小指, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/koyubi/ Thu, 22 Feb 2024 11:34:16 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 小指, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/koyubi/ 32 32 「沖縄の戦後」と「パレスチナ」——これから世界がどうなるべきか 連載:小指の日々是発明 Vol.9 https://tokion.jp/2024/02/23/hibikorehatsumei-vol9/ Fri, 23 Feb 2024 03:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=225126 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義で音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第9回は「沖縄の戦後」と「パレスチナ」について。

The post 「沖縄の戦後」と「パレスチナ」——これから世界がどうなるべきか 連載:小指の日々是発明 Vol.9 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
「沖縄の戦後」と「パレスチナ」——これから世界がどうなるべきか 連載:小指の日々是発明 Vol.9

先々週、私達は沖縄へ行った。きっかけは、オペラシティで開催されていた沖縄の写真家・石川真生さんの展覧会と、その帰りにギャラリーショップで買った『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』(集英社)という1冊のルポルタージュだった。
この本は藤井誠二さんというノンフィクションライターの作品で、これが沖縄の戦後史を非常に緻密に取材されたすさまじい作品だった。無知な私は、この本で初めて戦後の沖縄の苦しみ、というより本土が沖縄に押し付け続けていた問題を知った。私は強烈に「沖縄を見たい、見なければ」と思った。
すると数日後、偶然見た旅行サイトに片道5000円という破格の飛行機を見つけた。半ば衝動的に同行者(夫)の分と往復分のチケットを買い、カバンの中に財布とボールペン、『沖縄アンダーグラウンド』の文庫だけを詰めて早速ブーンと沖縄へ飛んだ。そして、この本の中で語られている沖縄の街と歴史を辿っていったのだった。

那覇空港に着くと私達は高速バスに乗り込み、「キャンプハンセン」という米軍基地のある「金武町」へ向かった。一時間半ほどバスに揺られて金武町の社交街に着くと、横文字の看板ばかりの昔の横須賀のドブ板通りみたいな街並みが目に飛び込んできた。
はじめはちょっとした懐かしさも感じたが、建物はどれもかなり老朽化しており街全体ががらんどうとしている。夜の街だから昼に行っても人はいないだろうと思ってはいたものの、想像していた以上に人の気配がない。ここに暮らす人達は一体どこへ行ってしまったんだろうと不思議になるほどだった。
そこから数百メートル歩いた所には「いしじゃゆんたく市場」というバラック造りの小さな市場があり、そこはさっきの社交街とうってかわって昔の沖縄の空気を凝縮したようなのどかな雰囲気だった。木でできた台の上で南国の果物や野菜、日用品、家具、米軍の服やアメリカの缶詰なんかがフリマみたいに売られていて、その脇でお年寄り達がお茶とお菓子をひろげ、ゆんたく(世間話)していた。東京の私達にとってはどれも目新しいものばかりで見ているだけで面白かったが、その中でも特に度肝を抜かれたのは、ゴロゴロと積まれた見たこともない大きさの巨大やまいもだった。やっと両手で抱えられるほどの重さで、茶色のデコボコした表面にはびっしり逞しいヒゲ根が生えている。沖縄だけに自生する「クーガ芋」という希少種のやまいもがあると噂で聞いたことがあるが、この「クーガ」とは沖縄の方言で『男性の睾丸』という意味らしい。あの形からして、もしかしたらあれが伝説のクーガ芋だったのかもしない。

その後、私達はバスに乗って「コザ」へ向かった。コザとは、沖縄最大の米軍基地・嘉手納基地のある街だ。知人から「まるで外国だよ」と言われて気になってはいたものの、いざ行ってみると外国というより岐阜のシャッター商店街のような歴史と郷愁を感じた。コザ十字路に沿って伸びる広く長いアーケード商店街は店のほとんどがシャッターを下ろし、午後にも関わらずとても暗い。私達の他に歩いているのは、酒を片手に片足を引きずって歩く酔っ払いだけだった。さっきの金武町といい、基地のために作られた場所は時代と共に置き去りにされているように見えた。
商店街を歩いた後は、同行者がかねてから行きたがっていたゲームショップへ行くことにした。同行者はこのゲーム屋が唯一の沖縄旅の目的だったようで、ぜひ行かせてやりたい……と思って行ってみたものの、店の前について私達は言葉を失った。グーグルでは「営業中」と表示されているにも関わらず、店のドアのガラスは破られ、中は散乱し、挙げ句アーケードゲームの台は誰かに殴られたのかバリバリに画面を割られて外の歩道に打ち捨てられていた。
私達は肩を落とし、その日の宿へ向かった。

宿に着いた頃にはすっかり夜も更け、スマホの万歩計を見て私達は驚愕した。なんと、たった1日で23kmもの距離(ホノルルマラソン半周分)を歩いていたのだ。普段運動不足の私達にはあり得ないことだ。そのせいか同行者の足は蒸れに蒸れ、悶絶するほどの悪臭を放っていた。
宿のおじいさんが「どこから来たの」と声をかけてくれたので「東京です」と返すと、和室に招かれお茶を出してくれた。おじいさんの優しさに感激したが、この臭い足で本当に部屋にあがっていいものなのか、バレて人が変わったように怒られたらどうしようとか内心気が気でなかったが、おじいさんが子供の頃のコザの話や興味深い話をたくさんしてくれるのでいつの間にか夢中で聞き入っていた。

私が「商店街はほとんどお店が閉っちゃってますね」と言うと、おじいさんは手を大きく広げ「今日は日曜日だから。あなた達、今度は金曜日か土曜日に来るといいよ。もう、沖縄中のベース(基地)から人が集まって、すごいことになるよ。肩をぶつけないように歩くのが大変なくらい!」と言った。金と土は人が溢れるくらい大繁盛らしく、私達が来た今日(日曜日)はその祭りのあとだったようだ。他の曜日は店を開けなくていいくらい、その2日間だけで充分な稼ぎになるのだという。
このおじいさんは生まれも育ちもコザで、30代から大阪でトラックの運転手をして引退後戻ってきたらしい。だから内地(沖縄以外の県)は全部行った、沖縄よりもよく知ってるよ、と誇らしげだった。私が「今の私と同い年くらいですね」と言うと、「ちょうどその頃に返還されたからね」とサラッと言った。そうか、沖縄がアメリカから返還されたのは1972年。それまでは米国の統治下で内地へ行くにもパスポートが必要だった。返還と共に、おじいさんの日常はずいぶん変わったに違いない。少ししんみりして、「おやすみなさい」と別れ部屋に帰った。

翌日、私達は朝から開いているゴヤ市場の天ぷらとおにぎりを路上で食べながら散策をした。路地を一本入ると古い家屋が増え、東京では見ないようなヤシ科の木、埃っぽい白壁を眺めていると下手な観光名所を見るよりずっと濃い沖縄を感じた。時々、ニワトリのコケコッコーという威勢のいい鳴き声がどこかから聞こえてくる。コザと隣の胡屋という町の路地だけでもニワトリを飼っている家を3軒も見つけた。
しばらく歩き、この辺り懐かしいな、とふと電柱を見たら「照屋」という町名が書いてあった。『沖縄アンダーグラウンド』によると、ここはかつて”照屋黒人街”と呼ばれた特飲街だったとある。当時は歓楽街ごとに、利用する客の人種が分かれていたらしい。石川真生さんもかつてこの照屋のバーで働き、同僚の女性達を写真に撮っていた。私はあの展覧会で石川さんの作品に圧倒されたが、現在の照屋の街は意外なほどに静かで、やさしげな陽射しがさしていた。腰を曲げて歩くおばあさんが、ゆっくりと目の前を横切っていった。

旅先ではその地の銭湯に寄ると決めている私達は、沖縄で現存する最後の銭湯「中乃湯」に立ち寄った。入り口に座っていた高齢の女性が、店主さんのようだ。
浴場ではご近所さんと思われる婦人達が和気藹々とおしゃべりしていて、1人でいる私にまで「どこから来たの? 東京のどこ? 息子が所沢にいるよ」と、声をかけてくれた。結果のぼせて目の前がチカチカしてくるまで雑談の輪に混ざった。ここの湯は天然温泉らしく、まるであんかけのようにとろみがあり肌がすべすべとする。お湯から上がろうとすると「ここの湯は足の裏もツルツルになりすぎるから、床で滑らないように」と私の転倒まで気にかけてくれ、この沖縄の優しさあふれる銭湯をあとにした。

最後の日の夜は、一泊800円の宿に泊まった。8000円ではなく、800円だ。前の宿泊客のゴミも掃除されていない稀に見る酷い宿だったが、座布団みたいに薄べったい布団を2人でお腹に巻き付けているうち気付いたら朝になっていた。この日は「神の島」と言われている久高島に行ったが、その辺りの話はちょっと今回のコラムと大筋がずれてしまうので今度改めて漫画にでも描こうと思う。

私は帰りの飛行機の中で、道中ずっと持ち歩いていた『沖縄アンダーグラウンド』を読み返していた。沖縄でいろんな街を見て回ってからというものの、この本の中にある戦時中や戦後の占領下の様子が読んでいていっそう身につまされた。

<上陸時から米兵は沖縄の民間人に対して傍若無人にふるまい、凶悪犯罪、とりわけレイプ事件を頻発させた>(『沖縄アンダーグラウンド』より引用)
<強盗や暴行致死、クルマで轢き殺すなど、沖縄の人々を人と思わないような犯罪が日々重ねられた。沖縄戦を生き残った人々は、戦後は米兵たちの暴力に怯える日々を送らねばならなかったのである>(『沖縄アンダーグラウンド』より引用)

女性の被害に関する記録は特に、まるで自分の身に起きているかのように恐ろしく、胸が痛んだ。米兵による女性の連れ去りは日常茶飯事だったという。家にいても扉を蹴破られ自宅で襲われ、食べ物をあげるからと基地へ誘き寄せられて襲われ、食料を探しに海や山菜取りに行った先でも襲われ殺害された。”集団で”芋掘りをしている時さえも、女性達は襲われたという。そして、米兵がいくらこれらの蛮行を働いてもろくに処罰もされず闇に葬られた。

私はこの当時の沖縄の話が、頭の中でパレスチナの現状と重なった。
パレスチナ人もまた、ずっと入植者(イスラエル人)に人権を蹂躙されてきた。『ガザとは何か~パレスチナを知るための緊急講義〜』(著:岡真理)によると、イスラエルの不条理な暴力に耐え続けたパレスチナ人が対抗すれば逮捕されてしまい、イスラエルの刑務所に入れられたという。パレスチナ人というだけで子供まで逮捕される。だが入植者はというと、殺人をしても放火をしても逮捕されることはなかった。
ガザ地区が封鎖されてからは、物資の搬入出も制限され、燃料も食料も医療品も入らず、病院では足の切断手術も”麻酔なし”でおこなわれた。汚水処理施設も稼働していないので汚染された水で病気になり、貧困や栄養失調で命をおとしていく。そして今は、広島の原爆の2倍の火薬量に匹敵する爆発物を落とされ虐殺されている。その中でも使用されている「白リン弾」は、国際法では禁じられている非人道兵器だ。そんなものを使って逃げようのない民間人が日々殺されているのだ。
ガザの惨状を、ずっとSNSで見続けてきた。人の体があまりに破壊され尽くすと、人形か石や焦げた木切れに見えてくる。それはおそらく、自分の心が破壊されないようにするための脳の防衛本能だと思う。それでも息を止めて目を凝らすと、その遺体になってしまった人が殺される前は確かにここで生きて、笑ったり悲しんだり、家族や大切な人達と暮らしていた様子が見えてくる。もちろん一度も会ったこともない人だけど、時に自分の身内と重なって頭の中に浮かんでくることもある。
ある日、臓器を抜かれた(臓器売買のため)パレスチナ人の遺体が発見されたという報道を目にした。その時、それまでいた足元が一気に崩れるような衝撃と恐怖を感じた。もしかすると、私も知らず知らずに心を削られていて、こうやって理由をつけて無意識的に沖縄へ逃げたのかもしれない。

私はこれから世界がどうなるべきか、小さな脳みそで自分なりに考えてみた。
おそらくもう「停戦」だとか「人道」なんて言葉では足りなくて、この世界から植民地というものをなくすしかないんじゃないだろうか。虐殺をする国もそれを支持する国も、このままじゃ未来永劫、世界平和など口にする権利はない。

今、「ラファ」というガザ南部の唯一の避難エリアが攻撃を受けている。ここが爆撃されれば150万人が命を落とし、いよいよパレスチナ人は殲滅させられてしまう。
そこで殺されているのは、この旅で出会った銭湯の奥さん達や宿のおじいさんのご先祖様達のような、ただその時代に生まれ、その土地に生きていただけのパレスチナの人々だ。

現実を知ることはつらくて苦しい。できたら、私もずっと自分の世界にこもって夢を見ていたい。だけど、知らないままでいたら声をあげそびれてしまう。未来を変える機会を見過ごしてしまう。生活に追われてそれどころじゃないという人もいるかもしれない、資料を読んだり見聞きして情報を集めることも簡単なことではない。自分の心を守るためにはどうしても直視できないという人もいるかもしれないし、「知らないから教えて」と気軽に聞ける隣人がいなくて孤独と罪悪感を募らせている人もいるかもしれない。だから、私はどんな人でも今の状況を知れるような文や漫画をまた描かなきゃと思った。
そういうことに気づかせてもらうために、きっと私は沖縄に呼ばれたのだ。

