USヒップホップ界を撮り続けるフォトグラファー、B+のヒップホップ愛と日本への思い

ロサンゼルスを拠点に活躍するフォトグラファー、B+(ビー・プラス)。1990年代よりアメリカを中心にヒップホップアーティストを撮り続けてきた重鎮が、先日、渋谷「トランクホテル」内にあるギャラリーにて、個展12th Presents「Tried by Twelve: photography by B+」を開催した。

日本では、前回の個展より約4年ぶりの開催となった今回は、展示の仕方やコンセプトなど新しい領域に挑戦している。そして会場には、ノトーリアス・B.I.G.、ローリン・ヒル、ケンドリック・ラマー、マッドリブなど、選ばれた12名のアーティスト達の大きなポートレートが展示されていた。B+の手にかかると、なぜ写真に写るアーティスト達の姿は深みを増すのだろう。来日していたB+にこれまでのキャリアから、日本文化との接点を聞く。

B+(ビー・プラス)
アイルランド出身。本名はブライアン・クロス。1990年にロサンゼルスへ渡り、カリフォルニア芸術大学にて写真を学ぶ。大学在学中に手掛けたプロジェクトを元に、自ら文章を書き、写真を撮った最初の著書『It’s Not About a Salary: Rap, Race, and Resistance in Los Angeles』を1993年に出版。その後、アメリカのヒップホップアーティストの撮影を多く手掛けるようになる。また映像監督としても活躍し、エリック・コールマンとともに設立したプロダクション「Mochilla」にて、『Keepintime: A Live Recording』『Brasilintime: Batucada Com Discos』など、ターンテーブルとドラマー、ブラジルのミュージシャンなどにスポットを当てたドキュメンタリー映像を制作。バンクシーの初監督作品であり、アカデミー賞ノミネート作でもある『Exit Through the Gift Shop』ではエリック・コールマンとともに撮影監督を務めた。また日本とのつながりも深く、ニトロ・マイクロフォン・アンダーグラウンドのジャケット撮影や、ミュージックビデオの監督を担当した他、きゃりーぱみゅぱみゅの撮影などを手掛けたことも。写真集はこれまでに、『Ghostnotes: Music of the Unplayed』(2017)、『Contact High: A Visual History of Hip hop』(2018)を出版。
http://www.mochilla.com/bplus
Instagram:@bpleasel

アンダーグラウンド・ヒップホップの名曲「Tried by Twelve」にインスパイアされ

——今回の個展「Tried by Twelve: photography by B+」の内容について教えていただけますでしょうか。会場には12枚の作品がありましたが、この作品数に絞った理由なども知りたいです。

B+:今回、写真を飾る会場はとても狭かった。通常は空間を埋めるようにたくさん写真を展示するんだけど、今回は個人的にとにかく思い入れのある写真を厳選したんだ。ちょうど4年前(2018)に「16(Sixteen)」で個展をやった時に、大きな作品が空間によい感じに作用することに気付いて、小さい写真で普段やっているように、大きな写真を使って何かやってみたいと思っていた。そんなわけで、このすごく小さな空間に大きな写真をたくさん展示したんだ。これまでに見せたことのない写真を使い、新しいことに挑戦してみたかった。

——今回の作品はすべて初めて展示したものばかりなのですね。

B+:そうだよ。これまで他では見せたことのない写真ばかりだよ。B.I.G.(=ノトーリアス・B.I.G.)に関しては本では紹介したことがあるけど、大きいものは発表したことはない。それとこの個展にはたくさんの意味があるんだ。

今年の頭に入ってとても近しい存在の友人が亡くなってしまったんだ。彼はラジオプロモーターで、かつてアンダーグラウンド・ヒップホップでも有名な曲「Tried by Twelve」を世に広めた人でもあった。「Tried by Twelve」では、「Juries=民間から選ばれた陪審員」のことがリリックに出てくるんだけど、その流れもあって展示する写真を12枚にしたんだ。ここ数年は、裁判のような日々だったような気がするしね。とにかく、あの曲から多くのアイデアを生み出すことができて、それが俺をハッピーな気分にさせてくれた。あと偶然にも、今回の展示をサポートしてくれたヒロが始めた会社の名前が「12th」で、それにも驚いたよ。

