連載「ぼくの東京」vol.1 「ぼくに繋がる道を散歩したい」 フォトグラファー平野太呂が母の生まれた街を歩く

ぼく・わたしにとっての「東京」を紹介する本連載。第1回は、東京で生まれ育ったフォトグラファー平野太呂と、彼のルーツである神田須田町をたどる。

母親が生まれた街、神田須田町

どんな人が訪れ、どんな人が行き交う街なのだろう。

ずっと前からそこにいたような佇まいですっと待ち合わせ場所に現れた平野太呂は、木陰に腰を下ろし、まずはしばらく街を観察しはじめた。老舗のそば屋「神田まつや」前、11時頃だ。店の中から2人の女性が出てきて、入り口の暖簾を設置する。ちょうど開店時間だから、きっと毎日お決まりの風景なのだろう。この店はとてもおもしろい造りで、客が入る入り口と出口が別々に分かれている。当然、暖簾も2枚。だから「勝手がわからず初めて来るお客さんが混乱してしまうんだよね」。

いったいどっちが入り口なのか? 正解は「入り口が右、出口が左」だ。また誰かが左から入ろうとして、お姉さんから注意を受けている。

「そりゃあわからないよね」

平野にとっては見慣れた光景。こんな風に入り口が2つある建物は、昔はよくあったという。お客さんのスムーズな出入りを考えて設計されたはずのそのスタイルに、初めて訪れる人は誰もが迷ってしまうらしい。

平野の母親がここ神田須田町で生まれたのは、終戦の年、1945年の4月だった。東京大空襲が起きていた時に臨月を迎えていた祖母の大きなおなかの中に、母親がいた。うそか本当かはわからないけれど、母親から「このあたりの防空壕で生まれたのよ」と聞いていたという。いったいどの辺りだったのだろうか。今ではすっかり高いビル群に囲まれた神田須田町付近は、奇跡的に空襲をまぬがれたといわれている。だから路地に一歩足を踏み入れると、昭和の時代にタイムスリップしたような古い建物が今も数多く残っているのだ。この街で育った平野の母親の家はどこにあって、毎日この辺りをどんな風に駆け回っていたのだろうか。

「母親がどんな幼少期を過ごしたのかちゃんと聞いたことがないんだ」なるほど、だから当然母親が生まれ育った家がどこにあるかも全然知らないわけだ。

「勝手な解釈なんだけど、きっと母親はその頃のことを話したくないんだろうって思っていた。今になってみれば、どうして僕がそう感じたのかも覚えていないけれど」ずっとそう感じていた平野は、わざわざ自分から母親の小さな頃の話を聞くこともなかったのだという。

そば屋の看板を見つめ、かつての街のにぎわいに思いを馳せる

名店と呼ばれる店が点在するこの街の中で、五差路の中心にあるのが、黄色い看板の「六文そば」だ。平野がずっと気になっている店だが、まだ入ったことがないという。この近所には「神田まつや」や「藪蕎麦」があるし、それ以外にもたくさんのそば屋がある。この付近はそば屋の激戦区なのだ。でも立ち食いそば屋好きの平野さんとしては「六文そば」が一番気になっている。「なんたってこの看板がたまらないよね」うれしそうに話す平野だったが、結局のところ、今日も少しだけ店をのぞいてみるだけなのだった。「値段にビックリするね。たいていのメニューは400円もあれば食べられるんだから。魅力的だよ」。

奥のカウンターのショーケースの中は入り口からはよく見えなかった。そこに並んでいるのが一品メニューなのか、そばのトッピングなのかをずっと気にしながら平野は「今度は常連のような振る舞いで店に入ってみる」と呟く。

五差路から少し離れたところに移動して、改めて街を眺める。あっちから、こっちからと、昔はたくさんの商人達が行き交っていたはずの通りだ。さらに先に進むと、あんこう鍋の「いせ源」、鳥すき焼きの「ぼたん」、甘味店の「竹むら」などが並んでいる。いずれも「都選定歴史的建造物」に認定されている印象的な建物ばかりだ。平野さんは、街そのものの散策を目的に訪れる人でもない限りまず足を止めたり、目を向けたりしないような看板や入り口の造りに注目する。