The post 「沖縄の戦後」と「パレスチナ」——これから世界がどうなるべきか 連載:小指の日々是発明 Vol.9 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
「散歩の効能」 連載:小指の日々是発明 Vol.8 https://tokion.jp/2023/08/16/hibikorehatsumei-vol8/ Wed, 16 Aug 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=203661 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義で音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第8回は「散歩の効能」について。

The post 「散歩の効能」 連載:小指の日々是発明 Vol.8 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
「散歩の効能」 連載:小指の日々是発明 Vol.8

2023年初夏某日。気づくと私は、電車を乗り継いで横浜にいた。横浜駅の西口は、相変わらず錆びた鉄と潮とドブが混じったような、懐かしいひどい臭いがしていた。

丁度この時、私は展覧会の準備真っ只中という状況だった。決して横浜でフラフラしてる場合ではなかったのだが、家に篭りきりの生活と展示の重圧から、ついここまで逃げてきてしまったのだ。
身の丈に合わない場所で展示をする緊張と、思うように制作が進んでいないことへの焦りもあったが、この時は同時期に進行していた別の仕事がトラブって収入が0になったり、友達に大病の疑いが出たりと、今年に入ってからというもの、薄っぺらいイカダ一枚で急流くだりをしているような心象の日々だった。
そもそも、今年初めにかかったコロナの影響かはわからないが、どうも調子が出ない日が続いていたのだ。夫はいまだに嗅覚がダメで、試しにいくら至近距離でオナラをしてみても恐ろしいことに全く反応をしない。うっかり出てしまった時は逆に助かるのだが、好物のウナギの匂いまでわからないらしく、本当に不憫で仕方がない。
私もどうも集中力が続かず(元からそうだったかもしれないが)、申し訳ないことにこのコラムの更新も大変遅れてしまった。
そろそろ本気を出さねばと思いながらも、色々な〆切と会期までの時間は刻一刻と過ぎていって、ついに私の小さな肝っ玉は破裂した。何が原因かはよくわからないが、とにかく限界だ!となってしまった。
そして家を飛び出し電車に飛び乗り、気がついたら地元・横浜に帰郷していたのだった。

どこに行くかのあては、何もなかった。とりあえず海でも見に行こうかなとも思ったが、路線図を見たら急に往復の1000円が惜しくなって、諦めた。どうせ話のネタになるのだからそれくらいしろよと思うが、あの時は海への1000円すら出し渋るほど心が弱っていたのだ。なんて自分は情けないんだろうと肩を落としながら、私は東横線の「東白楽駅」へとぼとぼ歩いて向かった。

神奈川の人しかほぼ知らないであろう「東白楽」という地味な街は、私にとって<散歩>の原体験がつまっている特別な街だ。
初めて訪れたきっかけは、小学生の頃に同級生の男の子達に連れられ、ミニ四駆のパーツを買いに行った時のことだった。一見ただの小汚い玩具屋だったが、巷に出ていないレアなパーツや改造品まで置いてあるドープな店のようで、男子達はすっかりギアとか改造モーターに目の色を変えていた。だが、私はそれよりも、玩具屋へ行く途中にあったとてつもなく長い坂の存在が無性に気になった。
そしてその翌日、私は「あの坂の向こうに何があるんだろう」と探検隊さながらの気分で東白楽へ行き、それから一人で度々訪れるようになるほど、この街が気に入ってしまったのだった。

その坂は、昔と全く変わらぬ姿でそこにあった。20年越しに見ても、わけわからないほど急勾配でグッと胸を掴まれてしまう。あの頃に比べたら、今は随分足腰も弱っているものの、私は子供に戻ったつもりでずんずんと坂を登っていった。
すると、見覚えのある景色が目に飛び込んできた。坂の途中には、たくさんの鉢植えに囲まれた白くて小さな喫茶店があり、えんじ色の軒先テントには、白地で店名が書かれてあった。
「グリーンメドウズ」
「この店、まだあるんだ……」思わず嘆声が漏れてしまった。
初めて来た時はまだ10歳くらいだったから、当然珈琲も飲めないしお金もないので、当時は窓から店内を覗くことしかできなかった。でも、あの時からこのお店は、私の中でずっと気になる存在だった。
窓のところに、「営業中」と小さな札が置かれてあった。今入らねばいつ入る、という感じだ。そして私は20年以上越しに、この「グリーンメドウズ」という謎の喫茶店に初めて入ってみたのだった。

扉を開けると、店内は想像していたよりずっとこぢんまりとしていて、外の日差しのせいか中は逆光のように薄暗く、とても落ち着く空間だった。
少しすると、奥から「いらっしゃいませ」と高齢の女性が迎えてくれた。とても優しそうな店主さんだ。「どうぞお好きなところに」とのことだったので、私は店内を見渡せる一番隅っこの席に座らせてもらった。カウンター4席とテーブル席が2つ、壁には小さなメニュー表と2枚の絵。音楽などはかかっておらず、唯一空間に響くのは「こち、こち、こち……」という、柱に架けられた時計の音だけだった。お店の中はとても静かで、時計のリズムとこちらの心臓の音が呼応するように、不思議と心地の良いテンポがこの中でできていた。
店主さんは私のアイスカフェオレを運んでくれると、またカウンターに戻り、正面の窓からずっと外を眺めていた。

30分ほど滞在し、「ご馳走様でした」とお会計に行くと、店主さんは笑顔でお釣りをくれながら「近所の方?」と私に聞いた。
「いえ、近くに実家があって」
「あら、そうなのね」
「子供の頃にこの道をよく散歩していて、どんなお店なのかなあ、ってずっと気になってたんです。10歳頃によく来ていたから、23〜24年前とか……。そしたら今日やっていたので、やっと入れて嬉しかったです」
「えー!本当。嬉しいわあ。しかもこの店、24年目なのよ」
なんと、私が店を覗いていたあの時は、どうも新規オープン直後だったようだ。記憶の中では、昔からある魔法使いの家みたいな印象だったのに。子供の記憶って本当にあてにならない。
「私はもう84歳。ボケ防止でやってるのよ」
店主さんはそう言って、ケタケタと笑いながら出口まで見送ってくれた。
店を出てすぐのところに、目が覚めるようなピンク色のツツジと、橙色の実をいくつもつけた琵琶の木が植えられていた。もしかしたら、あの店主さんが座っていたカウンターの位置から一番良く見えるのかもしれない。店主さんが度々、素敵な顔で外を見ているなあと思っていたが、そうかこの景色を見ていたのか、と納得したのだった。

私はその後も、再び残りの坂を登り続けた。確かここを登りきったところに、横浜の町を一望できる広い草っ原があるのだ。曲がりくねった私道、ガタガタのコンクリむき出しの道を渡り、半分が崖になったような未舗装の道を歩き続けると、そよそよと揺れる緑色が目に入った。
あった!
草の上を夢中で駆けて、丘になったところから街一帯を眺望した。目を凝らすと、スケートリンクや、昔親と行ったスーパーなんかがすぐ目に入った。昔は家の近くにヤクルトの大きな看板があって、そこを目印にすれば実家の大体の位置がすぐにわかったものだが、その看板ももうない。近所の公園は見つけられたので、そこにアタリをつけて探してみたら、実家の屋根を見つけることができた。今頃お母さんが一人でいるだろうか。かつて私達の家族が全員そろってあの屋根の下で普通の営みをしていたのかと思ったら、少したまらない気持ちになった。
それにしても、随分高い所まできたもんだとベンチに腰掛け一息ついたら、土と緑の匂いが薫って、肩に入っていた力がほっと抜けた。
ぼんやりしていたら西陽がさしてきたので、そろそろ移動しようかなと思い、知らない人の畑の脇を通って駅の方へ歩いた。そして京急の子安駅から電車に乗り、日ノ出町へ向かったのだった。

日ノ出町の改札を出ると、その騒がしさに途端に眩暈がした。路上で飲酒する老人、極彩色に着飾ったきれいな外国の女性達、檻に入れられたテナガザルみたいな反復運動をしてクラッチバッグ片手に女性に声をかけるスカウトマン、オウムとイグアナ柄の派手なアロハを着て大声で電話する中東系のおじさん。そんな混沌とした中を歩いていたら、「これぞ横浜!横浜に帰ってきたぞう」と、だんだん気分が乗ってきた。
伊勢佐木町を突っ切って寿町に入ると、街の空気はガラリと変わり、ドヤ街独特の静けさと緊張感を肌で感じた。でも、この雰囲気に、なぜか子供の頃からずっと惹かれて仕方がなかった。親からも「行かないほうがいい」と言われていたが、全くその言いつけは守っていなかった。
路上に、大量のゴミなのか荷物なのか判別のつかないものが派手にぶちまけられていた。
ズボン、上着、パンツ、靴下、黒いニット帽、飲みかけのカフェオレ、飲み薬、謎の軟膏のチューブ、診察券、永谷園の松茸のお吸い物、競馬新聞、ポリデント、ハンガー、絆創膏。そして、なぜか湯沸かし器。診察券は福祉センターの診療所のもので、しっかり名前も入っていた。
パンツや上着においては、その場で脱いでいったとしか思えない形状で落ちていた。私はそれらを見て、これはもしかしたら透明人間の抜け殻なんじゃ、と思った。
だが、一番不思議なのが「ポリデント」は落ちているのに肝心の「入れ歯」が見当たらないということだった。まさか拾って持ち帰る奴はいないだろうから、透明人間は入れ歯だけ装着して今もこの辺りを闊歩しているんだろうか。
入れ歯だけがフヨフヨと空中に浮いている姿を想像し不思議な気持ちになりながら、再び歩き続けた。常識では考えられないことだが、長丁場の散歩中には、こういう奇妙なことがよく起こるのだ。
その後、私は「ドトール」に入ってコーヒーを1杯飲み、営業時間が終わると同時に追い出された。だが、その頃にはすっかり満足していて、私はそのまま東京方面の電車に乗り帰路についた。私の長い散歩の一日は、そこで終わったのだった。

翌朝いつも通りベッドの上で目が覚めると、まるで別人のような気分だった。大袈裟だが、深い睡眠の底から浮かび上がって蘇生してきたような、そんな感じだった。そして、頭の中にはぼんやりと、昨日歩いた町の景色が夢の続きみたいに残っていた。
「そうだ、昔の私はこんな感じだった」
私はその日から制作の続きを始めた。机に向かうことも、全然苦でなくなっていた。

私はどうも、昨日の散歩の間に、自分の中の何かを治癒させていたような気がする。
昔から、長い散歩から帰ってきた翌日は、いつもそうだった。懐かしい景色を眺めながら歩くたび、私の中の「無意識」の世界がいきいきと息を吹き返すのだ。
幼い頃から散歩好きではあったけれど、10代後半の頃に私は「摂食障害」という食べ吐きがやめられない時期があり、その時も本当によく歩いていた。長い時だと1日10時間以上近所をうろうろと散歩し、歩きながら、いろいろなことを考えていた。不思議と足は全く疲れず、歩いている時は心が楽だった。あれも今思えば、無意識で自分を「治療」しようとしていたのかもしれない、と思うと合点がいくのだった。

一歩一歩歩くたびに、無意識にかかっていた抑圧が外れて自分を思い出していく気がする。だから子供の頃に戻ったように安らぐ時もあれば、失ったものを思い出して泣いたり、歩くほどに怒りがこみあげて止まらなくなる時もある。
だが、そうやって心を大きく揺らした後は、なぜか忘れていた大事なものがコロリと出てくることが多い。私はいつも、それを制作の“種”にしている。
すべての行動には、きっと理由があるのだと思う。

喫茶店で真っ白いノートを広げて、私は夢中でペンを走らせた。
「散歩の効能」
ずっと昔から知っていたはずのこの発見を、今日、ここに書き留めておこうと思った。

——————————————————————————————-

現在、小林紗織名義での展覧会が開催中です。これまでの「score drawing」作品を展示しています。
ご興味のある方、ぜひお立ち寄り頂けましたら幸いです。

project N 91 小林紗織
会期:2023.07.06[木] – 09.24[日]
場所:東京オペラシティギャラリー 4Fリコドール
オペラシティアートギャラリーにて開催中の「野又穫 Continuum 想像の語彙」展のチケットで入場できます。
https://www.operacity.jp/ag/exh/detail.php?id=291

The post 「散歩の効能」 連載:小指の日々是発明 Vol.8 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
「喪失」との向き合い方 連載:小指の日々是発明 Vol.7 https://tokion.jp/2022/09/21/hibikorehatsumei-vol7/ Wed, 21 Sep 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=143660 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義で音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第7回は「喪失」との向き合い方について。

The post 「喪失」との向き合い方 連載:小指の日々是発明 Vol.7 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
「喪失」との向き合い方 連載:小指の日々是発明 Vol.7

あの日からもう五年以上経つのか、と思う。

私の父が突然の事故で心停止し、救命処置の末一命はとりとめたものの脳に重い障害が残り、意識が戻らなくなってしまった。人の脳というものは、たった数分酸素がいかなかっただけで取り返しのつかない障害が残ってしまうらしい。
当時の職場に母から連絡がきて慌てて病院へ向かうと、父はたくさんの管と人工呼吸器を付けて病床で目を閉じていた。
父は真面目で優しく繊細で、こんな目に遭うべき人ではなかった。その日から私達家族の日々は、突然崖から突き落とされたように一変してしまった。

