直木賞作家・佐藤究が考える小説の役割と「知る」ことの大きな価値

第165回直木賞および第34回山本周五郎賞をダブル受賞した話題作、小説家・佐藤究(さとう・きわむ)の『テスカトリポカ』。メキシコ・アステカ、ジャカルタ、川崎と海を越えて交錯する悪夢のような犯罪──生々しい悪と暴力の描写によって、どこか遠い世界の物語には思えず、しばらくの間その作品世界に呑み込まれてしまうだろう。日常では隠されてしまうことの多い「暴力」、メディアにおけるコンプライアンスとのあんばいも難しく思うが、緻密に練られた構想で、生き生きと書き切る。3年もの歳月をかけられた作品の物語の組み立て方や佐藤が考える小説の役割について話を聞いた。

暴力や悪を書くけれど、同時に暴力を解除しなければならない

——『テスカトリポカ』はメキシコの麻薬密売人バルミロが、潜伏先のジャカルタで日本人臓器ブローカーと出会い、川崎に住む土方コシモらを巻き込み心臓売買の組織を作り上げていきます。佐藤さんが物語を立ち上げる順序としては、テーマが先にあったのでしょうか?

佐藤究(以下、佐藤):僕のようなエンタメ作家の場合は、編集者からオーダーをもらうことが多いです。ものすごく具体的にテーマが設定されているわけではないですが、ぼんやりと方向性は決まっていて。今回は担当の編集さんから「ジャンルとしてはクライムフィクション。善悪を超越した、存亡をかけた争いを書いてほしい」とオーダーがありました。

——犯罪を題材にした物語は多くありますが、その中でも“存亡をかけた争い”ですか。

佐藤:そうなんですよ。だから、「刑事 vs 犯人」というのは違う。なぜなら、刑事は司法という体制の中にいるので、犯人側は存亡がかかっていても刑事側はそういう意味では追い詰められていないんです。権力の一部としての仕事ですから。じゃあ対立構造をどうしたらいいのかと考えた時に、いくつかイメージが浮かびました。まず、怪獣映画。ゴジラとかキングギドラは「善vs悪」ではくくれない、存亡をかけた争いをしていますよね。次に浮かんだのは、個人的にクライムフィクションでベストだと思っているコーマック・マッカーシーの小説『血と暴力の国』のイメージでした。これは映画『ノーカントリー』の原作なんですが、そこでは登場人物達が、ある種の哲学的な次元でぶつかり合っています。そして、その背景に麻薬戦争がある。

つまり“存亡をかけた争い”とは、言ってしまえば戦争のことなんです。だから当初は、編集者のオーダーを振り切って戦争小説にしようかとも思ったんですが、エンターテインメントの強度としては“圧倒的なホラー感”も捨てがたい。そう考えながら、フィルムアート社や洋泉社のホラー映画についてのムックを読み込んでいるうちに、“戦争映画とホラー映画は別物”という見方を得たんですよ。映画の話ですが、小説もほとんど同じですから。戦争映画は悲惨さの表現やメッセージが重要であって、恐怖そのものを追求するホラー映画とは異なります。ようするに、テーマを戦争に寄せると社会的なメッセージ性を内包しなくてはならず、それは編集者のオーダーとはかなりずれが生じると判断しました。“すごかった。存亡をかけた争いだった”という読者の読後感にたどり着くのが、僕と編集者の唯一共通するゴールでしたから。それでいろいろ考えて、「ホラー vs 戦争」ではどうだろう、と構想しはじめたんです。

『テスカトリポカ』の主人公コシモは、ホラーの位置付けなんですよ。暴力性を秘めた得体の知れない存在。それに対して麻薬密売人のバルミロ・カサソラは、文字通り麻薬戦争の渦中にいる。「レザーフェイス vs 元特殊部隊」のようなイメージで、この両者が一対一で激突したらどうなるだろうと思って。これって、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画『プレデター』以降、あんまり見かけない設定だと思うんです。僕は警察小説の書き手でもないし、ホラーのスペシャリストでもない。だったら他の作品と同じことをしてもたぶんおもしろくないですし、めずらしい設定に挑むしかないだろうと思いつつ、少しずつ路線を固めていきました。