Tried by Twelve: photography by B+」展示風景

——それぞれの写真には撮影時のストーリーがあると思います。いくつか撮影秘話を教えてください。まずは、日本で撮影をしているマッドリブの写真から。

B+:マッドリブのストーリーはとてもおもしろい。それは、マッドリブが「ブルーノート」でレコードを作った時のことなんだけど。その頃、彼の写真を撮るのは俺だけだったから、「ブルーノート」の人から、レコードのカバー用にマッドリブを撮影してくれないかと依頼が来たんだ。俺にとっては、これまで多大な影響を受けてきた「ブルーノート」のレコードカバーの写真を撮影できるなんて素晴らしい話でしかなかった。だけどその時期、俺は日本で初めて個展をやることになっていてバタバタしていたんだ。さらに納期も迫っていたし、「ブルーノート」側はマッドリブに連絡がなかなかつかなかったようで焦ってもいた。

だから俺が直接、彼に電話して「撮影しよう。だけど来週から俺は日本へ発つんだ」と伝えたら、「日本か! それはクレイジー。レコードは日本でも出るの?」ってなった。そこで「日本でもリリースされるよ」と伝えたら、「OK! 行くよ!」って。それで俺が日本へ発つ2日前に「マンハッタンレコード」のTAKE(=TAKE SHIMIZU)に連絡をして、「マッドリブが日本へ行きたいと言っている」と伝えたら、渡航のエアチケットを手配してくれたんだよ。

Photography B+

だからこれはマッドリブが初めて日本へ行った時の写真なんだ。彼は俺達と一緒にいて、俺の展覧会では会場に座ってヘッドフォンで音楽を聴いていたよ。それから温泉や山、レコードストアなんかに行ったりして、この写真は寺に行った時に撮影したんだ。アサリを食べながら、周りにたくさんの鳩がいた。そして実際に「ブルーノート」のカバーに使われたのは、東京の電車の中で撮影した写真だったんだけどね。

——B.I.G.はいかがでしょうか? この写真は他でも見た記憶があります。

Photography B+

B+:B.I.G.はとてもシンプルなストーリーだよ。かつて俺は日本の『FINE』マガジンで写真をよく撮っていたんだ。この写真を撮影した時、「JUICY」がリリースされたばかりで、B.I.G.が初めてロスに来た時だった。彼とは屋上で会ったんだけど、とてもとてもスウィートな人だったよ。握手をした手が柔らかくて、15分くらい話をしたかな。撮影をした1年後に亡くなってしまったんだ。

——ローリン・ヒルやエリカ・バドゥの写真も気になります。

B+:ローリン・ヒルの写真は、彼女のために撮影したもの。当時、『RAP PAGES Magazine』(B+がフォトグラファーとして携わっていたヒップホップマガジン)で、彼女の写真を多く撮影していたんだ。そんな時に、彼女は妊娠したんだ。そこで俺の友達が彼女の広報をやっていたから、「これから変わり始めるローリン・ヒルの写真を撮りたい」と伝え、彼女にギフトをするということで妊婦姿の彼女を撮りたいと申し出たんだ。それでニュージャージーに行って、彼女とハングアウトして写真を撮影した。この写真は、赤ちゃんが生まれる3日前に撮影したもの。ちょうどソロアルバム『The Miseducation Of Lauryn Hill』を制作している時期でもあったんだ。

エリカ・バドゥは、ロサンゼルスでザ・ルーツがホストをしたJ.ディラのトリビュートイベントでオファーしたよ。彼女が自分のことを覚えてくれていたらいいなと思いながら、バックステージで彼女を待っていたんだ。写真はダラスにあるエリカの家で撮影をした。当時は、写真集『Ghostnotes: Music of the Unplayed』に載せる用に写真を撮りたかったんだけど、なかなか撮影をするチャンスがなかったんだ。それでタイミングが合った時に、エリカが「ぜひ来て」と言ってくれたから、ダラスに飛んで、彼女の家に出向いて写真を撮影したんだよ。

Photography B+

——オール・ダーティ・バスタードの写真は1995年に撮影していますが、この時期はモノクロフィルムで撮影をされていることが多かったのですか?

B+:カラーでも撮ってはいたんだけど、この時はモノクロで撮影することになった。1993年にリリースされたジャネット・ジャクソンの『ジャネット』というアルバムのカバーを見習っていたんだ。

——ケンドリック・ラマーの写真はわりと新しいですね。ロサンゼルスに住んでいるので、比較的近くにいるのではないかと思いますが。

B+:ケンドリック・ラマーのアルバム『To Pimp a Butterfly & Untitled Unmastered』がリリースされる前に、『Complex』マガジンで撮影をしたんだ。1日かけて撮影したんだけど、彼は物静かで、スウィートで、すごくナイスな人だった。大掛かりな撮影で、「ここに座ってあっちを向いて!」という感じではなく、「ここで撮ろうか?」「OK!」って感じでシンプルでカジュアルに撮影ができたよ。

Photography B+

ヒップホップカルチャーを学び、そこで得たアイデアを作品に託す

——キャリアに関して。なぜヒップホップに惹かれたんですか? 地元のアイルランドにいた頃から聴いていましたか?