でも、最初のうちはそれでも父の回復に一縷の望みを持っていた。一時は命も危うく、それでも持ち直して人工呼吸器も外すことができた。後は意識さえ戻れば、と思っていた。
後遺症が残ったって、リハビリでも何でも付き添う。父が元通りになってくれるなら何だってする。目が覚めたら、これまで心配かけたことを全部取り返すくらい父のために生きて、残りの人生を捧げよう。そう思っていた。そう思っていたのに、何日経っても、何週間経っても、父の意識が戻ることはなかった。

私は、当時働いていた会社の帰りに病院へ寄っては病室にレコードプレイヤーを持ちこみ、父の好きなクラシックを聴かせたり、リハビリの本を見ながら見よう見まねで父の意識を戻そうと躍起になった。そんな私の様子を見た看護婦さんが、「お父さん思いですね」と言ってきたけれど、私は言葉に詰まって相槌すら打てなかった。父が元気だった頃、私はほとんど家に帰らなかった。大好きだったし、大切にされているという自覚はあったけれど、どう関わればいいかわからなかったのだ。こんなことになってから毎日会いに行くことになるなんて、運命って皮肉なものだなとつくづく思った。

医者は父を「意識が無い状態」と言うが、父は目を開けたり、時々音などの刺激に反応して首を動かす。それは毎日隣にいる私達にしかわからないことで、医者はそれら全ての反応を見ても「意識」によるものではなく「反射」だと言った。
父は、前向きな治療というよりも世間では「延命」と呼ばれる医療行為が施された。でも、今思うとそれは私にとっての「延命」でもあったなと思う。心が完全に壊れてしまわないための最後の命綱だった。
そんなわけだから、私は医者から「回復は絶望的」といくら言われても聞く耳を持たなかった。1日でも早く目を覚ましてもらうために、何でもしてやろうと思っていた。

だが、家族が暗い病室に集められて説明を受けたあの日、父のMRI画像を見せられて私は現実と向き合わざるを得なくなった。
画像に写る父の脳は、大脳皮質の表層に広範囲にダメージを受けていて、脳細胞が死滅した表面部分がうっすらと白くなっていた。脳細胞は特に酸素欠乏にとても弱いらしく、心肺停止して一時的に低酸素状態となったことが原因だった。ただ、途中で蘇生できたことで脳の生命維持の中枢は無事だった。「お父さんは生きようとしている」そう思った。
けれども、大脳皮質部分には、生きているうちに蓄積された記憶と「その人らしさ」をつくる情報が存在している。大脳皮質の表層の細胞がほとんど死滅してしまったということは、「父」として生きた情報、そして父を父たらしめる情報が脳から失われてしまったということを示していた。私は、この1枚のMRI画像からもう2度と事故以前の父は帰ってこないということを悟った。
生きてくれているのが唯一の救いではあるが、それまであった父の大切な記憶は失われてしまった。これが私の、今まで味わった中でも最も大きな喪失の体験だった。

それでも、初めのうちはどうしたって受け入れることができなかった。万が一意識が戻っても、私達家族の存在自体も忘れてしまっているだろうと思ったら、心が本当に砕けてしまいそうだった。目の前には、一見すやすやと眠っているだけのように見える父がいる。でも、父の記憶の中にはもう私や家族の存在はいない。それは、目を覚さないということよりも耐え難いことのように感じた。
頭の中はずっと混沌とし、時に発作のように父への気持ちと罪悪感が私を襲った。お父さんが可哀想だ。でも、それ以前も父は幸せだったんだろうか? 私は全然、父を大切にできていなかった。私がもっと周りを大切にできる分別のある娘になれていれば、父に余計な心配もかけず済んだんじゃないだろうか。自分さえいなければ父はもっと幸せに暮らして、良い病院で手術もできてこんなことにもならなかったんじゃないか? と、私は延々と自分を責めた。後になって、こういった自責の思考に陥ることは「サバイバーズ・ギルド(災害や事故後、生き残った人間が犠牲者に対して”自分の命は他人の犠牲によるものではないか”というような罪悪感をもつこと)」と呼ばれる心理状態であると知った。
私は、こんな罪を背負ってしまってこの先生きていけるんだろうかと途方に暮れた。一生このまま、暗い洞穴の底のような場所で自分を責めながら生きなければならないのだろうか。でも、それで償えるのならそれでも良い、と思いながら毎日を過ごしていた。

数年経ったある日、私はこんな夢を見た。
夢の中で、私は実家にいた。慌てて父の姿を探した。すると、半分扉の開いたトイレの向こう側に、父のいる気配がした。姿こそ見えないが、そこには確かに父がいる、と思った。私はあの時過去に戻っていたのだろうと思う。
直感で、この時間を逃したら父は消えてしまうと思った。私は廊下から大きな声で「お父さん、謝りたいことがある!」と叫んだ。相変わらず父の姿は見えなかったが、私の話は聞いてくれているような気がした。
「これまでたくさんのものを与えてくれたのに、心配ばかりかけてごめんなさい。本当は、家族みんなで穏やかに過ごしたかった。それなのに私は逆になることばかりしていた。許してほしい」そう言って、私はべそをかいた。すると、父は向こうから困ったような笑ったような声で、「でも、すべてやりたかったことなんだろう。なら仕方ないよ」と言った。
お父さんは許してくれた、そう思った瞬間目が覚め、私はいつもの一人暮らしの部屋にいた。

私はこの夢を見た直後、心の中を塞いでいた石が温かな熱で溶解していくような、そんな不思議なカタルシスを感じた。実際ただの夢でしかなく、おそらく私が父に対して贖罪したいと思う願望が見せた夢なのだろうが、何度思い返してもあの時の父の答えはいかにも父らしく、本当の父との会話だったように感じている。
この夢がきっかけで「父は私のすべてをわかってくれていたんじゃないか」と思うようになり、発作的な不安で取り乱すことは減った。もちろん悲しみが消えることはないが、そうした出来事と今現在を天秤にかけて今自分が何をすべきかの最低限判断くらいはできるようになった。今の私にとって、病院にいる父のことが一番大切だった。それからは淡々と、病院へ通いながら自分の仕事に向かう日々に戻っていった。

そんなある日、私はふと立ち止まった。そういえば、父の一件以来ずっと立ち寄ることができなくなっていた場所があったのだ。その町には、父が幼い頃に体が弱かった私をよく連れて通ってくれた病院があり、帰りは必ず駅前の商店街へ寄って一緒に歩いた。そんな父との思い出の町をまた歩きたい、と私は思うようになった。
問題は、その時はその町に立ち寄るどころか、名称が目に入るだけでもいろいろなことを思い出して心臓を掴まれるような動悸に襲われてしまうことだった。でも、そうやって避けているうちに町の風景が跡形もなく変わってしまう方が悲しい。私はその町に行ってみることにした。
駅に着くと、案の定改札を通るだけでも心臓が破裂するかと思うくらい動揺していた。あの、父の事故直後の時と全く同じ状態になってしまうのだ。あれだけ温かい記憶しかなかったはずの町なのに、私の記憶まで上書きされてしまったようだ。でもここで行くのをやめたら必ず後悔すると思い、意を決してその駅で降りた。
何年ぶりかに歩くその町は、ほとんどシャッター商店街になっていた。でも、父とよく訪れた店は変わらずそこにあった。その光景を見ていると、父のことを昔からよく知る存在に出会ったような安心感があった。
一歩一歩、景色を眼の中のフィルムに焼き付けるようにあちこちを眺め歩いた。あの頃に立ち寄ったパン屋、焼き鳥屋、カメラ屋、そうした見覚えのある店に立ち寄っては、父の残像を追った。カウンターには、あの頃から変わらぬ店の人達がいた。焼き鳥屋だけ人が変わっていたので、思わず「昔、ここで焼き鳥を焼いていたおじいさんってお元気ですか」と尋ねた。すると、若い店主は「ああ、あれ僕のじいちゃんです。奥にいますよ。呼んできますか?」と言った。孫があんなに立派になっているのかと驚いたが、あの時のすべてがそのままに残ってくれていたことに私はとても嬉しくなった。ここは今もあの時のままで、父と私だけが変わってしまった。

寂しさと安心に包まれたような不思議な気持ちでぼんやりと商店街の真ん中で突っ立っていると、一瞬、隣に父が佇んでいるような気がした。「えっ」と思い辺りを見回すが、やっぱり父はいない。でも、どこかにいる気がする。それもとても近くに。私は再び周囲を探しながら歩きだし、そう思った理由がやっとわかった。
父の失われた記憶や意識は、きっと私の中にも生きている。
そして、この先私が生きる時間は私のものでもあり、父のものでもあり、自分を大切にしながら生きていくということは父を大切に想うことに直結するのだろうな、と思った。
その時、「生きる意味」というひと差しの光が私を貫いた。

とはいえ、今もしょっちゅう私は透明な姿になって一人泣いている。
そういう時、透明の私を見下ろしているもう一人の私自身は、その時だけ父になりかわる。そして小さな寸劇が始まって、「自分のせいでこうなった」と自らを責める私に少しずつ言葉をかけていく。それは大概、私が父から聞きたかった赦しの言葉だった。
そうして、しばらくすると不思議と安心し、歩き出すことができるようになる。
私は今も、こうして父にずっと助けられている。

こうやって振り返ってみると、私の喪失との向き合い方というのは<夢・思い出・寸劇>と、なんだかあまりにファンタジーめいていて人に勧められるようなものではないなと思う。
きっとそれは、その人にしかわからない形で必ず目の前に現れる。だから安心していて大丈夫なのだ。
でも1つだけ、日常の中で「これならどんな人にも勧められるな」と思った発見もあった。
それは普段から、最寄り駅まで歩く時間や寝る前などに毎日少しずつ、失ってしまった大切な存在について祈ったり考えたりする時間をとるようにする。すると、ある日何気なく眺めている風景や自然、あるいは他者の姿に、その人が宿っているように感じる時がくる。私の場合、街路樹の白い花が風で揺れている様子だったり、なぜかずっと目の前を飛びかう蝶だったりに、元気だった頃の父の面影を感じた。きっと、そうした形を借りて、いつも見守ってくれていることを教えにきてくるのだ。
心の中だけでなく、周囲の空気中に溶け出してずっと私達の近くにいてくれている。そういうことなのだと思う。

こうしたことを今回言葉にしようと思ったのは、大事な友人の愛猫が亡くなってしまったことがきっかけだった。まだ若く、本当に突然の別れだった。高齢だったら諦めがつくというわけでもないが、猫をとても心の支えにしていた友人が「受け止められない、信じられない」とひどく悲しむ姿を見て、私はなんて言葉をかけていいかわからなかった。
人と猫を同列に語るのはけして正しくないだろうし、この世にいないのといるのとでも大きな違いがあるだろうが、私はそれでも自分の経験した気づきを彼に話してみたいと思った。でも、辛い時にそんな話をされても負担が多いだろうから、気が向いた時に読んでもらえるようにこうして文章にしたのだった。

友人にどんな言葉をかければいいのか悩んでいた時、読み漁った本のうちの1冊である『喪失学』の著者の坂口幸弘さんは、同書の中で“悲痛な喪失を体験するということは、自分にとって心から大切と思える「何か」がそこに存在したことを意味している”と言っていた。
その言葉は、私の暗がりを柔らかな光で照らしてくれた。

猫の葬式の帰り、友人は「俺、あの子がいなくなっちゃったのに、この先人生楽しんだりしていいのかな」とポツリと言った。
あの子は、彼が落ち込んでいるといつも部屋にやってきてじっと隣に座っていた。普段自分からは甘えてこないクールな子だったのに、飼い主が元気のない時だけ慰めるように隣にいてくれるのだ。友人はそんな愛猫のことを、「こいつは俺より知能が高いぞ。言葉も全部わかってる」といつも褒めていた。
そんな賢いあの子のことだから、きっとすべてをわかってくれているだろう。

喪失の悲しみは、私達の意識があるうちはきっと一生消えない。「こんなに苦しいのなら、すべてを忘れてしまいたい」そう思うこともあるけれど、幸せな記憶も手放す必要はないし、悲しみの記憶がこの先温かな記憶に変質する可能性がないとは言い切れない。
時間が経つにつれ、悲しみは振り子のように反復して少しずつ存在が小さくなり、その軌跡に残った温かな余韻にだんだんと気づく。
その時ぼんやりと残る温もりは、きっとあの子や父の体温なんじゃないかなと思っている。

そしてここでお知らせです。
過去の漫画作品や文章をまとめた新作同人誌を作りました。

「人生」

参加中の展示や通販、お取り扱いのある本屋さんで販売中。

■「ゆうとぴあグラス展」
参加作家:黒木雅巳・外河謳・園のぶは・森田るり・ぴょんぬりら・小指・原田晃行・これでいいんだ村
会場:gallery TOWED 1F & 2F
住所:東京都墨田区京島2-24-8
日程:2022年9月9〜24日 
時間:13:00〜20:00
 金・土・日・祝のみオープン
https://gallery-towed.com/2022-09

The post 「喪失」との向き合い方 連載:小指の日々是発明 Vol.7 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
「大切な光景」と「インボイス制度」 連載:小指の日々是発明 Vol.6 https://tokion.jp/2022/07/07/hibikorehatsumei-vol6/ Thu, 07 Jul 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=132494 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義で音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第6回は「大切な光景」と「インボイス制度」について。

The post 「大切な光景」と「インボイス制度」 連載:小指の日々是発明 Vol.6 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
「大切な光景」と「インボイス制度」 連載:小指の日々是発明 Vol.6

私は子供の頃、友達の家へ遊びに行くと、家の中をあちこち探索させてもらう趣味があった。むしろ遊ぶことよりもそっちが本当の目的で、その家族の何気ない生活感や、その家を探訪しているうちに見つけたもの……例えば友達の不良の兄の部屋に貼ってあったともさかりえのポスターなど、普段の自分に縁の無い異文化を観察するのが好きだった。

