写真連載「言葉なき対話」 Archives - TOKION https://tokion.jp/series/写真連載「言葉なき対話」/ Fri, 29 Jul 2022 05:44:12 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.2 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 写真連載「言葉なき対話」 Archives - TOKION https://tokion.jp/series/写真連載「言葉なき対話」/ 32 32 写真連載「言葉なき対話」Vol.7 知られざる写真家ポール・ブランカの数奇な人生 https://tokion.jp/2022/07/31/photo-series-wordless-dialogues-vol7/ Sun, 31 Jul 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=137311 オランダはアムステルダム在住のアート・プロデューサー、トモ・コスガが世界のアートフォトを探求する連載コラム。第7回は、長らくベールに包まれてきたオランダの写真家ポール・ブランカの知られざる半生を辿る。

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筆者が暮らすオランダでは、今年の初めに実施された3度目のワクチン接種以降、かつての日常を取り戻している。オランダ人は誰よりも自由を尊び、人目を気にすることがない。そんな彼らにとって、マスクはその着用が義務づけられたコロナ蔓延のピーク時から批判、いや禁忌の対象だったといっても過言ではないだろう。地元民がマスクを着用する姿を見かけることも、いまや皆無に近い。日々のニュースで感染者数が報じられることもなくなった。日本とは正反対と言えるそうした価値観や政策から、異なる民主主義のありようを垣間見るようで興味深い。

それでも日本特有の我慢強さをまだまだ手放せずにいる筆者はこの春までじっと自粛生活を続けてきたが、夏になると居ても立ってもいられなくなり、拠点としているアムステルダムから飛び出すようになった。

メープルソープに認められるも
今では忘れられた写真家

手始めに訪れたのは、オランダの行政機関が集まる街、デン・ハーグ。Fotomuseum Den Haag(デン・ハーグ写真美術館)で現在開催中のオランダ人写真家ポール・ブランカ(1958-2021)の写真展が目当てだ。昨年亡くなった彼の実質的な追悼展で、最も強烈な初期作品群で構成されている。

ブランカの人生は、数奇ともいえる壮絶なものだった。80年代、かのロバート・メープルソープに「唯一の競争相手」と言わしめるほどの大胆さと繊細さを兼ね備えたアート界のホープとしてその名を轟かせるも、次第にドラッグや酒に溺れていき、その存在は光を失っていった。

そして95年、決定打となる出来事が起こる。当時、アムステルダムで起きた爆弾テロ事件の犯人がほかでもない彼であると非難されたのだ。しかし証拠はなく、ブランカにはアリバイがあったにもかかわらず、この一件をきっかけにアート界は彼を追放。その後の努力も実ることなく、ブランカは62歳で人知れずこの世を去った。

極限のアクションを写真に

本展会場の二番目の部屋に展示されているのは、80年代に発表されたブランカの代表作とも言えるセルフポートレート群だ。彼は、生きたネズミや何匹ものウナギを口に咥えてみせたり、あるいは矢で頬を突き刺したりといった妥協なき極限のアクションをカメラの前で繰り広げた。

肉体を危機的に追い込むことで瞬間的に発揮される自制心と集中力を克明に記録するには写真こそふさわしい。なかでもカミソリの刃で「親指を立てながら泣くミッキーマウス」を彫った自身の背を収めた一枚は、オランダを代表するポートレートのひとつとして知られている。

ブランカが繰り広げた暴力的で痛々しいセルフポートレートは、パフォーマンス・アーティストのマリーナ・アブラモビッチやクリス・バーデンらがその活動初期に試みたような、自らをオブジェにして身体の限界に挑戦するボディアートを彷彿とさせる。それと同時に直視しがたい光景であるにもかかわらず美的な演出に成功している点は、これがレンブラントやフェルメールの時代から連綿と続くオランダ肖像画の文脈に則った表現であることを示す。本連載の第5回では、オランダの写真家エルウィン・オラフが伝統と現代をハイブリットさせた視点を持つ点について触れたが、ブランカにも同様のことが言えるだろう。

それこそオラフとブランカは同時代を過ごした同世代だが、共有点はそれだけではない。そのどちらもオランダが生んだ巨匠ハンス・ファン・マーネンを師に持ち、時代の肖像を写真に刻む写真家として長年キャリアを積んできた。しかし前者がオランダを代表する写真家にまで成長したのとは対照的に、後者はタブー視され続けて亡くなった今、その存在が闇に消えつつあるのだ。

ブランカが送った数奇な人生

ここで彼の生涯をざっと振り返ろう。
1958年、ポール・フラスウィンケルとして生を授かったブランカ。彼がなにか間違いをすると、継父は暴力でそれを正した。その環境に打ち勝つために始めたキックボクシングで強靭な肉体を得た彼は、とあるきっかけで世界的に著名な振付師兼写真家のハンス・ファン・マーネンに見いだされる。マーネンが演出するバレエの舞台に立つだけでなく、マーネンから写真技術やモデルとの向き合い方を学ぶことで、本格的なステージング写真の制作にのめり込んでいった。

1979年、ブランカはアムステルダムのギャラリーで開く個展のために来蘭したロバート・メープルソープと邂逅を果たす。その後、彼を追って渡米。メープルソープの紹介で、グレイス・ジョーンズやキース・ヘリング、ウィレム・デ・クーニングを筆頭としたアート界の錚々たる面々に紹介される。80年代に入ると、例のセルフポートレート群で名を馳せるが、完全なブレイクスルーとまではいかなかった。そして次第にヘロインやコカインに手を染め始める。

1994年の暮れ、アムステルダムで殺人未遂の事件が起きた。オランダの現代アーティスト、ロブ・ショルテとその妻が乗り込んだ乗用車が突如爆発。ショルテは両足を、そして妻は身籠っていた胎児を失う。何者かによって彼らの車に爆弾が仕掛けられていたのだ。事件直後は犯行や動機が不明のミステリアスな事件としてオランダを騒然とさせたが、翌年になってショルテは、身近なアーティスト3名をその真犯人候補として公表。そのうちの一人がブランカだった。

未解決事件が彼にもたらしたもの

結論から言うと、警察はその3名が犯人であるという結論には至らず、ついには真犯人を捕まえることなく事件のファイルを閉じている。当のブランカは2010年に行なわれたインタビューの中で、当時のショルテは犯罪組織とつながりがあり、彼らとのあいだで起きたトラブルの落とし前として被害を被った可能性があると述べた。その真相を隠すためにも、彼の周りで最も悲惨な生活を送っていた自分をスケープゴートにしたのだと。にもかかわらず、ブランカが所属するギャラリーは彼を追放し、美術館やコレクターは彼の作品を買うことをやめた。なぜなら当時の彼は疑われてもおかしくない状況に陥っていたからだ。

事件発生当時から一貫して関与を否定してきたブランカだったが、彼はショルテ夫妻の暗殺未遂事件からわずか4週間後に警察の厄介になっていた。当時寄稿していた週刊誌のため、違法のガス銃や手りゅう弾がいかに容易く手に入るかを実践したことで逮捕されたのだ。かくして人々の脳裏で、彼が持っていた手りゅう弾とショルテを攻撃した爆弾がたやすく結びついたのは言うまでもない。街の誰もが、ブランカこそ犯人に違いないと信じ込んだ。「武器を持った危険人物」という烙印を一方的に押された彼は、四面楚歌の生活を余儀なくされた。ますますドラッグに強く依存するようになった彼は、負のスパイラルを落下していく。

事件から四半世紀が経った今、実はショルテ夫妻がもともと狙われていたのではなく、2人が事件当日に乗っていた車と酷似したそれを所有する近所の弁護士を狙ったものだというのが有力な説とされている。しかし真相は依然として闇の中だ。この一件がブランカの作家人生をなきものにしただけに、彼が語られる際にはその作品についてよりも、この奇妙ないざこざばかり語られがちなのがなんともまた不運を極めている。

闇あってこそ光は映える

時に素晴らしい傑作を生み出したその才能とは裏腹に、四半世紀以上にわたってタブーという名のベールに包まれ続けたポール・ブランカ。実際、四半世紀以上ものあいだ不可視の存在として取り扱われてきただけあって、彼を知るすべは驚くほど限られている。これまでに出版された彼の作品集は、1993年にドイツで開催された展覧会のカタログのみ。そのほかで活動や経歴を知るためにできることといえば、地元メディアがこれまでに報じてきたオランダ語の記事を辿ることくらいだ。当然ながら、これまで日本で報じられた形跡も見当たらなかった。

それでも筆者がブランカに惹きつけられたのはおそらく、ブランカの生涯に見た深い闇に、一人の写真家を重ねていたからだろう。アーティストとして絶頂期を迎えていた90年代前半に転落事故を起こして以降、20年ものあいだ闘病を続け、二度と表舞台に戻ることなくこの世を去った深瀬昌久だ。その作品もやはり長らく日の目を見ることは叶わず、伏龍のごとく眠り続けた。

