新たな“ミクスチャー”スタイルで話題のアーティスト、ウー・ルーが語る「スケートやグラフィティ・シーンから受けた多大なる影響」と「コミュティの大切さ」

ウー・ルー(Wu-Lu)
サウス・ロンドンを拠点に活動するヴォーカリスト/マルチ・インストゥルメンタリスト/プロデューサー。ブラック・ミディのドラマーのモーガン・シンプソンが参加した楽曲を含め、これまでリリースしたシングルがいずれも高い評価を受け、すでに世界中のフェスティバルに出演。UKバンド・シーンとも密に交流しながら、独自のスタイルでUKの新たなオルタナティブ・ロックの潮流を巻き起こしつつある。2022年7月にアルバム『LOGGERHEAD』をリリース。
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=12789

ジョー・アーモン・ジョーンズやヌバイア・ガルシアといったジャズ・シーンの気鋭アーティストとの共演を重ねてきたウー・ルー(Wu-Lu)ことマイルス・ロマンス・ホップクラフトの音楽が、彼が子ども時代に熱中したパンクやグランジ・ロック、メタル・ミュージックにルーツを深く根差していること。昨年リリースされたデビュー・アルバム『Loggerhead』は、そんな彼の“ミクスチャー”なスタイルを雄弁に物語るものだったが、そうしたジャンルの横断性や折衷的な感覚とは、ここ数年のロンドンから生まれるサウンドが刺激的でユニークであることの所以でもあるのだろう。

『Loggerhead』にはブラック・ミディやソーリーのメンバーがゲストで参加し、さらに近年は映画音楽の作家としての活躍も目立つミカ・レヴィ(ティルザ、アルカ)の名前もクレジットに見つけることができる。そして、ウー・ルーについて語る上で欠かせないのが、彼のバックグラウンドに寄与したさまざまなアートやカルチャーの影響だ。

中でも、マイルスが10代の頃に多くの時間を過ごした地元ブリクストンのスケート・シーンとグラフィティ・シーンは、あらゆる意味で今の彼の基盤となる部分を形作ったものだった。そこは彼にとって、いわばクリエイティブに生きるための学びと実践の場だった。ものを作ること、人と繋がること、自分らしくあること――そうして彼がストリートで培ったエートス(精神、価値観)は、ウー・ルーとしての活動の指針となったのはもちろん、『Loggerhead』をはじめその音楽にその反映を聴くことができるものに他ならない。そしてそれは、その考え方や生き方において彼が「コミュニティ」の価値を何より大切にしてきたことと大きく関係している。

まだ暑さの残る9月末、急遽出演が決まった「Temple Of Sound」のため来日したウー・ルー。その翌日、取材場所のオフィスにスケートボードを抱えて現れたマイルスは、彼が愛情や情熱を注いできた事柄や人々について教えてくれた。

日本のアニメとの出会い

——今日も(スケボーで)滑ってきたんですか。

ウー・ルー:毎日だよ。もう足がパンパン(笑)。

——「TEMPLE OF SOUND」でのライヴはいかがでしたか。会場がお寺(築地本願寺)ということで、普段とは違った特別な環境だったと思うんですけど。

ウー・ルー:素晴らしかったよ。とてもスピリチュアルな場所で、すごくリラックスできたし。輪になる形で演奏したんだけど、お互いの反応を見ることができてとても良かったよ。

それで何人かのファンが近づいて見にきてくれたんだけど、髪型が(以前の)ロングヘアからショートのブロンドになって、見た目が全く変わっていたから、僕に気付かなかったみたいで(笑)。でも、ショーは最高だったって言ってくれてクールだったね。

最初、自分達が用意していたセットは場所に合わせてリラックスしていてチルったものだったんだけど、自分達の前に出たバンドがとてもラウドで激しくて。だからそれ見て、「OK、最高だ、オレ達もラウドにいこうぜ!」って上げていったんだ(笑)。

­——以前から日本でライヴをすることを熱望されていましたが、日本に対して特別な愛着のようなものがあったのでしょうか。小さい頃には、『ドラゴンボールZ』や『北斗の拳』といった日本のアニメが好きでよく観ていたそうですね。

