自己治療としての「創作の効能」 連載:小指の日々是発明Vol.3

どんなに悲しかったことも苦しかったことも、自分の言葉で気持ちを書き連ねると、不思議と心の中が整理され浄化されたような気持ちになることがある。
私はそうした変化を、「創作の効能」と呼んでいる。

私は一時期、「絵を描くことを仕事にしたい」と言いながらその日暮らしのバイトに明け暮れるという矛盾した日々を過ごしていた時期があった。そして、夢中になってやったレジ打ちや軽作業のようなバイトが自分の夢に対して明らかに不毛な努力だと気づくまで、信じられないことに20代のほとんどを費やしてしまった。

作家志望の私がこうした労働生活の沼にはまり込んでしまったきっかけは、単純に貧乏だったこと、そして作家活動を優先するために比較的シフトの融通がききやすくその上で自分でもできそうな仕事……という感じで適当なバイトを選んだら低賃金すぎて肝心の生活ができず、見境なくバイトの掛け持ちをするようになったことだった。貯蓄が無いことへの不安感から寝る間も惜しんで働いていたら精神的にも余裕が無くなり、人手が足りないからシフト増やせと頼まれれば断れず、稼いだお金も人に使ってしまったりして、制作を優先したつもりが全くそれどころじゃなくなってしまった。
実際は低賃金でいいように使われていただけなのに、あの頃の私は憧れの作家の苦労時代の話なんかを貪るように読んで「自分も同じように頑張っていたらいつか必ず報われる」と自分を無理矢理に鼓舞させていた。でも、その先生達は下積みの傍らちゃんと自分の制作をしていて、私は肝心の制作はおざなりになっていたのだから同じようになるわけがない。そんな一目瞭然のことにも気がつけないほど周りが見えない状況に陥り、描こうとしても日々の苛立ちや将来の不安で気が散ってうまく描けない日が続いた。
それでもあの頃の自分は不気味なくらいどこか高揚していた。小さい頃から「あんたは何も続かない」と怒られてばかりだった自分が、こんなにバイトを続けられている。しかも毎日、3つの職場を掛け持ちしてる。「絵は描いてないけど人間としてはすごい成長かもしれない」なんて思っていた。でも、今思えばせめて絵や漫画に関わる仕事をすればよかったのに、あの頃の私はコンビニや日雇いの軽作業ばかりを選んだ。自信が無かったのだと思う。そうして私は、まるで何かにとり憑かれたように早朝から深夜まで労働に明け暮れた。
同世代の子達が真っ直ぐ努力する様子を遠くから眺めながら、頭のどこかで「このままじゃ私は絶対無理だ」ということにも気づき始めていた。でも、一度転がり落ち始めた人間はなかなか自分で生活の軌道を修正できないものだ。本当の意味で「こんなことをしてる場合じゃない」と目が覚めたのは、父が突然の事故で意識不明になってしまってからだったと思う。 28歳の頃だった。

私は非行に走ったりすることはなかったが、自分の行動を思い返すたびに呆れるほどの親不孝者だったなと心が痛む。父の日や母の日に何かを贈ったことは一度も無いし、正月すら実家に帰らなかった。母とのぶつかり合いが多く、その度に家族に迷惑をかけたので家を出たのだが、時々実家の空気が懐かしくなって連絡もせずふらっと立ち寄ることがあった。家族から「寅さんみたい」とよく言われていたが、そんな娘を父は何もとがめず、その度に「ちゃんと食べてるか」「これ持ってきな」と冷蔵庫の中の食材をよこしてくれて、私はそれを受け取って無口な物乞いみたいにそそくさと家を出た。
私は私で自分のふがいなさと後ろめたさで親を避け、父もまた、私のことを腫れ物に触れるような気持ちでいたんだと思う。
でも、私は父に全く興味がなかったというわけではなかった。体が悪いと聞けば無けなしの貯金で高価な健康食品を贈り、父も父で私が抜毛症で髪が薄くなっていた時期に女性用の育毛剤を買って置いてくれたりしていた。多分、二人とも愛情の示し方が少しズレていた。だけどきっとお互い色々思っていた。

