コラム Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/column/ Thu, 12 Oct 2023 09:09:30 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png コラム Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/column/ 32 32 連載:音楽家・諭吉佳作/menの頭の中 第3回「20歳の挑戦」 https://tokion.jp/2023/10/12/inside-the-mind-of-musician-yukichikasaku-men-vol3/ Thu, 12 Oct 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=211053 シンガーソングライターの諭吉佳作/menによる連載。第3回は「20歳の挑戦」
について。

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2003年生まれのシンガーソングライターの諭吉佳作/men(ユキチカサクメン)。小学6年の時に作曲をスタートし、iPhoneアプリのGarageBandだけで楽曲制作を始める。2021年5月にはトイズファクトリーからEP『からだポータブル』、『放るアソート』を同時リリースし、メジャーデビュー。今年7月12日に20歳の誕生日を目前に、10代ラストのEP『・archive:EIEN19』をリリースした。そんな諭吉佳作/menに、連載の第3回では「20歳の挑戦」について綴ってもらった。

コンビニエンスストアへ入って、いつもと少しも変わりませんという体をとるために店内をうろついたあと、おれはこれまでならば見向きもしなかった、レジに立つ店員の背後に目を凝らした。20歳になったその日に酒を飲んでたばこをやることを前々から決めていたからだ。

でもたばこを買う、それはけっこうどうしようもないことだった。うちにはたばこを嗜むものがいなかった。知識としてたばこに興味を持ったこともなかった。だから、手がかりが極端に少なかったのだ。

何かをやり始めるときっていうのは、この部分が本当におかしい。なぜ何もわからないのにやろうと思うのか。どうやって始めるのか。身近にやるものがいたとして、じゃあ彼はどうして始めたのか。その身近にもやるものがいたからだとして、じゃあ彼は。

おれの場合はただ、ここまで法的に制限されていた(その制限を窮屈に感じたことは一度たりともないので制限とも思ってこなかったのだが)から、今日この日やるのにだけは唯一、個人的な以上の価値があり得ると思ったからだ。そう、まあつまり記念だ。この日に1本吸って実績を残し、そのあとは必要に応じて、というだけで、今生をかけて喫煙者をやることを決意したわけではない。だから始めるという表現は違うのかもしれない。むしろ、どちらかと言えば、おれはこれ以降吸わない、の方にベットしていた。

やったことのないものの強さや味などわからない。調べても文字で書いてあるだけで、それを読むおれの身に何かが明確に差し迫ってくるわけでもない。今日吸ったものを吸い続ける約束をしたわけでもない。今日以降吸う予定がない。たった1回、20歳を証明するためだけに吸うたばこが、甘かろうが苦かろうが濃かろうが薄かろうが知ったことではない。たばこを吸えればなんでもいい。いざとなったら「7番をください」と言おうとも決めていた。7が好きだからだ。おれは7には特別な感情を持っていた。

でも身分証の提示を求められたら、「こいつは今日の20年前に生まれて、ここぞと急いでコンビニへやってきて、自分の誕生月の番号を呼んでたばこを求めやがったが、一体どれだけ自らの誕生の歓喜を信じてやがるんだ」と笑われるだろうと思った。だからそういうのをひっくるめて全部温かい目で見てくれる、できれば自分の2倍くらい以上の年齢の店員に対応してもらいたいと思っていた。

かくして、コンビニエンスストアへやってきたわけだが、2つのレジのうちの一方にしか店員がおらず、それは追い打ちをかけるようにしっかりと若者風だった。おれはがっくりした。落胆を気取られまいとするだけの気勢さえ削がれて、いっそ落胆して見せた。誰にかというと、たぶん神様とかそういうものに。そうしたら何か変わるかもしれないので。願掛けを終えて、いつもと少しも変わりませんという体をとるために店内をうろついたあと、おれはこれまでならば見向きもしなかった、レジに立つ店員の背後に目を凝らした。

あいにくおれはメガネをかけていなかった。あいにくというか、こうなることを予見できた上でかけていなければおかしいのだが、かけていなかった。店員の背後にたばこが並んでいるのはただ様式的にわかっても、目の悪さと知識の少なさががっちりタッグを組んで、やはりそれは背景素材的コンビニの風景でしかなかった。何が何ともわからない。素人でも一目見てこれとわかるような、アイコニックな種類の銘柄さえ見つけることができなかった。

「7番」があるのは確認できた。でも7番から10番まで同じような箱、マイナーチェンジ的なものが並べられているのを見て、「7番」への特別な興味が薄れるのも感じていた。このコンビニの7番はこだわりが少ない、でもおれにはもっとこだわりがない……。

難しいことはやめて、できることからする。とりあえずライターを買わなければいけない。うちには火を使うものがいないので、おれはそこから始めなければならなかった。でもこれは簡単なことだ。少しの違いだが高いのと安いのがあって、高い方の、緑色のライターを選んだ。緑色だったからだ。正直おれは、自分がライターで火をつけるのが上手くないのを知っていた。けれどたばこを吸いたいなら避けられない道だ。綺麗なクリアグリーンに満足して、それを持ってお菓子コーナーに向かう。

この次にはついにたばこに直面する(というより店員に直面するのかもしれない)ことを考えるとおれの目はパッケージデザインの表面をつるつる滑った。本当はお菓子のことなんて真剣に考えられてはいなかったが、コーナーを2往復くらいしてから、結局以前にも食べたことのあるベイクドチョコレートの商品を手に取った。

いよいよ会計つまりはたばこである。おれがコンビニエンスストアへ何をしに来たか。一瞬も忘れたことはなかった。稼働中のレジは相変わらずひとつだ。若者風の店員はまだ客を相手にしている。会計を待つ列はできていない。仕方なくおれが順番待ちのステッカーの上に立つと、カウンターの中で作業をしていた店員が店長を呼んだ。店長!ラッキー!幸先がいい。これはさすがに誕生日だ。店長がやってくる。2倍より年上には見えなかったが、若造のめちゃくちゃな一挙手一投足を優しく見守ってくれそうな人だった。なぜそう思ったのかはわからない。店長だからかな。おれはライターとお菓子を台に置いて、たばこの7番をくださいと唱えた。途端に、体の内側に収まっていたはずの大事な部分が体のアウトラインを超えて出ていく感じがする。

だからこれはそう、なんかわかると思うけど、なぜか法律違反の気持ちだ。精神的な法律違反。かなり身構えていた。おれはなぜか、たしかに嘘をついている感覚だった。20歳になったのは本当なのに。本当は別に、たばこを吸いたいと思っていないからだろうか。たしかにそれもあるだろうが、これは……。

店長がおれに、画面の操作を指示する。20歳を超えているかを問う文言が表示されて、おれは当然YESを押そうとするのだが、なぜかそこでハッとしてしまう。おれは18歳じゃないか!たばこを買えるのは20歳からだった!間違えた!おれは勘違いしていたんだ!そういう妄想に取り憑かれていた。
(おれたちは18歳でR-18指定の映画を観てもいいことになって、自動車の運転にもトライすることができて、成人もしたが、おれはここにこのことを書くまで自分が19で成人したような気になっていたしそんな発言をどこかでもしてしまった気がする、でも18で成人する最初の世代だったらしく、成人したからにはエステサロンの契約に気をつけろなどと言われ、でも酒やたばこは変わらず20歳からで、大混乱だ。体の成長と共にピアノの補助ペダルがいらなくなってああ大きくなったなと実感するような物理的なことだったらわかりやすかったが、そんな実感は一切伴わない。)

正直に言って、ボタンを押したときはまだおれの気持ちは18歳だった。ばれてしまうんじゃないか?と思っていた。つまり本当に精神的には犯罪者だったことになるが、これって、その精神が裁かれるだろうか?そうだとして、今なら思うが、一体何がばれるというんだろうか?精神まで暴くことはできまい。まもなくやたら溌剌とした「身分証の提示をお願いする場合があります」という音声が流れた。そうだ、身分証。そうしてようやくおれは20歳の方へ戻ってきた。

お願いだから身分証を確認してくれと思った。おれの身分証を。確認してくれたら、おれは証拠を出せる。確認されてもまったく困らないだけの証拠をおれは持っているのだ。まあ誕生日当日だから、ちょっとは恥ずかしい思いをすることになるかもしれないが、それが立派な証拠だ。その恥ずかしさごと証明させてほしい。お願いだからさせてくれ。そう思った。でも店長はなんの違和感もないような感じで7番を持ってきた。そりゃまあそうなんだろう。向こうは大人だし、いつもやっている仕事だ。たばこに対しておれほどに特別な緊張感を持っているはずがない。

おれの顔を見て違和感がなかったならそれは正しい。店長は何も間違っていない。だっておれは20歳なんだから。おれより店長の方が本当のことをよく知っている。

無事に箱が、お菓子とライターと並んで目の前に現れる。おれのたばこ購入の作法が一応は間違っていなかったらしいという安心感と、店長本当にこのままおれにたばこを売ってしまっていいのか?というよくわからない疑いとの両方が生まれて、おれは混乱していた。

多少の離人感を持ったまま金を支払う。セルフレジだ。札の入れ方がよくわからなくて手間取る。まだ自分が何かしらの嘘をついている気がしていた。札の入れ方もわからないのなら子供じゃないかと疑われている気がする。だったら証明させてくれ。おれは証拠を持っているんだから。確定すると釣り銭が落ちてきた。それを拾うのにもいつもと同じぐらい手間取る。おれにとってはいつもと同じだが、その手つきのおぼつかなさを不審に思われるんじゃないかと汗が出る。汗が出たら、もっと変に思われるんじゃないか?心配をよそに、店長がおれに礼を言う。商取引が終了した合図だった。

逃げ果せたというより、逃げてしまえたという感じだ。いっそ捕まりたかったのかもしれない。脱力した。外で待っていた家族と落ち合う。おれは第一に「年齢確認されなかった」と言った。されたら困るやつの発言じゃないか。

車に乗り込むと、家族と7番のデザインを確認した。思えば、おれは自分の買い求めたたばこがどんなものなのか、一切気にしていなかった。若者風の店員越しに見たときから、それを把握することはまったく諦めてしまっていたのだ。運転席と助手席で、タバコの箱を点検する。白くてシックで、銀色に光るロゴが未来的なデザインだ。そして横長。心なしか、小さい。あのたばこ特有の健康に関する注意書きは「加熱式タバコは」で始まっている。いや、すべてのたばこには熱を加えるよね?おれは言い訳をしたが、たばこは戯言を聞き入れなかった。

家に帰るとコンビニエンスストアたばこ購入メンバーにならなかった面子が、おれたちを待っていた。おれたちも、一連の出来事を伝えることを待ち望んでいた。ことの顛末について一席打ったあとにつけ加えて、もう買い直すつもりがないことを伝えると、「縁がなかったんだね」と言われた。縁がなかったというか、こういう縁だったんだと思う。わざわざこんなことをしたのだから、まあ縁はあったのだと思う。ライターとたばこはこのまま飾っておくよ。おれはそう伝えた。

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「散歩の効能」 連載:小指の日々是発明 Vol.8 https://tokion.jp/2023/08/16/hibikorehatsumei-vol8/ Wed, 16 Aug 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=203661 漫画家、随筆家として活動する小指。小林紗織名義で音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作も行っている。そんな小指による漫画エッセイ連載。第8回は「散歩の効能」について。

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「散歩の効能」 連載:小指の日々是発明 Vol.8

2023年初夏某日。気づくと私は、電車を乗り継いで横浜にいた。横浜駅の西口は、相変わらず錆びた鉄と潮とドブが混じったような、懐かしいひどい臭いがしていた。

丁度この時、私は展覧会の準備真っ只中という状況だった。決して横浜でフラフラしてる場合ではなかったのだが、家に篭りきりの生活と展示の重圧から、ついここまで逃げてきてしまったのだ。
身の丈に合わない場所で展示をする緊張と、思うように制作が進んでいないことへの焦りもあったが、この時は同時期に進行していた別の仕事がトラブって収入が0になったり、友達に大病の疑いが出たりと、今年に入ってからというもの、薄っぺらいイカダ一枚で急流くだりをしているような心象の日々だった。
そもそも、今年初めにかかったコロナの影響かはわからないが、どうも調子が出ない日が続いていたのだ。夫はいまだに嗅覚がダメで、試しにいくら至近距離でオナラをしてみても恐ろしいことに全く反応をしない。うっかり出てしまった時は逆に助かるのだが、好物のウナギの匂いまでわからないらしく、本当に不憫で仕方がない。
私もどうも集中力が続かず(元からそうだったかもしれないが)、申し訳ないことにこのコラムの更新も大変遅れてしまった。
そろそろ本気を出さねばと思いながらも、色々な〆切と会期までの時間は刻一刻と過ぎていって、ついに私の小さな肝っ玉は破裂した。何が原因かはよくわからないが、とにかく限界だ!となってしまった。
そして家を飛び出し電車に飛び乗り、気がついたら地元・横浜に帰郷していたのだった。

どこに行くかのあては、何もなかった。とりあえず海でも見に行こうかなとも思ったが、路線図を見たら急に往復の1000円が惜しくなって、諦めた。どうせ話のネタになるのだからそれくらいしろよと思うが、あの時は海への1000円すら出し渋るほど心が弱っていたのだ。なんて自分は情けないんだろうと肩を落としながら、私は東横線の「東白楽駅」へとぼとぼ歩いて向かった。

