「喪失」との向き合い方 連載:小指の日々是発明 Vol.7

あの日からもう五年以上経つのか、と思う。

私の父が突然の事故で心停止し、救命処置の末一命はとりとめたものの脳に重い障害が残り、意識が戻らなくなってしまった。人の脳というものは、たった数分酸素がいかなかっただけで取り返しのつかない障害が残ってしまうらしい。
当時の職場に母から連絡がきて慌てて病院へ向かうと、父はたくさんの管と人工呼吸器を付けて病床で目を閉じていた。
父は真面目で優しく繊細で、こんな目に遭うべき人ではなかった。その日から私達家族の日々は、突然崖から突き落とされたように一変してしまった。

でも、最初のうちはそれでも父の回復に一縷の望みを持っていた。一時は命も危うく、それでも持ち直して人工呼吸器も外すことができた。後は意識さえ戻れば、と思っていた。
後遺症が残ったって、リハビリでも何でも付き添う。父が元通りになってくれるなら何だってする。目が覚めたら、これまで心配かけたことを全部取り返すくらい父のために生きて、残りの人生を捧げよう。そう思っていた。そう思っていたのに、何日経っても、何週間経っても、父の意識が戻ることはなかった。

私は、当時働いていた会社の帰りに病院へ寄っては病室にレコードプレイヤーを持ちこみ、父の好きなクラシックを聴かせたり、リハビリの本を見ながら見よう見まねで父の意識を戻そうと躍起になった。そんな私の様子を見た看護婦さんが、「お父さん思いですね」と言ってきたけれど、私は言葉に詰まって相槌すら打てなかった。父が元気だった頃、私はほとんど家に帰らなかった。大好きだったし、大切にされているという自覚はあったけれど、どう関わればいいかわからなかったのだ。こんなことになってから毎日会いに行くことになるなんて、運命って皮肉なものだなとつくづく思った。

医者は父を「意識が無い状態」と言うが、父は目を開けたり、時々音などの刺激に反応して首を動かす。それは毎日隣にいる私達にしかわからないことで、医者はそれら全ての反応を見ても「意識」によるものではなく「反射」だと言った。
父は、前向きな治療というよりも世間では「延命」と呼ばれる医療行為が施された。でも、今思うとそれは私にとっての「延命」でもあったなと思う。心が完全に壊れてしまわないための最後の命綱だった。
そんなわけだから、私は医者から「回復は絶望的」といくら言われても聞く耳を持たなかった。1日でも早く目を覚ましてもらうために、何でもしてやろうと思っていた。

だが、家族が暗い病室に集められて説明を受けたあの日、父のMRI画像を見せられて私は現実と向き合わざるを得なくなった。
画像に写る父の脳は、大脳皮質の表層に広範囲にダメージを受けていて、脳細胞が死滅した表面部分がうっすらと白くなっていた。脳細胞は特に酸素欠乏にとても弱いらしく、心肺停止して一時的に低酸素状態となったことが原因だった。ただ、途中で蘇生できたことで脳の生命維持の中枢は無事だった。「お父さんは生きようとしている」そう思った。
けれども、大脳皮質部分には、生きているうちに蓄積された記憶と「その人らしさ」をつくる情報が存在している。大脳皮質の表層の細胞がほとんど死滅してしまったということは、「父」として生きた情報、そして父を父たらしめる情報が脳から失われてしまったということを示していた。私は、この1枚のMRI画像からもう2度と事故以前の父は帰ってこないということを悟った。
生きてくれているのが唯一の救いではあるが、それまであった父の大切な記憶は失われてしまった。これが私の、今まで味わった中でも最も大きな喪失の体験だった。

それでも、初めのうちはどうしたって受け入れることができなかった。万が一意識が戻っても、私達家族の存在自体も忘れてしまっているだろうと思ったら、心が本当に砕けてしまいそうだった。目の前には、一見すやすやと眠っているだけのように見える父がいる。でも、父の記憶の中にはもう私や家族の存在はいない。それは、目を覚さないということよりも耐え難いことのように感じた。
頭の中はずっと混沌とし、時に発作のように父への気持ちと罪悪感が私を襲った。お父さんが可哀想だ。でも、それ以前も父は幸せだったんだろうか? 私は全然、父を大切にできていなかった。私がもっと周りを大切にできる分別のある娘になれていれば、父に余計な心配もかけず済んだんじゃないだろうか。自分さえいなければ父はもっと幸せに暮らして、良い病院で手術もできてこんなことにもならなかったんじゃないか? と、私は延々と自分を責めた。後になって、こういった自責の思考に陥ることは「サバイバーズ・ギルド(災害や事故後、生き残った人間が犠牲者に対して”自分の命は他人の犠牲によるものではないか”というような罪悪感をもつこと)」と呼ばれる心理状態であると知った。
私は、こんな罪を背負ってしまってこの先生きていけるんだろうかと途方に暮れた。一生このまま、暗い洞穴の底のような場所で自分を責めながら生きなければならないのだろうか。でも、それで償えるのならそれでも良い、と思いながら毎日を過ごしていた。

