進化するミュージシャン、中村卓也 革新的な姿勢が生み出したコズミック・ワールド

中村卓也(Space Tak)
1966年生まれ。作曲家、ピアノ、トランペット奏者。国立音楽大学作曲科を卒業後、ボストンのニューイングランド音楽大学院へ留学。大学院在籍中よりジョージラッセルのバンドに参加。1994年からニューヨークに拠点を移し、さまざまなシーンにて活動開始。これまでにジョジョ・メイアー、オーガニック・グルーヴス、ココロージー、ブルックリン・ジプシーズ、マリアンヌなどのバンドにて活動してきた他、リー・スクラッチ・ペリー、アート・リンゼイ、ロバート・ウィルソン、エイサップ・ロッキーなど多様なアーティストの活動に参加。またクインシー・ジョーンズ、ビリー・ホリデイのリミックスを担当。パンデミックの最中は「Temple Nopgue」と題し八王子の法然寺や長野のスタジオよりさまざまなアーティストを招き実験的なライヴを配信。2023年は「The Lot Radio」での配信が100万回再生を超え話題を呼ぶ。現在はブルックリンを拠点に国内外にて活躍中。
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Instagram:@space_tak

ニューヨーク・ブルックリンを拠点にローカルのアヴァンギャルドな音楽シーンにて、幅広い活動を繰り広げるミュージシャン、中村卓也。日本バブル末期の1990年に渡米。ボストンのニューイングランド音楽院にてジョージ・ラッセルの教えの下にリディアン・クロマティック・コンセプトを学び、1994年にニューヨークへ活動の拠点を移して以来、トランペッター、ピアニストとして、アンダーグラウンドからメジャーまで幅広い音楽アーティスト達とステージを共にし、約40年以上、常に革新的な音楽活動を続けている生粋のミュージシャンだ。

コズミック(宇宙)をテーマに、楽器と音楽機材を駆使しソロでライヴ/DJを決行。ジャズ、ドラム&ベース、エレクトロ、ジュークなどジャンル問わずの選曲に、オリジナルのビートと演奏を重ねたインプロ的な独自スタイルが注目され、昨年は世界的に人気のブルックリン発のネットラジオ「The Lot Radio」でのDJプレイが100万回再生(スーパーバイラル)されるという快挙を遂げ、本人も驚きの“卓也の時代”が来ていることを感じて止まない。

これは個人的な印象だけど、初めて卓也さんの演奏を聴いた時、自分が思うニューヨークの空気を纏った音色だなと感じた。アーバンでモダン、品とストリートが交差した感じ。「俺はジャズ・ドロップアウト」と卓也さんは言うけど、自ら選んだ他とは異なる道と体験してきた環境が、孤高のスタイルを生み出したのだと感じて止まない。そして時代が今、卓也さんを捉え始めているのではないだろうか……よって気になるのは「一体、中村卓也というミュージシャンはどんな人物なのか」。

ジョージ・ラッセルの教えを受け、人生を謳歌するために1990年にボストンへ

——トランペットは父親が買ってきたから始めたそうですね。

中村卓也(以下、中村):父が音大の先生をしていた関係で、子どもの頃から楽器が家にあって、ピアノは仕事道具なので当然なんだけど、大学附属の楽器屋さんから型落ちしたエレクトーンやベース、スチューデントモデルの管楽器とかがうちに流れ着いてきたり。その頃のテレビのテーマソングとかに当時はインストポップとかもあって、トランペットの曲がよくあったから父にトランペットがやりたいとか言ったのかもしれない。それから父がいい感じのトランペットを買ってきてくれて、そこから父の生徒でもあった方にトランペットを教わる、というか遊んでもらう感じで始まりました。

——1990年に渡米されましたが、ジョージ・ラッセルが講師を務めていたニューイングランド音楽大学院へ行こうと思ったきっかけはなんだったのですか?