闇あってこそ光は映えるもの。深い闇を抱えた写真家とその写真ほど光り輝く。多くを語らないまま没した2人だったが、遺された彼の写真作品はその魅力を失うことなく、むしろより一層謎めきながら人々との言葉なき対話を続けるのではないだろうか。それこそブランカの写真を四半世紀ものあいだ覆い続けた「マスク」を今こそ取り外し、その語りに耳を傾けたい。

今秋、この世を去る間際のブランカを記録したドキュメンタリー「Paul Blanca, This Film Will Save Your Life」(訳「ポール・ブランカ、この映画があなたの人生を救う」、Ramón Gieling監督作)が公開される予定だ。惜しくもブランカはその完成を観ることが叶わなかったが、その題名が示唆するように、彼の再評価とその作品のさらなる研究が進むきっかけになることを願ってやまない。

■Paul Blanca「HOMMAGE AAN PAUL BLANCA」
会期:2022年4月30日〜8月14日
場所:Fotomuseum Den Haag(オランダ)

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写真家ライア・アブリルは女性の視点から歴史を振り返る。オランダで開催中の最新写真展リポート https://tokion.jp/2021/06/27/photo-series-wordless-dialogues-vol5/ Sun, 27 Jun 2021 06:00:43 +0000 https://tokion.jp/?p=37472 オランダはアムステルダム在住のアート・プロデューサー、トモ・コスガが世界のアートフォトの現在を探求する連載コラム。第6回ではアムステルダムの写真美術館・foamで観た「herstory」(女性史)を紐解く最新個展を取り上げる。

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パンデミックを起因とするオランダのロックダウンは昨年12月から始まり、延長に延長を重ね、実に半年間に及ぶ長期的なものとなったが、この春を過ぎてようやく緩和され始めた。そして6月5日にはロックダウンを終えるためのオランダ政府による6段階計画のうち3段階目に当たる施策が実施され、これによってバーやレストラン、そして美術館などの屋内施設が再開を許された。

いよいよ美術館に訪れることができるとなって筆者が一番に予約を入れたのは、本連載の第2回で紹介したアレック・ソス展が開催された写真美術館「Foam」だ。世界遺産に登録されたアムステルダムの環状運河エリア内に位置する「Foam」は、行政に強く依存しない起業家精神と経済的独立性を保ちながら、地下1階から地上3階にかけての4フロアでそれぞれ異なる展示を常時同時開催する意欲的な美術館である。キュレーター達の年齢層が比較的若いこともあって、この時代に生まれた最新のアートワークが堪能できる美術館の1つとして親しまれている。

このタイミングで公開されていたのは、2つのアワードの2020年度受賞展だった。Foam Paul Huf AwardとFoam Talentと名付けられたそれらは、どちらも「Foam」が毎年主催するもの。オランダやヨーロッパに限らず、世界中のアーティストが対象となることから国際的な関心を常に集めている。昨年末から始まったどちらの受賞展も、半年間に及ぶ展示会期がパンデミックの影響による長期的ロックダウンとそれに伴う美術館閉館措置が敢行された時期と完全に重なり、会期の大半が公開されることはなかったが、「Foam」の英断によって会期が延長され、美術館が再開された6月中はどちらも観られる見込みだ。
本稿では、前者のグランプリ受賞展を取り上げたい。

スペイン出身のアーティスト、ライア・アブリル(1986-)による個展「On Rape: A History of Misogyny, Chapter Two」(レイプについて:ミソジニーの歴史 第2章)は、2020年度の第14回Foam Paul Huf Award受賞作品展だ。2007年から「Foam」が毎年主催してきたこの賞は若手写真家支援を目的としたもので、受賞者には20,000ユーロの賞金や「Foam」での個展開催権利などが与えられる。過去の受賞者にはピーター・ヒューゴやアレックス・プラガーといった今や国際的評価を得る写真家のほか、岡部桃や横田大輔といった日本人作家も名を連ねる。

2020年度の同賞グランプリを見事獲得したアブリルの作品は、そのタイトルが示すように、女性が蔑視されてきた歴史を女性の視点からビジュアル化しようと試みる長期プロジェクトの一環にあるもの。第1章に当たる前作「On Abortion」(中絶について, 2016)についてここで軽く触れると、今なお多くの国において法律や宗教などの戒律によって妊娠中絶が認められておらず、それが安全かつ自由に行なわれていないことによって女性の身に起こる危険性や損害を視覚化した作品だ。これは2016年の南仏・Les Rencontres d’Arles(アルル国際写真祭)で展示発表され、その後ニューヨーク、シカゴ、ヘルシンキ、パリ、ロンドンを含めた計10都市を巡回し、その作品集は世界中の写真作家にとって名誉な国際写真賞として知られるParis Photo / Aperture Foundation主催の2018年度年間賞を受賞するなど、アブリルは前作をもって既に世界的な評価を得てきた。

その続編にあたる本展「On Rape」も同様に、女性にまつわる社会問題から触発されて作られたものだ。2018年、18歳の女性をレイプした5人の男に対し、スペインの裁判所はレイプではなく性的虐待の罪という判決を下し、男達はその後釈放された。この1件は結果的に同国過去最大のフェミニスト抗議を引き起こしたが、アブリルもそれに触発されたうちの1人だった。

特定の権力と社会規範を維持するために、なぜ加害者が黙認されなければならないのか? 彼女がその理由を探るためにレイプの歴史を振り返ったのが本展である。

サバイバーの服が訴えかける惨劇

最初の部屋に飾られたのは2メートル近い高さのある大きなプリント8点で、どれも洋服を写したものだ。写真の上に添えられた文章を読むことで、それらがレイプされた女性たちの衣服だと分かる。

コロンビアで幼稚園の保育士から性的虐待を受けていた幼女。アパルトヘイト時代の南アフリカでレズビアンとして生まれたがために牧師の父から16歳で勘当され、ホームレス生活を送る日々でレイプされて妊娠し、流産を経験した女性。アメリカの刑務所で看守にナイフをつきつけられ、独房でレイプされたトランスジェンダー。アメリカの軍隊で指揮官にレイプされた女性隊員。身の毛もよだつほどおぞましい体験の告白1つ1つが実際に現実として起きた出来事であることを、彼女達の衣服を写した写真群が沈黙のうちに訴えかける。

筆者はこれらを眺めながら、ストリーミングサービスのHuluが製作・配信するドラマ『ハンドメイズ・テイル』を思い返した。出生率が異常に低下した世界の物語で、なお妊娠可能な女性達が特権階級の所有物とされ、妊娠できない女性に代わって出産を強制されるのだが、その実態とは儀式を模したレイプであり、彼女達の日常生活は厳しく監視されるというものだ。あまりに悲惨すぎて創作ディストピアに思えなくもないストーリーだが、原作者のマーガレット・アトウッドが「想像で描いた部分は一切ない」と語ったように、それが世界のどこかで実際に起きている女性虐待の数々を継ぎ接ぎした物語だと知った時、筆者は女性に対する性的虐待がいかに歴史的に黙認され、まともな議論すらされてこなかったかを逆説的に思い知らされた。

話を展示に戻すと、サバイバー達の肖像こそ確かめることはできないが、代わりに1人1人の衣服が写真として提示されたことによって、各体験が固有の枠を超越した特定の集団性を帯びたとも言える。それらがこうして複数集められたことで、人種や環境、年齢、あるいは職などに関係なく、過去から現在に至るまで、世界中で日夜女性達が性的暴行の被害を受けるか、またはその可能性に怯えなければならない現実およびその理由と向き合わずにはいられなくなる余白を生み出していた。

女性の視点から振り返った歴史

続く部屋で展示されているのは、世界中でレイプが黙認されてきた歴史を証拠づける様々な物品のスティルライフ写真だ。長い歴史で男達が繰り広げてきた戦争の戦利品となるのは常に女性であったことを示す歴史的彫刻。アメリカでは73秒ごとに1人が性的暴行を受けているが、そのDNA証拠を含む数千がこれまで行方不明となってきたレイプキット。有罪判決を受けた性犯罪者や小児性愛者の減刑と引き換えに与えられるリビドー減退薬。中世に製造されたレイプを防ぐための貞操帯。そうした物品を写した写真群が、世界中の男性権力者がレイプを肯定する発言を抜粋掲載したパネルと共に陳列された。

女性に対する非人道的な行為が世界中で歴史的に繰り広げられてきたことを証拠づける物品や証言を集めた本展を知って、男性であればもしかすると万一にこう思うかもしれない。これらはあくまで世界のごく一部で起きた出来事に過ぎず、男性の歴史的功績をおとしめるような作者の悪意すら感じられると。

しかし本展にあるのは、過去に女性達の身に起きた悲劇を伝える物品とそれらの証言や説明であり、展示を構成したアブリル自身の声明と呼べるものは何も含まれていないのだ。冒頭で触れたように性加害者が黙認されてきた理由を探るためにレイプの歴史を振り返ることが本展の目的であり、その点において彼女は冷静かつ客観的に歴史的事実を拾い集めて並べたに過ぎない。