お父さんと言葉をかわした最後の日のことは、今もまるで昨日のことのように覚えている。
私がガサガサと鞄の中に食料を詰めながら「ありがとう」と言って家を出ようとした時、お父さんが「もう行っちゃうのか」と尋ねた。私は「これからバイトがあるんだ」と言って家を出て、その日もそのまま深夜まで働いた。それが最後の会話になるなんて、まさか夢にも思っていなかった。最低賃金程度のはした金のために、本当に馬鹿だったなあと思う。
もっとたくさん話をしたかった、優しくしたかった。

そんなことがあったから、私は家族も未来も捨てて馬鹿みたいにバイトに捧げきってしまったあの頃の自分を悔いた。一刻も早く、自分を変えたいと強く思った。
それから、本を作ったり展示をしたりと色々自分から始めるようになって少しずつ状況は変わっていったけれど、夢中で何かを作っている時はよくてもふとした瞬間に「いくら頑張ったところでもうお父さんには報告できない」ということを思い出してしまうと、どうにもならない気持ちになった。気持ちを吐き出したくても可哀想な人と思われたくないから誰にも言えず、実際人に話したところで自分の感情を水で薄めているようにしか思えなかった。初めの2年くらいは、「お父さんが目を覚ませばすべてが解決するはずだ」と毎日病院に通ってリハビリなどに躍起になっていたが、医者に何度も「回復は絶望的」と言われるとすっかり目的も見失った。
こうしたどうにもならない悲しみや背負いきれない罪悪感を抱えてしまった時、みんなはどうしてるんだろう? 私はこの先、一生父への罪悪感を抱えたまま生きていくんだろうか? 自分が悪いんだけど。
いっそのこと全部忘れてしまいたいと思った時、せめて何かの形で残しておこうと描き始めたのがこの『せっかちSさん』という短編漫画だった。自身の非正規ワーキングプア時代のことを描いたものだ。

なんで身近な人にすら言えないことを不特定多数の人が見る場に公開したかというと、あの時の私は自分を隠せば隠すほどどんどん暗い場所に追いやられているような気持ちになっていて、その時最後に「助けて」と叫んだ断末魔の叫びのようなものがこの作品だったのだと思う。

私はいつも仕事の後、近所の喫茶店に通ってこの漫画を描いていた。その時間だけはまるで絶対安全な聖域の中にいるような安心感と充実感があった。私は誰にも言えなかった気持ちを紙に吐き出し、それを原稿用紙は無言で受け止めた。 そして、編集者役を買って出てくれた友人・モリブタがあれこれアドバイスをくれて、どうにかこの作品を完成させることができた。 23ページ足らずだったが、完成した直後の不思議な疲労感と達成感は今でも忘れられない。

 完成した『せっかちSさん』を読み返した時、私は原稿用紙ごしに歌舞伎町の喧騒をとぼとぼと歩くちっぽけなあの頃の自分の姿を見たような気がした。そして気づくと「あれは全部仕方なかった」と呟いていた。自分でもびっくりした。恐らくあの時、私は少しだけ自分のことを赦せたんだと思う。

創作には、このように自分のこんがらがった状況を寛解する力があり、また自分自身を分析する方法としても有効のようだ。
かつての私は、狂ったように日銭を稼ぎながら頭のどこかで「なんで自分は本当の夢と真逆の努力ばかりしてるんだろう」と、自分のことにも関わらずずっと不思議で仕方がなかった。でも、漫画で描いたことでそうした行動は私の中に巣食う劣等感と大きく関係していると気づいた。
とにかく自信が無くて人と関わることも苦手だったから、最低賃金以下の環境であっても「自分を受け入れてくれる場所があった」とほっとし、搾取されることに対しても不満を感じるどころかどこか安らぎすら感じていた気がする。むしろ「やっと自分相応の居場所を見つけた」くらいに思っていた。あの時は、交通費すらくれない職場が私にとっての擬似家族だった。
気づかないうちに色々限界だったのだと思う。
私があの時、時間が無いなりに仕事終わりに喫茶店に足繁く通って漫画や絵を描いていたのは、あの時の私にできた精一杯の自己治療だったのだろうなと今ならわかる。