ウー・ルー:うん、(日本のアニメとの出会いは)大きかったね。小さい頃に初めて観たのは『AKIRA』だった。それと『攻殻機動隊』。でも正直、子どもだったから何を観ているのかよくわからなかった。ただテレビをつけたんだ、真夜中にこっそりとね。ネオ東京は最高にクールで、鉄男はマジでヤバかった。それから、学校で友達が孫悟空を教えてくれてね。

イギリスの子ども向けのテレビチャンネルで『ドラゴンボールZ』をやっていたんだ。それでそれをいつも観るようになって、真似して絵を描き始めたりなんかして、どんどんハマっていったんだ。そして母に「コミックはどこで手に入るの?」って聞いたら、「ナイトクラブにしかないわよ」って言われて。「なんでナイトクラブにしかないんだよ」って思ったんだけど(笑)、そしたら彼女がコミックを買ってきてくれてね。そこからはもう、すっかり夢中になってしまったんだ。ああ、ほんと大好きなんだよ。

——そうした子どもの頃に観た日本のアニメも、今のウー・ルーの音楽の血となり肉となっている?

ウー・ルー:そうだね。『ドラゴンボールZ』には特別な思い入れがあるから。それとあのパワー。「ウォーーー!」っていう(笑)。音楽を作る上で、僕にとってはそれが自分を表現する方法だと感じたんだ。

例えばアニメの中で、普段の彼等はとてもリラックスしていて、誰に対してもとても親切なんだ。でも、いざ戦いになって真剣になる時、彼等は力をためてそれを一気に解放して、パワーアップし始める。それが僕にとっての“音楽”なんだよね。いつもの僕はとてもチルでリラックスしている。でも、いざ演奏となるとエネルギーがあふれてくる。そこは似てるし、影響を受けていると思うよ。

前にロンドンのインタビューでも同じようなことを聞かれたことがあって、その流れで「足に悟空のタトゥーを入れちゃいなよ」ってなってね。で、「ああ、いいかも」ってなって(笑)、そのままインタビュアーの人と一緒にタトゥー・ショップに行って、タトゥーを入れながらインタビューを受けたんだよ。

ブリクストンのグラフィティ・シーン

——日本のアニメもそうですが、ウー・ルーのバックグラウンドにはさまざまなカルチャーの影響やインスピレーションがあると思うんですね。で、その中でも特に、10代の頃に身を置いた地元のグラフィティ・シーンの存在が大きかったと伺っていて。そのあたりの話ってほとんど聞いたことがないので、当時のブリクストンのグラフィティ・シーンについて教えてもらっていいですか。

ウー・ルー:まあ、僕がいたロンドンのグラフィティ・シーンというのはとても親密なものだった。ただ、あまり話してこなかったのは、ご存じの通り、イリーガルでnaughty(=やんちゃ)なものだったからね(笑)。でも、カルチャーとして重要なものだった。

僕の住んでいる地域では、グラフィティ・カルチャーとスケート・カルチャーが融合していて。そこでは、自分らしくいられると感じさせてくれる人達にたくさん出会えた。だからスケートボードをしたり、外に出てペイントしたりすることで、自分と世界の見方が似ている人達を見つけることができたんだ。そこにいる人達は、音楽に限らずクリエイティヴなことをすることに背中を押してくれる人達で、ロンドンのグラフィティのコミュニティでそういう仲間をたくさん見つけたんだ。

今はもう潰れてしまったけど、「HQ」というたまり場みたいなお店があってね。そこにはいつも、あらゆる年齢、世代の人達がいて、彼等は自分のスタイルを貫くことを後押ししてくれた。その影響はとてつもなく大きくて、たとえ自分が下手くそだったとしても「このままでいいよ、自分が描きたいように描け」って、自分らしくいることを許してくれていた。つまり、僕にとってのグラフィティ・シーンとは「コミュニティ」のことだと思う。

その中で出会った人達のおかげで今の自分がある。他の誰の目も気にせず、あるがままの自分でいることを許してくれた。そこではつまり、自分はどう考えるか、ってことが何より重要だったんだ。今は家で絵を描くことが多いんだけど、兄弟もたくさんいるから、彼等をコミュニティの中に連れて行くようにしているんだ。彼等も自分らしくいられるようにね。