神奈川の人しかほぼ知らないであろう「東白楽」という地味な街は、私にとって<散歩>の原体験がつまっている特別な街だ。
初めて訪れたきっかけは、小学生の頃に同級生の男の子達に連れられ、ミニ四駆のパーツを買いに行った時のことだった。一見ただの小汚い玩具屋だったが、巷に出ていないレアなパーツや改造品まで置いてあるドープな店のようで、男子達はすっかりギアとか改造モーターに目の色を変えていた。だが、私はそれよりも、玩具屋へ行く途中にあったとてつもなく長い坂の存在が無性に気になった。
そしてその翌日、私は「あの坂の向こうに何があるんだろう」と探検隊さながらの気分で東白楽へ行き、それから一人で度々訪れるようになるほど、この街が気に入ってしまったのだった。

その坂は、昔と全く変わらぬ姿でそこにあった。20年越しに見ても、わけわからないほど急勾配でグッと胸を掴まれてしまう。あの頃に比べたら、今は随分足腰も弱っているものの、私は子供に戻ったつもりでずんずんと坂を登っていった。
すると、見覚えのある景色が目に飛び込んできた。坂の途中には、たくさんの鉢植えに囲まれた白くて小さな喫茶店があり、えんじ色の軒先テントには、白地で店名が書かれてあった。
「グリーンメドウズ」
「この店、まだあるんだ……」思わず嘆声が漏れてしまった。
初めて来た時はまだ10歳くらいだったから、当然珈琲も飲めないしお金もないので、当時は窓から店内を覗くことしかできなかった。でも、あの時からこのお店は、私の中でずっと気になる存在だった。
窓のところに、「営業中」と小さな札が置かれてあった。今入らねばいつ入る、という感じだ。そして私は20年以上越しに、この「グリーンメドウズ」という謎の喫茶店に初めて入ってみたのだった。

扉を開けると、店内は想像していたよりずっとこぢんまりとしていて、外の日差しのせいか中は逆光のように薄暗く、とても落ち着く空間だった。
少しすると、奥から「いらっしゃいませ」と高齢の女性が迎えてくれた。とても優しそうな店主さんだ。「どうぞお好きなところに」とのことだったので、私は店内を見渡せる一番隅っこの席に座らせてもらった。カウンター4席とテーブル席が2つ、壁には小さなメニュー表と2枚の絵。音楽などはかかっておらず、唯一空間に響くのは「こち、こち、こち……」という、柱に架けられた時計の音だけだった。お店の中はとても静かで、時計のリズムとこちらの心臓の音が呼応するように、不思議と心地の良いテンポがこの中でできていた。
店主さんは私のアイスカフェオレを運んでくれると、またカウンターに戻り、正面の窓からずっと外を眺めていた。

30分ほど滞在し、「ご馳走様でした」とお会計に行くと、店主さんは笑顔でお釣りをくれながら「近所の方?」と私に聞いた。
「いえ、近くに実家があって」
「あら、そうなのね」
「子供の頃にこの道をよく散歩していて、どんなお店なのかなあ、ってずっと気になってたんです。10歳頃によく来ていたから、23〜24年前とか……。そしたら今日やっていたので、やっと入れて嬉しかったです」
「えー!本当。嬉しいわあ。しかもこの店、24年目なのよ」
なんと、私が店を覗いていたあの時は、どうも新規オープン直後だったようだ。記憶の中では、昔からある魔法使いの家みたいな印象だったのに。子供の記憶って本当にあてにならない。
「私はもう84歳。ボケ防止でやってるのよ」
店主さんはそう言って、ケタケタと笑いながら出口まで見送ってくれた。
店を出てすぐのところに、目が覚めるようなピンク色のツツジと、橙色の実をいくつもつけた琵琶の木が植えられていた。もしかしたら、あの店主さんが座っていたカウンターの位置から一番良く見えるのかもしれない。店主さんが度々、素敵な顔で外を見ているなあと思っていたが、そうかこの景色を見ていたのか、と納得したのだった。

私はその後も、再び残りの坂を登り続けた。確かここを登りきったところに、横浜の町を一望できる広い草っ原があるのだ。曲がりくねった私道、ガタガタのコンクリむき出しの道を渡り、半分が崖になったような未舗装の道を歩き続けると、そよそよと揺れる緑色が目に入った。
あった!
草の上を夢中で駆けて、丘になったところから街一帯を眺望した。目を凝らすと、スケートリンクや、昔親と行ったスーパーなんかがすぐ目に入った。昔は家の近くにヤクルトの大きな看板があって、そこを目印にすれば実家の大体の位置がすぐにわかったものだが、その看板ももうない。近所の公園は見つけられたので、そこにアタリをつけて探してみたら、実家の屋根を見つけることができた。今頃お母さんが一人でいるだろうか。かつて私達の家族が全員そろってあの屋根の下で普通の営みをしていたのかと思ったら、少したまらない気持ちになった。
それにしても、随分高い所まできたもんだとベンチに腰掛け一息ついたら、土と緑の匂いが薫って、肩に入っていた力がほっと抜けた。
ぼんやりしていたら西陽がさしてきたので、そろそろ移動しようかなと思い、知らない人の畑の脇を通って駅の方へ歩いた。そして京急の子安駅から電車に乗り、日ノ出町へ向かったのだった。

日ノ出町の改札を出ると、その騒がしさに途端に眩暈がした。路上で飲酒する老人、極彩色に着飾ったきれいな外国の女性達、檻に入れられたテナガザルみたいな反復運動をしてクラッチバッグ片手に女性に声をかけるスカウトマン、オウムとイグアナ柄の派手なアロハを着て大声で電話する中東系のおじさん。そんな混沌とした中を歩いていたら、「これぞ横浜!横浜に帰ってきたぞう」と、だんだん気分が乗ってきた。
伊勢佐木町を突っ切って寿町に入ると、街の空気はガラリと変わり、ドヤ街独特の静けさと緊張感を肌で感じた。でも、この雰囲気に、なぜか子供の頃からずっと惹かれて仕方がなかった。親からも「行かないほうがいい」と言われていたが、全くその言いつけは守っていなかった。
路上に、大量のゴミなのか荷物なのか判別のつかないものが派手にぶちまけられていた。
ズボン、上着、パンツ、靴下、黒いニット帽、飲みかけのカフェオレ、飲み薬、謎の軟膏のチューブ、診察券、永谷園の松茸のお吸い物、競馬新聞、ポリデント、ハンガー、絆創膏。そして、なぜか湯沸かし器。診察券は福祉センターの診療所のもので、しっかり名前も入っていた。
パンツや上着においては、その場で脱いでいったとしか思えない形状で落ちていた。私はそれらを見て、これはもしかしたら透明人間の抜け殻なんじゃ、と思った。
だが、一番不思議なのが「ポリデント」は落ちているのに肝心の「入れ歯」が見当たらないということだった。まさか拾って持ち帰る奴はいないだろうから、透明人間は入れ歯だけ装着して今もこの辺りを闊歩しているんだろうか。
入れ歯だけがフヨフヨと空中に浮いている姿を想像し不思議な気持ちになりながら、再び歩き続けた。常識では考えられないことだが、長丁場の散歩中には、こういう奇妙なことがよく起こるのだ。
その後、私は「ドトール」に入ってコーヒーを1杯飲み、営業時間が終わると同時に追い出された。だが、その頃にはすっかり満足していて、私はそのまま東京方面の電車に乗り帰路についた。私の長い散歩の一日は、そこで終わったのだった。

翌朝いつも通りベッドの上で目が覚めると、まるで別人のような気分だった。大袈裟だが、深い睡眠の底から浮かび上がって蘇生してきたような、そんな感じだった。そして、頭の中にはぼんやりと、昨日歩いた町の景色が夢の続きみたいに残っていた。
「そうだ、昔の私はこんな感じだった」
私はその日から制作の続きを始めた。机に向かうことも、全然苦でなくなっていた。

私はどうも、昨日の散歩の間に、自分の中の何かを治癒させていたような気がする。
昔から、長い散歩から帰ってきた翌日は、いつもそうだった。懐かしい景色を眺めながら歩くたび、私の中の「無意識」の世界がいきいきと息を吹き返すのだ。
幼い頃から散歩好きではあったけれど、10代後半の頃に私は「摂食障害」という食べ吐きがやめられない時期があり、その時も本当によく歩いていた。長い時だと1日10時間以上近所をうろうろと散歩し、歩きながら、いろいろなことを考えていた。不思議と足は全く疲れず、歩いている時は心が楽だった。あれも今思えば、無意識で自分を「治療」しようとしていたのかもしれない、と思うと合点がいくのだった。

一歩一歩歩くたびに、無意識にかかっていた抑圧が外れて自分を思い出していく気がする。だから子供の頃に戻ったように安らぐ時もあれば、失ったものを思い出して泣いたり、歩くほどに怒りがこみあげて止まらなくなる時もある。
だが、そうやって心を大きく揺らした後は、なぜか忘れていた大事なものがコロリと出てくることが多い。私はいつも、それを制作の“種”にしている。
すべての行動には、きっと理由があるのだと思う。

喫茶店で真っ白いノートを広げて、私は夢中でペンを走らせた。
「散歩の効能」
ずっと昔から知っていたはずのこの発見を、今日、ここに書き留めておこうと思った。

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現在、小林紗織名義での展覧会が開催中です。これまでの「score drawing」作品を展示しています。
ご興味のある方、ぜひお立ち寄り頂けましたら幸いです。

project N 91 小林紗織
会期:2023.07.06[木] – 09.24[日]
場所:東京オペラシティギャラリー 4Fリコドール
オペラシティアートギャラリーにて開催中の「野又穫 Continuum 想像の語彙」展のチケットで入場できます。
https://www.operacity.jp/ag/exh/detail.php?id=291

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断片から解き明かされるブラック・カルチャーという“代替現実”——書評:グレッグ・テイト『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』 https://tokion.jp/2023/07/31/review-flyboy-2-black-music-culture-essay/ Mon, 31 Jul 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=201287 2021年に急逝したブラック・カルチャー/ミュージック批評の重要人物、グレッグ・テイト。5月に刊行されたテイトの評論集『フライボーイ2』を音楽評論家の原雅明が読み解く

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鋭い知性と広範な知識によりブラック・カルチャー/ミュージックを多角的・多層的に論じ、“ヒップホップ・ジャーナリズムのゴッドファーザー”とも称された米国の批評家/ジャーナリスト、グレッグ・テイト。5月に日本語訳が刊行された『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』は、2021年に惜しくも急逝したテイトが残した2冊目の評論集となる。マイルス・デイヴィスやギル・スコット=ヘロン、ミシェル・ンデゲオチェロ、トニ・モリスン、スパイク・リー、ウータン・クランなど、ジャンルや時代を超えた面々がその目次に並ぶ本書で、テイトは何を語りどのようなヴィジョンを描き出したのか。書き手としてテイトに多大な影響を受けたという音楽評論家/〈rings〉プロデューサーの原雅明が、テイトとの出会いを糸口として、本書を読み解いていく。

グレッグ・テイトとは何者か

「ネルソン・ジョージとグレッグ・テイトの2人は、(雑誌の)ブラック・レビューの門番のような存在だった」と、かつてクエストラヴは言った。2人がレビューで支持した作品は、必ず他の批評家からも絶賛された。ザ・ルーツでデビューする直前の80年代末のブラック・ミュージックを取り巻く状況を振り返っての話だ。音楽雑誌のレビューを熱心にチェックし、批評的に評価される作品を作ることに夢中になっていたと素直に吐露したクエストラヴの音楽オタクぶりは、特殊な話かもしれない。しかし、グレッグ・テイトの影響力の大きさは広く認められた話だった。この『フライボーイ2』は、テイトの単著としては初の翻訳となる。同じ1957年生まれのネルソン・ジョージの著書の翻訳(『リズム&ブルースの死』、『モータウン・ミュージック』、『ヒップホップ・アメリカ』、『スリラー』)が進んでいるのとは対照的だが、もともとテイトは単著が少ない。長きに渡りVillage Voice誌のスタッフ・ライターを務めたのをはじめ、さまざまなメディアに音楽のみならず、美術、映画、文学などについても精力的に寄稿した。その1つひとつの記事が、テイトの評価を高めた。まとまった評論を書くアカデミックな研究者ではなく、雑食的な生粋のライターだった。

異なる視点・独特の文体を持ったテイトのテキストとの出会い

自分がテイトを意識したのは、90年代末までのヒップホップの歩みと文化を総括した『ヒストリー・オブ・ヒップホップ』に掲載されたテキストだった。『Vibe』誌が編集し(日本語版は『Blast』誌が監修)、50名以上のライターや批評家らが名を連ねる読み応えのある書籍だったが、その最後の章にテイトによる「ヒップホップの輝かしい未来のための15の議論」が掲載されていた。15の断片的なテキストは、論文でも、議論のためのサマリーでもなく、思考のメモやリリックのような言葉の羅列から構成されていた。その独特の文体と他の執筆者とは明らかに異なる視点に惹かれた。例えば、ジャズとヒップホップについて、こんな記述があった。

「ヒップホップにとってのジャズはメラニン(黒色素)にとっての数学である。ヒップホップにとってのジャズはレイディ・デイ(御告げの祭り)にとっての聖母である。ヒップホップにとってのジャズは無差別な暴力に対する名人芸である。ヒップホップにとってのジャズはメソッド・マンにとってのマイケル・ジョーダンである。自然発生性のブラック・サイエンス対イズムの自然発生性なのだ」

「15の議論」の中で、ジャズはヒップホップと対を成して語られた。それは、90年代に表面化していったこの2つのジャンルの関係性を、サンプリング・ソースやミュージシャンのフィーチャーという表面的なつながりではなく、そこに通底する概念を捉えて、ヒップホップの内部で考えることとジャズの内部で考えることが重なるポイントを見出そうとしていた。それは、ヒップホップの先に見え隠れするジャズについて考えていた自分にとって、最もしっくり来る捉え方だった。