大人になった今、あの頃の人の家に対する興味や関心は、個人が営む小さな飲食店や喫茶店へと対象が変わったように思う。私は今も人の家を覗いていた頃のままで、昔からある小さな飲食店などを見つけるとつい覗きこんでしまうのだった。

私は、忘れた頃からずっとそこにあるような小さな個人商店や個人経営の飲食店がとても好きだ。色褪せた食品サンプル、手書きのメニュー、店内の棚には料理と関係ないものがごちゃごちゃ置いてあったり、壁には過去に雑誌なんかで紹介された切り抜きと、店主の家族写真なんかが一緒に貼ってあるような店だと尚たまらない。その、たった6畳ほどの小さな空間の中で、ここで仕事を営んできた人達と堆積する時間とを、作ってもらった食事を頬張りながらゆっくり過ごす時間が、何より楽しいのだ。

昔住んでた家の近所に、「いづみ」という定食屋があった。看板は雨晒しのせいか激しく色落ちしており、見た目は「呪いの定食屋」といった雰囲気で引っ越してきた当初から気にはなっていたが、随分入るのをためらっていた。だが、丁度いい時に普段から食い意地のはった友人が近くまで来てくれると言うので、今だ! と思い「いづみ」へ誘ってみたのだった。

店内が見えないようになっている色付きの怪しげなガラス戸を開けると、おどろおどろしい看板とは裏腹に、店内は時間の止まった可愛らしい昭和のメルヘン空間が広がっていた。水森亜土みたいな世界観のファンシーな手書きのメニューや、年代物の色褪せたポスターがあちこちに貼られており、壁紙も家具も全てがセピア色に染め上げられ、どこかしこからも「本物」の風格が漂っていた。これは一朝一夕で作り上げられるものではない。
奥から「いらっしゃいませ」と現れたのは、腰が低く、見るからに優しげなご婦人だった。メニューは日替わりランチや唐揚げ定食、エビフライなど、普通の定食屋と変わりなく値段もまあまあ安い。私達は「日替わり」を頼み、奥さんが奥の厨房にいる店主に伝えると早速フライパンを振る音が聞こえ始めた。
店内を見渡してみると、古い照明は経年劣化で変色して、自然に間接照明のような優しい風合いになっており、その良い感じの灯をぼんやり眺めているうちにあっという間に料理ができてしまったようだった。そして奥さんが満面の笑みで運んできたものを見て、私達は腰を抜かしかけた。
その皿には、フライ系やハンバーグ、コロッケ、目玉焼きや野菜と果物がしっちゃかめっちゃか積まれ、まるで欲張りで計画性のない人間が持ってきたビュッフェ皿のようだった。
タルタルソースまみれの果物に一瞬怯んだが、恐る恐る口に運んでみると、これが不思議ととても美味しい。自分の胃をパン詰め放題の袋のように拡げ、やっとの思いでその大盛りを食べきってホッとしていると、再び奥さんが満面の笑みでやってきて「若いから、サービス」と中盛りほどあるカレーを机の上に置いていった。私達は思わずサイレントな悲鳴を上げてしまった。
帰る時も何度も感謝され、本当に美味しかったけれど、ここに通ったら間違いなく胃を破壊されるか、原型を止めなくなるほどに太らされてしまうなと思った。
だが翌日、気がつくと私達は「いづみ」に足が向いていた。あの親切過激派とも呼べる奥さんと気取らない定食に、私達は恋してしまったようなのだった。
戸を開けた瞬間、店主と奥さんは私達の顔を見て「また来てくれたー!」と拍手までして出迎えてくれた。あの後も、なぜか苺が乗った山盛りのビーフストロガノフが出てきたが、「意外に合うのよ」と勧められて食べて見ると確かに合うような気がした。ここで食べると、不思議と何でも美味しいのだった。
自分の暮らす町でいい店を見つけると、急に人生が華やぎだすほど嬉しくなることがあるが、私にとって「いづみ」もそんな店だった。

だが、「いづみ」との別れは突然だった。再開発で、テナントの入っていたビルが立て壊しになったのだ。閉店の際、表に貼られたお知らせの紙には一切悲壮感はなく、全面にお客への感謝があふれていて、そこがまた「いづみ」らしいなあとしみじみ思ったのだった。

長くて申し訳ないが、もう一軒忘れられない店がある。

大学1年生の頃、友人とお茶の水の楽器屋を見に行って、あちこち散策していると、建物と建物の隙間に古びた喫茶店の看板を見つけた。その店の名は「ミロ」といい、年季の入り具合からもうずいぶん前に閉店してしまっているだろうと思った。だが、通り側から見るとどうも普通に営業しているようで、私たちは恐る恐る扉を開け中へと入ったのだった。

ドアの向こうには、外のお茶の水の町並みと完全に隔絶されたような、美しい昭和の空間が広がっていた。私達は案内されるがまま席につき、私は珈琲と、珈琲が飲めない友人はミルクを頼んだ。あの頃の私達は、喫茶店でお茶をするなんて価値観もなかったから今思えば随分な冒険である。
店内には可愛らしい椅子、小さな灯がともったランプ、作者もわからない西洋画などが飾られていて、初めて来たはずなのに何故か懐かしい気持ちになった。そして何より、私達は周りの客が頼んでいたスパゲティに釘付けになった。それは、山盛りのナポリタンの脇にキウイやリンゴといった色鮮やかなフルーツが盛られた夢みたいなメニューで、名物なのかみんな揃ってそれを頼んでいた。
横目で羨ましそうに眺めていると、どうやら私達の意地汚さが店員さんにバレていたのか、奥からきっぷの良さそうな高齢の女将さんがやってきて「ドン!」と私達のテーブルに何かを置いた。
それは、あの山盛りのナポリタンだった。
私達は慌てて呼び止め、「別のテーブルだと思います」と言ったが、女将さんは「あんた達お腹減ってそうだったから!」と言って、目をまん丸くしている私達に「あんた達、お金ないんでしょ」と言いそのまま奥へ行ってしまった。申し訳なく思いながら有難くいただくと、それはもう、この世にこんな美味しいものがあったのかと思うくらい贅沢な味がした。よく考えたら、それまでろくに外食もしたことがなかったので、もう鼻血モノであった。夢中でがっついていると、奥からまたさっきの女将さんが来て「足りなかったらまだあるよ」なんて言われてしまった。
帰り際、2人で小銭をかき集めてナポリタン代も払おうとすると「頑張って働くんだよ、稼げるようになったらまたきてね」と突っ返されてしまった。なんて素敵な女将さんだろうと感激したが、後から聞くとこの女性はこの店の有名な名物女将だったようだ。

あれから何年か後に行ってみると、お店は既に畳んでしまわれたようで、あの夢のような空間はもうそこには無かった。今思えば、この店は私が純喫茶を好きになるきっかけの店だったかもしれない。
こうして「いづみ」も「ミロ」も二度と行くことがかなわなくなってしまったが、その2つの店の歴史に数日だけでも関われた私は、とても幸せ者だなと思うのだ。

こうした小さな飲食店は、その存在自体が店主の小宇宙と呼んでも過言でなく、まるで丹念に作りこまれたタイムカプセルのようだなと思う。刺激的だが、逆に疲れきった時などはその空間に逃げ込ませてもらうだけでそっと守られているような気持ちになる。
たとえその日一日、誰とも口をきかず幽霊みたいな気分だった日も一人で外食に行ったらすっかり幸せに浸れたこともあったし、落ち込んで知り合いにすら会いたくなかった時も、喫茶店でたまたま同じ空間に居た名も知らない人たちが「そこにいる」というだけでなぜかホッとし、救われた気持ちになったこともあった。
そうした存在が町から無くなってしまったら、私は正気でいられる気がしない。
それに、色んな個性豊かなお店がその町にあるというだけで、同じくらい色んな人が<ここにいてもいい>と肯定されているような気がして、私は安心するのだった。

個人経営の店は、後継者がいなければいつか必ず畳んでしまうが、最近はそれにしたって町を歩いていると空き店舗や「閉店します」の張り紙をやたら目にする。コロナによる自粛の影響が大きいのだろうが、私が年をとった頃には好きなお店や町並みが軒並みなくなっているかもしれないと思うと、未来を想像するのがただただ怖い。小さなお店が減っていって、チェーン店と大型スーパーばかりのどこも似たような景色になり、更なる人口減で荒地のようになっている未来。それどころか、全部が通販になって買い物に行くことすらできないかもしれない……そんな未来は絶対に嫌だ。これを読んでいる人は、まさか大袈裟な、と思うだろうが、最近はその「まさか」ばかり起きているから、どうにも信用できないのだ。少し前までは、年金がもらえなくなる可能性なんて考えてもなかったし、この時代に医療崩壊がおこるなんてことも想像もしていなかった。

何が言いたいかと言うと、来年10月から導入が予定されているインボイス制度が開始された場合、こうした私が大切にしているもの、そして自分自身のような零細自営業者までもが厳しい状況に追い立てられるであろうということだ。
この制度は、免税事業者である本人がインボイスの発行ができる課税事業者になるか免税事業者のままでいるかを選ぶもので、前者を選べば面倒な事務と税負担が増え、後者を選べばインボイスが発行できずに企業との取引が不利になるという、個人で仕事をしている人間にとってはどちらに転んでもろくでもない制度である。業種によっては、駆け出しの人や非課税世帯であっても課税事業者にならざるを得ないこともあるだろうから、そうなるともはや飢饉の年貢の取り立てのようだなと思う。
しかも、取られていった税収は社会保障費に使われず、今まで通り企業の法人税の補填や増額予定の防衛費に使われるのだろうからこれでは金の使い方がわかってないドラ息子に無駄な小遣いを与え続けているようなものだ。なぜ大企業や富裕層の減税の穴埋めに個人の生活があてがわれないといけないのだろう。そんなことをしている間に、どんどん人も、町も、生活も壊されてしまう。

インボイス賛成派の意見に、「インボイス制度が始まったくらいでやっていけなくなる事業者はそもそも淘汰されるべき」というのがあった。
でも、つぶすことは簡単かもしれないが、一度つぶしたものをまた無から作り直すことはほぼ不可能である。
それに、一人一人の人生を、何をもって「淘汰」されることがよしとされるのか、私にはわからない。間違った方向にむかう世の中に適応していくものだけが生存していく世界は、考えただけで息苦しく、虚しい。

もうじき7月10日の投票日である。私は守りたいものを頭に浮かべながら、投票に行く。

The post 「大切な光景」と「インボイス制度」 連載:小指の日々是発明 Vol.6 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
私の「内側」の世界 連載:小指の日々是発明Vol.5 https://tokion.jp/2022/01/31/hibikorehatsumei-vol5/ Mon, 31 Jan 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=92160 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義にて音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第5回は「私の“内側”の世界」について。

The post 私の「内側」の世界 連載:小指の日々是発明Vol.5 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>

私は去年の夏から秋にかけて、これまで描いたことのない長い絵を描いていた。普段、聴いた音楽から浮かんだ情景や色彩を五線譜に描くという作品を作っていたが、今回は音楽以外にも、いつもの散歩コースにいる虫達の声や家人のイビキ、ホーミーの自主練といった日常の音もドローイングした。
最近ふと「生きている」ことが切なく感じることがしばしばあり、今いるここで聴いていた音も、場所も、こんな風に感じていたこともいつかすっかり忘却してしまうのだろうと思ったら心許なくなり、こうしたただ流れゆく小さな音も記録したいと思ったのが制作のきっかけだった。
この作品は「私の中の音の眺め」と題し、描いた五線譜の長さは約30メートルにおよぶものになった。そして、東京都渋谷公園通りギャラリーで開催された「語りの複数性」という展覧会で、年末まで展示をさせてもらったのだった。

私が描く作品は「音の視覚化」がテーマになっているが、もっと詳しく言うと、「どこかに残さなければ誰にも知られないうちに消えてしまう、私の『内側』にだけ存在している音と記憶の視覚化」と言える。
そんな風に、自分の感覚と記憶を頼りに6畳の自室で長い五線譜に延々と描いていると、一種の瞑想状態のような状況になっていろいろなことを思い出すようになった。その時に自分の過去の中から見つけたある気づきを、取り留めもなく書いていきたい。

子供の頃から、両親の影響で絵を描くことが好きだった。特に父親の影響が強く、父が描く絵はもちろんのこと、父が好きだった澁澤龍彦から始まってポール・デルヴォー、野中ユリさんに憧れた。毎日父の本棚からかっぱらうように画集や小説を持ち出しては年齢に不釣り合いな世界に酔いしれ、その頃から将来は絵を描く人になりたいと思うようになった。

小学4年生の頃、誕生日プレゼントに透明のオレンジ色をしたカセットテープのウォークマンを買ってもらい、実家の押し入れにあったラジカセを引っ張り出してきて好きな曲をダビングしいろいろ聴くようになった。木登りも趣味だったので、わざわざ誰も登ってこれないような場所まで登ってはそこで音楽を聴き、感極まって1人でよくひっそり泣いたりしていた。
今思うと、木の上でサルのように身を縮込ませながら感傷に浸る子供の姿を想像するだけでちょっと笑えてしまうが、私にとって学校や習い事で過ごす時間が「外側」で、そうした木の上で音楽を聴いたり父の本棚で出会う世界が自分にとって何より大切な「内側」の世界だと感じていたのだった。
「外側」にいる私は、鈍臭くて叱られてばかりで、おまけに吃音でいつも誰かにからかわれないかとビクビクして格好悪いのだが、「内側」の世界の私は、友達が知らない美しい世界を誰よりもよく知っている夢のような人物だった。
私は「内側」の自分こそが本当の自分で、「外側」は子供のうちだけ耐えなければならない修行のような時間だと思っていた。大人になったらきっと完全な「内側」の世界の自分になって、素敵な毎日を過ごしているに違いない……そんな風に夢を見ながら、幼い日々を過ごしていた。

