写真連載「言葉なき対話」Vol.2 アレック・ソスは物語ることをやめた。オランダで開催中の最新個展レビュー

アメリカ出身の写真家、アレック・ソスの最新個展『I Know How Furiously Your Heart Is Beating』が、オランダはアムステルダムの写真美術館「Foam」にて開催されている。

2004年に発表された『Sleeping by the Mississippi』以降、アメリカを代表する現代写真家の1人として世界から注目を浴び続けるソスは、これまで写真集の形式による作品発表を中心とした作家活動で知られてきた。2015年発表の前作『Songbook』以来の新作となった本作は、2019年にロンドンの出版社・MACKから写真集として刊行。その収録作品を展覧会の形式で世界に先駆けて見せたのが、「Foam」での本展である。

オランダはアムステルダムの写真美術館・Foamにて開催中のアレック・ソス展の様子。大きく引き伸ばされた20点ほどの写真作品が展示されている

ストーリーテラーから一転
物語ることをやめたソス

1969年にミネソタ州ミネアポリスで生まれたソスは、これまでロードトリップの写真作品を数多く手掛けてきた。旅先で出会った人々のポートレートや風景を中心に構成された彼の作品からはアメリカの伝統的なワンダーラストの精神が窺えた。

中でも高く評価されてきた代表作が『Sleeping by the Mississippi』と『NIAGARA』(2006年)だ。その2作品が近年、MACKから立て続けに再版された衝撃は今なお記憶に新しいが、それらの特徴として挙げられるのが、地名をタイトルに含めていることだろう。ソスの場合、そうした地名は、単に撮影地の記録というラベリングの役割を意味するというより、写真を跨ぐメタファーとして理解できた。写真それぞれを点に喩えるなら、それらを連結させることで浮かび上がる地理学的なヴィジョン、すなわちアメリカという国そのものを想像させるメタファーとして「Mississippi」や「NIAGARA」という地名が機能してきたというわけだ。

適切なタイトルをつけることで作品は概念化され、また文脈が与えられることを熟知する一方で、写真に言葉を添えるあまり文脈が特定されすぎてしまうことを自戒してきたソスのこれまでの仕事に、私達は写真を用いたストーリーテラーの現在形を見ることができる。

本展では、沈黙の内にある人々が秘めた感情を印象的に見せるポートレートが立ち並んだ

ドイツ生まれの写真家、アウグスト・ザンダーはかつて『People of the 20th Century』と題し、市井の人々を撮った写真を職業別に振り分けることで20世紀の人々の原型を浮き彫りにさせようと試みた。ソスのこれまでの作品群では、そうしたザンダーのヴィジョンに近い意識が確かめられた。『Sleeping by the Mississippi』や『NIAGARA』(2006)では特定の地域で、さらに『Broken Manual』(2010)や『Songbook』(2015)では文字通りアメリカ全土を俯瞰する形で、ソスは21世紀のアメリカ人の原型を見せてくれたとも言えるだろう。

それだけに、本作においても、彼が写真を通じていかなる世界を見せてくれるのかとつい期待しがちだが、今回に限っては、それでは出鼻をくじかれるかもしれない。というのも、本作はこれまでのような、特定の場所やコミュニティにまつわる物語を広げたものにはなっていないからだ。

鏡と窓

本作のタイトル『I Know How Furiously Your Heart Is Beating』とは、アメリカの詩人ウォレス・スティーヴンズによる短詩「The Gray Room」(灰色の部屋、1917年)からの引用である。たとえ世界が灰色に感じられるほど塞ぎ込んだ気分に私達が陥ったとしても、身の回りのものや自然の色鮮やかな世界に意識を傾ければ気分は高揚するもので、ひいては私たちの胸奥で休むことなく激しく脈打つ心臓の存在に気づくことだろう―。MACKから刊行された写真集同様に、この詩の最後の一節を冠した本展では、沈黙の内にある人々が秘めた感情を印象的に見せるポートレートが立ち並んだ。