黒人文化という“代替現実”にまつわるさまざまな表現を論じた『フライボーイ2』

『フライボーイ2』の最後の章にも、20の断片的なテキストが収められている。番号を振られた各テキストはその順番通りではなくて、ランダムに並べられていた。全体のタイトルは、「カラハリのけんけん遊び、あるいは二〇巻におよぶアフロ・セントリックなフューチャリストのマニフェストのためのノート」で、アフロ・フューチャリズムに関する考えをまとめたものである。そこにはこんな記述がある。

「私たちがアメリカにおけるブラック・アート、ブラック・ミュージック、ブラック・ヒストリー、ブラック・カルチャー、ブラック・エクスペリエンスと呼ぶものすべて、実は、白人至上主義という虚構の貧弱な廃墟のうえに作られた代替現実なのである。その虚構が、代替現実を現実化させ、ヤバいやつらを生み続けたのだ」

これは、実にテイトらしい言い回しで、『フライボーイ2』を的確に要約している。この本自体が代替現実のさまざまな表現にまつわるレビューや批評的なエッセイ、インタビューをまとめたものだ。幅広い多様な対象を扱い、音楽家と対等に、美術家、キュレーター、振付師、ストリート・ダンサー、映画監督、作家、学者たちを取り上げる。しかし、黒人の表現だけが対象ではなく、黒人文化を構成するものについての固定観念に懐疑的でもある。「彼女の感覚と姿勢がいかに“黒人”的であるか、さらに言えば“ヒップホップ”的でさえあるか」とジョニ・ミッチェルへのインタビューは始まり、ボブ・ディランの『ラヴ・アンド・セフト』のレビューでは「彼は私たちがブラック・ミュージックと呼ぶこの世界に、深い、雪男のような大きい足跡を残した」と記す。

ヒップホップに対するアンビヴァレントな感情

そして、黒人の表現を手放しに褒めるわけでもない。ヒップホップに批判的な姿勢を崩さないウィントン・マルサリスへのインタビューでは、兄のブランフォードと十代の頃にやっていたファンク・バンドの話題を振り、ソウルの定義を問いただし、ヒップホップの口述性にはブルースとのつながりがあると指摘して食い下がる。そして、ウィントンから「ヒップホップはアフロ・アメリカンの音楽の伝統であるという意味では有効だ」という発言を引き出す。

一方で、『フライボーイ2』においては、ヒップホップに対する「輝かしい未来」の言葉は語られない。「三〇歳になったヒップホップ」というテキストでは、ヒップホップという大衆芸術の誕生を「天国と地獄の結婚に他ならない。新世界アメリカアフリカの創意工夫とグローバルな超資本主義という悪魔のトリックだ」と記す。超富裕層を満たす一大産業となったヒップホップへの失望が強くあるが、それでも「ヒップホップがラディカルで革命的な産業」であり、「社会変革の担い手になるというアフロ・セントリックな未来を私は夢見ている」と記している。これが書かれた2004年からテイトが死去した2021年まで、つまりヒップホップがより巨大産業化した時代に彼はその夢を見続けることができたのだろうか。

少なくとも、『フライボーイ2』(原著は2016年の出版)の中には、ヒップホップに対するアンビヴァレントな感情が維持されていることを感じ取れる。特にその感情を秀逸に綴っているのが「もしジェイムズ・ブラウンがフェミニストだったら」という2007年のテキストだ。ここでテイトは、「超世俗的ファンクの四大巨頭」と呼んで、ベディ・デイヴィス、チャカ・カーン、グレイス・ジョーンズ、ミシェル・ンデゲオチェロを取り上げる。この4人の女性は「みずからの身体を超越的な快楽を得るための道具として前景化した音楽とパフォーマンスを見せてくれた」という。ジェームス・ブラウンの強力な男性性は、ショービズ界でハードに働いている女性こそを活性化させたと指摘する。

特にンデゲオチェロは、テイトにとって常に身近にいる表現者であった。ヴァーノン・リードとブラック・ロック・コーリションを結成したギタリストでもあるテイトは、90年代初頭にンデゲオチェロとブラック・ロックのバンドを組んでいたこと、彼女がマドンナのレーベル〈Maverick〉で『Plantation Lullabies』から『Comfort Woman』までをリリースした10年間に、ドクター・ドレーやパフ・ダディと仕事をすることを幾度も勧められるが断り続けたことを明かしている。また、ワシントンDCのゴーゴー・シーンから登場した彼女がゴーゴーを取り入れないのは、「ゴーゴーはスタイルではなく、教会のようなものであり、宗教的な奉仕だから」という理由も語られる。それは、ンデゲオチェロの音楽が、ジェームス・ブラウンのファンクやチャック・ブラウンのゴーゴーのグルーヴを極めて倫理的に扱っていたことの顕れでもある。テイトはこうした女性たちの表現を丁寧に追い、ヒップホップの背後にあったストーリーも綴っている。

事実と向き合い、それを解き明かす言葉を探る

テイトが死の直前に残したテキストの1つに、マイルス・デイヴィスのライナーノーツがある。マイルスの未発表音源シリーズ『That’s What Happened 1982-1985:The Bootleg Series Vol.7』(2022年)に寄稿したものだ。テイトは、マイルスのバンドに参加すると高額の年俸が払われ、彼のギグ以外に演奏する必要がないことが保証される状況を独特の言い回しで書いた。

「彼はミュージシャンの精神に対する創造的財産権を主張していたのだ。少なくとも、舞台の内外におけるミュージシャンの音楽的な意識は彼のものだった。自分なりの、暴君のようなやり方で、マイルスは偉大な師であるチャーリー・パーカーに倣っていた」

そして、テイトはこの録音に参加したギタリストのジョン・スコフィールドやベーシストのダリル・ジョーンズらの証言を丁寧に拾っていく。彼らの言葉を通して、晩年のマイルスがメンバーの演奏の細部をどれほど聴いていたのかが明らかになる。それは、50年代から60年代にかけてのクインテットの頃から変わらぬことが何だったのかを伝える。テイトは空虚なマイルス論は書かない。ただ事実と向き合い、それを解き明かす言葉を探るだけだ。『フライボーイ2』でも同じことが淡々と繰り返されている。

明確な結論ありきではない、断片から浮き彫りにされていく事柄を丁寧に拾っていくテイトのテキストの集積が、『フライボーイ2』である。取り扱われている事象を顧みるともう数年早く翻訳出版されていればという思いも抱くのだが、それでも、これから幾度も読み返されるべき本であることは間違いない。

グレッグ・テイト『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』

■グレッグ・テイト『フライボーイ2──ブラック・ミュージック文化論集』
著者:グレッグ・テイト
訳者:山本昭宏、ほか
発行:Pヴァイン
https://www.ele-king.net/books/009181/

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「増える」と「崩れる」——映画『君たちはどう生きるか』を形成する2つの運動について https://tokion.jp/2023/07/28/review-the-boy-and-the-heron/ Fri, 28 Jul 2023 09:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=201208 宮﨑駿による10年ぶりの新作映画『君たちはどう生きるか』を批評家の伏見瞬はどう観たのか。

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宮﨑駿監督による10年ぶりの長編映画『君たちはどう生きるか』(製作:スタジオジブリ)が7月14日に公開された。事前の宣伝活動を一切行わないことも話題となり、公開から10日間で観客動員232万人、興行収入36億円を突破し、好調なスタートを切った。一方でネットではさまざまな考察記事がアップされるなど、多様な解釈ができる作品となっている。本作を気鋭の批評家の伏見瞬はどう観たのか。コラムを依頼した。

※記事内には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

論評が増える

『君たちはどう生きるか』とは、「増える」と「崩れる」によって形成されたアニメーションである。

宮﨑駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』が公開されると、多くの人があまたの論評を行った(引用を除いて、本論では本作クレジットと同じ「宮﨑駿」名義で記述する)。話題作が発表されると多くの言葉がネット上に飛び交うのはいつものことだが、今作に関しては本当に大量のテクストが溢れ、増幅している。論調の多くは、物語内における「母」をめぐるものか、スタジオジブリ周辺の人間関係や日本アニメの歴史を作中のキャラクターや物語に当てはめて「継承」を語るものに集中した。前者であれば、例えば宇野常寛は本作を「極めて戦後日本的なありふれたマザーコンプレックスの発露という自身の中核にあるものを、まるで批評家の書いた文章のように自己解説するような展開」と評しており(※1)、三宅香帆は「父が不在で、母子密着で、卵たちは生まれてくることができず、そしてつるりとしたインコたちが叫ぶ声がバーチャルに響く、世界」が現代の「吐きそうなくらい的確なメタファー」だと書いている(※2)。後者の立場であれば、ブログ「青春ゾンビ」の著者hiko1985が、”キリコ”というキャラクターに高畑勲と東映アニメーション時代からの盟友・保田道世が重ねられていることを指摘しており(※3)、叶精二は、高畑勲や大塚康生などの「共に歩き続けた先達の遺志」が継承された「漫画映画への回帰」を本作から読み取っている(※4)。複数の物語を作品からくみ出せること自体は、おそらく幸福なことだろう。宮﨑をはじめとするスタジオジブリのスタッフ達が数十年にわたって作品制作を継続し、多くの観客がその作品群を長くに渡って受け取ってきたことの証左なのだから。しかしながら、物語の展開は長編アニメーションにおいて副次的な役割しか持たない。観客の感性を第一に刺激するもの、そして作家達が何より追求しているものは、絵の連なりの運動に他ならないからだ。それがなければ、母の物語も実在人物との照応も安易な記号操作に過ぎず、何の面白さも喚起しない。

(※1)宇野常寛.”『君たちはどう生きるか』と「王様」の問題」”.2023-07-20https://note.com/wakusei2nduno/n/nc1c94c0793fe,(参照2023-07-27)
(※2)三宅香帆.”#君たちはどう生きるか で、宮崎駿は結局、何を描こうとしたのか?【ネタバレあり最速レビュー】”2023-07-15.https://note.com/nyake/n/nc74f29fccca2,(参照2023-07-27)
(※3)hiko1985.”宮崎駿『君たちはどう生きるか』”.青春ゾンビ ポップカルチャーととんかつ.2023-07-17.https://hiko1985.hatenablog.com/entry/2023/07/17/135024.(参照2023-07-27)
(※4)叶精二”『君たちはどう生きるか』作品評 理屈を調節した「漫画映画」への回帰”.シネマカフェ.2023-07-21.https://www.cinemacafe.net/article/2023/07/21/86462.html,(参照2023-07-27)

「増える」が溢れる

『君たちはどう生きるか』の中盤、ジャムは増幅する。本作のヒロインの1人であり、異世界における主人公・眞人の母親の化身であるヒミが、洋風のキッチンルームで眞人にジャムトーストを振る舞うシーン。ヒミはトーストに分厚くバターを塗り、その上に赤いジャムを乗せて眞人に差し出す。眞人はトーストを頬張る。ジャムが溢れ、思い切り口の周りに付着する。おいしい、昔母さんに作ってもらったやつだと独り言をもらす眞人。もう一度、眞人はトーストにかじりつく。するとどうだろう。赤いジャムはトーストからあふれ出し、正面からバストショットで描かれた眞人の顔の目の前に広がる。その物量は、ヒミが最初に塗ったジャムの量を明らかに超えている。ジャムは増える。溢れる。増幅する。

ジャムの増え方と赤の色彩は、本作前半に配置された別のシーンを想起させる。眞人が血を流す場面。転校したての学校の帰り道。同級生に喧嘩をしかけられた眞人は、喧嘩の後で突如自らの右こめかみを拾った石で打つ。空の青と森の緑を背景に、彼のこめかみから濃い赤が流れる。血はすぐに止まず、次のカットでぶわっと溢れ出る。生身の人間であるなら、場合によっては死に至るのではないかと心配になる血の量だ。まるで血液そのものが成長しているようにすら見える。血は増える。溢れる。増幅する。

ジャムと血の赤は、「増える」という運動によって結ばれている。最初に画面に映る時にはさほど多くない物量が、次のカットでは拡がりを伴って溢れ出す。このような増幅の感触、増える運動が、本作には溢れかえっている。

例えば、お屋敷の裏の池で眞人とアオサギがはじめて対峙し、言葉を交わす場面。アオサギが「お待ちしておりますぞ」と好戦的に声を発すると、池の中からナマズのような魚が現れ、次のカットではカエルが大量に出現し、眞人の足下から這い上がって彼の全身を取り囲む。ナマズとカエルは、突然増えるのだ。

あるいは、眞人がアオサギに案内され、異世界に降り立つ場面。風の吹く野原に、金色の門が立っている。門を見上げている眞人に、突如ペリカンの大群が押し寄せる。ペリカンの重みに押され、門が開く。門が開いたことをきっかけに船乗りのキリコ(現実世界ではおばあちゃんの一人)と眞人が出会うわけだが、ここでも、画面上にはペリカンが溢れるという増幅の感触が映し出されている。

今、例に挙げた2つのシーンでは動物の大群が登場するわけだが、増幅の感は動物だけによってもたらされるわけではない。池の場面も門前の場面も、群れが現れる前には風が吹いている。風の強さによって、眞人の灰色めいたシャツがはためき揺れる。この時、シャツの輪郭は不自然なほどに丸いフォルムで膨らむのだ。キリコと眞人が出会った後では、海が膨らみ出す。木船に乗って進む2人の前に、水平線を覆い尽くす巨大な波が現れる。波は高く上がり、船に覆い被さる様が左横から映し出される。風も水も、本作の中では、増えて溢れる現象の一部として描かれている。

