対談:butaji × 滝口悠生 「わかりやすさ」に抗する音と言葉のありかを語る —後編—

10月に新作『RIGHT TIME』をリリースしたシンガーソングライター・butajiと、同作に描き下ろし掌篇『タッチ』を寄せた芥川賞作家・滝口悠生。そんな2人が創作や言葉を巡り語り合う対談企画を2回に分けてお届けする。互いの表現から感じた「救い」や「信頼」を糸口に言葉を紡ぐスタンスについて語り合った前編から続き、「聞き手」という自意識の在りようや、安易に求められがちな「わかりやすさ」「想像力」に対する違和とオルタナティブな言葉の紡ぎ方について、両者の対話は深められていく。

「聞き手」であろうとすること、「わかりやすさ」に与しないこと

滝口:歌詞はどういうふうに書くんですか?

butaji:メロディーにふっと乗った言葉……例えば「あなたの笑う顔が見たい」という一節が浮かんだとしたら「自分はこの一節をもとに何が言いたいんだろうな」と考えて、そこから全体を埋めていきます。だから、詞を書いてるうちに詰まったら、最初のモチーフ自体が間違っている可能性を遡って考えたりもします。

滝口:中心から拡げて書いていくんですか。

butaji:はい。その中心が正しいのか、検討もしつつ。

——今のbutajiさんの話で興味深いのは、「自分は何が言いたいんだろうな」という言い方ですね。自己と、「語り手」としての己の分離がある。

butaji:そうですね、さっき滝口さんがおっしゃっていた「聞き手」としての力を一生懸命使って歌詞を書いているのかもしれません。……ああ、それが僕なのかもしれないなあ。

滝口:表現は「自分が言いたいこと」というのとは、ちょっと違いますよね。「私はこう思います」を書くのではなく、自分との間にいくつもの層が挟まっているものとして、言葉を作品の中に置いていく手続きみたいなものがある。小説というのがそもそも原理的にそうなっているから、よりそれを意識せざるを得ないのかもしれませんけど。

butaji:そうか。自分の中にルールがあるんじゃなく、「聞き手」であろうとする態度によってルールが生まれるんですね。

滝口:本来、自分の書きたいこと・言いたいことだけを書くんだったら、ルールはいらないですからね。檄文みたいなのを書けばいいわけで。

音楽でも「自分はこう思う」ということを直接歌詞にして歌うのは、それはそれで、構造的には説得力があるじゃないですか。でも、butajiさんはそうではない。

butaji:そういうことをどれだけやらずにいられるかな、と思ってるんです。自分から出た言葉ではあっても。

滝口:その美意識は受け手に伝えるの、難しいですよね。受け手側の自由もあるし。どう聴いても、どう読んでもいいわけで。

butaji:そうそうそう(笑)。僕はわかりづらいんですよ。

滝口:ただ、単にわかりやすさを志向していたら、こんな作品には絶対にならなかったでしょうね。butajiさんのその態度は歌い方にも現れていて、ことさら感情を抑制したような歌い方というわけでもないのに、ただフィジカルに、エモーショナルに発声して感情の強さを高めるだけではない手続きの痕みたいなのがある。たぶん、それがあるからbutajiさんの声を信じられる、信じていいと僕は思えるんです。

butaji:なるほど。そのこと……書くことやわかりやすさに関して、初めて人と共有できた気がします。インタビューなんかでも、つい嘘をついたりしますからね(苦笑)。なんか気兼ねして、簡単な言葉を選んでしまったり。

——「わかりやすくする」ことは、それだけ複数の伝わりの可能性を捨てているということですもんね。

butaji:抽象と具体のバランスは、今作を作っている間、いつも考えていたことです。抽象的な言葉を使うほど、共感されるポイントは高くなってくるかもしれないけど……。

滝口:歌詞だとなおさらですよね。

butaji:はい。でも、「悲しい」みたいな抽象だけではキャラクター化しすぎるし、歌いたいことの本質からは離れていく。それと、細部や文脈を語ることのバランスが大事だなと思います。