中村:ジョージ・ラッセルの音楽はすでに少しずつ聴いていたから、日本へ来日した時にコンサートに行ったんだけど、そこで衝撃を受けて。今まで教わってきたクラシックの理論では説明がなかなかつかないことが、彼の言う「リディアンスケール」を中心にした考え方ですっきりとわかるらしい、ということで興味を持っていたんだよね。その頃は国立音大に行って作曲を勉強するフリをしてジャズをやっていたんだけど、学校を卒業する頃に校内に「ニューイングランド音楽院生徒募集中」と書いた張り紙が偶然貼ってあって、彼がそこで教えていることはレコードのジャケットとかを見て知っていたし、日本でジャズをやるのもなんかよくわからなかったから、オーディションに行き、そのまま1990年にボストンに行くことになったんだよね。学校では他に、ポール・ブレイとかデイブ・ホーランド、ジュリ・アレンなど最先端の人達が教えていた。

——流れの中で行くことを決めたんですね。

中村:行くチャンスができたから何も考えないで行ってしまおうってことで、そのまま決めて行ってしまったんだよね。日本でアメリカのコピーをしてジャズやるより、どうせだったら実際に何が起こっているか見たかったというのもありました。

——ボストンでの大学院生活はどうでしたか?

中村:大学院だったから、自分で勉強しろっていう感じで。最初は英語もわからないまま、とりあえず入れたから行くという感じで。でも演奏をして仲間もできて、その中でなんとなく英語を覚えていくことができたし、アメリカに行くということ以前にジョージ・ラッセルを始め、今考えればすごいなと思えるいろいろなマスター達から学べるということしか考えていませんでしたね。だって彼のおかげでマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンとかの演奏が変わってしまったっていう人だし、これはぜひとも学びたいと思ったから。

——ジョージ・ラッセルからどんなことを教わったんですか?

中村:彼は1950年代にニューヨークジャズが革新している時期に、「シンプルなコード進行から複雑なものまで、現代の音楽に対応した新しいハーモニーをもっと自由にシンプルにインプロヴァイズ(即興演奏)できるように考えられた・発見された新しいコンセプト」をひらめいて、当時のニューヨークの仲間とともに研究をして広めた人で、アメリカの音楽をだいぶ変えてしまったような人です。

もともと自身もドラマーとして活躍していたんだけど、友達のマックス・ローチがすごすぎて作曲家に転身したらしい。マイルス・デイヴィスはジョージ・ラッセルの影響で「So What」のようなシンプルなグルーヴとコードの上で、いろんなスケールを使ってカラーを変えるようなやり方のモードジャズを演奏して、同じく影響を受けたジョン・コルトレーンは「Giant Steps」という曲を書いてさらに自由になって行ったんだと思う。

理論だけど感覚や自然の法則に根差しているんで、例えば昔のヒップホップの人達なんかは、サンプリングをして何か面白いものを作っちゃったけど、それもみんな感覚でいいサウンドかどうかってだけでやっているわけで。だから彼からは音楽を全体的に感じながら、その瞬間と共にいるということを学んだと思う。

ニューヨークで活動し、何かが生まれる瞬間の一員になる

——クラブ系の音に興味を持ったのはいつ頃ですか?

中村:1990年にボストンに行った時はまだ学生だったんだけど、先生でもあったボブ・モーゼスというドラマーのバンドに入って活動していたんだよね。その頃ボストンに「ウェスターン・フロント」ってすごく面白いクラブがあったんだけど、そこの2Fでレギュラーでサウンドシステムを出していて、バンドのショーの休憩の合間に見に行ったらどうもレゲエじゃないっていう……やたらとベースがでかいし、ビートは速いし、これは俺が若い頃に聴いていたレゲエとは違うなと。それが最初のジャングル体験なんだけど、「これはなんなんだ!」と思ってやられました。

——1990年代前半にニューヨークへ引っ越してからは、どんな音楽体験をしていたんですか?