歴史(history)という言葉ひとつをとってもhis story、すなわち「男の物語」であると解釈できなくもない。その語源についてここでは別として、それは実際に男性の視点から記録されてきたのだから。幾章にもわたって展開するアブリルのシリーズ「A History of Misogyny」とは、言ってみれば女性の視点から歴史を改めて振り返ったherstoryと言えるだろう。

historyとherstory。それらに加えてさらに、男女の枠組みに収まらない性的マイノリティにとっての歴史、すなわちtheirstoryも知ることで、初めて語り合えることは多いのではないだろうか。これまでベールに包まれてきた女性達の物語を果敢に教えてくれるアブリルに、名誉ある写真賞が与えられたのは実に素晴らしいことだ。彼女が紐解くherstoryにこれからも注目したい。

2020年にパリのGalerie Les Filles du Calvaireで展示された本展の3Dツアーページを見つけたので、気になった方はご覧いただきたい
https://embed.artland.com/shows/on-rape

■Laia Abril “On Rape: A History of Misogyny, Chapter Two”(オランダ)
会期:2020年11月6日〜2021年6月27日
https://www.foam.org/museum/programme/laia-abril-on-rape-a-history-of-misogyny-chapter-two

Photography Tomo Kosuga

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写真家エルウィン・オラフはコロナ禍で未来の自身を視た。ロックダウン下のオランダで開催中の最新個展レポート https://tokion.jp/2021/05/08/erwin-olaf-sees-his-future-self/ Sat, 08 May 2021 06:00:10 +0000 https://tokion.jp/?p=31216 オランダはアムステルダム在住のアート・プロデューサー、トモ・コスガが世界のアートフォトの現在を探求する連載コラム。実に4ヵ月ぶりとなるギャラリー訪問となった第5回はオランダを代表する写真家エルウィン・オラフを取り上げる。

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筆者が暮らすオランダでは、昨年12月から現在に至るまで、実に4ヵ月以上ものあいだロックダウンが継続中だ。大型施設は依然として閉鎖されたままで、その中には美術館も含まれる。芸術鑑賞の機会が極端に失われてしまったことから、本連載はしばしの休載をいただいてきた。しかし今月に入って段階的に緩和され始め、少なくともギャラリーに関しては、入場の4時間前に予約を取る必要があり、なおかつ各時間に人数制限の設定こそあるものの、諸条件さえ満たせば入れるようになった(2021年4月23日現在)。

かくして、筆者にとっては実に4ヵ月ぶりとなるギャラリー訪問がかなった。その皮切りに選んだのは、オランダを代表する写真家エルウィン・オラフ(1959年-)の最新個展である。

世界遺産として知られるアムステルダムの歴史的な環状運河地区。運河に沿って17世紀に発展したレンガ造りの古い建造物がなお健在するこの街を歩いていると、今が一体いつの時代なのかを忘却してしまうほどだ。その外れに位置するGalerie Ron Mandosのギャラリースペースを埋め尽くしたのは、オランダ出身の写真家であるエルウィン・オラフの作品群。

オラフが得意とするステージングされたポートレート作品を主軸にしながらも、さらなるスケールアップを図った壮大な展覧会に仕上がった。アムステルダムの家屋が持つ特徴的な縦長のスペースを、手前から順に『Im Wald』『Ladies Hats』『April Fool 2020』の3シリーズが展開する。

本稿では『Im Wald』および『Ladies Hats』に絞って紹介したい。

オラフ初となる屋外撮影作品

ギャラリーのエントランスから奥へと向かって印象的に空間を包み込んだブルーの壁には、2020年に制作された壮大なシリーズ『Im Wald』が堂々と飾られる。これまで室内ポートレート作品で知られてきたオラフにとっては初となる大自然を舞台にした写真作品だ。

長辺2メートル強はある大判プリントに焼き込まれた大自然の景色に思わず圧倒されるが、近づいて視ると、どのイメージにも人物が小さく映り込んでいることに気付かされる。本作は昨今の気候変動やコロナパンデミックを含む地球規模の環境問題に着目したものであり、私達人類の実質的な矮小さを力強く訴える。

2019年の終わりにミュンヘンにある美術館Kunsthalle München(クンストハレ・ミュンヘン)で現在開催中の大規模個展のためにドイツを訪れたオラフは、ひょんなことから森林レンジャーが率いる大自然ツアーに参加。ドイツとオーストリアの国境に位置するアンマーガウアルプスを訪れた。国名からして「低い土地」である彼の祖国オランダは、国土の4分の1が人の手によって埋め立てられた干拓地であり、壮大な自然に触れる機会がそれほどないと言える。それだけにアルプス訪問は彼に深い感銘を与えたようだ。

「私たち人類がどれほどちっぽけな存在であるかを考えました」。彼はオランダ・「Volkskrant」紙のインタビューに答える。「同時に考え始めました。世界中で70億人もの人々が空を飛び、逃れ、移住し、休暇をとることは間違っているのではないかと。あの森の中で、人類の旅と自然への誇りは私にとって1つになったのです」(※1)。かくして大自然から気づきを得たオラフは、ロックダウンから一時的に解放された昨夏、その森を再度訪れ、10日間で『Im Wald』の写真群を撮影した。なおこの題名はドイツ語であり、和訳すると『森の中で』となる。

(※1)Erwin Olaf ging het bos bij Beieren in en kwam terug met zijn somberste fotoserie ooit(de Volkskrant)
https://www.volkskrant.nl/cultuur-media/erwin-olaf-ging-het-bos-bij-beieren-in-en-kwam-terug-met-zijn-somberste-fotoserie-ooit~b801b3d8/?referrer=https%3A%2F%2Fronmandos.nl%2F

「Am Wasserfall」(2020年和訳「滝にて」)では、森林を切り開く崖の大滝が、2メートル近くはある画面いっぱいに捉えられていることから、とりわけ展示会場では滝ばかりに目が行きがちであったが、しばらく眺めていると、画面右下に佇む裸の3人の存在に気付く。

彼らと滝のスケールがまるで噛み合わないことからもわかるように、彼らのうち2人は畏怖の眼差しで滝を眺めるも、対する滝は彼らに対して無関心であるとも受け取れるほどに絶大な力強さを見せつける。アンマーガウアルプスの大自然の中でオラフ自身が体感した素直な衝撃が象徴的なステージングによって強調されたことで、鑑賞者である私達にもその追体験を可能としている。

伝統と革新のハイブリッド

ここで「Am Wasserfall」内の3名の人物像に注目すると浮かび上がるのは、アメリカ近代美術を代表する画家トマス・エイキンズ(1844-1916年)の「The Swimming Hole」(1884-1885年、邦題「深みの水泳」)だ。

実際にオラフ自身、泳ぐことができるほど深い川辺でくつろぐ裸の白人男性6人が描かれたこの絵から触発されたのが「Am Wasserfall」だと語るように、身ひとつで自然に溶け込む若者らの姿は双方のイメージにおける共通点となっている。レンブラントやフェルメール、あるいはゴッホなど、歴史に名を残す著名画家を数多く輩出してきたオランダ生まれのオラフは、古典的な西洋絵画へのオマージュを頻繁に作品に取り入れたステージド・フォトグラフをこれまでも多く手掛けてきた。その特徴が本作においても確かめられる。

その一方でオラフの「Am Wasserfall」では、登場人物らが白人から黒人に置き換わった。また、どちらもリーダーを思わせるポージングをした人物が画面中央に描かれるが、「Am Wasserfall」においてはこの象徴的な人物を女性が務めていることも注目に値する。古典をなぞらえながらも、MeTooやBlack Lives Matterの観点を組み込むことで、時代に即した細部のアップデートを忘れていない。

振り返れば、オラフはポートレートの表現にPhotoshopによるデジタル加工をいち早く取り入れた写真作家の一人でもあった。彼の名を世界的に知らしめたシリーズ『Royal Blood』(2000年)などは、デジタル技術なくして生まれなかった作品の代表例だ。伝統を重んじながらも、新しい技術や発想を積極的に取り込むエクスペリメンタルな姿勢は、クラシックとコンテンポラリーを同時に突き詰めるオランダ人の長所そのものと言えるだろう。

コロナ禍の大自然で視た未来の自身

『Im Wald』シリーズには壮大な大自然の景色のほか、15名ほどを写したポートレートも含まれる。中でも印象的なのは、オラフ自身が両眼を開閉させながら写った2枚だ。

今年62歳となる彼だが、36歳で肺気腫を患い、60歳以上は生きられないと医師から宣告を受けた身であった。コロナに感染した場合はおそらく生き残れないだろうとも言い渡されている。本作を撮るために標高1200メートルの高地を訪れる必要があった彼は、肺への負担を和らげるため、鼻に酸素チューブを取り付ける必要に迫られた。その姿で写り込んだのが、この2枚というわけだ。全方位を枝葉に包まれながら、果たして彼は何を思ったのだろうか?