B+:アイルランドでは1984~1986年くらいにヒップホップだけを聴いていた。1980年代半ばだから、ランDMC、マントロニクス、スクーリー・Dと、B.D.P. Records初期の作品あたりを聴いてたよ。

ロサンゼルスには大学を卒業して23歳の時に来たんだけど、当時はヒップホップは音楽ともカルチャーとも認識されていなかったんだ。それから、ヒップホップは新しいパンクロックで、反体制的な文化だと感じるようになって、影響を受けていった。だからその時には、大学の教授に「ヒップホップカルチャーを写真を撮ってみたらいいんじゃないか?」と言われてから、30年たった今も撮り続けているとは思わなかったね。

——ヒップホップアーティストを撮影する際には、ヒップホップカルチャーを意識されていますか?

B+:もちろん意識しているし、アイデアも得ているよ。まず理解しなければいけないのは、400年にもおよぶアフリカ人の奴隷制と虐殺の歴史が深く関わっているということ。でもこういったことは、アフリカ人に限ったことではない。例えばアイルランド人は、今では「ヨーロッパ人」としてのくくりに入るけど、1973年以前は「ヨーロッパ人」ではなく、「外部の人間」という扱いだったのさ。「オリエント」「ヨーロッパ」、そして「それ以外」というくくりでしか世界を認識できない人もいるようだけど、それってクレイジーなことであって。「お前は一体何をキメてるんだ。大きな間違いだよ」って思う。ヨーロッパを中心とした物事の考え方をやめなければいけない。これはすごく大事なことだと思うんだ。

じゃあ日々の暮らしの中で、どうやってこうした間違えた考え方を正していくのかってことなんだけど……。誰がどのように表象され、理解され、または他者化されてしまっているか、もっと注意深く見て、それらをほどいていくんだ。差別に対する対処法は、人によって異なると思うのだけど、「曖昧さ」がカギになると言う人もいるね。つまり、西洋的な、定まった明快な視点や測りに抗っていくんだ。あるいは、擬態、寓喩、風刺なんかも有効だね……まあ、ODBが曲の中でやっているようなことさ。そういうことを通して、人種差別に抗う活動もできるっていうことを頭に置いておく必要があると思う。というか、君は難しい質問をするね。

——日本でもヒップホップは人気があります。日本でヒップホップを扱うなら、私達はその音楽の歴史や文化を学んだほうが、さらに深みが出てくるのではないかなと思うんです。

B+:リスペクトがもっとも重要だと思うよ。例えば、昨日まで全然違う環境にいた人間が突然ある日、相撲や版画、書道について偉そうに記事を書いて意見を言うようなことがあれば腹が立つよね? 多くのアフリカ人は、このようなことを何千年も実際に体験しているんだよ。「すご~い、ラップしてる~!」みたいなことを面と向かって言われるけど、「俺達は長いことラップしてきたんだ」ってね。ヒップホップというものは、大きいものというより、とてつもなく奥深いものさ。奴隷制がまだ生まれる前から、北アフリカだけでなく、アラブ民族や、ヨーロッパにも、ライムでのワードバトルは存在していたんだから。

ブラジルでは1500年代から行われていたんだよ。1972年に入り、このワードバトルというアイデアをまとめ、ヒップホップという名前がついたけど、知る限りでは500年前から存在していることになるんだ。もしかすると、もっと昔からあった可能性もあるよね。だからといって、ヒップホップはモダンではないということではないんだ。ジャズみたいに、北アフリカの芸術なんだ。例えばだけど、3日間しかクラシック音楽を聴いていない人間が、ベートーベンやモーツァルトについてレビューをする。もしくは昨日ラップ聴き始めたばかりの奴が、ケンドリック・ラマーについてレビューを書くなんておかしいだろう。しっかり聴いて理解して、リスペクトを見せてほしいものだよね。

——クラシック音楽は音階、ヒップホップはビートという印象がありますが、音の作りも異なると思いますか?