中村:まあ、ジャズをやろうと思ってニューヨークに行ったんだけど、ちょうど1980年代後半頃からネオクラシックなジャズが、「これからはこれだ!」みたいにレコード会社の売り方で主流みたいなことになっていて、だけど俺はジョージ・ラッセルやサン・ラーとか、本当にアメリカのカルチャーに根差してジャズを革新してきた本物に接してしまったので、その方向に「それはないだろう」と感じてしまっていて。ちょうどその頃にニューヨークでやっていた「ジャイアント・ステップス(Giant Steps)」っていうパーティとか、そういったクラブへ行くようになったら、そこでのバイブスも良くて新しい何かをみんなで作っている感じだったから、こっちのほうが自分に合っているなと肌で感じたんだよね。トランペットでジャズを吹くのは基本的にどこでも一緒だけど、ビートはもっと新鮮だし、横のつながりも強い世界で、そっちのほうが自分を受け入れてくれたんだよね。

それからしばらくして、ジャミロクワイとかいろいろなアーティスト達のジャングル・リミックスが好きになって、「ボストンのサウンドシステムで聴いたあの音に似ているな」と。ちょうどその頃、ニューヨークでバンドを始めて「バー・ボブ(Bar Bob)」という、アシッドジャズやジャングル混ざったようなウィークリー・パーティにバンドで参加したら、人がたくさん来るようになって、バンドもどんどん人気が出てきたから、「こういうふうにジャズは進化していくんだな」「これは最高だ!」って。せっかくアメリカに来てニューヨークにいるんだし、そこで何かが生まれる瞬間の一員になりたいというか、そこからずっと今まできている感じです。

——「ジャイアント・ステップス」は1991年からニューヨークで始まった、アシッドジャズやクラブジャズを取り入れた、当時は新しいスタイルのパーティだったと思います。DJプレイやライヴもあって、人種もさまざま、そこにジャズを感じたんですね。

中村:その頃はエレクトロニックなジャズ・フュージョンとかもあったけど、あれはレコード会社、いわゆるコーポレート系で権威があってとかそういう世界だったから、ジャズフィールドも一時期は売れなくなって新しい売れ方はないのかって、そこに父親からビバップを教えてもらったような才能のある若手の黒人の人達が入り込むフィールドがあったんだよね。実際に90年代に「バー・ボブ」でやっていたパーティには、お客さんも来てエキサイトしていたし、何をやってもいいじゃないけど自分もその中にいるっていう感覚があった。

——90年代前半のダウンタウン・ニューヨークで起きていた音楽シーンの中に卓也さんはいらっしゃったんですね。

中村:そうだね。ジャズ・ミュージシャンだけど、ジャングルをやったおかげでニューヨークで認知度が広がったからね。「プロフィビット・ビーツ(Prohibited Beatz)」というパーティを1996年にマンハッタンのチェルシーにあった「シャイン」というクラブで毎週火曜日にやるようになって、3ヵ月くらいで「ニューヨークタイムズ」に紹介されて人がいっぱい来たりね。

その頃、俺はドラマーのジョジョ・メイアー(Jojo Mayer)という人がやっていたドラム&ベースの走りのバンド、ナーヴ(Nerve)にトランペットとキーボードで参加していたんだけど、自分のスタイルを探していた頃にそのバンドに入れたのはラッキーだった。「プロフィビット・ビーツ」は、そのジョジョ・メイアーが仕切って3~4年くらいやってたんだけど、ゲストでブレークビーツ・サイエンスなんかをDJで呼んだり、ズールー・ネイション(Zulu Nation)のT.Cイスラム(T.C. Isram)がMCチームで入ったり、サンフランシスコのレーベル「NAKED MUSIC」のアーティストでもあるリサ・ショー(Lisa Shaw)もいたり、10人ぐらいの大所帯のクルーでやっていたんだよね。そのパーティがきっかけで俺はアート・リンゼイに誘われて一時期キーボードで数年参加したりしていたこともあった。だけど自分のプロジェクトやナーヴも同時進行でやっていたから、自分のやっていることに戻ってきた頃には、ニューヨークでドラム&ベースが少し下火になっていたんだんだよね。それが90年代後半から2000年くらいの話。

ブルックリンのローカルコミュニティに音楽活動の根を張る

——2000年代はどのような活動をされていたのですか?