これまでの作品に見たソスのワンダーラストは、どうやらそのベクトルをがらりと変え、私的な内深界を目指したようだ。本作の写真群が全て、被写体を務めた人々のプライベートな場所で撮影されたことがそれを証拠づけているが、それ以上に決定的なのは、写真の随所から感じ取れる〝鏡と窓〟だ。直接的な媒介物としてそれらが使われた写真もあれば、潜像としてそう感じさせるものもある。

中でも最も象徴的な写真を挙げたい。2017年の撮影当時97歳のダンサー、アンナ・ハルプリンを撮った1枚である。

撮影当時97歳のダンサー、アンナ・ハルプリンを撮影した1枚。本作最大の特徴とも言える〝鏡と窓〟の概念が見てとれる

この写真をよく見ると、室内で座するハルプリンを窓越しに写したものだと気づく。その窓は、光を通過させると同時に、光を反射させてもいる。カメラは、ハルプリンを見据えた室内を望むと同時に、カメラの背後の外景も望んでいる。被写体の人物を写しながらも、あたかも撮影者であるソス自身を重ねるかのようだ。これを見て考えずにはいられなくなるのは、かつてジョン・シャーカフスキーが提唱した、写真における〝鏡と窓の役割〟である。

1978年、ニューヨーク近代美術館にて『Mirrors and Windows』という写真企画展が開かれた。この展示を手掛けたキュレーターのジョン・シャーカフスキーが提示したのは、写真には〝鏡としての自己内省的機能〟と〝窓としての外的観察機能〟があり、現代の写真からはそのどちらかを性質として導き出すことができるのではないかという問いだった。そうして彼が試みたのが、当時の写真家100名200点余りの作品をそれぞれ鏡派と窓派に分類することだった。それは画期的な視点であるとして当時高く評価されただけでなく、半世紀近くが経った今なお、現代の写真鑑賞におけるひとつの指標として語り継がれている。

ソスは本作で、被写体との親密さを築き上げた先で撮れるポートレートを目指した。それは〝主客未分〟としての写真の在り方と言えるかもしれない

では、ソスが理想とする写真の在り方としては、そのどちらに分類されるだろうか? 筆者は昨冬、故・深瀬昌久にまつわる往復書簡をソスと交わす機会があり、その際に鏡と窓の話題をそれとなく切り出したことがある。その時の彼の返事はこういうものだった。「一見、外を向いているようで、内面を見つめている作品に、私は最も惹かれます。それらはまるで夜に窓の外を眺めるのと同じくらい、窓に反射する自分の姿を見るようなものです」。

この返答を頼りにしながら、ハルプリンを撮った1枚を改めて見てみると、彼が語ってくれた〝夜の窓〟の概念が実際に試されていることが見てとれる。どうやら彼は、鏡でも窓でもある写真の在り方を探求したようだ。主体である彼自身と客体である被写体を、区分することなく写真の中で融合させようとした意味では〝主客未分〟の境地とも言えるかもしれない。

被写体との親密さを求めて
ザンダーからヒュージャーへ

本作のポートレートから特定の場所やコミュニティを掬い上げることはもはや不可能で、かつてのソスの作品のように、点としての写真が磁力を帯びて互いに連結することはない。ここで物語は立ち上がらないのだ。その代わりに私達が見るのは、被写体とソスがともにした私的な時間共有の結果であり、言い換えるなら、彼らが紡いだであろう親密さである。

ソスには、2015年の『Songbook』発表後しばらくのあいだ写真を撮らない時期があった。撮り手のシャッタータイミングや写真の見せ方によってイメージが大きく左右されてしまうことに疑問を抱き、ポートレートを作品として取り扱うことに倫理的問題を感じたのだという。しかしその一方で、作品を通じて伝えたいことを形にするにはやはりポートレートが必要なのではないかという葛藤もあり、彼は悩まされていた。

写真を撮らなくなって1年が過ぎた2017年、先ほど触れたアンナ・ハルプリンを撮影する機会を得たソスは、ダンサーとして名高いハルプリンのプライベートな空間で多くの時間をともにした。これまでとは打って変わって、長い時間をかけたその撮影は、彼を突き動かす新たな動機となったのだろう。その撮影を境に、ソスは再びポートレートを撮り始める。それは、プロジェクトや写真集といった最終形態を目指して始められるものではなく、あくまでも個々の人々と豊かな時間を共にすることに、ずっと意識が向けられたものだった。