進路を決める頃になると、古本屋で出会った寺山修司をきっかけに天井桟敷などのアングラ文化に興味を持つようになり、宇野亜喜良さんや横尾忠則さん、粟津清さんのようなグラフィックデザイナーになりたいと思い美大へ進学した。だが、いざ入学すると想像していたものと現実の差にがく然とした。よく考えたら、私が憧れていたものは1960年代の前衛的な雰囲気だったので入学した2006年とは状況が様変わりしていてあたりまえである。
早々に大学を見限った私は、学外で音楽をしている人達と仲良くなり、私自身もバンドを始めた。
授業を休んで地方へライブをしに行ったりと好き放題やっていたが、そんな生活も卒業と共に限界を迎え、私は学生という肩書きも失いスッポンポンのまま社会に放り出されてしまった。これまでバンドのフライヤーやCDのデザインをしてソフトだけは使えたので、どこかのデザイン会社なら引っかかるかもしれないとあわてて数社受けたが、すべて落ちた。
私は完全に自信を失い、結局阿佐ヶ谷の風呂なし月3万円のアパートでフリーター生活を始めることになったのだった。

一番最初にバイトした人材派遣会社は、初めは社員登用ありで社会保険完備と言っておきながらいつまで経っても社保にすら入れてくれないところだった。途端に生活がままならなくなりバイトを増やし、ダブルワークに留まらずトリプルワーク(コンビニ、事務or軽作業、スナック)で生計を立てるようになり、合間に時々ライブをしたり、絵を描いたりという生活が始まった。
バイト先は職種を選ばず、求人内容から人手が足りてなくて切迫した様子が伺えるところを探した。時給が安ければ責任も少ないだろうと思い適当に選んだが、入ってから「時給の安さ」は「人使いの荒さ」に比例することに気づいた。
どこも学歴・年齢・前科不問といった感じだったが、私のあまりの要領の悪さと馴染めなさに、入って早々に苛立ちの目が向けられているのが嫌でもわかった。
私は初回のやる気と愛想の良さだけは持ち合わせているが、その後の持久力が絶望的にないのだった。

人と関わる仕事よりも、1人で床にへばりついたガムを擦り落としたり、便器を綺麗に磨き上げるような作業の方が好きだった。そうした単純仕事は無心になれたが、ふと我に帰った時に「こんなはずじゃなかったのにな。おかしいな」と思った。そして、職場で雑巾のような扱いを受けると、自分の辛さよりも先に不思議と親への申し訳なさが込み上げた。
唯一人間扱いしてくれた職場は、意外と思われるかもしれないが水商売の世界だった。店のママが優しい人だったのだ。でも、自分には絶望的に向いていない業種だった。

昼の仕事中、ちょっとした雑談で「休日何してるの?」と聞かれた時、「絵を描いたり、美術館に行ったりしています」と答えたら鼻で笑われたことがあった。私はここでは自分の好きなものについて言いたくないと思った。
私は自分のことを否定されて傷つくのが嫌で、極力自分の話をしないようにしていた。それがよくなかったのか「何の趣味も無い、暇そうな人」と誤解され、やたらと飲み会や交流会に誘われたり、変な男を紹介されたりと、ありがた迷惑なお節介を次々と焼かれた。そして、それらをいちいち断るたびに時給以上の無駄な労力と謎の罪悪感にさいなまれた。
この社会は、面倒なこだわりは一切手放して、もっと自分を単純化させて心を鈍化させないとやっていけないのだと悟った。
そうして私は少しずつ自分の「内側」の世界を閉じていった。

この頃くらいに、自分の髪の毛を引き抜く癖が出始めるようになった。実家の家族は、まるで薄毛のカッパのようになった私の頭頂部を見て驚き「帰ってこい」と言った。その度に私は「東京じゃないと絵の仕事がもらえない」なんて言い訳をしていたが、すべて大嘘だった。実際は絵の仕事なんて来るはずもなく、3つのバイト先と自宅をぐるぐる回るだけの回し車のような生活をしていた。
着々と老いていく親の姿を見ると、もしこのまま誰かが病気にでもなったら私は一生後悔するだろうなと思った。数年後、まさかその通りになってしまうとは流石に思ってもいなかったが。
そして、東京で作家を目指すことと引き換えに教員免許を取ることを約束し、「大体30歳くらいまでやってみて、無理だったら教員になる」ということで話はまとまり、私は1人暮らしのアパートへ戻っていった。

後日、私はバイトの貯金から通信制大学の入学金を払い、働きながら教職の勉強を始めることになった。土日は授業があり、明け方に小論文を書いたりしていると絵を描く時間はおろか、寝る時間まで無くなった。勉強を始めてみるとそれなりにためになっておもしろかったが、とにかく毎日睡眠不足で何が目的でこんな生活をしているのかもわからなくなり、自分は一体何にしがみついているのか、そもそも夢なんてなければこんな思いもしなくて済んだんじゃないかと思うようになった。もっと現実的な外界の世界に興味を持って、裏も表もない人間になって、社会に合わせて真っ当に生きれば私の問題なんて全て解決するんじゃないか。そのためには、自分の「内側」の世界を完全に閉ざして、「外側」である社会に合わせて生きればいい。でも、それは私として存在することまで捨ててしまうことだと感じた。

結局、自分自身で何も選択できないまま思い悩んでいる最中、父が手術中の事故で脳に重い障害が残り、遷延性の意識障害になってしまった。この出来事が決定打となり、私はもう完全に自分の夢から手を引いて現実の世界で生き直そうと思った。
お金が無ければ大切な存在に何かあった時に何もできないという現実を突きつけられたことが大きかった。

近所の小学校へ教育実習にも行き、「私もいよいよカタギになるのか……」なんて思っていた頃、毎日通っている道の途中に古めかしい喫茶店を見つけた。恐る恐るのぞくと、中にはワイン色の椅子と赤い絨毯が敷かれ、アンティークな家具や小物がひしめき合い、まるで夢のような空間が拡がっていた。店で飼われている猫が、ソファの背もたれに乗っかってだらりと寝ている。その世界は、美しくて少し奇妙で、まるで父の本棚で見た世界のようだった。私はその日から、掛け持ちのバイトの合間にほぼ毎日ここへ通うようになった。

この喫茶店では、読書をしたり音楽を聴きながらぼんやりしたりと、まるで自分の部屋のように過ごさせてもらった。ここにいると、子供の頃に夢見ていた「内側」のまま大人になれたもう1人の自分になれたような気分になるのだった。

ある日、たまたま読んでいた本の中に「探しているものは無意識(自分)の中にある」という一文を見つけ、私はその言葉に釘付けになった。確かユングの著作だったと思うのだが、さっき本棚をひっくり返していくら探してみてもどこにもそんな本は見当たらなかったので、私が勝手に別の文を都合よく解釈したか、そもそも違う人の本だったという可能性もあるのだが、とにかく当時の私は衝撃を受けたのだった。自分が何を求めてるのかもわからないくらい混乱しているのに、本当にそんなものが自分の中にあるのだろうか。そんなもん初めからあったら苦労してないよとも思いつつ、喫茶店の椅子にもたれて、ぼんやりと考えてみた。

そのうち、徐々にいろいろなことを思い出した。
小さい頃に木の上で音楽を聴くのが好きだったこと、昔から音楽を聴いている時に頭の中にたくさんの色彩が浮かぶこと。どうせ全部諦めてしまうなら、あの頭の中に浮かぶ色彩と形をせめてどこかに記録しておこうと思った。
初めて描いたのは、大好きなダニエル・ジョンストンの曲を聴いている時の頭の中の景色だった。「ずっと忘れていたものをやっと見つけた」、そんな気分だった。

私は、今も音を聴いて頭の中に浮かんだ情景を追いながら絵を描き続けている。多分、絶え絶えの蝋燭の灯のようだった「内側」の世界が、あの時にムクムクと再生したのだと思う。やっぱり私は、どうしても自分の思うように生きたいと思った。長年の親不孝を公務員になって一気に晴らそうと必死になっていたが、そんな気持ちでは自分どころか将来関わるはずの子供にも失礼だし、両親も本当はそんなこと望んでいなかった気がする。私はこれまで、肝心なことを言葉にして伝える努力を完全に怠っていた。

その後、父の看護を通じて手に取った小川公代さんの著作『ケアの倫理とエンパワメント』の中に、こんな一節があった。

<人間には、連続的信仰の『クロノス的時間』とは別の『カイロス的時間』が流れている。それは、経験に基づいた想像世界が育まれる時間である。」ウルフのように、考え、葛藤し続け、豊かな想像的時間を紡いでいる人も女性パートタイム労働者のなかにいるはずだ>

私はこの文章を読んだ時、大変おこがましいことを承知で言ってしまうが、真っ暗闇の中でいきなり自分にスポットライトが当たったような気持ちになった。
あの頃、私は心の中で、この先もし犬死にせず何かを発表できる立場になれたら、これまで思ってきたことや考えてきたことを、自分の言葉で表現したいとずっと思っていた。
私は人と違うのが怖くて、単純で何も考えてないふりばかりをしていた。でも、私がずっと大切にしてきた自分の複雑な「内側」を、自分の表現でこの世に存在させたかった。
「語りの複数性」の搬入の日に、建築家の中山英之さんに構成していただいた自分の作品の全景を見た時、そんなことを走馬灯のように思い出したのだった。あの頃の私が未来の自分に託した願いが、この「私の中の音の眺め」に繋がっているのだと思う。

最後に、ノートに書き留めて今もたびたび眺めている「語りの複数性」展のキュレーターの田中みゆきさんが書かれたステートメントの一部を、ここで抜粋させていただく。

「この展覧会は、フィクションであり、ドキュメントでもあります。つまり、どの作品も創作物でありながら、人とは異なる感覚や経験に裏打ちされていたり、経験していない現実を自らの身体をもって受け取り、表現する試みが描かれています/それは、ここではないもうひとつの世界を表現しているのではなく、この世界をもうひとつのリアリティをもって生きる人の存在を感じさせます/だからこそ、今この瞬間、あなたから紡ぎ出される語りは、あなたの身体と記憶や経験が結びついて生み出される、あなただけのものと言えます。」

どんな人にもそうした「内側」の世界がある。
私は何度もその「内側」を手放そうとしたが、それは自分の影まで捨てようとするくらい不自然なことだった。
私の「内側」は、悲しみも喜びも、さまざまな刺激を受け入れて今も生きものように変容している。多分、過去も未来も、本当は私達の内側にすべて内在しているのだと思う。
そして、その内側の世界を信じて手放さなければ、私はこの先どんなことがあったとしても後悔せず生きていけるような気がしている。
いまだに器用な生き方というのは全くもってわからないままだが、これだけは大切にしておこうと思う。私の中にある、小さな内側の世界を。

The post 私の「内側」の世界 連載:小指の日々是発明Vol.5 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
日常と、芸術の存在意義 連載:小指の日々是発明Vol.4 https://tokion.jp/2021/08/13/hibikorehatsumei-vol4/ Fri, 13 Aug 2021 03:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=51657 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義で音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第4回は「日常と、芸術の存在意義」について。

The post 日常と、芸術の存在意義 連載:小指の日々是発明Vol.4 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>

去年頃からだろうか。これまでずっと理由をつけて会っていなかった母と、時々連絡を取り合うようになった。コロナの流行と、母の退職がきっかけだったように思う。
先月もグループ展があり、その展示の主催がたまたま母が若い頃に愛読していた美術雑誌の会社だということを知った。誘ったら喜ぶだろうなとは思いつつ、如何せん高齢の母を外へ連れ出すのは心配で、散々悩んだ挙句一応声だけかけてみることにしたのだった。
思いきって誘ってみると、光の速さで「行くよ」と返事が来た。しかも、「明日行く」と言う。最近長く続けた仕事を辞めたばかりともあって、母もコロナ禍で随分時間を持て余しているようだった。

当日東銀座駅の出口に着くと、階段のところに前よりも随分と小さくしぼんだ母がいた。白髪染めをやめたのか、ちょっとショッキングなほど年老いて見えた。気持ちが追いつかずおどおどしていると、母の方が「ああ、いたいた」とこちらに気がついた。
家族なのに、私達はいつもどこかよそよそしい。母とこうして出かけるのも随分久しぶりだった。昔は、競歩のように歩く母の背中を見失わないようついて歩くことにいつも精一杯だったような気もするが、今や祖母と歩いていた時みたいに母の足元を気にしながら歩いている自分がいる。

会場は、駅からほど近くにある「銀座SIX」というビルだった。
母はどうやら「銀座SIX」を雑居ビルかなんかだと思っていたらしい。本物を見た瞬間に急に慌てだし、私のインドパンツを引っ張って「あんた、こんなの銀座に履いてくものじゃないよ! やだよもう、本当に服に頓着しないんだから……」と突然嘆きだした。
「言ってくれたらもっと上等なもの持ってきたのに……」。母がそう言って持ってくるのは、いつもきまってウエストにゴムの入った股上深めのスラックスだった。そのため 私の洋服箪笥は既に9割がた母のお下がりでジャックされており、普段着にもパジャマにも使えないようなものばかりで今も非常に困っているのだった。
エスカレーターで、会場の銀座 蔦屋書店のある6階へ向かう。母は辺りを見回し、吹き抜けに飾られた現代美術を見て「いいわね、ああいうの」なんて言っていた。6階に着き、正面に飾られた美しい色彩の写真を見ると「あら、あら、綺麗」と声を弾ませていた。

