第32回マルセイユ国際映画祭のインターナショナルコンペティション部門にてグランプリ、俳優賞、観客賞の3冠を受賞するなど、各国の映画祭で高い評価を得ている杉田協士監督の最新作『春原さんのうた』。歌人・東直子の短歌を原作に、パートナーを失い、喪失感を抱えた女性が日々ささやかな暮らしを続ける姿を見つめる。
杉田監督は、前作『ひかりの歌』でも短歌を原作に映画化するなど、一瞬を切り取る詩歌と映画を重ねて、自身の創作を紡ぐ。詩人・作家の高橋久美子も、そうした一瞬を見つめ、作品を生み出している。親交がある2人は、互いの創作に惹かれ、共通点を見出しているのではないだろうか。本作について、詩歌の魅力を前後編でお届けする。
前編では2人の出会いから『春原さんのうた』や映画と短歌の共通点について語ってもらった。
「無意識を意識する」創作の感覚が近い2人が、共鳴したこと
──お二人が出会ったきっかけは?
杉田協士(以下、杉田):長編1作目『ひとつの歌』(2011年)の公開に向けて、配給のboidとフリーペーパーを作ったんです。その中で映画レビューを書いていただくコーナーがあって、第1回は出演者でもある歌人の枡野浩一さんにお願いをしました。それで枡野さんのお店に遊びに行った時に、たまたま棚にあった高橋久美子さんの詩集を読んだら、ものすごく素敵で。私はいつもそうなんですが、直感で「いい」と思ったら突き進んでしまうタイプなので、高橋さんに書いてもらいたくて、面識もない中でご連絡したのが始まりです。
高橋久美子(以下、高橋):杉田さんおすすめの下北沢のカレー屋さんでお会いしましたね。
杉田:そうでしたね。その時の文章は高橋さんのエッセイ集『いっぴき』にも「魂の歌を聞いた」というタイトルで収載されています。とても素敵な文章なんです。そこから、映画の公開に合わせたトークショーに出ていただいたり、2作目の『ひかりの歌』ではパンフレットで対談をしたり、今日は約1年ぶりにお会いしますね。
高橋:初めて連絡をいただいた時は、お会いしたことがなかったし、過去の作品も知らないし、私で書けるかなって不安があったんです。だけど、映画を観て、ぜひ書きたいと思いました。すごくポエジーというんですかね、私が詩を書く時の感覚と近いものを監督に感じて、しびれた記憶があります。
──『春原さんのうた』は観てみて、いかがでしたか?
高橋:しばらく、後を引く感じがありました。作品との関係がぷつっと終わってしまうのではなくて、自分の生活の中に映画が染み込んでいく感覚になるというのか。観た後も映画のシーンを思い出すことが度々あって、「自分もそこにおったなあ」と思いました。例えば主人公が友達とケーキを食べるシーンとか、自分も横に並んで一緒に座っているような感覚になったんですよ。
大好きなシーンが、道に迷っていた女性と主人公の沙知が、目的地に向かって道をずっと歩いていくところ。通常の映画だと、あの尺の1/3くらいで切られてしまいそうなところを、長いこと撮っていましたよね。
杉田:そうですね。
高橋:あれは、必要なんですよね。彼女達が歩いていけるだろうか、どこに向かっていくのだろうか、それは全編を通して友達や親戚のような気持ちで、後ろからずっと見守っている感覚がありました。
杉田:現場にいる私達のたたずまいも、きっと「見守っている感じ」になっているかもしれません。自分で書いた脚本だし、キャスティングも自らするんですけど、登場人物たちの中にお邪魔させてもらっている感覚がずっとあって。なので、撮影中は端っこに座って、ことの成り行きを見ている感じでしたね。
その人に似合う1人の時間を思って、脚本を当て書きする
高橋:自然なものを自然に描くってすごく難しいと思うんです。だから、『春原さんのうた』で無意識を意識させられる感じに、グッと来たのかなと。それは、俳優さん達が演じているように見えない、というのも大きいのかなと思っています。その人自身が、そのまんま出ているんじゃないかと思うくらい自然体だったじゃないですか。脚本にされる際に、俳優のパーソナルな部分も投影されるんですか?