奇しくもオラフは、今から10年以上も前の時点でその姿を予言していた。2009年に彼が50歳を迎えた際に撮られた3枚のセルフ・ポートレート連作『Self Portrait – 50 Years Old: I Wish, I Am, I Will Be』(※2)はその題名通り、最初の1枚がデジタル加工によって若々しく肌が張り筋骨隆々となった理想的な彼の姿を(I wish)、2枚目が2009年における本来の姿を(I am)、そして3枚目がやはりデジタル技術によって数十年後の老いた姿を(I will be)現したものである。その3枚目で、彼は鼻に酸素チューブを取り付けていたのだ(その作品が観られるページのURLを下部に貼ったので、是非とも本作と比較して観ていただきたい)。

(※2)オラフの「Selfportrait 50 Years: I Wish, I Am, I Will Be」は彼の公式ウェブサイトで観られる
https://www.erwinolaf.com/art/I_wish_I_am_I_will_be_2009

それから約10年の月日を経て、かつて自ら予言した将来の姿を、彼は想像もしない形で目撃することになった。4半世紀近くのあいだ闘病してきた彼にとって、死は常に隣り合わせだったわけだが、コロナパンデミックの到来は彼にとってその感覚をさらに強めたはずだ。その彼がカメラの前に立って、両眼を閉じて見せた。その姿から彼なりの覚悟を感じ取らずにはいられない。

両性具有の戯れ

会場の奥に進むと、それまでの荘厳なブルーの壁から明るいホワイトの壁にがらりと変わり、従来のオラフらしいポートレート群が姿を現した。モノクロとカラーの写真が交ざったこちらは『Ladies Hats』。19世紀後半までの西洋美術史においては装飾が施されたハットを被る男性の姿が顕著に確かめられるが、それ以降はまるで見られなくなったことをきっかけに制作されたシリーズだ。

モデルらのポージングやライティングからは、やはり絵画からの影響が確かめられる。シリーズ最初期の1枚「Hennie」を撮る際にオラフが参考にしたのはオランダ黄金時代、とりわけレンブラントによる絵画だ。その特徴の1つでもある、明暗のコントラストを巧みに構成するキアロスクーロという技法を採用したことで、神秘的な肖像を生み出している。

今や社会的女性要素と成り変わったハットとマスキュリンな肉体は相反するようでいて、しかし実際のところは本シリーズの中で見事な調和を遂げている。ハットをまとわせたことで自然と表情が柔らかくなり、親密さが増した。ここに私達は両性具有の戯れを見るわけだが、その判断基準というのも実際には時代ごとの価値観1つで大きく揺れ動くことから、異性愛規範下における父権的なジェンダー・パフォーマティビティの有り様を皮肉ることに見事成功している。

そのほか、コロナパンデミックによって引き起こされた現況から触発されて制作された映像と写真で構成された作品『April Fool 2020』が展示されている。還暦を迎えてなお精力的なオラフから、ますます目が離せない。

現在エルウィン・オラフの展覧会はアムステルダムのほか、ドイツ・ミュンヘンのKunsthalle München、そして中国・上海のDanysz Galleryで同時開催中だ。

■Erwin Olaf “Im Wald” at Galerie Ron Mandos(オランダ)
会期:2021年4月14日〜5月22日
https://ronmandos.nl/exhibition/erwin-olaf-im-wald/

■Erwin Olaf “UNHEIMLICH SCHÖN” at Kunsthalle München(ドイツ)
会期:2021年5月14日〜9月26日
https://www.kunsthalle-muc.de/ausstellungen/details/erwin-olaf/

■Erwin Olaf “Traveling Souls” at Danysz Gallery(中国)
会期:2021年4月27日〜6月8日
https://danyszgallery.com/viewing-room/10-erwin-olaf-traveling-souls/

Photography Tomo Kosuga

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写真連載「言葉なき対話」Vol.4 ニューノーマルの時代に問う写真の次なる視座 https://tokion.jp/2021/01/22/photo-series-wordless-dialogues-vol4/ Fri, 22 Jan 2021 06:00:48 +0000 https://tokion.jp/?p=16758 オランダはアムステルダム在住のアート・プロデューサー、トモ・コスガが世界のアートフォトの現在を探求する連載コラム。第4回ではニューノーマルが模索される現在においてアートのアウトプットがどのように変わりつつあるのかを確かめる。

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パンデミックの発生以来、筆者が暮らすオランダでは3度のロックダウンが敢行され、そのたびに美術館や博物館などの文化施設は一時閉館を強いられてきた。今回はそんな状況下で滑り込めた展覧会の1つを紹介したい。オランダ・アムステルダムに位置するハウス・マルセイユ写真美術館での企画展「Infinite Identities – Photography in the Age of Sharing」(和訳:無限のアイデンティティ – シェア時代の写真)だ。

本展は「従来の美術館が担ってきたプロセスをインターネットとソーシャルメディアは将来的にどの程度激変させるか?」というテーマの下、ツールとしてInstagramを駆使する8名のアーティストおよび写真家の作品を紹介するものだが、オランダは現在3度目のロックダウンの最中にあり、本展も一時中止を余儀なくされていることから、くしくも展示テーマを現在進行形で考えさせるものとなった。

以下、出展作家の中で印象に残った3名に絞って紹介したい。

ソーシャルディスタンシングの世界が織りなす旋律

トーマス・ローア(1980-)はロンドンからパリに引っ越した直後、ファッション・フォトグラファーとしての多忙な日々に終止符を打った。Covid-19の感染防止を目的としたロックダウンは、人々の行動範囲を大幅に制限した。その瞬間を記録したいと考えた彼は、自宅のバルコニーから視界に入るストリートをめがけて撮り始めた。

そのツールとして、ローアはプロ仕様のカメラではなくスマートフォンのカメラアプリを選んだ。ただ撮るだけでなく、撮った写真を自分自身の体験としてリアルタイムで共有することが重要だと気付いたからだ。かくして2020年3月16日から5月11日までの56日間に及んだロックダウン中に35,000枚もの写真がスマートフォンで撮影された。自宅からでもフィードバックが得られる最良の方法として、ローアはそれらをInstagramに毎日投稿した。

ローアがベランダから撮影し続けた写真は最終的に作品集『View Point』として出版された

当時の彼にとってバルコニーは外界への唯一の窓であり、その制限は写真に一定のフォーマットをもたらした。まるで空を羽ばたく鳥のような俯瞰視点が映し出したのはソーシャルディスタンシングによって一定の距離を保った人々の姿だ。それらは横断歩道の縞模様と相まって楽譜を連想させる。街がロックダウンによって静まり返ったなかでもなお人々が織りなす旋律が視覚を通じて聞こえてくるかのようである。

主客未分の境地に見る写真の未来

ニューヨークを活動の拠点とするアメリカ出身のフォトグラファー、ニック・セティ(1989-)はインドから移民としてアメリカに渡った両親を持つ一方で、母国語を学ばずにアメリカ人として育った。2007年、家族とともに祖国・インドで1年暮らすことになった彼は、言葉が通じない現地の人々と知り合うために写真を撮り始めた。それは彼にとって十分に手応えが感じられるものだった。

かくして写真をビジュアルランゲージとして扱うことの喜びを知ったセティは、以降10年間にわたってインドとアメリカを何度も往復しながら写真を撮り続けてきた。言葉の代わりにカメラとiPhoneをコミュニケーションのツールとして駆使し、時にはカメラを人々に渡して自由に撮影させたり、Snapchatのフェイススワップを使って人々と顔を入れ替えてみせたりと、彼の写真には被写体との親密さがあふれると同時に、撮る/撮られるの立場を曖昧にさせたことで主客未分の境地が浮かび上がった。

Snapchatのフェイススワップを使って、インドの街で出会った人と顔を入れ替えた写真。ヒンディー語が話せないセティは、写真をビジュアルランゲージとして巧みに操ることで、彼のルーツであるインドの人々とコミュニケーションを図ってきた

母国を知ることなく育ったセティが10年をかけてインド中を巡った旅とはすなわち、自身のルーツを探し求めるものだったに違いない。しかし彼はその過程で、写真を表現手段に選ぶ人々が陥りがちな自己表現に固執するのではなく、あくまでも被写体とコラボレーションすることに重きを置いた。そうすることで文字通り現地と混ざり合ったのだ。私達はInstagramやそのストーリーで日々公開されるセティの写真を垣間見ることで彼の旅を追体験できるばかりか、コメントやライクによってリアクションをセティに送ることができる。撮影者と被写体、そして観客が高いエンゲージメントによって結ばれたセティのアートワークの在り方は、肖像権問題がしばしば議論されてきた写真表現の新たな道筋とその可能性を示唆している。

自己表現の時代に忘れがちなドキュメンテーションの力

2020年8月4日、レバノンの首都ベイルートの港で大爆発が発生。死者200人以上、負傷者6000人以上にのぼる大惨事を引き起こし、30万人以上が家を失った。写真家のミリアム・ブロス(1992-)はその現場と被害者を撮影して回った体験を経てこう語る。「イメージはもはや私に関するものではありません。イメージそのものが最優先事項なのではなく、ドキュメンテーションこそが重要なのです」。

かくしてブロスはイメージを作り上げることへの意識から距離をとり始めた。それまでの彼女も撮影後に被写体の連絡先を訊くようにはしてきたが、重要なドキュメントを形成するのは被写体の証言であると知った現在は、撮る前にまず彼らの話に耳を傾けるようになった。

ベイルート港爆発事故の翌日、その被害者らを救助してきたパレスチナ協会のメンバーが事故現場で祈りを捧げる様子がブロスのInstagramに投稿され、大きな話題を呼んだ