——ええ。

ウー・ルー:歳を取るにつれて、今では外で絵を描くことは少なくなったけど、でもグラフィティのコミュニティの友達は逆に増えたんだよ。で、彼等と話して気付いたのは、(当時グラフィティを)やっていた人達はみんな個人的にやっていたということだった。考えてみたら自分も、コミュニティがあって周りに友達はいたけど、だからってつるんでやっていたわけではなくて、1人で描いていたなって。グラフィティが自分に教えてくれたのは、学校が一番大事なんじゃないってことだった。学校に行かなくても人はクリエイティヴに生きていくことができるし、クリエイティヴに生きていくことが何より大事なんだって。それがグラフィティから学んだ最も重要なことだったね。

——グラフィティというと一般的にヒップホップのイメージが強いと思いますが、ブリクストンのグラフィティ・シーンでは音楽との関わりはどのようなものだったのでしょうか。

ウー・ルー:やっぱりヒップホップが多かったね。当然スクラッチも多かった。ただ、Bボーイだけのものじゃなかった。ヒップホップはアメリカにとってのグラフィティで、ロンドンのグラフィティはドラムンベースだった。それもハードコアで筋金入りの、ロンドン特有のね。アメリカは超ヒップホップな感じだったけど、ロンドンのグラフィティはステラ・ビールを飲みながら「ラコステ」や「ラルフローレン」を着てやるって感じで、とても“laddie(少年っぽい)”なスタイルだった。だからジャングルとかドラムンベースとか、あとグランジみたいな感じの音楽が多かったかな、自分がいちばん(グラフィティを)やっていた頃は。

でも今は、高価な服を着ている子が多いね。自分が若かった頃は、「フィラ」とか「キッカーズ」を履いて、もっとイギリスっぽい空気感がベースにあった。だからヒップホップっぽくはなかった。ヒップホップがグラフィティ・カルチャーとすごく直結していたのは1990年代の前半の頃で、自分はその頃はまだちっちゃかったんだよね。で、そこからヒップホップとグラフィティは別れていった。だからヒップホップと近かったのは自分達よりも少し上の世代の人達で、それより下の自分達の世代は、新しいタイプのヒップホップというか、ワカ・フロッカ・フレイムとかニュー・トラック系をよく聴いていた。あと、今だったらポップ・カルチャーの影響も大きいしね。

スケート・パークのコミュニティ

——その中でも、当時のマイルスさんのサウンドトラック、個人的によく聴いていたものはなんでしたか。

ウー・ルー:僕にとってはDJシャドウだね。それとスリップノット。全く別物だけどね(笑)。あと『Scratch』という映画も大きかった。あれがすべてだったね。マッドリブ、DJシャドー、カット・ケミスト――1990年代後半のヒップホップみたいな感じ。そしてもう一方では、スマッシング・パンプキンズやスリップノット、ブリンク182、オフスプリングとか、まったく違うものを聴いていた。

というのも、僕の父と母は音楽とダンスの人とでね。いつもレコードを僕にくれたんだ。12歳か13歳の頃だったかな、父がロニ・サイズ・レプラゼントのレコードを買ってきてくれたのを覚えているよ。あれが僕の中でモードが変わるきっかけだった。だって、それまではMCハマーとかウィル・スミスを聴いていたんだから(笑)。それからはロニ・サイズにどっぷりだった。

というのも、ある時、学校の友達に「どんな音楽聴いているの?」って聞かれてね。で、その時「よくわかんない」って答えたんだ。そしたら友達に「ドラムンベースとガラージが好きだって言わなきゃダメだ」って言われて。それで「OK、わかった」って感じで、父に「ドラムンベースとガレージが好きなんだけど……」って話したんだ。自分でも自分が何を言っているのかよくわかってなかったんだよね、その時は(笑)。それで父がロニ・サイズのレコードを誕生日に買ってくれて、聴いたら「ワオー、最高!」って。それまではオフスプリングやブリンク182からDJシャドウまでなんでも聴いていたんだよ。プロ・スケーターのトニー・ホークのゲーム(『トニー・ホークス プロスケーター2』)のサントラに入っていたというのもあってね。