数年経ったある日、私はこんな夢を見た。
夢の中で、私は実家にいた。慌てて父の姿を探した。すると、半分扉の開いたトイレの向こう側に、父のいる気配がした。姿こそ見えないが、そこには確かに父がいる、と思った。私はあの時過去に戻っていたのだろうと思う。
直感で、この時間を逃したら父は消えてしまうと思った。私は廊下から大きな声で「お父さん、謝りたいことがある!」と叫んだ。相変わらず父の姿は見えなかったが、私の話は聞いてくれているような気がした。
「これまでたくさんのものを与えてくれたのに、心配ばかりかけてごめんなさい。本当は、家族みんなで穏やかに過ごしたかった。それなのに私は逆になることばかりしていた。許してほしい」そう言って、私はべそをかいた。すると、父は向こうから困ったような笑ったような声で、「でも、すべてやりたかったことなんだろう。なら仕方ないよ」と言った。
お父さんは許してくれた、そう思った瞬間目が覚め、私はいつもの一人暮らしの部屋にいた。

私はこの夢を見た直後、心の中を塞いでいた石が温かな熱で溶解していくような、そんな不思議なカタルシスを感じた。実際ただの夢でしかなく、おそらく私が父に対して贖罪したいと思う願望が見せた夢なのだろうが、何度思い返してもあの時の父の答えはいかにも父らしく、本当の父との会話だったように感じている。
この夢がきっかけで「父は私のすべてをわかってくれていたんじゃないか」と思うようになり、発作的な不安で取り乱すことは減った。もちろん悲しみが消えることはないが、そうした出来事と今現在を天秤にかけて今自分が何をすべきかの最低限判断くらいはできるようになった。今の私にとって、病院にいる父のことが一番大切だった。それからは淡々と、病院へ通いながら自分の仕事に向かう日々に戻っていった。

そんなある日、私はふと立ち止まった。そういえば、父の一件以来ずっと立ち寄ることができなくなっていた場所があったのだ。その町には、父が幼い頃に体が弱かった私をよく連れて通ってくれた病院があり、帰りは必ず駅前の商店街へ寄って一緒に歩いた。そんな父との思い出の町をまた歩きたい、と私は思うようになった。
問題は、その時はその町に立ち寄るどころか、名称が目に入るだけでもいろいろなことを思い出して心臓を掴まれるような動悸に襲われてしまうことだった。でも、そうやって避けているうちに町の風景が跡形もなく変わってしまう方が悲しい。私はその町に行ってみることにした。
駅に着くと、案の定改札を通るだけでも心臓が破裂するかと思うくらい動揺していた。あの、父の事故直後の時と全く同じ状態になってしまうのだ。あれだけ温かい記憶しかなかったはずの町なのに、私の記憶まで上書きされてしまったようだ。でもここで行くのをやめたら必ず後悔すると思い、意を決してその駅で降りた。
何年ぶりかに歩くその町は、ほとんどシャッター商店街になっていた。でも、父とよく訪れた店は変わらずそこにあった。その光景を見ていると、父のことを昔からよく知る存在に出会ったような安心感があった。
一歩一歩、景色を眼の中のフィルムに焼き付けるようにあちこちを眺め歩いた。あの頃に立ち寄ったパン屋、焼き鳥屋、カメラ屋、そうした見覚えのある店に立ち寄っては、父の残像を追った。カウンターには、あの頃から変わらぬ店の人達がいた。焼き鳥屋だけ人が変わっていたので、思わず「昔、ここで焼き鳥を焼いていたおじいさんってお元気ですか」と尋ねた。すると、若い店主は「ああ、あれ僕のじいちゃんです。奥にいますよ。呼んできますか?」と言った。孫があんなに立派になっているのかと驚いたが、あの時のすべてがそのままに残ってくれていたことに私はとても嬉しくなった。ここは今もあの時のままで、父と私だけが変わってしまった。

寂しさと安心に包まれたような不思議な気持ちでぼんやりと商店街の真ん中で突っ立っていると、一瞬、隣に父が佇んでいるような気がした。「えっ」と思い辺りを見回すが、やっぱり父はいない。でも、どこかにいる気がする。それもとても近くに。私は再び周囲を探しながら歩きだし、そう思った理由がやっとわかった。
父の失われた記憶や意識は、きっと私の中にも生きている。
そして、この先私が生きる時間は私のものでもあり、父のものでもあり、自分を大切にしながら生きていくということは父を大切に想うことに直結するのだろうな、と思った。
その時、「生きる意味」というひと差しの光が私を貫いた。