「この看板はずっと昔から使い続けてきたものかなあ。なんだか藪蕎麦もきれいになっちゃったね。小説家で美食家の池波正太郎はよくまつやに来ていたみたいだし、彼はきっとこの通りをてくてくと歩いてここらの名店をはしごしていたのかもしれないね」と勝手に想像を膨らませるのだった。

看板に「秋口まで休業」と書いてある店が多い。いつもならもっと情緒があるはずの街の風景が今日は少しだけつまらなそうに見えるのは、コロナ禍の影響があるからかもしれない。もうしばらくの間、また人の活気が戻る時を街が静かに待っているようだった。

今の自分につながる街を歩くということ

トントントントン……。

なんの音? 太鼓? 機織り?

 音に引き寄せられるように入っていった路地には、小さな寄席があった。「神田連雀亭」というらしい。

「お、ちょうど始まる時間だよ。ちょっと入ってみるかな」

30分ワンコイン(500円)で楽しめるというその寄席にそそくさと入っていく平野。お客さんのほとんどは、この街に住んでいるおじいさんやおばあさんのようだ。特に女性が多く、その小さな空間はなんとなく温かいムードに満ちていて「みんなの憩いの場」という雰囲気だ。最初の演目は「父親をどう弔うか」というテーマで、父親が自ら「自分をどう弔ってくれるのか」と3人の息子達に問うという噺だった。平野は最近、父を亡くしていた。

「噺を聞きながら、ぼく自身が父をどんなふうに弔うことができただろうって思った。後悔しているのは、もっと父の話を聞いておけば良ったということ。いや、もしかしたらけっこう聞けていたのかな? ちょうどそんなことを考えていた時に、この企画の話があったんだよ。それなら改めてぼく自身のルーツを知りたいと思った。なぜか父じゃなく、母のことが頭に浮かんだんだよね。そうだ、母が育った神田須田町を歩いてみようかなって」

今日久々にこの街を歩いてみたという平野に「この街が好きですか?」と改めて尋ねてみた。

「ビルだらけだし、緑はないし、特別に好きな場所ってわけじゃないかもしれない。それでも、たくさんの人が当たり前のように行き交うこの古い街をいつもよりゆっくり歩いてみたら、どんな小さな街でも誰かにとってのルーツだったり、思い出の場所だったりするんだなあってなんだか感慨深かった。今日こうして改めて、今の自分につながっているはずの街を歩いてみて良かったなと。住んだことも、ゆっくりと過ごした記憶もないけれど、ぼくの祖父母は確かにここで暮らし、母はここで生まれ育ったんだなあって改めて感じたよ」

最後に平野は小さく呟いた。

「母は絶対に嫌がるに違いないけど、今度は母と2人でこの街を歩いてみたいと思う。そして僕がずっと聞きたかったことを、あれこれ聞いてみることにする。『かあさんはどんな子どもだったの?』って」

平野太呂
1973年生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒。2000年からフリーランスとして活動を開始。スケートボードカルチャーを基盤にしながらも、カルチャー誌やファッション誌、広告などで活動。2004年〜2019年までオルタナティヴスペース「NO.12 GALLERY」を主宰。多くのインディペンデントな作家達が展示を行った。主な著書に『POOL』(リトルモア)『ばらばら』(星野源と共著/リトルモア)『東京の仕事場』(マガジンハウス)『ボクと先輩』(晶文社)『Los Angeles Car Club』(私家版)『The Kings』(ELVIS PRESS)『I HAVEN’T SEEN HIM』(Sign)がある。

Photography Taro Hirano
Edit & Text Kana Mizoguchi(mo-green)

author:

mo-green

編集力・デザイン思考をベースに、さまざまなメディアのクリエイティブディレクションを通じて「世界中の伝えたいを伝える」クリエイティブカンパニー。 mo-green Instagram

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