——題材となった「臓器売買」は現実でもこの世界で行われている事実を知り、衝撃を受けました。

佐藤:『レッドマーケット 人体部品産業の真実』(スコット・カーニー著)というノンフィクションを読んだ時に、僕もショックを受けました。人体のパーツに値段がついて、それらが社会的弱者から吸い上げられてマーケットを構成するという構造に、資本主義の行き着く極北の闇がありましたね。麻薬に代表されるブラックマーケットだけでなく、そのレッドマーケットも視野に入れて、先ほどの「ホラー vs 戦争」のイメージで作品を構築することを考えたんですが、しかしそれでは「悪 vs 悪」、つまり鏡像同士がやり合っているだけで、結局出口がどこにもない。ということで、また考え抜く日々が始まりました。

2018年に堀之内出版の『資本主義リアリズム』(マーク・フィッシャー著)という、後期資本主義のダークサイドを考察する本を読んだのですが、そこで批評家マイク・デイビスによる小説家ジェイムズ・エルロイの作品への痛烈な批判が引用されていて、驚いたんです。「その真っ暗闇のなかには、影をおとす光さえなく、そして悪というものは犯罪科学の常套句と化してしまう」「もはや怒りも感じず、興味すら持てないほどの、腐敗=汚職の過剰飽和だ」といった言葉が引用してあって。エルロイはある種、神格化された存在ですし、僕もファンの1人なのですが、エンターテインメントも時代に応じて変化していかなければならない、と考えさせられました。僕らの世代がエルロイを真似してもしょうがない。映画も小説も、観客にカタルシスをもたらすためだけに暴力を描けばよかった時代とは、異なる状況に置かれていますよね。

今回の僕の役割は、暴力を描きながら、同時に暴力を解除する鍵を探すことかなと思いはじめました。それもメッセージ性に寄りすぎない形で、あくまでエンターテインメントとしてです。人間がどのようにして血と暴力の国を作ってきたのか、その深層に肉迫できれば、おのずと暴力を解除する鍵も見つかるんじゃないかと。それで、古代アステカの人身供犠と、資本主義リアリズムの内包する“利益のためなら犠牲をいとわない”という原理が、深いところでつながっていくように物語を書いていきました。

——舞台は海を越え、歴史や時間も横断します。ボリュームのある物語ですが、緻密に練られているので気持ちよく読める。その構想の力と臨場感に圧倒されたのですが、これだけ複雑な物語の構想はどのように組み立てられたのでしょうか?

佐藤:『テスカトリポカ』を書く時に、自作のノート、僕はゲシュタルトブックと呼んでいるんですが、これを毎回作るようにしています。ゲシュタルトとは“形態”のことですね。

——これは、すごい熱量とボリュームですね……。このゲシュタルトブックは小説を書く上でどんな役割のものなんですか?

佐藤:僕は基本的には最初にプロットを作らないんです。物語の方向性を編集者さんと話し合ったのち、いろんな資料を読み込んで、必要な情報やイメージを探します。それらのページをコピーして切り取って大判ノートに貼り付けるんですが、1つのテーマだけでページを埋めたりはしないので、そこがスクラップブックとは異なります。ページ上段がメキシコ麻薬戦争の資料だとすると、下段は古代アステカ神話の資料だったりするんですね。そのコラージュが延々と続いていく。コラージュとはシュルレアリスムから生まれた無意識を揺さぶる絵画の手法ですが、僕はゲシュタルトブックを作りながら、物語の土台となる認識の“形態”を自分の内側に作っていきます。大事なことは、どの作家さんも同じだと思いますが、必ず複数の本や資料から情報を拾うこと。1冊だけだと限られた知識しか入ってこないので、例えば“ナイフ”のことなら現代のナイフと古代に使われていたナイフの知識を別々の本から得て並べることで、いろんな視点が見えてくる。こういう他視点で眺める習慣を積んでおくと、情報化社会を生きる上でのセルフ・ディフェンスにもなります。何が言いたいかというと、多様な読書こそが自分を守ってくれる、ということなんですが。