杉田:出演者が決まってから脚本を書くので、当て書きといえばそうなります。だけど、役とは少しずつ性格が違うんですよ。特に沙知を演じた荒木知佳さんは、もっと動的な人。沙知は物静かで大人しそうだけれど、荒木さんは動物っぽいです。ただ、普段の自分そのものではなかったとしても、潜在的なその人自身が役に生きているのかもしれません。
高橋:人前にいる自分と、潜在的な自分は違いますしね。明るい自分ももちろん私だけど、家に帰って1人で湯船に浸かってぽけーっとしている自分も私で、後者を映されたのかもしれないと思いました。
杉田:確かに、その人の1人の時間は知らないけれど、そういう時間が「似合うだろうな」と思って書いているかもしれないです。見たい居住まいというか。例えば沙知のお風呂シーンなんかは、予定になかったんですよ。だけど、荒木さんとちょっと話したいことがあって電話をすると、100%お風呂場にいる(笑)。本人に聞くと、暇さえあればお風呂に入っていると言うんです。だから、大好きなお風呂のシーンを撮るのはどうですかと聞いたら「ぜひ」と返事があったので撮りました。撮っていたら、そのまま寝てしまってびっくりしましたけど。
高橋:そんなことあるんですね(笑)。沙知を見守る叔父さん役の金子岳憲さんは長いお付き合いだと思うので、パーソナルな部分が色濃く出るものですか? すごく優しくて素敵な叔父さんで、大好きでした。
杉田:あの優しさは、本人とどこか通ずると思います。彼がいると現場が和むんですよ。沙知の自宅で撮影する時も、私が遅れてアパートに向かっていると、部屋の中から笑い声が聞こえてくる。それは彼が現場を和ませているんだろうなと思って。全員が家族みたいな感じになっていました。
──映画の撮影現場というのは、スケジュールも厳しく決められていて、ピリッとした雰囲気の現場も多いように思うのですが、杉田監督の場合は違うんですね。
杉田:映画の撮影現場、という感じとは結構遠い気がします(笑)。日常の延長、というんですかね。大体私は10時半くらいに現場に入って、みんなのおしゃべりがなんとなく終わったらワンシーン撮って、頃合いでお昼を食べて、午後にもうワンシーン撮れたら十分。日が暮れたら帰る、という感じです。
高橋:何テイクも撮り直すことはないんですか?
杉田:叔母さんと叔父さんが沙知の家にやってきて、叔母さんが押し入れに隠れるシーンはなかなかOKになりませんでした。リコーダーも吹かなきゃいけないし、どら焼きも食べるし、2ページくらいの長いシーンで、私も結構難しいシーンだなと覚悟していたんです。1日置きに撮影スケジュールを組んでいたので、撮りきれないものは翌日に回すことにしました。最後に、みんなもいよいよ疲れてきて、芝居とかもよくわからなくなった頃のテイクがOKになりました。
高橋:あのシーンも、大好きでした。どら焼きで例えると、沙知が餡子(あんこ)なら、叔父さんと叔母さんという皮が彼女を包んでくれているようで。あとは、沙知が水を飲むシーンも良かったです。半分は部屋の観葉植物にあげて、もう半分を自分で飲む。植物が生きるのと同じように、自分に水を与えている感じがしました。そうやっていろんなことを想像していくと、すごく詩的な映画だし、短歌から生まれたということがわかりますよね。短歌って、瞬間を切り取るじゃないですか。
杉田:そうですね、長い人生の数秒を切り取って歌にしますよね。
高橋:この映画には「瞬間こそ永遠なり」というのが詰まっていますよね。その一瞬一瞬を大事にしながら、私もどら焼きの餡子になったり皮になったり、はたまた水を半分飲むように、誰かに守られたり守ったりしながら生きていきたい、という気持ちになりました。
短歌の前後に描かれた人生を見つけて、あぶり出していくように撮る
──本作は、東直子さんの第一歌集『春原さんのリコーダー』(ちくま文庫)の表題歌「転居先不明の判を⾒つめつつ春原さんの吹くリコーダー」が原作です。短歌を映画にする際に、どのように物語を組み立てていかれるのでしょうか?
