「AかBかだけではなく、Cを探すのがテレビ番組制作者の義務」 テレ東・上出遼平に聞くテレビアップデート論-前編- 

テレビ番組『ハイパーハードボイルドグルメリポート』のディレクター兼プロデューサーを務めるテレビ東京の上出遼平。2020年3月には書籍『ハイパーハードボイルドグルメリポート』を出版し、テレビ業界外からも注目を集めている。テレビ業界で働きつつも、そこに染まらず、独自の視点で番組を制作する姿勢に共感する人は多い。そんな上出遼平に「テレビはアップデートできるのか」をテーマに話を聞いた。前編では、「古い価値観に基づく番組制作」や「テレビの構造的問題」などを語ってもらった。

——今回のテーマとして「テレビはアップデートできるのか」についてお聞きできればと考えています。そもそもこのテーマを思いついたのが、コロナ禍で家にいることが増えたことで、テレビ番組を見る機会も増えました。そこで昔と変わらない価値観のテレビ番組を見て、「テレビって進化しないんだな」と感じたんです。その辺り、実際現場で制作されている上出さんはどう考えていますか?

上出遼平(以下、上出):一見、進化してなさそうに見えて、実はテレビ番組は少しずつ進化していて、20年前の番組と現在の番組を見比べたら全く違うものになっている。よく企画会議なんかで、「昔の○○みたいな番組できないかな」って言う人がいるんですが、その番組を今見たら全然おもしろくないってことも多いです。だから僕としては、「テレビ番組はどんどんおもしろくなっている」と思っています。一方で、それが前提にありつつ、その変化の速度はウェブメディアなどと比べると大変遅い。もっともっと進化していってもいいはずなのに、と感じることはもちろんあります。

——例えばよくバラエティー番組で見られる「容姿をいじって笑いをとる」「古い価値観によるツッコミ」なども、今の時代には合っていないと思ったりしますが。

上出:僕もそう思います。自分自身がそういうバラエティーを作ったことがないので、一般的な視聴者と同じ感覚で、業界の感性が時代の潮流からは3周遅れくらいしていると感じています。それこそ、テレビ業界には男女差別の問題、人種差別の問題、ルッキズムの問題もある。最近は出演するタレントさん自身がその問題について発言することも増えていて、敏感な制作者はそういった番組作りはもうやってないはずです。

ただテレビの制作現場は村社会化していて、番組も基本は身内で作っている。長寿番組だと20年近く同じようなスタッフで作っているというケースもありますし、そうした現場だと新しい価値観を拒絶してしまうこともあります。さらに制作現場の職場環境も、以前と比べるとよくなっているとはいえ、まだまだ厳しく、女性の活躍の機会が限られていることもあって、男性優位の業界になっている。その結果、男性だらけの中で番組が作られているので、女性の視点が欠けるのは当然なんです。ただ、これも少しずつ改善されています。「少しずつよくなっているからいいじゃないか」とは言わないですが、「だからテレビはダメなんだ」と一括りにすることもできないとは思っています。

さらに付け加えると、テレビ番組は制作者の自己表現の場としてやっているわけではなく、視聴者からのフィードバックの結果、今の内容になっているところもあり、テレビと視聴者の共犯関係の中で生まれているものだと認識したほうがいい。報道は別であるべきですが、バラエティーは売れるものを作ることが求められているので、視聴者の態度ってものもすごく重要なんです。責任転嫁に聞こえるかもしれないけれど、テレビを批判するなら、テレビ局と視聴者の両方を批判的に点検しないといけない。そうしないと業界が先には進みません。それが欠けがちな視点だと思います。

——なるほど。では、まだまだそうした「容姿いじり」「古い価値観によるツッコミ」は視聴者にも容認されていると。

上出:そこが今ちょうど意識が変化しているところだと思います。ただ「容姿の言及」が一概にすべて悪いかというとこれまた難しい問題で。どこを出発点にこの事案を考えるかで結論が変わってくると思います。例えばルッキズムの問題でいうと「きれいですね」って言うことも「美しい/美しくない」という概念を作ってしまうからいけないという考えもある。ただし、「言わなくなること」が、はたしてその概念を「消滅させること」になるのかどうか。時代や土地によって変化こそすれ、「人間の美醜」というものは存在し続けるとすれば、それを「隠すだけ」になりはしないか。この潮流が、「嫌な思いをする人がいるから、ないものとしよう」と、なんでもかんでも臭いものにふたをしていくことにしかならないのかもしれない。そういう可能性も懸念すべきことだと思います。