中村:ナーヴでは西ヨーロッパだけでなく、ポーランドをはじめ東ヨーロッパを回ったり、その頃の東ヨーロッパはソビエト連邦が崩壊した後で少し暗かったんだけどジャングルとかも流行っていて、ドラム&ベースが東ヨーロッパにも伝わっていることを生で体験したりした。それと並行してオーガニック・グルーヴス(Organic Grooves)って「CODEK RECORDS」というグループにも誘われて、オーガニック・グルーヴスはすごく人気だったからそこで頑張ったんだけど、911(アメリカ同時多発テロ事件)でダメージを受けてしまいパーティをやりにくくなってしまったんだよね。その頃、俺はブルックリンのウィリアムズバーグに住んでいたから、その周辺で演るようになってだけどだんだんと自分の中でダンスミュージックが厳しくなってきたというか、少し飽きてしまった時期でもあった。

——2000年代前半のウィリアムズバーグはまだこれからという感じで、新しいことが始まった時期なのではないでしょうか?

中村:そうそう。2000年くらいのウィリアムズバーグはイーストリバー沿いにあったシッピングドックがなくなって、人が住んでいなかったところに人が引っ越してきたような時期だったから、川沿いが少しずつ盛り上がり始めていた頃だった。「ドムジーズ」があって、その近くにタイレストランがあって、ケント・アヴェニューではジャングルのパーティもやっていたからよく行ってたし、後に俺も活動や運営に携わるようになった「スタジオBPM」という日本人がやっていたステージのあるスタジオもあったり。

そこからウィリアムズバーグはバンドブームになっていって、アニマル・コレクティブ、TV オン・ザ・レディオとか、俺が参加することになったココロージーもそうだったし、いろいろなバンドが出てきてみんな面白いことをやっていた時期だった。その頃のナーヴはドラム&ベースだけでなくダブステップも取り入れてツアーを始めていたんだけど、自分はダブステップには惹かれなくて、だんだんと離れてウィリアムズバーグのバンドのほうへ。クリエイティブなブルックリンがすごく面白くなっていた頃だったから、自分もマリアンヌというスペースロックなバンドを日本人3人と始めたりもして、ココロージーはそこから2019年ぐらいまで頻繁に彼女達のツアーに参加するようになった。

——ココロージーはどのようなバンドなのですか?

中村:姉妹2人組のユニットで、姉のシエラはクラシックをやっていてハープを弾いたり、きちんとオペラも歌える人で、妹のビアンカはポエトリーやおもちゃのサンプラーを演奏したりしてビョークみたいな感じ。俺はリー・スクラッチ・ペリーのバンドにも参加していたココロージーのベースに誘われて、ビアンカの(ソロの)ライヴに参加したのがきっかけで急遽ココロージーのツアーにも参加することになったんだよね。そこではアート系やLGBTの人達と出会って自分にとって新しい流れになっていたんだけど、2016年くらいからツアーが一段落してここから先何をやるか考えていた頃、2017年に「The Lot Radio」に呼ばれたんですよ。

100万回再生された「The Lot Radio」でのDJプレイ

——「The Lot Radio」はDJプレイが主体のネットラジオですが、最初はどのようなスタイルで参加しようと思ったのですか?

中村:フリージャズからテクノまですべてという感じで、そのスタイルを自分では「コズミック」と呼んでいるんだけど、コズミックというのは何でもミックスありという意味なんだよね。そもそもヨーロッパで1980年代とかに森の中でマッシュルームを食って、アフリカン・バンバータみたいに何でもかける「コズミック」なスタイルを楽しむムーヴメントがあったの。50歳前後のヨーロッパの人ならわかると思うんだけど、アメリカにはあまりないジャンルで「何でも」っていう意味で使っているんだけどね。