母は定年まで、小学校で図工教諭をしていた。私と血が繋がっていることが信じ難いほど仕事に熱心な人で、現役の教員時代は私なんかよりもあちこちの展覧会を回り、家の中は図工の指導書だらけで、土日も休まず教材研究をしているような人だった。
母は根性があり、自分にも他人にも厳しい人だった。その点私は怠け者で、ボーッとしていて気が弱い。すべてにおいて真逆の私達は顔を合わせるたびに喧嘩し、いつだったか私がスーザン・フォワードの「毒になる親」を無言で送りつけたことをきっかけに関係は決定的に決裂した。
それからいろいろなことがあってこうして連絡をとりあうようにはなったが、今もお互いじりじりと距離を詰め合うような関係でけして穏やかとは言えない。正直、今日だって会うのが少し怖かったくらいだ。
母はもともと、絵描きになりたかった。だけど美大の進路を親に反対され国立に進学し、教員として美術に携わって生きてきた。今は退職してほとんど家にいるが、こういう場所にいる母を見るとやっぱり今も美術が好きなのだろうなあとしみじみ思う。母は教員を「天職だった」と言い、私も傍で見ていてその通りだなと思うけれど、周りのために我慢をしてきた母と、周りを困らせてまで自由を選んだ私とではそうした点でもやっぱり真逆なのであった。

書籍が置かれたスペースには立派な椅子があり、見本の本が自由に読めるようになっていた。母は、並べられている上等な画集をめくりながら「これ全部、読んでいいの? 国会図書館みたい」と子どものように目を丸くした。
そうしてあちこち見物しながら歩き、フロアの中央にある展示スペースに着くと母は後ろで手を組みながら「フーン」と言い、私の絵を眺め始めた。
1つの作品が売約済みになっていた。母に言うと、「いくらで!?」といきなりがっつきだし、値段を言うと母は絶句した。「誰が買うの……」。そして、右や左、正面から絵をまじまじと観察し、「なるほどね、これは色が綺麗だもの。普段うんこ色ばかり使うあんたが珍しく綺麗な色を使ったよ」と、褒めてるんだか貶してるんだかよくわからないことを言った。
ああだこうだと言い合っていると、突然母がここでは絶対口走ってはならないことを叫んだ。
「あんた、これまさかうんこの写真じゃない?!」。
会場が若干ざわついた。うんこの写真など全く身に覚えが無い。母は一体何を……と恐る恐る母の指す先を見ると、それは茶色いイソギンチャクの写真を使ったコラージュだった。
「うんこじゃない。これは海洋生物」と正しても、母はなかなか納得しない。それどころかその後もあちこちを指差しては神妙な面持ちで「これももしかして……?」などと言う。どうやら、何でもかんでもうんこに見えてしまっているらしい。私も困り果て、「違うって! それにさっきから私の絵はうんこ色だって言うけど、私はこういう色が好きなんだよ。綺麗なだけのものには興味がないんだよ」と言うと、母は「ハア〜……」と大袈裟にため息をついて、「色彩感覚を磨きな。色の研究が必要だね。葛飾北斎を見習いな」と、あきれた顔で言った。どうやら先日、葛飾北斎のドキュメンタリーを見て随分と感銘を受けたらしい。
そして母は、「さすがにうんこはだめだよ、うんこは……」と言い残し、他のフロアへ1人でスタスタと行ってしまった。
母がいなくなって会場が静かになると、私はようやく自分達に向けられていた会場スタッフの厳しい視線と緊張に気づいた。大変気まずかったが、久しぶりに母が楽しそうにしている気がしたので良しとした。

展示を見終えたあとは母の用事に付き合い、近くの駅の改札まで母を見送ると別れ際こんなことを言い出した。
「あんたの絵は別に好きじゃないけど、見たあとは何でか息がスーッとして、自由な気分になる。何でだろうね」。
私は思わず「えっ」と声が出た。これまでそんなこと一度だって言われたことが無かった。びっくりしていると、母はこう続けた。
「こないだのあんたの個展の帰りも、電車の中で揺られながら『こんな自由な気分になれることがこの世にあったんだ』って、いろんなこと思い出した。今もあの日を思い出すと、心の中がポッと温かくなるような気がするよ。
あんたはいつもブツブツ言ってるけど、心の奥には自由が流れてるんだろうね。それが作るものに出てるよ」。
そう言って、母はそのまま背を向け改札を抜けて乗り場の方へ行ってしまった。
私は慌てて「またね」と言ったが、あっという間に見えなくなってしまった。

私はこの時の母の言葉が、これまでかけられたどんな言葉よりも嬉しかった。そして何より、ずっと「気難しく、恐い人」と思っていた母が1人でそんな風に感じていたと思うと、なんだか複雑でたまらない気持ちになった。そしてその母の感覚は、私にもとても身に覚えのあることのように思えた。

そういえば、コロナ禍が訪れるまではよく、美術館や小さな映画館に1人でフラッと行っては、非日常の世界に逃げ込んでいたなあと、ふと思い出した。人の少ない美術館も、空席の多い映画館も、今思えば聖域のような不思議な力のある場所だった。そして、本屋も図書館もライブハウスも、私にとって現実の抜け道のようだったそれらの場所にすらここ最近ずっと行けていない。
自粛ばかりの今を思うと、過去の私はずいぶん贅沢な時間を過ごしてたんだなあと思う。

今でもよく覚えているのが、2005年に渋谷の文化村で観たレオノール・フィニの展覧会だった。友人に「絶対好きだから」と誘われ、放課後に高校の制服のまま連れ立って行ったのだった。
暗く静かな会場でレオノール・フィニの作品と対峙した時、初めて見る不思議な色彩に驚いて、目を見開いたままその場から動けなくなってしまった。横を見たら、友達も同じく口を開けたまま放心していた。
図録を買うほど小遣いも無い私達は、自分の眼の中に作品を少しでも盗み入れたくて、2人並んだままじっと絵を眺め続けたあの日のことを今もよく覚えている。
そうして私達は美大の予備校へ通い始め、私はその日から自分の絵を描き始めるようになった。後で連れてってくれた友達にそのことを話したら、彼女は「わかる、わかるわ〜」と言っていた。

そんなことを思い出したら、改めて美術をはじめとした芸術作品は限られた特別な人間のものではなくて、あの時の幼い私達や自分を抑圧してきた母のような人に開かれるべき存在と思えてならないのだった。私もいまだに、遠くにぼんやり見える表現の世界への憧憬だけを頼りに生きている。これが無かったら、私はもっと何もわかろうとしないまま今も生きているのだろうなと思う。
作者が自己を解放させて作ったものには、観た人もまた何かが解放させられる力が宿るものだ。ここしばらくウイルスに怯えすぎて、そうした芸術の醍醐味さえ私はすっかり忘れてしまっていた。

自分が過去救われてきた数々の誰かの作品を頭の中で浮かべていたら、母の言った「お腹の中がポッと温かくなる感覚」を私も感じたような気がした。
自分も、誰かにそうやって思い出してもらえるような作品を人生で1枚でも作れるだろうか。せっかく気づけたのだ、頑張りたい、と思った。

これが、1ヵ月前の気持ちだった。
そこから東京の感染者は坂道を転がり落ちるように増加し、このたった1ヵ月で東京の医療は完全にひっ迫した。病床が足りなくなり、首相は「入院対象を重症者に絞り込む」と言った。まるで現実でないようなことが起きた。
あの時、当たり前にこれからの未来を頭に思い描いていたことが、今やもうただの願望みたいだ。
でも、まだまだこれから向き合いたいことがたくさんある。
諦めきれないほど大切な存在が山ほどある。
私が救われてきた文化芸術も、日々の喜びも、けして特別なものなんかじゃなくてただ何気ない日常の中に転がっていたものだった。
そういえば、昔の日記に私はこんなことを書いていた。
「寝る前の数分、本を読む時間があれば何があっても生きていける」。
メダルの数とか、国の見栄なんかいらない。それよりも、私は奪われ続けている個人的な日常を1日でも早く取り戻したい。
身も心も無防備に感動したり笑ったりしていた頃が、遠い昔のようである。

The post 日常と、芸術の存在意義 連載:小指の日々是発明Vol.4 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
自己治療としての「創作の効能」 連載:小指の日々是発明Vol.3 https://tokion.jp/2021/06/03/hibikorehatsumei-vol3/ Thu, 03 Jun 2021 08:00:48 +0000 https://tokion.jp/?p=35853 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義にて音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画コラム連載。第3回は「創作の効能」について。

The post 自己治療としての「創作の効能」 連載:小指の日々是発明Vol.3 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>

どんなに悲しかったことも苦しかったことも、自分の言葉で気持ちを書き連ねると、不思議と心の中が整理され浄化されたような気持ちになることがある。
私はそうした変化を、「創作の効能」と呼んでいる。

私は一時期、「絵を描くことを仕事にしたい」と言いながらその日暮らしのバイトに明け暮れるという矛盾した日々を過ごしていた時期があった。そして、夢中になってやったレジ打ちや軽作業のようなバイトが自分の夢に対して明らかに不毛な努力だと気づくまで、信じられないことに20代のほとんどを費やしてしまった。

作家志望の私がこうした労働生活の沼にはまり込んでしまったきっかけは、単純に貧乏だったこと、そして作家活動を優先するために比較的シフトの融通がききやすくその上で自分でもできそうな仕事……という感じで適当なバイトを選んだら低賃金すぎて肝心の生活ができず、見境なくバイトの掛け持ちをするようになったことだった。貯蓄が無いことへの不安感から寝る間も惜しんで働いていたら精神的にも余裕が無くなり、人手が足りないからシフト増やせと頼まれれば断れず、稼いだお金も人に使ってしまったりして、制作を優先したつもりが全くそれどころじゃなくなってしまった。
実際は低賃金でいいように使われていただけなのに、あの頃の私は憧れの作家の苦労時代の話なんかを貪るように読んで「自分も同じように頑張っていたらいつか必ず報われる」と自分を無理矢理に鼓舞させていた。でも、その先生達は下積みの傍らちゃんと自分の制作をしていて、私は肝心の制作はおざなりになっていたのだから同じようになるわけがない。そんな一目瞭然のことにも気がつけないほど周りが見えない状況に陥り、描こうとしても日々の苛立ちや将来の不安で気が散ってうまく描けない日が続いた。
それでもあの頃の自分は不気味なくらいどこか高揚していた。小さい頃から「あんたは何も続かない」と怒られてばかりだった自分が、こんなにバイトを続けられている。しかも毎日、3つの職場を掛け持ちしてる。「絵は描いてないけど人間としてはすごい成長かもしれない」なんて思っていた。でも、今思えばせめて絵や漫画に関わる仕事をすればよかったのに、あの頃の私はコンビニや日雇いの軽作業ばかりを選んだ。自信が無かったのだと思う。そうして私は、まるで何かにとり憑かれたように早朝から深夜まで労働に明け暮れた。
同世代の子達が真っ直ぐ努力する様子を遠くから眺めながら、頭のどこかで「このままじゃ私は絶対無理だ」ということにも気づき始めていた。でも、一度転がり落ち始めた人間はなかなか自分で生活の軌道を修正できないものだ。本当の意味で「こんなことをしてる場合じゃない」と目が覚めたのは、父が突然の事故で意識不明になってしまってからだったと思う。 28歳の頃だった。

私は非行に走ったりすることはなかったが、自分の行動を思い返すたびに呆れるほどの親不孝者だったなと心が痛む。父の日や母の日に何かを贈ったことは一度も無いし、正月すら実家に帰らなかった。母とのぶつかり合いが多く、その度に家族に迷惑をかけたので家を出たのだが、時々実家の空気が懐かしくなって連絡もせずふらっと立ち寄ることがあった。家族から「寅さんみたい」とよく言われていたが、そんな娘を父は何もとがめず、その度に「ちゃんと食べてるか」「これ持ってきな」と冷蔵庫の中の食材をよこしてくれて、私はそれを受け取って無口な物乞いみたいにそそくさと家を出た。
私は私で自分のふがいなさと後ろめたさで親を避け、父もまた、私のことを腫れ物に触れるような気持ちでいたんだと思う。
でも、私は父に全く興味がなかったというわけではなかった。体が悪いと聞けば無けなしの貯金で高価な健康食品を贈り、父も父で私が抜毛症で髪が薄くなっていた時期に女性用の育毛剤を買って置いてくれたりしていた。多分、二人とも愛情の示し方が少しズレていた。だけどきっとお互い色々思っていた。

お父さんと言葉をかわした最後の日のことは、今もまるで昨日のことのように覚えている。
私がガサガサと鞄の中に食料を詰めながら「ありがとう」と言って家を出ようとした時、お父さんが「もう行っちゃうのか」と尋ねた。私は「これからバイトがあるんだ」と言って家を出て、その日もそのまま深夜まで働いた。それが最後の会話になるなんて、まさか夢にも思っていなかった。最低賃金程度のはした金のために、本当に馬鹿だったなあと思う。
もっとたくさん話をしたかった、優しくしたかった。