細部や複数性を切り捨てないための言葉の在りよう

——細部に意識的になるほど、多くの人を統合するような強さは失われると思うんです。しかし、だからこそ複数性が宿りうる。

「改革だ!」みたいな抽象的で強いワンフレーズをぶつけてそれ以外の言葉、それ以外の思考の可能性をないことにしていく時代にそうでない言葉が存在することの大切さは増しているし、butajiさんの言葉も、滝口さんの言葉も、そういうものであり続けていると思います。

butaji:それは僕が『長い一日』や『タッチ』に救われた気がしたポイントですね。

「あるよね」ってことなんです。ないことになっていた出来事や思いも「あるよね」と、誰かと語り合うような作品だった。そういう親密さのようなものを感じ取れて、すごく感動したんです。それぞれの登場人物が生き生きと動きながら、いつかは消えてしまうことに思いを馳せる瞬間も大切に描かれていて、本当に愛おしくなりました。

滝口:書き手としては「何か話をしたい人の、それをできるだけ聞こう」という意識がベースにあるので。聞き手がいないとそれは語られないことなんですが、一方、何かしらの切実さがなければ、語り手もまた、こんな本1冊になるほどたくさんのことは語らないわけです。

butaji:なるほど……!

滝口:語られていることがどんなに平凡なことであっても、そこには語り手の切実さが含まれている。だから、聞き手としては、「助けに」というとおこがましいですが、何か語り手の役に立ちたいという気持ちはあって。聞き手がいなければ語られなかった声を、どのように聞き取ろうと試みるかという作業なんです。

——それを手渡されることによって、おそらくは読み手にも「自分の声もまた、聞かれずに消えていっていいようなものではないのだ」という、「助かった」感情が生じるのかもしれませんね。

滝口:よく感情移入といいますけど、それって別に劇的な、メロドラマティックな行為というだけではなくて。自分と全然違う属性の人の声にも感情を重ねていけるし、そこに何か自分と共有しているものや共感できることを見つけてしまうことも1つの感情移入ですよね。そこに、小説が言葉という共有可能なもので書かれる意味があると思う。

butaji:それを考えることで、滝口さんの文体が生まれるんですね。伝わることへの信頼というか、自分の中に収まっていればいい、自分だけのために書けばいいという文体ではない。そこが、僕が滝口さんの文章に最初に共感したところだと思います。僕が書いているものも「自分だけがわかっていればいい」という歌詞ではないから、文体の向く先が似ているのかなと思いました。

だから、『タッチ』も本当に嬉しかったです。音楽って、形がないじゃないですか。「形……ないなあ」と思いながらいつも作っているので(笑)、僕の文体にこういう応答があったのは、すごく嬉しいことでした。

滝口:こういう企画でなければ、「タッチ」みたいな作品は書けなかったと思います。形式としても初めてですし、『RIGHT TIME』という作品に収めて音楽と一緒に誰かに届くことを念頭に書いたので、テキスト単体で印刷されて届くものとして書く普段の作品とは、作業としてもやはり違って。音楽と対置されるからといって「半分だけやればいい」というわけでもないし、ある種の共同作業として、「こういう作品があることに対して、どういう言葉を使うべきだろうか」と触発されながら書くのはおもしろかったです。

——『タッチ』にはもちろん文中における時間も流れていますが、「この語りはいつから始まっていたのか」「始まりはどこだったのか」と思うような、見えざる時間の流れの気配があったと思います。そこが『RIGHT TIME』と共鳴していた。

滝口:「今だ」と思うような時が、人生には時々あるじゃないですか。その時はもちろんその現在の強さがあるんだけど、そこにはいろいろな時間が接続している。「あの時が『今』だったんだな」と振り返るように、後から再帰したり繰り返し思い返されたりする時間もあるし、未来について「いつか自分は『今だ』というアクションをすることがあるんだろうか」と思いをいたすこともありますよね。

その場面場面で思う「今だ」の強さというのは、そこを過ぎても、そこに至らなくても、人生に影響し続けるものなんじゃないかと思うんです。

butaji:そういう時間を経ないと、わからない強さがあるんですよね。例えば『RIGHT TIME』の中には2回「生まれる/死ぬ」というフレーズが出てくるんですけど、その言葉の意味を知らないまま使っても、そのことを思う「今」の強さは出てこなかったはずで。

「信頼していいと思える声」は、いかに発せられるのか

——過去や未来とつながっていることを忘れて現在性にのみ重きを置きすぎると、見えなくなるものがありますよね。時代としてはどんどんそうなっていっている気もしますが。

滝口:小説が読まれなくなっているのも、そういうところはあると思います。小説って、どんなに現在形の文章で書いても、内容的には絶対に過去の話なので。今そこが響かないというか、弱く感じるような心性が世の中にあるのかもしれない。より、リアルタイムの生々しさみたいなものに反応しやすくなっているというか。でも、そういうのってとても単純というか、単調というか、過ぎたら簡単に忘れ去られてしまうようなものなんですよね。

butaji:その過程がないのなら、結果として出てきた言葉がどんなに強そうなものでも、何も意味を持たないですよね。抽象的な雰囲気みたいなものが、ただ置かれているだけになる。