各写真のタイトルには、被写体を務めた人物たちの名前が含められているが、そのどれも苗字を省略していることからも、ソスと被写体の親密さが伝わってくる。

ソファやベッドに横たわった人々のポートレートは、ピーター・ヒュージャーがかつて撮ったポートレートを強く連想させる

ポートレートを通じた被写体との親密さを考えたとき、筆者が真っ先に思い出すのは、ピーター・ヒュージャーだ。70年代から80年代にかけてニューヨークのダウンタウン・カルチャーシーンの最前線で数多くのポートレートを手掛け、1987年にエイズでこの世を去ったアメリカ出身の写真家である。

ソスが本作で見せる、ソファやベッドに横たわった人々のポートレートは、飼い主にだけ脱力した姿を見せる猫を連想させる他に、ヒュージャーによるポートレートを強く連想させる。ソスがヒュージャーの名をこれまでに幾度となくインタビューの中で挙げてきたことはよく知られた事実であるし、本作に至っては、かつてヒュージャーのモデルを務めたことで知られる写真評論家のビンス・アレッティが被写体として登場しているほどだから、本作を通じてソスがヒュージャーの影を探求していたと想像することもできるだろう。

ヒュージャーは、単体としても連作としても、写真をそれ以上のものとして物語ることはなかった。その沈黙は結果として、撮影者と被写体の親密さを、彼の写真に遺した。声や雑音を排除したポートレートを通して気付かされることこそ、まさしく〝I know how furiously your heart is beating〟と言えるのではないか。そしてそれこそがおそらく、写真で物語ることをやめたソスが本作を通じて探し求めたものなのではないか。

現在のソスには〝ザンダーからヒュージャーへ〟という決定的な変化を見ることができる。本作がこれまでのソスの作品群から大きくかけ離れたものとして仕上がったのも、これまでのザンダースタイルで行き詰まってしまったのを、新たにヒュージャーを拠り所にすることによって突破口を開いたからではないかと考えずにはいられない。

本作の写真群はどれも室内で撮影された。パンデミック前に撮影されたにもかかわらず、まるでポストパンデミックの人々の暮らしを暗示するかのようでもある

パンデミックがもたらした、新たな解釈

本展の会場となったFoamの2階は、大小含めて計5つの空間で構成されたそれなりに広いスペースだが、本展では20点あまりの作品が充分な距離を持って飾られていたこともあって、作品そのものが窓であるかのようにも感じられた。観客は会場に居ながらにして、ソスがさまざまな国を巡って訪れた人々のプライベートな空間を、距離的あるいは時間的な制限なくして窺い知ることができる。

この窓の概念は期せずして、今年起きたパンデミックによってがらりと変わった。COVID-19の蔓延によって世界中の人々が離れ離れの状況に置かれている今、人と人をつなげる役割を担っているのはデジタルディスプレイだ。それを〝窓〟とするなら、その窓越しに、相手に触れることなく眺めること。ひいては、相手の鼓動の激しさを確かめること。それらが実現可能か否かは、今や世界の誰もがその身でよく体感していることだろう。

■Alec Soth「I Know How Furiously Your Heart Is Beating」
会期:2020年9月11日〜12月6日
場所:Foam Fotografiemuseum Amsterdam(オランダ)

Photography Tomo Kosuga

author:

トモコスガ

1983年、東京都生まれ。2018年、オランダのアムステルダムに移住。フリーランスのアート・プロデューサーとして展覧会や出版物のプロディースを手掛けるとともに、写真家の故・深瀬昌久が遺した写真作品の管理団体「深瀬昌久アーカイブス」創設者兼ディレクターを務める。著書に『MASAHISA FUKASE』(英語・仏語版:Éditions Xavier Barral、日本語版:赤々舎、2018)がある。YouTubeチャンネル「トモコスガ言葉なき対話」にて写真表現の現在を日々発信中。 https://www.youtube.com/user/tomokaflex

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