——小説だけでなく、写真、漫画やイラストなどさまざまな分野から情報を得られているんですね。

佐藤:今回はメキシコも重要な舞台だったので、現地のスラングに関する記事を切り貼りしたり、ホラー漫画の印象的なシーンを貼り付けて、ひたすら眺めたりしました。作品に臨場感や説得力を持たせるための、いわば自分自身の意識を加工していく作業です。

——場所、というのは佐藤さんにとってどれくらい重要なものですか? 過去作品も含めて、フィクションだけどリアリティを持って物語の世界に引き込まれるのは、場所に対するこだわりがそうさせているのではないかと思いました。

佐藤:物語と、ほぼイコールの要素ですよね。ストーリーにとって正解の場所が見つかれば全部ハマる。当初は僕の地元である福岡を舞台にというオーダーだったんですけど、東アジアに近すぎて、うまくラテンアメリカと交錯しなくて。感覚の話になってしまうんですが、この作品で求めていた風と違ったんですよね。吹いている風の感じです。それに川崎なら太平洋を挟んでラテンアメリカと向き合っていますし、想定しているシーンを街に重ねた時に違和感がなかった。移民の方々のコミュニティもあって、ところどころ大陸的なカオスがある。川崎のおかげで、物語が生命力を得たと思います。あと、骨折して入院した時のリハビリ療法士さんが川崎出身で、いろんな話を聞けたことも大きかったです(笑)。

ジャーナリスティックとフィクションが溶け込み、生き物のような物語を構築する

——血や暴力を解除するために、現代の人々は見ないようにしたり話さないようにしたり、「隠す」方向で解除している“風”を装っているのではないかと、小説を読んで考えさせられました。私は小説の舞台である川崎出身です。幼い頃は子ども1人では歩けないような街で、その記憶から逃れるように川崎を出てからは一切地元に帰りませんでした。無視していたら、別の世界で生きられると思って。しかし、磯部涼さんの『ルポ川崎』や本作をきっかけに、知ることの必要性を感じました。日常の中で暴力が隠されている現状を佐藤さんはどう思われますか?

佐藤:1つ言い添えておくと、ロサンゼルスや新宿歌舞伎町がフィクションで描かれる時と同じで、川崎の描写にはもちろんフィクションの面がありますよ(笑)。とはいえ、本を書くこと、読むことは、「知る」ことにつながると思っています。僕達は調べながら物事を知っていき、文章化する。その本を読んで、また誰かが知っていくわけです。『コカイン ゼロゼロゼロ』というロベルト・サヴィアーノの本があります。彼は自分の著作をルポでもフィクションでもなく、ノンフィクションノヴェルと位置付けているんですが、その著書の中に「これから知るだろうことは、決して自分の気分をよくすることはないと腹をくくること」と書いてあるんですね。

例えば、『テスカトリポカ』の舞台の1つであるメキシコのナルコ(麻薬密売人)のことを調べていくと、彼らの行使する暴力は、日本人からするともう次元の違う暴力なんですよ。あまりにも絶望的で、こんな気分の悪くなる話を追い求めることに何か意味があるのかと僕自身腹が立ってきて、やめようかとも思いました。だけど、その怒りこそが大事なんじゃないかと。

知ることは力になるんですよ。麻薬犯罪や臓器売買、児童虐待といった諸問題を、たとえ物語という形でも視野の片隅に入れておけば、違う視点で世界を見られるようになる。麻薬はどこからやって来て、支払われたお金はどう流れているのか、麻薬戦争の悲惨さを知れば、その道に踏み出さない人だっているはずです。

何も知らなければ、怒りすら生まれてこない。自分の目を覆い隠して、なかったことにしてしまうのは違う。僕の場合、書く時は「届けたい」「伝えたい」という思いよりも、「橋を渡った向こう岸の景色を見られる状態を作り出すこと」を念頭に置いています。物語という橋を渡るのは、皆さんそれぞれの自由です。

——ノンフィクションではなく、フィクションというジャンルでそうした役割を全うされる上で、気をつけられていることはありますか?