杉田:「瞬間こそ永遠なり」という話で思ったのが、人それぞれに人生があって、どこを切り取っても説得力があると思うんです。例えば喫茶店でお茶を飲んでいても、ただ歩いているだけでも、その人自身がその一瞬に表れる。だから、四六時中人生を追わなくても、人生の数秒を見るだけでもその人自身が伝わってくる気がします。
高橋:数秒に全部ある、みたいな感覚ですよね。
杉田:そうですね。映画も短歌に似ていて、長い人生の数秒を切り取ってつなげるもの。時間が短歌よりも長いだけだと思っています。なので、1つの短歌から妄想を広げていくというよりも、短歌の前後にある人生を私なりに見つけて、あぶり出していく感覚が一番近いかもしれません。そこにあるんだけど、自分達には見えていない時間を浮かび上がらせる作業というのか。
高橋:それは、創作とはまた違う感覚ですね。翻訳に近い気がします。
杉田:歳をとったせいかもしれないんですけど、わざわざ作り出さなくても“ある”という感覚になってきました。それを撮らなくてもいいんだけれど、自分達がせっかく居るなら一応撮っておいてもいいんじゃないか、くらいの気持ちでカメラを向ける。撮影の飯岡幸子さんも同じ感覚で、「どこにカメラを置いても映るから大丈夫」と言う人なんですね。カメラ位置に厳格ではなくて、その場をただ大事にしてくれて、その中でも最良の場所はどこだろうと選んでくれます。
──光の取り方や構図が芸術的な印象があったので、緻密に決め込んでいらっしゃるのだと思っていました。
杉田:よく、そう言ってくださるんですが、全然作り込んでないです。現場を見たら、拍子抜けされるかもしれない(笑)。撮影序盤で、沙知が勤めるカフェ(キノコヤ)の2階で、書道のパフォーマンスをするシーンを撮ったんです。撮影するには狭いスペースだし、まだスタッフも含めてこれがどんな映画になるのかもわかっていない状況だったので、「この場面は一体なんだろう?」みたいな空気が漂っていて。撮影中も目の前ですごいことが起きていることはわかったけど、カメラにはどう映ったんだろうって思っていました。飯岡さんに聞いたら「何かは撮れた」と(笑)。何かが撮れたなら大丈夫だと思って、そのシーンは終えました。そんなことの繰り返しです。
──決めすぎない方が面白いものが撮れる、という感覚もあるのでしょうか?
杉田:決めてしまうと映す対象を縛ってしまう、というのは思っています。カメラが開発された当時の心境を詳しくはわかりませんが、目の前のものを「残したい」という欲求が最初にあって、それで生まれたのがカメラだと思うんです。だから映画の現場でも、本来はこれを映したい、が先にあって、その後にカメラが置かれるのがいいはずです。でも、その順番が逆になってることはよくあります。カメラを先に置いて、そのフレームに合わせて出演者に30センチ動いてもらうとか、当たり前に起きたりします。それに対して、私は「待って、待って」となってしまうんですよ。
高橋:不自然になってしまいそうですね。
杉田:そうなんです。30センチずらしたら崩れませんか? と思う。私が何も言わないで、俳優たちがその役として無意識に選び取った距離に、そこにいる人達や場所の関係が表れてるはずで、それを映したい。カメラを優先して位置関係をずらしてしまうと、自然と選び取ったものがなくなってしまって、俳優が「誰でもない役」になってしまう気がします。
高橋:なるほど……みかんの木、みたいですね。
杉田:ん?(笑)。
高橋:説明が必要でしたね(笑)。私の家は自然農法でみかんを育てていますが、みかんの木って、枝を一本切ってしまうと均衡が崩れるんです。木は、自分達で光が取れるように上手に成長しているから、人の手が入る必要はほとんどない。自然を自然なまま受け入れて、彼らの塩梅を信じて作っていく感じが映画と似ているなあと思って。
杉田:なるほど、それは似ていると思います。
高橋:自然であることを大事にしているから、映画として別物にするのではなくて、自分の人生の延長にこの映画があるんだと思いました。
後編に続く