——今オフスプリングやブリンク182の名前も出ましたけど、グラフィティ・カルチャーと同じく、当時ブリクストンのスケートパークで出会ったパンクスの存在もマイルスさんにとっては大きかったと聞きました。それはどんな人達で、そこはどんなコミュニティだったのでしょうか。

ウー・ルー:それは今もあって、ブリクストンにあるストックウェル・スケート・パークで、“ビーチ”と呼ばれている場所なんだけどね。そこのコミュニティは、僕と同年代の人達や、もっと年上の人達ばかりで。そこに昔、ジェームスと呼ばれるスケート・レーベルをパークで始めた男と、BMXをやっていたピーター・パイロットという男がいて。で、その人達がスケートパークを仕切ってたんだ。怒らせたり機嫌が悪かったりするとヤバいなって感じでさ(笑)。でも、彼等はパークにおける年長者のような存在で、お金を出して木材を調達したり、設備に投資したりして実際にパークを作り上げていった人達だった。そしてそこは、ある種の“安全”が保たれていた場所で、子ども達全員にほんの少しだけ生きることを許してくれた場所だった。彼等は僕達に“指針”を示してくれたんだ。だから、学校に行かないような子達もそこには行くって感じで。

彼等はパークが、年上の世代の人達が若い人達に“現実”を教える場所となることに貢献していたんだと思う。それがあの場所の、ある種のエートスのようなものだった。そして彼等は歳を取り、子どもを持つようになるとそこを離れていった。でも、今度はその下の世代が年長者となり、同じことを繰り返すようになった。

——エートスが受け継がれていった、と。

ウー・ルー:そう。ダフネという友達がいて、今はパークの隣で「Baddest」というスケート・ショップを経営しているんだけど、彼女はギリシャ出身なんだ。彼女はスケートのやり方も知らずにロンドンに来て、ただパークにたむろして、コミュニティの人達に教えてもらいながらスケートを始めたんだ。そして、その中で彼女はパークというものが何なのかを理解していった。それから彼女はお金を得て、スケート・ショップを開きたいと思うようになり、今では若い子達みんなを助ける年長者になって、女の子達がスケートができるようなとても大きなコミュニティを作っている。だからパーク全体が、人生の教訓をリサイクルしているような場所なんだ。

自分がパークにいた頃、自分の半分くらいの身長しかない子がいて。たぶん今は刑務所に入っちゃってると思うんだけど、彼は家で問題を抱えていて、でも彼はいつもパークに来て、みんなにお金をもらったり家に泊めてもらったりしていた。もしあの場所がなかったら、彼は死んでしまっていたと思う。だから、学びの場というのはとても重要なんだ。

街の変化

——そうしたグラフィティやスケートの「コミュニティ」に関わる話だと思いますが、デビュー・アルバムの『Loggerhead』に収録された「South」ではジェントリフィケーションについて歌われていますよね。最近のイギリスの若いアーティストに話を聞くとその話題になることが多いのですが、実際、今のブリクストンはどのような状況なのでしょうか。

ウー・ルー:ブリクストンは確かに変わってしまった。特にこの10年で随分とね。今はそれがあるべき姿だと受け入れられている部分もあるけど、ただ、変化に対する最初のショックは大きかったと思う。今はもう何もかもが高いんだ。もうそこで暮らせる余裕はない。ロンドン全体で今何が起こっているかというと、それはどんどんお金が集まっているということ。インフレが起きれば物価は高くなる。下がることはなくただ高くなり続け、それを買う余裕のある人達がその地域に入ってきて、その地域がそのような人達のコミュニティを養っていく。でも一番大事なことは、ブリクストンらしさを失わないことだと思う。

あの曲は、変化していく物事に対して自分を変えることができないもどかしさを歌った曲なんだ。でも、クリエイティヴなコミュニティがあり、そこに長く住み続けているような人達は、何がブリクストンを作っているのかよく理解していると思う。そしてそれを守ろうとする人々がまだそこにいる限り、その地域にはまだ希望があるし、ロンドン全体にもまだ希望があると思う。