また、逆の見方をすると、見た目の美しさや見た目の滑稽さを武器にすることを許さない社会ということになってしまう。その流れは本当に幸せなのかっていうことも考えなければいけない。本人が嫌がる「いじり」はもちろんダメなんですが、本人がそれを武器にして笑いをとったりすることまでは否定すべきではないと思います。ただ、テレビに出ている誰かが武器としている容姿の特徴が、テレビの外の人にとっては全然武器になり得ないということももちろんあります。例えば「○○さんに似ていると言われた人が、○○さんが番組でいじられるのを見て、嫌な思いをする」こともあるわけで、そういう人のことを忘れて番組を作ることはとても危険です。笑うほうにはなんの負担もありませんが、笑われるほうには大きな負担がかかります。

テレビ業界は遅れている部分があるし、偏った目線だし、多様な視線が欠けているけれど、「今世界がこういう流れだから、それに乗るべきなのに乗ってなくないですか?」って議論に対しては、「その潮流自体をなぜ正解とするのか?」ということを、一回疑ってみないとダメじゃないのかという意識もあります。社会的潮流が「こっちだ」となったら、そっちじゃないほうに耳を傾けるのも大事なことなので。AかBかだけじゃなく、世界がBで、テレビがAだから、テレビもBに行けじゃなく、Cを探す義務が僕達テレビ番組制作者にはあるような気がしています。

テレビに出ることのリスクは自覚するべき

——最近はネット炎上みたいなことが過剰すぎると感じるところもあって、一方的にたたきやすいものをたたくような風潮があると思います。特にテレビ業界はそれを受けやすいと思いますが、それについてはどう感じていますか?

上出:いろいろ感じるところはあります……。番組が炎上することもあれば、出演者が炎上する場合もありますよね。もちろん炎上自体はほめられるべきことではないですが、トリッキーなことを言えば、そのためにテレビ番組というものが存在している部分もあると思います。みんなのストレスがSNSへの批判書き込みで解消できるのであれば、それはテレビの立派なサービスの一つなんじゃないか、という見方もできる。全くもって本懐ではないですが。

——テレビ番組自体が批判されることはそういう見方ができますが、それが個人の批判に繋がるのは問題だと思いますが。

上出:もちろん個人に対しては批判する人達が悪いし、番組制作サイドはしっかりと出演者を守るべきであるのは大前提なんですが、この時代にテレビに出るにはそういったリスクがあるということは、自分を守るためにも絶対に自覚すべきだと思う。そのリスクを考えずにテレビに出ようとするのはあまりにも危険です。

——例えば出演者のコメントで「これ使ったら物議を醸す」というものを、使うべきか、使わないべきかの判断は、テレビディレクターとしてはどう判断するんですか?

上出:それはすごく難しいですね…。概して本人が意図していなかったり、気を抜いた瞬間に出た言葉が一番おもしろい。だから僕らテレビディレクターとしては絶対にそこは使いたいと思っています。それがお互いに許されているのが、タレントとテレビマンの関係。だからおもしろいと思ったら、タレントの言葉は容赦なく使います。ただ難しいのはテレビタレントじゃない人が出演する場合です。「あんな言葉は使わないでほしかった」と言われることもありますが、「私はこう見せたい・こう見られたい」という部分はおもしろくないし、その人のPR動画を作っているわけではないので、意図していない場面が使われると思ったほうがいい。ただ、これも番組によって考えは違うし、「出演者」と「被取材者」とでも話はかなり変わります。「リアリティーショー」で問題が起こるのは、そのあたりの境界線が曖昧だからだと思います。

——確かに「出演者」であれば、何かしらの役割を求められてキャスティングされるわけで、そこは理解しておかないといけないですね。少し話が変わるんですが、ネットやSNSの普及だったり、そもそも家にテレビがない人など、若者の「テレビ離れ」がいわれていますが、そういった現状に対してはどう感じていますか?