とはいえ、今もしょっちゅう私は透明な姿になって一人泣いている。
そういう時、透明の私を見下ろしているもう一人の私自身は、その時だけ父になりかわる。そして小さな寸劇が始まって、「自分のせいでこうなった」と自らを責める私に少しずつ言葉をかけていく。それは大概、私が父から聞きたかった赦しの言葉だった。
そうして、しばらくすると不思議と安心し、歩き出すことができるようになる。
私は今も、こうして父にずっと助けられている。

こうやって振り返ってみると、私の喪失との向き合い方というのは<夢・思い出・寸劇>と、なんだかあまりにファンタジーめいていて人に勧められるようなものではないなと思う。
きっとそれは、その人にしかわからない形で必ず目の前に現れる。だから安心していて大丈夫なのだ。
でも1つだけ、日常の中で「これならどんな人にも勧められるな」と思った発見もあった。
それは普段から、最寄り駅まで歩く時間や寝る前などに毎日少しずつ、失ってしまった大切な存在について祈ったり考えたりする時間をとるようにする。すると、ある日何気なく眺めている風景や自然、あるいは他者の姿に、その人が宿っているように感じる時がくる。私の場合、街路樹の白い花が風で揺れている様子だったり、なぜかずっと目の前を飛びかう蝶だったりに、元気だった頃の父の面影を感じた。きっと、そうした形を借りて、いつも見守ってくれていることを教えにきてくるのだ。
心の中だけでなく、周囲の空気中に溶け出してずっと私達の近くにいてくれている。そういうことなのだと思う。

こうしたことを今回言葉にしようと思ったのは、大事な友人の愛猫が亡くなってしまったことがきっかけだった。まだ若く、本当に突然の別れだった。高齢だったら諦めがつくというわけでもないが、猫をとても心の支えにしていた友人が「受け止められない、信じられない」とひどく悲しむ姿を見て、私はなんて言葉をかけていいかわからなかった。
人と猫を同列に語るのはけして正しくないだろうし、この世にいないのといるのとでも大きな違いがあるだろうが、私はそれでも自分の経験した気づきを彼に話してみたいと思った。でも、辛い時にそんな話をされても負担が多いだろうから、気が向いた時に読んでもらえるようにこうして文章にしたのだった。

友人にどんな言葉をかければいいのか悩んでいた時、読み漁った本のうちの1冊である『喪失学』の著者の坂口幸弘さんは、同書の中で“悲痛な喪失を体験するということは、自分にとって心から大切と思える「何か」がそこに存在したことを意味している”と言っていた。
その言葉は、私の暗がりを柔らかな光で照らしてくれた。

猫の葬式の帰り、友人は「俺、あの子がいなくなっちゃったのに、この先人生楽しんだりしていいのかな」とポツリと言った。
あの子は、彼が落ち込んでいるといつも部屋にやってきてじっと隣に座っていた。普段自分からは甘えてこないクールな子だったのに、飼い主が元気のない時だけ慰めるように隣にいてくれるのだ。友人はそんな愛猫のことを、「こいつは俺より知能が高いぞ。言葉も全部わかってる」といつも褒めていた。
そんな賢いあの子のことだから、きっとすべてをわかってくれているだろう。

喪失の悲しみは、私達の意識があるうちはきっと一生消えない。「こんなに苦しいのなら、すべてを忘れてしまいたい」そう思うこともあるけれど、幸せな記憶も手放す必要はないし、悲しみの記憶がこの先温かな記憶に変質する可能性がないとは言い切れない。
時間が経つにつれ、悲しみは振り子のように反復して少しずつ存在が小さくなり、その軌跡に残った温かな余韻にだんだんと気づく。
その時ぼんやりと残る温もりは、きっとあの子や父の体温なんじゃないかなと思っている。

そしてここでお知らせです。
過去の漫画作品や文章をまとめた新作同人誌を作りました。

「人生」

参加中の展示や通販、お取り扱いのある本屋さんで販売中。

■「ゆうとぴあグラス展」
参加作家:黒木雅巳・外河謳・園のぶは・森田るり・ぴょんぬりら・小指・原田晃行・これでいいんだ村
会場:gallery TOWED 1F & 2F
住所:東京都墨田区京島2-24-8
日程:2022年9月9〜24日 
時間:13:00〜20:00
 金・土・日・祝のみオープン
https://gallery-towed.com/2022-09

author:

小指

1988年神奈川県生まれ。漫画家、随筆家。バンド「小さいテレーズ」のDr.。 過去に『夢の本』『旅の本』『宇宙人の食卓』を自費出版で発表。小林紗織名義にて音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行う。 https://koyubii.wixsite.com/website Twitter:@koyubii Instagram:@koyubim Photography Noa Sonoda

この記事を共有