写真は時代を記録するメディアとして発達してきたが、カメラが大衆に普及したことで、それはいつしか身近な自己表現のツールとして親しまれるようになった。Instagramも一般的にはそうした目的のために使われるが、ブロスのInstagramアカウントは自身の作品を見せるための単なるプラットフォームとしてだけでなく、レバノンの現況に対する世間の認識を高めることに貢献している。洗練されたイメージ作りよりも、目の前の現実に対する誠実さを優先した彼女の写真からは、先述したセティと同様に、カメラの前に立った人々との親密さがうかがえる。

昨年発生したパンデミックは世界の当たり前を一変させた。筆者が暮らすオランダでは昨年3月と10月にロックダウンが実行されたが、それでもCovid-19の感染者急増に歯止めをかけることはかなわず、12月中旬より3度目のロックダウンが継続中だ。ロックダウンの度に生活必需品を取り扱わない店舗は軒並み閉鎖され、美術館などの文化施設は一時閉館を強いられてきた。

これまでのアートシーンにおいては美術館やギャラリーが作品発表の絶対的な磁場として機能してきたが、昨年のパンデミックをきっかけに美術館やギャラリーが開閉の反復を余儀なくされたことで、オンラインの活用はアーティストにとってますます重要なものとして認識されたはずだ。なかでも絶大な人気を誇るInstagramは、アートワークを発表するパブリックステージとしても機能し始めている。私達は本展が掲げたテーマの答えをまさに今この身で体感している。

3名のInstagramアカウントは以下の通りだ。それぞれのページにアクセスしてもらいたい。美術館が閉ざされている今、彼らの活動の実体はオンラインでのみ確かめられるのだから。

トーマス・ローア– @thomaslohrstudio
ニック・セティ – @sicknethi
ミリアム・ブロス – @myriamboulos

■「Infinite Identities: Photography in the Age of Sharing」
会期:2020年11月28日〜2021年2月28日
会場:Huis Marseille(オランダ)

Photography Tomo Kosuga

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写真連載「言葉なき対話」Vol.3「鑑賞者は誰か?」ピクシー・リャオは男女の関係を逆転させ、新たな問いを突きつける https://tokion.jp/2020/12/11/photo-series-wordless-dialogues-vol3/ Fri, 11 Dec 2020 06:00:51 +0000 https://tokion.jp/?p=13139 オランダはアムステルダム在住のアート・プロデューサー、トモ・コスガが世界のアートフォトの現在を探求する連載コラム。第3回では異性愛の在り方に対して問いを投げかける写真家ピクシー・リャオの写真を読み解く。

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ピクシー・リャオ『It’s never been easy to carry you』(あなたを抱えるのは決してカンタンじゃない), 2013年。2019年のアルル国際写真祭にて

本連載の第1回で取り上げた英・バービカン・センターでの企画展『マスキュリニティーズ』は、この半世紀にわたって世界の写真家達が撮影してきた写真を通じて確かめられる社会的な男らしさの在り方を俯瞰することから、現代におけるジェンダーの在り様を再考するものだった。第3回の今回は異性愛とヌードの在り方に対して問いを投げかけるアーティストを紹介したい。ニューヨークを拠点に活動するピクシー・リャオだ。

従来の世間的な男女像から逸脱したカップルの遊戯

2007年から制作が開始され、現在も継続中の長期的なプロジェクト『Experimental Relationship』(実験的関係)は、彼女自身と恋人のモロがカメラの前でパフォーマンスを繰り広げるというもの。あたかも仔猫同士がじゃれ合うかのようでなんとも微笑ましいが、その一方でこれらを見て2人のパワーバランスの在り方に違和感を抱く人もいるかもしれない。リャオがモロを抱きかかえて持ち上げてみせたり、ベッドに腰をかけるリャオの肩にモロが全身で被さってみせたりと、従来の世間的な男女像から逸脱しているからだ。またリャオはたいてい衣服で身を包んでいる一方で、モロはたいてい裸を晒していることも、2人のこのおかしな関係を強調している。これらの写真は偶発的な場面を写したものではなく、リャオのコンセプトに従って巧妙にステージングされたものだ。

ここで、本作が生まれたきっかけを紐解こう。1979年、中国は上海に生まれたピクシー・リャオは留学のために渡米し、テネシー州のメンフィス大学でアートフォトグラフィー学科に入学した。そこで彼女が出会ったのは、音楽を学ぶために日本から留学してきたモロだった。女性にとって、頼りになる年上の男性を見つけて家庭に入ることが一般的とされる社会で生まれ育った彼女にとって、彼女より5歳年下のモロは母国で伝統的に理想とされる恋人の定義には当てはまらなかった。しかし幸いにも彼女の母国で暮らす両親や知り合いから遠く離れた場所で出会ったことから、2人は親密さを育むことができた。彼女にとって、年下の男性と恋愛関係を築くことは衝撃的だったようで、そうした実体験から触発されて生まれたのが本作である。

「男は行動し、女は見られる」
リャオはそれを逆転して見せた

写真技術が開発されるよりもずっと昔から、女性は見られる対象とされてきた。それこそ絵画の中で女性はところ構わず裸を露わにし、鑑賞者に視線を送る存在として扱われてきたわけだ。ジョン・バージャーの言葉を引用するなら、「男は行動し、女は見られる。男は女を見る。女は見られている自分自身を見る」(ジョン・バージャー『イメージ―視覚とメディア』ちくま学芸文庫、訳・伊藤俊治、2013年)のであり、「これは男女間の関係を決定するばかりでなく、女性の自分自身に対する関係をも決定してしまうだろう」(同上)。しかしリャオの写真の中で行動を起こすのは、決まって彼女のほうである。そして観客の好奇な視線を浴びるのはモロであり、彼が見られる立場となったがゆえに、彼の彼自身に対する関係をも考えざるを得なくなる(これは先述の『マスキュリニティーズ』展で垣間見られた構図でもある)。

女のほうがたくましく、男のほうが弱々しい。女が場を支配し、男がそれに従う。そうした構図が読み取れる作品を見て違和感を抱いたとしたら、それは逆説的に従来の社会的男女像が不均等であることを証拠づけている。再びジョン・バージャーを引用するなら、従来の女性をモデルとしたイメージの在り方が「”理想”の鑑賞者が常に男であると仮定されていて、この女性のイメージが彼に媚びるように仕組まれている」(同上)構造が、リャオの手によって男女の立ち位置を逆転することで明るみとなったのだ。『実験的関係』という題名が示唆するように、リャオは異性愛の関係を実験的に逆転することで浮かび上がる問いを私達に投げかける。

シャッターを切ったのは誰だ?

さて、ここで確かめたいのはモロの意志である。本作を通じてフェミニズムの問いを汲み取ることができたが、それは別として、モロがまるでリャオの支配下にあるかのような在り方を写真で示すことは、彼個人に対する侮辱行為にはならないだろうか? 写真を再び凝視していただきたい。これらはステージングされた写真群であり、その実権を握るのはリャオであることから、2人が同時に映り込む撮影においてシャッターを切ったのも当然彼女に違いないと思い込みがちだが、大半の写真の中でカメラに接続されたレリーズを握っているのは、リャオではなくモロである。そう、シャッターチャンスは彼の手中にあった。シャッターを切ることとはすなわち、撮影行為の肯定を意味する。各場面の演出がリャオによってコントロールされた一方で、どのタイミングで写すか、そして撮影行為を肯定すべきかを判断したのはモロだとわかる。

リャオ自らはステージングに徹し、モロにシャッターを委ねたことによって、単にモロを一方的に利用することなく、本作を2人によるコラボレーションとして昇華させた。これはリャオ1人では成立しない実験である。これからどのように発展していくのかは想像もつかないが、現時点において、あるいはこの先において、私達が彼らの写真からさまざまな社会的テーマを汲み取ることができたとしよう。それでも本作は依然として、2人のパーソナルな実体験と実生活の地続きにある関心事であり続けるはずだ。それこそ、開始されてから13年が経った今なおこのプロジェクトが継続している理由のひとつなのではないだろうか。ウィットに富んだ2人のパフォーマンスを前にして、ともすれば堅苦しくなりがちなところで大きく深呼吸できるのも、写真を通じて2人の親密さと信頼関係が確かめられるからに違いない。

それにしても不思議なものだ。誰もが心の中に確固たる自分らしさを持っているはずなのに、いざ社会的集団となると、自分らしさにはフタをされ、外見で評価を下される。男らしさとは、女らしさとは、異性愛らしさとは——。人間社会はこれまで長きにわたって生物学的性差を基準にして人々の性質や行動を振り分けてきたが、その足元では数えきれないほどのジェンダートラブルが発生してきたのは紛れもない事実だ。ここまでリャオとモロの関係を写真のなかに見てきたが、リャオを女性の代表として、モロを男性の代表として受け止めて異性愛関係を一定の形式に標準化すること自体がそもそもおかしいとすら感じられる。ここに見るのはリャオとモロのケースであり、それ以外のなにものでもないのだから。本作を通じて考えずにいられなくなるのは、鑑賞者は誰なのか?という疑問である。

鑑賞者は誰なのか?