そう考えると、現実世界のお屋敷で働いている老女達の集団も、「増える」運動に関与していると思えてくる。眞人の父がお屋敷に持って帰った荷物に蟻のように集まる登場時の老女達の姿は、最初から異様な増幅感を伴っている。5~6人の群れの蠢きが『崖の上のポニョ』における老人ホームのおばあちゃん達を思わせる彼女達(鼻の横にイボを持つ女性が一人いる点も、一人だけ集団から離れて動く人物がいる点も共通している)はしかし、『君たちはどう生きるか』ではもっと異様な印象を与える。その理由は、横から老女達を描くところで明らかになる。彼女達の目が、やたらと飛び出しているのだ。今にもこぼれそうなほどに眼球は肥大している。目の大きな丸みと、集団で蠢きしゃべり散らす運動の掛け合いで、不気味な増幅感の印象がかたちづくられている。

加えて、キリコと共に暮らし、人間の誕生前の姿であると語られる白い生物群「わらわら」も「増える」運動の一部であり、物語後半に登場し、眞人・アオサギ・ヒミと敵対関係に入るインコの大群も同様に「増える」存在だ。本作においては、増えて溢れる運動が前半から終盤に至るまでに溢れかえっているのだ。

こうした「増える」運動は、以前の宮﨑駿監督映画にも度々登場した。『となりのトトロ』の、サツキとメイが植えた木の実がトトロの力で急速に大木に変わっていく場面。『風の谷のナウシカ』の、押し寄せる王蟲の大群。『崖の上のポニョ』における、魚の大群と擬人化された海の増幅。本作序盤で、眞人の父親・ショウイチと彼の会社の社員達は会社で造っている戦闘機コクピットの風防を屋敷に次々と並べていくが、この「増える」運動は、『風立ちぬ』の最後で空飛ぶ零戦の群れの風防が強調されて描かれていたことと地続きにある(時代設定自体、『風立ちぬ』と『君たちはどう生きるか』は連続している)。本作は、宮﨑駿監督作における、「増える」映画の系譜にある。

「崩れる」が伴う

「増える」描写に伴って現れるのが、「崩れる」動きだ。本作中盤の眞人は、キリコが釣ったらしき巨大魚(アンコウのように見える)を、キリコから方法を教わりながら捌いていく。キリコの指示に従って巨大魚の腹に刃物を突き刺すと、まず血が噴き出す。もう一度、眞人は刃を突き立てる。直後、桃色を帯びた内臓が溢れだし、魚の腹からこぼれ落ちる。画面上、内臓は腹の外側に向かって体積を増やしているが、魚本体は崩れている。増幅は、時に崩壊を伴う。

このシーンの後に、もう1つの「崩壊」が待っている。魚のはらわたはわらわらが浮かぶための飼料となるという。夜になるとわらわらの群れは宙に浮かび上がり、丸い物体群は次第に2つの螺旋型を作って上昇していく。DNAのらせん図を思わせるわらわらの群れは、やがて眞人がいた「上の世界」にたどり着いて人間として生まれるとキリコは説明する。そこに、上昇するわらわらをエサとするペリカン達が現れ、わらわらを食べ尽くそうとするが、火の少女・ヒミが現れて花火型の炎を放ち、ペリカンからわらわらを救う。その夜、眞人は野外のトイレの横で死にかけたペリカンに出会う。わらわらしか食べられるものがないペリカン族の悲惨な状況を訴えながら、そのペリカンは落命し崩れる。ここでも、わらわらの群れの浮上に対してペリカンは孤独に崩れるという、動きの対照性が見て取れる。

「崩れる」も、「増える」同様に宮﨑駿監督作を支えてきた運動だ。『天空の城ラピュタ』も『もののけ姫』も『千と千尋の神隠し』も、1つの世界の崩壊が終盤に用意されている。巨神兵もシシガミも、溶けるように崩れていく。『君たちはどう生きるか』でも、「大叔父」が「石」と契約して作り上げた世界が、最終的に地響きと共に崩れる。本作は、「崩れる」映画の系譜にもある。

「崩れる」ことが宮﨑駿監督作の世界に共通する1つの引力だとするなら、『君たちはどう生きるか』におけるいくつかの不可解な場面も素直に受け入れられる。アオサギが石の塔に眞人を誘う場面。塔の中では死んだはずの眞人の母が眠っているが、眞人が触れると母の像は水になって溶け出してしまう。このシーンは脚本上、後の劇中で活かされることなく、観客に不可解な印象を残す。だが母の像の崩壊は、「崩れる」引力に則って描かれる動きであり、そこに疑念の余地はない。

あるいは、インコの大王が塔の上の大叔父に会う直前。木組の階段を上っていった大王は、最上段まで上がり切ると、階段を念入りに叩き割る。追っ手を防ぐための処置なのだろうが、それにしても、4回に分けて叩き割っていくのは余りに念入りだ。そして、追跡していた眞人とアオサギは結局別のルートで大叔父に会えるのだから、叩き割る行為に効果はない。つまりここでも、絵の動きは劇の整合性に従っているのではなく、「崩れる」運動の引力に拠っている。

運動はメタファーに先立つ

ところで、本作の「動き」について批判があったことも、この辺りで付言するべきだろう。冒頭のシーンが眞人の「主観的映像」になっていることと作品の描写全体が「露悪的」に描かれていることを指摘した点で注視に値する下西風澄の論においては、「「動き」の表現は全盛期と比べればはるかに見劣りして」おり、「おそらくは身体の衰えもあり、宮崎駿はもう描けないのだ」と、本作の技術的限界が指摘されている(※5)。たしかに本作に、例えば『紅の豚』のような躍動感は覚えない。異世界の大群の船もヒミが住む家の庭の植物も、『紅の豚』でポルコが幻視した飛行機の群れとジーナの住む家の庭に比べると精彩を欠いているように思える。雲間から光が差す光景も、『紅の豚』の光に比べると濃淡のバリエーションに欠けており、画一的な退屈さは拭えない。『となりのトトロ』における森林や『風立ちぬ』における群衆の描写の細密さも本作からは感じ取れないし、『崖の上のポニョ』におけるぐにゃぐにゃした鉛筆線の魅力もここにはない。この差の理由を「老い」「衰え」の一言で済ます短絡は慎みたいが、差異自体を認めないのも無理がある。(※6)

(※5)下西風澄”宮崎駿の悲しみと問いかけ–『君たちはどう生きるか』”.2023-07-21.https://note.com/kazeto/n/nca1be7cd479c,(2023-07-27参照)
(※6)『続・風の帰る場所』の渋谷陽一によるインタビューにおいて、宮﨑はたびたび若手アニメーターの技量不足を嘆いている。その言葉を信用するなら、『君たちはどう生きるか』における躍動感の減縮の理由は監督の年齢よりも、PCでの作業が常態化した時代の描き手の技量不足に求めるべきだろう。無論、アニメーションの作業に一度も従事したことのない文筆家に、原因や責任と呼ばれるものの所在を追及する能力などはない。宮崎駿(2013)『続・風の帰る場所 映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』(ロッキングオン)、を参照。

しかしながら本作は、同じ運動を繰り返し描く執拗さにおいて、過去の宮﨑駿監督作品すべてを凌駕している。『となりのトトロ』の木の増幅はワンシーンに限られるし、『風の谷のナウシカ』でも王蟲と腐海の増殖は物語的必然を免れていない。『もののけ姫』も『天空の城ラピュタ』も、「崩壊」は物語に組み込まれている。『崖の上のポニョ』は例外的に海水も魚もポニョの手足も無秩序に「増える」が、逆に津波に襲われた街は「崩れない」。『君たちはどう生きるか』ほど、話の筋に関わらないところも含めて何度も何度も増えて崩れる作品は他にないのだ。その反復の中から、本作だけが生きることを許された律動感覚が生じる。

 「増える」と「崩れる」。本作において私たちが物語より遙かに直接的に受け取っているのは、2つに分類される運動の連続である。そして、アニメーター達が身体を使用して作り出しているのも、物語の構築ではなくて運動の生成なのだ。私達は、ものや生き物が増えたり崩れたりするのを感じ取って、「気持ち悪い」や「怖い」や「ソワソワする」や「ゾクゾクする」を思ったりする。そうした感性の反応は、物語を日本社会の構図にトレースし、作中の人間関係を実在の人物に当てはめようとする思考に先立っている。

だから、作中の終盤、「石」の異世界から抜け出すシーンの描写には必然がある。眞人と継母ナツコと老婆キリコが元の世界に戻ると、ペリカンとセキセイインコが溢れ出す。その後方で、石の塔が完膚なきまでに崩れる。「増える」と「崩れる」が同時に一挙に起こることで、本作は終わることができる。インコの糞にまみれて笑う眞人とナツコの姿は、「増える」と「崩れる」を浴びた私達観客の似姿だ。

「増える」と「崩れる」を、それぞれ「生」と「死」の隠喩だと考えるのは容易い。それも間違ってはいないだろう。しかし、順序を間違えてはならない。本作の魅力は「増える」と「崩れる」によって「生」と「死」を象徴的に描いている点にあるのではない。「生」と「死」の象徴が、運動の蠢きとして目の前で感じ取れることに、本作の魅力は宿っているのだ。「増える」と「崩れる」がなければ、「生」と「死」のメタファーなど俗っぽい人生論でしかない。

増える、崩れる、閉じられる

ここまで捉えたところでようやく、「母」や「継承」について考えることが意味をもつだろう。大叔父が守り、眞人に託そうとした世界は継承されることなく、あっけなく崩れる。その代わりに、眞人と関係を持つ者は次々と増えていく。眞人は生まれの母を「母さん」と呼ぶだけでなく、継母のナツコと途中から「お母さん」と呼ぶ。これは母をどちらかに選んだのではなく、母が増えたのだ。母子の相剋は、「増える」ことによって受容される。そして、最後の一つ手前のカットで、父・ショウイチとナツコは子供と共に玄関で眞人を待つ。当該のカットは、かつて眞人がショウイチとナツコの抱擁を覗き見た時と同じ視点で描かれており、反復によって子が「増える」印象はより強調される。この映画において、「母」と「子」は共に増えている。

増えるのは「母子」だけではない。大叔父との会話で、眞人は自らがつけたこめかみの傷跡を「僕の悪意の証です」と語った。船乗りのキリコには、同じ箇所に傷跡があった。「悪意」も増幅するのだ。同時に、眞人は大叔父との会話で、ヒミもキリコもアオサギも「友達」だと言った。そしてアオサギは、別れの際に眞人に向けてぶっきらぼうに言う。「あばよ、ともだち」。そもそもアオサギは、鳥の顔の下から中年男性の顔が途中から出てくるキャラクターで、顔が「増える」存在だった。2つの顔を持つ彼が「嘘つき」であることは作中のセリフで何度か述べられているが、「嘘つき」のアオサギと眞人は最後に「友達」になるのだ。さらに、ヒミは死んだ母の化身なのだから、眞人は「死」とも友達になっている。眞人は、つまり「悪意」も「嘘」も「死」も友達だと言っている。「友達」は、ひたすら増えるものとして描かれている。

長年守ってきた王国が、受け継がれずに崩れること。「母」と「子」と「悪意」と「嘘」と「死」が、「友達」が増えること。本作の作り手達が本当は何を考えているか、私達は知らない。仮に知っていたとしても、それが作品に反映されているとは限らない。ただ、『君たちはどう生きるか』と題された映画における絵と音の連続は、私達の耳元でこのように囁く。私もお前も、「守る」や「受け継ぐ」より「増える」や「崩れる」に、否応がなく惹かれる生き物なのだと。「増える」ものに善悪の差はなく、すべて「友達」になるのだと。それが正しいことなのか間違ったことなのかは、もちろんこの映画のどこにも語られてはいない。扉は「おわり」も「おしまい」もなく、何も告げずに閉じられる。

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Mon Oncle、ロバート! コネチカットの小さな町で“フレンチ&ジャパニーズ” 連載:工藤キキのステディライフVol.5 https://tokion.jp/2023/06/30/kiki-kudos-steady-life-vol5/ Fri, 30 Jun 2023 10:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=193904 工藤キキがコロナ禍で見出した、ニューヨークとコネチカットのデュアルライフ。連載第5回目。

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ライター、シェフ、ミュージックプロデューサーとして活動する工藤キキ。パンデミックの最中にニューヨークシティからコネチカットのファームランドへと生活の拠点を移した記録——ステディライフを振り返りながらつづる。

パンデミック以前、私は映像プロダクションのオフィスでランチシェフやケータリング、プライベートシェフとして働いていた。ロックダウンの影響でオフィスが閉まったり、スーパーやデリバリーでは人同士の接触をなるべく避ける“コンタクトレス”というカテゴリーが登場したり。かのイージーゴーイングのニューヨーカーでさえマスク着用はもとより、不要な外出もせず感染拡大防止に取り組んでいた。そんな先行きが全く見えない中で、いくら“食”がエッセンシャルなものとはいえ、プライベートシェフやケータリングの仕事はその頃はほとんどなかった。パンデミック中は政府からのサポートもあったのでなんとか暮らせたが、2021年の秋にコネチカットに引っ越してからは、まだ車の免許もない上、超牧歌的なカントリーサイドで仕事を見つけるとういう難関にぶち当たっていた。

家から車で40分のシャロンという街にフレンチレストランがあるという話を聞いた。よくよく調べてみると、現在はブルックリンのグリーンポイントに移転したそう。ブライアンが通っていた時は、ソーホーにあった「ル・ガミン(Le Gamin)」という1990年代にはスーパーモデル達がよくハングアウトしていた正統派フレンチレストランで、オニオングラタンスープやクレープ、クロックムッシュ、クロックマダム、もちろんクリームブリュレもあり、映画『アメリ』のような世界のお店だった。コネチカットの家の周辺はデリバリー圏外で、さらに近場にお気に入りのレストランやカフェはものすごく少ない……そんなわけで、その話を聞いた翌日に私達は心躍らせながら「ル・ガミン」に向かうことにした。