佐藤:こういうタイプの犯罪小説には2つの側面があって、ジャーナリスティックな要素と、創作の要素が組み合わさっています。いわばアクチュアルとフィクショナルの二面性ですね。ただ、この作品は基本的にエンターテインメントであって、ジャーナリスティックな面、つまりメッセージ性が強すぎると、本を買った人は退屈に感じてしまう。

かといって、フィクションの面を強調し過ぎると、ふざけているようで悪趣味に感じられますよね。僕の役割としては、物語の臨場感を味わう中で、現実に起きている問題も認識してもらえるというバランスを確立することです。『テスカトリポカ』を読まれた方に、メキシコや麻薬犯罪のニュース映像を見ると、物語のワンシーンや登場人物が思い浮かぶとよく言われるのですが、フィクションは臨場感という強い作用をもたらしてくれるので、そういうことが起こります。ジャーナリストやルポライターの視点と創作の視点、アクチュアルとフィクショナルの両輪が噛み合った時、まるで“生き物”のように物語が動いて、機能する。そのためにはゲシュタルトブックが必要なんですよね。

——確かに、佐藤さんの本を読んでいると、イメージが明確になるくらい描写が細かくて、相当リサーチされていると感じました。

佐藤:フィクションって、エフェクト(効果)の積み重ねなんですよね。正確な説明を10行書くよりも、そのシーンが思い浮かべられる文章を1行書ける方が正解。なので、描写する時は善悪の判断は考えすぎずに、まず物語にとって必要な効果を選んで書いていきます。問題点はあとで自分や編集者で削りますし、校閲からも指摘が入りますから。僕の場合、書いたものは必ずプリントアウトして読み直します。そうして赤字を入れて、またプリントアウトして、今回は400字詰め原稿用紙に換算すると6000枚は超えたと思いますよ。版元から紙のゲラが来る前に、1人で徹底的にやるんです。パソコンの画面上だけでなく、紙という物体に印字された文字を読むことも、僕の場合は不可欠な工程ですね。

——最近はエフェクトにも規制がかかって、物語はなるべく単純でわかりやすい方に寄せるような、一定のルールがあると感じます。そうして、知りたいことも隠されてしまっているのではないかと。

佐藤:それはあるかもしれません。ある大先輩の作家に「昨今はなるべくレイヤーの少ない、すっきりした小説が好まれる傾向にあるようですが、その傾向に反旗を翻してますね」と言っていただいたこともあります。資本主義が要求する単純化は、画一化に繋がり、いわば差異の喪失に至りますよね。例えば、YouTube動画制作に関わっているある若者に聞いたんですが、これからYouTubeはTwitterくらいのものになるだろうと。みんながアカウントを持ち、1つの動画にそれほど価値がなくなるだろうと言っていました。まあ、すでに飽和状態には来ているように見えますが。写真がそうでしたよね。かつては暗室を使える人だけの特別なものだったけど、今やデジタルの空間で画像が大量に浮遊する新しい形になっている。ただ、そんな風にして映像や物語も次のステージに移行した時、単純化、画一化への反動から別の新しい表現が生まれるかもしれません。

弱い人達が「居る」、ひどい出来事が「ある」と知ることに重きを置いて、書く

——善悪を考えすぎずに、ということですが、世の中のポリティカル・コレクトネス(以下、ポリコレ)への意識は高まっています。小説に関するポリコレを、佐藤さんはどう考えていらっしゃいますか?