——ええ。

ウー・ルー:僕がサウス・ロンドンの話をしているのは、そこが自分の出身地だから。でも本当のところ、僕が話しているのは今の世界についてなんだ。東京で暮らしている人達にとってもそうだと思う。観光客も今みたいにこんなに多くなかっただろうし、政府がバンバンお金を使うようなこともなかったと思う。

でも、この地域を作り上げている人達がこの地域に注ぎ込むエネルギーを持っている限り、まだ希望はあるんじゃないかな。すべてはコミュニティ次第だと思うから。そして、物事を良くするのはコミュニティ自身なんだよ。

一方で、自分が知っているブリクストンというのも、その前のブリクストン、さらにその前のブリクストンとは違うということも忘れてはいけないと思う。僕の両親が住む前からそこに住んでいる人々にとっては、もっと変わってしまったと感じているだろうから。だから、あるレベルでは変化を受け入れなければならないと思うけど、それでも自分達が何者であるかということは決して忘れてはいけないんだよ。

——それこそ、監視カメラをかいくぐってペイントする場所を探したり、管理と排除が行き届いた街並みの中にスポットを見出したりするグラフィティやスケートのあり方というのは、それ自体がジェントリフィケーションに抵抗するための手段というか、そうしたエートスを大いに帯びたものであると思います。

ウー・ルー:そうだね。自分と同じことを信じ、同じことを感じている人達がいる限り、自分のコミュニティは見つかると思う。僕が後になってわかったことの1つは、僕の住んでいる地域でフライング・ロータスやヒップホップ、それとグランジ・ミュージックにハマっていたのは僕だけだったということだった。当時、僕と似たような人はあまりいなかったんだ。

その後、友人のリースと知り合った。ある時、スタジオで彼にばったり会って、そしたら彼も同じような話をしてくれてね。で、実は彼はたまたま僕の家の近くに住んでいたと聞いて、彼に言ったんだ。「あなた僕の人生のどこにいたの?」って(笑)。でもその時、自分がどこにいるかよりも、自分が属しているコミュニティが大事なんだと思い知らされたんだ。だからもし、誰か友達の家に行って、そこにみんなが夢中になるものがあれば、それも立派な1つの「コミュニティ」であり、そこから発展して何かを築き上げていくことができるんだ。そして、そこから周りの人達へと輪を広げることもできる。そういうことだと思う。

両親からの影響

——そうしたコミュニティやストリートから受けた影響は、マイルスさんのライフスタイルはもちろん、今の音楽作りにも反映されていると言えますか。

ウー・ルー:そうだな……それを言うなら、僕が影響を受けたのは主に両親からだったと思う。父は僕をツアーに連れて行ってくれたし、父はトランペットを吹いていて……名前はマイルス・デイヴィスから取られたものだしね。僕の父と母は「冒険に出ろ」っていつも励ましてくれた。そのおかげで僕は自分らしくいられるようになったし、その過程で仲間やさっき言ったようなコミュニティを見つけることができた。“何にも縛られない”という意味ではそれが一番大きな影響だったと思う。僕を決まり切った道に進ませないという。

例えば、10代の頃に出会った友人達の何人かはこう言うんだ、「君のような人に会えて本当に嬉しいよ」って。なぜなら、セネガルやガーナから来た人の両親は子どもに「医者になりなさい、弁護士になりなさい」と言うんだ。それは彼等の本心じゃない。でも僕の場合、両親は「自分らしく生きなさい」という感じだった。だから僕は幼い頃から「自分は何者なのか?」ということを考えていた感じだった。それで自分のコミュニティを見つけることができたんだ。もしそれがなかったら、僕をインスパイアしてくれる人を見つけるのにもっと時間がかかったと思うよ。

——グラフィティをやっていた頃は「naughty」だったと話していましたが、振り返ってみるとやはり、当時は危なっかしい生き方していたな、という感じですか。

ウー・ルー:そうだね(笑)。ある時、友人と線路沿いをぶらぶら歩いていたら——バカみたいな話なんだけど、そしたら突然、電車がものすごいスピードで真横を通り過ぎて行ってさ。マジでヤバいって思ったし、それからもうあまりこういうことはしないほうがいいのかなって思ってね。

——その頃の生活をあのまま続けていたらヤバかったと思う?