シャロンはニューイングランドらしい牧草地が広がり、アーティストのジャスパー・ジョーンズが暮らしているという美しい田舎町。「ル・ガミン」はパーキングロットにあるショッピングセンターの一角にあり、一見して避暑地のフレンチカフェを思わせるキュートなお店だった。席について、ブライアンがウェイトレスに「昔ソーホーのお店によく通っていた」と話すと、その後ニコニコした笑顔でオーナーのロバートが駆け寄ってきて、私に「フレンチもいいけど、ラーメンがやりたいんだよ〜」と言う。「えー私シェフなんだよ。やろうよ、ラーメン(笑)」と話しながら、トントン拍子にコラボレーションをすることが決まった。

ロバートは陶芸家のパートナーであるタムと息子でシェフのルシアンと一緒に、私達と同じパンデミックの渦中にシャロンに引っ越してきた。その直後にショッピングセンターにあるこの物件を見つけて、お店のオープンを決めたそう。レストランがまったくない街に突如現れた正統派のフレンチレストランで、毎日焼きたてのリアルなフレンチクロワッサンが手に入るなんて、はっきり言ってシャロンの食文化を変えたといっても過言ではない。さらにロバートのニューヨークのフレンチらしいグッドテイストと気さくでフレンドリーな人柄もあって、「ル・ガミン」は瞬く間に人気スポットとなっていた。

もちろん、シャロンにはアジア料理のレストランがあるはずもなく、ラーメンをはじめとした日本食を食べたことがある人もそんなに多くなさそうだった。ラーメンといっても、私達は“フレンチ&ジャパニーズ”のコラボレーションをしたかったので、ロバートのレシピから“Soupe à l’oignon”のラーメンと、“Moules frites”をココナッツミルクベースのスープにしたラーメンの2種類を考えた。ポップアップやケータリングをやる時、どんな食器が使えるのかが重要なポイントで、プレゼンテーションの違いで料理の見え方も違ってくる。とはいえ新たにラーメンボウルをそろえるのもなんだし、リサイクルできるとはいえ使い捨ての紙皿も使いたくない……そんなことを考えていたら、カフェオーレボウルを使うことを思いついた(笑)。通常のスープボウルと比べたら少し小さいけれど、その代わりに替え玉と餃子、ピクルスを添えたラーメンプレートができあがった。実は、私は一般的なレストランの厨房で働いた経験がない。オーダーシートを読み取って、注文順に、しかも前菜とメインを作る順番を瞬時に考えるなど、気分はゲーム「Overcooked! 2」をはるかに超える緊張感(笑)。オーダーを完成させるのに、メインシェフのルシアンとロバートにたくさん助けてもらったことも。ポップアップは2日間連続で開催し、ニューヨークから友達も食べにきてくれて、両日ともテーブルはソールドアウトだった。

ロバートとのコラボは、そのあと2022年の1月にも行った。メニューは、ロバートがデザート用に作っていた砂糖漬けのオレンジ“Orangette”を使った、アメリカの定番中華のオレンジチキンを春巻きにしたものや、ロバートの料理本からの自家製マヨネーズと柚子を組み合わせた“Celery Roots Remoulade”をタルタルソースのように添えたプレートなどのメニューを考えた。当時は仕事を探していたが、結果的にコネチカットの小さな街ですてきな人達と、かなり実験的(!)な挑戦をさせてもらえて本当に感謝している。ありがとうロバート!  3回目のコラボもぜひいつか。

Edit Nana Takeuchi

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「プラダ」が庭園美術館で繰り広げた文化・芸術の2日間 日本初開催のイベントシリーズ「PRADA MODE」をレポート https://tokion.jp/2023/06/05/report-prada-mode/ Mon, 05 Jun 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=189241 5月12・13日に「PRADA MODE 東京」が開催。建築家・妹島和世がキュレーションした多彩な文化プログラムの数々をレポート。

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庭園美術館を舞台に多彩な文化プログラムが展開
「#PradaMode Tokyo」

5月12・13日の2日間にわたり、「プラダ(PRADA)」による現代文化をテーマとしたイベントシリーズ「PRADA MODE」が東京都庭園美術館(以下、庭園美術館)で開催された。同イベントシリーズは、現代美術作家のカールステン・ホーラーが手掛けたイベント「Prada Double Club」(2008年・2009年ロンドン、2017年マイアミ)から派生的に生まれたもので、これまでマイアミ、香港、ロンドン、パリ、上海、モスクワ、ロサンゼルス、ドバイと世界の各都市で開催され、シアスター・ゲイツやダミアン・ハーストら世界有数のクリエイター達の作品・インスタレーションの展示が行われてきた。

シリーズ第9弾・日本初開催となる今回の「PRADA MODE 東京」では、「プラダ」と長年にわたりコラボレーションしてきた建築家・妹島和世がキュレーションを担当し、会場には同氏が昨年7月から館長を務める庭園美術館が選定。1933年に建てられたアール・デコ様式の旧朝香宮邸である本館と多彩な植物が息づく豊かな庭園、そして現代美術作家・杉本博司をアドバイザーに迎え2014年に完成した新館からなる同美術館を舞台に、領域をまたぐ多種多彩な文化プログラム・アクティビティが展開された。

本イベントは招待制であったが、美術館入り口の受付は妹島がキュレーションしたアート作品を展示する「ゲートハウスギャラリー」として一般公開。妹島が旧朝香宮邸や庭園というモチーフ・観点から着想を得てキュレーションを行い、名和晃平や三嶋りつ惠、磯谷博史、ナイル・ケティングらの作品が一堂に会した。

西洋庭園の最奥には、妹島とのユニット・SANAAとしても活動する建築家・西沢立衛の設計による木素材の仮設パビリオンを設置。オーガニックな曲線美を誇る屋根の下で、多岐にわたる主題を巡っての対談やライヴ・パフォーマンスが実施された。

芝生の上や木陰には木素材の什器が配置されており、来場者はそこに腰掛け対談や音楽に耳を傾けたり、会話やフード・ドリンクを楽しんだりと、思い思いの時間を過ごしていた。

渋谷慶一郎によるサイトスペシフィックなインスタレーション&パフォーマンス

日本庭園に歩を進めていくと、初夏の心地よい風が奏でる葉擦れに混じって、アブストラクトな電子音響が聴こえてくる。このサウンドインスタレーションを手掛けたのは音楽家・渋谷慶一郎。庭園にちりばめられた24本のスピーカーからは、同氏制作によるサウンドファイルがピッチやポジションなどさまざまなパラメーターをランダマイズした上で再生されるようにプログラムされており、自然音とも相まって、今ここでしか聞くことのできない一期一会の、サイトスペシフィックなサウンドスケープを展開していた。

イベント1日目となる12日の11時半からは同庭園で渋谷のライヴ・パフォーマンスが実施に。渋谷はアナログ・ポリフォニック・シンセサイザーの名機「Prophet-5」を即興で演奏。サウンド/ノイズの境界を行き交う重厚で豊かなアナログサウンドは、インスタレーション同様、プログラムを経由し24本のスピーカーからランダムに発せられ、自然音や来場者の話し声とも溶け合いながら、心地よさと刺激が交錯する聴取体験をつくり出していた。

建築と自然・ランドスケープの関係性を語った西沢立衛と石上純也

同日14時からは、西洋庭園のパビリオンにて、その設計を担当した西沢と建築家・石上純也による対談「ランドスケープアーキテクチャー」が開催となった。2人はまず自身が手がけた建築作品を事例としながら、各々の自然やランドスケープに対するアプローチ・考え方を提示。石上は持続的な時間軸をも設計・デザインに落とし込みことにより、前からそこにあったかのような感覚をも想起させ得るレストラン「メゾン・アウル」(2022年)、建築とランドスケープが一体化したかのような半屋外建築「KAIT広場」(2020年)などを、西沢はチリの湾岸に建てられた住宅「House in Los Vilos」(2019年)や軽井沢の宿泊施設「ししいわハウス」(2019年)など、所与の自然を解消する課題としてではなく頼るべき与件として設計を行った建築作品を紹介した。各々のプレゼンテーションを終えると、「機能の集合」ではない「流れの集合」としての建築というあり方の可能性や、20世紀の建築家が都市に向かったのに対して現在では環境・ランドスケープへの志向性が高まっているという指摘など、建築の今とこれからを巡るアクチュアルな言葉が交わされた。

お茶の精神から「趣味と芸術」を説いた杉本博司と千宗室

同日16時からの対談には、現代美術作家・杉本博司と、茶人・千宗室が登壇した。「趣味と芸術」という対談のタイトルは、『婦人画報』に掲載された杉本の連載「謎の割烹 味占郷」をまとめた書籍『趣味と芸術 謎の割烹 味占郷』(2015年、講談社)に由来するもの。同書は、杉本が料亭の「亭主」として各界の文化人・著名人を招き、自身の料理と自身が蒐集した美術品・骨董品からつくり出した床の間のしつらえによりもてなした様を記録したものだが、杉本によれば、そこにあるのはお茶の精神にもとづいているのだという。杉本のおもてなしは、例えば、ギタリストの姉弟である村治佳織、村治泰一を招いた際には、蕪を弦楽器に見立てた料理「蕪の葛炊き」を供し、また2人のレパートリーに着想を得て、司馬江漢が江戸時代の鎖国中にまだ見ぬヨーロッパの姿を想像で描いた「樹下騎馬人物像」を飾る、といった具合。招く相手に思いを巡らせ、趣向を凝らしたおもてなしを用意する——その精神性と創造性は千利休が完成させたわび茶の理念を継承したものであるだろう。本対談では、財と見識を持ち合わせ必要な時に必要なものを動かすという数奇者たる者の在るべき姿や、千利休の茶室にあらわれた西洋美術にも先行しうる幾何学的な抽象の美学・緊張感なども語られ、両者ならではの含蓄に富む対話でオーディエンスを大いにもてなした。

庭園美術館の貴重な歴史的空間と特別なワークショップ

イベント期間中、庭園美術館では年に1度の建物公開として「建物公開2023 邸宅の記憶」が開催されており、来場者は対談やパフォーマンスの合間など銘々のタイミングで、宮邸時代の家具を用いて再現された旧朝香宮邸の邸宅空間や、写真・映像資料、工芸品、調度品、衣装などを愉しむことができた。

また、新館では本イベントのために特別に企画されたワークショップも開催。洋服の制作過程で生じた布やリボンの端切れを活用しオリジナルの帽子をつくる「わたしをあらわすすてきなぼうし」、同様に端切れから大きな1枚のカーペットをつくる「ポータブルガーデンをつくろう」という2つのワークショップは、老若男女問わずたくさんの参加者でにぎわっていた。

妹島和世と長谷川祐子が考える、アートと生活・社会の新しい関係性

イベント2日目となる13日の11時からは、妹島とキュレーター・長谷川祐子による対談「犬島シンビオシス:生きられた島」が開催された。主題となったのは、瀬戸内海に位置する犬島で2008年にスタートした、アートによる地域再生の取り組み「家プロジェクト」だ。同プロジェクトにおいて、長谷川はアーティスティック・ディレクターを、妹島は建築を担当。過去タッグを組み「アートと人をつなぐ」ことを実現した2人は、そのさらに先の姿として「生活の中にアートが自然にある」という状況をつくり出すことを企図したという。その結果として、犬島のプロジェクトでは、1つのシンボリックなギャラリーをつくるのではなく、当時約50世帯の島民が暮らしていた集落に複数のギャラリーを分散的に設計・開館するというアプローチが取られることに。妹島が設計したギャラリーは、スカルプチャルな新築のもののみならず、もともとある空き家を活用・リノベーションしたものもあり、展示に必要な最低限の電気しか用いないというポリシーを遵守すべくさまざまな工夫を行うなど、コンテクストや環境に配慮しながらプロジェクトが進められたことが豊富な写真資料とともに説明された。

また、同プロジェクトで肝要なのは「ギャラリーをつくって終わり」ではないこと。それはあくまで第1フェーズに過ぎず、植物園の開館やさまざまなイベント・ワークショップの展開、外部団体・企業が参画しての取り組みなど、ギャラリーの開館後も現在進行形で犬島という場所、そこにあるコミュニティの成長が実現され続けているのだ。ただし、それはああらかじめ計画・設定されたゴールではなく、島民やプロジェクト参加者、アート・アーティスト、ギャラリーを訪れる来島者らさまざまな要素・主体が、シンビオシス(利他共生、異なる種・生物が互いに利する関係を持つことによって進化していくという考え方)的に関係し合い、生まれ育まれていったものだという。その合目的性に回収されないつながりや、持続可能な成長のあり方は、社会や文化のこの先の姿を考える上で多大な示唆を与えてくれる。

刺激に満ちた渋谷慶一郎によるAI・アンドロイドとの共演

同日12時半からは、渋谷のパフォーマンス「Garden of Android」がパビリオンで催された。渋谷は、近年のメインプロジェクトであるアンドロイド・オペラ®︎の「主演」である人型アンドロイド「オルタ4」との共演を披露。パフォーマンス前に渋谷が行った説明によれば、「オルタ4」がこれから歌う歌詞は、渋谷がAIに本イベントの概要や、西洋において「庭」の理想形・起源とされる「エデンの園」の背景や物語を学習させた上で、「庭園美術館の庭で歌うとしたら、どんな歌詞を歌いたいか?」と問いかけ生成されたものであるという。また「オルタ4」が歌うメロディはすべて渋谷が紡ぐサウンドに対して即興で生み出されるものであることも伝えられた。