ここでリャオらしい皮肉が効いた仕掛けについて触れよう。本作の作品集は黄色く染められているが、彼女の母国である中国において黄色はポルノを意味する。実際のところ、本作には2人が裸を晒した写真も含まれているわけだが、だからといってこれらがポルノかと訊かれれば、きっと誰もが否定することだろう。それでは両者の違いを説明してほしいと迫られたら、あなたはどう答えるだろうか?

どうにもややこしいことに、ポルノとヌードには一定の共通した視点が認められる。やはりここでもジョン・バージャーの助けを借りるなら、「ヌードであるということは他人に裸を見られるということであり、本来の自分を気づいてもらえないことである。裸の肉体がヌードとなるためには、まずオブジェとして見られなくてはならない」(同上)。芸術の名の下においても、フレームの外に男の鑑賞者がいることを前提とした上で、女の肉体がオブジェとして取り扱われてきた過去があるということだ。女性の人間性が否定され、その肉体がモノとして扱われる点において、ヌードとポルノに違いはあまりない。

ヌードパフォーマンスを作品の基調として持った中国出身の写真家兼詩人に、故・任航(レンハン)がいる。同世代の匿名の若者らをモデルに迎え、彼らの肉体をまさしくオブジェのように扱って見せた彼の写真はシンプルでありながらもポエティックであり、またたく間に世界的に絶賛された。彼自身がクィアであったことから、少なからず彼の写真の鑑賞者として従来のように男性を設定していなかったことも幅広い層に受け入れられた要因の1つだったかもしれない。男のためでも、女のためでもない、人間のためのヌードを撮ることができたがゆえに獲得できる健全さが、彼の写真にはあった。しかし現実問題として、彼の写真作品は中国当局によって厳しく監視し続けられたのだ。その事実は、中国において肉体表現の鑑賞者が絶対的に男であることを印象的に証拠づけていた。

リャオは今でこそアメリカで活動しているが、彼女の原点は母国にある。アーティストとしてのアイデンティティを考えれば、彼女の問いは常に中国を基点にして生まれる。だからこそ彼女は本作の作品集を、あえて黄色で包んだのではないか。アーティストには鑑賞者を選ぶ権利がないからだ。鑑賞者は誰なのか? リャオの写真の根底で一貫して息づくのはその問いだ。そして時間の経過とともにその答えが変容していくであろうところに、本作の真価がある。

Photography Tomo Kosuga

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写真連載「言葉なき対話」Vol.2 アレック・ソスは物語ることをやめた。オランダで開催中の最新個展レビュー https://tokion.jp/2020/11/14/photo-series-wordless-dialogues-vol2/ Sat, 14 Nov 2020 06:00:33 +0000 https://tokion.jp/?p=11372 オランダはアムステルダム在住のアート・プロデューサー、トモ・コスガが世界のアートフォトの現在を探求する連載コラム。第2回では世界的に注目を浴びる写真家アレック・ソスに訪れた変化を読み解く。

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アメリカ出身の写真家、アレック・ソスの最新個展『I Know How Furiously Your Heart Is Beating』が、オランダはアムステルダムの写真美術館「Foam」にて開催されている。

2004年に発表された『Sleeping by the Mississippi』以降、アメリカを代表する現代写真家の1人として世界から注目を浴び続けるソスは、これまで写真集の形式による作品発表を中心とした作家活動で知られてきた。2015年発表の前作『Songbook』以来の新作となった本作は、2019年にロンドンの出版社・MACKから写真集として刊行。その収録作品を展覧会の形式で世界に先駆けて見せたのが、「Foam」での本展である。

オランダはアムステルダムの写真美術館・Foamにて開催中のアレック・ソス展の様子。大きく引き伸ばされた20点ほどの写真作品が展示されている

ストーリーテラーから一転
物語ることをやめたソス

1969年にミネソタ州ミネアポリスで生まれたソスは、これまでロードトリップの写真作品を数多く手掛けてきた。旅先で出会った人々のポートレートや風景を中心に構成された彼の作品からはアメリカの伝統的なワンダーラストの精神が窺えた。

中でも高く評価されてきた代表作が『Sleeping by the Mississippi』と『NIAGARA』(2006年)だ。その2作品が近年、MACKから立て続けに再版された衝撃は今なお記憶に新しいが、それらの特徴として挙げられるのが、地名をタイトルに含めていることだろう。ソスの場合、そうした地名は、単に撮影地の記録というラベリングの役割を意味するというより、写真を跨ぐメタファーとして理解できた。写真それぞれを点に喩えるなら、それらを連結させることで浮かび上がる地理学的なヴィジョン、すなわちアメリカという国そのものを想像させるメタファーとして「Mississippi」や「NIAGARA」という地名が機能してきたというわけだ。

適切なタイトルをつけることで作品は概念化され、また文脈が与えられることを熟知する一方で、写真に言葉を添えるあまり文脈が特定されすぎてしまうことを自戒してきたソスのこれまでの仕事に、私達は写真を用いたストーリーテラーの現在形を見ることができる。

本展では、沈黙の内にある人々が秘めた感情を印象的に見せるポートレートが立ち並んだ

ドイツ生まれの写真家、アウグスト・ザンダーはかつて『People of the 20th Century』と題し、市井の人々を撮った写真を職業別に振り分けることで20世紀の人々の原型を浮き彫りにさせようと試みた。ソスのこれまでの作品群では、そうしたザンダーのヴィジョンに近い意識が確かめられた。『Sleeping by the Mississippi』や『NIAGARA』(2006)では特定の地域で、さらに『Broken Manual』(2010)や『Songbook』(2015)では文字通りアメリカ全土を俯瞰する形で、ソスは21世紀のアメリカ人の原型を見せてくれたとも言えるだろう。

それだけに、本作においても、彼が写真を通じていかなる世界を見せてくれるのかとつい期待しがちだが、今回に限っては、それでは出鼻をくじかれるかもしれない。というのも、本作はこれまでのような、特定の場所やコミュニティにまつわる物語を広げたものにはなっていないからだ。

鏡と窓

本作のタイトル『I Know How Furiously Your Heart Is Beating』とは、アメリカの詩人ウォレス・スティーヴンズによる短詩「The Gray Room」(灰色の部屋、1917年)からの引用である。たとえ世界が灰色に感じられるほど塞ぎ込んだ気分に私達が陥ったとしても、身の回りのものや自然の色鮮やかな世界に意識を傾ければ気分は高揚するもので、ひいては私たちの胸奥で休むことなく激しく脈打つ心臓の存在に気づくことだろう―。MACKから刊行された写真集同様に、この詩の最後の一節を冠した本展では、沈黙の内にある人々が秘めた感情を印象的に見せるポートレートが立ち並んだ。

これまでの作品に見たソスのワンダーラストは、どうやらそのベクトルをがらりと変え、私的な内深界を目指したようだ。本作の写真群が全て、被写体を務めた人々のプライベートな場所で撮影されたことがそれを証拠づけているが、それ以上に決定的なのは、写真の随所から感じ取れる〝鏡と窓〟だ。直接的な媒介物としてそれらが使われた写真もあれば、潜像としてそう感じさせるものもある。

中でも最も象徴的な写真を挙げたい。2017年の撮影当時97歳のダンサー、アンナ・ハルプリンを撮った1枚である。

撮影当時97歳のダンサー、アンナ・ハルプリンを撮影した1枚。本作最大の特徴とも言える〝鏡と窓〟の概念が見てとれる

この写真をよく見ると、室内で座するハルプリンを窓越しに写したものだと気づく。その窓は、光を通過させると同時に、光を反射させてもいる。カメラは、ハルプリンを見据えた室内を望むと同時に、カメラの背後の外景も望んでいる。被写体の人物を写しながらも、あたかも撮影者であるソス自身を重ねるかのようだ。これを見て考えずにはいられなくなるのは、かつてジョン・シャーカフスキーが提唱した、写真における〝鏡と窓の役割〟である。

1978年、ニューヨーク近代美術館にて『Mirrors and Windows』という写真企画展が開かれた。この展示を手掛けたキュレーターのジョン・シャーカフスキーが提示したのは、写真には〝鏡としての自己内省的機能〟と〝窓としての外的観察機能〟があり、現代の写真からはそのどちらかを性質として導き出すことができるのではないかという問いだった。そうして彼が試みたのが、当時の写真家100名200点余りの作品をそれぞれ鏡派と窓派に分類することだった。それは画期的な視点であるとして当時高く評価されただけでなく、半世紀近くが経った今なお、現代の写真鑑賞におけるひとつの指標として語り継がれている。

ソスは本作で、被写体との親密さを築き上げた先で撮れるポートレートを目指した。それは〝主客未分〟としての写真の在り方と言えるかもしれない

では、ソスが理想とする写真の在り方としては、そのどちらに分類されるだろうか? 筆者は昨冬、故・深瀬昌久にまつわる往復書簡をソスと交わす機会があり、その際に鏡と窓の話題をそれとなく切り出したことがある。その時の彼の返事はこういうものだった。「一見、外を向いているようで、内面を見つめている作品に、私は最も惹かれます。それらはまるで夜に窓の外を眺めるのと同じくらい、窓に反射する自分の姿を見るようなものです」。