その感じでDJに関してはなんでも混ぜるというか、レコードはそんなに持っていないけど、DJを始める前は「CODEK RECORDS」に参加していたから、そのレコードがいっぱいあったのと、ココロージーやオーガニック・グルーヴスとかのツアーに出かけていた頃に昔のテクノのレコードが安い時期だったから、まとめて買っていたの。そのレコードに俺がサン・ラーとかそういう音楽をたくさん知っていたからフリージャズを混ぜてDJをやって、ちょうどニューヨークのサウンドエンジニアのヒデ君からOP-1(Teenage Engineering)を紹介してもらって使い始めていたから、当然だけどトランペットも入れてやるようになっていて。2017年にココロージーのツアーが落ち着いて終わってしばらくした頃に「The Lot Radio」に誘われて参加し始めたんだけど、ちょうど他のDJ系のインターネットラジオが急にいくつか盛り上がり始めた頃だったのもあって、自宅で働く人達や職場なんかで聴いてくれたりしていたんだろうね。そしたら2023年1月に「The Lot Radio」でやったプレイが自分でも驚くくらいバズっちゃって……。

——現在、100万回再生を超えていますよね! 卓也さん自身ここまでハズった理由はなんだと思いますか?

中村:カリブル(Calibre)っていうリキッド・ドラム&ベースの巨匠のレコードが近所のレコード屋で安くなっていて、懐かしいなと思って買って持っていたから、あの日はそのレコードのドラム&ベースの上にトランペットを混ぜて自分なりにプレイしたんだけど、そこで何が起こったかというと、「Wobbly Wobbly」という、イギリスの20代のドラムンベースのクルーがいて、彼等が俺がカリブルをかけながらトランペットを吹いている「The Lot Radio」のYouTube映像をを彼らのTikTokに上げたの。それが若い世代のドラム&ベース好きに引っかかってどんどん拡散されていって、それで1週間ぐらい経ってから「お前のプレイ“スーパーバイラル(Superviral)”だよ」って。「スーパーバイラル」なんて言葉はその時に初めて知ったんだけど、SNSでどんどん広がっていった感じだよね。

——何十年もの音楽に対する経験が詰まった内容のことをDJでやってのけてしまうプレイは若者達にとっては、確実にクールに映ったと思います。

中村:ズルいよね、あのスタイルは(笑)。だけどまだ日本ではあのスタイルを理解してもらえてはいないし、でもインターネットの世界でここまでいけたからもう大丈夫だとも思ってる。20代にウケればいいの。本当はもっと認知度を上げるためにも、バイオグラフィーにクインシー・ジョーンズのリミックスやっていました、とかそういうのを書いたほうがわかりやすのかなとか思う時もあるけど、やっぱり(東京の)国立市出身だからどこか俺はのんびりしてるんだよ(笑)。

若手達とともにパーティを開催

——DJは誰かに教わったりしたのですか?

中村:ニューヨークにWFMUというオールドスクールなラジオ局があるんだけど、そこにスモール・チェンジ(Small Change)という友達のDJがいて、彼がDJをするならとある程度の基本をほとんどくれたころがあったんだよね。ドラム&ベースはなかったけど、そこからジュークやジャンプスタイル、面白いテクノとかがわかってきた感じ。

——ハウスよりもテクノ寄りな感じのほうが好きなんですね。

中村:ハウスはあまり興味がない。自分がジャズ・ミュージシャンだから感じるのか、ハウスってそのジャズからすると一番わかりやすいコードチェンジを使ってジャズっぽくしてそこに歌を乗せるとか、それに自分は引っかからないというか。それに俺の場合はニューヨークにいても、ニューヨークで流行っていたハウスミュージックとは違うところでやっていたのもあるしね。

——ソロのライヴを行う時に使用しているビートはすべてオリジナルなのですか?