「オルタ4」によるパフォーマンス開始のスピーチが終わると、渋谷が「Prophet-5」で奏でる倍音を多分に含んだ美しく分厚いパッドサウンドがあふれ出し、一気に場を染め上げていく。すると、「オルタ4」はその音に重ね合わせるように、子ども/大人、男性/女性、人間/システム、声/楽器などさまざまな境界線を曖昧にするような不思議な歌声による歌唱を開始。渋谷はそんな「オルタ4」が紡ぐメロディにしかと耳を傾けながら、モジュレーションやフィルターを繊細にコントロールしつつ、演奏を展開していく。人間とAI・アンドロイドにより繰り広げられた「対話」は、この先の文化・表現の未来のヴィジョンを大いに感じさせる創造性と批評性に満ちていた。

境界を横断する刺激的で多種多彩な音楽

渋谷の他、本イベントでは、初来日を果たしたフランス人電子音楽家のロメオ・ポワリエ(Roméo Poirier)や、つい先日に新曲「Nothing As」を発表した石橋英子&ジム・オルーク(Jim O’Rourke)、水と陶磁器を用いる在パリのサウンド・アーティストのトモコ・ソヴァージュ(Tomoko Sauvage)、イタリアのアンビエント音楽家ジジ・マシン(Gigi Masin)ら国境・ジャンルを横断した豪華多彩なアーティスト・音楽家達によるパフォーマンスが催され、空間を色とりどりの豊穣なサウンドで彩った。

渋谷慶一郎と朝吹真理子による都市・音楽を巡る語らい

本イベントの最後の対談プログラムに登壇したのは、先ほどパフォーマンスを終えた渋谷と小説家・朝吹真理子。「都市と音楽」をテーマとした対談の冒頭において、朝吹は、ル・コルビュジェに師事した建築家であり数理モデルを駆使した作品で高名な作曲家でもあるヤニス・クセナキスの著書『音楽と建築』(編訳:高橋悠治、2017年、河出書房新社)からお気に入りの一節を紹介しながら、街を歩いている時におぼえる過去や未来の時間が今ここに流れ込んでくるような感覚、積層的・リニアな時間軸から逸脱する同時多層的な時間感覚への共感を語った。それを受けて渋谷は、作曲という営為において経験され得る時間感覚もそのようなものであると説きつつ、日本の都市にあふれている音楽は規律的なビートに支配されたものが多く、そのことにより都市体験における豊かさが、そこにあるべき多層性や複層性が損なわれているのではないかと、音楽家ならではの観点から指摘を行った。一方、朝吹は、コロナ禍の東京において、飲食店などから漏れ聞こえてくる音や匂いがなくなってしまった時、それまではそれらを不快に感じることもあったものの、街から生命感が失われてしまった感覚をおぼえたことを述懐した。単数性・規律性に回収されないものや、ノイズ・不純物。そこにこそ都市を、生活や社会を真に豊かにするための何かが宿っているのかもしれないと、2人のクリエイターの鋭敏な感性・言葉は教えてくれた。

生活や社会を真に豊かにしていくために必要なもの

五感に訴えかけてくるアート作品やアクティビティ、ジャンルや境界を横断する音楽、文化や社会の来し方行く末を照らす言葉——。そんな多彩さと創造性に満ち溢れたコンテンツ・プログラムがあまた展開された2日間は、「プラダ」の芸術・文化への敬愛と真摯な思いを改めて伝えるとともに、生活や社会をより豊かで実りあるものにしていくために必要なものとは何かということについて、思いを巡らせ考えていく契機ともなった。「プラダ」と庭園美術館によりつくられた特別な庭、そこで過ごした時間は訪れた1人ひとりの中で色褪せることなく輝き続けることだろう。その煌めきに宿るものを、私たちはラグジュアリーという言葉で呼ぶのかもしれない。

■「PRADA MODE 東京」
日程:5月12・13日
場所:東京都庭園美術館

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連載:音楽家・諭吉佳作/menの頭の中 第2回「本物」と「偽物」 https://tokion.jp/2023/05/13/inside-the-mind-of-musician-yukichikasaku-men-vol2/ Sat, 13 May 2023 03:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=182480 シンガーソングライターの諭吉佳作/menによる連載。第2回は「本物」と「偽物」について。

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2003年生まれのシンガーソングライターの諭吉佳作/men(ユキチカサクメン)。小学6年の時に作曲を始め、iPhoneアプリのGarageBandだけで楽曲制作を始め、2021年5月にはトイズファクトリーからEP『からだポータブル』、『放るアソート』を同時リリースし、メジャーデビュー。トラックメーキングはもちろん、独特な言語感覚から作られる歌詞や文章も人とは違う魅力が詰まっている。「TOKION」では諭吉佳作/menにコラム連載を依頼。不定期で掲載していく。第2回は「本物」と「偽物」について。

荒くなった画像をより鮮明で大きな画に戻せるという想像は、すごくロマンティックだと思う。想像する人はロマンティシスト。素敵なのだ。いろいろできるのが当たり前で、できないことの甘美さを、最近は忘れている。

ひとつひとつの点は大きく、それらの集合としての全体は小さく、もう変わってしまったものだ。それでも彼ら自身が当時のことを覚えていると考えた。今やどれだけ拡大しても再現されない、いつからか省略されてしまった点の記憶をまだどこかにしまっていると。

再現としての写真や絵に含まれた固有性みたいなものをおれはどう認識してきたんだっけな、と考える。

そう、すると真っ先に思い出すのだけれど、専門家の説明以外でさらっと伝えられる「スマートフォン電話の声は本物の声ではない」の話には、いつもちょっと妙な気持ちにさせられる。ちょっと疑いを持つし、ちょっと苛立ちもするし、その話題のどの部分に特別なシンパシーを覚えているのか?と、ちょっと考える。
おれは電話の声が本物だと思っていたことは一度もない気がするのだ。

おれ自身が、そもそも全然電話をしないというのが手伝って、一歩引いた感じになってしまうのだろうが、それにしても詳細を調べたことはなかったよなあと反省し、軽く資料を探す。

その結果、今からちょっとそういう話を書いてはみるけれど、おれは専門家じゃないので、みなさん妙な気持ちになるだろうが、どうか勘弁してほしい。

スマートフォンでは、事前に準備されている音の素材を話者の声に近いパターンに組むというようなことが行われるそうで、だからたしかに話者本人の声ではないと。スマートフォンの場合はそんなふうだが、固定電話の場合にはまた仕組みが違って、処理は挟まるがほとんどそのままの波形を伝達するので、本当の声を伝えていることになるらしい。うーんまあ、専門家ではないのでよくわからないし、専門家ではないおれがあえて「ことになるらしい」と言いたいのは、固定電話の声ほど不気味なものはないと思うからだ。でも理論上本物だという。

理論上のことは正直な話おれにはまったくよくわからないが、感じ方の意味で言う本物か偽物かというようなことは誠に曖昧な議論になりそうだ。スマートフォンについて電話の声って本物じゃないんだよと話す人は、本物じゃないことが寂しいとも言うが、固定電話の声を「本物の声」のうちに含めることにはわだかまりがないのだろうか。

話者が電話に関係するよりずっとずっと前から、電話機の側があらかじめ準備していた素材を、勝手に話者の声風に組み立てて、あたかも話者の声ですという顔で流していることが寂しさの理由なのであって、つまり大抵は自分と相手の蜜月な会話に第三者的存在の介入を感じさせられるのを惜しく思っており、そのいかにも感傷的な感情に「実際問題本物じゃないから」というタイトルを与えているのだとしたら、それはこんな感じで文章を書いているときみたいに、感性的になっているときのおれになら、共感できそうだ。電話をしないから想像でしかないが。そして、固定電話でも同じ感覚を持つと思う。そうだとしたら、そこでは理論上本物か偽物かということは一番の問題ではない。

おれの感覚で言えば、実際に「そこにある」以外ならスマートフォンでも固定電話でも、いっそ電話以外のテレビもスピーカーも全部、何だったとしても同じことという気がする。何かを介している時点で、もう何かを介している。おれが機械に詳しかったら、もう少し違う感想を抱くのだろうか?

あなたは、液晶画面に写真を表示してみる。例えばあなたと仲の良い友人に山口さんという人がいるとして、その山口さんの写真だ。あなたは画面を注視する。

山口さんが、池に浮かんだ金色の寺をバックにピースしている。染色したばかりの濃い髪が木葉と一緒に靡いて、陽の光を反射する。服装はシックなモノトーンでまとめられているが、歯を見せて破顔すると寺にも負けない輝きだ。

山口さんがいるなと思うだろうけれど、何をもって山口さんなのだろうか?

それは写真ではなく画面かもしれないし、画面じゃなくて光かもしれない。別の視点から言えば、人が写ってはいるかもしれないが山口さんとは限らない。この世にいる似た顔の3人から山口さんを除いた2人のうちのどちらかかもしれない。それでも山口さんだと思うのなら、あなたが見ているのは写真でも画面でも光でもなく記憶だ。あなたは山口さんと京都へ観光しに行ったこと思い出している。

彼の髪は、かちかちに固められ宙に浮いているのではなく、風に靡(なび)いているのだとわかる。映像ではなくても、あなたにその知識と記憶がある。よほどわかりづらいはずだが、あなたは写真の中の彼の髪と眉毛を見分ける。あなたは記憶の中の彼の姿形を参照している。洋食屋で向かい合ったときにハンバーグを食べながら盗み見た彼の目つきを思い出す。でも写真の立場になると、それが整髪剤まみれの髪なのか指通り滑らかな髪なのかとか、頭髪なのか眉毛なのか目なのかなどというのは実にどうでもいいことだった。まったく他人事でいられる事象だ。

だからできるのはあなただけだ。写真の側は一度縮んだらそれ以上のことは何も思い出してはくれない。縮み続けるとだんだん、あなたの記憶をもってしても見出せるものがなくなり、最終的に一個の点になって消える。

当時から十分に不思議で、あとから考えてさらに不思議な、写真に関するエピソードを思い出した。

非常に有名な人、つまり、おれやたくさんの人々が彼の外見をどうしようもなく「彼」そのものと認識しているはずだというような、確固たる固有性を持った人のことだ。特別で、もう他の言葉で言い当てるのは難しくなり、彼を表すのは結局彼の名前ということになってしまう、そのくらいの人だ。

でも確かに、その写真の彼はいつもと雰囲気が違った。珍しく、伸びた前髪が半面を隠していた。他の目的で用意された写真には明るい印象を与えるものが多かったが、薄暗い屋内で撮られた影のあるもので、意外だなと思った。その写真の彼は、外見から見てとれる特徴が普段よりも少なかったのかもしれない。とはいえだ。

写真を不意に目に入れて、ええ!おれこんな写真撮ってないよね?と。世にも奇妙というか意味不明というかあまりにありえない種類の驚きを感じたのだった。

シチュエーションはともかくデータ的には鮮明な写真なわけだし、見間違うほど顔が似ているということもないし、第一おれには記憶がない。撮影の。さすがに、真面目に自分ごとだった時間は1回分にカウントしなくてもよいくらい一瞬だった。すぐにおれは頭を振って、彼の名前を思い出した。でもその一瞬の間、信じられないけれど、すごく恥ずかしい気持ちになったのだった。ただ、これちょっと自分に似てるなあと客観したならまだしも、知らないうちに自分の写真が!とどきっとさせられたのだ。いつの間にか自分の秘密が漏れていたとわかって焦るみたいな感じだった。焦るって、その主観具合は相当じゃないか?その日以前にも以後にも、似た経験はない。

全部本物だし全部偽物

街を歩いている誰かが自分の大好きな芸能人に非常によく似ていて、実際に(というのは神様視点の話だが)本人だったとしても、おれにはわからない、ということは昔から考えていた。

画面越しにしか見たことのないものが目の前にあったらどうかなんてまったく想像がつかないし、姿に加え声や話し方に所作込みで「彼」と記憶しているその人のただ歩いている姿を、どれだけ近くで確認できても、確信は持てない。似てるなと思い至らないわけではない。思うだろう。ただ確信をしない。わかる人にはわかるのかもしれないが、おれにはわからない。

けれど、画面越しということが特別な問題なわけでもない。ごく身近でないなら、知り合いにも似たようなことが言える。話す声も似ているとか、以前にもあの服を着ているところを見たことがあるとか、連れにも心当たりがあるとか、ここが待ち合わせ場所で待ち合わせの相手が自分だとか、理由を見つけると確率を上げられるというだけで、それが誰であるかを確信するための勘自体が、おれには少ないような気がする。物と物を間違えるよりも、人と人を間違える方が恐ろしいので、厄介だとも思う。

そんな考えがあるのに、他人の写真を自分の写真と思いかけて存在しない主観を経験をしたし、最近は、自分の顔が日ごとにいろんな顔に見える。人間の顔そのものを面白く思うようになってきたのには、あの写真が関係しているのかもしれない。いや、こじつけのような気もする。そういえば自分の表情こそ、何をも介さずに確認するのが不可能な唯一のものだ。

今ここで、これは自分の感覚以外の何をも介していない体験だ、という自負があるときは、「今ここでこれは本物だ」と言えるだろうか。そんな状況滅多にないし、もしあったとしても、それでも本当に本物かどうかは、何をもって判断したらよいかわからない気もする。