この返答を頼りにしながら、ハルプリンを撮った1枚を改めて見てみると、彼が語ってくれた〝夜の窓〟の概念が実際に試されていることが見てとれる。どうやら彼は、鏡でも窓でもある写真の在り方を探求したようだ。主体である彼自身と客体である被写体を、区分することなく写真の中で融合させようとした意味では〝主客未分〟の境地とも言えるかもしれない。

被写体との親密さを求めて
ザンダーからヒュージャーへ

本作のポートレートから特定の場所やコミュニティを掬い上げることはもはや不可能で、かつてのソスの作品のように、点としての写真が磁力を帯びて互いに連結することはない。ここで物語は立ち上がらないのだ。その代わりに私達が見るのは、被写体とソスがともにした私的な時間共有の結果であり、言い換えるなら、彼らが紡いだであろう親密さである。

ソスには、2015年の『Songbook』発表後しばらくのあいだ写真を撮らない時期があった。撮り手のシャッタータイミングや写真の見せ方によってイメージが大きく左右されてしまうことに疑問を抱き、ポートレートを作品として取り扱うことに倫理的問題を感じたのだという。しかしその一方で、作品を通じて伝えたいことを形にするにはやはりポートレートが必要なのではないかという葛藤もあり、彼は悩まされていた。

写真を撮らなくなって1年が過ぎた2017年、先ほど触れたアンナ・ハルプリンを撮影する機会を得たソスは、ダンサーとして名高いハルプリンのプライベートな空間で多くの時間をともにした。これまでとは打って変わって、長い時間をかけたその撮影は、彼を突き動かす新たな動機となったのだろう。その撮影を境に、ソスは再びポートレートを撮り始める。それは、プロジェクトや写真集といった最終形態を目指して始められるものではなく、あくまでも個々の人々と豊かな時間を共にすることに、ずっと意識が向けられたものだった。

各写真のタイトルには、被写体を務めた人物たちの名前が含められているが、そのどれも苗字を省略していることからも、ソスと被写体の親密さが伝わってくる。

ソファやベッドに横たわった人々のポートレートは、ピーター・ヒュージャーがかつて撮ったポートレートを強く連想させる

ポートレートを通じた被写体との親密さを考えたとき、筆者が真っ先に思い出すのは、ピーター・ヒュージャーだ。70年代から80年代にかけてニューヨークのダウンタウン・カルチャーシーンの最前線で数多くのポートレートを手掛け、1987年にエイズでこの世を去ったアメリカ出身の写真家である。

ソスが本作で見せる、ソファやベッドに横たわった人々のポートレートは、飼い主にだけ脱力した姿を見せる猫を連想させる他に、ヒュージャーによるポートレートを強く連想させる。ソスがヒュージャーの名をこれまでに幾度となくインタビューの中で挙げてきたことはよく知られた事実であるし、本作に至っては、かつてヒュージャーのモデルを務めたことで知られる写真評論家のビンス・アレッティが被写体として登場しているほどだから、本作を通じてソスがヒュージャーの影を探求していたと想像することもできるだろう。

ヒュージャーは、単体としても連作としても、写真をそれ以上のものとして物語ることはなかった。その沈黙は結果として、撮影者と被写体の親密さを、彼の写真に遺した。声や雑音を排除したポートレートを通して気付かされることこそ、まさしく〝I know how furiously your heart is beating〟と言えるのではないか。そしてそれこそがおそらく、写真で物語ることをやめたソスが本作を通じて探し求めたものなのではないか。

現在のソスには〝ザンダーからヒュージャーへ〟という決定的な変化を見ることができる。本作がこれまでのソスの作品群から大きくかけ離れたものとして仕上がったのも、これまでのザンダースタイルで行き詰まってしまったのを、新たにヒュージャーを拠り所にすることによって突破口を開いたからではないかと考えずにはいられない。

本作の写真群はどれも室内で撮影された。パンデミック前に撮影されたにもかかわらず、まるでポストパンデミックの人々の暮らしを暗示するかのようでもある

パンデミックがもたらした、新たな解釈

本展の会場となったFoamの2階は、大小含めて計5つの空間で構成されたそれなりに広いスペースだが、本展では20点あまりの作品が充分な距離を持って飾られていたこともあって、作品そのものが窓であるかのようにも感じられた。観客は会場に居ながらにして、ソスがさまざまな国を巡って訪れた人々のプライベートな空間を、距離的あるいは時間的な制限なくして窺い知ることができる。

この窓の概念は期せずして、今年起きたパンデミックによってがらりと変わった。COVID-19の蔓延によって世界中の人々が離れ離れの状況に置かれている今、人と人をつなげる役割を担っているのはデジタルディスプレイだ。それを〝窓〟とするなら、その窓越しに、相手に触れることなく眺めること。ひいては、相手の鼓動の激しさを確かめること。それらが実現可能か否かは、今や世界の誰もがその身でよく体感していることだろう。

■Alec Soth「I Know How Furiously Your Heart Is Beating」
会期:2020年9月11日〜12月6日
場所:Foam Fotografiemuseum Amsterdam(オランダ)

Photography Tomo Kosuga

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写真連載「言葉なき対話」Vol.1 “男らしさの呪縛から解放する” ロンドンで開催された大規模写真展レポート https://tokion.jp/2020/10/17/photo-series-wordless-dialogues-vol1/ Sat, 17 Oct 2020 06:00:50 +0000 https://tokion.jp/?p=7695 オランダはアムステルダム在住のアート・プロデューサー、トモ・コスガが世界のアートフォトの現在を探求する連載コラム。第1回は、ロンドンで開催された大規模写真展「Masculinities」のレポートを通して、ジェンダーを考える。

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Masculinity—。いかにも小難しそうな響きだが、日本語に置き換えるなら「男らしさ」や「男性であること」といった言葉が当てはまる。そう聞いてハリウッド映画のハードボイルドな男達の姿を思い浮かべるかもしれない。

しかし「Masculinity」とは、そうした存在自体を指すのではなく、彼らの特徴を男らしいと見なす、私達の心理的な認識そのものを指す観念だ。例えば「男は泣かないものだ」とか「もっと男らしく生きろ」などと言われる時、そこには「Masculinity」への意識が確かめられると言えるだろう。つまり私たちが誰かを称賛もしくは非難する時、その相手が生まれもった性に対してふさわしい行動をとっているかどうかを評価の基準にしがちということだ。そうした心理的作用がどのようにして生まれるのか。それを浮き彫りにさせようとした時、「Masculinity」は輝き始める。

英バービカン・センターで開催された「Masculinities」展の様子。オープニング当日の夕方に訪れると、会場は来場者で埋め尽くされていた。作品の撮影もままならない混雑具合であったため、展示作品は本展カタログの図版にて紹介する

今年の春から夏にかけて、イギリスはロンドンにあるヨーロッパ最大規模の複合文化施設、バービカン・センターにて企画展「Masculinities: Liberation through Photography」が開催された。これは「男らしさ」をテーマに、50名以上の国際的なアーティスト、写真家、映画製作者による300点以上の作品が集められた大規模な展覧会だ。あまりにも大規模な内容であるため、筆者の印象に残った作品を中心に紹介したい。

ジョン・コプランズ『Self-portrait』(1994年)

「原型を崩壊させる」(Disrupting the Archetype)と題された最初のセクションは、年老いた裸体をカメラの前に晒したジョン・コプランズによる巨大作品『Self-portrait』(1994年)から始まる。胸から膝にかけてフレーミングされた、つまり顔が取り除かれたコプランズの肉体は、老化と肥満、そして茶目っ気あるパフォーマンスによって、衣服だけでなく「Masculinity」さえ脱ぎ捨てたかのようにも見え、その姿にヨハン・ホイジンガのホモ・ルーデンス、すなわち〝戯れる人〟を見ることもできるだろう。

トーマス・ドヴォルザーク『Taliban Portraits』(2002年)

マグナム・フォト所属の写真家、トーマス・ドヴォルザークによる『Taliban Portraits』(2002年)は、一風変わったファウンドフォトだ。ドヴォルザークは、2001年に始まったアメリカによるアフガニスタン侵攻を報道した際、現地の写真スタジオに出くわした。そこで見たものとは、2人の兵士が親密そうに手をつなぎながら撮影された身分証明用の写真群だった。それらは色鮮やかに着色され、まるで化粧でもしたかのように頬が赤く染められたり、あるいは撮影の小道具として銃や〝花〟が使われたりと、アフガニスタンの厳格な家父長制社会におけるハイパーマスキュリン(超男性的)な兵士の従来像を直接的に揺るがして見せる。

キャサリン・オピー『High School Football』(2007-09年)

キャサリン・オピーによるシリーズ『High School Football』(2007-09年)では、若いフットボールの選手達の意外なほど不安定な姿が確かめられる。アメリカンスポーツの代表格の一つとされるフットボールではあるが、その選手はというと、まだ大人にもなりきらない青年達だ。怪訝そうにカメラを見つめる彼らの姿は、私達が一般的に想像しがちな強靭なスポーツ選手像からかけ離れている。