B+:クラシック音楽もビートはあるといえば、あるよね。ヒップホップは曲によっては、メロディやハーモニーがなかったり、あったりするけど、リズムがとても重要だよね。「ドラムを上げて!」って、それによって他の音楽とは異なる感触をリスナーに与えてくれる。例えば、ベートーベンは「心」のための音楽とも言われているけど、俺は「心」だけの音楽にはあまり興味が持てないんだ。すぐに飽きてしまう。逆に、「体」だけに向けたテクノもあるけど、俺は家では聴きたいとは思わないね。フェスやクラブにいる場合はテクノしか聴かないとかあるかもしれないけど、俺は「心」と「体」、両方で体験できる振り子のような音楽が理想だね。

アラーキー、原一男、大島渚など日本の写真家、映像監督に影響を受けて

——B+さんが日本へ初めて来たのはいつですか?

B+:1998年に雑誌『The Source』の撮影で初めて来たよ。その後、ニトロ・マイクロフォン・アンダーグラウンドのビデオとアルバムカバーの撮影のためにも来日した。他に展示会や『Keepintime』がリリースされた際も来ている。目に見えてハッキリとした形ではないかもしれないけど、日本はヒップホップの成長に大きく貢献していることは言っておきたいね。

——日本の写真家で好きな人はいますか?

B+:アラーキー(=荒木経惟)だね。1990年代に友達がアラーキーの作品を見せてくれたことがあったんだ。複雑で、19世紀の小説のアイデアを取り入れた私小説的な作品だった。写真の連続(シークエンス)で、それを見た時に「まじか、こんなのありかよ」と、ものすごい衝撃を受けたんだ。俺の先生はシークエンスにこだわる人で、それを自分は得ていたと思っていたけど、アラーキーの写真を見て衝撃を受けてしまって、異なった視点からそれを習得したいと思ったんだ。

それと初めて1990年代後半に日本へ来た時に、街にある普通の本屋に行ったら、そこでアラーキーの本が10ドルくらいで販売されていることを知って感動したんだ。そこから俺は神保町に本を探しに行くのが好きになった。日本語や漢字を読めるようになったら、もっと理解することができるなとか思うこともあるよ。本だけでなく、日本のレコードにも影響を受けているけど、本はとても重要なんだ。

——今またレコードや書物の良さが見直されている時代になってきていると思います。

B+:最近はおしゃれな感じで、500冊限定などで本を制作したりするよね。それを60ドルくらいで販売したりさ。それもいいけど、俺は古いアイデアが好きなんだ……普通の本屋で売っている、普通の本。それを普通のひとびとが好きなものを発見して手に取って、そこから体験する。それが素晴らしいんだよ。

そして俺は、写真だけでなく日本の映画にも影響を受けているんだ。原一男を知ってる? ドキュメンタリー映像を作ってきた監督で、『ゆきゆきて、神軍(The Emperor’s naked army marches on)』(1987)には衝撃を受けたよ。『極私的エロス 恋歌 1974(Extreme Private Eros: Love Song』(1974)、『さようならCP』(1972)といった映画も制作しているけど、どれもファッキンクレイジー。彼の作品はすべて観たんだけど、この男は正気ではない。ともかく挙げた3つの映画はクレイジー。

この10年くらいはよく日本の映画を観ているんだけど、日本映画は1960年代の作品が好きなんだ。俺は12歳くらいからビデオレンタル屋でVHSを借りて観ていたんだけど、大島渚の『愛のコリーダ』を借りたことがあったんだ。これには本当におどろいた。日本だけでなく1960年代の映画には興味があるんだよ。でも日本の映画に関しては、自分はまだひよっこだけどね。

——最後の質問になりますが、最近映像は撮られていますか?

B+:今回の個展があったから、最近は写真のほうにフォーカスしている時期だったけど、今3つの映画を手掛けているよ。1つはスプリームスのドキュメンタリーで、デトロイトで撮影している。それと昨年は、アイルランドのフィーメールラッパー、デニス・チャイラのショートフィルムを撮り終えた。彼女は俺達の文化にとってとても重要なアーティストだ。3つ目はジャマイカンミュージックのドキュメンタリー。この作品の製作を通じて、音楽やストーリーを伝えるってことについて、理解が深まったと思ってるよ。いい作品になると思うよ。

Photography Atsuko Tanaka

author:

Kana Yoshioka

フリーランスエディター/ライター。1990年代前半ニューヨークへの遊学を経て、帰国後クラブカルチャー系の雑誌編集者となる。2003年~2015年までは、ストリートカルチャー誌『warp』マガジンの編集者として活動。現在はストリート、クラブカルチャーを中心に、音楽、アート、ファッションの分野でさまざまなメディアにて、ライター/エディターとして活動中。

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