あらゆるものが本物か偽物かというようなこと、例えば、それが本心なのか/素肌なのか/ライブなのか/フィジカルなのか、もしくはそうでないのかというようなことを追及するのは野暮に思えることが多かった。おれはあまり重視せず、追及しないようにした。だからこそ逆に、おれは、日常的に、かなり気軽な調子で、この調子で口に出すこの言葉に深い意味なんかあるはずがないですよね、という雰囲気を撒き散らしながら、「フェイク」という言葉をぽんぽん使っている、そういえば。だから、「本物」がそんな感じでぽんぽん使われることに対しても、実のところ、大いに共感できる。今ここに書いているのもたぶん、半々って感じだ。おれは他人がしたタイトル付けにだけ厳しくて、ひどい。

今まで「全部本物だし全部偽物だ」と言いながら願望なのかもしれないと思ってもいたが、今日は、単に夢見がちなだけでなく、切実な解釈でもあるなと思った。

ほとんどしないのに言えたことじゃないが、電話の声は、本物の声には思えないが、本物の電話の声なんだよなあと思う。さすがに電話の声にエモさは感じる。写真ならどうかなとカメラロールを見返したら、少し前に撮ったプリクラの画像を見つけた。写真はやっぱり、時間が経っているし、物としても画面とか光とか、紙とかインクとかだし、しかもプリクラなんか顔のあらゆる部分を伸ばされたり縮められたりやりたい放題だ。伏し目なのに上向きに足されたまつ毛を見て、今度こそ偽物なんじゃないか?と思った。でも、まつ毛は偽物だけど、本物のプリクラまつ毛で、これは本物のプリクラなんだよなとも思う。味がある。これもエモい。確実に本物だ。これが本物じゃないっていうならそんなのマジでフェイクだ。

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世界のあらゆる“BORDER(境界)”を考える「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2023」リポート https://tokion.jp/2023/05/08/kyotographie2023-report/ Mon, 08 May 2023 08:30:00 +0000 https://tokion.jp/?p=183382 5月14日まで開催している「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真際」の見どころをリポート。

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京都の歴史的建造物や近現代建築の空間を用いて国内外の作家の貴重な写真作品を展示する「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真際」が5月14日まで開催している。今回で12回目を迎える同イベントのテーマは“BORDER(境界線)”で京都文化博物館別館や二条城 二の丸御殿台所・御清所、藤井大丸ブラックストレージ等、屋内外の14カ所で展示を行っている。

メインプログラムには、石内都、頭山ゆう紀、マベル・ポブレット(Mabel Poblet)、高木由利子、ボリス・ミハイロフ(Boris Mikhailov)、山田学、ココ・カピタン(Coco Capitan)、ジョアナ・シュマリ(Joana Choumali)、山内悠、セザーヌ・デズフリ(Cesar Dezfuli)、松村和彦、ロジャー・エーベルハルト(Roger Eberhard)、パオロ・ウッズ&アルノー・ロベール(Paolo Woods&Arnaud Robert)、デニス・モリス(Dennis Morris)が参加している。

次世代の写真家やキュレーターの発掘と支援を目的にした「KG+」も同時開催中だ。国外からの観光客が増えて活気を見せている京都市内では“BORDER”をテーマに、参加作家による作品から、さまざまな“境界”を見て取ることができる。

石内都/頭山ゆう紀
A dialogue between Ishiuchi Miyako and Yuhki Touyama「透視する窓辺」展

誉田屋源兵衛 竹院の間
With the support of KERING’S WOMEN IN MOTION 

ケリングが2015年に立ち上げた、アートやクリエイティブに関わる分野で活躍する女性たちに光を当てることを目的とした「ウーマン・イン・モーション」によって支援されているプログラムで、今回は石内都と頭山ゆう紀の2人展。会場には下着や口紅、櫛といった亡き母の遺品の数々を撮影した、石内による「Mother’s」と2年前、コロナ禍に亡くなった、祖母の介護を続ける中で撮りためた新作と2008年に発表した「境界線13」シリーズから家族にまつわる作品をセレクトし展示している。お互いに身近な女性の死を経験し、写真を通じて亡くなった相手とのコニュニケーションを試みている。2人の作品からは実際に写っていない人物やその関係性をまでを想像しながら、普遍的な記憶が呼び起こされるような体験となる。

マベル・ポブレット
「WHERE OCEANS MEET」

京都文化博物館 別館
Presented by CHANEL NEXUS HALL

キューバの現代アートシーンで活動するマベル・ポブレットによる、プリントによる造形やシルクスクリーン、映像等を組み合わせた作品群の展示。同展のテーマは“水”と“海”。ともに島国である日本とキューバの共通点でもある海。海を渡る移民は現在のキューバ社会では身近な存在で、ポブレットの作品群でも重要な意味を持つ。自分と他者とを繋ぐ存在でもあり、一方で国境となる切り離す存在でもある海を通じて、鑑賞者に現代社会の課題を投げかけている。会場の中央には海の写真を透明のセロハンに印刷して切り抜かれたインスタレーションが設置されており、海の水面に反射する光のような印象を受ける。さまざまな手法で表現される海から、水と人間の関係性や境界を呼び起こすような展示になっている。

デニス・モリス
「Colored Black」

世界倉庫
With the support of agnes b.

昨年オープンした、京都のクラブ「WORLD KYOTO」が手掛けるカルチャースポット、世界倉庫では、ボブ・マーリー(Bob Marley)やセックス・ピストルズ(Sex Pistols)のポートレートで知られるデニス・モリスによる、自身が育った1960〜70年代のイーストロンドンのカリブ系移民のコミュニティや生活風景を捉えた作品と当時のジャマイカのレゲエミュージシャンアズワルド等のオリジナルレコードも展示されている。当時の簡易スタジオでのレコーディング風景やポートレート、黒人解放運動の現場等の写真から、コミュニティの貧困や困難がありのままに写し出されている。一方で、さまざまな苦難に対して、よりよい生活への前向きな熱意に溢れた強い意志も感じ取ることができる。

セザール・デズフリ
Passengers(越境者)

Sfera
With the support of Cheerio Corporation Co., LTD.

写真家でジャーナリストのセザール・デズフリは、2016年に難民救助船「イヴェンタ号」に3週間ほど乗船し、リビアからイタリアへ渡航するルートで助け出された難民達を追った記録作品を展示している。地中海を横断する難民が社会問題とされていた当時、リビア沖を漂流するゴムボートから118人の難民が救助された。デズフリは救助された全員のポートレイトを撮影し、1人ひとりの名前や出身地を聞いて回り、彼等のその後の人生を丁寧に辿ることで人格を与えたかったという。作品は会場中央の船のような形のスペースで展示され、写真の他に手書きのメモやリビアの紙幣、救命道具も展示されている。今も続く難民問題や、その後の彼等を取りまく環境への理解を考えるきっかけになるドキュメンタリーだ。

ココ・カピタン
「Ookini」

ASPHODEL、大西清右衞門美術館、東福寺仏塔 光明院
With the support of LOEWE FOUNDATION and HEARST Fujingaho

アーティスト・イン・レジデンスとして2022年10月から約2ヵ月間、京都の出町柳を拠点に滞在制作を行っていたココ・カピタン。タイトルは撮影の協力者に向けられた言葉だ。作品はASPHODEL、大西清右衞門美術館、東福寺仏塔 光明院で展示されている。自身がゴールデンエイジと語る10代の少年少女を撮り続けた写真が展示されている。作品には学生や舞妓等、日常生活に伝統文化が根付いている人々から、偶然、鴨川を歩いている時に出会った若者も登場しており、十六代大西清右衛門の息子、清太郎のドキュメンタリー作品も展示されている。カピタンは「京都という伝統的な街を舞台に、ジェンダーやアイデンティティーがわずかな時間で変わっていくティーンエイジャーの姿に興味を持った」と話す。

ジョアナ・シュマリ
「Alba’hian」「Kyoto-Abidjan」

両足院、出町桝形商店街DELTA/KYOTOGRAPHIE Permanent Space

ジョアナ・シュマリもアーティスト・イン・レジデンスで京都での滞在制作を行った。子どもの頃から夜明けに起床し、散歩を続けてきたというシュマリは、朝の太陽の光と自身の心象がオーバーラップすることがあったという。その姿を目に焼き付けて、刺繍を加えていき作品に仕上げるのだという。作品の重要な要素である光について、日本の光はまばゆさと静謐さが同居している独特なものと表現し、今作は「特に自身の精神性が反映されている」と語る。写真作品に対して長時間かけて刺繍を施すという作品は、朝の散歩のようにゆっくりと時間を掛けて鑑賞してみてその美しさを改めて感じられるのかもしれない。出町桝形商店街とDELTA/KYOTOGRAPHIE Permanent Spaceでは、コートジボワールのマーケットと京都の商店街をリンクさせたように作品が展示されていて、両国の“BORDER”を曖昧にする試みがなされている。

山内悠
「自然 JINEN」

誉田屋源兵衛 黒蔵

9年間で何度も屋久島に通い、1人で1カ月間山ごもりをしながら撮影された、山内悠の作品。単に自然の雄大さを伝えるのではない。雨水をすするような生活から地球との一体感を感じる一方で、得も言えない不安や恐怖という経験を、山内の視点で捉えた作品群が並ぶ。「自分でコントロールができない自然の中では、実家が落ち着くような感覚のように、意識が内側に向いた」と語り、「自然から距離を置き、都会が形成されている理由なのかもしれない」と推測する。1階奥の部屋ではヘッドライトを付けて歩き回った夜の屋久島の写真等、4つの展示スペースが用意されている。いずれも山内の屋久島で経験したことを追体験するような感覚を覚える。

松村和彦
「心の糸」

八竹庵(旧川崎家住宅)

昨年のKG+SELECTに続き、メインプログラムでの発表となった、京都新聞社の写真記者、松村和彦による「心の糸」。同作は超高齢化社会の日本で、2025年に認知症患者が700万人に上る見込みの中で、自分の身近な人が認知症になる可能性も含めた状況の理解を提示しながら、松村が実際に学んだことを共有することが目的だ。「認知症になったら人生が終わる」という誤った認識を払拭するために展示構成はキュレーターの後藤由美等と作り上げたという。展示会場には、原稿が欠けた新聞や食卓がぼやけていくスライド等、認知症の世界、心情が疑似体験できる空間になっている。また、会場全体を繋ぐ糸は、とこどころ切れてしまったり、結び直されたりすることで認知症を苦しさを表現している一方でタイトルの通り、心ではみんなが繋がっている状況も示唆している。

高木由利子
「PARALLEL WORLD」

二条城 二の丸御殿 台所・御清所

ファッションデザイナーとしても活動してきた高木由利子は、アジア、アフリカ、南米、中近東に撮影旅行を続けてきた。同展ではファッションと写真という高木がこれまで表現してきた両者を横断するようにパラレルな構成がなされている。1つは伝統的な服の重要性に気付き1998年にスタートした「Threads of Beauty」だ。世界12カ国で撮影された同作は、イランの遊牧民やインド、中国等の民族衣装をまとった人物のポートレイトがまとめられている。もう1つは「ディオール」のために撮り下ろしたという新作の他、「ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)」「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」「ジョン ガリアーノ(JOHN GALLIANO)」等、1980年代から現在までのファッションを牽引してきたブランドやデザイナーのクリエイションを撮影した作品が展示されている。モノクロ写真という自身のルールに則り、モノクロ写真に直接着色したという作品もある。高木が考える服と写真という根源的な疑問を作品から感じ取れるのではないだろうか。

「レジリエンス ── 変化を呼び覚ます女性たちの物語」
世界報道写真展

京都芸術センター

1955年に発足した「世界報道写真財団(World Press Photo Foundation)」が毎年実施している「世界報道写真コンテスト」の入選作品の中から展示されている同展。今回は2000〜2021年に受賞した、世界各国の女性・少女・コミュニティーにおけるレジリエンス(回復力)と彼女達の再起への挑戦を写した13カ国17人の写真家による作品を展示している。女性の権利やジェンダーの平等は、世界中で今もなお根深い問題とされながらも、日本は大きく遅れをとっている。性差別やジェンダーが原因の暴力等の問題に対峙する作品群から、これらの問題の目に見えづらい不均衡さと現在まで、どのように変化してきたかを知ることで、その深淵を考えるきっかけになるだろう。

パオロ・ウッズ&アルノー・ロベール
「Happy Pills──幸せの薬──」

くろちく万蔵ビル2F

写真家のパオロ・ウッズとジャーナリストのアルノー・ロベールが、約5年間世界中を旅しながら、人々の幸せと薬(=製薬会社)の関係“幸せの薬”を追求した。その中で、「日常的に救いを求めているのは哲学や宗教よりも化学であり薬だ」とウッズは語る。ペルーの18歳未満の女性の約4人に1人が妊娠を経験している現状から避妊薬が多用されていたり、トルコとシリアの内戦で家族を亡くした人が服用している抗うつ薬等を撮影した作品からは、薬がさまざまな困難や受け入れがたい現実、制約に対しての解決策になっている現実の一端を知ることができる。展示の後半にはウッズ自らが、世界中で薬を買って制作されたポップなメディスンタワーも展示されている。

ロジャー・エーベルハイト
「Escapism」

嶋臺(しまだい)ギャラリー

スイスのコーヒークリームの容器に付いているアルミの蓋に印刷された写真がインスピレーション源になっている、ロジャー・エーベルハイトの新作シリーズ「Escapism」。蓋に印刷されている写真の中から、風景写真を高解像度のカメラを使用しクローズアップして再撮影し印刷を行った作品群は、CMYKの網点のパターンが、鑑賞者の立ち位置によって見え方が変化する。コロナ禍のパンデミックの外出制限時に制作された同作のタイトル「Escapism」は現実逃避という意味を持つ。常時変化する世界の観光名所のイメージは、エーベルハイトなりの“現実逃避”なのかもしれない。