中村:ソロのライヴの時はすべてオリジナル。最近はシカゴジュークやフットワークなんかももっと多めにしてもいいかなって思ってる。今、俺とブルックリンでパーティをやっているDJのラムジー(RMZ)はメンフィス出身で、メンフィスラップのラジオ番組でもDJをしていてジュークが好きなんだよね。自分も好きでDJラシャド(DJ Rashad)やRP・ブー(RP Boo)なんかを聴いていたんだけど、ニューヨークにもそれが好きな若い人達がいることを知って「最高!」って思っていたら、パンデミックが終わった頃にラムジー、クッシュ・ジョーンズ、ナイジェルなんかとつながり始めて、今は少しずつ一緒にやるようになっている。

「止むを得ない状況に、俺達が合わせた」ことから生まれた新しい流れ

——トランペットやピアノの音色はアーバンなのに、ビートからはストリート、生きてきた道が音楽に現れているというか、他にはない驕らないリアルなスタイルに人々は気づいてしまったのではないでしょうか。

中村:最初はアメリカに来てジョージ・ラッセルに「リディアン・クロマティック・コンセプト」を元に、ハーモニーがどうなっているのか、音のつながりって何なのか、バイブレーションというのは何なのかを教わってさ。そもそもソニー・ロリンズというジャズのサックス演奏者が、日本のFMラジオでスティーヴィー・ワンダーの「Isn’t She Lovely」を紹介して、それにバチ!ときちゃったわけで、ソニー・ロリンズはジャズだけにとらわれないでやっている人で、それがすごいなと思っていたから。同時に自分はYMOやクラフトワークで育っている世代だから、ジャズ以外にもテクノもあればニューウェイヴもヒップホップも周りにあったから。だからレコード会社が「ジャズはクラシカルな方向で生き延びるしかない」と言い出した時、自分はそこに入る隙はないなと思ったんだよね。人種差別のある世界に行っても仕方がないし、だから「ジャイアント・ステップス」にも行ったんだと思うし。それでそこにサンプリングミュージックがあってアシッドジャズもいいなと思ったけど、だけどあの時(90年代前半)はジャングルが格好いいなと思って、そうしたら自分の周りにいるジャズの人でも同じようなことを感じている仲間がいたんだよ。

——そこからさまざまなバンドでのプレイ経験を経て、今のスタイルができあがったと。

中村:ニューヨークのクラブやライヴハウスは機材がそんなに良くないから、自分でスピーカーを持っていかないと自分の好きな音が出せないこともあるし、今は機材も進んできているから、お金かからないからバンドを組まずに1人でやる方向もあるわけ。ジャズの場合、ビッグバンドからあふれた人達がアフターワーズで少ない人数で演り始めて、それを日本から見たら大天才が現れたみたいな感じに捉えられているけど、どちらかというと止むを得ない状況に俺達が合わせたというか、実はたまたまこれをやってみたら良かった、みたいなことがほとんどなんだよ。

——自然発生的な感じがいいですね。“ない”状況から新しいことが生まれる状況とでも言いますか。

中村:だってそうじゃん。ドラムマシンだって303(Roland TB-303)や808(Roland TR-808)にしても、日本人からしたらリズムボックスの進化版みたいでダサいなって目で俺達は見ていたけど、ミドル・シカゴの人達がジャンクヤード屋で40ドルぐらいで買ってきて、作った人の意図とは違う目線で面白いことを始めちゃったら新しいことが生まれて、それはMPC(AKAI)もそうだよね。その頃はサンプリングをしたら著作権に引っかかるなんて考えもしていなかったろうし、作ってる側の意図なんか無視して、とにかく自分達ができることをその機材でやってみたら面白いことになったっていう感じだろうし。ニューヨークで生活をしていると、そういう感じのことをいろいろなところで目の当たりにするから「こうやって生まれたんだ、なるほどね」っていつも感じていたよね。

“ジャズ・ドロップアウト”から生まれた独自の進化

——ピアノやトランペットの演奏に関しては、最近はどのような方向になってきていますか?