上出:僕も普段はリアルタイムではテレビを全然見ないので、人ごとじゃないです(笑)。ただ、「テレビ離れ」とはいわれていますが、YouTubeだったり、TVer、Netflix、Amazon Primeなどを通じて、テレビコンテンツはある程度見てもらえていると思っています。視聴方法が変わってきただけとも考えられる。そもそも「この時間じゃないと見られない」という意味がわからないし、僕より下の世代はみんなそうだと思う。見たいタイミングで最初から見られたらいいし、スマホで見たいだろうし。アクセスしやすいデバイス・プラットフォームに合わせてコンテンツを供給していけば基本的にはいいと思っています。

偽コンプライアンスが台頭している

——テレビはコンプライアンスによって、昔より自由度がなくなっているともいわれていますが、実際に感じる部分は?

上出:僕は本当に全くないです。「これが正しくて、これがおもしろいんだ」って思って作った時に、何かにひっかかることはありえない。それこそ「コンプライアンスで番組作りが不自由だ」と思う人は、単純に自分の感覚が時代に追い付いていないだけだと思います。そこがテレビマンの腕の見せどころというか、そこに時代感覚をアダプトできているかどうかがわかる。それがずれていたらコンプライアンス的にもアウトだろうし、おもしろい番組は作れない。今おもしろいコンテンツを作れる人は、問題を感じずに作れているはずです。

そもそも「コンプライアンス」の定義自体も曖昧で、「テレビ局が社会に伝播させるコンテンツとして正しいかどうか」というのが本来のコンプライアンスだと思いますが、今はスポンサーのご機嫌をそこねないかどうかみたいな、偽コンプライアンスが台頭してきて、それに対しては疑問を感じています。そんな僕はスポンサーを気にせず番組を作って、しばしばひんしゅくを買っていますが。

——今後のテレビ業界はどうなっていくべきだと思いますか

上出:最近、バラエティーと報道との垣根が曖昧になっていてると思っています。僕が制作した『ハイパーハードボイルドグルメリポート』はバラエティーだけど報道的な空気感も少しあり、「世の中にこんな問題があるよ」ってことを見せています。一方でその逆方向の現象も起こっていて、報道番組といわれているものの中で、純粋な報道がどれほどあるかというとあまりない。どれもこれもエンターテインメントの部分がどんどん増幅していって、情報番組みたいになっている。報道番組なのに、全然報道じゃないものが紛れ込む。それがテレビの信用を失わせている要因だと思っています。

でも、なんでそうなったかというと、第一に民放テレビ局が営利企業であるから。どんな報道だろうがバラエティーだろうが、なんであれお金を稼げなければ存在意義がない。それが宿命なんです。純度100%の報道番組がなぜ作れないかというと、視聴率が稼げなくなったから。そこには視聴者の問題もある。視聴者が、派手で、大きな話題で、白黒はっきりした情報だけを求めた結果、勧善懲悪、水戸黄門スタイルの、「待ってました!この人の一言!」みたいな、気持ちいいものが求められていって、それがテレビ局にお金を生んでいったという経緯がある。そこの共犯の中で、中立的な報道がなくなっていって、政府に忖度したり、視聴者に忖度したりして、骨のない番組が多くなっていったんだと思います。

それはある意味でもう仕方がないことだと思いますが、どこにその救世主がいるかというと、スポンサーじゃないかと思ったりします。視聴率がとれなくても番組を存続させるには、端的に言ってその番組でテレビ局が稼げればいいわけです。つまり、視聴率以外のなんらかの価値(例えば社会正義)に対して企業にお金を出してもらう。それこそCSR活動の一つとして、「どんな番組にお金を出しているか」がその企業の評価につながるように、ステークホルダー達のコンセンサスを取れるようになれば…。気概のある企業と気概のある作り手が手を組んで、万人にウケはしないけどテレビの文化を引っぱっているとか、マスメディアとしての存在意義を保っているとか、そういう番組が存在できるようになればいいなと思います。的外れで夢見すぎですかね。

後編へ続く



上出遼平
テレビディレクター・プロデューサー。1989年東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、2011年テレビ東京に入社。テレビ番組『ハイパーハードボイルドグルメリポート』シリーズの企画、演出、撮影、編集まで番組制作の全工程を担う。2020年3月には書籍『ハイパーハードボイルドグルメリポート』を出版するなど、活動の幅を広げている。Twitter:@HYPERHARDBOILED

Photography Yusuke Abe(YARD)

author:

高山敦

大阪府出身。同志社大学文学部社会学科卒業。映像制作会社を経て、編集者となる。2013年にINFASパブリケーションズに入社。2020年8月から「TOKION」編集部に所属。

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