若手のファッションデザイナー集団「東京ニューエイジ」を知っているだろうか? 「リトゥンアフターワーズ」の山縣良和と「ミキオサカベ」の坂部三樹郎により2014年10月に発足され、2017年まで気鋭デザイナーを送り出してきた“日本の若手デザイナーの発掘と支援”を目的としたプロジェクト”だ。
「東京ニューエイジ」としてデビューしたブランドは成長を続けている。今年3月に開催した2023-24年秋冬シーズンの東京ファッションウィークでは、「アキコアオキ」「ピリングス」「ケイスケヨシダ」「ソウシオオツキ」などが強い存在感を放っていた。
デビューから今年で約9年となる元「東京ニューエイジ」のデザイナー達はどのような進化を遂げ、どのような展望を描いているのか。「アキコアオキ」の青木明子、「ピリングス」の村上亮太、「ケイスケヨシダ」の吉田圭佑の3人に鼎談形式で語ってもらった。
——東京ニューエイジはどのようにスタートした?
青木明子(以下、青木):ここのがっこうで学んだデザイナーが集まって、ショーをすることになったのが始まりでした。それぞれ別々の時期に学んでいたメンバーだったのですが、たまたまブランドをはじめたいというタイミングあったという感じで。初期メンバーは私と村上くんの「リョウタムラカミ」、周子ちゃん(中里周子)の「ノリコナカザト」、(山下)琴菜ちゃんの「コトナ」でした。
村上亮太(以下、村上):僕はたまたま声をかけてもらい、参加することになりました。東京ファッションウィーク関連イベントの「渋谷ファッションウィーク」(2014年10月)で、「東京ニューエイジ」として渋谷109前の文化村通りを封鎖して合同ショーを開き、渋谷ヒカリエでもインスタレーションをさせてもらいましたね。
吉田圭佑(以下、吉田):僕は半年後の2期目として、「渋谷ファッションウィーク」(2015年3月)内で、金王八幡宮の境内で合同ショーを行ってデビューさせてもらいました。そのシーズンは、僕と(横澤)琴葉の「コトハヨコザワ」、大月(壮士)の「ソウシオオツキ」、苅田梨都子の「梨凛花」がメンバーでした。
——当時を振り返ると?
村上:僕は急に参加することになったから、ブランド名とロゴを考えたり、提出する書類を用意したりとバタバタしてました(笑)。それに当時はファッションのシステムをちゃんと理解してなかったから、展示会を開かずに発表するだけで終わっちゃったんですよね……青木さんはしっかり初回から展示会を開いていたね。
青木:そう。私と「コトナ」は一緒に合同展を開きました。みんな茶化しに来たよね(笑)。
村上:茶化してないよ(笑)。なんなら僕はファーストシーズンから「アキコアオキ」を買って嫁にプレゼントしたよ。今も家にある。
単独ショーで芽生えた責任感
——この約9年間、お互いの成長を見てきたと思いますが、それぞれのブランドの魅力をどのように感じていますか?まずは「アキコアオキ」について。
村上:学生服を着想源にしたデビューコレクションから、純粋にすごいなと見ていました。特に「ファッションポート ニュー イースト」(2016年10月に東コレ内で開催されたパルコ支援のイベント)として宮下公園で行ったコレクションは身体をシェイプした作風が印象的で、一気にモードの要素が強まっていって、女性像も変わったように感じました。
吉田:僕も「アキコアオキ」のデビューコレクションが好きでしたね。宮下公園でのショー(2017年春夏)や、2018-19年秋冬の着替えを取り入れたプレゼンテーションも心に残っていて、その頃からしっかりブランドのスタイルが確立されていったと思います。
青木:東京ニューエイジとして合同ショーを発表していた頃は、「みんなで頑張ろう!」という感じだったけれど、単独でショーを行うようになってからは責任感が芽生えていった気がする。
村上:2018年くらいから青木さんフィーバーで、LVMHプライズ(LVMH YOUNG FASHION DESIGNER PRIZE)のセミファイナリストをはじめ、毎日ファッション大賞 新人賞、「VOGUE JAPAN」の「Rising Star Of the Year」賞など、その時の若手に贈られる賞は全て取りましたよね。僕らの手の届かない存在になっちゃって……。
青木:確かにあの1、2年はそういう時期だったかな。
吉田:「アキコアオキ」はよりアーバン(都会的)な感じ。ファッションショーから展示会形式の発表に切り替えて、僕等よりも先にクリエイションをしっかりプロダクトにするのも早かったよね。
青木:最初はビジネスについての知識がなくて悔しいと思った。支援でショーをさせてもらってきたけど、そのサポートは永遠に続くわけではないので、自立するために目標を立てていきましたね。セールス担当の春海ショールームと契約を結んでからは、ショーは行わずに展示会とルックの発表のみでビジネスに集中。今年3月に久しぶりにショーを発表しました。
吉田:あと、アキちゃんの魅力は精神的に強いところだね。
村上:そう、精神性の強さがブランドの女性像に反映されている。
自分がやりたいことがやっと実現できるようになった
——それでは、村上さんの旧「リョウタムラカミ」、現「ピリングス」については?