どこかで「人の部屋の荒れ具合は、その人の頭の中を表す」と聞いたことがある。それが真実だとすれば、ゴミ屋敷に暮らす私の脳内は言わずもがなだ。確かに、物心ついた時から私の頭の中はずっとこんがらがっていた。他人の頭と見比べることができないので比較は難しいけれど、私が同世代よりも要領が悪かったり幼稚だったのはそうしたところに関係があるような気がする。
そんなふうに頭の中にたくさんの不用品を詰めたまま生きている私が、自分を再確認したり救いだすことができる方法として「創作」がある。色んな感情で思考停止のエラーに陥ってしまっても、自分の身に起きたことを一つの物語に見立てると不思議と突破口が見えてくる。ここまで読んで「なんか自分と似てるな」と感じた人がいたら、ぜひ辛いことがあった時はこの方法を試してみてほしい。

私はその後も、色々な気持ちを物語にした。彼氏がお酒の問題で大変だった時のことも、日常があまりにも辛くて夜に見る夢の世界に現実逃避していた時なども、全て『宇宙人の食卓』『夢の本』と名付けて 同人誌にした。
そうしてみてわかったのは、生きてる限りどんな人にも嬉しいことや悲しいことが突然降りかかることがあり、それは私達のせいではない、ということだった。
まだすべてと折り合いがついたわけではない。
でも、未来のことが怖くなって急に足がすくんでしまっても、「何かが起きても自分の物語が増えるだけ」と自分に言い聞かせると少しだけ心が楽になるのだった。

私は自分以外にも、この世の音楽家、芸術家、作家達の創作にたくさん救われている。
最近はYouTubeもよく観る。その中でも、「街録ch」というチャンネルに特にハマっている。この番組は、いわゆる「普通」の範疇に留まらない人達が登場しそれぞれの人生を語っていくのだが、その話は苦労話から背筋が凍るような話まで壮絶な話が多く、初めは「怖い」「ヤバいな」という感情しか起きなかったような人にも、見終えた頃には不思議と身近に感じ、人によってはファンになってしまっていたりする。不思議な魅力のある番組なのである。

ある日、その街録chを何気なしに見ていると、主題歌である大森靖子さんの「RUDE」という曲が耳に入り私は釘付けになってしまった。

「気まぐれのさよならを
いつでもなかったことにできるよ 
生きてさえいればいい」

大森靖子「RUDE」

この部分を聴いた時、私は溢れた涙を我慢することができなかった。
私はこれまで、表現で頑張って、バイトに逃げていたあの忌々しい時期を帳消しするくらいの存在になることが親への恩返しだと信じて一生懸命やってきたつもりだ。だけど、それでも心のどこかでどれだけ詫びれば父に気持ちが伝わるだろうとずっと鎖に繋がれたような気持ちでいた。
でも、この「生きてさえいればいい」という歌詞を聴いた時、もしかしたら父は私を玄関から送り出す時いつもこんな気持ちでいてくれてたんじゃないかな? と思った。そしてこれまでの父への色んな感情が止まらなくなった。
そういえば、父との本当の最後の会話は「慌てないでね。ゆっくりね」だった。
だからやっぱり、そういうことなんだろうなあ、と思う。
私と父は会話は少なかった分、それまでの時間を取り戻すかのように病室で濃い時間を過ごした。結果的に普通の親子と同じくらいの時間を過ごせているかもしれない。世の中にはそんな親子もいるのだ。

私は、自身の創作は勿論、色んな人が魂を削ってつくってくれた創作にも沢山大切なことを教えてもらい続けている。
これが、私が30 年ちょっと生きてきて身をもって学んだ「創作」のもつ効能なのであった。

最後に1つ告知です。
今、日々制作しているscore drawing作品を都内で展示しています!
この絵画達も、私が色々だめだった頃に見つけた産物です。もしご興味もってくださった方は、大変なご時世ではありますがどうか気をつけて見にいらしてくださったら幸いです!

■小林亮平、小林紗織2人展 「お腹まで2時間35分」
会期:5月20日~6月7日
会場:NADiff Window Gallery
住所:東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 1F
時間:13:00~19:00 ※最新情報は公式ウェブサイトにて要確認
休日:月曜、火曜、水曜日
入場料:無料
http://www.nadiff.com/?p=23653

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author:

小指

1988年神奈川県生まれ。漫画家、随筆家。バンド「小さいテレーズ」のDr.。 過去に『夢の本』『旅の本』『宇宙人の食卓』を自費出版で発表。小林紗織名義にて音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行う。 https://koyubii.wixsite.com/website Twitter:@koyubii Instagram:@koyubim Photography Noa Sonoda

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