作品ではブルックの破天荒でリアルな人物像を描写していて、私自身は彼を守る元カノ役として出演しています。

――あなたは今までも数々の賞を受賞するなど、役者としての実績を積み重ねてきました。その一方で映画制作会社を運営する実業家でもありますよね?

ジョージー:実業家というよりはコンセプト・クリエイターとでもいいましょうか。「852 Films」というプロダクションはアジアで映画を制作する際に最高のスタッフをそろえることに長けており、ジャンルを問わずに今までも多くの作品を手掛けてきました。西洋と東洋のカルチャーのクロスオーバーがモットーになっています。

――役者と実業家の兼任はなかなかにハードなイメージですが。

ジョージー:名声を獲得するような役者だったらいいんだけど、私はちょっと違うタイプかなと思っていて。4歳の子どもみたいな遊び心が常に感情の中にあるの。人をマネージメントするのは得意じゃないし、信頼のおける人だけが周りにいてほしいタイプだから。自分の会社だったらディレクターのような立場でもいられるし。映画産業の世界ってとても複雑だから、自分がコントロールできるようになればスムーズに事を運べるのだと信じています。

――日本でも兼任している役者は少ないと思いますね。

ジョージー:役者、歌手に専念したい気持ちはもちろんありますが、香港の業界がどんなふうに変化していくのか見当もつかない。何よりコロナの影響で映画制作会社の大手でも経費を大幅に削減して制作する傾向にあって、彼らとも交渉していかなくてはという気持ちもあります。映画制作のノウハウを伝授してくれた友人は、アンダーグラウンドな映画も香港でならば低予算で制作できることを教えてくれました。私の周りにはプロデューサー、監督など素晴らしいメンター達がいてくれて、彼らはキアヌ・リーブスやジョニー・デップ、アンジェリーナ・ジョリーのように自身の制作会社を作るようにアドバイスしてくれたのです。役者としては常にいい役を演じられるように努力は惜しみません。

――音楽を職業にしようと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?

ジョージー:今思い返してもとても奇妙なんですが、それはミス香港のオーディションでした。その年のミスコンの応募者が少なく、父は私にそのコンテストに出てほしいと思っていました。でも、その当時10代だった私はぽっちゃり体型で、水着で舞台の上をウォーキングしたり、スピーチするなんて到底無理な話でした。そんな落ち込んでいる私にヒントをくれたのは姉でした。得意な歌や踊りなら大勢の観客の前でも披露できると考え、父に申し出ると喜んでくれました。コンテスト当日、マドンナのように歌って踊ったのが私の初ステージになりました。その後、周りの人から「ジョージー、君はヴァージン・レコードと契約すべきたよ」とアドバイスをもらい、契約することにしたのですが、契約書は電話帳並みに分厚くて、その契約書を弁護士に見てもらうのになんと2年もかかったんです。結局は台湾のレーベルと契約を結ぶことになり、高校を飛び級で卒業し、歌手を目指して台湾に向かいました。そのレーベルは毎日のように新人がやってきていて、レコーディングしたにもかかわらず、結局私の作品がリリースされたのはそれから4年後でした。ここにいてはダメだと思って香港に戻り、親しかった友人の1人が映画関連の仕事をしていて、バレーボールを題材にした映画に出ないかと誘ってくれて、アンディー・ウィング・キョン・チン監督の『VICTORY』に出演したことで役者への道が開かれました。さらに痛みを恐れずに演じる私の姿を見ていた映画関係者が、アクション映画へと誘ってくれました。

――音楽への道へは戻らなかったのでしょうか?

ジョージー:ある大規模なイベントで大失態をさらしてしまったんです。「歌手としてのポテンシャルがない。もう歌うのはやめたほうがいい」。そんなふうに周りから言われ、さらにはレーベルからは解雇され、ポップシンガーとしての道は頓挫してしまいました。その経験はすごくこたえました。気分を変えるためにも趣味のウェイクボードに没頭し、そこでLMSのメンバーに出会い、彼らが私を音楽の道へと引き戻してくれました。その当時はとても落ち込んでいたし、自分の人生に嫌気もさしていたけど「俺らのニュー・メタルをやろう」って言ってくれて。彼らの存在にとても救われました。LMSと出会って、アートワークのグラフィックや売り物としてのCDがどのように作られ、ディストリビューターとのやりとりなど、制作から販売までの過程を知ることができたことも大きかったですね。

――日本にもたびたび訪れてますが、記憶に残るエピソードはありますか?