滝口:小説なんて、いくらでも陳腐な言葉が並んでて当然だと思うんです。そこに出てくる人たちは多くの場合、特別な人たちなんかじゃなく、普通の人なので。だけど、人の人生にはそういうありきたりなフレーズが特別な意味を帯びる瞬間や、「そうとしか言えない」と感じる場面というのが確かにある。僕はそういう言葉を、その人がなぜそれを発するに至ったのか考えながら書くということをしているつもりです。

「生まれて死ぬ」とかも、いくらでも耳にはする言葉じゃないですか。でも、それがどのように発されて誰がどのように受け取るかという、過程とか状況の中で特別さを帯びるわけで。言葉自体が特別なんじゃないんですよね。それこそ、どんな声でそれが発されるかということだと思います。

——滝口さんがbutajiさんについて言うところの「信頼していいと思える声」ということですね。語り手が何を考えているのか、どんな人なのか、そういう信頼を築いていく過程として、書く/読むという行為がある。

滝口:過程から聞かないと、最後の結論めいた1行だけ聞いたって、それは全然響かないんですよね。特別な、すごい1行を書くのではなくて、どんなに平凡でもいいから、その平凡な1行を特別なものとして響かせることが、小説を通してできたらいい。

butaji:それはすごく共感するところです。そのバランスがうまく取れた時に、「この器にうまく収まったな」という気分になるのかもしれない。歌詞って文字数も限られているし、メロディと文字数の関係もあるし、同じ言い回しを他の曲に使いまわすこともできない、不自由なものなんですけど。

滝口:韻とかもあるし、難しいですよね。母音・子音が並んだ時の発音のしやすさや、口の動き方といった要素もあるし。小説だとそういうことがないので。

butaji:制約があるからこそ、やれてるのかもしれない。完全に自由だったら、もっと迷っちゃうかもしないですね。「ここに道を作っていけばいいんだな」ということが、制約があるからこそ少しは見える部分があるのかも。

——お二人のように言葉や時間に対して似た感覚を抱いていても作業の違い、そしてもちろんそれぞれが経てきた生の違いによって、共通点はありつつ複数の、まったく違うものができあがる。興味深いし、救いでもありますね。

butaji:今日は本当に勉強になりました(笑)。聞き手……そうですよね。なんか、想像力という言葉があまりに万能なもののように使われてることに、僕はずっと懐疑的で。「想像力を働かせればわかる」みたいな物言いが、自分の態度とか、思考や知識を深めないことの言い訳に使われてる気がすごくしてたんです。でも「聞き手としての態度」という話ができて、スッキリしました。

滝口:なるほど。たしかに、想像力って限界があるものですよね。どこまでも可能なものだと思わないで、限界があるものとして「では、どうするか」を考えるのが大事だと思います。

butaji
東京に住むシンガーソングライター。幼少期からクラシック音楽に影響を受けて作曲を始める。コンセプト立てた楽曲制作が特徴で、生音を使ったフォーキーなものから、ソフトシンセによるエレクトロなトラックまで幅広い楽曲制作を得意とする。2013 年に自主制作したep「四季」が話題を呼び、1st アルバム『アウトサイド』、2nd アルバム『告白』を発売。ライブでは弾き語りを始めバンド、デュオなどさまざまな形態で活動中。
Web:http://butaji.com
Twitter:@butaji_tw
Instagram:@butaji_insta

滝口悠生
小説家。東京在住。2011年、「楽器」で新潮新人賞を受賞しデビュー。2015年、『愛と人生』で野間文芸新人賞、2016年、「死んでいない者」で芥川賞を受賞。他の著書に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』『茄子の輝き』『長い一日』など。
Twiiter:@takoguchiyusho

Interview Takafumi Ando

Photography Kazuo Yoshida

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TOKION EDITORIAL TEAM

2020年7月東京都生まれ。“日本のカッティングエッジなカルチャーを世界へ発信する”をテーマに音楽やアート、写真、ファッション、ビューティ、フードなどあらゆるジャンルのカルチャーに加え、社会性を持ったスタンスで読者とのコミュニケーションを拡張する。そして、デジタルメディア「TOKION」、雑誌、E-STOREで、カルチャーの中心地である東京から世界へ向けてメッセージを発信する。

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