ウー・ルー:ああ、そうだね。アメリカに行ってみたいという思いもあったし、他のこともやってみたかったし、何より制限されたくなかった。もちろん、グラフィティは好きだし、そうした行為や芸術的な面も好き。僕は今でも家で絵を描いたり、何かをデザインしたり、それに頭の中でビートを作ったりするクリエイティヴなプロセスが好きなんだ。でも、僕の友人の何人かは、コミュニティでいうところの「lifer(無期刑受刑者)」みたいな感じなんだ。自殺しようが、逮捕されようが、友達が死のうが、何が起ころうが、彼等はそれを続けるっていう。でも僕自身は、コミュニティにおいてそうはなりたくなかった。グラフィティのコミュニティには、本当に、本当にすべてを捧げている人達が大勢いるんだ——シリアスになりすぎるほどにね。

僕はグラフィティのカルチャーが好きだ。ものを作るプロセスが好きだし、そこにある規律(discipline)が好きなんだ。でも僕は、それを他のことにも生かしたい、という感じだった。歳を取ると、友達とかがアルコール依存症になったり、そういうものに支配されてしまったりする。そして僕は、朝4時に起きて祈りに行くことよりも、自分の音楽活動に集中することが必要だと思ったんだ。それが(「naughty」な生活から足を洗う)主な理由だった。クリエイティヴであるためには、ゆとりや、自分だけの居場所が必要だと思う。そう、だからこれが今の自分のやり方なんだと思う。

——最後に、『Loggerhead』に参加したギタリストのマット・ケルヴィンについて教えてください。彼は突然ブラック・ミディを辞めることになってしまい、動向を心配していたファンも多いと思うので。

ウー・ルー:マットは素晴らしいよ。クレイジーな男だ。僕達は音楽が大好きだよね? 彼も音楽を愛している。でも、彼は音楽を“感じる”んだ。肉体的に音楽を感じるようにね。彼はすべての音を知っているミュージシャンではない。でも、彼はすべての音を“感じている”。彼はたった1つの音を弾くこともできるし、その裏側にある情熱を表現することもできるんだ。いや、マジで素晴らしいよ。

アルバムのレコーディングは、ノルウェーのとある隠れ家的なスタジオで行われたんだけど、その頃、マットはバンド(ブラック・ミディ)を脱退することになっていたんだ。それで、「なあ弟、ノルウェーに出てきて、俺達と一緒にチルしよう」って言ったんだ。彼は僕より年下だからね。だからそれは、ある種の喪失から生まれた“コミュニティ”のようなものだった。「俺はお前より年上だ。“兄弟”を失ったお前にとって、俺は兄貴になることができる。だから何も考えずにただ来て、ぶらぶらしよう」って。それで彼に心の底からリラックスして、安心な気持ちになってもらいたかった。そして、そうすることで彼は僕達の間に愛を見つけたんだ。

彼は本当にコミュニティのために努力している人だと思う。でも、彼はあくまでも“アーティスト”なんだ。今、彼は1人で新しいものを作っているんだ。ほんとすごいよ。彼にとって音楽を作ることは、とても深くて重要なことなんだ。マットが曲を作る時って、自分のすべてがそこにあるような感じなんだ。そこはみんなが覚えておく重要な部分だと思う。それに、ソーシャルメディアは万人のためのものではない。マットのように音楽を感じたいのであれば、ソーシャルメディアは必要ないし、だからみんな彼のことを心配する必要はない。

(マットが)SNSをやっていないということは、つまり彼は自分のやるべきことをしているということ。そして、彼は正しい理由のためにそれをやっている。有名になるためじゃない。彼は人の顔色をうかがって何かをやるような人ではない。彼はただ自分の心のためにやっている。それが彼のやり方なんだ。彼の新しい音楽は素晴らしいものになるだろうね。

Photography Kosuke Matsuki

author:

天井潤之介

ライター。雑誌やウェブで音楽にまつわる文章を書いています。 Twitter:@junnosukeamai

この記事を共有