佐藤:善悪を考えすぎずに、というのはあくまで物語を構成する作業においてだけのことですよ(笑)。ご質問についてですが、おっしゃられた世の中というものをどう捉えるかにもよりますが、小説に関して言えば、例えば三島由紀夫が活躍していた時代ほど、小説はコンテンツとしての波及力を持っていませんから、騒がれるような事態そのものがあまりないですね。逆に小説で騒ぎが起これば大したもんですよ。ただ、仕事として現実の人間が関わる業界について言うなら、もちろんいろいろと考えています。ハラスメントのような問題は一掃する必要がありますし、作家でも編集者でも、誤った古い慣習に固執することは許されない時代です。

話をポリコレに戻すと、僕のような書き手の場合、政治的なオピニオン(意見)の発信は最優先の仕事ではないと思っています。単純に政治的ではない言語活動を選んだ身としては、オピニオンの論争ではなく、認識のゲシュタルトをめぐってフィクションを書くことが、自分の役割かなと思います。

——佐藤さんの作品には、世間からはみ出た人や目をそらされるような人々が登場しますが、それは意識されてのことですか?

佐藤:まず僕自身がはみ出し者だと思っているんですが(笑)。よかったら村田らむさんに受けたインタビューをお読みになってみてください(笑)。だからといって僕が、今おっしゃったような方々の意見を代弁しよう、とにかく弱い人達の目線に立とうと特別に意識して書いているわけじゃないです。それは傲慢なことですし、緊急的な支援が必要な場合もあるはずですが、こちらが思い描く展開を相手が欲しているかどうかは、よくよく考えなくてはなりません。例えば、低身長症の人達が試合をする小人プロレスがありますけど、彼らのプロレスへの思いは強いです。僕もプロレスラーになりたかったくらいにプロレスが好きなのでわかる。ところが過去に善意のクレームによって、結果的に彼らの磨き上げたバンプ(受け身)やロープワークをリング上で見せられなくなって、衰退していきました。現在ではまた盛り上げようとがんばっている方々がおられます。

僕は、いろんな人達が「居る」、いろんな現象が「ある」というこの世界のことを書いているんです。ただ、もうこういうことをインタビューで答えるのもむず痒いので、映画監督のデイヴィッド・リンチみたいに「作品が答えだ」と言い切ってしまいたいところですが、そこまで偉くないので(笑)。

——『テスカトリポカ』を経ての次回作が楽しみです。もうすでに、構想は練り始めていらっしゃるんですか?

佐藤:出版社からのオーダーがたくさん来ていて、わけがわからなくなってますね。その中からどれを書こうか考えているところです……ということにしておいてください(笑)。やっぱり生活の保障、安心を得るためだけに仕事を増やすことはしたくないんです。それなら小説家ではない仕事を選んだ方がいいだろうし、僕が読者だったら、段取りの悪い、人生設計もできないような、わけのわからない奴が思い切って書いた小説を読みたいと思うんですよ。数をたくさん書くよりも、たとえ少ない作品でも皆さんの記憶に残れたらいいと思いますね。

佐藤究(さとう・きわむ)
1977年、福岡県生まれ。2004年、佐藤憲胤名義の『サージウスの死神』が第47回群像新人文学賞優秀作となり、同作でデビュー。2016年『QJKJQ』で第62回江戸川乱歩賞を受賞。2018年、『Ank: a mirroring ape』で第20回大藪春彦賞、第39回吉川英治文学新人賞を受賞。2021年、『テスカトリポカ』で第34回山本周五郎賞受賞、第165回直木三十五賞受賞。
Twitter:@sato_q_book

佐藤究『テスカトリポカ』

■テスカトリポカ
著者:佐藤究
出版社:KADOKAWA
発売日:2021年2月19日
定価:¥2,310
https://kadobun.jp/special/tezcatlipoca/

Photography Mayumi Hosokura

author:

羽佐田瑶子

1987年生まれ。ライター、編集。映画会社、海外のカルチャーメディアを経てフリーランスに。主に映画や本、女性にまつわるインタビューやコラムを「QuickJapan」「 she is」「 BRUTUS」「 CINRA」「 キネマ旬報」などで執筆。『21世紀の女の子』など映画パンフレットの執筆にも携わる。連載「映画の中の女同士」(PINTSCOPE)など。 https://yokohasada.com Twitter:@yoko_hasada

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