そんなことがあったから、私は家族も未来も捨てて馬鹿みたいにバイトに捧げきってしまったあの頃の自分を悔いた。一刻も早く、自分を変えたいと強く思った。
それから、本を作ったり展示をしたりと色々自分から始めるようになって少しずつ状況は変わっていったけれど、夢中で何かを作っている時はよくてもふとした瞬間に「いくら頑張ったところでもうお父さんには報告できない」ということを思い出してしまうと、どうにもならない気持ちになった。気持ちを吐き出したくても可哀想な人と思われたくないから誰にも言えず、実際人に話したところで自分の感情を水で薄めているようにしか思えなかった。初めの2年くらいは、「お父さんが目を覚ませばすべてが解決するはずだ」と毎日病院に通ってリハビリなどに躍起になっていたが、医者に何度も「回復は絶望的」と言われるとすっかり目的も見失った。
こうしたどうにもならない悲しみや背負いきれない罪悪感を抱えてしまった時、みんなはどうしてるんだろう? 私はこの先、一生父への罪悪感を抱えたまま生きていくんだろうか? 自分が悪いんだけど。
いっそのこと全部忘れてしまいたいと思った時、せめて何かの形で残しておこうと描き始めたのがこの『せっかちSさん』という短編漫画だった。自身の非正規ワーキングプア時代のことを描いたものだ。

なんで身近な人にすら言えないことを不特定多数の人が見る場に公開したかというと、あの時の私は自分を隠せば隠すほどどんどん暗い場所に追いやられているような気持ちになっていて、その時最後に「助けて」と叫んだ断末魔の叫びのようなものがこの作品だったのだと思う。

私はいつも仕事の後、近所の喫茶店に通ってこの漫画を描いていた。その時間だけはまるで絶対安全な聖域の中にいるような安心感と充実感があった。私は誰にも言えなかった気持ちを紙に吐き出し、それを原稿用紙は無言で受け止めた。 そして、編集者役を買って出てくれた友人・モリブタがあれこれアドバイスをくれて、どうにかこの作品を完成させることができた。 23ページ足らずだったが、完成した直後の不思議な疲労感と達成感は今でも忘れられない。

 完成した『せっかちSさん』を読み返した時、私は原稿用紙ごしに歌舞伎町の喧騒をとぼとぼと歩くちっぽけなあの頃の自分の姿を見たような気がした。そして気づくと「あれは全部仕方なかった」と呟いていた。自分でもびっくりした。恐らくあの時、私は少しだけ自分のことを赦せたんだと思う。

創作には、このように自分のこんがらがった状況を寛解する力があり、また自分自身を分析する方法としても有効のようだ。
かつての私は、狂ったように日銭を稼ぎながら頭のどこかで「なんで自分は本当の夢と真逆の努力ばかりしてるんだろう」と、自分のことにも関わらずずっと不思議で仕方がなかった。でも、漫画で描いたことでそうした行動は私の中に巣食う劣等感と大きく関係していると気づいた。
とにかく自信が無くて人と関わることも苦手だったから、最低賃金以下の環境であっても「自分を受け入れてくれる場所があった」とほっとし、搾取されることに対しても不満を感じるどころかどこか安らぎすら感じていた気がする。むしろ「やっと自分相応の居場所を見つけた」くらいに思っていた。あの時は、交通費すらくれない職場が私にとっての擬似家族だった。
気づかないうちに色々限界だったのだと思う。
私があの時、時間が無いなりに仕事終わりに喫茶店に足繁く通って漫画や絵を描いていたのは、あの時の私にできた精一杯の自己治療だったのだろうなと今ならわかる。

どこかで「人の部屋の荒れ具合は、その人の頭の中を表す」と聞いたことがある。それが真実だとすれば、ゴミ屋敷に暮らす私の脳内は言わずもがなだ。確かに、物心ついた時から私の頭の中はずっとこんがらがっていた。他人の頭と見比べることができないので比較は難しいけれど、私が同世代よりも要領が悪かったり幼稚だったのはそうしたところに関係があるような気がする。
そんなふうに頭の中にたくさんの不用品を詰めたまま生きている私が、自分を再確認したり救いだすことができる方法として「創作」がある。色んな感情で思考停止のエラーに陥ってしまっても、自分の身に起きたことを一つの物語に見立てると不思議と突破口が見えてくる。ここまで読んで「なんか自分と似てるな」と感じた人がいたら、ぜひ辛いことがあった時はこの方法を試してみてほしい。

私はその後も、色々な気持ちを物語にした。彼氏がお酒の問題で大変だった時のことも、日常があまりにも辛くて夜に見る夢の世界に現実逃避していた時なども、全て『宇宙人の食卓』『夢の本』と名付けて 同人誌にした。
そうしてみてわかったのは、生きてる限りどんな人にも嬉しいことや悲しいことが突然降りかかることがあり、それは私達のせいではない、ということだった。
まだすべてと折り合いがついたわけではない。
でも、未来のことが怖くなって急に足がすくんでしまっても、「何かが起きても自分の物語が増えるだけ」と自分に言い聞かせると少しだけ心が楽になるのだった。

私は自分以外にも、この世の音楽家、芸術家、作家達の創作にたくさん救われている。
最近はYouTubeもよく観る。その中でも、「街録ch」というチャンネルに特にハマっている。この番組は、いわゆる「普通」の範疇に留まらない人達が登場しそれぞれの人生を語っていくのだが、その話は苦労話から背筋が凍るような話まで壮絶な話が多く、初めは「怖い」「ヤバいな」という感情しか起きなかったような人にも、見終えた頃には不思議と身近に感じ、人によってはファンになってしまっていたりする。不思議な魅力のある番組なのである。

ある日、その街録chを何気なしに見ていると、主題歌である大森靖子さんの「RUDE」という曲が耳に入り私は釘付けになってしまった。

「気まぐれのさよならを
いつでもなかったことにできるよ 
生きてさえいればいい」

大森靖子「RUDE」

この部分を聴いた時、私は溢れた涙を我慢することができなかった。
私はこれまで、表現で頑張って、バイトに逃げていたあの忌々しい時期を帳消しするくらいの存在になることが親への恩返しだと信じて一生懸命やってきたつもりだ。だけど、それでも心のどこかでどれだけ詫びれば父に気持ちが伝わるだろうとずっと鎖に繋がれたような気持ちでいた。
でも、この「生きてさえいればいい」という歌詞を聴いた時、もしかしたら父は私を玄関から送り出す時いつもこんな気持ちでいてくれてたんじゃないかな? と思った。そしてこれまでの父への色んな感情が止まらなくなった。
そういえば、父との本当の最後の会話は「慌てないでね。ゆっくりね」だった。
だからやっぱり、そういうことなんだろうなあ、と思う。
私と父は会話は少なかった分、それまでの時間を取り戻すかのように病室で濃い時間を過ごした。結果的に普通の親子と同じくらいの時間を過ごせているかもしれない。世の中にはそんな親子もいるのだ。

私は、自身の創作は勿論、色んな人が魂を削ってつくってくれた創作にも沢山大切なことを教えてもらい続けている。
これが、私が30 年ちょっと生きてきて身をもって学んだ「創作」のもつ効能なのであった。

最後に1つ告知です。
今、日々制作しているscore drawing作品を都内で展示しています!
この絵画達も、私が色々だめだった頃に見つけた産物です。もしご興味もってくださった方は、大変なご時世ではありますがどうか気をつけて見にいらしてくださったら幸いです!

■小林亮平、小林紗織2人展 「お腹まで2時間35分」
会期:5月20日~6月7日
会場:NADiff Window Gallery
住所:東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 1F
時間:13:00~19:00 ※最新情報は公式ウェブサイトにて要確認
休日:月曜、火曜、水曜日
入場料:無料
http://www.nadiff.com/?p=23653

TOKION LIFESTYLEの記事一覧

The post 自己治療としての「創作の効能」 連載:小指の日々是発明Vol.3 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
「ハラスメント」に負けないために 連載:小指の日々是発明Vol.2 https://tokion.jp/2021/04/01/hibikorehatsumei-vol2/ Thu, 01 Apr 2021 11:00:04 +0000 https://tokion.jp/?p=25936 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義にて音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画コラム連載。第2回は「ハラスメント」について。

The post 「ハラスメント」に負けないために 連載:小指の日々是発明Vol.2 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>

私には困った思考の癖がある。何か問題が起きると、すぐに自分の性格すべてに元凶があったのではと考え「だから私はダメなんだ」とひたすら自己卑下に走る。
特によく引っ張り出されるのは、絵を描いたり漫画を描いたりという自分の一貫性の無い活動に対するコンプレックスだった。
20代のはじめはバンドでドラムを叩いていて、気付くと子どもの頃から好きだった絵を再び描き始めるようになった。そして漫画も描いたり、時々文章も書いたりするようにもなった。
これらの創作はどれも私にとって欠けてはならないものに違いないのだが、元気が無くなるとすぐ「この中途半端さが自分が本物になれない元凶なんだろうな」と、心の中で自分を責めだしてしまう。
でも、自分以外の人にはそんな風には思うことはない。他の人には「いろいろできるんだなあ。すごいな」と感心するだけのことが、自分には自己嫌悪を引き出すスイッチになってしまうのだった。
この感情は一体どこからきたのだろう。そう考えた時、私は作家を始めたばかりの時に受けた嫌がらせの数々を思い出した。

最近「ハラスメント(=嫌がらせ)」という言葉を散見するようになって、やっと自分がこれまで受けた被害の輪郭をやんわりと捉え直せるようになった。
何か嫌な目に遭っても、「女だから仕方がない」「自分は生意気だから、目をつけられても仕方がない」…そう思いながら、それでも実力をつけて変な虫が寄ってこない作家になろうと自分なりに必死にやってきたつもりだった。
でも、何故ただ絵を描いているだけ、音楽をしていただけの私があんな目に遭わなきゃいけなかったんだろう。それが未だにどうしてもわからない。

私は、自分の活動の拠点であった音楽と美術の両方で嫌がらせに遭った。
1つはライブの対バン相手だった。自分の演奏までの待機中、ある男とたまたま目があったので挨拶をしたら突然上半身を触られた。それだけで、と思うような人もいるかもしれないけど、私は不快感と恐怖で頭の中が真っ白になった。その時、相手は笑っていた気がする。もしかしたらコミュニケーションか何かのつもりだったのかもしれない。
ここで怯んだり隙を見せたら相手はさらにつけ上がるだろうと感じ、私は恐怖を感じつつも渾身の力で睨み返した。すると相手もまずいことと悟ったのか、逃げるように去っていった。気持ち悪さと怒りで頭が沸騰しそうになったが、自分の演奏の出番がすぐ後に迫っていたので私は必死に気を紛らわせてその場を無かったことにしてしまった。それが結果、良くなかった。

男は、その後も何を勘違いしたのかしつこくDMやリプライで粘着してきた。逆上されたら何をされるかわからないので極力刺激しないようにしたが、相手の全く反省のない態度に痺れを切らし、「あの時触りましたよね」と問いただすと男はあろうことか「覚えていない」としらばっくれた。ずるい奴だなと怒りが込み上げたが、私は勇気を出して「もう連絡をよこさないでほしい」と伝えた。
これで流石に連絡も止まるかな、と思ったのが甘かった。それどころかさらにエスカレートした。
男の知人達は、面倒な奴とわかってるから関わりたがらず何もしてくれない。
結局私のほうが、その人物が現れそうな場所に近づかないようにしたり活動を制限したりして、折れる他なかった。
後から知ったことだが、その男は猥褻行為の常習犯だったらしい。

こうしたあからさまなセクハラ以外にも、自分の個展やグループ展で不快な被害に何度も遭った。
そのうちの1人は、わざわざ会場に来ては私の作品をけなし、しつこくつきまとい私が嫌がる様子を見て喜んでいた。ダメ出しをして上に立とうとすることで、とにかく自分を認めさせたくて仕方がなかったのだと思う。
私の初個展の日も、その男はオープンと同時に来て誰よりも先にレセプションの食事を食い荒らしていた。まるで住居進入してきた不審者に冷蔵庫の中を食い荒らされてるような気分だった。この恐怖は経験した人にしかわからないだろう。
私が呆気にとられて見ていると、男もこちらに気付いて口いっぱいに食べ物が入ったまま「いた!」と指をさしどんどん近づいてきた。
逃げなきゃ、と思ってふと男の隣にいた連れの女性を見ると、その女まで私を指さして笑っていた。
言葉にできない屈辱だった。
今だったら、その悲しい人達に何か言い返すなりしていただろうが、その時20代前半だった私は何も言うことができなかった。
とにかく関わりたくない一心で、ギャラリースタッフに事情を話し観にきてくれたお客さんを掻き分け私は会場から走って逃げた。自分の個展なのに。
本当に情けなかった。

今思えば、出禁にしたりそれなりの措置をとればよかったんだろうが活動したばかりで何も知らない私はただ耐えることしかできなかった。あの頃はバイト、バンド、制作とあまりにも毎日忙しくて、友達も少なく誰かに相談することもできなかった。それに、自分ばかりこんな連中に絡まれているということが恥ずかしくて仕方がなかった。
その後も、自分の展示のレセプションさえビクビクしながら出席しなくてはならないという困った状況がしばらく続くようになってしまった。

他にも、私のことが気に食わないからと1日に何十回も着信を入れてきた人がいた。
少し目を離すだけで履歴がその男の名前で埋まる。こちらも我慢の限界で、思わず電話に出ると怒り散らした男の声で「いろんなことを中途半端に手を出す(初めのほうで言った一貫性の無い活動についてだと思う)お前みたいな人間は、これしかないと一筋でやってる俺らにとっては目障りで仕方がない」「気に食わない」とまくし立てられた。