中村:ピアノに関しては、パンデミック前は現代音楽みたいなのを弾いてみたいなと思い始めて、この5~6年はだいぶ上手になったんじゃないかな。その前は雰囲気はいいからと雇われて、普通のジャズやポップスはできるかもしれないけど、細かいところまでできなくてテイストでごまかしてたりしてたの。だけどもう少し上手くなりたいなと思って、今もチャレンジしているところ。まだできることがいっぱいあるし、ピアノに関しては人前で弾く弾かないは関係なくドビュッシーとかクラシックもどんどん弾けるようになりたいというか。ピアノのインプロヴィゼーションで、リアルタイムコンポジションというところでのボキャブラリーを増やしていきたいよね。トランペットはメロディー楽器だからボーカル的な楽器。そういう意味では、伴奏と演奏とストラクチャーの全体的なバランス、ハーモニーを作るという上でいろんなことが試せるのがトランペット。変な癖がついてしまう時もあるけど、そんな時は休んでまたどんどん吹いていくって感じかな。

——卓也さんは、ジャズの世界ではどのような立ち位置に自分はいらっしゃると思いますか?

中村:ジャズに関しては初めて聴いた時から吸い込まれてしまったというのがあるし、それができるようになりたいっていう単純な話から始まったこともあるしね。父がミュージシャンで音楽大学の先生でミュージシャンになるにはいい環境だったけど、ミュージシャンではなく「なんか違うことやろう」と思っていたこともあった……とはいえ10代の頃に病気になったということではそれしか選択肢がなかったということもあり。おかげで本当に自分自身で感動するものに出会えたし、だから俺の場合はジャズ・ドロップアウトっていう感じなのかな(笑)。 

——ドロップアウトしたことが、新しい世界を生み出していると感じます。

中村:自分が面白いことをしている人って、それぞれが好きなことをやってるイメージがある。だからドロップアウトしない人っていうのは、実はそこまで好きじゃないっていうのもあるかもしれないよね。自分の場合は例えばサン・ラーもそうだけど、個性の強い人に惹かれていたしね。正統派じゃないし、この人よくわからないけどすごく惹かれるみたいな。それを自分もできないかなとか、自分の個性を作ることは難しいことだから、どうしたらこういう風になれるんだろうということは常に考えていたかも。そもそもエリート的なのが好きじゃないし、というか苦手なんだよね。怖いというかさ(笑)。

DJセットにOP-1とトランペットを取り入れ世界を回る

——これから挑戦してみたいということはありますか?

中村:最近は曲を作ってるからそれをどうしようかなと。自分の好きなジュークやドラム&ベースが自分の中で急激に進化して、昔のジャングルとはまた違うものができ始めているから、自分なりに挑戦してみようと2年ぐらい前からシーズン2が始まっている感じ。ソロのライヴはやる会場によって少しずつスタイルを変えているけど、好きなことを何でもしてもいいよと言われたら、ジャングルやジュークを多めに取り入れると思う。昨年はニューヨークでも人気の「パブリック・レコーズ」や、インド4ヵ所を回るツアーに行ったり、マイアミのアートバーゼルでも演った。インドはツアーを組んでくれた人がナーヴを過去に聴いていて、「The Lot Radio」でプレイを見てブッキングしてくれたんだけど、バンガロールでは「Echoes of Earth 2023」っていう大きいフェスティバルにブックしてくれていい時間を過ごせた。今年はノースアメリカ、サウスアメリカのDJツアーをできたらいいなと思っています。

——オリジナルDJセットが注目され始めていますね。

中村:昨年は『Mixmag Asia』の注目のエレクトロニックDJに選ばれたり、ココロージーのツアーの間にパリの「RINSE FM」でDJをやったりしたんだけどそれが盛り上がってしまって。これからはトランペットとOP-1、それ2つを持って1人で世界中を回ってみようかなって。わざわざキーボードを持っていかなくても、今のセットだと身軽にどこでも行けるのがいい。そんな感じでボンボン始まってる感じ。これからが楽しみだよ。

Photography Koki Sato

author:

Kana Yoshioka

フリーランスエディター/ライター。1990年代前半ニューヨークへの遊学を経て、帰国後クラブカルチャー系の雑誌編集者となる。2003年~2015年までは、ストリートカルチャー誌『warp』マガジンの編集者として活動。現在はストリート、クラブカルチャーを中心に、音楽、アート、ファッションの分野でさまざまなメディアにて、ライター/エディターとして活動中。

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