ジョージー:コロナの前には年に4回くらい日本に行くほど、日本が大好きなんです。友人が以前、日本で結婚式を挙げたことがあり、花嫁の着物姿が記憶に残るとても美しいセレモニーでした。今はこんな状況ですが、いつか日本でライヴツアーができたらとてもうれしいです。

――ジョージーさんはいくつかの邦画にも出演していますが、好きな作品などあれば教えてください。

ジョージー:三池崇史監督の『殺し屋1』が大好きです。岩井俊二監督の作品や、上田慎一郎監督の『カメラを止めるな!』にも衝撃を受けました。香港でも邦画は人気があるので、たくさんの作品が上映されています。浅野忠信さんのファンなので、いつか共演するのが夢です。

――香港は今大変な状況かと思いますが、ジョージーさんが幼い頃過ごした、香港での生活はどうだったのでしょうか?

ジョージー:母は厳しく、外出するのを許してくれなかった。家庭教師が来て宿題を終わらせたら、寝る生活でした。すごく制限されていましたね。お手伝いさんのことを「アルマ」と呼ぶのですが、彼女達がときどき私達をとても綺麗な植物園に散歩しに連れて行って、写真を撮ってくれました。ぜんそく持ちだったので、休み時間に走り回ったりするのを医者に止められていて、他の子ども達が遊んでいる姿をお手伝いさんと一緒に石の上に座って眺めていたのを覚えています。

――今の香港は大分変わってしまいましたね。

ジョージー:どんな発言をすればいいのかわからないですね。香港の誰もがこの状況をすべて把握できていないと思います。私達が知っているのはごく一部の情報。映画のプロデューサーとしてどんな映画を撮影できて、撮影するべきなのか、今は判断できない状況です。私自身、あまり賢いほうではないので、言論の自由の範囲もわからないんです。その状況を憎んだりはしていませんが、ただただ理解ができない。だから、ハリウッドでインディーズ映画を撮るようになったんだと思います。香港で映画を撮る前に、しっかりと香港の状況を知る必要があると考えています。情勢は常に変化しているのこともあり、私は海外での仕事を選ぶようになってます。

――ジョージーさんのお父さんは世界的にも有名な実業家ですが、あなたの商才はお父さん譲りなのでしょうか?

ジョージー:父に似ていると思います。特に若い頃の父の仕事の仕方と重なる部分はあると思います。私にとって父はとてもチャーミングな人で、いつもハグしてくれました。外出がなかなか許されてない私と弟をお茶に連れて行ってくれたのはいい思い出です。くだらないジョークや、学校で虐められず人気者になるための術を教えてくれたのも父でした。本当に助けが必要な人を見つけ出し、その人のもとへと駆けつけて助けるような寛大な人で、私にとっての最大のインスピレーション源です。周りからは笑いも起こらないようなシリアスな家庭だと思われていましたが、みんなとても無邪気にどんなことでも笑い合える関係でした。例え自分でエクセルがいじれなくても、信頼できる人を周りに置けばいい、そんなふうに映画会社を立ち上げるのも父は後押ししてくれて。どんな時でも、父は私にとって一番の味方でした。

ジョージー・ホー
1974年生まれ、香港出身。「マカオのカジノ王」として知られるスタンレー・ホーを父に持ち、女優として活動する傍ら、夫とともに映画プロダクション「852 FILMS」を運営。映画、音楽、ファッションなどの分野でマルチな才能を発揮している。
Instagram:@josie_ho_chiu

Text & Edit Sumire Taya
Interpretor Miho Haraguchi

author:

多屋澄礼

1985年生まれ。レコード&アパレルショップ「Violet And Claire」経営の経験を生かし、女性ミュージシャンやアーティスト、女優などにフォーカスし、翻訳、編集&ライティング、diskunionでの『Girlside』プロジェクトを手掛けている。翻訳監修にアレクサ・チャンの『It』『ルーキー・イヤーブック』シリーズ。著書に『フィメール・コンプレックス』『インディ・ポップ・レッスン』『New Kyoto』など。

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