インマ・バレッロ
「Breaking Walls」

伊藤佑 町家跡地

ニューヨーク在住のスペイン人アーティスト、インマ・バレッロは、京都市内の陶芸家や窯元、学生等の協力で集められた陶磁器の廃材となった破片を金属のメッシュフレームに詰めて巨大な壁「Breaking Walls」を制作した。バレッロは2019年に日本の伝統的な陶磁器の修復技法である金継ぎを京都で学んだ。金継ぎには金属の粉が使われる一方で、スペインの陶磁器は金属のかすがいが用いられる。壊れた陶磁器の破片を用いて完成した作品は、多様性と共存の意義、伝統や文化、コミュニティの重要性を示している。

ボリス・ミハイロフ
「Yesterday’s Sandwich」

藤井大丸ブラックストレージ

MEP(ヨーロッパ写真美術館)との共同企画で開催される展覧会「Yesterday’s Sandwich」。同展では、旧ソビエト、ウクライナ出身のボリス・ミハイロフがアーティストとしてのキャリアをスタートさせた1960年代末から1970年代にかけて制作された作品をスライドショーで展示している。2枚のカラースライドで構成される同作は、旧ソビエト社会主義体制の抑圧された環境の中、タブーとされていたヌード写真と、ソビエトの風景、日常の1コマが重ねて表現されている。

山田学
「生命 宇宙の華」

HOSOO GALLERY
Presented by Ruinart

山田学はKYOTOGRAPHIEインターナショナルポートフォリオレビューの参加者から選ばれる「Ruinart Japan Award 2022」を受賞。同年秋に渡仏し、収穫期にシャンパーニュ地方のランスで滞在制作を行った。葡萄からできたシャンパーニュを熟成させる現象に生命の循環を感じたことが、同作の誕生につながったという。同展では写真作品とシャンパーニュの泡が弾ける響きやクレイエルで採取したサウンドを交えた映像のインスタレーションも展示している。

高橋恭司
「Void」

ARTRO

新作はデジタルカメラで撮影した写真で、髙橋が日常的に愛用している「ライカ」M8を使い、自室にいながら見える範囲を切り取ったプライベートな視点で表現している。展覧会に合わせた写真集「Void」(Haden Books)が刊行され、個展会場でのみ通常版(¥5,500)を特別価格の¥5,000で、プリント付き特装版(10種各エディション5)も¥33,000も販売している。

活気が戻りつつある京都で総合的に芸術を楽しむ

今回から姉妹イベントとして、ミュージックフェスティバル「KYOTOPHONIE」も開催されている。「調和」「多様性」「交流」「探求」をキーワードとし、イベントを通じた繋がりや対話、体験を生み出すことを目的としている。京都市内の寺院や庭園、クラブ等で「KYOTOGRAPHIE 2023」開催期間中の週末に行われている。活気が戻りつつある京都で街歩きができる喜びとともに、写真を中心にした作品鑑賞を楽しみたい。

■KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2022
日程:5月14日まで
場所:京都市内

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ゲームの畑からの“In Real Life” 連載:工藤キキのステディライフVol.4 https://tokion.jp/2023/04/06/kiki-kudos-steady-life-vol4/ Thu, 06 Apr 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=178486 工藤キキがコロナ禍で見出した、ニューヨークとコネチカットのデュアルライフ。連載第4 回目。

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ライター、シェフ、ミュージックプロデューサーとして活動する工藤キキ。パンデミック の最中にニューヨークからコネチカットのファームランドへと生活の拠点を移した記録――ステディライフを振り返りながらつづる。

ゲームの畑からの“In Real Life” 連載:工藤キキのステディライフ

パンデミックの最中のソーホーでは、自分もビデオゲームにハマっていた1人だった。最初はカントリーライフRPGの「スターデューバレー」、その後は「アニマルクロッシング(どうぶつの森)」で何十年かぶりにゲームの世界で遊んでいた。ロックダウンで突如いろんなものが目の前から消えたこともあり、自給自足ができたらいいなと考え始めて、家にあったものをかき集めてプランターを作って種をまいてみたり、バジルやシソ等のハーブを育てたり、菌床を手に入れてオイスターマッシュルームやライオンズメインマッシュルームを育てたりもした。その延長もあって、「アニマルクロッシング」の中でもパンプキン農場を拡大していて、ログインするたびにパンプキンを育てて、売って、売れたお金で家をアップグレードしていくという、ゲームの畑では安定した収入も得られていた(笑)。

コネチカットに引っ越す際に、ガーデンができるのが必須条件だった。大家のジムがスペースを作ると言っていたけれど、少しずつ冬が終わろうとしている春分の日の頃になっても特に音沙汰はなかった。とはいえ、ガーデン作りに関しての知識はゼロだったので、はやる心で土や種の発芽等のガーデニンのプロセスに関するYouTubeを見たり、本気でやるなら一度は通過する「オールドファーマーズアルマナック」という農事暦からスケジュールを読んだり…調べ始めたらキリがないほど知らないことばかり。

ニューヨークでは、ユニオンスクエアのファーマーズマーケットによく通っていた。当時はアップステートから運ばれた採れたての1パウンド6ドルのエアルームトマト(中玉1つで6ドルぐらい)を買うのに、どれを持ち帰るか店先で考え込むことが多かったが(笑)、今思うとそのぐらいの値段をつけたくなるほどの労働力を経て育てていたのだと納得する。 だから、エアルームトマトは絶対に育てたかった。あとは日本のきゅうり、シソ、万願寺とうがらしをグリルで焼いて、かつお節をふりかけておしょうゆをチョロっとたらすやつも食べたくて、たくさん育てた。日本の野菜の種は、ユタ州にあるパッケージのイラストもすてきなキタザワ シード カンパニーから取り寄せることに。まずは3月の終わり頃から発芽用の小分けされたプランターを使って、5月末頃のラストフロスト(地域によって違う)が終わるまで、室内で苗になるまで育てる。1つの穴に一粒の種をまくと言われているが、種も小さいし、当たり外れもあるのかもしれないと思い、1つの穴に3つも4つもまいてみると、意外にもすべて発芽してしまい、苗になる頃には根が絡まりすぎてほどくのが大変だった。

一粒説は正しかったのだ。あんな小さな種からみずみずしい野菜に育つという自然の神秘、大げさに聞こえるかもしれないけれど“ミクロコスモス(小宇宙)とマクロコスモス(大宇宙)”に生きていることを実体験した。 家のサンルームを埋め尽くすほどの苗を育ててしまったが、5 月に入ると、近所のスーパーの店頭でいろんな苗が売られていて「なんだよ、苗を買えば良かったじゃん」とも思ったけれど、手前はかかるが種からのほうが断然コストパフォーマンスも良いし、ここでは手に入らないオーガニックの日本の野菜を育てることができたのは最高だった。 水やりをしたり、苗を大きくするために途中で大きいプランターに植え替えたり、手入れをしながら成長の過程を目の当たりにするのは、ゲームとシンクロする部分が多い。そう思っていると、「アニマルクロッシング」の村長トム・ヌーク(たぬきち)から声を掛けられるかのごとく、大家のジムから見せたいものがあると言われた。家の裏の広大な敷地を少し歩くと、なんとそこには何十年も使ってないガーデンスペースがあり、そこを使って良いと言われたのだ。しかもフェンスも新しくするし、マシンを持ってきて土を耕してくれるという信じられない展開となった。アップグレード!

その日からまずは石拾い、古い根っ子やプラスチック、ビニールの破片等、土の中の不純物を取り除くところから始まった。その頃に泊まりに来ていた友達のグレイヴやニカ、ネイザン、マリアにも無限の石拾いを手伝ってもらったのは本当に感謝している。ジムはすべての支柱も新しくしてくれて、さすがのファーマーらしく力強く、そしてバランスの整った美しい作業を経て、ラストフロストの直前に“クドウ ガーデン”は完成した。スペースに比べて苗が大量にあったので、間隔も計らず植えてしまい、翌日やり直すという行き当たりばったりのスタートだった。でも夏にポートランドから元ファーマーでDJ&グラ フィックデザイナーであり、ジョージアの音楽ファンとして知り合ったマグワートが1週間、うちにステイしてガーデンを手伝ってくれたのもすごく助かった。きゅうりの支柱を作ったり、万願寺とうがらしにはオイスターの肥料が良いと教えてくれたり、なにかとアドバイスをくれるスーパーバイザーだ。

幸い、虫や動物にガーデンを荒らされることもなく、すくすく育ってくれた。結果、あのエアルームトマトを一口かじってポイっと捨てられるぐらい(捨てないけれど!)たくさんの収穫量で、友達にも分けることができた。ブライアンのお気に入りの夏のブレックファーストは、毎朝採れたてのきゅうりにみそをつけてボリボリ食べること。日本のクリスピーなきゅうりとアメリカのものとは別物で、もう夏が待ち遠しい。そんなわけで今年はもっと収穫量が増えますように…そしてゲーム音楽も作ってみたい!

Edit Nana Takeuchi

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写真家の寺沢美遊が巡る6日間の韓国・ソウル カメラでとらえたリアルな景色【後編】 https://tokion.jp/2023/03/06/seoul-daily-vol2/ Mon, 06 Mar 2023 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=170347 フォトグラファーの寺沢美遊がつづる韓国のトラベルダイアリー。彼女が現地で撮影した日常とは。

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DJや嫁入りランドのメンバーとして知られているフォトグラファーの寺沢美遊が、2年半ぶりに韓国・ソウルを旅した。6日間にわたって、新沙(シンサ)や梨泰院(イテウォン)などに足を運び、現地の“今”を自身のカメラでとらえた。

10月29日

2時間ほど眠れただろうか。今日は12時に大好きなユミとランチの約束がある。光化門(クァンファムン)近くのお店に着くと、これまた大好きな友達ダハムとヨンジョンまでいて嬉しすぎる。みんなで北朝鮮式の鍋を囲み、約3年分の話がはずむ。ダハムとはここで別れ、ユミがやっているブランド「HALOMINIUM(ハロミニウム)」が最近オープンしたショールームでお買い物。

そしてヨンジョンのアテンドでビンス(かき氷)を食べる。最近見た映画の話など。3人は共通して『はちどり』と『ドライブ・マイ・カー』がお気に入りだった。ヨンジョンが翻訳機を通じて「濱口竜介は憎めない悪魔」だと画面を見せてきて、私は大きくうなずいた。ユミの運転で移動しながらみんなでNewJeansやOriginal Loveを歌う。夕暮れと眠気が相まって、とても幸せな時間。

狎鴎亭(アックジョン)に移動し、「MISCHIEF(ミスチーフ)」のリニューアルオープンパーティでSuminのミニライヴ。Licaxxxが近くの飲み屋にいるというので向かう。エディターのビンちゃんやモデルのえりちゃんたちと軽く飲み、狎鴎亭の小箱Low Keyへ。しばらくしてNanamilkのDJが始まる。マレフィセントのコスプレをしたMatt氏が超絶ビューティで見とれてしまった。私はだいぶ疲労がたまっていたので離脱。Licaxxxはまだ遊ぶらしく、本当に元気だな。

10月30日

LINE NEWSの通知で目覚めるとトップに梨泰院の文字。目がかすんでうまく読めない。中学からの親友から「今韓国? こんなニュース見たけど大丈夫?」とメッセージが来ていた。Discord上でも日本と韓国にいる友達同士で深夜に安否確認していた。私は何も知らないまま爆睡していたのだった。テレビをつけると事故のニュース一色。しばらく呆然として、Little Tempoの「Ron Riddim」を聴く。

夜、友達がホテルに来て朝まで一緒に過ごした。天井に映る街の明かりが等間隔に揺れているのを眺めながら、子どもの頃に車の後部座席に寝転がって見ていた風景と似ているなぁと思った。

10月31日

Salamandaに会う。Yetsubyとは週末のパーティ以来で、Umanとは初対面。日本のフェス「FRUE」への出演を控えていた彼女達は、近くのスタジオでリハをしていたといい、機材の入った大きな荷物を抱えてやってきた。指定された店に入り、Yetsubyが慣れた手順で注文。「これは“しゃぶしゃぶ”みたいなものなんだけど、本当においしくて。大学生の時はアルバイトまでしてたんだよ(笑)。当時は食べたあとでお金を払う手が震えたけど、今は大人になったから大丈夫。ほら、アンビエントでしょ(鍋がぐつぐつ煮える音に耳をすませながら)」とYetsuby。とにかくよくしゃべるYetsubyと、横で聖母のようにほほえむUman。2人の出会いや音楽ルーツを聞きながらしゃぶしゃぶに舌鼓を打つ。時折インサートされるチヂミがあまりにも絶品だった。

梨泰院の話。「びっくりしたね。一緒に遊んだ金曜日も既に人が多かったしね。友達が遊んだりDJしたりするCake ShopやPistilは、梨泰院とは反対のノクサピョン側だから、向こう側がそういう状況になっていたなんて全く知らなかったみたい。事故が起きた後も音楽をかけ続けていたことがより一層つらかったって」。私は、またコロナの時のように、梨泰院という街や夜遊ぶ人達に偏見が生まれてしまいそうなのが悲しいなと思っていた。Yetsubyは続ける。「さっき来る途中も、ニュースが刺激的すぎるって話をしてた。救助の人が足りなくて、事故に遭った人同士で心肺蘇生してる一方で写真やムービーを撮ってる人もいて…人類愛がなくなってるよね」。

11月1日

写真家の寺沢美遊が巡る6日間の韓国・ソウル カメラでとらえたリアルな景色【後編】

フライトまで時間があったので梨泰院に寄り、花を手向ける。あの現場には、まだ見ぬ友達がいたかもしれない。「また会おうね」と声をかけて帰国。

Text & Photos: Miyu Terasawa

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