確かに一理あるかもしれないが、その人は恐らく自分の活動のうまくいかなさを私にぶつけているだけだった。
味方も少なく、見た感じも弱そうな私は格好の標的だったのだろう。
本来は自分の表現や未来に頭を悩ますべき時期を、嫌がらせの対処で随分疲弊させられてしまった。

それからというもの、私は極力厄介そうな人間の目にとまらないよう注意深く活動するようにした。自分の安全を脅かしそうな人間と関わりのあるギャラリーやイベントからの誘いはすべて断るようにして、どこへ行くでも当時付き合っていた彼氏をボディガードのように連れて歩いた。その人は特別強そうな見た目ではなかったけれど、まるで虫除けのように効いた。自分より弱い相手にのみ加害をする人間にとっては「同性がいる」ということは畏怖することらしい。
被害も少しずつ減っていって本当に感謝しているけれど、正直なことを言えば、私だってどんな場所にも一人で出向き堂々と自由に活動がしたかった。

加害者達は、私に対してびっくりするくらい同じようなことを言ってきた。
「女に生まれたことで十分過ぎるほどお前は恩恵を受けている。
男の自分達よりも絶対においしい思いをしている。
お前が女じゃなかったら誰も見向きもしない」。
こうした内容を、みんな口をそろえて言った。私個人としては女の恩恵を受けている自覚も無いしどちらかというと貧乏くじを引いてるほうだと思うが、彼らの歪んだフィルターを通すとそう見えているようだった。

「私が女だからのびのびと活動できてるんだ/だからその受けた恩恵分、俺達に感謝しろ」。
言われた時はウワーと思ったが、今思えば滅茶苦茶な理屈だなと思う。そして、「私が女を利用してズルしてる、自分は地道に頑張っている」と一見正義の顔で責めるわりには、彼らの行為の根底には私に対する蔑視しか無かったように感じた。そもそも相手に危害を与えるほどの嫉妬や妬みは、根底でどこか相手のことを見下していないとそうそう生まれないんじゃないか。

1つだけわかることがあるとすれば、私が大きくて頑強な男だったらまずこんな目には遭わなかったということだろう。私自身も、若い女性がこうした理不尽な目に遭うことはどこか仕方のないことと思っているところがあった。私は女だけど我が強いから、変な人間に痛い目に遭わされるのは仕方がない……そう自分を納得させていた。でも、生意気だからという理由で体を穢されたり存在を叩かれることはやっぱりおかしい。
今、ネット上では盛んに議論をされていてもクローズドなスペースではまだまだ解決に時間がかかっている。最初のほうで話した私の胸部を触った男も、ライブハウスやバーといった自分の狭いテリトリーでそうした行為に及んでいたようだ。路上や電車の中でも同じことをしたら捕まるのだから、同じように罰されるべきだ。

身内は私がされたことに対し一緒に怒ってくれたが、加害者側と共通の知人の第三者に相談すると決まって「あいつも気の毒な奴なんだよ、許してやって」とか「でもあいつもいいところあるよ」と言い籠められた。この話を以前Twitterで呟いたら、そうやって女性が受けたセクハラ等の被害を周り(主に男性)が許す行為を「マン フォー ギブン」と呼ぶのだと友達が教えてくれた。こんな言葉があるくらいなのだからよくあることなのだろう。「別に自分の女がやられたわけでもないし、やった方も知り合いだし、面倒だからとりあえず場をおさめよう」という感じなのだろうが、それは本当に友人関係と言えるのだろうか?
友人でい続けることは否定しないけど、友人関係を続けながら注意することもできると思う。

私は32歳になった。昔とやってることは何一つ変わらないが、「若い女」じゃなくなってからは嫌がらせは減り活動のストレスは無くなった。ここまで10年かかった。
また、今のような状況になったのも活動期間を経て周囲に良識ある人が増えてくれたことが大きいと思う。展示に足を運んでくれる人や、漫画や絵を楽しんでくれる人達の存在が監視の目となり私を守ってくれているように感じる。
でも、そうしているうちに卑怯な人間はまた別の若い女性のところへ流れていくのだろうから、それを許していたら私がこんな目に遭った意味が無い。

ただでさえ私たちが何のしがらみもなく活動できる時間は限られている。ハラスメントに消費されて良い時間なんてどこにもない。私はあの連中に負けたつもりはないけど、時間や安心といった大切なものを確実に奪われた。
この原稿を書きながら、結局どうすれば良いんだろうなあと今も考えている。こうしてしつこく話題に出しながら、草の根運動をするしか無いのだろうか。
「そういうのってありえないよね」という、加害者がやりづらい空気を1つも取りこぼしなくあらゆる場所で作っていかないといけない。

The post 「ハラスメント」に負けないために 連載:小指の日々是発明Vol.2 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>
コロナ禍で見つけた「新しい生き方」 連載:小指の日々是発明 Vol.1 https://tokion.jp/2021/03/27/hibikorehatsumei-vol1/ Sat, 27 Mar 2021 01:00:55 +0000 https://tokion.jp/?p=24693 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義にて音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画コラム連載。第1回はコロナ禍で始めた「本の自給自足」について。

The post コロナ禍で見つけた「新しい生き方」 連載:小指の日々是発明 Vol.1 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>

初めまして、小指と申します。
これからこちらに日々発見したことや感じたことを書いていきます。宜しくお願いします。

私は一昨年頃まで、数え切れない数の仕事(主に非正規)を転々としながら細々と制作を続ける日々を過ごしていた。
工場でひたすら袋詰めをしたり、何十時間も車の台数を数えたりしながら、絵に全く関係のない低賃金のバイトを「これは修行だ」と自分に言い聞かせて一生懸命やった。そしたら、気付いた頃にはどこへ出しても恥ずかしくないただの現場慣れした軽作業スタッフになっていて、夢だった作家からは程遠い生活をしていた。
現実はこんなもんか……そう諦めかけていた時、ふとしたきっかけで尊敬している人達と一緒に仕事ができるようになったり、いろんな奇跡が起きてようやく少しずつ自分の制作で自活ができるようになった。
そして、よーし頑張るぞ!と意気込んだ矢先に、どす黒いコロナ禍が訪れたのだった。

緊急事態宣言が発令されると、予定していた展覧会や案件等はどたどた延期になった。なんか良い風向きしてんなー、と思っていたところだったので尚更この状況にガーンときてしまった。
また、コロナ関連の悲しいニュースを見聞きするたびに気持ちが沈み、自分の父が入院療養中ということもあってか「院内感染」という単語が耳に入るたびに心臓を鷲掴みされるような気持ちになった。大切な人がコロナで命を落とす、経営不安で自死する、路上生活になって殺される、それまで普通に暮らしていた人達が……そんなことをぐるぐる考えていたら仕事も手につかなくなって、1月頃にストレス性の顔面麻痺になってしまった。心のタフさには自信があったのに、自分でもびっくりした。2ヵ月たった今も、顔の右側の痙攣は治らない。

こうした不安の他にも、自分の置かれている立場の脆弱さを自覚したことも大きかった。
暇ではなかったけれど、世間的に見たらずっと定職に就かずフラフラしていたので、自分には「どこかでちゃんと頑張ってから独立した」とか、そういう人との繋がりの中で根ざして培ってきたというものがまるで無い。同世代の人たちが堅実に努力をしていた時、私はベルトコンベアに乗って気持ちよく汗を流していた。あの頃の私は過酷なバイトを無心でやることによって何か立派なことをしているかのような錯覚に陥っていた気がする。
いつもバタバタと何かに追われて、死に物狂いの鍛冶場の馬鹿力だけでしのいできたから努力を積み重ねてきたという実感も無い。
要は何を言いたいかというと、自分には絶望的に自信が無いのだった。

声をかければ助けてくれる人はいるだろうが、臆病だからそれもできない。図々しくて嫌われるだろうな、と思って「今大変です」と叫ぶこともできない。
だからこのコロナ渦は、何にも無い自分と対峙せざるをえなかった恐ろしい期間でもあった。

話は変わるが、私には近所にとても気に入ってる寿司屋がある。尊敬する画家の方に「あの寿司屋いいよ」と勧めてもらったのがきっかけで、店の雰囲気や大将の素朴で温かい人柄に惹かれ通うようになった。
その寿司屋は、いつ行っても客は私一人だった。正直すごい美味いというわけでもないしお金も無いのでしょっちゅう行けるわけではないけど、大将の顔を見るとほっとするのでつい足が向いてしまう。
ただ一つ気になるのは、シャリがあまりにもでかすぎておにぎりのようなので「シャリが大きいですね。ちょっと満腹になり過ぎますね」と言ったら、大将は豪快に笑いながら「ここは百姓が多いから、大きくしてんのよ」と言った。大将は一体、この町の何十年前の話をしているのだろうか。
昔は予約の電話がひっきりなしで、時には受話器を外さなければならないほど繁盛していたらしい。今はそんなことはないけれど地元のお客さんのおかげでどうにかなっている、とニコニコしながら言っていた。
私は、この人にずっとこの町で寿司屋をやっていてほしいなと思った。
でも、そんな矢先に緊急事態宣言で飲食店の営業が20時までとなった。
20時頃店の前を通ると、のれんをおろす大将の姿があった。その背中がとても寂しげだった。
この時ばかりは、自分がお金持ちだったらなあと思った。

家に帰って、天井を眺めていたら急に人生の重みがズシンと乗っかってきた。
この先何が起こるかわからない。払ってた年金ももらえないかもしれない。
これから自分のやるべきことと向き合いながら生きていくには、自分なりの最低限の生活を支えられるシステムのようなものを作らないといけない、と思った。それは他者や時代に依存せず、他人も巻き込まず、徹底的に1人でやっていけるものなら尚良い。そしてピーン!と思いついた。
それは、自宅で「同人誌」の制作に励むことだった。(読んでる人たちがガクッとなってる姿が目に浮かぶが、本当にそうなのだから仕方がない)

これまで私は、趣味の延長といった感じで同人誌を数冊作ってきた。どれも100ページ超えの力作ではあるが、技術的にも出版社へ持ち込むほどではないと思い、勝手に出して勝手に売っていた。部数もたかが知れているので利益もトントンだった。
それらをどうにか仕事の一つにできないかと考え、増刷することで自室をちょっとした流通工場のようにした。私はここで、「本の自給自足」を始めたのだった。

普通の本屋に置かれている本は、編集さんや出版社が興味を持ってくれなければまず出せないが同人誌なら誰でも作ることができる。普通の本は作家、編集者、校閲やデザイナー等たくさんの手を通って一冊ができていくけれど、同人誌の場合は全部自分でやる。逆に考えたら、自分さえいればへたっぴであっても全部一応何とかなる。
「今こんな時期だし、家から出られなくて皆ストレス溜まってるんじゃないかな」と思い、私は過去の旅の思い出をまとめた『旅の本』という新作を作った。ろくな旅行をしたことがないので、西成のドヤ泊や電車で行ける近場の地味な旅のことしか描くことが無かったが、それでも一冊作り上げたら楽しかったし、このおかげで収入が不安定な時期も今までのペースで制作を続けながら暮らしていくことができた。この生活だと自転車操業ではあるけれど、これまでだってその日暮らしみたいなものだったから私には充分だった。
こうしてその時思いついたひらめきをパッと一冊にできることも、同人誌の醍醐味だと思う。

大量に印刷した本を自ら旧知の本屋さんに出荷していると、小学生の頃に生活科の授業でやった稲作体験を思い出した。
原稿用紙が土で、ペンがクワ。毎日少しずつ耕していき、それなりのページ数に育ったら印刷所へ出す。収穫。届いた本を全国へ出荷して、私自身も移動販売よろしく売り歩いていく。
私は、複雑なお金の計算はできないが、「1日2〜3冊売れば生きていける」という単純数式が自分の中で発見されてからは心に何よりの平穏が訪れた。あとのクライアントワークや絵の収入を家賃光熱費と材料費と貯金に充てれば、必要以上にビクビクすることはない。
地道な行動は、地に足をつけ、心を穏やかにしてくれるということを知ったのだった。

本の自給自足を本格化させて思ったことは、今のように社会の状況が滅茶苦茶な間は、慌てて自分らしくないことで無理をするよりも、こうして自分のできる範囲内で雨風をしのぐように生きても良いんじゃないか、ということだった。このどさくさに乗じて「こうしないといけない」みたいな窮屈な考え方も捨てて、それぞれが自分の一番呼吸のしやすい過ごし方を模索してもいいんじゃないだろうか。
それが結局、全人類の生きやすさの底上げにも繋がるような気がする。私達はみんな、無理な労働に命を削られるために生まれてきたわけじゃない。

このコロナ禍で、みんな新しい生き方を手探りで探っている。これまで周回遅れで走っていた私も気が付いたらスタートラインに紛れ込んでいた。

あるようで無いようなコースの外には、これまで走者側から見えないよう隠されていた自己責任論とか、弱肉強食の世界が剥き出しになっていて、私達は、切り捨てられる弱者と守られている強者の間に線引きがあったことにも気が付いてしまった。
そんな時代遅れなこと、もうやめようよと思う。みんなで新しくなってもっと楽になりたい。私は諦めずにそれを模索する。

TOKION LIFESTYLEの最新記事

The post コロナ禍で見つけた「新しい生き方」 連載:小指の日々是発明 Vol.1 appeared first on TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報.

]]>