吉田:名前を変えてから、クリエイションが向上していったと思います。村上は元々お母さんがデザインした服を作っていて、強いインパクトを残したけど、正直その後はブランドとしての発展が厳しかった。でも、「ピリングス」にしてからは、アトリエ「K’sK」のニッターさん達と協業することになって、“お母さん”が増えた感じで(笑)。より村上自身が自分と向き合って、素直なコレクションが出るようになった感じがした。2022-23年秋冬コレクションは自分がやりたいことを表現できるようになっていて羨ましかった。
青木:村上くんはここのがっこう時代から個性が立っていて、いい意味で最初から普通じゃなかったですね(笑)。デビューコレクションも好きだった。オリジナリティがしっかりあって、「ITS(International Talent Support)」にもノミネートされていたし。私には無いものを持っているなと感じていました。
村上:褒めてくれて嬉しい。確かに母とコレクションを作った後、「リョウタムラカミ」として1人になってからは何をしていいのかわからなくなって……「ピリングス」に変えてからは1から新しいことをやろうと模索したんです。
青木:村上くんみたいにこれだけピュアにクリエイティブなデザイナーは、アーティストの道に進んだり、ブランドをやめてしまったりと、作品とビジネスを両立するのが難しいはず。でも最近は女性目線でも欲しいものが増えてきている。
村上:それまでは1シーズンで1つの強いテーマを掲げていたんですが、「ピリングス」では3〜4シーズンかけて1つのテーマを表現するように変えていきました。最初はニッターさんを含むブランドのアイデンティティを紹介する内容にして、直近のコレクションは自分と向き合って、人間像にフォーカスを当てるようになってきたかな。
ブランドとしての発展
——「ケイスケヨシダ」についてはどうでしょう?
青木:吉田くんも自分と向き合うクリエイションだよね。
村上:そうだね。僕の場合は「ダメな自分ですいません」って感じだけど(笑)。吉田くんは “モードへの憧れ”が強くて、コンプレックスや儚さも表現されている。初期は少年をモデルにしたコレクションが印象的だったな。
青木:最初は吉田くん本人の延長のような内容だったけれど、宮下公園で一緒に発表したコレクションからは、ウィメンズにシフトして外国人モデルも起用して、ファッションの提案に向き合い出した感じだったよね。そうしてここ最近は初期の少年の感じと、ファッションの提案がうまく融合していて、すごくいい。
村上:僕は赤いライトの演出が印象的だった2019-20年秋冬シーズンがいいと思ったな。「ケイスケヨシダ」ってこういうブランドです、というのがちゃんと出ていた。“Jロック”って感じ。悪い意味ではなく、本場のロックじゃなく、ちゃんと自分解釈が入ったもの。机のシーズンも、学校に行くのが憂鬱だった頃を思い出して共感したな。
吉田:最初のコレクションは半径5メートルの等身大で作っていて、やりたいことを形にできるようになるまでは時間がかかった。まさに2019-20年秋冬コレクションからやっと世界観が固まってきて、次のシーズンでリボンのシャツやチェスターコートなど、ブランドの代表的なアイテムに発展できるようになった。コレクション作りは体力的にも精神的にも負荷がかかるから、出来上がった時には本当に達成感がある。僕の場合はショーを行わないシーズンも、ショーを行うつもりで制作しないといけないと思っています。
——吉田さんは展示会に一般の方も自由に来場できるように招待していて、その場で受注オーダーできるのが画期的です。
吉田:展示会は8日間ほど開いていますが、たくさんファンの方が遊びにきてくれて、お話しできる時間が楽しいんです。今年3月に開催した展示会では、お客さんの上着を預かったときにラックにずらっと「ケイスケヨシダ」のアーカイブのアウターが並んでいて嬉しかった。ファンの方の着こなしを見られるのが面白いし、若い勢いも感じる。
海外でも評価されるブランドへ
——それぞれ、今後の目標は?
青木:日本だけでなく海外でも通ずるブランドになること。なぜそうなりたいのか考えた時に、世界にいるスタイリストやフォトグラファー、クリエイターに出会って、一緒に仕事をしたいという思いがありました。数年前にECをはじめて、シューズの売り上げが順調に伸びてきました。なので、“パリで発表することが成功”ではなく、卸もECも頑張りつつ、クリエイションももっと面白いものを見せていけるように続けていきたいですね。
村上:僕はヨーロッパでファッションショーを発表したいという憧れがずっとあります。自分の作ったものがどのように評価されるのか知りたいし、チャレンジしてみたい。漠然と「パリコレは37歳までに」と思っていたので、あと2年で達成したいなと。また将来的には、僕が亡くなった後もブランドが“手編みニットの工房”として続いていって欲しいという夢があります。現在、他ブランドから制作の外注も受けるようになっているので、今後は海外にも協業先を広げていきたいですね。
吉田:僕は海外での経験がないので、世界に出ていくことには弱腰でした。でも最近は外国からの連絡がインスタグラムに来たり、2023-24年秋冬からはパリを拠点にするスタイリストのレオポルド・ドゥシェマンと協業を始めたりして、確実に意識はグローバルへ向かっています。ヨーロッパのブランドに憧れて育ったので、早く肩を並べられるようになりたい。国内に留まらずもっと多くの人に好きになってもらえるように、クリエイションを高めていきたいです。
Photography Tameki Oshiro