リチャード・アベドン『The Family』(1976年)

「男性の秩序(権力、家父長制と立ち位置)」(Male Order: Power, Patriarchy and Space)と題された次のセクションでは、男たちの覇権による支配を物語る作品が集められた。権力という視点において、本展で最も印象的な作品として記憶に残るのが、リチャード・アベドンによる『The Family』(1976年)だ。

1976年、次期アメリカ大統領選挙に先立って「ローリングストーン」誌によって企画され、アベドンによって撮り下ろされた69枚の写真で確かめられるのは、ジェラルド・フォード大統領を筆頭とした、当時のアメリカ社会における覇者達だ。題名から連想するのは言わずもがなマフィアであるが、本作は写真という形で一堂に会して見せたことで、あたかも彼らが社会の表舞台における〝ファミリー〟であることを皮肉るようだ。被写体の中には、ロナルド・レーガンやジミー・カーター、ジョージ・ブッシュなど、後に大統領となった人物も含まれていることから、その後のアメリカ政治の数十年間を股にかけた家族アルバムとしても理解できるだろう。

深瀬昌久『家族』(1971-1990年)

次のセクション「家族と父権」(Family and Fatherhood)は、本展では唯一のアジア人作家となった深瀬昌久の作品『父の記憶』(1971-1990年)と『家族』(1971-1990年)から始まった。どちらも深瀬自身の父、助造を中心とした一家を題材に、20年間にわたって記録されたものだ。助造の死をきっかけに家族の輪がほころび始め、最終的に一家離散と写真館廃業を迎えたところで、どちらの作品も終止符が打たれた。家長の死が一家の崩壊に直結するという展開は、ともすれば独裁的な家父長制が持つ構造的な問題点を提示して見せる。

アネタ・バルトロス『Family Portrait』(2015-18年)

アネタ・バルトロスによるシリーズ『Family Portrait』(2015-18年)は、ボディビルダーの父と作家自身によるエロティックなパフォーマンス作品だ。ポーランドの牧歌的な片田舎で、露出度の高いショートパンツ姿の父と、やはり下着姿となった娘が妖しくポージングをとって見せる。カメラに向かって肉体美を誇示することに夢中な父の姿はどこか滑稽にも見え、家長に対するシニカルな女性の眼差しが浮かび上がる。

展示は上階フロアへと続く。ここまでの下階フロアがステレオタイプの「Masculinity」を写真で振り返るものであったのに対し、上階フロアでは、まったく異なる視点から「Masculinity」を確かめる写真の数々が待ち構えていた。

ピーター・ヒュージャー『Orgasmic Man』(1969年)

「クィアの男らしさ」(Queering Masculinity)セクションでは、ピーター・ヒュージャーによる写真を取り上げたい。男性が射精に至る瞬間の表情を捉えたシリーズ(『Orgasmic Man』1969年)やドラァグクイーンが普段の男性の姿から化粧を施してドラァグクイーンへと変身する様を捉えた写真群(『David Brintzenhofe』1979-83年)だ。前者に見る男性の恍惚とした表情は「Masculinity」から程遠い弱々しさを露呈したもので、従来のコードで言えば “女々” しいと感じ取れる。

クィアとは本来「奇妙な」という意味の言葉であるが、かつてはLGBTの人々に対する侮蔑語として使われてきた。しかしそれを逆手にとってLGBTの人々が自らクィアと名乗ることで肯定的に受け止め、ひいては言葉の意味を見事に反転させたという歴史がある。ヒュージャーが捉えた男性の表情を、いかなる男性も等しく射精時に見せ得ることを考えると、「Masculinity」がいかに社会的に構築されたものであるかが逆説的に理解できる。

ハンス・エイケルブーム『The Ideal Man』(1978年)

最後のセクション「女から見た男:男性視線の逆転」(Women on Men: Reversing the Male Gaze)では、ハンス・エイケルブームによる『The Ideal Man』(1978年)が目を引いた。彼は100人の女性にアンケートをとり、「外見と服装の観点から見た理想の男性像」を絵や文章で提出させた。その中から最も多様な回答に倣って、エイケルブーム自身が扮装した姿を写真に収めたのである。男性像として違和感なく受け止められるものもあれば、女性的、あるいは中性的ないでたちのものもある。少なくとも本作が制作された1970年代後半には、女性にとっての理想像が従来の「Masculinity」のコードに当てはまるとは限らず、より多様な男性の在り方が求められていたことを証明する。

ローリー・アンダーソン『Fully Automated Nikon』(1973年)

ローリー・アンダーソンによる『Fully Automated Nikon』(1973年)は、男性が女性に対して行う素行を、女性の視点から記録したものだ。女性が一人で外を歩くと、不特定の男がすれ違いざまに汚い声をかけてくる。そうした出来事がアンダーソンの身にも頻繁に降りかかっていたことから、彼女は日頃からオートカメラを持ち歩いては、同様の場面に出くわすたびに激怒し、相手に対して反論したのち、男達の姿を写真に収めた。すると男達は例外なくキョトンとし、「あんた、覆面警官なのか?」と訊き始めると同時に、まるで眼には見えない腹話術師が自分達の言動を操っていたんだとでも言わんばかりに、無実を訴える行動を取り始めたという。

本作を通じて確かめられるのは、女性に対する男性の低俗な言動であるが、それらもまた「Masculinity」の一部であることを忘れてはならない。ここで「完全自動化されたニコンのカメラ」という作品タイトルに込められた意味を考えるなら、オートカメラで写真を撮ることと同じくらい、女性に対する男性の振る舞いは社会的に自動化され、個々の男性の意志が制御する余地すらないということではないだろうか。アンダーソンに反論されて初めて我に返った男達の背後に彼女は「腹話術師」の存在を見たわけだが、その存在を可視化させるマジックスペルこそ「Masculinity」だと言えよう。

英バービカン・センターで開催された「Masculinities」展の様子

「ジェンダー・パフォーマティビティ」—。人間は、本質的な自らの性を持とうとする以前に、生まれながらに持つ生物学的な性別の社会的役割を押し付けられ、めいめいの生物学的性別に見合った行動を演じさせられているという考えがある。これはアメリカの哲学者、ジュディス・バトラーが提唱した概念であるが、本展においてはそれがイメージとしてよく確かめられた。人はレンズの先に社会を想像する生き物だ。レンズに向かって何かを表そうとする時、自覚しているか否かを問わず、そのパフォーマンスからジェンダー・パフォーマティビティを考えさせられることは少なくない。本展においては、それが「Masculinity」だったというわけである。

本展カタログのカバー写真はサン・コンティス『Untitled (Neck)』(2015年)。喉仏は男性的な特徴と見なされる一方で、一部の女性においても見られるものだ。はっきりと定義づけられるようで、実は曖昧で矛盾だらけの「Masculinity」を象徴している

筆者は本展に足を運び、その全貌をまじまじと確かめてきたわけだが、自分と同じ男性の在り方がこうも多角的に分析され、公然と展示されたものを見せられると、どうにも直視できない場面が多々あり、1人の男として屈辱を味わったというのが正直な感想である。しかしそのどれもが、自分自身の言動を振り返ってみた時に程度の差こそあれど思い当たるものであり、決してステレオタイプではない冷静な分析の上で成り立った展覧会であったと評価する。

ここでよく考えたいのが、「Masculinity」の対となる「Femininity」(女らしさ)のほうがよほど、長い歴史の中で数え切れないほど男性の視点から分析され、公然と展示され、男性の性欲と支配欲の下に利用されてきたという事実である。つまり私が本展を通じて抱いた屈辱とは、そっくりそのままの形で、世界中の女性達が味わわされてきたものだということだ。そうした意味では、これまで関心の矛先が向けられることの少なかった「Masculinity」が今回、過去半世紀にわたる写真表現を通じて公然と解剖され、大きく展示されたことには歴史的な大義がある。

矛盾と複雑さに満ちた「Masculinity」。本展からは痛烈な男性批判も読み取れたが、それは決して男性の存在を否定するものではないだろう。なぜなら展覧会の副題に「写真を通じた解放」とあるように、これまで写真や映画といった映像メディアを通じて表現されてきた「Masculinity」を振り返ることから、いかにしてそれがコード化され、社会的に機能してきたかを浮き彫りにし、ひいてはその呪縛から人々を解放させることを目指したものだからだ。

唯一、本展を観て物足りなく感じたこととして、今現在の作品があまり含まれていなかったことが挙げられる。それだけに、本展を通じて浮き彫りとなった「Masculinity」とは、とりわけ1970年代から活発に議論がなされてきた欧米においては若干時代遅れなものとして受け止められてもおかしくはない。しかし恥ずかしいことに、私達の日本においてはまだ議論すら始まっていない領域であり、そうした意味で本展およびそのカタログは、写真を通じてジェンダーを考える教科書として充分に通用するものだと言える。本展は現在、ベルリンの博物館「グロピウス・バウ」を巡回中で、来夏には南仏・アルル国際写真祭を回る予定であるが、本来は日本のような国においてこそ開かれるべき展覧会だとも感じられた。

Photography Tomo Kosuga

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